[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
綾との日々を噛みしめるように暮らした。大学に通っていても、バイトに精を出していても、帰宅すれば綾がいる。離れた期間があったからなのか、障害があると分かっているからなのか、なおさらに大切だった。
綾からは変わらず字を教わっている。絵も、一緒に描く。時間がすれ違っても食事は二人分用意するし、寝る前に綾の部屋を覗く習慣も変わらない。たまに、キスをする。思い切り抱きしめて眠るとき、綾の髪が鼻先にあたってくすぐったいのが安心だと思う。
変化のない毎日の大事でちいさな幸福を積み重ねて生きてゆく。無駄だと思える時間は一秒もなかった。日々が隙間なく綾で埋められ、自身も綾で染まる。いま細胞のひとつひとつまで綾と同じもので出来ているんだと思うととてつもなく嬉しかった。
春が終わり夏が来て秋を過ごし冬を迎える。繰り返して四度目を超えようとする冬のはじめ、帰宅すると暁永がいた。こたつにあたりながらみかんなんか食べていた。
「――おす、久々」
驚きすぎて声が出なかった。とっさに綾の存在を探す。きょろきょろと視線をめぐらす透馬に、「綾ならいま仕事中」と言って離れの方角を指した。そうだ、いまは教室の時間だ。
一向に姿を見せなかった男が急になんの用だと言うのか。懐かしく思う気持ちより心は理不尽の方向へ傾き、不機嫌な態度で「急になんだよ」と聞いた。
久々すぎて口のきき方がどうだったかも忘れていた。暁永は以前と変わらぬ余裕の笑みで「でかくなったなあ」とのんきにこぼす。
「新花から聞いちゃいたけど、しみじみしちゃうな」
「暁永さんはおっさんになったね。なにその、口髭」
「教授らしくしてみようかと思ってさ」
元が端正で男らしい顔つきをしていたから、さらに迫力や凄みが増している。正直、ひるみそうだった。「教授」という肩書を聞いておや、と思う。聞くと暁永は「昇進したんだ」と言った。
「というかおまえF大のくせに」
「学部違うと関わりないでしょ。キャンパス無駄に広いし、理学部棟なんて行かねー」
そりゃそうか、と暁永は笑った。笑ったおかげではじめに感じた怒りや納得いかない思いをほだされてしまった。一通り笑ってから、いや違う、と気付く。なにをしに来たのか、だ。
「伯父さん、風邪で倒れたりなんかしてないから。―っつか大事な時に来なかったでしょ、あんた」
「そうだよな。悪かった、と思ってるよ。新花なんか代打にさせて。研究に夢中でさ。あとは、色々知らなかった」
ひどく真面目な顔で暁永は言った。真顔はとても優しい顔をしている人なのだと、こうして見るとよく分かる。綾が長いこと惚れている男。
「この家、青井のもんになってたとかさ」
「いまさら」本当にいまさらだった。なにを言おうというのか。
「いまさらだな。――さっき綾に話をしてきたところだ。ようやく拠点がイギリスに定まりそうだ。研究室はF大に残るけど、新花によく面倒見てもらってるから、あちこちせずに落ち着きそうなんだ」
唐突な話を、だが透馬は「だからなんだ」と思った。いまさら暁永がここに帰って来なくたって、ずっと向こうにいようがどこにいようが、関係のない話だ。透馬は大学卒業後もこちらに残り、綾と暮らしてゆくつもりだ。一生それでいいと思っている。そこに暁永はもう、入り込めない。
だから暁永が「綾、つれてゆくからな」と言った時は、耳を疑った。
「――え?」
「いままでは綾がこの家にこだわってると思ったから、ここに置いといた。おまえ、っていう危険因子の存在を知っておきながらも置いといたんだけど、さすがにもう、な。家は綾のもんじゃないし、いつ青井が好きにしてもおかしくないだろ。ちょうどいいと思う。おれももう、あんまりフィールドワークばっかり言ってられなくなった。綾の傍にいてやれる」
「ちょっと、おい、どういうことだよ」
「そういうことだよ」
「いきなり来て『綾つれていきます』『はいそうです』になるわけないだろ? なんで…いままでほったらかしだったじゃないかよ。伯父さんなんども好きだって言って、そのたびになかったことに、って」
「応えられなかったんだよ」
「なんで」
「綾の親父さんに釘さされてた」
「……」まったく知らなかった。祖父が二人の恋に介入していたなど。
「死んだときは正直ラッキーだと思ったんだよ。そのまま連れて行こうと思ったけど、おまえがいるからって迷った、綾は。元から内向的なやつで、身体も弱いし、この土地は静かな分綾に合ってる。無理に連れて行ってもなって思ってずっとここまで来たけど、もうやめにするわ」
「勝手すぎる」
「分かってる。それにまだ、綾から返答はもらってない。今日は話をしに来ただけ。おれと一緒にイギリスに来るか、ここでおまえと暮らすか」
ぽいとみかんの皮をくずかごに放り投げ、暁永は立ち上がる。勝手に台所をつかい、食事を用意してくれていた。だがそんな暁永のことなど構わず透馬は部屋を出てゆく。離れで作業をしているはずの綾の元へまっすぐに向かった。
いま聞いた話をどう受け止めているんだろう。離れへ飛び込むと教室代わりの室内には誰もおらず、奥の作業台に文字と紙に埋もれるようにして綾がいるだけだった。生徒の指導は終え、作品を添削している。
透馬を見るとぎょっとした顔つきをした。その表情で綾もまた迷っていることが窺えた。
「イギリス、行くの?」
思ったよりも低い声が出た。
「行かないよね?」
「……」
「ここにいるよね?」
綾は肯定も否定もしなかった。蛍光灯の明かりで白く明るい室内、透馬は一歩二歩と綾に近寄る。手を伸ばせば、綾は腕の中に収まってくれるはずだった。だが今夜ばかりは透馬になびかない。うつむき、ちいさく息を吐いた。
「――都合がいいな、ぼくは」
言葉が心臓を乱暴に鷲掴む。「いやだ」と言うと、綾は首を横に振った。「まだ迷っている」
「透馬と暮らすことを選んでおいて、いざ暁永が迎えに来たら――ごめん、嬉しかった」
片手で顔を覆い、肩をふるわす。乱暴に綾に近寄り、その肩を掴んだ。
「いやだよ。おれは――就職だって決まったし、春からもここで伯父さんと暮らすつもりで、」
「まだ決めたわけじゃない。けど、…透馬には申し訳ないと思ってる。だめなんだ、暁永が迎えに来てくれたことが嬉しくて、」
変わらず顔を手で覆い隠している。それを無理に引き剥がすと、綾は悲痛な顔をしていた。
「家なんかどうでもいいって暁永の前だと思う。一も二も三も暁永で、いてもたってもいられない思いがまだある。――ずっと、ずっと暁永が好きだ」
普段は表情を崩さぬ人が、顔をくしゃくしゃに歪めて苦しんでいた。喜びと、申し訳なさと、迷いとで。その心情が痛いほど伝わって来て、透馬も苦しかった。どうして、どうして、どうして、と。
綾の身体を突き放し、離れを出た。
← 85
→ 87
青井を説き伏せるつもりなど毛頭なかった。どうせなにを言っても反対されると分かり切っていたから、誰にも相談せずに行動した。大学に退学届を提出し、バイトも辞め、最低限の荷物だけ提げて綾の元へ押しかけた。
押しかけられた当初、綾は困惑していた。この家の権利は青井にある。いつ追い出されても不思議はなく、二人して路頭に迷うことだけは避けたいと考えているらしかった。
「ま、でもさ。そしたら安いアパートでもなんでも見つけて暮らせばいいじゃん。一人よりふたりの方が絶対にいいよ」
居酒屋のアルバイトまで早々に見つけ終わってから言われるのでは、説得力が違うらしかった。綾は笑った。「そうだな、なんとかなるか」と。
青井は直接来ずに、誓子がFまでやって来たのは一月も終わりの最も冷え込む時期だった。そうかいつの間にか年が明けていたんだな、とその時ようやく思った。年が明けているどころか、自分が誕生日を迎えていたことすら忘れていた。いつの間にか、十九歳。
「父さん、あんまり怒っていないんじゃない?」
やって来た誓子を迎え撃つような思いで、先手を取って言ってやった。誓子は重たい息を長く吐く。
「のんきなこと言わないで」
「だってあいつの関心ごとは、彩湖だろ。彩湖のことならなんでも優先するし、かわいがってる。将来は彩湖に会社をって考え始めてるよな、いま」
家にいる時から思っていたことを口にすると、誓子は黙った。また長く息を吐き、「行動の速さとそつなさをむしろ褒めていた」と言う。
「でも怒ってる。なんなら家を今すぐ取り壊して放り出してもいいんだ、とも言っていた」
「それぐらいは見越してる。いいんだ、どこだって暮らせれば」
「……透馬、そんなに綾と一緒にいたい?」
「決めたんだ、もう」
「綾が、好き?」
「好きだよ。だから側にいたいって思うことは、まちがってる?」
純粋な動機だ。伯父に恋心を抱くこと自体がまちがっている、と言われればそこにも肯くしかないが、透馬の中でいま感情はとてもシンプルでストレートだった。綾が好き、だから側にいたい。一緒に暮らしたい。なにを置いても優先したい、かけがえのない想い。
「……将来を、どう考えてる?」
誓子は聞いた。疲労を隠そうとして化粧がいつもより分厚くなっているのが気の毒だった。
「バイトを決めたと聞いているけど、ずっとそうやって生きてゆくつもり?」
「様子見かな。今年はもう無理だけど、来年、受験しようと思ってる」
「F大?」
「そう、F大工学部。こうなったらもう欲しいもんは全部手に入れてやろうと思ってさ」
「学費や生活費はどうするつもりなの? 国立大とは言っても決して安いものではないわ。今回の件でもうあなたには一切の援助をしないでしょう、青井は」
「それは色々と方法があると思う。というかもう、いいよ。父さんの保護下にいるからこんなめにあうんだろ。だったら全部自力でやる」
元々、真城の家でそんなに裕福な暮らしをしていた覚えがない。青井の家にいたぬるい時期を思えば雲泥の差だろうが、あの日々よりも苦労してまで欲しいものを手に入れることの方がはるかに素晴らしいと思った。
「とりあえず一年は、受験生とアルバイト」
「綾はなんて言ってるの」
「応援する、って」
誓子は黙り、目を閉じた。そんな風に疲れさせてごめん、と言うと、それでも母は笑ってくれた。
「やりたいこと見つけたんだもんね。応援、しなければね」
以前のように宿泊はせず、すぐに帰って行った。そして後日、透馬の持っている銀行口座にまとまった額の入金と、手紙が届いた。ひとまず青井に、あの家に透馬と綾とが暮らすことを認めさせたこと、ずっと大切にしていた絵をいくつか売って出来たお金を入金したことが書かれていた。
『身体を壊さないようにやってください。あなたの人生を生きるのはあなただから、やれるだけの応援はしてゆきます。母』
手紙を読んで、ぎゅっと胸の上を押さえた。不安がまったくないわけではなかったが、いまはやりきってやろうという気持ちの方が強かった。
アルバイトをしながら自力で勉強をした。高校三年の夏に綾に失恋をして以降、まともに勉強をしてこなかったから、勘を取り戻すのにとても苦労した。懸命になってテキストを追い、母校に出向いて元・担任に教えを乞い、美術教師からもデッサンの指導をつけてもらえた。新花も勉強を見てくれたのが何よりも助けになった。
夕方から深夜は駅前の居酒屋で働く。そんな生活なのに、傍らに綾がいるだけで充実し、張り切れた。くたびれて帰って来ると綾はもう就寝していたりするのだが、眠っている顔を眺められること。そして朝起きて「おはよう」が言えること。それはもう、喜びでしかなかった。
一年後、念願のF大に合格した時は綾もこれ以上なく喜んでくれた。お祝いにと地元の酒造の中でも少しいい日本酒を選び、それに合うようなシンプルな和食の膳をつくり、乾杯をした。綾の大事にしている鉢植えの梅のつぼみがちょうど頃合いに花開き、家じゅうによい香りが漂う夜だった。日本酒特有の辛みと強烈のアルコールの良さがまだ分からないのだが、綾と共に過ごせる夜は充実していた。
春からの生活のことをぽつぽつと話し合いながら、箸を進める。雪見障子をあけておいたから、徐々に春に近付きつつある庭を眺められた。
「大学生か」感慨深げに綾が言った。
「というかもう、二十歳だもんな」
「二年も浪人した計算だから、二十歳で大学一年生」
「いや、すごいことだと思う。―本当に、すごいよ」
そう言って盃を舐める。こくりと上下する喉にずきりとした。また一年共に暮らして、綾とは今まで通りの生活を続けている。触りたいと思うことはあっても、触れたことはなかった。
綾の気持ちはいまどこにあるのだろう、と綾を眺めながら考える。
暁永はあれから一度も姿を見せない。現れない男のことをまだ想ったりやりきれなくなったりしているんだろうか。透馬が抱く綾への気持ちは変わらない。ずっと好きだと言い続けている。
「あんまり見るな」と綾が居心地悪そうに身じろいだ。それをきっかけに盃を置いて、綾へと身を乗り出した。
「伯父さん、好きだよ」
「……」
「キスしていい?」
酔っぱらって気が大きくなっている、と発言を耳で聞いて理解した。だが衝動は止まらない。綾は透馬から逃れるようにそっぽを向く。それでもしつこく顔を寄せると、合図であるかのように目を閉じた。
まぶたへくちびるを寄せ、一度離れる。綾が薄目をあける。くちびる同士でそっとキスをすると、背筋がびいんと唸った。
ふわふわと頼りないキスをして、透馬は畳に寝転んだ。これ以上をどうしていいのか分からない。強引に自分のものにしていいのか、綾の拒絶が怖いのか。
だがこうやって暮らしてゆくんだと思った。
← 84
→ 86
間もなくして新花はいなくなった。透馬は器を下げ、綾になにかがあった時にすぐ対応できるようにと自室ではなく綾の部屋の隣、居間に布団を敷いた。生活のどこにも乱れた跡はないのだが、前よりいっそう淋しさを感じさせるのは、部屋にものがないからだった。透馬のものがない、という意味ではない。透馬がいた頃にはまだいくつか残っていた祖父のものや母親・誓子のものも、少しずつ整理されているようだった。
それに、綾自身の生活の気配がひどく乏しい。
綾の部屋を再び覗く。横にはなっていたが、綾は眠っていなかったと分かった。透馬のあけた襖の音に反応して、寝返りを打ったからだ。
「――伯父さん」部屋に足を踏み入れる。「少し、いい」
部屋の真ん中あたりまで進んで、綾の横たわるベッドの傍へ寄る。綾は枕元のスタンドをつけてくれた。暖色の明かりが灯され、部屋の明暗がはっきりと浮かび上がる。
「……身体、どう?」
「多少だるいぐらいだ。大丈夫だよ」
「だからそのだるいってのが問題なんだ」
「まあもう、歳だしな」
もう、と言うがまだそんな歳でもない。起き上がろうとする綾を制し、透馬も床に腰を下ろした。畳の面がつめたく感じる。
「さっき冷蔵庫見たらなんにもなかった。…ちゃんと食ってよ」
「すまない」
「明日買い出しに行ってくるから、車借りるよ」
「運転できるのか」
「免許取った」
「……そうか」
眩しそうに綾は目を細めた。「どんどん逞しくなるな」の台詞に、透馬は首を傾げる。
「いかにも都会育ちの、頼りない子どもだったのにな」
「そんな風に見えてた? おれのこと」綾から透馬自身のことを聞かされるのは、人前では多少あってもいままでなかった。
「風吹いたら飛ばされそうだと思ってたよ」
「ひどい」
「はは」
ふと見せた笑顔は、しかし頼りない。すぐに笑うのをやめ、「本当にすまない」と謝った。
「大事にしてよ、身体」
「粗末にすれば暁永が来ると思った」
冗談とも本音とも判断つかない台詞をぽんと口にされて、戸惑った。北風が強く吹いて、障子の向こうの窓ガラスがかたかたと鳴る。「でももう来ないんだ」と続けられ、身体の表面という表面に鳥肌が立った。
「暁永、春からイギリスなんだ、ずっと。向こうの大学に呼ばれて。元々あっちに拠点を持ちたいってやってたから」
「……知らなかった」
そうだとしたら、春から本当に一人だったことになる。なぜもっと早く言わなかったのかと訊くと、綾はつめたく笑った。
「一人でも大丈夫だと言い聞かせたかった。この歳になっても一人が怖いだなんて、情けなくて、言えない。特に透馬には」
「おれが非力だから?」
「ちがう、すがってしまいそうになるからだ」
そう言って綾は目を閉じた。硬く瞑った目から涙がすうっと耳の方へ流れる。それをなかったことにするかのように片腕で目元を覆う。
「暁永はもう来ない。今回、救急車の中で意識が戻って来て、ああこうまですれば暁永は来るかなと期待した。……結果、やって来たのは新花さんだ。われながら本当にばかだと、つくづく思ったよ」
「……」
「本当に困ったときにはいつでも来るから、と言っていたじゃないかと…はるか昔の記憶にすがってあてつける自分が嫌だ。それでもどこかで期待するのが。もう…来ない。疲れたんだ」
「伯父さん、」
祈るように背を丸め、綾の手を取った。やはりどうしてもつめたく、二人では温まらない。それでもひとりぼっちでいるよりはるかにましだと思えた。
「疲れた」
「おれ、いるから」
手をぎゅっと握り、口元に当てて吐息を吹きかける。何度も何度も両手でさする。どうか早くこの人が温まりますようにと願わずにはいられない。こんな身体で、こんな心で、こんな場所で。暁永だけを心のよりどころにしてきた人生のはかなさ。「疲れた」と言わせている男のことを思うとやりきれず、綾をひとりぼっちにしてはいけないと強く思う。
「明日も明後日も、ずっといる」
もう絶対にこの人の傍を離れたくない。絶対に一人にしたくない。手をさすっていると摩擦で綾の体温があがった気がして、それがまた新たな感情の呼び水となった。
「おれがいるから」
もうなんでもいいと思った。家がなくても、父親がどんなでも、綾が誰を想っていても、暁永が永遠にここへ来なくても。
綾の傍にいて、綾と暮らしたい。透馬の気持ちはただ純粋にそれだけだった。
← 83
→ 85
三十代のはじめぐらいだろうか、透馬が普段目にしている女性たちよりも少し歳が上であるように見える。どうして名前を知っているのか分からない。もしかして綾に恋人でもいたか? と怪しみつつ頷くと、オリーブグリーンの女は「ようやく会えたね」とにこりと笑った。
「誓子さんによく似てる」
「――母さんの知り合い、ですか?」
「敬語なんてつかわなくていいよ。わたしたち姉弟だから」
言われてようやく正体が分かった。青井が誓子と結婚する前に結婚していた女性との間に一人子どもがいる。女だから跡継ぎにはならなかった、と聞いていた。確か、
「市瀬新花」
「フルネームで覚えててくれてうれしいわ」
新花は折りたたみの椅子を透馬に勧めてくれた。
つい座りかけたが、座る前に綾の容体を訪ねた。疲労がたまっていたのだろうということ、点滴を受けていたが現在はもう終わっており、終わっても綾が起きず眠っているのでひとまず透馬を待っていた、と新花は話した。青井の家から誰かが来ることは事前に聞いていたという。
「……つかなんで新花さん? が?」
誓子と新花の関係は繋がらない。当然、綾ともだ。だが尋ねてからずっと前に暁永が言っていた言葉を思い出して、腑に落ちた。暁永の勤める研究室に在籍している、と言っていた。あれは何年前だっただろう。
新花は微笑みながら「柄沢の手下だから」と答えた。
「暁永さんのとこにいるってこと?」
「そうね。柄沢はいまイギリスに出向中だけど、F大の研究室を預かってるの、助手として」
F大。透馬が行きたくて行けなかった大学だ。新花はそこに進学し、職まで得ている。「長男だから」という理由で進路を制限されない。悔しかった。
暁永への怒りも沸いた。こんな時まで現れず、肝心の綾を助手に押し付けて自分は研究かよ。イギリスからではすぐに帰って来られないことは分かっていて、腹立たしかった。のこのこと顔を見せることがあれば殴ってやりたい。
やはり綾をひとりにしておくことが間違いだったのだ。
自分が綾の傍にいてやらなければ。
話し声に綾が目を覚ました。ここがどこだか分からない、という顔で天井をぼんやりと見上げ、覗き込む新花の顔を見て納得した顔で頷き、透馬の顔を見てぎょっとしていた。だがその表情は、すぐに安堵へと変わる。以前よりずいぶんと痩せた。なんていう暮らししてたんだよ――言葉を飲みこんで、透馬は綾の手を握る。二人とも冷えていて、どちらの体温でも温まらなかった。
「……迷惑かけた」
「帰ってから聞くよ」
深夜だったので受付は締まっており、会計は後日と言われて病院を後にした。新花の運転する車で真城の家まで戻る。乾いてつめたい雪が舞っていた。
久々の真城の家は、以前にも増して淋しかった。季節のせいかもしれないが、クリスマス間際の賑わしさなど無縁の庭、家の中も広く寒々しかった。家の鍵を受け取り、新花が電気やストーブをつけてまわっている間に綾を部屋へ運んだ。電気毛布すら使っていない様子だったので、押し入れから慌てて引っ張り出し、敷いて電気を入れる。
支えている綾の背中は、肩甲骨や背骨の出っ張りが分厚い上着の上からでも分かるほどに痩せきっていた。軽く薄い身体は透馬の腕でも簡単に持ちあがる。ひとりで歩けるよと綾は笑ったが、ついたまらなくなり、布団に入れてしまう前に思い切り抱きしめた。肩口にすがるように顔を埋め、大きく息を吸い込んで、吐く。冬のにおいがした。
「――やっぱりひとりになんかするんじゃなかった」
「……透馬、新花さんが来るから」
「こんな身体になるまで、なにやってんだよ、まったく」
文句も言わせないように腕をきつくまわしていると、綾は「すまない」と謝って黙った。しばらく透馬のされるままになっていてくれたが、廊下の向こうからした足音に反応して身体を離した。離れがたく恨みがましい目で見ていると、綾は困った顔をして再び「すまない」と繰り返す。
すらっと襖があいて、新花が顔を覗かせた。「お茶しか分からなかった」と言いながら小盆にカップを三つ載せて部屋の中へ入ってくる。揃えの湯呑ではなく、それぞれに引っ張り出したちぐはぐなカップだった。
熱く濃い日本茶を三人で啜った。新花に「今夜どうするの」と訊くと、「知人の家が近くにあるからそこに行く」と言った。
「もう遅いよ? 大丈夫なの?」
「あっちも一人暮らしだから何時に行っても平気。でも透馬くんがいてくれるんなら、もう行こうかな」新花も時計を確認して言う。
「真城さんも大丈夫そうだってわかったし」
「……二人って前から知り合いだったの?」
「ちょっとだけ、柄沢を通じてね。こんな風に透馬くんと対面するなんて思わなかったけど、いつかあなたにも会いたいから会わせてね、ってずっと真城さんには頼んでいたのよ」
「……そうなんだ」綾の顔を見るが、綾はカップに口をつけて茶を啜っているだけで顔をあげない。その姿に心細くなり、「今夜は泊まっていくからな」と綾に言った。無言で綾は頷く。
← 82
→ 84
誓子から知らせを受け取った時、透馬はバイト先の仲間とボーリングの真っ最中だった。と言っても透馬はほとんど眺めているだけの、盛り上げ役。隣に座る同い年の女の子が何度も足を組み替えるのに気付いていながら、つまんねえな、と思っていた。うわべでは笑っている。でも心は冷え切っている。大学一年の師走、「クリスマス会」と称した集まりだった。
実家に帰った途端に持たされた携帯電話を尻ポケットから取り出し、誓子からの電話にうざったそうに応答する。本当にめんどうくさいと思っていた。だが誓子の第一声を聞いて、透馬は思わず立ち上がった。
『――綾が倒れたって』
「え?」周囲が騒がしくてうまく音が拾えない。「伯父さん?」
『そう、カルチャースクールで教え終わった直後に、事務室で。事務の女性が気を利かせてくれてこちらに連絡が来たのよ。すぐ行きたいと思うんだけど、今日は彩湖の発表会があって、まだ会場に』
妹の彩湖は幼い頃にはじめたヴァイオリンが性に合ったらしく、高校二年生の今でも続けている。今日はクリスマスコンサートだと今朝話していた、と思い出す。
周囲から離れてようやく見つけた自動販売機のスペースで、窓の外を見下ろしながら喋る。綾が倒れた。綾が、倒れた。
懐かしさと悔しさが一気にこみあげる。いてもたってもいられず、透馬は誓子に「おれが行く」と告げた。
電話の向こうで誓子はほっとちいさく息をついた。『本当? 行ってくれる?』
「いいよ、どうせ大学なんて行っても行かなくても同じだし」
『……あまりそういうことは言わないで。じゃあ、透馬を送るように寺島さんに頼んでおくから。タクシーまわしてもらうわ』
寺島、というのは青井家に務める手伝いの女性の名だ。透馬はとっさに「いい」と言った。
「駅まで自力で行った方が早い。自分で行く」
誰の助けも借りずにひとりで行きたかった。誓子は『そう』とだけ言って、綾の搬送先と連絡先、必要品を事細かに指示した。
だからひとりにするんじゃなかったと、道中の列車内で透馬は後悔と焦燥に駆られていた。倒れたって、一体どうなってそうなったのか。ただの疲労ぐらいだったらいいが、なにか重大な病気が見つかったりしていたらどうしよう。誰も綾の面倒を見られない、ということにぞっとした。あんな土地でひとりでは、孤立する。こういう時頼りにしたいお隣のおばさんはもういないし、その後に住んだ羽村も、今年の夏に職場を変えると言って引っ越したと聞いている。
電車は透馬の思うような速度で進まない。最寄駅では特急列車が止まらず、手前で降りてから各駅停車のローカル線に乗り換えねばならない手間も惜しかった。ようやく駅までたどり着き、寝こけたタクシーの運転手を叩き起こして病院までの道のりを案内させる。誓子から聞いた救急搬送の処置室を訪ねると、綾は確かにベッドに横たわっていた。
その傍らの丸椅子に腰かけて、一人の女性が本を読んでいた。耳の下ですっきりと切り揃えたボブカット、首筋の白さが目立つ。オリーブグリーンのやわらかなモヘアのニットを着たその女性は、透馬に気付いて「あら」と声をあげた。
← 81
→ 83
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |