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黒色の軽いスプリングコートの裾が風になびき、顔にも前髪がかかっていて半分ぐらい表情が窺えない。元より無口な人、透馬の発した声にも無言だった。真剣なまなざしでこちらを一心に見つめている。細い目は怒っているようにも見える。
つい「新花ちゃん!」と瑛佑の背後の新花を呼ぶと、新花は当然であるかのように「なに」と答えた。
「業者からここを引き受けに来たのよ」
「知ってるけど、そうじゃなくてなんで」
「おれが頼んだから」
きっぱりと瑛佑が言った。喋ると実はとてもよく声の通る人で、芯から響く。ずしん、と身体の中心に声が突き通り、思わず身震いした。
本来の用事済ませてくる、と言って新花は業者のいる方へと歩いて行った。綾と暁永も新花と合流する。柿内はどこをほっつき歩いてんだろうな、と頭の隅っこでかろうじて考えた。瑛佑の登場で明らかに動揺している。
「透馬の話、嘘をちゃんと知りたかったから」
「……来ないでって言った……」
待ってる、とも言ったじゃないか。
「それはごめん。でも透馬もおれにひどいことをしたんだからあいこだ」
透馬の後ろ、新花たちのいる方角へ目をやり、その中の綾に目を留め、「線の細い、あの人?」と瑛佑が聞いた。心臓がつきんと痛む。新花と会っていたということは、今までの透馬を、
「真城さん、やっぱり透馬に似てるな。――話、全部聞いたよ。新花さんが知っている限りのことは、全部」
目の前が暗く霞んだ。知られてしまった。長いこと伯父を好きでいた透馬のことを。なによりも大切な綾の存在を。
隠していたことを知られて、半分は絶望した。これで本当に嫌われると思った。透馬から手を振り払っておいて、やっぱり心のどこかで瑛佑を信じていた心が、ぱきっと折れる。
もう半分で安心していた。秘密をもう秘密として隠しておく必要がなくなった。全部知ってもまだ透馬に会いに来てくれた。いま瑛佑は、好きと嫌い、許す許せない、どちらだろう。
透馬、と言って瑛佑の手が伸びる。それがとてつもなくやさしくて怖かった。手を取っていいのか払うべきなのか迷う。戸惑って動かない透馬に、瑛佑の手もまたコートのポケットに戻される。
二人してどうしていいのか分からないでいる。風が強い。びゅうっとひときわ強く吹いた風の後に瑛佑がくしゃみをした。十一月のこの颪は地域特有の風で、山からつめたく吹き下ろして容赦ない。普段瑛佑が暮らしている街とは気候が全く違うはずで、瑛佑自身もコートを羽織ってはいるが薄くて寒そうだった。
慌てて近寄って自分の首に巻いていたマフラーを首にかけてやる。鼻を擦って赤くしている瑛佑は、実はかたかたとちいさく震えていたことに、その時気付いた。
「あったかい」
透馬の青い色をしたマフラーに、瑛佑は息をついた。「ありがとう」
瑛佑に触れた時に肩に突いた手が、自分の元へ戻せない。透馬のその手を瑛佑は上から握った。瑛佑はいつもあたたかな身体をしているが、今日は冷えていた。でも透馬よりもずっとましな気がする。
「そういえばいつからこっちにいるんだ」
と訊かれて、透馬はうつむいた。
「家を取り壊すって聞いてからすぐ……瑛佑さんと最後に会った、直後ぐらい」
「仕事は?」
「辞めてきました。いやになって、……どうせろくな仕事はしてなかったし、」
「いま、どこにいるんだ」
「友達のところです」
「……有崎さんと、した?」
「……」
「おれは、ないと思ってるんだ」
「はい。……ごめんなさい」
未遂だった。瑛佑があまりにもまっすぐで怖くて、好きだと言われたことから逃げたくて有崎を誘って、出来なかった。ホテルにまで入ったのになんにも。そもそも有崎とは、瑛佑と付き合いを始めて以降まったく会っていなかった。
嘘などとうに見通されている。それでも素直になれない。
「本当にもう戻らないつもりなのか」
「……」
「透馬」
瑛佑はふうっと息をついた。胸に抱えた透馬の手に、頬をすり寄せるようにする。「いまなに考えてる?」
「……なに、って」
「家のこと? 真城さんのこと? 少しはおれのことも考えない? 少しも考えない?」
言い方にはっと胸を突かれて顔をあげた。日頃感情を荒げない瑛佑のこんな口のきき方ははじめて聞いた。透馬の手は、瑛佑の心臓の上に導かれる。そこへ固定されて動かせない。
「なにか隠しているんだろうなと思ってはいたけど、黙っていられて淋しかったとか、嘘をつかれて悲しかったとか、いきなりの別れ話で戸惑ったとか。おれのことなんにも考えないでここまで来た? それでももう戻らないって言ってる?」
言い口に苛立ちと戸惑いと淋しさが混ぜられて、普段の瑛佑からは想像できないようなせつない響きを生んでいる。いまさらながらこの人を傷つけたんだと理解した。はっきりと意識した途端に、いてもたってもいられない後悔が身体中をめぐる。
傷つけられると怒ったような表情になるんだ、と瑛佑の顔を見て思った。こんな発見はしてはいけなかった。透馬がそうした。
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解体はあらかた終了していたようで、午前中いっぱいがたんがたんとひどい音を立てていた真城家からはいま、不要になった資材が運び出されている。山陰になってしまえば、風がびゅうびゅうと冷たい。手を温めたくてコートのポケットに手を突っ込むと、ちゃり、と鍵が触れた。存在を思い出して顔をしかめた。これは瑛佑の部屋の鍵だ。木製のオーナメントのついた銀色の鍵で、前に借りて以降返しそびれていた。また家のことから気が逸れる。指先で鍵やオーナメントをいじり、かたちと質感を確かめ、コートのポケットから手を出す。
花は門扉のあった場所に置くことにした。
「葬式みてえだな」柿内がこぼす。
「葬式だよ」
「家の?」
「家の」
「ふうん」
大げさだ、と笑わない柿内のことが好ましいと思う。昔からクールで周囲とは一歩引きながらも透馬の心に添ってくれるやつだった。花の代わりにカメラを手にした柿内は、立ち入り禁止の家を撮る。いやもう、家ではなくなっているものだ。ただの土地。これからは売地。
夕方、業者からの引き受けに新花が来ることは聞いていた。何時の約束なのかは知らなかった。まだ時間はあるだろうか、どうしようか、と考えていると、柿内に「誰か来た」と声をかけられた。
一台の車が近くの空き地に停まる。車を降りて現れたのは髭面の男と痩せた男の二人。柄沢暁永と真城綾だった。
まさかここで会うつもりではなかったが、当然と言えば当然のことだったのかもしれない。透馬に気付いた暁永が先に「よう」と手を挙げて挨拶をした。
「久しぶり」
「……暁永くん、いるって聞いちゃいたけど、なんでこっちにいんの?」
「それがさー、聞けよ透馬。せっかくあっちで暮らそうとしてたのに、結局基盤はFに移っちまってさあ」
四年で戻ってくるはめになるとは思わなかった、とからからと笑う。
「これからはFで暮らすことになるよ。――ま、綾にはきっといい、向こうじゃ水が合わなくてだいぶ苦労したから」
暁永より遅れて綾はゆっくりと歩いてくる。空気を読んだ柿内が「ちょっとその辺まわってくる」と言って離れてゆく。
「新花は? 来るんだろ?」
「まだ来てないみたい」
「あの花、透馬か」
「うん」
「おまえらしいよ。――やっぱり思考が似てるな」
暁永の傍までやって来た綾の手には、花束があった。こちらはブルースターの青一色だった。門扉に投げてある花束を見て、透馬の顔を見て、綾はうすく笑った。久しぶり、という意味合いが込められていることも表情からきちんと理解する。
「花、どこで買ったの」透馬から口をきいた。
「いやこれは、暁永の研究室からもらってきた花」
「ああ、なるほど」
「……元気にしてたか」
少し痩せた? と綾は心配した。いつもなら逆だ。病弱な綾の心配ばかりしていたのに、自分が心配される側にくるとは思いよらなかった。
綾はと言えば、一言で言えば「老けた」。年齢を数えればもう五十歳を過ぎているから、その感想はごく当たり前だった。うすく吹き飛んでいきそうな身体のあり方は変わらない。この人のことが好きだった、多分透馬のどこかではまだこの人と暮らす未来を夢見ている、ととうも昔に仕舞い込んだ自分の気持ちをひとつ蓋開けてみると、やっぱりやりきれなくて淋しかった。
「うまくいかないことだらけだよ」
そう言うと、綾は寂しげに口を一文字に引き結んだ。困らせたくて言ったつもりじゃなかったが、その表情を見ると余計なことを喋りたくなる。
「伯父さん、結局Fで暮らすんだ?」
「そういうことになったよ」
「暁永さんと一緒?」
「……ああ」
「仕事は?」
「いまはしてない。けど、こっちへ戻ってきたから、また教室をはじめるつもりでいる。暁永は働かなくていいって言うけどな。字は、好きだから」
「いまどこに住んでんの? 暁永さんの実家?」
「そう。暁永のところももう、誰も住んでないから」
男二人で暮らすにはちょうどいいのだと言う。田舎では噂も立ちそうだが、二人がいいならいいのだろう。それきり会話は途切れ、言葉を探すかのように二人で家を見た。歳月を潰された家。撤収しようとも出来ないでいる業者は暇そうに、煙草を吸っている。
「その花、置いてきなよ」
そう言うと綾は頷いて離れた。透馬と同じところに花を置いてから、しばらく家のあった場所を見続けていた。透馬よりも居住歴は長い。思うことが色々とあるのだと察する。
そこらをふらふらと歩いていた暁永が透馬の元へ戻って来た。
「ありがとうな」
意外な一声だった。なんで、と訊こうとしたが暁永は綾の方を見たままこちらを向かない。
「家、潰される日だけど、行ったらおまえが来てるんじゃないかと思ったよ。会えて良かった。だいぶ不健康そうに見えるが」
その台詞でようやく透馬を見た。
「すきなやつ、出来たんだって? 新花が絶賛してて笑っちまった。『透馬にはこの人! っていう感想しか出てこない』ってさ。おまえは幸せになんなきゃいけないんだ」
ばん、と透馬の背中を大きく叩いて暁永は綾の傍へと寄る。また二人でなにか話をし出す。いつもそうやって遠くへ行ってしまう。透馬の感じる寂しさなんかお構いなしに、二人で。
新花が余計なことを話していたことにも苛立っていた。なんだってよりにもよって暁永に話すんだ。それにもう瑛佑とは……と考えにふけっていて、だから本人が目の前に現れた時には、冗談でなく喉から悲鳴が出た。新花の運転する車で、なぜだか二人でやって来た。
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3. 透馬(現在)
中学以来の友人である柿内の家からは真城の家がよく見える。真城の家の方が若干高台で、そこから平地へとなだらかになる手前に柿内の実家があるのだ。特に二階、柿内の自室から真城の家の表側が見える。巨木に成長した庭木に囲まれて鬱蒼としてはいるが、真城の家は広い。簡単に見つけられる。
いまそこには白いビニールがかけられている。もうもうと立ち煙をあげて、解体の真っ最中だ。庭木はとっくに根からなぎ倒され、茶けた土が露わになっている。すさまじい破壊力は突き刺す痛みで胸を抉ってくる。
朝からずっと、柿内の部屋の窓から見ていた。この家には少し前から世話になっている。真城の家の取り壊しが決まって以降、いてもたってもいられずにFへ来たはいいが肝心の宿を考えていなかったから、柿内が変わらず実家暮らしを続けていてくれてほんとうに助かった。
市内の大型スーパーで生鮮食品の仕入れ担当として働く柿内は、今日は非番だという。窓の外をしきりに気にする透馬とは裏腹に遅くまで寝ていたが、起きて、携帯ゲーム機をいじっている。それも飽きて、趣味であるデジタル一眼レフカメラを取り出し、手入れをはじめた。
カシャッ、と硬質なシャッター音が自分へ向けられていると気付いて、透馬は柿内の座っているベッドの方角を見た。瞬間にまたシャッター音。
「勝手に撮んな」
「もうそろそろ終わる頃じゃねえの、家の解体」
「……いや、まだ業者が出入りしてる」
「花、しおれちまうぜ」
部屋の片隅に投げた花束を見て、柿内が言う。
花は今朝、柿内の勤め先へ出向いて購入してきた。二十四時間とはいかないが早朝から深夜まで営業しているありがたいスーパーの一角、忘れ去られどうでもいいようにしなびた花々が売られているのは昔から変わらない。大体は急な葬式用の白や黄色の菊で、だが春先になればチューリップやカーネーションの切り花も売る。いまは十一月、気の早いクリスマスへ向けてポインセチアの鉢もあったがそれは目的に見合わずやめた。透馬がようやく選び出したのは(というかそれしか選択肢がなかったのだが)うすいピンクのトルコキキョウとカスミソウという、変わり映えしないスタンダードな花束だった。
この花を家の跡地に手向けてやるつもりだった。こんな花しか用意できなかったが、それぐらいの儀式をしたい。恋と夢の終わりだから。
花束を見て、瑛佑を思い出した。初対面の瑛佑が抱えていたのも同じ花だったが、色合いは全然ちがう。グリーンとホワイトでまとめられたシンプルな花が、瑛佑という大人の優しさにそれはそぐっていたように思う。
一昨日、ひどい電話をしたことを後悔している。待っているから、と言ってくれたがどうしてそんなにやさしいのか。嘘をついた透馬を責めなかった。それより前に好きだと言ってくれた、本当かな。ずっと透馬の告白をただ受け入れるだけだった人が自分から「好きだ」と――ばかなことをした。会いたい。
だがもうそれはしないと決めた。瑛佑のような潔さで恋は出来ない。いまはそれどころじゃなかった。真城の家が、ついに、壊されてしまう。
時計を見ると午後二時をまわっていた。解体業者は一日で作業を済ませてしまうつもりなのだろうか。これからが分からないが、十一月もこの時間だともう日暮れが迫る。山際だから夕方が早いのだ――出かける支度をはじめる。
柿内の家から真城の家まで歩いて十分弱。上着を着始めた透馬を見て、柿内も立ち上がった。今日は付き合ってくれる約束だ。
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三月まで綾と暮らし、別れた。ひどい時代だったのに、就職内定は辞退した。とてもじゃないけどFでひとり暮らしてゆく自信がなかった。気の毒に思ったのか誓子が就職先を世話してくれて、家から通える範囲の私立大の事務職に就いた。
夜、自室のベランダから空を見上げながらFの土地やイギリスで暮らす二人を思う。別れ際、綾は本当にこれが最後と思ったのか、透馬にスケッチブックを寄越した。中には若い頃の暁永が栽培に成功したという青いケシの押し花と共にたくさんの花のスケッチが詰め込まれている。透馬が持っているのがいい、と言われた。
Fの真城の家は、新花がつかい始めたと聞く。F大に通うのにちょうどいいとかなんとか。新花もまた暁永の研究室移動に伴いイギリスと日本とを半々に行き来していると言う。新花とはメールのやり取りをたくさんして情報交換を行っている。自分の感情の吐き出し口を新花に頼っている感じだ。
結局、透馬は今までなにをしていたのだろう。
家で暮らせなくて、Fを第二の故郷として育った。欲しいものが見つかり、たくさん出来、しかしそれらはみな透馬の手元に残らなかった。ただ引っかきまわしてきただけな気がする。はじめから父親に従っていれば。綾と暮らさなければ。誰にも出会わなければゆらゆらと漂うこともしなかった。
おれという人間はなんて、
「――つまんねえな」
「なにが?」
ひとり言に返答があったのでびっくりした。隣の部屋のベランダに男が立っていた。今夜は家にアオイ化学の人間を呼んで、花見会、などと言ったか。家に咲く桜の木の下で社員が宴会をひらいていた。宴はたけなわで、家のあちこちにアオイの人間が散らばっている。
「おまえ、青井透馬だろ」男がそう言った。透馬は顔をしかめる。
「出来の悪い社長の息子って有名だ」
有名でもなんでも、面と向かって言われると腹が立った。「あんた誰?」と訊くと、男は「有崎」と名乗った。アオイ化学工業の重役で若い男がいるとは聞いていたが、それが有崎だとその時知った。
「つまらないってなにがつまらない?」有崎が訊く。
「関係ないでしょ」
「じゃあ話替える。おまえには興味があったんだ。おれもF大の出身でね、新花とは学部は違うけど同級生だ。おまえの先輩だよ」
思わず有崎の顔を見る。「色々あったんだって?」
「つまらないって言うなら、俺も退屈してたところ。男いけるんだろ、透馬。おれと遊ぼうか」
上流に所属する人間には上流のやり方があるのだろうか。分からないが、有崎のストレートな台詞に透馬は面食らった。食らいつつも、どうでもいい、という方向へ心が傾く。
見た目は綺麗な男だ。抱かせてくれるのか抱かれるのかよく分からないが、後腐れなさそうで、遊ぶにはちょうど良いように思えた。
「なんなら服でも時計でも買ってやろうか。小遣いだってやるよ。貰っとけば、そのうち家が買えるかもな」
「――家、」
「楽しいことしようか」
そう言いながら、有崎は一歩後退する。透馬に「おいで」とでも言うように微笑んでいる。ああ本当になんだっていい――急いで自室を出ると、隣の部屋の前で有崎が立っていた。
「退屈させるなよ、透馬」
透馬を部屋へ押し戻し、鍵をかける。部屋の明かりは元より消えていた。男の輪郭が、夜に危うい。
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しばらくこっちにいるんだ、と暁永は言った。実家には顔を出した程度で、後はずっと真城の家に居座った。元々、人の心や距離の隙間にすっと入りこめる性分だ。生活に違和感なく溶け込まれ、ずっとこうやって三人で暮らしていたんじゃないかと錯覚する。わけがわからなくなる。
帰宅すると綾が起きている時間が増えた。なにをやっているかと思えば、居間で暁永と退屈げにテレビを見ていたりする。深夜に放映されるバラエティのくだらなさを嫌がっていた人だというのに、暁永につきあっている。暁永も流して見る程度だったが、時折綾に話題を振り、一言二言喋って、綾の返しに笑っていた。
綾はすました顔で茶をすすり、テレビではなく文芸誌をめくる。たわむれに暁永は綾の髪を引っ張り、「白髪」と言ってまた笑う。誰が見ても分かる、二人の仲は実に親密だった。
こういう時、ひどい疎外感を思う。二人が二人でいる機会は何度か見ていて、透馬には分からぬ次元のやり取りで笑い合うのだ。その日はそこへ入り込む気が失せて、離れへ向かった。今までここは綾の領域だからとあまり足を踏み入れないようにしてきたが、今日ばかりは二人の声の届かぬ場所に行きたかった。
やはり綾は行くのだろうか。あの親密さを拒否するなんてあり得ない、と思う。やりきれなくなる。
綾の仕事場はきちんと整理されている方だが、それでも手本や書物の数が膨大でどうしても片付かなくなる。この雑然さが、透馬には安心だった。綾の作業机に近寄り、椅子に腰を下ろす。広い天板、多種多様な筆、インク。それらに触らぬように注意を払いながら抽斗をあける。そういえばここになにが入っているのかなと、思い立ったからだ、
やはり書き写した文字だったり、古い小銭だったり、文具だったりがごちゃごちゃと入っている。そのうちその中に平たい缶を見つけた。有名菓子メーカーの絵柄がプリントされているそれはずいぶんと古い。中をあけると、大量の手紙が出てきた。
すべてのあて名は綾で、差出人は暁永。国内外のあちこちから綾に充てて手紙を出していたようだった。そのことを、全く知らなかった。朝と夕方、郵便受けを覗くのは綾の役割で、それに意味があったと考えたことがなかった。
開封済みのそれらをひらいてみる。暁永の字ははらいが横に広がる癖字で、慣れるまで読むのに苦労した。
『今日はN県の施設で栽培実験。この間わけてもらった種が発芽しない。やはり標高の低い場所ではだめなのかな。来週はイギリスに行く。支度が間に合わない。英単語耳からこぼれそうだよ』
『メコノプシス・ベトニキフォリア。咲いたよ。今度持って行くから絵を描いてくれ』
『こっち来てから本当にうまいめしって出会わない。日本食が恋しいから、コリアンマーケットで調達してきてなんとか工夫してる。脂ばっかりだから次あった時は太ってるのかも。綾、ちゃんと食ってるか?』
『ああ、Fに帰りてえな』
『ようやく戻れると思ったら今度はK県。あっちは酒が美味いよな。今度送る』
『この間学会で発表された新種の花。あれ、おれも見たことあったんだ。悔しかったな、先に気付いていれば夢かなったのにな。無性に綾の絵が見たい』
『綾 ←書いてみただけ。おまえみたいな綺麗な字は書けないな』
『綾、元気か?』
あちらこちらに散らばる「綾」の文字。そのやわらかな呼びかけに、泣きたい気持ちになった。暁永の想いは綾にあったのだとはっきり伝わる、純然たるラブレターだと思った。いままで一方通行だと思っていた二人の恋が、重なる。暁永もまた故郷を愛しているし、綾を愛している。
この家に綾と暮らしたかったのは暁永の方だったのかもしれない。
「――なんでこんな大事なこと、言わないんだ」
気付けば口に出していた。ただ二人の恋のやり方が、せつない。暁永の想いの深さと綾のそれとがようやく噛みあうのならば、自分はいてはならないと思う。猛烈に淋しい。中学生の頃、ここへ来て淋しかった、あの時の感情によく似ている。
かたん、と音がして振り向くと、綾が戸口に立っていた。透馬が手にしている手紙を見て、驚いた顔をしている。「それ」と綾が言うのと「伯父さん」と透馬が声をかけるのとが同時だった。しばらく沈黙が出来る。
「おれ、実家に戻るよ」
もうここでは暮らせない。綾がいないのならば、透馬ひとりで暮らしても意味がない。
「だから暁永さんと一緒に行きなよ」
「透馬」
「家は……残らないかもしれないけど。でも、ずっと暁永さんが好きで、暁永さんもようやく応えてって、それってすごいことだろ」
透馬の手の中で手紙がふるえている。「綾」と「F」の癖字。
「行きなよ。おれは、戻るから」
綾の顔が見れなくて、たまらず、透馬は目を閉じた。
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問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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