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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 愛、という厄介なもののことについて考えるのは、高坂が愛に対して疑心暗鬼だからだ。幸福になりきるのを、どこかで拒んでいる自分がいる。こんなに心をまるごとすっかり委ねてしまって、いつか来るだろう別離のときが怖い。つきあうとき、日野は「みんなひとりだ」と言った。「ひとりが寄り添ったり集まったりしているだけだ」と言い切る彼もまた寄り添うことの悲しみ苦しみを知っていて、そんな日野とだからこそ添い遂げる決心をしたけれど、その恐怖からすべて解放されたわけではない。たまにぞっと、背筋に寒気が走るほど、怖くなるときがある。
 愛ってなんだろうな、と漠然と考える。答えは出ないのを承知で。たとえば日野に対して、眠そうにおおあくびしている姿を微笑ましいと思ったりすること、起きぬけの気だるい表情になぜかむらっと性欲が湧くこと、「しょうもない人だな」と言って、延々と考えをループさせてしまう高坂の頬にそっと触れるその熱量に、つきりと心臓が痛むこと。それらも次第に、慣れて飽きてしまうこと。いや、こういうのは恋の領域なのか? とりとめもなく考えをめぐらせながら、風呂に浸かったりなど、する。こんなことを考えてしまう自分はつまり、日野に骨の髄まで参ってしまっているのだし。
 日野が「Kに行こう」と誘うので、日野の店の定休日に合わせて高坂も休みを取った。特別快速が走っているおかげで、さほど多くの乗り換えをせずに、Kまでは一時間足らずで行ける。古い寺社が有名な街で、高坂はKに来たことがなかった。「けっこう歩くよ」と日野が言うのを適当に聞き流していたが、案内板に「K宮まで徒歩三十五分」だの「ハイキングコース4.5㎞」だのと普通に書かれているのを見て、いつもの休日の服装、いつもの靴でやって来た自分を、軽く後悔した。
「ここの、弁天様祀ってあるとこ行きたい。徒歩二十五分だって。バス、つかう?」案内板を覗き込みながら日野が高坂に訊ねる。
「あー、いいよいいよ、おまえに任す」
「じゃあ、ゆっくり歩く」
「なんで弁才天? 水や芸術の神様だろ、あれ」
「弁才天の才が財の言い代えで、財宝の神様。商売繁盛」
「ああ、なるほどね」
 なんでもありだな、などと言いながら、ゆるい坂道をのぼっていく。途中、山側の道へ折れる。最後の坂は、かなりきつかった。岩をくりぬいた参道に気分はけっこう上がって、抜ければかなりの人で賑わっていた。
「平日の午前中なのにな」
「修学旅行生とぶつかったっぽい」
 セーラー服を着た中学生と思われる体躯の少女や、スクールセーターを着た男子学生の姿がちらちらしている。日野と高坂の傍をきゃあきゃあ言いながら走り抜けてゆくのを、高坂はややうっとうしく思い、日野は「元気がいいな」と微笑んで眺める。
 お参りを済ませ、土産物やお守りの類をひやかして眺める。人の多さに、というよりも学生のうるささに少々うんざりしていた高坂は、早々に場から退きたかったが、日野が「お守り買ってく」というので休憩用に備え付けられた竹製のベンチに腰かけて待った。見上げれば、青空にうろこ雲が浮かんでいる。そういえば今朝はけっこう冷え込んだ。歩いたからいまは身体が火照っているが、紅葉がはじまっていたり、風がつめたかったり、気付けばすっかり秋だった。
 日野は店用に商売繁盛のお札を買った。来た道を戻ろうとして、さらなる学生の集団が前方からやって来たので、気が変わって、裏から出た。山を切り崩して建っているので、裏道もまた、すごい坂だった。くだり切る直前でまた別の寺社への看板が出てくる。今度は稲荷と来た。
「本当に寺社の数が多いんだな」それはもう、呆れるぐらいに。
「寄り道して行っていい?」と日野。
「お稲荷さんなんか興味あんのか?」
「いや、こっちの方は人が少なさそうだと思ってさ」
「ふうん」
 せっかくKまで来たしな、ということで、もうしばらく歩くことにした。参道に入る前に縁結びだという十二面観音があって、誰もいないさびれた御堂だったが、日野は賽銭を投げ入れて礼をした。「なんで?」と訊けば、「お礼」と言う。「神頼みはしてないけど、良縁は結んでもらったから」
「……悪縁かもしれないぞ」
「それはそれで死ぬまで離れなさそうだから、いい」
 日野が笑う。高坂は目を閉じて、不意に訪れた動悸をやりすごすように息を吸う、吐く。
 この稲荷もまた、山の中腹の立地だったから、階段がきつかった。延々と連なる赤い鳥居の下を歩いてゆく。苔むして、明らかに先ほどまでとは空気が違った。誰ともすれ違わないのがいいと思った。息を切らしながら、ようやく鳥居を抜ける。
 境内までたどり着いて、日野が案内板を読んだ。「ご利益……商売繁盛、家内安全、芸能上達」
「今度は家内安全でも願っておくかな」
「人、誰もいないね」
「あんまりご利益をうたうような有名な神社じゃない、ってことなんじゃないか」
 賽銭を投げ入れ、礼をして、目を閉じる。日野と過ごす日々を願う中で、本当に最後は一緒に死ねたら、いますぐ一緒に終われたら、ということをちらりと思った。目をあけると、日野はもう参拝を終えていた。こんな山の中の小さな神社であるのに、お守り、おみくじ、土産に占いと商売に余念がない。日野はそれを面白がって、「おみくじやろうよ」と高坂を誘った。
「おみくじなんて、いつ以来かな」
「俺、多分、小学生の家族旅行で姉貴と一緒に引いて以来」
「どこ行ったの?」
「あの時はどこだったかな。確か、四国の、」
 百円支払って順番にみくじを引いた。結果は日野が中吉、高坂が吉。どっちが良かったんだっけ? などと言いあいながら、互いの手元の紙くじを読む。願望、時をまて叶う、転居、うつったほうがよい、学問、はげめ。
 恋愛、愛しぬくこと、と書かれていて、高坂は寸の間、息が詰まった。
 隣の日野に「どうだった?」と訊けば、日野はふっと笑ってみせた。「恋愛のところ、すごいこと書いてあった」
「なに?」
「『愛しぬくこと』」
「……」
「あれ、滋樹も一緒?」
 運勢も他の項目も一致しないのに、するはずがないのに、恋愛のところだけはふたりぴたりと同じことが書かれていた。あいしぬくこと、と口の中だけで呟く。たかが百円のみくじでも、その言葉は、確かに響いた。みくじを結ぶことはせずに、そっとポケットに仕舞いこむ。
「中吉と吉とで同じことが書いてあったらだめだよな」と、誤魔化すように軽く笑った。
「こういうのって、あらかじめ文言が決まってて、ランダムに印刷されてるだけなのかな」
「そうかもな」
 なんとなく境内にとどまって、自販機で買った水を飲んだ。隣にいる日野のことが、愛おしくてたまらない。山道をのぼったせいで火照った身体がようやく冷えてきたころ、高坂の方から「そろそろ帰ろうか」と言った。
「滋樹」と手を引かれた。振り返ると、日野の目は静かに、情熱に燃えていて、高坂は息苦しくなった。たまらず、引かれるままに、高坂の方からも日野に身を寄せる。無我夢中で、キスをした。こぼれる吐息が熱い。こんな場所でなければ舌を差し込んだものを、と歯がゆく思いながら、くちびるだけを丁寧に重ねあわせて、慎重に離れてゆく。
 そのまま抱きあいながら佇んだ。
「……人来たらどうしよう」
「そうだね」
「こんなところでこんなことしてたら、ばち、当たりそうだよな」
「うん」
 耳元でさも苦しげに、日野が「あいしぬくこと……」と囁き、高坂は大きくふるえた。その身体を、日野はますます強く締めあげてくる。ぎゅっと腕の中に閉じ込められて、高坂もまわした手を締め返す。
「帰ろうか」
「うん」
 同じところへ帰るのに、名残おしみながら、身体を離した。
 愛とはいったいなにか、と、帰る道々でやはり高坂は考えた。こんな風に突然湧き上がってくる、くるしいほど身体をぶれさせる感情の、正体。
 これで帰れば、ひとまずふたりは、はらごしらえをするのだろう。きっと日野が今日も美味しいものを用意してくれる。ひょっとしたらそのために、帰り道の途中で食材を買い足してゆくかもしれない。
 食事の前に、高坂は風呂に浸かりたい。たくさん歩いて汗をかいたから。日野が食事を準備してくれているあいだでいい。おそらく日野も食事をした後、入りたいと言うだろう。
 そして多分、まだ陽の出ている時間から寝室に引きこもって、身体を、心を、むつみあわせる。高坂は日野の青いシャツを脱がせるところまで想像している。日野が自分の肌に歯を立てることを、ゆるす。まどろむように求めあいながら、愛しぬくことを、噛みしめながらきっと日野とセックスする。
 そう、愛しぬくこと。それを高坂は、考える。怖がりながら、でも、至極前向きな気持ちで。


End.



電子書籍化、ありがとうございます。

拍手[60回]

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「川澄さん、またこっち来るそうです。昼間は用事があって、夜はあくから、それで一緒に食事をって連絡来たんですけど、瑛佑さんその日あいてませんか?」
 透馬からそう聞いて、スケジュールを確認すると都合よく休みの日だったので、OKと答えた。川澄、懐かしい名で、透馬から名前を聞いた瞬間にあのFの、田舎の、髭面のやさしい主人の顔を思い出した。新花も一緒なのかと訊けば、透馬は首を横に振った。「新花ちゃんは来ないらしいです」と言う。
 その理由は、川澄本人と直接対面して、判明した。和風創作料理が自慢のちいさな居酒屋で乾杯をした後、一拍置いて、川澄は「今日は息子に会いに来ていてね」と穏やかに話した。
 息子――とりあえず新花が子どもを生んだ話は聞いていない。隣の透馬も「息子?」と怪訝な声をあげたから、どうやら透馬も知らなかったらしい。川澄は気まずいのか照れ臭いのか、かりかりと耳の後ろを掻いた。
「前の奥さんとの子ども」
「え、結婚してたの?」と、透馬。初耳だったようだ。
「そう、出版社勤務時代に、同じ職場だった元妻と結婚して、子どもはひとり。でも、性格の不一致というのかな、リズムが合わず苦痛が多くなってしまったから、別れたんだ。それで郷里のFに戻って、数年して新花さんと知り合って、いまに至るよ」
「えー、まったく知らなかった」
「ぼく個人のことだからね」
 そう言いながら、川澄はお通しの、切り干し大根の煮物に箸をつける。瑛佑も先ほど食べたが、薄めの味つけがかえって出汁の良さを際立たせていて、美味しかった。店選びは透馬に一任してあったが、よくこんな隠れ家みたいないい店を見つけてきたものだと思う。
「じゃあ、息子さんはいま元奥さんとこにいるってこと?」
「そう。でもふたりがいま暮らしているのは奥さんの実家のあるA県で、ここじゃない。今回はじめてここで待ち合わせたんだ。春からこちらにある専門学校に通いたいと言っていて、学校の下見を兼ねて会ったんだ」
「息子さん、いくつ?」
「高校三年生」
「あー、進路の時期だ」
 会話は主に、透馬と川澄とで進行していった。瑛佑は黙って頷くだけで、たまに店員を呼んでオーダーを取ったりしていた。透馬は川澄の息子に興味津々らしく、「学校って、なんの?」とさらに突っ込む。瑛佑はあいた川澄のお猪口に、冷酒を注いでやる。
「それがぼくにはさっぱり分からないんだけど、自転車の整備とデザインをする学校らしいんだ」
「へえ、自転車? 自動車じゃなくて?」透馬が目をまるくする。瑛佑も興味が沸いて、川澄の顔を見た。
「うん、自転車。ここら辺をどこから影響受けたんだか、文系のぼくと文系の母親のあいだに生まれていて、さっぱりなんだ」
「デザイン、って言った?」
「そう。初年度は基本的な仕組みや組み付けを教わるらしいんだけど、それが終われば、自分で自転車をデザインして製作するみたいだよ」
「すげえ、工業デザインじゃん」
「透馬くんはその辺りぼくよりも興味があるだろうし、知識も理解も広そうだから、もし来年度以降こちらへ息子がやって来たら、たまにでいい、気にかけてやってほしいんだ」
「ああ、そういうこと? 全然かまわないよ。ねえ、瑛佑さん」
 同意を求められ、瑛佑も頷く。
「良かったよ。こちらにいるぼくの知り合いは年上ばかりで、息子と話が合いそうな若い人はなかなかいない。これからはじめて親元を離れて心細くもなるだろう、そういう時に、本人が頼りになる人を自分で見つけられるまでの短いあいだでいいから、誰かに頼むことが出来たら、と考えていたんだ」
「自転車のデザインって、おれもよく分かんないけど、デザイン一般の話なら出来る。瑛佑さんが、自転車は趣味で、自分で整備するぐらいには詳しいよね」
「そうだな、一通りは」
「こっちでの生活の、はじめの一歩みたいな感じでいいってことでしょ?」
「そういうこと。どうかよろしく頼みます」
「イイエー」
 Fでは世話になってるからさあ、と透馬は少しだけ目を伏せて言った。世話になっているのは瑛佑も同じだ。そういう、恩の着せあいの話でなくても、未成年者の保護者役を頼まれて、大人として、きちんと受けてやりたいと思う。こんな都会に出てこようという少年のことなら、なおさら。
「本当は今夜同席させようと思ったんだけど」と川澄は呆れたように笑った。
「そうだよ、会えれば良かったのに」
「それがね、抜け目ないところも誰に似たんだが、地元にいる彼女も一緒にやって来ていて、今夜はふたりで、遊園地で花火とナイトパレードを見るそうだ」
「おっと」
「大人ぶるのもいましか出来ない経験だからいいか、と思って野放しにしたけど、大丈夫かな」川澄が苦笑いする。
「ちなみに、今夜の宿は?」
「ぼくと同じビジネスホテルだけど、帰って来るかな?」
「それは分かんないな。若いから」
 彼女とホテルにしけこむ方がはるかに楽しいだろうし。瑛佑はそう思いながらも黙ってウーロン杯を舐める。
「――でも次回は必ず、息子と引きあわせたい」
「いいですよ」透馬は気軽に請け負った。アルコールが入っているおかげでにこにこしているのがかわいらしいと思った。
「ありがとう。ぼくはね、きみたちふたりのことを風だと思っていて」
 思いがけない言葉が出てきた。透馬も瑛佑も、同時に川澄を向く。
「風穴をあける、っていう言葉があるよね。突き通されて、痛む、よりは清々しい心地よさがある、一瞬だけ吹く大風。停滞していたものが、よい流れに生まれ変わる瞬間」
「……」
「清かで青い追い風のようだと、ぼくは思ったんだよね、きみたちを見ていて。そういう人たちに、息子をお願いしたかったんだ」
 風、というなら透馬だな、と瑛佑は思った。隣の身体は川澄の言葉の前にしばらく静かなままで、ほらそうやって感動できる純粋なところ、と愛おしく思いながら透馬の背中を数回、とんと叩いた。透馬は瑛佑を見て、「なんか褒められた気分」と照れ隠しに笑った。早くふたりっきりになりたいな、と唐突に思う。
「それにしても、ビジネスホテルに泊まるより、瑛佑さんに先に相談すればよかったね」と透馬が言った。
「あ、そうですね。うちのホテル、優待券付きでご案内出来ました。気が利かず」
「いや、いいんだ。シティホテルなんか父子ふたりで泊まっても仕方がない」
「じゃあ次回こちらへいらっしゃるときは、あらかじめご連絡ください。よければ新花さんと一緒のときに」
「ああ、それは喜びそうだな」
「……抜け目ないの、親父似だと思うなー……」
 透馬がぼやいたのが可笑しくて、三人で笑った。

 
 帰り道、電車を降りた後は部屋まで十分程度の道のりをのんびりと歩く。あまり人気がなかったのでちょっと調子に乗って、手をつないだ。透馬はご機嫌で、手を離せば弾みながら空まで飛んでいきそうな調子の良さだったから、酔っぱらいを介抱するみたいなふりをして、手を少し強めに握った。透馬は笑い、ますます足もと覚束なく歩き、瑛佑も引っ張られて空へ飛ぶかも、と想像した。それはちょっと楽しい想像だった。
「川澄さん、さすがですよね」
 煌々と光を放つコンビニエンスストアの前まで来て、人目を気にした透馬は、ぱ、と手を離してそう言った。繋いでいてもよかったのに、と思ったが、帰る先は同じだしな、と思い直して、そのまま手を離す。
「なにが?」
「さすが作家だなあって。表現が違うっていうかさ。風、だって」
「はじめて言われたよ」
「いいですね。それ言われておれ、嬉しかった」
 息子さんとうまくやれるかなあ、とこぼしたので、頭を撫でる。ぐりぐりと、押さえつけるようにして撫でまわすと、透馬はハスキーな地声を高くして笑った。
 マンションまでたどり着き、玄関の鍵をあけ、室内にあがる。透馬より先に靴を脱いで室内に明かりを灯していると、やって来た透馬に背後から抱きしめられた。
「……どうした」
「んー、……いや、」
 それがとても頼りなく、あまえる仕草だったので、瑛佑は透馬の心をはかりかねた。こういう仕草をされると、透馬の身になにか悲しいことが起こっていないか、心配になる。透馬は瑛佑の背中に顔をくっつけたまま首を横に振り、それから肩先に顎を乗っける。
「風穴をあける、って、いい意味でしたっけ、わるい意味でしたっけ」
 そのまま囁かれるので顎のかくかくした動きが伝わり、瑛佑は鼻から息を漏らす。
「新風を送り込む、っていうような意味じゃなかったっけ」
「じゃあ、いい意味?」
「確か」
「ふうん……」
 瑛佑の肩に耳を乗せ替えて、透馬は「じゃあ、おれにとって風は瑛佑さん」と言った。
「その人に出会って良かった、っていう意味なら、おれには瑛佑さんがあけた大きな穴があいてる」
「……」
「おれはあなたにとって、そういう風に、なれているかな」
 脈の音でも聞いて、答えを聞き出そうとでもしているのだろうか。そんな風に熱心に耳を擦り付けられて、瑛佑は思わず、ふっと笑う。
 瑛佑にだって透馬のあけた大きな穴があいている。新風が常に巻き起こっている、すこやかな風。失ってしまったら、そこには冷たい風が吹き荒ぶのだろうと思う。
 風は透馬。透馬は風。このイメージは、出会いの当初からあった。フルネームが判明した瞬間に瑛佑の心に湧き上がった情景は、風だった。冬の風だ。これから寒くなってゆく季節が、透馬にはよく似合う。
 答える代わりに、瑛佑は胴に巻き付いた透馬の腕を外した。それからくるりと振り返る。見つめあうと、透馬の瞳はこちらが怖気づきそうなほどに澄んでいて、やはり瑛佑は、風を見る。
 その清かな風を抱くために、瑛佑は腕を伸ばした。


End.





拍手[59回]


 たまたま休日が合ったので揃って家を出た。「無口上手」と謳うだけあってお喋りな透馬だが、今日は無言だった。瑛佑も気を遣って喋ることをしない。静かなまま、駅まで歩いて、電車に乗った。空は雨が降りそうで降らない、薄曇り。陽がうっすらと差し、白い光を昼間の街にあてている。
 カード型の電子マネーは便利でいい。改札を潜ってからでも、行先が決められる。乗り換えも自由だ。ひとまずあらゆる方面への接続があるターミナル駅の、S駅を目指す。週末の昼間、どこのホームにも人が溢れかえっていた。
「予報じゃ雨降るって言ってたのに」とぽつり、透馬がこぼした。「こんな日でも、みんな出かけるんすね」
「休みだからな」
「休みの日ぐらい家にいればいいのに」
「いまは雨が降っていないし」
「今日、本当に降るのかな」
 と、ホームからは見えにくい空を見上げる。今日の透馬は元気がない。
 恋人は昨夜、少しだけ泣いた。
 真城綾から電話があったらしいのだ。詳細は知らない。瑛佑は仕事に出ていたし、透馬だってそれは同じだった。ただ、帰宅したらひどい顔の透馬がいた。先に帰宅をして夕飯の準備をしてくれていたようだったが、途中で電話が鳴り、だからまだ食事の支度が出来ていない、と。
 真城綾の第一声は、元気か、だったという。伯父さんは低気圧に弱いから、梅雨時はてきめんにダメなんです、と前に話していたのを聞いたことがある。気まぐれに電話を寄越した理由は甥への気遣いか、懐かしくなったか、淋しくなったか。思い出しただけにしろなんにしろ、真城綾への恋心を吹っ切ったかどうか、透馬は伯父の話を聞くとひどく敏感になる。長く苦しい片想いだったのだから、時間がかかって当然だ。こちらとしては、勘弁してほしい、というのが正直なところ。透馬が不安定になることは、あまり喜ばしくない。
 つらいか、と訊くと、透馬は自嘲気味に笑い、首を横に振り、「むかつく」と言った。
「突然電話とか、まじやめろよ、って感じ」
「……」
「『元気か?』って、元気だっつうの。別にもう、なんとも思っちゃいないし。瑛佑さんいるし、おれはここだし。全然、いいすけどね」
 強がって、口調が乱暴になっている。「夕飯、ちゃっちゃと作っちゃいますから」と言う腕を引っ張って、身体を腕で包み込んだ。
「――いいから」
「……」
「強がるな、透馬」
 そう言うと、透馬の身体に入っていた力が抜けた。と思いきや、渾身で胸をどんと叩かれた。「すげ、むかつく……」と真城綾の気まぐれへの怒りと、悲しみを、瑛佑にぶつけた。それでいい、と瑛佑は思う。透馬はもっともっと、感情をあらわにするべきだ。瑛佑に対してだけでいいから。
 その肩がふるえだし、瑛佑は髪を梳いてやる。梳いた場所にくちづける。耳や目元にも落とす。涙を吸うと、透馬は顔をしかめ、なにか言いたげにまた口をひらき、それは新しい涙になった。
 だから昨夜は、一晩中透馬を抱きしめていた。食事は取らず、あちこちをまさぐってキスをするだけの、セックスに満たないセックスに没頭した。明け方、雨が少しだけ降った。雨音を聞いた透馬が「今日どこか出かけませんか?」と言い出し、雨の止んだころ、表へ出た。
 S駅から、S線へ乗り換える。どこへ行こう、という話はしなくて、ただ人が少なさそうな路線を選んだだけだ。地下鉄ではなくJRを選んだのは、鬱々と暗い地下よりも地上へ出てみたかったから。各停ののんびりした電車は、終点まで乗ると、隣県へ行く。
 S駅出発直後は座れなかったが、次の駅でかなりの人数が降りたおかげで、座席に着くことが出来た。ふあ、と透馬はちいさくあくびをする。昨夜はまどろみとまどろみの間を抜けたような睡眠で、深さはなかった。瑛佑も眠い。
「梅雨のこの時期って、出かけられなかった」
 と、透馬が言った。
「伯父さん、いつも頭痛いって言って、ひどいと寝込むし。だからどこか行きたくても、ひとり。まあ、元々外出の好きな人じゃなかったし」
「うん」
「……こんな時期なのに、暁永くんがいれば、平気なんだ。今日、こっち来てるらしいすよ。暁永くんが学会で、ついでに、あちこち観光に来るって言って……」
「そういう電話だった?」
「まあ、会えそうならどうだって言われて、……だから嘘ついちゃいました。仕事があるって」
「うん」
「今日、瑛佑さんが休みで良かった」
 そう言って黙る。瑛佑は無言で頷く。
 かたんかたんと軽く音を鳴らし、電車は街を縫う。やがて透馬は眠り出した。触れ合う肩と肩、瑛佑の方向に力が傾く。重心の定まらなかった頭は、瑛佑の肩先に落ち着いた。髪が当たり、透馬のつかう石鹸のにおいが鼻に届く。
 少しだけ身体の位置を下にずらし、かしぐ透馬がきちんと瑛佑にもたれかかれるようにしてやる。そうして瑛佑も目を閉じる。
 透馬に言ってやりたい。もう悲しいことはなにもない。今日だって電車はゆく。透馬と瑛佑を揺らし、どこまでも進む。
 どこまでだって行けばいい、と思う。
 透馬と過ごす三百六十五日のどこかに、あてのない休日があっていい。


End.



拍手[74回]

 池田とは大学の同期だった。染織クラスだった羽村と、陶芸クラスだった池田は、クラス合同ガイダンスで席を隣にして以降、親しかった。染織クラスは男子率が極端に低かったので、池田は貴重な同性の知り合いのひとりだった。
 池田の真っ直ぐで物怖じしない、大胆な性格をいいなと思った。その頃の羽村は自分の性癖にうすうす気づいていて、気づかないふりをしていた。異性を異性として見ること、同性を同性として見ることを、自らに課していた。自由なはずの大学生活は実は苦しみの連続で、ちっとも楽しくなかった。大学はろくに通わなくなった。
 大学に来なくなった羽村を心配したのは、池田だった。クラスがちがっても気にかけてくれていたのだから、池田は実に情に厚い男だった。羽村の暮らす安アパートに連日押しかけて、羽村が応答しなければ、ドアの向こうから「また来るから」と言って去る。ドアノブに土産がかかっている日もあった。それは池田が面白いと思った授業のノートだったり、手遊びにどうぞという意味の樹脂粘土だったり、食堂限定で売られるゼリーだったり、色々だった。
 そこまで毎日されると、池田を家に引き入れる気になった。悩みを話しても池田にだったら大丈夫なんじゃないか、という期待も持てた。池田は案の定というか、飄々に、しかし真剣に、羽村の悩みを聞いてくれた。おれ、男が好きなんだ。多分、女性が異性に求めるみたいに、男を求めてるんだ。狂ってるよな、おかしいよな。……そんな台詞を泣きながら口にした。
 池田は一言も喋らなかった。赤い斜陽が池田のくっきりとした輪郭をさらに濃く浮かび上がらせたが、羽村は気まずくてずっと下を向いており、それを見ることは出来なかった。
――なんで悩むの。そんだけはっきりしてたらなんにも問題ないじゃん、べつに。
 きっぱりと、池田はそう言った。怖くて、羽村はまだ顔を上げられない。
――男が好きなら好きで、大学休む理由になんかならねえよ。俺はあの大学入って、楽しいことばっかりで仕方がない。耀も来いよ、楽しいから。
 羽村のことを名前で呼び捨てにするのは、後にも先にも池田しかいなかった。名を呼ばれる心地よさに加え、池田の台詞から、なにかとんでもなく神々しいものを前にしているような気持ちになった。太陽を直視できない、あの眠たいような痛み。羽村が黙ったままでいると、たとえば、と言って、池田はカバンからノートを一冊取り出した。そのまま、大学の講義で習ったことを、読み上げる。
――芸術は、見えるものを再現するのではない。芸術は、見えるようにするのだ。
――……誰の言葉?
――パウル・クレー。
――池田は芸術家になりたいのか?
――いや、陶芸家になりたい。日常に溶け込む美。つかっても眺めても美しい、そういう器をつくりたい。うつくしく洗練された器を日常でつかう、っていう芸術行為だ。これさ、絵画クラスの連中に言うとあんまり理解してくんないんだけど、耀は、わかるだろ。
――……難しいことは、わからない。
――耀はなんで染織クラスを選んだんだ?
――単純に、布が好きなんだよ。色も模様も綺麗だろ。それを身にまとう、ってことが。
――そうそう、ほら耀は分かってくれる。
 対話は、楽しかった。池田と話しているうちに、確かにどうでもよくなっていた。男が好きだとか、求めているだとか。それよりも池田のいう楽しいことが大学にあるのなら、そこに身を浸したいと思った。こんな風に、だれかと話して、作って、活動することを楽しみとしたい。
――な、大学へ来いよ、耀。俺と楽しいことをしよう。
 そう言った池田の顔は、羽村がすでに大学へ行きたいと思っていることを見通している、余裕の笑みだった。太い眉が中心へ寄り、目が細められ、口角がくっと上がる、その顔を本当に好きだと思った。ああこいつが好きだな、好きだ、好きだ。だから羽村は、大学へ行くことに決めた。池田が誘うから。少しでも池田の傍にいたいから。
 池田とはその後、様々なことをして精力的に活動した。文化祭で糸と陶器を使ったインスタレーションを発表する、といった芸術的なことをしてみれば、女子に教わりながらTシャツに色とりどりの刺繍をほどこす、なんてかわいい手芸にいそしむ機会もあった。視線が向けば、様々なことをした。旅行に出かける、絵画クラスのモデルのバイトを引き受ける、鋳造技法を用いて本物のシルバースプーンを作ってみる、テンペラ画を描いてみる。
 池田とするなにもかもが楽しかった。それは池田自身が豊かな発想力を持つからだし、行動力があるからだし、技術もあるからだった。そういう魅力ある人間に、惹かれない方が無理だった。学年が上がるにつれて池田の才能は爆発し、周囲には人が群がった。それでも池田の第一の友人として傍にいられることを、羽村は誇りにさえ思った。
 告白をしようとは思わなかった。池田はその裏で実に奔放に、女と遊んだ。とっかえひっかえに近かった。ただ、中でも、芸術教養学部に通う野島という女子生徒とは長く続いた。野島は美術史専攻の理論系だったが、三人で活動する時間も増えた。
 四年になり、進路を決める時期が迫っていた。その頃羽村は織物の職人になりたいと思い、染織工場の面接を受け、結果を待っているところだった。池田はどうするのか。訊くと、「まず、結婚する」と言った。
 ――いつかやって来る未来だと分かっていたことだとしても、少し早すぎた。心構えの出来ていない心臓は、氷の杭を打ち込まれたように冷え込む。
「……ノジマと?」
「そう。あいつはもう就職が決まってるし、俺は陶芸家以外の道を考えていない。これから先、俺たちの道は決まってんだ。早く結婚してガキつくる気かってそういうんじゃないけど、つくらなくても、結婚しない理由もないんじゃないかって」
「……ちょっと決めるの、早くない?」
「早いことが悪いことだとは言えない。遅いことが悪いことだとも言えねえけど」
「……そか」
 失恋は端から確定していた。恋心を伝えようか伝えまいかは、迷わなかった。言ってどうする。心に仕舞い込むことに決めた。
 羽村は恋がしたかった。好きだと臆面なく言えて、言われたい。それは池田とは叶わなかった。じゃあいい。池田じゃない誰かと恋をする。
 同時に、自分はもう、池田以上に好きになれる人間には出会わない、と確信していた。それだけ池田の魅力は強烈だった。女であるという理由で、池田と生涯を添える野島が憎い。ずるいずるい、ひどい。この時ほど女に生まれなおしたい気もちったら、なかった。
 田舎町の染織工場という就職希望は、ちょうど良かったのかもしれない。もう、池田と離れるべき時期だった。これ以上ともにいたら、羽村は壊れた。
 一緒に楽しいことをしよう、と手を伸ばしてくれた池田を忘れない。恋に終止符を打ち、羽村は大学を卒業した。


 池田の神がかった再出現は、羽村を困惑させ、落ち込ませた。やはり来なければ良かった。帰ろうかな、という方へ心が傾く。思い切って駅へ向かった道すがら、街道の交差点で一台のタクシーが羽村の傍へ停まった。ウインドウが降り、「ハネちゃん!」と懐かしい呼び名を叫ばれる。
 髪型も化粧も変わっていたが、すぐ分かる、野島あゆみだった。「来てくれたんでしょ? そっち逆方向よ」と屈託なく笑われ、羽村は分からぬようそっと舌打ちする。
「一緒に乗ってかない? 時間は早いけど、会場準備があるの」
「要するに、人手がほしー、手伝ってー、って、ことなんだろー」
「そうそう、当たり。ハネちゃんのその喋り方変わんなくて安心する」
 タクシーの扉がひらき、羽村は野島の隣へ乗り込んだ。しばらく無言。しかし野島の方から、「会場準備は池田も手伝ってくれるの、もう来てるわ」と言った。
 池田、と言った。同じ池田姓のはずの野島がそう言うのは、堅苦しすぎる。それに大学時代は池田のことを「シロちゃん」と呼んでいた。違和感は、背筋がぞくぞくするほどだった。
「――離婚したの。去年の夏に」
 野島から言った。羽村は頷く。
「なるほどねー」
「あら、野次馬根性でレセプションに呼ばれたんじゃなかったの?」茶化す口調で野島が言う。ははは、と羽村も茶化して笑う。
「どして別れたの」
「べつに、大した理由はないわ。むしろよくもった方だと思う。単純に、飽きたのよ。私も、池田も、夫婦生活っていうやつに。飽きはどのカップルにも訪れるものだと思うけど、それを乗り越えるだけのこらえ性でもなかったんだわ。子どももいなかったしね」
 誰かと暮らしたことのない羽村からすれば、さっぱり分からない理由だったが、世の中の男女にはありうる理由のようだった。飽きたか。飽きたんなら、おれにちょうだいよ。喉元まで出かかった台詞は、しかし、まだそんなことを思う自分を笑う自分によって、発声されなかった。
 タクシーは先ほど羽村が逃げた建物の前でゆるやかにブレーキをかけ、停車した。「お客様に準備手伝ってもらうんだからさあ」と言って、タクシー代は野島が支払った。ガラス張りのホワイト・キューブの中に、池田の姿はなかった。ただ、入口に置かれた木製のシンプルな机の上に、池田が抱いていたカラーの花束が置いてあった。
『三俣画廊さんから届いた花束。急用、ちょっと出てる。池田』
 と、メモも添えてある。花束を見た野島は、「留守を頼んだのに、つかえない人」と言った。いかにも過去連れ添った男女であることを誇らしげに示すように、慣れた言い方で。
 ひどく腹が立ち、ただひたすらに帰りたかった。始まる前から頭痛がする。
「――作品はまだ置かないんだー?」
 と、羽村の方から話題を振った。
「そこの衝立の裏にまわれば、展示してあるわ。そっちがメインフロアなの。今日、エントランスにはたくさん花を置くつもり。もうじき花屋さんが来るし、あとはケータリングと、座席の設営と、」
 と、指折りながら今日の手順を聞かせてくれた。ひとまず花屋待ちだというから、メインフロアの展示を先に見せてもらうことにした。土色の温かみある小さな油彩画や、引っかき傷の連続みたいなリトグラフ、あるいは日常でつかう器の類が、野島のセンスで品よく並べられていた。
(……池田のだ)
 そこにはやはりというか、当然のように、池田の作品も置かれていた。年月を経て熟成しても、一目でわかる作風。煮詰めたミルクのようにこっくりと濃厚な白色の、つるりと滑らかな陶器。茶器のセット、酒器のセット、大きさの違う角皿などが、規格品のように整然と並べられている。
 ホワイト・キューブの中の白は、白に同化せず、かえって微細な色の違いを、羽村に知らせた。おそらく池田が狙っていることだろうなと察しがついて、悔しくなる。器ひとつで人を感動させられる人生とは、いったいどんなものなのか。池田に聞いてみたくて、知りたくて、会って話すのは怖い。
 陶器の四角い小箱が置いてあった。手のひらに収まる大きさで、はめ込み式のものだ。かたちとしては、指輪の箱、あれに似ている。横にはやはり陶器で出来たリングが大きさを変えてみっつ並んでいたから、意図を読むために、箱をひらいた。
 中には白い綿が敷き詰められていて、中央には、陶器のリングがつるりと収まっていた。女性向けか男性向けか知らないが、アクセサリーの制作にまで手を出していたことに驚いた。そういえば大学の頃、二人で陶器のブローチをつくったことがある。石膏型に粘土を押し込んで、あたかもカメオの風に。あれはなかなか風合いが良く、文化祭で店を出したら結構売れて、気に入ったから羽村もひとつ買い取った。そういう思い出。
 誰に向けたものだろう。サイズとしては、男女どちらもあるようだった。ただ銀の指輪が陶に変わっただけのシンプルさだが、その銀にはない白い質感に、かえって心惹かれる。箱の中から指輪をつまみあげると、羽村はそれを自分の左手の薬指に、はめこんでみた。
 最初から羽村のためにあったかのように、ぴたりとはまる。
 ――はは。
 むなしくなって、心の中で笑った。これで結婚してください、と言われてみたい。池田から。池田に会いたい。顔が見たい、声が聞きたい。
 羽村の願いを聞き入れるかのように、入口側から男女の声が届いて来た。
「――どこ歩いてたのよ」
「いや、人を追っかけて……誰か来てる?」
「うん、ハネちゃん」
「……まじで?」
 心臓がばくん、と鳴った。池田が戻ってきたのだ。慌てて指輪を外そうとするが、焦っているせいか、抜けない。どうしても指の第二関節で引っかかる。そうだ、洗面台へ行って――しかし池田の出現に、まにあわなかった。
 衝立から顔を覗かせた池田は、堂々たる足取りで、フロアを横切ってやって来る。
「――耀、」
 久しぶりに呼ばれる名前に、背筋がぞくりと唸って鳥肌が立った。
「……どうもご無沙汰、」
「なにやってんだ? さっき、急に走り出したりして」
「いやー、道の向こうにかわいいネコがいてー……」
「はあ? 意味わかんね」
 とっさに後ろにまわした手、池田にばれぬよう懸命に指輪を外そうと試みる。それはかえって怪しい動きで、もぞもぞと身体をくねらす羽村に、池田は「どっか痒いの?」と訊いた。そういえば超鈍感だったなこいつ。野生の勘は変に鋭いのに、人の心の機微には疎かった。
「背中? かいてやろうか」
「――いや」
「すいませーん」
 と、入口から声がした。「フラワーショップ滝沢ですー」と男の声がする。花屋が到着したらしかった。はあいご苦労様です、と野島の声も聞こえる。
「――手伝ってやんなきゃだ」
「ああ、うん」
 そう言って、池田に先に行くよう促す。
 前を歩く池田の後ろ姿を見て、懐かしさに、ぐっと胸が痞えた。短い髪の、まるい後頭部、筋肉質の背中、伸びる太い腕。これに焦がれて後を追っていた大学生時代。太陽のような池田。


 オープニング・レセプションには、懐かしい顔ぶれも知らない顔ぶれも、総勢で三十名ほど集まった。エントランスの花は豪華に目を惹き、立食式のパーティーは、なかなかに賑やかだった。業者が据え付けた借り物の椅子に、シャンパングラスだけを持って座り込む。疲れていてなにも食べる気がしない。
 池田はあの恰好のままレセプションに参加した。主役の野島を差し置いて、池田の人気ときたらなかった。すぐに人の輪が出来て、羽村など簡単に締め出される。かえってひとりになれて良かったのかもしれなかった。指輪はまだ、羽村の左手薬指にはまっている。
 先ほど野島にこっそりと「抜けなくなっちゃったから買い取る」と申し出ると、野島は「高いわよ」と言いつつも、本来の値段の六掛けで羽村に指輪を譲ってくれた。だからこれはもう、羽村のものだ。今夜このまま池田にさえばれなければ、一生これをはめて暮らすのもいいのかもな、と思っていた。もう羽村には、あたらしい恋をしようとか、愛されたいとか、思う気力もない。叶わない初恋は、ひとりで生きてゆくのに十分なだけの質量で、羽村の胸に存在している。
 白い指輪は、羽村によく似合った。この指でシャンパングラスのステアを持つと、自分の指が繊細な装飾品にでもなったようで、気分がよかった。こくりこくりと、すっぱい琥珀色の液体を口に含む。前を向いても天井を向いても、どこもかしこも白い壁。
 ふう、とため息をついたのと、左隣の椅子がどかりと軋むのが同時だった。座ったのは、池田だった。池田がいたはずの輪はいつの間にか少人数に分かれ、それぞれが食事やお喋りやギャラリー鑑賞を楽しんでいる。
「――おす」
「……おす」
 池田もまた大きく息をついて、上体を前に倒した。膝の上に肘をつく格好で、羽村を覗き込む。
 その目は羽村の左指に注がれていた。あ、やばい、と思った。
「作品のお買い上げ、誠にありがとうございました」
「……どうも、」
 話したのは、野島に決まっていた。言うなとは言わなかったけど、せめて会が終わってからの報告でも良かったはずだ。
「いいだろう、その指輪」と池田は言った。
「陶製でこれだけ細い指輪って珍しいなー。割れない?」
 平常を心掛ける。なんでもない風に。なんでもない風に。
「セラミックだから、そんなに無理にしなければ。陶で出来たゆびぬきってあんじゃん。ちょっと前にフィンランド旅行したらあちこちに売っててさ。あ、陶製の指輪ってアリなのかってひらめいた」
「いい出来だよ」
 こうなったらもう、と腹をくくり、左手を目の前にかざして見せる。
「シンプルだから、毎日つけてられる感じ」
「耀、いまなにやってんだ?」
「んー、古着屋の店長」
「へえ。ならはめててもいいな」
「そうそう。もう、染め織ったりはしないからさー」
 染液に手を浸すことも、繊細な力加減で機を織ったりすることもしなくなった。十代から二十代はじめの頃あんなに執着した事柄を、手放しても生きていられる。作業をしなくなった手はいま、気色悪いぐらいに綺麗だ。このまま池田の陶器と同化しちゃえばいいなと思う。
「それ、俺の指のサイズ」
 唐突にそう言って、池田もまた、羽村の左手の隣に、右手を突き出した。広げて見せられた手指は無骨で男臭く、しかし土を触るせいなのか思いのほかなめらかだった。
「って言っても焼成前のサイズだから、縮んじゃったんだけど。耀は相変わらず、指が細いな」
「女みてーとか、言うなよー」
「言わねえよ。思わねえし。男でも女でもなんでも、耀は耀だろ」
 さらりと言ってのけた台詞に、羽村はびっくりした。とっさに見た池田の顔は、自信満々の笑みだった。あの頃と変わらない、光の人。言葉までまっすぐに、羽村を打つ。
 大昔、野島を呪ったことを悔やんだ。女だから愛されていいなと思ったが、きっと池田はそんなことなど関係なく誰でも愛せる人だ。ただ羽村が恋心を隠したから、池田にもその選択肢がなかった。いまはどうだろう。目の前で笑っている人に、すがりつきたい。
 耀は耀だろ、と言ってくれる人だ。
 泣きたい。
「いけだあー」
 目の前にかざされた手をつかんで、膝の上に載せる。力加減を誤って震えている。
「なんだよ」
 池田は嫌がらず、むしろ笑っている。
「すきだよー……」
「ああ」
「ずっとさー、すきだったんだよー」
 首をゆっくりと折って、うなだれる。膝の上の右手は逃げない。と、羽村の下からいなくなり、続いて左手を今度は上から力強く、握ってくれた。
「知ってた」
「うん……」
「耀、また楽しいこと、しようぜ」
 顔があげられない。まただ。いつだっていつまでだって、池田は羽村の太陽として燦々とかがやく。
「俺と一緒に、楽しいことをしよう」
 ただ無言で、言葉に頷いた。白い箱を出て、先にあるのは陽に照らされたあかるい道だ。


End.


前編



拍手[79回]

羽村耀(はむらよう) 様


 お変わりないでしょうか?
 このたび、十三年勤めた会社を辞しまして、
 長年の夢だったギャラリーをM市にオープンさせることが叶いました。
 つきましてはオープニング・レセプションに羽村様もご出席頂きたく、
 ご案内申し上げます。
 当日、お会いできることを心よりお待ち申しております。


 野島あゆみ



 その案内を受け取って、羽村は首を傾げた。大学時代には「ノジマ、ノジマ」とよく呼んだ名前だが、羽村が知る限りでは、現在はこの苗字ではないはずだった。
 旧姓に戻った理由は、活動上の名義なのか、それとも。ただそれだけの興味で、返信用はがきの「出席」の文字に、丸をした。


 青井透馬との恋愛は楽だった。なにが楽かって、なにもかもが違うところが。
 ことあるごとに怯えた瞳をする少年だった。繊細で傷つきやすい、軟弱な精神。磁器のような白さの肌も、筋肉がろくにつかないほそっこいつくりの身体も、羽村には好ましかった。どこもかしこも似やしない。透馬に溺れていれば、学生時代を思い出さずに済んだ。
 ゆらゆらとよりどころのない恋だった。水面を漂う水草のように、行先を二人とも希望しなかった。ただ現実から目をそらすためだけの恋愛。透馬の現実といえば伯父への恋心で、「それがなに?」だなんて適当なことを言ってしまったが、大人になって抱えたとしても痛すぎる現実を、たかだか十代で抱えなければならない透馬を憐れだと思い、可哀想だと思った。憐憫がまた、恋に火をつけた。
 秋、透馬を誘って美術館へ行った。当時住んでいたFの山奥からさらに山奥にある美術館で、羽村が車を運転して出かけた。県内では珍しい彫刻の美術館で、広い野外には雨風にも耐える巨大なオブジェを、こじんまりと小さな館内にはブロンズの小品が二十点ほど並んだ。
 いくら元・美大生だといえども、絵画や彫刻の類にはあまり興味がなかった。羽村が好きで専攻していたのは染織クラスであったし、工芸品ならまだしも、アート、と呼ばれる物物への、関心はうすかった。山奥の美術館へ行こうと思ったのはドライブも兼ねていたからで、高原を走る有料道路からの眺めは紅葉も相まって最高だったが、行きついた美術館では、かえって興奮がさめてしまった。この後どこのホテルに連れ込んで一発やるかな、という下種な段取りを、裸婦のブロンズ像などを眺めて思っていたぐらいだ。
 それでも、見慣れぬブロンズ像をしげしげと眺める透馬の横顔を見るのは、わるくなかった。羽村が一目で惚れた、惹かれてやまない横顔だ。期間限定のおつきあいだからいつか別れるとはいえ、この横顔の写真ぐらいは、残しておきたいな、と考える。額から瞳へと切り込む斜線と、瞳から鼻筋へと伸びる斜線、鼻を経てかたちよいくちびるに届く、数々の面。透馬の横顔はどこかの美術家に評論させたらいいんじゃないかと思う。きっと黄金比がどうのこうのって、言う。
 しばらく透馬を眺めていると、ブロンズ像を見ていた透馬は、やがて目を数度、瞬かせた。見つめすぎて目が疲労したか。もうこの辺で切り上げようかなと考えていると、透馬は「静かだね」とぽつり、こぼした。
「美術館っていつもこう。音がしなくて、ものがなくて、真っ白」
「まあ、ホワイト・キューブ、って言うくらいだし」
「ホワイトキューブ?」なにそれ? と言う風に語尾を上げて羽村に訊ね返す。
「いやーまあおれも、学生の頃にちょろっとテキスト読んだぐらいの知識なんだけどさー。美術品をちゃんと見るために、美術館の壁面ってほぼみんな、真っ白なのさ。そういう空間を、ホワイト・キューブ、って、いう」
「へえ」
「でも、かえって浮世離れしちゃって現実味がないとかね。そういう意味で、美術館のことを『試験官の出来事』、って批判されちゃったりねー」
「びっくりした」
 と、透馬が目をまるくひらいて羽村を見た。
「羽村さんってちゃんと大学生やってたんだね」
「ちゃんとってなんだよ、ちゃんとって」
「美大生ってセンスだけで生きてるんだと思ってたから、そういうこと知ってるの、意外だった」
 ばあか、これでもちゃんと卒業してるんだぜ。そう言いながら透馬の髪をくしゃくしゃにする。どうしてこの言葉を覚えていたかといえば、自分のことみたいだと思ったからだ。現実味のない白い箱に閉じこもって、夢ばかり見ている。そう、たとえばこんな風に透馬とホワイト・キューブの中にいて……なんだこれもまた、現実味のない、つくりごとの恋愛じゃないか。
 だって証拠に、透馬の心は羽村の元にない。羽村と付き合ってくれる、という事実だけを、羽村を傷つけない白い壁に展示して、眺めて満足している。客観視してみれば、自分は確かに透馬を好きなのか、分からなくなる。田舎へやって来てたまたま隣家に好みの顔がいたから、手を出しただけかもしれない。都合よく失恋していたし、童貞の美味しいところも食えたし。いまじゃ羽村にすっかり慣れて、おびえた瞳もしなくなった。
 愛されたい、と思った。片想いが長すぎておかしくなっている。愛するんじゃなくて、愛されたい。期限付きで愛し合っている半年間、透馬に愛してもらおうという気分はおきなかった。ただ、早く春が来てこの恋が終わらないかなと、唐突に思った。


 M市は、羽村の通った美大のある街だ。久々に訪れた街は、めっぽう変わっていた。以前よりもアート色が強くなり、「商店街ミュージアム」と称して駅前から伸びるアーケード街に学生の展示が続いていたのには驚いた。羽村がいた頃の商店街は人気がなくがらがらで、いわゆる「シャッター街」だった。活気づいてきたと言うならいいことだが、展示されている作品はどれも勢いばかりで、羽村の目には新しくなかった。それだけ自分が年齢を重ねた、という意味だったら、少しさびしい。
 それでも街を歩くにつれて、楽しくなってきていた。はじめ、M市でギャラリーをひらくなんて、いくら美大のおひざ元でも酔狂な、と思っていたが、これは当たりなのかもしれなかった。どんなギャラリーをひらいたと言うのだろう。画廊なのかクラフト・ギャラリーなのか、そういえばそんなことも知らなかった。
 学生時代によく通った喫茶店を訪ねるつもりで早めに行ったから、喫茶店が深夜営業のバーに改装されていたと知った時は、あーどうしよう、だった。それであてもなく、ひとまず先にギャラリーを訪ねた。外観だけでも見てから、適当な店に入ろうと思った。
 ギャラリーは古いビルの一階部分にあり、目立った看板もないから、通り過ぎそうだった。かろうじて通り過ぎなかったのは、真っ白な内装が視界の端にうつったからだ。あ、ホワイト・キューブ。足を止めて中を覗くと、白く塗られたビルの内側は、机があるだけでなにもなかった。
 ――いや、人が一人、立っていた。真っ黒い短髪に、白いTシャツ、ベージュのワークパンツをはいていた。浅黒い太い腕、そこに真白いカラーの花束を抱えている。うつむいていたが、羽村に気付くとウインドウの外へ視線を投げ寄越してきた。ガラス越しに目が合う。
 はっきりと濃く、太い眉。意思の強い瞳。多少の無精ひげは相変わらずで、精悍に口元を引き結んでいる。そのくちびるが「あ」のかたちにひろがり、強い瞳がまるくひらかれた瞬間、羽村はその場を逃げ出した。いや、いることは予想済みだったけれど、あんな風にホワイト・キューブの展示品みたいに現れるのは、予想外だった。走る走る。路地の裏まで、心臓も走る。
 池田白藤(いけだはくとう)。
 その名を心の内側で唱えるのも久しぶりだった。
 まだ心臓が鳴っている――急に走ったりなどしたからだ。



→ 後編




拍手[55回]

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
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