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帰宅は午後十一時をまわってしまった。家のどこにも明かりがついていないから綾はとっくに寝たのだと思っていたら、居間に電気もつけずに綾が座っていて驚いた。居間の蛍光灯をつけた透馬を見て、顔をしかめた。おそらくは羽村の部屋で過ごしたにおい――飲酒や、食べたものの脂ぎって濃いにおい―がしていて、それを快く思わなかったのだろうと察しがついた。
引越しの荷物はすでに最低限を残して実家へ送ってある。ここに置いて行くのは、伯父が学生時代につかっていたというものを譲り受けた広い天板の学習机と椅子、透馬がこの家で暮らした学生時代のあれこれだ。あとは明日、必需を鞄に詰め込んで特急に乗ってこの家とは永久にさようならだ。
この時点で透馬はもうあきらめていた。これから待ち受ける日々に対して、期待するだけ無駄である、と。綾との暮らしと、夢とを望めないのだから、せめて綾がこの家で静かに暮らしていってくれることだけが透馬の願いだった。それを壊さぬように、そっと幕引きをするつもりでいる。
「明日」と綾が切り出した。「誓子が家まで迎えに来ると電話が入った」
「……母さん、来んの?」
「荷物があるだろうから車で来るそうだ」
「……べつに大方は送っちゃったんだし、付き添われなくたって行けるよ」
「まあ、あんまり厭わずに…誓子がそうしたがっているんだから、甘えてやれ」
鼻から深く息を吐いて、綾は立ち上がった。「飲酒はだめだよ」とだけ言って部屋を出て行った。これが最後の夜だ。なんにもねえよ。――どこかで綾に引き止めてほしい思いがあったのだ、と自覚する羽目になって、むなしかった。ガラス戸に背をもたれさせ、ずるりと座り込む。
「――っ、う、」
ついに涙が出た。悔しいのか、悲しいのか、淋しいのか、憤っているのか。
綾がほしかった。しかしそれは叶わなかった。綾の心は暁永のもので、だが暁永はこの頃は姿を見せない。綾が体調を悪くしていると必ずやって来ていたくせに、天然の嗅覚が鈍っているのか忙しいのか、ここ一年ぐらい見ていない。しかしそれでも綾は暁永が好きなのだ。
大学にだって、行きたくなかった。望まない進路、透馬にとって面白みを感じない学部でなにを学べというのだろう。だれる日々は安易に想像がついた。本当はきちんと学びたいことがあるのに、諦めなければならない。青井がおかしなことを強いるから、綾の暮らしを守りたいから。
Sヶ丘の家になど戻りたくない。父親と顔を合わせるのも嫌だ。嫌だ。身がよじ切れるような痛みを必死で抑え込んで膝を抱える。叫びだしたい思いをこらえて、皮膚に爪を立てる。
どうして、どうして、どうして。
ほしいものはみな手に入らないのだろう。望んではいけないのだろう?
誓子は昼ごろやって来た。透馬の荷物を詰め込み、誓子と綾の車の二台で家を出て、国道沿いのファミリーレストランで昼食を取った。三人ともほぼ無言で、料理の味を透馬は覚えていない。なにを食べているのかも定かではなかった。現物を目の前にしているのに、これが食事だという現実味がない。
レストランを出ていよいよ別れる、という時に、綾が透馬を呼んだ。胸がざわめく響き、寝不足も相まって頭ががんがんと痛んだがちゃんと顔をあげて綾の顔を見た。
三月、まだ桜は咲かない。この時期って絶対に誰かとさよならしなきゃいけなくなるから嫌いだ、と言っていたのは確か羽村だ。羽村の家には古い梅の木があり、それが花をつけてにおいをそこらじゅうにまき散らしているのだが、そのかぐわしい香りも癪に障る、とのんびりと言い放った羽村。
おれもそう思う、と綾の顔を見て思った。疲れ切った、でも悲しい、いとしい、好きでならない人。
「――ぼくと家を守ってくれてありがとう」
言葉に、こらえきれなくなって涙を流した。昨夜とはちがう、たった一筋だけの重たい涙だった。
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>大好きで毎日読んでます!
ありがとうございます。
とにかく寒いお話ばかりで恐縮です・・・!
これから第2部はもうちょっとだけつらいこと続くのですが、その後にはちゃんと春が来ますので、第3部含めて最後までお付き合いくださいね。
コメントありがとうございました!
栗子
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