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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 コートのポケットにお守りとして群青の小瓶を忍ばせて瑛佑の職場を訪ねたのは一月の半ばだった。電話やメールで呼び出したり、あるいは瑛佑の部屋へ押しかけることも考えたのだが、クッションを置くことで自分の気が後ろへ行ってしまいそうで怖くて、いちばん衝動的になれる方法を選んだ。瑛佑にとってはずいぶんと迷惑だってことは分かっている。ちょうど休憩中だったと言われたことが、救われた気になった。
「――また直撃」
「え?」
「台風みたいな登場の仕方をするよな、毎回」
 しょうもねえな、とでも言いたげに笑ってくれた。それから「戻って来た? また行く?」と訊ねられる。うまく答えられない。
 瑛佑に拒まれればFへ行くし、受け入れてくれたら、どうするんだろう。
 Kホテル裏のビルとビルの隙間に、身体をすべりこませるようにして対面する。仕事だからとぴっちりとあげた前髪としわひとつない制服の清潔な佇まいは、いつでも瑛佑という人間にそぐっているように思う。
 この人と向かい合うと自分が本当につまらなくだらしのない生き物に思えて嫌になる時がある。今日は大丈夫、大丈夫だと言い聞かす。髪は切ったし髭も剃った。服だってきちんと選んで来た。大丈夫だ、と。
 どういう言葉をかけたら良いのか分からなかったが、ひとまず仕事が終わったら時間を作ってくれないか、とは言うつもりだった。メールで済ませられた事柄だったが、返事に逃げられないようにしたかった。だが決意の言葉も出てこない。言い詰まって挙動不審になっている透馬に、瑛佑は「三日ぐらい時間取れる?」と訊いた。
「――え?」
「おれ、来週は連休もらってんの。で、その間に旅行しようと思ってるんだけど、来る?」
「……」行きたい、とすぐに言えない。
「じゃあ、行こう」
 あっさりと瑛佑は決めてしまった。
 行先はK市だと言う。確かに観光地で有名だが、瑛佑が行こうとするにはなんというかありきたりで、似合わないような気がした。「たまには孝行してやろうと思ってさ」と言うからなんのことかと思えば、別の場所に住む実母とK市を訪ねるのだと言う。瑛佑の母親と一緒――仰天した。
「向こうとはK市の駅で待ち合わせしてる。ここからだと新幹線だな。チケットと宿の手配はしておく、また連絡する」
「お母さんって、おれ邪魔じゃない?」
「邪魔なら誘わない。いいか、決まりな。駅まで来なかったら迎えに行くし、電話もしまくるしなんの手をどう使ってでも連れて行くからな」
 そこまで真剣に言われると逃げてしまいたい衝動に駆られる。が、瑛佑は「約束だ」と言うから、透馬は頷く。
「――旅行だよ。楽しみにならない?」
「……瑛佑さん、旅行好きなんでしたっけ」
「最近は国内ばっかりだけど、どこでも楽しいよ」
「Kなら寺社が有名?」
「行った事は?」
「初等部の修学旅行はKだったらしいんですけど、おれは不登校だったから行ってません。初めてです」
「じゃあなおさら楽しいよ」
 ぽんぽんと透馬の肩を優しく叩く。ポケットの中で握っている群青が揺れる。
 どうしてこの人はこんな風に優しく笑えるのだろうと思う。全部が全部、透馬を安心させる。


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 実家に戻ると早々に誓子に叱られた。勝手に仕事辞めてどこをほっつき歩いていたの、と。青井は、と訊くと新春から役員とゴルフだという。そうでなくとも家の中は彩湖の妊娠の話題で持ちきりで、誰も透馬を気にしちゃいなかったことに安堵と落胆を覚える。
 瑛佑に会いに行く前に有崎に呼び出された。
 まず電話がかかり、最寄りの駅まで呼び出された。どこかで食事でも、ああKホテルにしようか、などと言うので本気で抗った。その透馬の様子を見て有崎は微笑し、「じゃあここでいいか」と決めて入ったのはなんの変哲もない、あまりにも凡庸すぎる喫茶店だった。有崎が入るなんて似合わないというか、変なものでも食べたかと思うぐらいに。
 席に着くなりいきなりぽんと封筒をテーブルに投げる。中身を見なくても分かる、分厚い札束だった。
「手切れ金」
 さらりと有崎は言った。
「前回のありゃなんだ。呼び出しといて出来ねえとかほざきやがって」
 Fに行く前、瑛佑から逃げたくて行った衝動のことを言っている。仕事を休んでラブホテルにまで入ったのに足が震えてうずくまり、有崎は酒ばかり飲んでいた昼の話だ。「もうあんなつまらねえことされるのごめんだから、ちゃんと切っとく」と横柄な口調で言われ、透馬は目線をテーブルの上の封筒から有崎に移した。
「退屈が大嫌いだって知ってるだろ」
「うん」
「恋人が出来た途端に連絡寄越さなくなるとか、呼び出しても無視しやがるとか、ことごとくつまんねえことしやがって」
「はい」
「おまえには飽きた」
「はい」
「ああでも、この間の件は慰謝料もらってもいいぐらいのひどい話だったからな、これの半分ぐらいはもらっておくかな」
 そう言って札束の半分をごそっと抜いてしまう。「あとは宿代、移動費、食費、」ぐいぐい抜いて行く。
 結局、透馬の手元には一万円札が数枚しか残らなかった。有崎のけちくさいやり方に透馬は吹き出した。「ひでえ」
「ま、それぐらいあればおまえみたいな庶民中の庶民には相当うまいもの食えるだろ」
「庶民って誰の息子だと思ってる? おれを」
「半分田舎で育っておいて今じゃ縁切れてるようなもんだから間違っちゃいないだろ」
「……この間は本当にごめん」
「謝るなよ、しらける。――いまの謝罪でもう五万だな」
 残りを持って行こうとする手を掴んで、そりゃないだろ、と笑った。「これでちゃんといいもん食うから」と言うと有崎はふんと鼻を鳴らして椅子にふんぞり返る。
「家買えるぐらいは貯まんなかっただろうが、まあ、色々と足しにはなったろ」
「……有崎さんって実は真面目な人だよね」
「ああ?」すごい顔で睨まれた。心底うっとうしげだ。
「いや、なんでもない」
「それともう一万足しとくか。これは寄付」
「え?」
 ぱん、とテーブルの上に一万円札を置いて言う。「いまの髪型、すげえださいからやめろ」
 困って、笑ってしまう。Fの家が潰されてしまうと聞いてからまったく散髪に行っていなかったから、髪がうざったく伸びている。ものが食べられなかった一時期に比べれば体重は戻ったが、身なりは心底どうでもよくなった。今日だって適当なシャツとジーンズだ。
 運ばれたコーヒーに手も付けずに去っていった有崎の後ろ姿を見送って、透馬はきちんと食事をとった。時間的にモーニングセットが注文出来たので、それを頼む。トーストとゆで卵とコーヒーというありきたりなセットだったが身体に沁みた。それから今日は散髪に行こうと決める。


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 ポン、とインターフォンが鳴り、続けざまに「こんにちは」と声がした。気持ちを逃すように外へ出ると柿内が立っていた。「あけましておめでとう」と言って柿内が取り出したのは、タッパーに詰められた手打ち蕎麦だった。
「昨夜余分に打ったやつ」
「おばさんが打ったんだ?」
「なまものだから早く食ってくれって」
 あがるかと訊ねると首を横に振る。これから明日の初売りの準備に出勤せねばならないという。タッパーとは別に茶色の封筒も寄越すのでなにかと思えば、「写真」と答えた。「出来が良かったからちゃんとプリントして持ってきた」
「いつの?」
「十一月? だっけ。の、家の取り壊しの時の」
「あんな時の」あまりいい思い出じゃない。そうだ確かにカメラを抱えていたなこいつは、と秋の終わりを思い出す。
「あの時色々撮ったんだ。まあ、見てくれよ」
 そう言って手をひらひらと振って行ってしまう。車はアイドリング状態で運転手を待っていた。さっさと乗り込んでしまう背に声をかける。
「どうせ遅くまでだらだら飲んでるからさ、仕事終わったら来いよ」
 にやりと笑い、鋭くクラクションを鳴らして車は去った。
 再び新花と川澄の元へ戻り、川澄に手打ち蕎麦を渡す。早速ゆでる準備に取り掛かる。新花は「なんだ柿内くん帰っちゃったのね、つまんない」とくちびるを尖らせ、透馬がまだ手にしている茶封筒を「見せて」と催促した。
「あら、家がまだ建ってる。柿内くん、取り壊しの前から記録していてくれたのね」
 一枚目を見て新花が言った。夏ごろだろうか、強い日差しの中に緑が反射しながら覆い繁り、埋もれるようにして真城の家があった。もしかすると瑛佑を伴って帰省した前後かもしれない。瑛佑を思い出し、心臓がつきんと痛む。
 二枚目、三枚目と家の写真が続く。かと思いきやいきなり透馬の後ろ姿が出てきた。柿内の部屋で窓の外を眺めている。服装からして先日の取り壊しの日の透馬だった。紺色のパーカーにベージュのチノパン、ボーダーの靴下。寝癖のついた後ろ髪。
 五枚目になって綾と暁永が出てきた。新花も交えた三人おなじ格好で家を見つめている。六枚目、家から出てゆく重機。ものものしさに迫力を感じる。七枚目、花。透馬と綾が手向けた花束。
 八枚目は、透馬と瑛佑だった。
 横からのアングルで、うつむいた透馬は手だけを瑛佑の胸に置いている。瑛佑はそれを見ている。ドットとドットで出来る影は荒く、表情までは仔細に読み取れなかった。不明瞭で焦点の定まらない写真はしかし、痛烈なものがなしさを語っている。
 九枚目は柿内が空へ向けてぱちんと撮った写真で、電信柱と空の一枚ですべて終わっていた。物語をひとつ読ませられたような気持ちだった。家にまつわる人々の、集合と霧散。
「透馬」
 新花に頭を引き寄せられ、情けなく涙の落ちる目元を衣類の袖で慌てて拭った。
「帰らなければね」
「……」
「瑛佑さんに会いたいでしょう」
 うん、と頷く。頷いてしまえば気持ちは決壊し、溢れる。そんなのずっとずっと思っていた。会いたい、とも、行かねば、とも。瑛佑の顔を見ないで、この先は暮らせない。
 胸がずっと痛いのは恋をしているからだ。苦しいのは瑛佑が優しいからだ。不安と期待で心が揺れる。どうしていいか迷っていながら、どうしても会いたい。
 いつの間にか傍らに立っていた川澄が、「帰るんじゃなくて作れば?」と言った。その台詞が意外で、顔を上げる。
「ほしいものや場所を手に入れる、んじゃなくて、自分で作れば」
「……つくる」
「壊されても作る術を知っていたら、また直せるし。何度も」
 ぶしゅう、と鍋が吹いて慌てて川澄は調理台へ戻った。「ふうん」と新花が頷いている。作る、と言って透馬が思い描いたのは家だった。それはずっと思っている。自分を傷つけない、自分だけの家がほしい。家族がほしい。
 もう一度写真を見つめる。瑛佑と透馬の姿はおぼろげで、消えてしまいそうだった。あれから何か月経っている? もう一月? まだ間に合うかと心が急く。
 内心の焦りとは裏腹に静かに泣き続けている透馬の髪を、新花がまた撫でた。
「作るっていいわね」
 そのためには帰らなければね、と言われて、透馬は頷いた。


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 更地になった家に用事はなく、いつまでも柿内の家に世話になるわけにもゆかず、でも帰る踏ん切りもつかずで、考えた末に新花の元に留まる事にした。透馬と同じく家を失ったこととなる新花は現在、自らがパートナーと定めた男の家にいる。元々は真城の家と男の家とを行ったり来たりしていたらしいから、いっそこのまままとまってしまえばいいのに、と思う。男、名を川澄と言うが、川澄は穏やかでまじめで純朴、新花とはよく似合っていた。
 川澄は雑誌の編集者から作家として活動をはじめた男で、おおかたは家にいる。家事を受け持ち、ただ居候の身である透馬の存在もうざったがらずに良くしてくれた。食事さえも作ってくれたので、透馬はなにもかもを放棄した。考えることも、誰かと交流することも、身体を動かすことも。
 十二月初旬、寒いと思ったら雪がどかっと降った。粉雪なんてかわいいものではなく、重たく湿ったしつこい雪だ。こんな雪はこの辺りでは珍しかった。雪が降る前にはひどい風も吹いて眠れないぐらいだった。
 その休日は雪かきで手一杯になった。新花だけが「さむーい」と言って家に閉じこもって編み物をしていた。クリスマスまでに川澄に靴下を編んでやるのだと言う。考え事をしたい時に手先の細かいことをするのが新花の癖で、唯一の趣味と言っていい。
 白とグリーンの編み込みが出来てゆく様はなかなか見事だった。出来が良さそうだったので「おれにも編んで」と言ったら「肩がこるから嫌」と無下に断られた。雪かきの合間、川澄がこたつに仕込んでおいた甘酒を飲みながら新花の手指を眺める。その器用さに、ふと、最近はさっぱり描いていないが絵を描きたい気持ちに駆られた。
「いつ帰るの」唐突に新花が訊ねた。
「いつっていうか、帰るって言っても、」
「ばかな意地張ってないでさっさと謝りに行きなさいよ。他人のことはよく観察して見てるのに、自分自身が他人にどう思われているのか疎くて考えが及んでいないんだから。―瑛佑さん、どんな気持ちでいると思う?」
 新花の言う通りなのでなにも反論できない。「なくすわよ」とあっさり言われ、ぞっと鳥肌が立った。なくしてもいいと思っているからここにいるのに、そんなわけがなかった。
 瑛佑はどんな気持ちで日々を過ごしているのだろう。クリスマスシーズンだから忙しいのかもしれない。去年の今頃は楽しかったな、と思い及んで、懐かしくなった。まだ瑛佑とは付き合いが浅く、秀実や日野や高坂や柳田や、とにかく楽しい人たちと楽しいことばかりしていたあの日々。
 クリスマスに突然プレゼントなんか送りつけて、迷惑だっただろうに。喜んでくれた。瑛佑の誕生日にはきちんとそれを返してくれた。恋の喜びなんかはじめて知ったんだよ。あんなに煌いて楽しくてせつなくて泣きそうだったのは、生まれてはじめてだった。
 なくすだなんてとんでもない。でもいまさらどういう顔をして瑛佑に会えばいいのだろう。求めてしまえば、応じてくれるんだろうか。また失いはしないか――様々な気持ちがめまぐるしくまわり、うまく思考がまわらなくなる。
 いま会ってもまだ、好きだと言ってくれるだろうか?
 たくさん言われてみたい。透馬のものだと、どこにも行かないし失わないと約束してほしい。
 思いきり愛されたい。不安はなんにもないんだって、瑛佑のあの口調でしっかりと言われたい。


 年末年始も新花の(正確には川澄の)家に世話になることにした。二人ともどこかへ出かけたりあいさつ回りに行ったりはしないと言うからだ。正月は家族みんなで特別なことを、という記憶が透馬にはない。実家にいる頃は会社の人間がひっきりなしに訪れるのが嫌で部屋に閉じこもっていたし(そもそも透馬のこういう臆病さが青井の気に障ったのだろう)、Fに来てからはほとんど綾と二人だった。年末だろうが年始だろうが平日と同じ。おせち料理や餅を食べて初詣に出かけ、そういう思い出はない。冬休みはただただ静かな印象がある。この季節は淋しさとは違う、別の涼しさを心に感じる。
 川澄はまめで凝り性、なんでも自分の手でやってしまう。「手伝う?」と訊かれて頷いたら、正月を迎える手本をそっくりそのまま教わった。大掃除はごく簡単に(この時期ここでやるには寒すぎる上に、日頃川澄がまめに片付けているので特別な掃除の必要を感じない)、花を飾り松を飾り、餅を床の間に置いて重箱におせち料理を詰める。煮豆、数の子、昆布、海老、伊達巻玉子。こんなに作って誰か呼ぶのかと思いきやさらりと「新花さんが喜ぶからね」と言われ、当然のような心の温かさに胸がつきんと痛んだ。そういう人を新花は見つけられたのだ。透馬がずっと欲しいと願っているものが、新花の傍にはある。
 元旦の早朝に市外にある神社へ揃って初詣に行き、お参りを終えてから三人で宴会となった。こちらでは見かけない、舌触りがさらりと上品な日本酒が振る舞われる。「瑛佑さんからお礼にって贈られて来たのよ」と新花が言い、思わずそれを吹き出しそうになって、こらえてむせた。
「吐かないでよ」
「――なんで瑛……」
「お礼だってば。この間お世話になりました、よい年をお迎えくださいっていう。こっちじゃ見かけないわと思っていたら道理で、お母さまが住まわれている土地の地酒なんだって。わざわざ取り寄せてくださったのよ」
 美味しいわね、と新花は頬を染めながら言う。川澄も頷いていた。胸をさすりながら動揺していた。透馬が新花宅にいることは伝えていないが、新花のことだから筒抜けなのだとは思う。それにしても新花にはこんな風に関わっておいて透馬自身にはなにもないとか、ずるいというか、大人すぎないか。「待っているから」といつか言われた台詞がよぎり、確かに「待ち」の姿勢であることは嬉しいのだけど同時に淋しい、と両極端なことを思う。瑛佑のことを考えるとどうも女々しくなって嫌だ。


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 では、瑛佑の元へ戻りたいと言えばいいのだろうか?
 家は失った。大好きだった伯父はまた、Fで暁永と暮らし始める。全部透馬のいないところでまわる。透馬だけが過去にすがって身動きとれないまま、周囲は星の速さで透馬を置いてゆく。
 透馬がほしいものをいま口にして、瑛佑が戸惑うところだけは見たくなかった。
 まだ怖い。臆病だから。また失うかもしれない。欲しいと思うものは全部叶ってこなかった。
 だったら本当に手に入る前に失ってしまった方がいい。両手はからっぽの方がいい。
 黙り込んだ透馬の手を瑛佑はそっと下ろした。でもまだ離さないでくれている。
「――本当のことは、でも、透馬の口からちゃんとききたい。本心を」
 本心、という台詞にびくっと肩が引き攣った。瑛佑に伝えたいこと、伝えるのが怖いと思っていること。
「ちゃんと話してくれるの待ってるから」
「……」
「約束だ」
 そう言って強引に指切りをしてくる。泣いてしまいそうで、顔があげられない。
「おれは先に帰ってる」
 手が離れた。そうだこの人にも暮らしがあるのだ。わざわざFまで来てくれても、また帰らねばならない。
「待ってる」
 瑛佑は透馬の背後へと目線を動かした。業者からの引き継ぎを終えた新花に「ありがとうございました」と頭を下げる。透馬の脇をすれ違う時、思い出して慌てて腕を引いた。瑛佑が驚いた表情でこちらを見る。
「――鍵、返しそびれてたやつ、」
 ポケットの中を探る。瑛佑は一瞬だけ遠くの光を見るような表情をした。
「持ってろ、ばか」
 本気で叱る口調だった。行ってしまう瑛佑の後ろ姿を見て、そういえばマフラー、と思い出した。あのまま持ってゆくつもりなのか、忘れているのか、言い出せない。
 それからスケッチブックも多分、部屋に置き去りのままだ。
 綾からもらった大事なスケッチブックを、捨てようと思いつつ考えあぐねていた。お守りみたいなもので、あれがあるから透馬はいつまでたっても未練を引きずっているし、同時に守られているとも感じる。鍵、マフラー、スケッチブック。他にも瑛佑の部屋に残したものはたくさん、瑛佑から預かっているものもたくさん――それらを清算つけねばならないかと思うと、悲しかった。ちゃんと自分たちは恋人同士だったんだと知れて。
 Fに残ると言っているのはただの虚勢で、具体策もない。このまま柿内の家に居候か、部屋を借りるか。貯金はそれなりにあるからしばらくは大丈夫だが、仕事を見つけなければ暮らしてはゆけない。いずれにせよ、このまま一度も帰らないわけにはゆくまい。
 新花と瑛佑は先に車に乗って行ってしまった。再び暁永と綾が近付いてくる。二人とももう帰ると言う。
「透馬、どうするんだ」
 暁永が聞いた。今日はどこへ帰るんだ、という意味かと思ったが、暁永は笑っている。
「いい人そうだな。こんなところまで来てくれてさ……喧嘩、さっさと仲直りしろ」
 どうやら新花の説明でそういうことになっているようだった。確かに犬も食わないその類かもしれないのだけど、…いやもう別れるのであって。
 考え込んでいると、暁永は「まあ、帰ろうぜ」と肩を叩いた。手向けた花をいつの間にか回収している。置きっぱなしではごみになるからと、儀式の後は持ち帰るのがこの近辺ではならわしになっていた。
「柿内くん、だっけ。寒そうにしてる」
「――あっ、」
 言われてようやく存在を思い出した。ひょろりと背の高い柿内は、電信柱のごとく北風に打たれて震え、傍らで待っていてくれていた。
「さみいな」
 傍に寄ると、柿内は鼻をすすった。
「帰って早く風呂入ろうぜ」
「うん」
「めし、なにかな」
「おばさん、手伝ってやんなきゃ」
 じゃあこれで、と言って暁永たちと別れた。きっともう会わない、と心の中で呟く。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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