忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「はーるよこい、はーやくこい、あーるきはじめたみーちゃんが」
 と歌いながら透馬は鍋の手入れをしている。「これがあるとないとじゃ料理の質が全然ちがうんすからね」とあんまりに力説するから買った、ほうろう引きの鉄鍋だ。透馬の言う通りに今夜の夕飯に登場した煮豚はとろりとやわらかく、白米をおかわりした。機嫌よい背中を見て、瑛佑もふうと息をつく。
 ハスキーな地声は、歌になるとやや跳ねる。ころころと坂を跳ね転がるかのような独特のくせがかわいらしい。音痴の部類でカラオケは苦手だと言っていたが、こうして口ずさんでいる分には十分魅力的な歌声だ。
 それにしてもずいぶんと懐かしい曲を歌う。定番と言えば定番、年寄りくさいと言えばそう、瑛佑よりも年下のくせに妙に古風なところは、一体だれに教わったのか。楽しんでいる背中に笑うと、透馬は歌うのをやめて振り返った。
「だってあまりにも機嫌いいし、微妙に時期外れだし」
「ああ。今日うたうなら『はーるがきーた、はーるがきーた』の方、すかね」
 今日は特にあったかかったすからね、と真面目に言うのがまたおかしい。だからどうしてそんな童謡ばかり出てくるのだろう。今時の二十代、というか三十歳目前、はやりの歌謡曲だって知らないわけじゃないだろうに。
 透馬にはこういうところがある。階段でじゃんけんをして遊んだりしりとりをしだしたり。先日はなにを思ったのか「腕相撲しましょう、腕相撲」と言い出し、持ち前の非力さを見事に発揮して瑛佑に完敗だった。花を愛おしむ習慣も字がやたらと綺麗なところも、妙に古さを感じるというか。
 透馬の由来を思い少し胸が痛んだが、過去があるから透馬のいまがあるのも事実だ。ひとまず今日の機嫌のわけを尋ねると、透馬は「いいことがたくさんあったから」と嬉しそうに答えた。
「まず夢見が良かったんすよ」
「へえ」どんな夢だ? という意味をこめて首をかしげる。
「瑛佑さんに超色っぽい顔でおねだりされる夢」
 思わず吹いた。ばあか、と傍にあったクッションを投げつけると、透馬は「夢すから、夢!」と笑う。
「――他には?」
「電車乗ったら飛行船が飛んでました。なにかのイベント案内だったんでしょうけど、おれあんな風にちゃんと飛んでるところ見るのはじめてで、興奮しました」
「飛行船か」確かに滅多に見ない。「でっかくてかっこよかったんすよ」と感慨深げに言い、その様子に、ちょっと見てみたかった、と思う。
「あとはついに、駅裏の花屋で顔を覚えられました。店員さんにサービスしてもらって」
「ああ、それで」玄関、窓枠、トイレに洗面台とあちこちに花が活けてあった。どれも一輪だけだが、シンプルで好感が持てる。透馬らしい愛で方だ。
「で、瑛佑さんがケーキ買って帰って来てくれたから、ご機嫌最高潮です」
「なにより」
「うれしいと歌がうたいたくなりますよね」
 そう言って重たい鍋を棚に仕舞い込む。「シャワー浴びます」と言って消えたが、浴室の方からまたのびやかな歌声が聞こえた。「はーるの、うらーらーの、」と知っているフレーズが聞こえ、つい笑ってしまう。生まれる時代間違えていないか。
 まだ片付けの半端な部屋を見回し、さて少しは整理をするか、と透馬の歌を遠くに聞きながら立ち上がる。
 引っ越して三日目、いまは「春の青井透馬おめでとう週間」開催中だ。一体なんなんだ、春の、と言うからには夏も秋も冬もあるのか、と突っ込み満載のネーミングは透馬によるもので、きっかけは「引っ越し祝いと透馬の誕生日祝いをしよう」だったはずだが、「誕生日は自分がいちばん嬉しいと思うことをする日」を持論とする透馬が「一度でいいんで一週間ぐらいぶっ続けでちやほやされまくりたいです」と言うからそういう流れになった。この一週間、透馬は「いちばん嬉しいと思うことをしまくる」そうだし、瑛佑は透馬をとにかく甘やかしてやる話になっている。飽きやしないかと思ったが、飽きたら飽きたでそれまで、とにかく透馬が楽しそうだから瑛佑は満足だ。「仕上がりの違う鉄鍋で作る絶品料理」もそのうちのひとつだし、ケーキを買って来たのも、花を買うのも、いまが甘やかし週間だからだ。一週間が終われば落ち着くのかどうかと考えるが、透馬の言う「ちやほや」があまりにもささやかすぎて続いてしまいそうだと思いながら。
 段ボール箱から本を取り出し、先ほど組み立てかけたまま中断となったラックを作り直して、収める。透馬の私物があれやこれやと混在するのもはじめてだ。今までは家出青年、いつどこでも泊まれるように荷物は最小限だった。好きな写真家の写真集や、気に入りの歌手が特集されている古い音楽雑誌や、好んでよく着ているファッションブランドからのDMを大事に取ってあること、作業用の机はちいさくても構わないから絶対にほしいと譲らなかったことなど、いままで知らなかった透馬を今回の引っ越しでたくさん知った。知れたことが嬉しかった。
 嘘のない透馬は、素直で豊かで、やっぱり愛おしかった。
 一緒に暮らせることが嬉しいと、浮かれているのは瑛佑の方だ。誰かと日々を分かち合うことは歴代彼女ともなかった。声を聞きたいと思う時に名を呼べば振り向いてくれる幸福。鈴って言ったかな、とどこかで聞いた昔話を思い出す。鈴は神様へ向けて鳴らす幸福を呼ぶもの。だからいまそれは二人の間で鳴りっぱなしなんだろう。
 ころころと跳ねる透馬の歌声。そのものじゃないかと思いながらまた次の段ボールをあける。


→ 中編





拍手[69回]

PR

「瑛佑さんと暮らしたい。――瑛佑さんと家族になりたい」
「透馬」
 瑛佑の腕が伸び、透馬の額に当てられる。優しく髪を梳き、顔をあげるように促される。こんなみっともない顔など見せたくなかった。
 顔をあげたら、瑛佑の顔が見えた。瑛佑もまた涙を一筋こぼしていた。細い目がきつく歪められている。横を向いて鼻をすすり、もう一度「透馬」と呼ぶその身体に、透馬は飛び込む。
 眼鏡をむしり、肩口にすがって顔を押し付ける。瑛佑もまた透馬の背中に手を回し、強く抱きしめてくれた。隙間なく埋めあうように力をこめる。痛いぐらいで実感する、この人が必要だということを。
「ようやく言った」と瑛佑がこぼした。声は情けなく緩んでいて、上ずっていた。それが嬉しい。
「今度こそ本音だよな」
「――はい」
「おれもきみと家族になりたいぐらい、きみがすきだよ」
「はい」
「すきだよ……」
 入れっぱなしの力を一度抜き、身体を組み替えてまた抱きしめあう。どくどくと透馬の耳の横でうなる瑛佑の首筋の動脈に、頬をすり寄せる。動物が身体をすりあわせるみたいに、原始的で純粋な行動だ。瑛佑は透馬の髪にくちびるを寄せた。それがたまらず、またさらに力を込める。
「もう逃げたりなんかするなよ」と瑛佑が言う。その声で、今度こそ失いはしない、という力強さが身体に沸いた。
「透馬の声、ちゃんと聞いたから」
「はい」
「言いたいことも言えないこともなんでも全部おれには話して」
「約束します。……瑛佑さんも、約束してください」
「うん、なに?」
「おれから急にいなくなったり、しないで」
「……じゃあ、逃げないでちゃんと掴んでおけよ、透馬が」
 そう言って瑛佑は、胸の前で手と手を結んだ。瑛佑の言う通りだ。透馬は笑う。
 出来た隙間はしかし、すぐに片腕同士引き寄せあって、埋めた。
「ありがとう」
 Fまで迎えに来てくれたこと、今日ここに連れてきてくれたこと。透馬を受け入れてくれたこと、愛してくれたこと。全部に心をこめてお礼を言いたい。
 抱きしめあっている身体はずっと震えていた。そのか細く小さなふるえは、瑛佑に恋に落ちた瞬間の痺れとよく似ている。いまはこれをひとりで抱え込まなくていいのだという安心感で、身体がぬくく眠たくなる。
 一通り泣いて涙が乾くころ、ようやく我に返る。「お取込み中のところわるけれど」と後ろから声をかけられ、貴和子の存在を思い出した。ここは瑛佑の部屋でもなければFでもなく、貴和子の家なのだ。
 息子が男を抱いて涙しているところなど母親が見たら絶叫ものなんじゃなかろうか――自分たちを客観視できるぐらいの冷静さを取り戻して振り返ると、貴和子はなんとも言えぬ表情で腰に手をあてて二人を見ていた。
「仲直り、済んだ?」
「済んだ」答えたのは瑛佑だ。泣いていたおかげで、声が少し枯れている。慌てて瑛佑の身体から離れ、「すみません」と謝る。
 貴和子は「なにを謝るの」と軽やかに笑った。
「お茶、とっくに入ってるけど冷めちゃったから入れ直す。あまいものを食べましょう。その前にふたりとも洗面台へどうぞ」
 と、タオルを渡され、促される。微妙な気まずさを抱えたまま順番で顔を洗う。ふと、透馬の後で水場をつかっている瑛佑のかがんだ後ろ姿に、そっとおおいかぶさった。
 顔を洗う動作をやめぬまま、瑛佑は「どうした?」と優しく答える。そのやわらかな言い方に胸が絞られ、また泣きそうになる。
 なにか言いたいのに、なにを言っていいのか分からない。でもきっと、なにかを言わなくてもいい。腰に回した手に力をこめると、悩ましいのが伝わったのか、瑛佑がちいさく笑った。
 笑い声と、つたわる振動。腹の奥がぽっとあたたかくなる。ああこれなんだと実感した。恋の向こうにあり、みなが手にしているごく当たり前で、実はとても難しいもの。
「早く帰ろう」と瑛佑が言った。
「お茶飲んで、一息ついて、帰ろう」
「……おれ、」
「秀のとこ行って、預けてたトーフ取り返さなきゃ。みんな透馬に会いたがってる」
 どこに帰るのか、野暮なことは聞くな、という当たり前の口調だ。透馬も笑った。これが幸福なんだと実感を噛みしめながら。


「まったくもう!」と誓子が怒っている。最近はほとんど家に帰らず連絡も寄越さなかった息子が突然帰って来て部屋を片付け出すからだ。怒られてばっかりだと思いつつ、それが嬉しい。誓子がこの家でも元気だと知れて。
 あまり持って行く荷物らしいものはないのだが、処分だけは自分の手で行いたかった。雑誌、衣類、雑貨、それらを手際よく分別し、まとめてゆく。
「いきなり帰って来たと思ったらいきなり」
「母さんさっきからそればっか」
「引っ越すだなんて、驚くわよ、そりゃ」
 そう言いながらも誓子も透馬を手伝ってくれている。家政婦に声をかけ、段ボールやごみ袋やビニールテープやと必要なものをこまこまと運び入れたり出したりする。
 車は借りてきている。家から出てきたものは、あたらしい部屋に運び込む手筈だ。当面、引越しでばたばたとするが、落ち着く暇はない。再就職先もなんとか決まった。事務職だが、家具メーカーだ。念願の。
 一月、瑛佑との旅行から帰って来てしばらくはずっと瑛佑の元で暮らした。その間に就職活動を行い、二人で暮らす新居も探しなおして、四月はじめ、ようやく色んなことが決まった。もっと時間がかかるかと思っていたから、思いのほか早くて嬉しい。同時に、浮かれて失くさないようにと気を引き締める。少しでも緩んで失いたくない。これから瑛佑と作ってゆくのならばなおさら。
「引越し先はどこ?」と誓子が訊いた。心配そうな顔に、笑ってやる。
「教えたら母さん、来んの?」
「来てほしくないっていう意味かしら」
「一緒に暮らす人がいるからさ。電撃訪問はやめてほしいなって」
 一緒に暮らす人、と言えることが喜びだった。誓子は首をひねる。
「ルームシェアでもするの?」
「いや?」
 四月、桜が咲いた。大嫌いな家だが庭に重たく花がついているその様子は見事だ。気まぐれに舞う花びらと空の青とのコントラストが綺麗で、これを見られただけで実家まで戻って良かったな、と思う。
「すきな人と暮らすんだ」
 暮れに二十九歳になったお祝いを、今夜は兼ねる。透馬の誕生日祝いだから、透馬が好きな事をしていい日だ。誕生日プレゼントはすでにもらっている。瑛佑と暮らせる毎日。
 新居の窓辺には群青の小瓶と花を置きたい。鍵にぶら下がるのは木馬のオーナメント。壊れたらまた補修する。引越しにはあの椅子もブランケットも運ぶ。ネコのトーフもいる。
 みんなある。大切なものが、透馬の傍にいる。瑛佑に会えてよかった。




End.



← 99


拍手[134回]


 旅の終わりは貴和子の実家だった。S市にある家まで貴和子を送って行き、少し話をした。いまは貴和子ひとりで住んでいるという家で、庭の寒椿が花を落とさず迎えてくれた。こげ茶の中型犬を飼っていた。胴回りの太い年老いた犬で、はじめこそ透馬に吠えたが、しばらく傍にいると懐いて湿った鼻先を手に押し付けてきた。誘われたような気がして、小さな庭に出て透馬はずっとその犬を撫でていた。
 夕方発の新幹線までまだ少し余裕がある。たった数十キロの距離なのに、K市とS市とでは気候が全く違った。ぽかぽかと暖かく、布団でも干せそうな日和。外にいるのにマフラーを取り、上着のボタンも外した。
 貴和子は台所で先ほどKで購入した和菓子とお茶の用意をしてくれている。手伝おうかどうしようか迷ったが、瑛佑の傍にいたくてやめた。瑛佑は縁側に座り、犬とたわむれている透馬を頬杖ついて眺めている。縁側にまで積み重ねて出されたたくさんの本に囲まれて、やや窮屈そうだ。
 大学教授をしている貴和子の家には大量の本があった。新花の家も大体こんな感じで、懐かしい。決意して息を吸い込むのと、瑛佑が「そういえば」と口火を切るのが同時だった。
 瑛佑の方を振り向く。
「秀の式の日取り決まったよ」
「え、いつ?」
「五月。ガーデンウエディングだって」
「瑛佑さんの職場で、ですか?」
「いや、時期が良いから塞がってて無理だった。でもうちの系列の催事場だよ」
 頬杖をついたまま、でも的確に喋る。少し眠そうだ。微妙な空気のまま二日も同じ部屋で眠ったから、眠れていないのは瑛佑も同じだと知っている。
 近寄っていいのか、迷う。犬を撫でるのをやめ、ズボンで手の汚れを軽く払って立ち上がる。瑛佑は「透馬も呼ばれるよ」と言った。
「おれなんかが行っていいんですかね」
「なんかって言うなよ。秀が泣く」
「雨降らないといいですね」
「五月って言ってもいちばん終わりの週末だから、少し微妙かもしれない」
 珍しく弱気な発言をしている、と感じた。瑛佑の傍へ一歩、一歩と寄る。「隣いいですか」と訊くと、本をどけてスペースを作ってくれた。そこへ腰かける。
 透馬どうする? と瑛佑が訊く。
「……出ます。行きますよ」
「じゃなくて、これで帰ったら、どうするつもり?」
「……」
「家……」
 言いかけて瑛佑は黙った。実家に居辛いことは百も承知、今後の透馬の行き先を瑛佑は問うている。
 膝の上でぐっと拳を握る。そうでないと膝が笑って笑ってしょうがない。
「家、ほしかったんです、おれ」
 顔をあげられぬまま言う。
「Fの家が。叶わなくても、伯父さんのいる家が、ほしかったんです」
「……」
「本当はずっと家族がほしかった」
 口に出してみたら、言葉は透馬をめちゃくちゃに殴りにかかってきた。ひどい暴力だ。綾への恋心をはじめて口にした時も、その暴力性にやっぱりびっくりした。
 それでも言わねばならない。いま言わないでいつ言うんだろう。瑛佑は待っている。
「おれの言うことに笑って、怒ったり泣いたりして、心配してくれる家族です。おれがいちばん大好きな誰かを、おれが守ってあげたいし、愛したい。誰にも文句なんか言わせなくて、奪われもしない、……やさしくて強い家がほしい」
「……うん」
「それから、その人にめちゃくちゃやさしくされたい。認めてほしい。愛されたい」
「うん」
 瑛佑から透馬には触れてこない。でもわずかに触れ合う肩先から、体温が伝わる。瑛佑がじっと透馬を見ている、熱の視線が分かる。
「川澄さんが」と言った時は、ほとんど泣いていたように思う。鼻の奥がきんきん痛んで、うまく声が発せられないのは発する前から想像ついた。それでも語りかける。
「手に入れるんじゃなくって、作れば、って言ってて……」
「うん」
「おれ、瑛佑さんと暮らしたい」
 ぱたぱたっと眼鏡のレンズに涙が落ち、視界が曲がった。


← 98
→ 100





拍手[78回]


 ほとんど眠れぬまま朝になり、朝食は同じく部屋でとって、また観光へ出かけた。眠れていないせいで頭がぐらぐらした。今日は少し遠出を、と言って、タクシーで向かった先は郊外にある新設の水族館だった。国内では飼育の難しいサメがいるとかで夏に話題になっていた水族館だ。
 ここには人がいた。「文化財ばっかり見ても飽きちゃうでしょうから」と貴和子が言う。「屋内だし寒くはないでしょう」と透馬に微笑む。気を遣ってくれたようだった。
 瑛佑がチケットを買いに行っている間に、貴和子が「瑛佑が友達を連れてくるなんて珍しいのよ」と言った。
「友達がいないわけじゃないんだろうけど、無口で、単独行動が多い子だった。昔からそうでね」
「……分かる気がします」
「今回、元気のない友達がいて、気晴らしに連れて行くけどいいか、って言われた時には驚いた。秀ちゃんだと思ったら全然ちがうし。きみだよね、クレマチスの子」
「え?」
 クレマチス。花の名前がいきなり出て来たので驚いた。
「いつか行った時、瑛佑の部屋に飾ってあったの、きみじゃない?」
「……そう、です」
「やっぱりね。あれはセンスが良くてよく覚えていたの」
 貴和子が誇らしげに笑う。透馬のことを褒められたようで、嬉しかった。同時に瑛佑の部屋のあり方をまざまざと思い出し、胸が苦しくなる。ワンルームの広い部屋、飼い猫のトーフや透馬のあげたブランケット、たったひとつしかない椅子、メンテナンス途中の自転車と油にまみれた工具、ベッドとベッド下に敷いた客用の布団。
 瑛佑が二人の元へ戻って来た時、瑛佑という存在が猛烈に恋しくてたまらず、それは悲しみと淋しさを呼び起こして泣きそうになった。
「ショー、十一時からのはもう間に合わないから、二時からの回だって。あとはうまくすれば餌やりが見れるらしいよ」
「噂のサメが見たいね。――透馬くん?」
「透馬?」
 親子が振り返る。いたたまれず、透馬は「ちょっと手洗い」と言ってその場を逃げ出す。本当に逃げ帰りたかった。いつまで経っても瑛佑にはなにも言えない。自分の臆病さが腹立たしい。瑛佑は待っていてくれているのに、透馬に準備ができない。
 トイレで少し泣いて、むせて、吐いた。口をよくすすぎ、顔をチェックして逃げるな逃げるなと言い聞かす。ひどい顔をしていた。こんな顔で人前に出ようなんて勇気がなく、いつまで経っても二人の元へ戻れない。
 トイレでかなりの時間を要してしまった。出口付近で待っていてくれていた親子は、透馬に背を向けて立っている。人なか、努めて明るく声を出そうと胸に息を吸い込んだタイミングで二人の話している内容が届いた。
「どういう子なの、透馬くんって」
 自分のことを話している。立ち止まり、とっさに通路へと身を隠す。
「情緒不安定?」
「……多分、いまはね。笑うと、いいよ」
「そうね、全然笑わない。――複雑な友達なのね」
「友達、そうだな、うん、」
 そこで沈黙。そっと二人の背中を窺う。瑛佑はうつむいてしばらく、片手で顔を覆い隠した。「友達、じゃない。――つきあってる」
 貴和子がはっと息を飲んだのが、離れていても伝わった。
「つきあってた、かな。ちょっとそこらへん、込み入ってるんだ」
「……恋人ってこと?」
「いま透馬がどう思っているかおれには分からないから。……でも少なくともおれは、すきだ」
「……」
「こんな話をいましてごめん」
 どん、と瑛佑は後ろの壁にもたれた。貴和子は片手で額を押さえ、状況の把握に努めているようだった。こんな話をしてごめん、と貴和子に謝らせた瑛佑にこそ透馬は謝罪したかった。自分の心の弱さと卑怯さと、情けなさ、もうなにもかもが嫌だ。
 瑛佑が好きだ。それはずっと変わらない。
 早く伝えねばならないと思っているのに、口に出せない。叶ってしまって失ったらとても怖いからだ。
 怖いから、なかったことにしたい。感情ごとそっくり全部。
「いえ、大事なこと。場所やタイミングは関係ない」
 しばらくの沈黙の後に貴和子はきっぱりとそう言った。虚を突かれたように透馬も瑛佑も顔を上げる。
「透馬くんの笑顔が旅行中に見たいわ」
「……おれもそう思うよ」
「なにが好きなのかな、たべもの」
「あまいもの、喜ぶよ」
「和菓子? 洋菓子?」
「どっちも。それから見た目も大事」
「おや、意見が合うね」
 じゃあ後で老舗の喫茶店へ行きましょう、と貴和子が言う。透馬は大きく深呼吸して、ようやく二人の元へ合流した。


← 97
→ 99




拍手[69回]


 K駅はとても寒かった。帽子を持って来れば良かったと後悔するぐらいだ。瑛佑から返してもらったマフラーを頼りに、瑛佑の母親との待ち合わせ場所に向かう。瑛佑は北風なんてなんともない、という風に前髪を煽らせている。
 東京駅から新幹線に乗りK市へ。平日だったおかげで座席は隣り合わせで取れたという。車内、三列シートの真ん中に座った透馬は落ち着かなかった。瑛佑になにか話すべきかどうか。それよりも話題はないし、そもそも瑛佑は「待ち」の姿勢なのであって、透馬から話すとすれば避けては通れない話題がある。
 車内で自分の声が通るのも気が引けた。沈黙したまま列車は進む。ふと瑛佑が自分の携帯電話を透馬に寄越した。タッチパネルの画面にはテキストメモが開かれており、そこに『思ったより混んでる』と瑛佑の言葉が記されてあった。
 瑛佑の顔を見る。透馬の手の中にある携帯電話をまた引き取ると、続きを書いて透馬に寄越した。
『席、窓際の方が良かった?』
 受け取って、テキストの続きに透馬も言葉を乗せはじめた。
『ちょっとだけそう思ってた』
『代わる?』
『次の停車駅で』
『朝メシなに食った?』
『目玉焼き』
 ふ、と瑛佑は笑った。『作った?』
『いや、お手伝いさん作』
『そうか』
『瑛佑さんなに食いました?』
『うどん。昨夜秀が来て、また鍋』
『いいすね』
『透馬呼ぼうかと思った』
 と打ちかけて、瑛佑はそれを消した。『昼飯、なに食うか考えておけよ』
 それきりやり取りは続かなかった。瑛佑が携帯電話をポケットに仕舞いこんでしまったせいだ。
 気まずい空気に支配される。浮かれた気分での旅行とはいかなかった。
 瑛佑の母親はK市隣県のS市からやって来ると言う。こちらへ来るまで知らなかったのだが、隣り合う県は電車でたったの三十分だった。瑛佑の母親にとっては旅行というよりは買い物やちょっとしたお出かけ、みたいなものだろうか。待ち合わせ場所の喫茶店に登場した彼女は、ごくベーシックなブラックのコートにブラックパンツ、ブーツといういでたちで、マニッシュで格好良かった。マフラーとコートの裏地がビビッドなえんじ色で、コートの裏地の方には細かな模様が入っている。それが彼女が座る時に翻り、目に鮮やかで印象に残った。
 鋭い目つきに少々威圧感も感じる。たじろいでいるとその目はふっとやわらぎ、「素敵な色のマフラーね」と透馬の巻いているマフラーを褒めた。
「群青色ね」
「……そちらは素敵なえんじ色ですね」
「どうもありがとう。瑛佑の母で吉池貴和子といいます。今回はよろしくどうぞ」
「青井透馬です。よろしくお願いします」
 初対面同士を引き合わせておいて、瑛佑はなにも喋らない。黙ってコーヒーをすすっている。困っていると、貴和子は「楽しい旅にしましょう」と言った。「早速昼食ね。なににしましょうか」
「美味しい釜飯を出すお店があるからそこに行こうと思うのよ」
「……」なににしましょう、と言っておいてそれはもう決定事項じゃないか。と瑛佑を見る。瑛佑はようやく気付いた、という顔で「ああ悪い」と言った。
「こういう人なんだ。優柔不断ってことは絶対にない、全部即決する。今回の旅だってもうプランはこの人の中で決まってるはず。どこか行きたいところがあれば主張は早めに強く言っといた方がいいよ。希望が叶うか分かんないけど」
「……そう、すか」つまり透馬と真逆の性格の持ち主、というわけだ。
「じゃあ行きましょうか」
 早々に店を出てタクシーに乗り込む。
 貴和子の決めた釜飯屋で食事をとり、貴和子の選んだ寺社を三つばかり廻った。聞いたことのない寺社ばかりだったが、冬のこの時期は特に人が少ないようで、その寒々しさが肌に馴染んだ。Fと少し似ている。ひどく寒くて人が少なくて、冬でも空気の色が濃い辺りが。
 瑛佑は全く喋らないし、貴和子はひとりで興味ある方向へ歩いて行ってしまう。三人いて、てんでばらばらだった。普段ならば無口上手を発揮して透馬から仕掛けるところなのだが、今回はその勇気がない。旅はちぐはぐなまま静かに進行した。
 夕方、山間部にある旅館までたどり着き、チェックインの際にようやく口数が増えた。透馬の急な同行で宿は二人部屋と一人部屋という部屋割りで、それをどうしようかで揉めたのだ。
 瑛佑たち親子二人で寝るのか、透馬と瑛佑とで寝るのか。瑛佑と二人きりになれば気づまりになるのは分かっていたが、貴和子は「友達同士気兼ねない方がいいんじゃない」と一人部屋を希望する。結局、ここには二泊するのだから、メンバーがまずければまた替えればいいという話になり、貴和子が一人部屋を、透馬と瑛佑が二人部屋をつかうことになった。夕飯は部屋で、二人部屋の和室へ三人分を運んでくれた。
 大浴場が自慢だというが、そんなの行けなくて、部屋でシャワーを浴びた。瑛佑はひとりで大浴場へ行き、ついでにマッサージまで受けてきたという。小一時間どころか二時間は帰ってこなかった。その間に寝てしまおうかと布団に横になっていたら足音がして、瑛佑が戻って来た。
 テレビと電気は点けっぱなしだったが、透馬が寝たと勘違いしたのかスタンドだけを用意して電源を落としてくれた。それから衣擦れと、ちいさなため息。横で眠るから、なにもかもが伝わってきた。
 心臓が鳴りすぎて痛い。寝たふりをしていれば大丈夫、という気持ちと、話さなければ、という気持ちが混在している。喉がからからに干からびる。水がほしい。
「おやすみ」
 瑛佑はそれだけ言って布団に潜りこんだ。これが明日も続くかと思うと、もたない。言わなければならないのに言えない、触れられる距離で触れられない。もどかしい。


← 96
→ 98





拍手[60回]

«前のページ]  [HOME]  [次のページ»
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501