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「なんでこんなのしようと思ったんだ」
息を弾ませながらトーマに聞いた。
「ん? なんとなくです」
「なんとなくで思いつくか」
「小学生の頃さあ、やらなかったんですよね、こういうの。送迎付きで超真面目に学校通ってましたから。誰かと遊びながら歩くの、してみたかった」
「……そう」
トーマが社長子息だという事実を思い出した。学校もそれなりの私立校に通っていたのだろう。
「ちょっと恥ずかしかったですね。付き合わせて、すいませんでした」
言いだしっぺの癖にそう笑って、また歩き出した。道はそっちじゃなくてこっち、と言いかけたところに電子音が響いた。トーマが尻のポケットから携帯電話を取り出す。分かりやすい音で、電話が鳴っていた。
ディスプレイを見てトーマは顔をしかめた。ちょっとすいません、と手をあげてジェスチャーし瑛佑から一歩離れる。気にしている風なので瑛佑は後ろを向いた。そちらに郵便局のポストがあったので、表示を読んだ。
離れてもこの距離なので、声は聞こえる。トーマは不機嫌そうに「うん、うん」と頷いて、二分で電話を切った。「ごめんおれ行かなきゃならなくなりました」と言った。
「呼び出し、喰らいました」
「仕事?」訊いてはみたが、その可能性は薄いな、と思った。電話口で話す声は砕けており、敬語は一言もつかわなかった。
瑛佑に、トーマは首を横に振った。
「……みたいなのです」
昨夜、常夜灯の下で瑛佑を待っていた時と同じ顔をしていた。
「そうか」
「あの、楽しかったんですよ。めしと、宿と、あと遊んでくれて、すげえ楽しかったし嬉しかった」
必死に言われてなんだか困った。そんなに力いっぱい「楽しかった」を強調しなくても。確かに普段やらない遊びは夢中になれたが、夏休み終了後の子どものようには、興奮は残らない。
また会えばいいのに、と苦笑した。
「レストランも行きたかったです」
「また次な。今度はちゃんと予約しておくから」
あらかじめ電話をくれたらサービス出来るから、と言っていた店のオーナーの台詞を思い出す。
「そんな顔するほどのことじゃないだろう」
「――うん、次は絶対。あ、メルアド、」
「秀実に聞いておれからアドレス送るよ。それでいいか」急いでいる風だったので、そう言った。
「うーん、ヒデくん」困った顔の後に、でも笑った。「ま、ヒデくんに気まずい思いしてるんじゃないしね、問題ないです。あの、絶対ですよ」
「分かったから」
「絶対、ぜったいですよ。また遊びましょう、ね」
そう言ってトーマは手を振り、いまさっき遊びながらのぼった階段を駆け下りてゆく。あれだけ散々念を押しておいて、振り返らなかった。
不思議な男だと思った。また遊ぼう、の台詞で瑛佑は中学校時代の秀実を思い出した。いまみたいに秀実も、別れ際には必ず「また遊ぼう」と言った。淋しがり屋だから、次の約束が欲しかったのだ。
← 7
→ 9
息を弾ませながらトーマに聞いた。
「ん? なんとなくです」
「なんとなくで思いつくか」
「小学生の頃さあ、やらなかったんですよね、こういうの。送迎付きで超真面目に学校通ってましたから。誰かと遊びながら歩くの、してみたかった」
「……そう」
トーマが社長子息だという事実を思い出した。学校もそれなりの私立校に通っていたのだろう。
「ちょっと恥ずかしかったですね。付き合わせて、すいませんでした」
言いだしっぺの癖にそう笑って、また歩き出した。道はそっちじゃなくてこっち、と言いかけたところに電子音が響いた。トーマが尻のポケットから携帯電話を取り出す。分かりやすい音で、電話が鳴っていた。
ディスプレイを見てトーマは顔をしかめた。ちょっとすいません、と手をあげてジェスチャーし瑛佑から一歩離れる。気にしている風なので瑛佑は後ろを向いた。そちらに郵便局のポストがあったので、表示を読んだ。
離れてもこの距離なので、声は聞こえる。トーマは不機嫌そうに「うん、うん」と頷いて、二分で電話を切った。「ごめんおれ行かなきゃならなくなりました」と言った。
「呼び出し、喰らいました」
「仕事?」訊いてはみたが、その可能性は薄いな、と思った。電話口で話す声は砕けており、敬語は一言もつかわなかった。
瑛佑に、トーマは首を横に振った。
「……みたいなのです」
昨夜、常夜灯の下で瑛佑を待っていた時と同じ顔をしていた。
「そうか」
「あの、楽しかったんですよ。めしと、宿と、あと遊んでくれて、すげえ楽しかったし嬉しかった」
必死に言われてなんだか困った。そんなに力いっぱい「楽しかった」を強調しなくても。確かに普段やらない遊びは夢中になれたが、夏休み終了後の子どものようには、興奮は残らない。
また会えばいいのに、と苦笑した。
「レストランも行きたかったです」
「また次な。今度はちゃんと予約しておくから」
あらかじめ電話をくれたらサービス出来るから、と言っていた店のオーナーの台詞を思い出す。
「そんな顔するほどのことじゃないだろう」
「――うん、次は絶対。あ、メルアド、」
「秀実に聞いておれからアドレス送るよ。それでいいか」急いでいる風だったので、そう言った。
「うーん、ヒデくん」困った顔の後に、でも笑った。「ま、ヒデくんに気まずい思いしてるんじゃないしね、問題ないです。あの、絶対ですよ」
「分かったから」
「絶対、ぜったいですよ。また遊びましょう、ね」
そう言ってトーマは手を振り、いまさっき遊びながらのぼった階段を駆け下りてゆく。あれだけ散々念を押しておいて、振り返らなかった。
不思議な男だと思った。また遊ぼう、の台詞で瑛佑は中学校時代の秀実を思い出した。いまみたいに秀実も、別れ際には必ず「また遊ぼう」と言った。淋しがり屋だから、次の約束が欲しかったのだ。
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翌朝はほぼ同時に起きた。寝惚けた眼でお互いを見合い、とりあえず「おはようございます」と挨拶をした。一瞬、本気で誰なのか思い出せなかった。
コーヒーを飲みながら、今日の予定の確認をしてみた。秀実の彼女をしきりに気にするので、予定変更だ。知人がひらいている洋食屋にめしを食いに行こう、と提案すると、トーマは目をぱちぱちと数回瞬かせた後に「行きたい」と頷く。
「夜だけの営業だったんだけど、最近は昼も始めたんだ。昼間でも酒は飲めるから、飲んでもいい」
「でも瑛佑さん、あんま飲めないですよね」
「飲めないのと好き嫌いは別だろ。トーマが羨ましくなったらおれも貰う」
「だったら、遠慮なく」
ようやく見ることのできた笑顔になんだかほっとした。軽く腹ごしらえをしてから家を出た。昨夜の雨はどこかへ消え、秋晴れの、空が澄んで高い朝だった。店に行く前に家電量販店とスポーツショップに寄り、用事を足した。今日のトーマはなにからなにまでを瑛佑に任せるようで、後ろから犬のようについてくる。
街の様々な看板ばかり読み上げていた。「西沢医院この先右マガル」「リカーショップとみた」「あなたの街のオシャレサカイ洋品店」等。普通に読んでいるだけなのだが、リズムがいい。そもそも、一緒に歩いていて看板を読み上げる奴は初めてで、つい笑った。
「無口と過ごすのが上手いんですよ、おれは」
笑った瑛佑を見てトーマはそう言った。
「まわりのやつらみんな無口でおまけに秘密主義。姉貴とか、伯父貴とか、同級生とか、近い人はそんなのが多いなあ」
「そんなにいるか」
「いますいます。無口って、裏返せば聞き上手って言うのかな? 自分のことは喋らなくてさ…おかげでおれはうるさい奴になっちゃった」
「はは。うるさくはないよ。秀実に比べれば全然、かわいい方」
「うーんヒデくんもよく喋りますよね。――あ、だから瑛佑さんは静かなんですかね。おれの周りも、おれがうるさいから」
卵が先か鶏が先かみたいな話だ。トーマの発想がおかしくて、笑い声が漏れる。トーマも自分の思いつきに笑っている。
店の最寄駅で降り、ここから先は十分程度歩く。駅の横手を走る坂をのぼることになる。下から見上げると坂はとても急で長く、トーマはすぐに息を切らした。
「日頃の運動不足が祟っちゃうような坂ですね」
「ちょうどいい腹具合になるよ」
「瑛佑さん、鍛えてんですね。おれ全くなんにもやってなくてさ、職場と寝床の往復だけ」
それから急に立ち止まり、左方向を向いた。瑛佑も立ち止まり、トーマの視線の先を追う。
坂とちょうど並行して、神社の参道が伸びている。なにを思ったのかトーマはそこへ走って行き、「じゃんけんしましょう、じゃんけん」と階段の一番下で振り向いた。
階段でじゃんけんをして勝った方が先に段をのぼれる、懐かしい遊びだ。
「――えっ、それやんの、いま」
普通に歩いて普通に店へ向かうのだと思っていた。こんな遊びは、中学生以降やった記憶がない。
「やりましょうよ。なんか楽しくなってきた」
「きみの年代でもやるか、それ」
「やりますよ。っつかそんなに歳違うわけじゃないですよ」
「もう忘れたよ」
昔の記憶をひっくり返して思い出してみる。回数をこなした覚えがない。グーで勝ったらなにで進むのか、忘れてしまった。
「おれもよく分かんない、忘れました。適当に思いついた単語言ってのぼればいいじゃないすか。せえの、じゃんけん、」
つられて手を出した。トーマがパーを出して勝ち、得意げな顔で「パイナップルはあまくてうまい」とテンポよく呟いて段をあがった。ずいぶんと上がるので大声を張り上げる羽目になった。
「おい、文章アリなの?」
「アリありー」
また、じゃんけんをする。今度もトーマが勝った。グーで勝ち、「グリンピースは嫌いじゃない」と適当なことを言いながらまたあがってしまう。
瑛佑は負けてばかりいたので、トーマがハンデをくれて距離が近付いた。じりじりと階段を上り、ようやく坂の終わりへ辿り着く。こんなところで大人がこんな大声を張り上げてじゃんけん。でも楽しかった。
← 6
→ 8
食べ終えた皿を下げ、今夜はもう休むことにした。
ベッドはトーマに譲った。トーマがネコを離さなかったので、一緒に寝るならベッドを使った方がいいと教えた。家具がないので寝場所はいくらでもある。秀実が来るときいつもそうするように、自分はベッド下に簡単なマットと毛布を重ねた。
明かりを消して、おやすみと言い合い、横になる。視界を塞ぐと雨音がはっきりした。明日も雨なら秀実のところへ行くのは面倒臭い。考えているうちに寝入ってしまう。
夜半、人の気配で目が覚めた。ふと目を開けるとトーマの顔があった。瑛佑の寝顔を見下ろしていた。
夢の続きかと思えるような、危うい輪郭だ。どうした、と訊く。寝起きで掠れた声はトーマに届いたのか分からない。瑛佑を見下ろすだけで反応がないからだ。
ちいさく「ネコが」とトーマが言った。
「トーフが起きたから」
瑛佑が身体を動かすと、腰元にやわらかい感触があった。飼い猫はベッドよりも飼い主の傍を選んだらしい。たったそれだけのことで心細くなっているトーマが、ひどく頼りなく、かわいそうなものに思えた。
消えそうだな、と思ったから、手を伸ばしてみた。伸ばしてみてから、ああこいつ男いけるんだったんだっけと思いついたが遅い。
どっちでもなんでも、どうでもよかった。
「トーフ、連れて行っていいよ」
「……少しここにいていい、」
「ん……けど、寒くないか」
握ったトーマの手が冷たい。これでは眠れない。瑛佑の問いにトーマは首を横に振った。「ちょっとだけ。そしたら、ベッドに戻ります」
そうした方がいい気がして、トーマと繋いでいる手を布団の中に入れた。電気毛布でも出した方がいいだろうか。
胸の上に重みを感じた。顎に冷たい毛先が触れる。トーマが布団の上から瑛佑の胸に頭を置いたのだ。徐々に体重が移される。警戒心の強い動物みたいな甘え方をする。
少し、覚醒した。だから聞いた。「そういえば、なんで合コンなんか行ったの」
暗闇の中でトーマがはっと酸素を身体に取り込んだのが分かった。沈黙の後に、今度はふうっと息が吐き出される。「なんでいまそんなこと訊くんですか」瑛佑の質問に面食らっている。
「……思いついたから、」
「今日の思い出して、そう言ったんすよね。おれが男とキスしてたから」
「うん、まあ、それもある。……女の人もいけるのか」
「変な聞き方」笑った。「いけないすよ。でも友達としてならオーケー。知り合いに誘われて、まあ人と飲むの楽しいし、って軽い気持ちで行きました。結局すぐ帰っちゃったけど」
そこで息継ぎをして、胸の上から頭をのけた。暗くてよく分からないが、陰影が瑛佑を見下ろしている。
「なんでかヒデくんと仲良くなれたし、繋がって、いまここにいますね」
「ちょっと強引だったとは思うよ」
「すいません」困って笑っている。
「でもいい。メシ、うまかった」
また眠くなってきた。寝る、とも、おやすみ、とも宣言出来ないまま眠りに支配されてゆく。トーマはもう、瑛佑には近寄らなかった。そのままベッドに戻り、朝までそこで眠ったみたいだった。
一緒に寝たかったんだと気付いたのは、ずいぶん後になってからだ。
← 5
→ 7
「そこ座って。悪い、片付いてなくて」
「広い。物がないですね」
「ネコが爪研ぐからさ、家具にこだわるのはやめたんだ」
ネコを抱いたままトーマは促された椅子に腰かけた。座面と背もたれに深い緑色の帆布を張った、クリ材の椅子だ。大学の頃、卒業する先輩に無理やり買わされたもので、せっかくの帆布はネコの爪痕でささくれだっている。「でもこれいい椅子ですよ」とトーマは褒めた。「フィンランドのメーカーだ。ここの家具、おれは好きです」
瑛佑の部屋はワンルームで、その代わり広さだけはある。置いてある家具はトーマが座る椅子と背の低い小さなテーブルぐらいで、必需家電を除けばトーマの言う通り物がない。瑛佑自身、インテリアへのこだわりが薄い。人を招くことも少ないので、自分と飼い猫に都合よく作った部屋だ。
なにか飲むのか、食べるか、と訊いても首を横に振る。構わないでいいというサインを見せたので、トーマのことはひとまず放っておくことにした。備え付けのクローゼットから着替えを取り出し、シャワーを浴びた。
戻るとトーマも瑛佑が出してやった部屋着に着替え終えていた。キッチンに立ち小鍋に箸を突っ込んでいる。「すいません、勝手に使わせてもらいました」と味見をしながら言った。
「全然構わない。それなに」
「卵スープ。ちょっと腹に入れたくなったんで」
瑛佑にもカップをひとつくれた。優しいにおいに、急激に腹が鳴った。トーマはほっとしたように笑い、「チャーハンも作ってあげようか」と言った。冷蔵庫の中身と家主の腹具合を考えていたらしい。
任せる、と言うと得意げに笑って背を向けた。見事な手際だった。瑛佑ひとりだったら朝炊いた白米の温め直しに生卵で終わりそうだったのに、思わぬ拾い物のおかげで作りたてのチャーハンが出てきた。卵とみじん切りにした玉ねぎ、どこで見つけたのか胡麻やサクラエビも入る。
おれは披露宴で食ってるからいいすよ、とトーマは遠慮したが、結局は一緒に箸をつけた。皿を出すのを億劫がって、ひとつの大皿からそれぞれスプーンですくって食べる。店で食べるぐらいに美味い。特にたまごのスープは、疲れた体に浸みるような味加減だった。
「塩とコショウしか使っていないんすよ」
「でも美味いよ」
「気に入りました?」
「すごく」
口下手な身としては、言葉にするよりも食べていたい。顔を上げて表情を窺うと、トーマは瑛佑を見て微笑んでいた。いい顔をして笑っているから、気持ちは伝わったと確信する。満足して、食事に戻る。
食べ終えた頃、トーマが「泊まって行っていいですか?」と確認しなおしたので、もちろんだと頷いた。好きにしていい。明日は秀実のところへ行くかもしれないが来るかと訊ね返すと、トーマは苦笑いした。彼女と鉢合わせると気まずい、という。
「瑛佑さんとヒデくんはあんま似てないですよね」と言った。水を飲みながら、瑛佑はうん、と頷いた。
「兄弟って言っても義理だ。成人した歳に親同士が再婚して、同級生だったのが兄弟になった。同い年だよ」
「へえ、なんかドラマチック」
「秀実が淋しがるから、行き来が多い。ちょっと鬱陶しいんだ」
「確かに仲が良いすよね。おれも兄ちゃんいたらって想像するけど、そこまでになるかなあ」
トーマも水を飲み、遠い顔をした。「兄弟いる?」と訊くと、トーマは微妙な顔で笑う。
「います、姉と妹。でも姉とは歳離れてるし、母さん違うし、滅多に見ない。…今日の式にも来てなかったな、」
「……?」
「あ、……今日は、妹の結婚式、」
その一言で事情が呑み込めた。思わず顔を上げると、トーマは大きく息を吐きながら「そううなんです」と言う。
「おれの親父はアオイのトップで、つまりおれは、社長子息ってやつ。でもおれはこの通り親の過干渉が嫌で家出してるし、実妹の結婚式の最中に男と寝るようなだらしなさで、ろくでなし。跡継ぎは放り投げて妹に押し付けてさ」
「放り投げる、ってほど簡単に言える事柄じゃないだろう」
アオイ化学工業で働く人も働きたい人も多いだろう。そのトップの息子とあれば、周囲からかかるプレッシャーは並ではなかったはずだ。
瑛佑の言葉にトーマは黙った。ぎこちないまま、ネコを撫でている。なにか言いたげなくせに口をつぐんでいる。あひるのくちばしのようにむっと突き出た唇が子どもっぽくて、二十代後半でもそんなもんかと思った。
← 4
→ 6
「広い。物がないですね」
「ネコが爪研ぐからさ、家具にこだわるのはやめたんだ」
ネコを抱いたままトーマは促された椅子に腰かけた。座面と背もたれに深い緑色の帆布を張った、クリ材の椅子だ。大学の頃、卒業する先輩に無理やり買わされたもので、せっかくの帆布はネコの爪痕でささくれだっている。「でもこれいい椅子ですよ」とトーマは褒めた。「フィンランドのメーカーだ。ここの家具、おれは好きです」
瑛佑の部屋はワンルームで、その代わり広さだけはある。置いてある家具はトーマが座る椅子と背の低い小さなテーブルぐらいで、必需家電を除けばトーマの言う通り物がない。瑛佑自身、インテリアへのこだわりが薄い。人を招くことも少ないので、自分と飼い猫に都合よく作った部屋だ。
なにか飲むのか、食べるか、と訊いても首を横に振る。構わないでいいというサインを見せたので、トーマのことはひとまず放っておくことにした。備え付けのクローゼットから着替えを取り出し、シャワーを浴びた。
戻るとトーマも瑛佑が出してやった部屋着に着替え終えていた。キッチンに立ち小鍋に箸を突っ込んでいる。「すいません、勝手に使わせてもらいました」と味見をしながら言った。
「全然構わない。それなに」
「卵スープ。ちょっと腹に入れたくなったんで」
瑛佑にもカップをひとつくれた。優しいにおいに、急激に腹が鳴った。トーマはほっとしたように笑い、「チャーハンも作ってあげようか」と言った。冷蔵庫の中身と家主の腹具合を考えていたらしい。
任せる、と言うと得意げに笑って背を向けた。見事な手際だった。瑛佑ひとりだったら朝炊いた白米の温め直しに生卵で終わりそうだったのに、思わぬ拾い物のおかげで作りたてのチャーハンが出てきた。卵とみじん切りにした玉ねぎ、どこで見つけたのか胡麻やサクラエビも入る。
おれは披露宴で食ってるからいいすよ、とトーマは遠慮したが、結局は一緒に箸をつけた。皿を出すのを億劫がって、ひとつの大皿からそれぞれスプーンですくって食べる。店で食べるぐらいに美味い。特にたまごのスープは、疲れた体に浸みるような味加減だった。
「塩とコショウしか使っていないんすよ」
「でも美味いよ」
「気に入りました?」
「すごく」
口下手な身としては、言葉にするよりも食べていたい。顔を上げて表情を窺うと、トーマは瑛佑を見て微笑んでいた。いい顔をして笑っているから、気持ちは伝わったと確信する。満足して、食事に戻る。
食べ終えた頃、トーマが「泊まって行っていいですか?」と確認しなおしたので、もちろんだと頷いた。好きにしていい。明日は秀実のところへ行くかもしれないが来るかと訊ね返すと、トーマは苦笑いした。彼女と鉢合わせると気まずい、という。
「瑛佑さんとヒデくんはあんま似てないですよね」と言った。水を飲みながら、瑛佑はうん、と頷いた。
「兄弟って言っても義理だ。成人した歳に親同士が再婚して、同級生だったのが兄弟になった。同い年だよ」
「へえ、なんかドラマチック」
「秀実が淋しがるから、行き来が多い。ちょっと鬱陶しいんだ」
「確かに仲が良いすよね。おれも兄ちゃんいたらって想像するけど、そこまでになるかなあ」
トーマも水を飲み、遠い顔をした。「兄弟いる?」と訊くと、トーマは微妙な顔で笑う。
「います、姉と妹。でも姉とは歳離れてるし、母さん違うし、滅多に見ない。…今日の式にも来てなかったな、」
「……?」
「あ、……今日は、妹の結婚式、」
その一言で事情が呑み込めた。思わず顔を上げると、トーマは大きく息を吐きながら「そううなんです」と言う。
「おれの親父はアオイのトップで、つまりおれは、社長子息ってやつ。でもおれはこの通り親の過干渉が嫌で家出してるし、実妹の結婚式の最中に男と寝るようなだらしなさで、ろくでなし。跡継ぎは放り投げて妹に押し付けてさ」
「放り投げる、ってほど簡単に言える事柄じゃないだろう」
アオイ化学工業で働く人も働きたい人も多いだろう。そのトップの息子とあれば、周囲からかかるプレッシャーは並ではなかったはずだ。
瑛佑の言葉にトーマは黙った。ぎこちないまま、ネコを撫でている。なにか言いたげなくせに口をつぐんでいる。あひるのくちばしのようにむっと突き出た唇が子どもっぽくて、二十代後半でもそんなもんかと思った。
← 4
→ 6
一連の動作を瑛佑は表情も変えずに目撃した。内心は驚きでいっぱいであったが、珍しくはない。ただ、知った顔で、男同士、というパターンは初めてだった。
堂々として、馴れた風だった。その先や背景をあれこれ考えようとして、やめた。個人情報はあまり深追いしない方がいい。男が二人エレベーターに連れ立って乗った。瑛佑がいまホテルマンとして把握しておくべき事柄は、そこまででいい。
夕闇が濃くなり、宿泊客でロビーが混雑し始めた。同時に式も終了し、あふれ出た人でせわしくなる。結婚式の出席者の何組かはここへ宿泊し、他は帰るか別の宿へ向かう。神経質にチェックしたがトーマはロビーに現れなかった。宿泊名簿にも該当する名前はない。
普段の勤務終了時刻より十五分遅れて夜勤スタッフと交替した。夕方五時を過ぎたところだ。降り続く雨のせいで辺りはひたひたと暗く、寒かった。
携帯電話をチェックしてみたが、秀実からの連絡はなかった。明日は休みだ。約束としては部屋を訪ねることになっているが、具体的な話まではしていない。電話をかけるか、でもめんどくせえなと思いながら職場を後にすると、不意に「瑛佑さん」と声をかけられた。ホテルの裏口すぐにある雑居ビルの軒、ポーチに据えられた常夜灯の下トーマが引き出物の紙袋を提げて立っていた。
「こんばんは、花屋です」
「――どうしたんだ、」
「……いや、式で花を分けてもらったから、この間のお返しにあげようと思って」
雨の中待っていたらしい。胸に挿した花を瑛佑に差し出した。昼間のロビーでははっきりと青いと見えた花は、オレンジ色の光の下では黒ずんで見えた。
ありがとう、と受け取るにはためらわれた。お返しに花をあげようなどとは思っていないのは分かる。口実だ。この男になにを言うべきか迷っている瑛佑に、トーマはため息をつきながら「や、本当は違う」と首を横に振った。髪が揺れる。洗い髪を適当に乾かしたまま、整髪剤はなにもつけていない。髪がさらりと動き、わずかの間をおいて石鹸のにおいが届いた。
「さっき…その、目が合ったので……」
言いにくそうに目を伏せる。瑛佑はトーマを見据えて様子を窺った。
「瑛佑さんの勤め先があのホテルだってのは、知らなかったんです。…なんていうか、その、さ」
「?」
「色々分かっちゃいましたかね、て……」
言われて思い当たるふしは特になかった。知人が男とエレベーターでキスをしていたことか。瑛佑としては、式の最中にトーマが男と二人で部屋に消えたことなど大して気に留める事柄ではなかったが、トーマは明らかに気にしている。苦虫をかみつぶしたことはないが、こういう顔のことか、という表情でいる。
こんなところで立ち話をしても仕方がないので、部屋に誘った。どこか店に寄ってもいいが、雨降りなので早く帰ってシャワーと着替えがしたい。泊まるあてがないなら来るかと訊くと、トーマは弱り切った顔でちいさく「行きます」と頷いた。どうしていいか、本人もよく分かっていない様子だ。
どこへも寄らずに部屋に戻った。鍵を開ける前に、飼い猫の存在を明かさなかったことを思い出し、話した。アレルギーでもあればこの雨の中をまた追い出す羽目になるが、トーマは表情を緩め「ネコ、好きですよ」と答えた。「触りたい」
「飼ったことある?」
「あります、中学の頃。空きっ原にいたのを放っておけなくて、黙って拾った。でも交通事故ですぐ死にました。つらかった」
「泣いた?」
「恥ずかしいすけど……泣きました。――なまえ、なんていうんすか」
「トーフ」
「豆腐?」
「そう、トーフさん」
飼い猫――トーフは、瑛佑の帰宅の際には必ず扉へ寄ってくる。外へ出してほしいのではなく、瑛佑の帰宅を出迎えるためだ。今夜も玄関で待っていた。明かりをつけると、首輪についた鈴が軽やかに鳴った。「トーフ、ただいま」
まっしろな毛並みに、片耳にだけ焦げた茶色がアクセントになっているメスネコだ。挨拶をしながら、トーマは「白いからトーフ?」と瑛佑に聞いた。人懐こいネコは、トーマにも人見知りせずに喉を鳴らす。
「おしょうゆ垂らした豆腐が食いたい、って思ったらしいよ。名付け親は」
「瑛佑さんが名づけたんじゃないんすか?」
「前に付き合ってた人の飼い猫。旅行好きで、しょっちゅう俺に預けてくんだ。あんまり俺に預けるから俺の方が懐かれて、いいよ飼うからって言って、いまに至る」
「――元カノの、ネコ、」
「そう言う言い方をすると未練がましい感じがするよな。全然そんなじゃないんだ」
飼い猫の餌鉢とトイレをチェックし、手早く後片付けをする。人が来る予定ではなかったから物が散らかり、換気もしていない。脱ぎっぱなしの衣類を手に取り、部屋にひとつしかない椅子をあけた。
← 3
→ 5
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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