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「事情なんか人それぞれにみんな持ってる」
「ぶっちゃけられても困るし?」
「それも人それぞれだろ。おれは特に困らない、聞いて透馬が楽になるってなら聞く」
透馬はあからさまに眉間にしわを寄せて困った顔をした。
「でも透馬の場合、隠しておきたい気持ちの方が強そうだな」
「……瑛佑さん、おれのこと、どう見えます?」
「え?」
「だらしなくてろくでもない。これがうちの親父のおれに対する総評。瑛佑さんもそう思う?」
いきなり投げつけられた質問に、瑛佑は唸った。どう見えますと聞かれても、見る角度が違うのだから透馬父とは絶対に異なる感想になる。会ってまだ三回目だし。
「――まあ、」茶漬けがなかなか来ない。簡単な料理なのに。「合コンっていう場で知り合って二回目で秀実の家に転がり込めた話とか、おれの場合はやっぱり披露宴の最中の一件か? それでうち来て、っていう今までのことを考えちゃうと、おれの中の常識にはありえない人かな、って思うけど」
「……ありえない、ですか、」
「こうやって会って、話して、ろくでもないとかだらしがないとか、おれはそういう風に思わないし、見えないよ。生活に必要な基本がきちんとしてて、丁寧なんだなって思う。うちに来た時、上着をきちんとハンガーにかけて埃をさっと払っただろ。ああしっかりしてるんだな、って思った。あとは字が上手いとか、食材の使い方を知ってるとかさ。変にプライドも高くて威張ってるならコイツこのヤロウとか思うんだろうけど。社長の息子? まじで? って思うぐらい、そうだな、普通に見える。価値基準が標準的」
おおだいぶ喋ったな、と冷を飲みながら思った。こういう答え方で良かっただろうか。人の話を聞くのは好きだが自分の意見なんかあんまり語らない。だから上手く答えられたかどうか自信がない。
結局、茶漬けは来ないままおひらきになった。
終電よりひとつ前の電車に乗れた。普段は自転車で通勤しているのだが、今夜はいいかという気になって職場へ置いて帰ることにした。人とおしくらまんじゅうするほどの距離に詰められる車内は久々だった。身動き取れないまま降りるべき駅ではぺっと吐き出されるように降り、改札を出てから鞄を探り携帯電話をチェックしてみると、ホテルに戻った透馬からメールが届いていた。
『帰れましたか。
メールの方が話せるような気がしたので、「ぶっちゃけられても構わない」と言った瑛佑さんに甘えます。もう薄々分かっているかと思いますが、僕は父親と関係がうまくいっていません。家出を繰り返しているのは、そのせいです。父親はほとんど不在ですが、実家は耐えられません。いまは大人になってだいぶ割り切りが出来るようになったから、職場が近いし貯蓄も増やせるという意味で実家にいますけど、こんなに家を出てばっかりじゃ意味ないですね。
これが家に帰らない理由。
それから今日は、前回ドタキャンしてしまったことをお詫びしようと思って、瑛佑さんのホテルを選びました。でも結局、面と向かってはうまく言えませんでした。
ドタキャンしてしまったのは、不倫相手に呼び出されたからです。父親の会社の重役で、僕のことを良く知ってて、奥さんいるけど男とセックスすんのが好きな人です。エレベーターの、あいつ。呼出にはいつでも応じるのが約束です。今日も夕方会ってました。
これがろくでなしの真相です。
今夜瑛佑さんが「そうは思わない」って言ったの嬉しかったです。そう言われたかったんです。
長くなってすみませんでした。
おやすみなさい』
メールを読んで、瑛佑は思わず「めんどくせぇな」と苦笑いして呟いた。背負い込んではまり込んでこんがらがって、あーあ大変だ、と。人それぞれにあると言ってしまったが、瑛佑自身にはそんな事情も状況もない。不倫とか。職場じゃしょっちゅうあるようだが瑛佑とはおおむね無縁だ。
なんとかしてあげようという気持ちも、こんなこと言われても困るという気持ちも、瑛佑には沸かない。秀実なら泣いて「大変だな透馬!」とすぐ会いに行きそうな気がする。高坂だったら、夏人だったら、昇平だったら。助言、慰め、同感、憐み、なにが正解かは分からない。自分以外の他人になったことがないから、本当に分からない。
淋しがっていることだけは、なんとなくわかった。ひとつでも分かったのならば今夜会った意味はあったのか。
瑛佑も返信を打った。
『ごめん、やっぱりちょっとびびった。
メールしやすいんだったら、おれはいつでもどうぞ。気の利いた返信できないけど、すぐ返信ってわけにもいかないけど、ちゃんと読むから。
おやすみ。』
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電話をかける際、少しだけ緊張した。得体の知れない生き物と交信しようとしている、と思ったからだ。意識して数えてはいないが、電話のコール数をなんとなく覚えている。七コールめで電話に出た透馬は、『お疲れ様です』と寝起きのかすれ声で言う。
「――いや、ごめん」なんか謝ってしまった。
『え、なんで?』
「寝るなら寝るでわざわざ起こさなくても、今夜は寝かせておいて日を改めれば良かったんじゃないかといま、思いついた」
『違いますよ、おれが瑛佑さんに頼んだんだから』電話の向こうで透馬はきっぱりと訂正した。『そんなこと思わせてすいません、でも、ありがとうございます。ね、めし行けますか』
「行ける。おれも腹減ったよ」
『じゃあこれから下降ります。えーと、職場どまんなかで待ち合わせさせるのもいけないのか。どこに行けば?』
「じゃあ脇のコンビニに入ってる。交差点の斜め向かい」
そう言ったけれど、道路を渡る前に透馬と落ち合えた。
出てくるのぴったりだったですね、と透馬が言い、そうだな、と答える。日野洋食亭には今から移動すると閉店になるので、近場にある大衆居酒屋を選んだ。店は適度に混んでいて、焦げた醤油のにおいとアルコール臭がして、蒸していて、暖かだった。
店員からおしぼりを受け取り、ビールや串揚げや玉子焼きや漬物やと、一斉に一方的に透馬がオーダーをかけた。瑛佑は自分の飲みたいものを頼んだだけだ。明日の朝が早いので今夜は飲まないことにする。ソフトドリンクを頼んだ瑛佑に透馬は申し訳なさそうな顔をしたが、「一口だけちょうだい」と言うと子どものように顔をほころばせた。
しばらく無言で、運ばれてきた料理を口にする。透馬はぐびぐびとビールを煽り、無駄なことさえ一切喋らない。沈黙が気まずいわけではなかったが、真意がつかめなくて迷う。瑛佑の方からなにか言うべきだろうかと逡巡していると、「泊まることろがないならまた瑛佑さんとこ、って頼ればよかったんですが」と透馬がようやく口をひらいた。
たん、とテーブルを響かせてビールグラスを置き、唇を一文字に結び、本当に真顔で瑛佑を見つめる。ああそうか目か、と納得した。こうやって人を見つめる瞳が大きくてまんまるいので、幼く見えるのだ。
「――うん、おれは全く構わなかったけど」
「ありがとう、ございます。……泊まるとこなくて、でも人に世話になりっぱなしが無性に心苦しいっていう気分の夜がさ、たまに訪れちゃうんだ。それでホテルを選んでみました」
「うん。だから『当ホテルをご利用いただき誠にありがとうございます』、なんだよ。けど頼って良かったんだよ、本当」
乱暴な利用の仕方だな、と思う。世話になりっぱなしが心苦しいって、そういえばそんなこと言って秀実の洗濯や食事を引き受けていたんだっけか。図々しいんだか神経が細いんだかよく分からない。話すほど謎になる。
「秀実、あれから彼女と別れたんだよ」なにが揚がっているのか正体が分からない串揚げをつまみあげながらそう言った。齧ると、中身はトマトだった。
「え、まじすか?」
「まじ。あ、きみのせいじゃないからな。ちょっと束縛がキツイかもって、前から秀実こぼしてたし、だから合コンなんか行ったんだろうし」
「でも、おれのせいもあります、かね」
「百あったきっかけのうちの一ぐらいは担っているかもな。でも決めたのは当人たちで、おれや透馬がどうこう出来る話じゃない。…まあ、とにかくさ。より一層淋しがってるから透馬がいいんなら連絡してやって。いなくなって、かなり本気で落ち込んでいたから」
「……うん、そう、……すか」
秀実と馬が合っていたんだからこうして瑛佑と食事をしているよりも奴の方がいいだろう、と思ったからそう言ったが、透馬の反応を見て、なにか違ったらしいと分かった。違うことは分かるが、正解も分からない。
揚げトマトは冷めていて、ぺちゃりとした衣とトマトの酸味とが全くマッチしなかった。口直しにと手を付けた別の串揚げは豚肉だったが硬すぎた。混んでいるおかげでオーダーもまわらないし、ちょっと失敗した。透馬はますます黙り込み、こりゃもう早々におひらきにしてしまおうと、シメのつもりでお茶漬けを頼む。鮭と梅の二種類。
「どうしてそんなに家出ばっかりしてんの、とか、家出しまくってんならアパートでも借りれば、とか、質問も助言も、瑛佑さんはないですね」
茶漬けを待っているあいだに透馬がぽつんと言った。非難しているのではなく、淋しがっているのでもなく、「そういう人なんですね」と納得した、という響きだ。
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名前ってすごいな、とちょっと感動した。トーマの本名が分かった。「青井透馬」だ。音の響きだけでは想像できなかったあらゆる事象が生々しく迫ってくる。群青の空が澄んでいるとか、星が輝いているとか、つめたく清かな風が吹いているとか。
冬生まれでこの名前だと、青々とした草原のイメージよりも冬の高原の白さを思った。深々と雪に埋もれる針葉樹の森の、静かな白、の陰に現れる青。そうだ、クリスマスオーナメントみたいな名前だ。
幼い頃、まだ父と母と三人暮らしだった頃、家にはちいさな模造品のクリスマスツリーがあって、そこにオーナメントを吊るすのが楽しかった思い出がある。木製の天使や小人に、木馬もあった。白地に空色のペイントが施されていて、その青が好きだった。
だから寒い季節の青を想像した。青井透馬。ちょっと出来すぎなぐらい、綺麗な名前だ。
アドレスの交換は秀実を介して行ったのだが、前回の一件以降、トーマとはやり取りがなかった。「トーマ」で登録したメールはいつの間にか途切れ、泊まりに来ることも遊ぶことも、日野洋食亭に行くこともなかった。そして三週間ほどのインターバルを置いて、トーマは唐突に現れた。
「予約していないんですが、部屋、ありますか」そう言って、瑛佑の職場のKホテルに。
週末でなかったので、シングルをひとつすぐに案内出来た。宿泊名簿を差し出すと綺麗な字で「青井透馬」と書いた。文字とペンの遊び方を知り尽くしている、癖のない字だ。社長子息は書く文字まで統制されるのかと思わないでいいことを思った。
勤務先の欄は任意で結構ですよと言ったが、トーマ、青井透馬、は、有名私立大学の名前を記入した。「学生課で事務やってるんです」と、まるで瑛佑に知ってほしいことのように喋る。「親のコネクションですけども」
部屋のキーを渡してしまえば受付は完了だ。何をしに来たんだか、家出だったらあの時のように瑛佑を頼ればいいのに。声をかけるべきか客のプライベートを尊重すべきか迷っていると、透馬が「今夜、あがるの何時ですか」とちいさな声で訊いて来た。
結局そうなるんじゃないかと瑛佑は微笑する。
「九時で交代」
「じゃあ、おれ部屋で少し休んでます。終わったらメール、ください。めし行きましょう」
「今から待ってるんじゃ腹減るだろう」
「ルームサービスでもバーでもレストランでも、ホテルの飲食エリアをオススメするとこなんじゃないんですか、瑛佑さん」
ホテルマンとして、と言われて、そりゃそうだと思った。軽食ならすぐそこ、一階にあるティールームで取るのがいい、酒を飲むなら地下フロアのバーに、ととりあえずの情報を伝えた。透馬は人懐こく笑い、「また後で」とカードキーを軽く振ってエレベーターへと歩いて行った。
披露宴の夜と同様、またなにか抱え込んでいるような雰囲気だ。
まだ会って三回目で、秀実ほど飛び級に人と親しくなれない性分としては警戒心もある。そんなに急激にやって来られても、と思うのに、ふとした拍子に頼りない仕草や表情をされて心がほろりと崩れる。フロントに現れた立ち姿は成人した一社会人と見えて、「部屋ありますか」の一言で身体を纏う殻が剥がれて軟な中身が見えた。笑っていても泣きそうな。大人に見えて子どもの、或いは逆の。綺麗な字を書く綺麗な名前の男。
なんなんだ、青井透馬。
正体が全くつかめない。仕事の最中に答えを探すことは当然無理で、無理なまま夜勤に引き継いだ。着替えながら携帯電話をチェックすると、透馬からも一件届いていた。『寝てるから、やっぱりメールじゃなくて電話ください』とある。起こせ、という意味か。
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他にもスタッフが数名いるはずだが、休憩時間だからか見当たらない。手持ち無沙汰に雑誌か新聞でも、と店内を見渡すと、高坂の座るテーブルすぐ脇の出窓に花が飾られているのに気付いた。白いまろやかな陶器の一輪挿しに、青い花が活けてある。見た目はガーベラかマーガレットのようにしっかりとした花弁を持つが、とにかく青い。病的なほどに青いことにびっくりして、思わず「その花」と花を指して言った。
結婚式で来場者が胸に挿し、トーマが「花屋です」と言って差し出した花だ。あの花は結局、差し出したくせにトーマがどこかへやり、なかったことにされてしまった、といま気付いた。
高坂が気付き、「ああ、これ」と青い花へ顔を向けた。
「瑛佑だって知ってるだろう。昨日、アオイ化学の令嬢が結婚式やって、そこで配ってた」
「なんでここにあるんですか」
「貰ったからだよ、職場で。余ったそうですよ、珍しいでしょう、って。うちには花好きのバーテンダーがいるからな。こういう情報は目ざとくキャッチして、わざわざウェディング部門に出かけてくんだ」
高坂の部下には女性のバーテンダーも所属していて、彼女のことだと察知出来た。もっとちゃんと近くで見たくなり、高坂の席へ出かけてゆく。出窓に出していた花を高坂は花器ごとテーブルの上に載せてくれた。
「天然で青い花ってわけじゃなくて、花を染めてこういう色にしているんだと」高坂が言う。「で、この青が珍しいってんで『アオイ・ブルー』って呼ばれているらしい」
「アオイ・ブルー。耳にしたことあります」
「一時期メディアでよく取り上げられていたからな。ほら、角度変えて見るとさ、金色に見えないか」
円を書くように花器をテーブルの上で高坂が動かす。光の当たり具合で、確かに青かった花が金色に輝いて見える瞬間があった。
「うわ、すごいですね」思わず声が漏れた。「青い花が金色」
「花の表面の突起に微妙な色の差をつけることでそう見せているらしいよ。この技術が難しいとかで、アオイ化学は一躍有名になった」
「青い花のニュースは聞きましたけど、そういうことだったんですか」
さすがよく知っていますね、と高坂に言うと、高坂は「昨夜バーの客がそういう話をしていた」と答えた。バーテンダーという職業柄、高坂はこの手の知識が豊富で、ニュースにも敏感だ。
瑛佑が言葉を続けずにいると、ごく自然に意識は手元の本へと戻される。同時に夏人がパスタの乗った皿を運んできた。結局、高坂の向かいに食事が用意される。
「シェフの気まぐれパスタ」と夏人は言った。「要するに、在庫整理パスタ」
そんな言い方をするが、もちろん味は特級だ。幾種類かのきのこがたくさん入っていた。いい時期だ。
夏人も椅子をがたがたと動かして、二人の席の近くに腰かけた。椅子の背を前面に、座面を跨いで座る少し幼い座り方だ。瑛佑の顔をじっと見ている。おそらくは、味の具合を窺っている。夏人も無口だが瑛佑も無口なので、二人揃うとアイコンタクトばかりになる。
本に目を落としていたと思っていた高坂が「ぶ、」と吹き出した。
「喋れよ、おまえら。味はどうだとか、美味いよとか、」
「味どう?」高坂の言葉をそっくり引用して夏人が訊ねた。
「美味い」瑛佑の返答もまた、高坂の引用だ。そしてちょっとだけ応用する。「ベーコンの塩気ときのこの歯ごたえとバターのまろやかなのが、絶妙」
「だって、滋樹」
「良かったな」
「まだ飲む?」高坂と瑛佑、両方の顔を順に見ながら夏人が訊く。
「おれは自分でやってるから構わなくていい」高坂は近くにあるワインボトルを指して言う。
「おれは水もらっていいかな。まわってきた」瑛佑の言葉に、夏人は「了解」と答えて一旦下がった。
「――アオイ化学って、同族経営なんですか?」
トーマのことを思い出して、高坂に聞いてみた。跡継ぎは妹に任せる、という話をしていた。妹がどのポストへ就いているのかは知らないが、兄がいてなお女性に任せると言うのだから、よっぽどの才覚がトーマ妹にあるか、血族以外を認めないか。
高坂はワインを一口含んでから、「いまの社長はワンマンだって話だぞ」と言った。
「創業者は現社長の父親だろ。息子が後継いで、会社の規模も相当にでかくなった。やり手だが、噂も絶えない。女とか金とか、な」
そういえば姉とは母親が違う、と言っていたか。
「昨日の披露宴、現社長の娘さんな。ありゃほとんど政略結婚だよな。相手はどこかの私立大学の学長の三男坊だって。共同で研究施設持ってるところだろ。婿取りしてそいつに経営させるか、技術開発でもして事業拡大しようって腹積もりなのかね」
「息子さんがいるって話を聞きましたが」
「ああ、いるらしいけど、あまり聞かないな。なに、再就職でもする気?」
「―いや、単に興味本位です」
ここまで情報が入ったらもう充分だと思い、それ以上は突っ込まなかった。謎は残るが、トーマ個人の話を第三者から聞けても、本当のところは分からない。
それに今のところは、それ以上の興味も沸かなかった。
いつの間にか夏人が傍らにいて、グラスの水が差しだされていた。自分の分もソーダ水を持ち、近くに座る。昇平が顔を出して「おれちょっと三十分ぐらい出てくるわ」と言って店を出て行ったのを、見送った。
こんな風に三人集まっても、無口が二人と読書好きが一人では会話はふつりふつりと切れる。下手すると無言のまま平気で十五分二十分と過ぎる。
秀実やトーマといる時と全く異なる三人組。だが瑛佑はどちらも好きだ。それぞれにいい空気がある。自分はほぼ無個性なのでどちらにでも流れられるのだ、と思う。
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夏人は日野洋食亭のシェフを務めている男で、瑛佑よりも二歳ばかり年下だ。白いコックコート姿はすらりと長く、一本の夏草のようだ。コックコートの前ボタンは上ふたつ外れており、夏人自身も手にビニール袋を提げている。昼の営業を終えて、どこかにおつかいに行っていた、と推理してみる。聞いてみれば当たりで、夏人は「にんにくとからしが切れた」と言ってビニール袋を軽く振った。
「ランチ終わったけど、高坂は来てるよ」店の方角を指して夏人が言った。
「あ、休みなんだ、今日」
「まかないみたいなもんで良ければ出すから来なよ」
「助かる。メシ、まだだったんだ」
「高坂もランチの終わりころから来て、ずっと飲んでる」
夏人に付いて階段を上り返し、クローズの店内に入る。店内は想像よりもずっと陽が入って明るかった。夜は照明を落とすので、明るいイメージがあまりない。高い位置にある飾り窓にはめ込んだステンドグラスの影が床に落ちて、水底に輝く宝石みたいにきらきらと床板を飾る。
その窓際の、街並みが見下ろせる小さな二人掛けのテーブルに高坂が腰かけていた。テーブルにはワインのボトルと飲みかけのワイングラス、チーズとドライトマトが乗った皿が置かれ、高坂自身は食事を楽しみながら読書中である。厨房の中にいたオーナー兼ソムリエで日野のいとこの日野昇平の方が先に瑛佑に気付き、「おす、えいちゃん」と明るい声をかけてくれた。
昇平の声に高坂もようやく顔を上げた。瑛佑を見て「ああ」と呟き、本にしおりを挟んで閉じてから「元気か、」とゆったりと微笑んだ。
「遅いよ。ランチ終わったぞ」
「連れがいたんですけど、途中で振られました」
「なに、デートする相手出来た?」
「いや、秀実の友達」
高坂は「はは」と声を上げて笑った。休日の高坂は、普段と違って眼鏡をかけ、前髪をおろしている。付き合いが長くても、夜との表情のギャップに驚くときがある。
高坂滋樹は瑛佑と同じホテルの飲食部門に勤めている。ホテル内に二か所あるバーのうち、地下フロアにあるバーでバーテンダーをしている。歳は瑛佑よりも七つ上で三十八歳。物静かで思慮深く、秀実とは正反対にいるような男だ。
瑛佑がKホテルに入社して二年目、S県に配属が変わった。有名リゾート地に建つ、つまり山奥にあるホテルで、あの頃の瑛佑はベルボーイとして働いていた。高坂とはそこで知り合った。従業員寮の同室で、勤務年数が瑛佑よりも長い分いろんなことを教えてくれた。
瑛佑が硬くなりすぎるからと言って、敬語を外して喋るように命じられたこともあった。
一日の終わりにはねぎらいの言葉をかけてくれたし、町に出て遊ぶ方法も教えてくれた。公私ともに世話になった人で、高坂には頭が上がらない。きちんとプロ意識を持って働く高坂を尊敬してさえいる。
高坂は瑛佑よりも先に遠地勤務を終え、こちらへ戻った。数年して瑛佑も戻り再会すると、高坂には恋人が出来ていた。それが夏人だ。夏人もまたKホテルでの勤務経験があり、すぐに意気投合出来た。夏人がおいでと言ってくれたから日野洋食亭にも足を運ぶようになり、今ではすっかり常連だ。
この二人を見ているから、男同士、というのは驚くべき事柄じゃない。
トーマがエレベーターで男とキス、どころか妹の披露宴の最中に男と消えるのは常識で考えてえらく問題があるが、男としていたことは問題にはならない。むしろ高坂と夏人のような穏やかな関係は、見ていて好ましい。節度は守れよ、とトーマに対して心の中で微苦笑する。もしかすると今日の呼び出しは披露宴の男からか。今更そんなことを思ったが、まあいいかと、すぐに思考は逸れた。
高坂の向かいに腰かけようとすると、「男二人で狭い席に座らんでもいくらでも空いてるから好きなとこ座んな」と昇平が声をかけてくれたので、そうした。カウンター席を選ぶとグラスワインが出てきた。高坂の皿と同じような内容のつまみまで出してくる。「一杯だけなら平気だろ」と昇平が笑った。その奥で夏人が黙々と作業をしており、接客の上手い昇平と職人気質の夏人とで、ああ上手くやってんだな、とワインをもらいながら思う。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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