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はじめてまともに恋をしたのは高校一年生の冬で、初体験も済ませた、という意味では周囲より少し早かったのだと思う。同級生とはじめて同士、みたいな初々しい恋ではなかった。相手は近所に住む二十五歳の女性で、当時彼女から英語と数学を教わっていた。自動車販売店の事務として勤める傍ら、有名国立大を卒業している、という経緯から個人的に家庭教師を引き受けてくれていたのだ。
地味で化粧っ気がなく、髪はいつもひっつめで、そっけない性格と身体だった。それでも高校一年生という年齢で年上の女性と二人きりで接していれば、憧れを抱かないわけがなかった。先生、と呼んだ時にうるさそうに振り向いて「そんなたいそうなものではないわ」とゆっくり低く喋る、妖しい雰囲気が好きだった。英語の発音が良いところも、テキストに目を落とした時に分かる、すっと切れた頬も好きだった。
年上女性の手練手管になすすべもなく、とまで言うつもりはないが、おおむね合っている。セックスが抜群に上手くて、覚えればそればかり求めた。父子家庭、父親の帰宅が夜遅いことを幸いにと、部屋の中で好き放題だった。家庭教師に来る晩を思うだけで勃起しやりきれなくなる朝だってあった。
主導権は当然ながらすべて彼女にあった。こういうのは違うんじゃないかと同級生を見て思い、デートに誘ったことがある。高校生の小遣いではいいところへなんか連れて行くことが出来なくて、近所をうらうらと散歩して図書館を覗き、フードコートでしなびたハンバーガーを食べた。彼女にすっとお金を支払われてしまったことがとても恥ずかしかった。高校生じゃ程度が知れてるんだから無理しなくていいって、とさらりと言われるとまた恥ずかしく、ちっぽけなプライドはずたずただった。
付き合っていることを誰かに話したりはしなかったが、後の恋人、瑛佑にとっては一番の長い付き合いとなったトーフの元・飼い主には求められて、初恋の話をしたことがある。彼女に言わせれば「瑛佑ってそういう人だよね」とのことだった。無口で静かで考え事を外に出さないから、年上によくもてるの分かる、と。
初恋は三か月で終わった。彼女が突然イギリスへ留学するのだと言って、縁が切れた。トーフの元・飼い主との恋も、彼女がマドリードだかバルセロナだかへ心奪われて移住に至るまでだったので、瑛佑の歴代恋人は逃亡癖があるようだ。透馬はどうだか知らないが。
元・飼い主との恋は大学の同級生同士、向こうもこちらも誰かとの交際は二度目ということで、公平で自由で楽しかった。その分なにかを徹底的に逃し続けているような気がしていたが、もとよりあまり深く考える性質ではない。ふとした思い付きで、透馬との恋が実に清く淡く段階を丁寧に踏んで進行していることに気付き、職場だったのに「あ、そっか」と頷いてしまった。休憩中のバックヤードで良かった。傍にいた同僚がえらくびっくりしてから、「梅原どうしたんだよ」と笑った。
「長いあいだのつっかえがすっきり取れた」
「魚の骨でも刺さってた?」
感覚としては確かに、喉の小骨が取れた、と言ってもいい。
一緒に歩く。手をつなぐ。好きだと囁く。キスをする。抱きしめあう。触る。セックスをする。そういう、大人になればなるほどすっ飛ばしかねない階段を、透馬はひとつひとつ丁寧に踏みながら瑛佑に近寄ってくる。男同士、というところを慎重に考えているのかもしれない。でもそれは女性とも一緒のことで、初恋が少しだけ同級生たちと違った分、瑛佑には新鮮だった。ある意味で初恋をやり直している。照れる透馬が驚きだし、それを見て自分もまた照れているなんてことが。
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布団はいつも通り、ベッドとベッド下に用意する。透馬が上で瑛佑が下。室内灯を消しても、枕元にスタンドを用意してしばらく本を読んでいた。秀実の失恋会の際に高坂から借りたミステリーをまだ読み切っていない。こういうものは途切れ途切れで読んではだめだと分かっていて細切れに読んでしまい、時間がいつまでもかかっている。
さすがに眠くなって電気を消そうとすると、透馬が瑛佑の名前を呼んだ。先に寝たと思っていた。ベッド上を見ると、透馬が寝そべったままこちらを見ているのが暖色の明かりの下で分かった。
「……眠れないか」
「……いや、」
「……一緒に寝たい?」
キスも出来ないままの淡いつきあいだが、始めてみて分かったのは、透馬は睡眠までの導入が長いようだ、ということ。それから要望を口にすることをためらう。くっついて寝たい、とでも言えばいいのに、一歩引く。
もう一度言い聞かせるように「一緒に寝よう」と言い、布団から離れる。ちょっとそっち詰めて、とベッドに潜れば透馬は窓際へ身体をずらし、声をあげて笑った。
もうひとつ分かったことがある。体温がちょっと低い。身体がいつも冷たい。
瑛佑の体温が高いのか、と思ったが、透馬の平熱が三十六度を下回ると聞いて、あ、そりゃ寒い、と思った。そういえば、指先はいつも冷たい。先程風呂に入って温まったと思った手足は、ひんやりとつめたかった。
「こんなんじゃ眠れないだろう」
広めのものをつかっているとは言え、シングルベッドに二人は狭い。横向きで向き合いながら指に触れると、透馬は「瑛佑さんが熱いんですよ」と反論した。
「運動して筋力つけて代謝あげると、平熱も上がって来るものらしいよ」
「ええー……」透馬は運動が苦手、だという。「やっぱ鍛えないとだめすかね。ヒデくんとこ?」
「別に秀実のところじゃなくても。職場にサークルとか、ないの?」
「バレーボールぐらいはあるみたいですけど、あんまり職場の人間でつるんだりしないですよ」
息のかかる距離でぼそぼそと会話をする。触っているうちに透馬の体温がじわじわと上がって来るのが分かって、安心する。
喋っているうちに眠くなってきた。目の前に横たわっている透馬が、大きくなったり小さくなったりする。単純に身体と身体が足し算されているから、足先からぬくい。透馬が「瑛佑さん」と呼んだのも、夢の中なのか現実なのか判別がつかなかった。
くちびるにひどくやわらかいものが当たった。キスだった。
驚いて目を見開くと、もう少し、という風にくちびるを押し付けてきて、離れた。すぐさま照れてあっちの方向へ向くので、毛布を巻き込んで持って行かれて瑛佑の足がはみ出てしまった。「おい」と声をかけると、「おやすみ」と返ってくる。「透馬」と呼んでも応えない。
毛布を引っ張った際に触れた透馬の頬は火照って熱く、また照れてんのか、と思うと瑛佑も急に恥ずかしくなった。
身動き取れないまま固まっていると、透馬が身じろいで、くるりとこちらを向いた。額と額が触れて吐息と吐息が混ざったので、もう一度、かるくキスをした。久々の、夢中になる感触だ。飼い猫と分かち合う体温もいいが、しっかりと頼りあるものに触れて発する熱もいい。
手をつないで眠った。夜半、透馬のしっかりと深い寝息を眠りと眠りの合間に聞いた。吐息までちゃんと温かかった。
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その週末、透馬が部屋にやって来た。瑛佑は仕事だったが、「トーフ撫でたい」と言う。早朝、瑛佑の出勤間際にやって来て、今日いちにち部屋にいていいかと訊かれた。構わない、と答えるととても嬉しそうな顔をして、夕飯は任せといてよと言って送り出される。あれか、夏人の言っていた「気合いれためし」が出てくるのか。楽しみでもあり、やっぱりちょっと恥ずかしかった。
透馬がそうであろうとしているのか、言ってしまえば「便利」だった。瑛佑のいない週末でも飼い猫と留守番をしてくれていて、洗濯も掃除もやらんでいいと言うのに「楽しいから」と言ってやってくれる。帰宅すると風呂が沸いていてめしが炊けている。ありがたい、よりは便利。無理しているんじゃないかと申し訳なさが先立ち、帰宅後、せめて夕食の食器洗いは引き受けて、風呂から上がった透馬に訊いた。「がんばりすぎてないか?」
「いやだって、頑張るしかないんですよ、おれは」髪をがしがしと拭きながら、透馬はあっさりと言った。
「瑛佑さん、おれと付き合ってくれてるけど、好きだーって気持ちよりは同情? の方が大きそうだから。なんとか頑張って、おれの魅力に惚れていただかないと」
そこには少々の気後れがあることは確かだ。だが「恋愛」と「便利」はイコールにならない。特にいまの状況では。
「……でもさ、それと、おれの生活のあれこれを透馬が引き受けるのとでは違うよ」
「んん、……瑛佑さんが気にするなら、やめます……けど、がんばる、ってところとは別でさ。楽しくてやってんですよ」
「……その楽しいってのさ、なにが楽しい?」
瑛佑の問いに、透馬は「ん?」と微笑んだ。
「瑛佑さん、この服よく着てるよなーって思いながら洗濯すんのも、ふかふかになるまで布団干すのも、合間に瑛佑さんが読んでる雑誌や新聞めくってうわこの人英字読んでるよ、ってびびんのも、全部たのしい」
そう言われると、それでいいのか、と思えた。
「なら、いい。でもあんまり便利になって当たり前になるの嫌だから、ほどほどに手ぇ抜いて」
「はは、了解した。あ、でもめしは手抜きしないで頑張ってていいすか?」
「それは全然。というか、それ一番うれしい」
いよっしゃ、と透馬は笑った。それからふと真顔になり、なったかと思いきや表情をくしゃりと歪め、「おれ、すげー必死で恥ずかしい」とタオルをかぶったまま椅子に沈み込んだ。
傍に寄ると、手を取られた。入浴後なのでしっとりと熱い。
「瑛佑さん、」
「なに」
「好きだよ」
夏人から話を聞いた後だからだろうか、高坂の台詞がわんわんとしているせいだろうか。当人を前に言われるせいだろうか。電話の終わりの「好き」よりもずしりと重たく感じた。
手を取ったまま、瑛佑の腹に頭をぽすっとくっつける。ちょうどいい位置に頭が来たので、透馬の髪をタオルで拭いた。
うう、と透馬が唸った。髪を拭われながら悩ましく唸っているので、なに、と笑ったら「キスがしたい」と言われ、手が止まった。即座に「すいません」と言われ慌てて顔を上げさせた。
「あのさ、だから謝るなよ、それは違うからな」
「……ありがとう」
「うん。いいよ、キス。しよう」
「……うえっ!!?」
「うえっ、て」変な声で呻かれたので、さすがに渋い心持ちになった。
「いや、びっくりしたんで…して、いいんですか」
「ああ、……うん、」
位置からして、瑛佑から顔を下げるしかない。屈み込むように透馬に顔を近付ける。あまりためらいはなかったが、目が開かれたままでやりにくい。吐息が触れ合う距離まで来ると、透馬がびくっと肩をひきつらせた。
みるみる耳まで赤くして、火照りが瑛佑にも感じられるぐらい発熱した。うつったかのように瑛佑も照れた。寸前で二人で顔を赤くして、片や不倫までも経験し終えた大人の男がやるにはあまりにもうぶで、それ以上が出来なくなった。
瑛佑の顔の下で、透馬が「うわっ」と叫んで手で顔を覆い隠してしまった。瑛佑も天井を仰ぐように背中を逸らせ、透馬から一歩引く。一体なんだ、これ。初恋の時だってこんなに照れたりはしなかった。
腹の奥が妙にじくじくとあまく、むず痒い。
心臓を鳴らせながら透馬を見下ろすと、透馬は顔を覆い隠したまま震えている。よく観察すれば笑っていた。やがて声をあげ、「うーわもう、もだえ死ぬ」と言う。
「瑛佑さん、男前すぎてやりにくい」
「ええ? そんな理由か?」透馬が恥ずかしがったポイントがよく理解できないまま、発熱で赤くなった頬を瑛佑も自分で擦った。
「潔すぎ」
「そうか?」
「そうすよ。結論決まると一直線ですよね。こないだだって靴買う時にさ、どっちの色にするか迷って、うわーおれだったらこの場で決めらんないなーと思ったのに、すぱっと『両方ください』ですもん。あれ、すげえなこの人、と思った」
「別にすごかないよ」
「優柔不断のおれには信じられない潔さ」
キスはしないままだったけれど、透馬が楽しそうに笑って話すからこれでよかった、と思った。
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付き合いはじめの一か月は無難に、というか今まで通りに日が過ぎた。透馬が瑛佑の部屋へやって来て、夕飯を作ってくれたり、DVDを見たりゲームをしたり、泊まっていったりする。だがそれはそれまでと同じ範疇で、会う頻度が特別多くなったわけでもなかった。
メールはたくさんした。時間が許せば、電話もした。これも今までと変わらず、主に透馬が一方的に喋り瑛佑が聞いている図式だ。ただ、電話の最後に透馬の言う「好きだよ」にはなんとも答え難く、「うん」としか頷けないでいるのが現状だ。
誰かに報告するほどのことでもないと思っていたが、高坂には話した。ちょうど時間が合ってどこか飲みに行くかという話になり、どうせならうちに来いよと言われ、高坂の自宅で飲んだ。夏人は仕事でいなかった。「いい人できたか」の裏のない聞き方にそこで首を横に振るのも不自然な気がして、話した。
透馬と付き合っている、と言うと、高坂は面食らっていた。「そりゃおまえ」で一度絶句し、手元に残っていたアイルランドビールを一気に飲み干して、「良かった、な?」と疑問形で瑛佑を覗き込んだ。
「驚かせましたね」
「だっておまえ、そっちもいける人間だと思わなかったから……ってまあ、そっか。そうだよな、その辺りなんていうか、リベラルだったな」
「おれもこうなるとは思いませんでした」
「好きなの?」
「……好きか、と訊かれるとまだ、」
瑛佑の歯切れ悪い答えに、高坂は「押し切られたか」と天井を仰いだ。
「そういうわけではないですよ」
「あんまり……勧めないけどな。おれだったら、おまえを好きになった時点で絶対に辛い、から諦める」
「どうしてです?」
「そりゃ女いけるからだよ。毎日どこの女にかっさらわれるか分かんないのに想い続けてるなんて、発狂して死ぬ方が先だよ」
そこまで言うだろうか、と驚いた。恋など、何年もしていないから感覚が鈍くなっているのかもしれなかった。男が女が、というよりも透馬と、なんだと思っている。透馬個人のことを嫌とは思わない。傍にいてくつろいで笑うならそれがいい。
「夏人がヘテロだったら、諦めました?」
その質問にも高坂は「諦める」と答えた。きっぱりとした口調がやけに痛々しい。高坂と夏人の経緯をよくは知らないが、高坂も後ろ向きな人間なんだな、とビールを舐めながら思った。
「――てか、男同士でなにをどうやんのか、わかってる?」
「なにをどう、とは」
「まさか青井透馬だって、お手て繋いで寝るだけでしあわせです、とは思っちゃいないだろ」
高坂の台詞に、思わずグラスを口元に運ぶ手が止まった。実のところあまり考えていなかった。透馬をどう笑わせるかに腐心しすぎていて。
高坂に言われると急に現実味を帯びる。男同士のやり方、セオリーがあるかどうか知らないが、知識としてはぼんやりと知っている。聞いた話で、ぐらいだ。それを透馬と自分が実践するのだと思うとつい考え込んでしまう。嫌悪感はないのだけど、戸惑いやためらいはきっとある。
高坂が「悪い、いじめすぎた」と黙考を続けている瑛佑に笑った。
「ま、カップルの数だけかたちややり方があるんだし。しあわせにやっといてよ」
そう結んで、ふと玄関先に目をやる。ほぼ同時に夏人が帰宅した。腕時計を確認すると、いつの間にか午前一時をまわっていた。
「夏、夏、」高坂が途端に意地悪い顔で夏人を呼び寄せた。「瑛佑、いい人出来たらしいぞ。しかも相手がさ。聞いてやれよ」
「うん、本人から聞いた」至って静かに夏人が答えた。思わず瑛佑も顔を上げる。
「あれ、そうなのか。本人って、」
「透馬くん」
「ほんとだ、本人だ」高坂が頷く。そう言われると、恥ずかしい。
「この間、夜だったな。店に来たんだ。客の少ない夜で余裕があったから、話をした」
「いつの間に」高坂が答えたが、心の中で瑛佑も同じ相槌を打っていた。
「手料理で意中の人を落とすのはアリですか、って真面目な顔で訊かれて、うちでやってる料理教室の案内をしたよ。彼、料理するんだよな。面白かったよ」
「面白かった、って?」
「こんな気合いれてめし作ろう、ってのははじめてだって。浮かれてんだか悲しいんだか分かんなくて、ここ痛い、もたないですって顔しかめてた。その様子がさ、微笑ましかったっていうか」
夏人は胸の真ん中をとんと突いて瑛佑を見た。他人の目から見た透馬を聞かされると、ゆらゆらと心許ない気持ちになった。高坂が「ふうん」とにやけた顔を瑛佑に向ける。
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のんびり歩いていたら日野洋食亭に予約を入れていた時間よりも少し遅れてしまった。昇平が「電話しようと思ってたところ、」と言って笑いながら席を案内してくれた。人通りの見下ろせる、窓際の二人掛けのテーブルだ。そういえばこの出窓に青い花が飾ってあったんだよなと、いまは松毬やばらの実が置かれた窓辺を見て、それから向かいの透馬を見て、少し、照れた。先程の消えるようにかすかな「好き」が効いている。
おそらくその時点で腹をくくった。
瑛佑は牛ほほ肉のワイン煮とライスを、透馬はタンシチューとライスを頼み、メンチカツも余計に皿を取って、昼食となった。昼時の忙しいさなかであるので昇平や夏人とはほとんど話が出来なかったが、店員の一人が「シェフ長からサービスです」とそっとデザートを添えてくれて嬉しかった。小さなココット皿に盛られたゆずとミルクのシャーベットは、食事で発熱した身体に心地よく入ってゆく。
店を出て、透馬は満足げに「うまかった」と息を吐いた。
「透馬、寒いけど少し歩いていい?」横顔に尋ねる。
「どうぞ。つか、駅まで歩いて来たじゃないですか」
「そっち方面じゃなくて。帰り道、隣駅まで」
「え、遠い」
「そんな距離でもないよ」
途中で腹痛くなったらどうしよう、と本気で心配するのでおかしかった。街中の駅の線路と並行して続く道を、ゆっくりと歩く。今度はしりとりをせずに黙って歩いた。口の中で先ほど決意した言葉を復唱して、「あのさ」と瑛佑から声をかけた。
「おれと付き合ったら、不倫相手と別れる?」
透馬は黙った。目をまんまるくして、面食らっている。その顔を見て、至極前向きな気持ちになった。まっとうな恋人って自分がなれるかどうか分からないが、きっと透馬の現状よりいい。
「透馬のことはいいやつだって思ってるし、一緒にいると楽しいよ。でもごめん、今はまだそれだけなんだ」
「……はい、」
「透馬がさ、笑えばいいのにってのは、思ってる。だから、……おれ、自分からあんまり喋らないしこんな感じだけど、それでもいいか?」
「……悪いわけ、ないです。でも、」
「ん?」
「瑛佑さん、無理してないですか?」
「無理だったら無理って、はじめから言ってる」
そういう訳でよろしくお願いします、と頭を下げると、透馬も慌てて下げ返した。しばらく頭を下げ合ってから、透馬が「いや待った」と勢いよく頭を上げた。笑っていない。
「本当におれの恋人になってくれんですか」
泣きそうな声で透馬が訊ね返した。うん、と瑛佑は答える。
「疑い深いな」
「そうかもしれない。……信じらんないから」
「そうなのか」
「振られて仕方ないと思ってたし、下手すりゃ友達付き合いにも戻れないなってのは思ってたんですが、言いたくなって」
「それさ、どのみち透馬は辛いの一択しかないよな」
「……」
「おれは多分、友達付き合いやめるなんて発想にはならなかったから、……片想い? で友達でいるなんて無理をさせたかも」
「……だから付き合ってくれるんですか?」
やっぱり疑い深い。そんなにネガティブな発想にならなくても、という思いで肩を軽く叩いた。
「そうじゃないよ。きっと楽しいと思ったから」
そう言うと透馬は下唇を軽く噛んで、考え込むようにうつむいた。「うん」と頷いてまた顔を上げる。まるで幸せに慣れていないかのように、せつない表情をする。
だからなんでそんな顔をする。
「瑛佑さんって、前向きなんですね」
「透馬はずいぶんと後ろ向きだな」
「だって男同士ですよ」
「そうだけど、それが?」
帽子の上から頭に手をやると、少しだけ後ろの髪が触れた。とてもつめたかった。
それを何度か撫でて、手を離す。
「楽しいこと沢山しよう」
「……それ、すげえ殺し文句」
前を向いた透馬にもう一度「しような」と念を押した。透馬は、ようやく口元を緩めた。泣き出すかと思うように顔をくしゃっと歪めて、「好きです」と呟いた。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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