×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
夏人の携帯電話へ直接予約を入れた。事情を訊いた夏人は「ではとっておきのディナー二名様ご用意させて頂きます」と営業口調で言ったが、すぐ後に「変な予約だな」と笑った。瑛佑の誕生日の段取りを瑛佑が取っている、のが可笑しいらしかった。
デート当日は誕生日当日から二日後にずれた。やさしい雨が降った。傘を差すか差すまいか迷うような弱雨、それでも街をゆく人間の大半がそうしているので傘を差して歩いた。透馬が残念そうに「目論見はずれた」とぼやく。
「雨じゃなかったら、手、どっかで繋いでやろうと思ってたのに」
「別にしたっていいよ」手は濡れるだろうが、構うほどの降りでもない。
「いや、……照れますから」
そう言って、瑛佑の側にある手で首の後ろを掻く。
食事は七時からの予約で、少し時間があったので大型ショッピングモールにでも入ろうか、と話しながら街を歩いた。ふと透馬が足を止めた。小さな路地には古本屋や和菓子屋が小さく店を連ねる。「ふるまち通り」と名付けられた通りは、昔ながらの商店が残っているようだった。
「ちょっと歩いていいすか」
うん、と頷く。何度かこの一角は歩いているのに、目的の店に行く以外は興味がなくて、こういう路地があることを知らなかった。
人形屋、文房具屋、喫茶店と、個人商店と住宅が混ざって静かだった。駅前にある商店街とはまた違い、総菜や食料を扱う店が少ないので人通りが穏やかだ。別れて商売をしましょう、という取り決めが過去に存在したのかもしれない。その通りに「ミタケ画材」という看板があるのを見て、透馬が読んだ。「画材・額縁ならミタケ……入っていいですか?」と言うので、驚いた。
「え、透馬って絵を描くのか?」
「昔から好きなんです、こういう店」
瑛佑はおよそ絵画や彫刻と言った芸術品とは無縁に生きている。画材店など入ったことがない。
「だっておれんち、絵具扱ってんですよ。創業当初は染・顔料の問屋だったんだし」
そう言われれば心底納得した。
店内は狭く、暗く、こんなんで色が分かるか、と正直思った。額縁、絵具(瑛佑にはどれがどう違う絵具なのかよく分からないが、とにかくたくさんの種類の)、鉛筆、紙、筆、オイル。どれも未知の製品だった。小学校の図画室と同じにおいがする。懐かしい。
ある一角で透馬は止まり、そこに置いてあったプラスチックの抽斗を開け閉めしては中に収められた絵具を眺めていた。絵具、と言っていいのか正直分からない。粉状で、小瓶に入っている。
「岩絵の具ですよ。見たことないすか?」と透馬が言った。
「ない。へえ、こんなんなんだ」
「この粉末を、膠っていう糊と混ぜて練って使うんです」
「詳しい」
「まあ、そこは一応、腐っても社長子息なんで」
とはいえうちじゃ岩絵の具は扱っていませんけど、と言う。
「おれの母親が、趣味でやってたんです。日本画」
「へえ」趣味で日本画とは風流だ。
「学生の頃は本気で日本画家になりたいと思ってたみたいですけど…。おれ、母親の実家に預けられていた、って言ったでしょう。母が若かった頃に使った絵具とかみんな、部屋に残ってたんです」
抽斗からひとつ小瓶を取って、顔の上にかざした。真っ青よりもさらに濃く深い。
「それを見つけて、伯父さんが、原料や色の名前を教えてくれた。辰砂、瑪瑙末、白群、これは群青」
透馬が小瓶を振る。さらさらと中の粉末が揺れた。
「原料はアズライトっていう鉱物です。岩絵の具は砕けば砕くほど細かくなって白っぽくなります。これはいちばん荒い」
瓶のラベルには「天然岩群青五番」と書いてある。十五グラムで四千円もしているのに驚いた。「高級品ですよ」と透馬は苦笑いした。
「辰砂と緑青と群青は高級品なんです。おれさ、中学の頃これが欲しくて。でも触ってるうちに割っちゃって。伯父さんにそらもう、怒られた」
「持ち物を勝手に触ったから?」
「それもあるけど、黙って持って行こうとしてたことを。……そりゃそうですよね。落ちた群青はガラスも混じっちゃってたから危ない、とにかく触るなって言われて、近づけなかったな。…あれ、捨てちゃったのかなあ」
「まだ欲しいと思ってる?」
「はい。これ、買おうかな」
瓶を振る透馬の横顔が、また透きとおっている。貸して、と透馬から瓶を受け取った。それをそのままレジへ持って行く。
「え? 瑛佑さん?」
「買ってやる。今度は割るなよ」
レジにて店主に「消費税分おまけします」と言われたがやっぱり高かった。小さな白い紙袋に入れられたそれを、透馬に渡す。
ちょうどよい時間になっていたので、店を出て歩き出した。
「懐かしいものがさ、欲しくなる時ってあるんだよな。おれ透馬に会って、昔飾ってたクリスマスオーナメントの木馬思い出して懐かしくなって、買ったんだ」
「……あ、鍵にぶら下がってるやつ、」
「そう、あれ」
あの木馬は結局、部屋の鍵につけた。鍵になにかつけたくて買った代物ではなく、結果的にそうなっただけ。意味がなくても、何故か手元に置いておきたいものがある。
「これぐらいの青って、透馬っぽいな。冬って感じがする」
「……そうですかね」
「もっと喜んでくれると、いい誕生日になるんだけど」
「いや、驚いてて。……瑛佑さん、格好良い大人すぎる」
嬉しいです、ありがとうございます。ビニール傘の下、紙袋を額に当てて、ひとり言のように呟いた。手を伸ばしてその髪先に触れ、軽くつまんで、引っ張る。
「――すげえ、群青だ」
その一言が心底嬉しそうで、良かった。
← 37
→ 39
PR
ゆっくりとこちらを振り向いた透馬は、ぼんやりとした口ぶりで「おもしろかった」と答えた。放心している。うん、と軽く頷き返す。確かに面白く、身体の中で余韻がわんわんと反響している。
瑛佑の視線から逃れるようにうつむき、そのまま肩に頭をもたせてきた。もう一度「おもしろかった」と言い、「でも失敗しました」と言う。
「もっとつまんない映画だと思ってました。ストーリーがなくて、役者も映えなくて。……それでつまんねーって、瑛佑さんとなんとなくいちゃいちゃする予定だったのに、夢中になっちゃったじゃないすか」
なんて言い分だろう。思わず「ばか」と笑った。
目論見外れてすっかり映画に心奪われ、瑛佑に触れているくせに脱力している。それがかわいい。後ろから腕を回し、透馬の頭を撫でた。
「寝ようか」
「……」
間に、多分いまがっかりしたことが分かる。微笑ましい気持ちになる。
「――キス、する?」
「する」
肩から顔を持ち上げて、片側の手が瑛佑の頬に伸びる。はじめは挨拶みたいに触れてくるだけで、一度離れて、二度目に少しずつ踏み込んでくる。土足ではなく、靴を脱いできちんと揃えて「おじゃまします」とでも言いたげに、他人行儀に。
徐々に深くなり、透馬の体重がこちらへかかってきたので後ろ手を突いた。透馬はすっかり瑛佑の両頬を手で包みこんで、角度を変えてより奥へ舌を伸ばしてくる。息継ぎをするために離れた時、ぴゅちゅ、と水音がした。音で、疼いた。下半身が少し膨らんだが、無視をする。
透馬の眼鏡が当たるのが気になって、身体を離した。眼鏡を外してやろうかとも思ったけれど、やめてそのまま後ろへひっくり返った。疼いているのを知られるのが、なんだか恥ずかしくもあった。気付いたか気付いていないのか、透馬は離れてゆく瑛佑をぼうっと見つめ、それからいつものように心臓の真上に頭を置いた。
天井の蛍光灯をひときわ眩しく感じた。瑛佑の胸で丸くなっている生き物の、髪を撫でる。サイズなら大きな犬に例えられるのに、性格は本当にネコのようで、喉でも鳴らしそうだ。
「――あと五日で誕生日来るんだけど、なにほしい?」
訊ねると、透馬はがばりと身体を起こした。
「まじでくれんですか?」
約束したくせに。ちいさく微笑んで頷くと、透馬は「うわ、」とつられて笑った。
「でも、瑛佑さんの誕生日なんですからね」
と、透馬はきっぱりと言った。
「瑛佑さんの誕生日プレゼントになるようなことじゃないとダメなんです。おれにプレゼントするイベントじゃあないです」
「難しいんだな」
「自分にとって嬉しい日だったらいいんです。一年がんばって生き延びた自分にご褒美と、これからまた一年の英気を養うのと」
そうやって生きようと思ったことがなかったから、透馬の言葉が知らない言語のように聞こえた。がんばって生き延びた。透馬は一体、なにをこらえて生きているんだろうか。意気込まなきゃつらいなにか。深く暗い森の最奥で絶望を味わった者だけが口にできる、迫力と説得力のある台詞を、普通にこうやって口にする。
「透馬が喜ぶんなら、おれにとっては最高の誕生日になるよ」
喜ばせたい一心でそう言った。透馬は顔を逸らし、恨みがましく「またそういう人殺しな台詞を」と呟く。
「瑛佑さんって、本当に人が好いっていうか、育ちのいい人ですよね」
「あんまりよく、わかんないけど」
「本当におれになにかプレゼントして誕生日祝いになります?」
頷くと、透馬は下唇を軽く噛み、それから顔を上げて「デートがしたいです」と言った。
「そんなんでいいのか」
もっと即物的な別のものを思っていた。それこそ透馬がくれたブランケットみたいに、センスがよくあたたかな心持になれる製品、と。
「王道のやつを一度やってみたかったんです」と透馬は笑った。
「休み合わせて、待ち合わせして、どっか行ったり入ったり? それするために三日も前からそわそわして服選んだり」
「そういう初々しさ、この歳になるとないよな」
「だから、お願いします」
ためしにどこへ行きたいか尋ねると、しばらく唸ってから「日野くんとこのディナー」と言った。
「いつか夜に一人で行ってみて、あー瑛佑さんと来てえ、って思ったから」
「そっか、いいよ」
「ちゃんと気合いれてめかしこんでくださいよ」
「スーツでも着た方がいいか?」
「スーツかあ。瑛佑さん、きちんとしたの似合うからな…おれの方がだめだったりして」
そんなはずはないだろう。透馬の方が絶対にお洒落だ。「久々に新しい服でも買うかな」と背後のクローゼットの在庫の薄さを示すと、透馬は至極嬉しそうな顔をした。
これを見られただけで十分、誕生日のプレゼントは貰えた。
「瑛佑さん、おれが選んでもいいです?」
「いいよ。正直助かる、透馬センスいいもんな」
「……おれに全部くれます?」
目的語を省いて言われたのでなんのことかよく分からなかったが、なんでもよかったので「ん」と頷いた。
「じゃあ誕生日は、おれが瑛佑さんをすきにする日で」
はじめの趣旨とかなり異なっている気がしないでもないが、うん、ともう一度頷いた。
← 36
→ 38
「雨?」
気付かなかった。
「うん。ちょっと降って来た」
ビニール袋を手早くキッチンに置くと、近寄ってきて頬をまず触られた。それから首筋を、額を。透馬の手がひんやりとつめたくて、思わず身体を竦めた。
「――大丈夫だって」身体を確かめられていると分かっていたが、透馬の状況がそうだと、伝えたかった。
「なら、良かった」
そう言って、ぎゅうっと抱きしめられた。透馬の力の込め具合に応じて、ゆるく息を吐いてゆく。身体から力が抜けてくたりと合わさる。女と抱き合った時のようにずぶずぶとめり込む感覚はないが、当たる張った肌や骨の硬さもいい。透馬の肩に残っていた雨粒が頬に触れて、気持ちが良かった。
よし今日は水炊きにしますから。と、宣言した透馬と目が合って、額同士を合わせたまま少し話をした。透馬は元気で、大型連休中に少し旅に出てみた、と言う。
「どこ?」
「F県。友達と会って来ました」
「そんなところに友達いるのか」
「ていうかおれ、中学から大学まであっちだったから、友達は主にあっちにばっか」
それは知らなかった。ずっとこちらだと思い込んでいた。意外だ。
「根っからの家出少年。中一までこっちの私立校通ってたんすけど、その頃からもう親父とはだめでさ。学校も行けなくなっちゃって、母親の実家に預けられてたんですよ、ずっと」
「それがF県」
「そう、F県。なんにもない田舎だけど、なんにもないのがいいとこですよ」
「山も海もあるじゃん。雪も降るんだっけ」
過去にホテルの利用客でF県から来たと言う老年の夫婦と話をしたことを思い出した。ここまで出てくるのに接続が大変でようやくたどり着いた、都会は賑わしくて煌びやかで楽しいですね、と方言混じりの言葉で話していた。孫に会いにここまで来たと言い、故郷で撮った写真を瑛佑に見せてくれた。夫婦の住居は全国有数の豪雪地帯にあり、道路わきに高く積もった雪はカーブミラーを見事に追い越していて驚いた記憶がある。
「まー、おれのいたところはそんなに大して雪は降らないですけど、こっちで3㎝積雪しました交通障害です、ってのが笑えるぐらいは、降ります」
「透馬って根っからの都会っ子だと信じ込んでたよ」
「みんなに言われるんすよね。意外って」
虫も殺せなさそうな育ちの良さあるいは臆病さがちらちらするせいだろうか。瑛佑の心を読んだかのように「虫は平気なんだけどな」と言われて可笑しかった。笑いながらようやく離れ、夕飯の支度に取り掛かる。
水炊きの中にレタスが入っていたのと、アスパラガスのバター炒めの皿を見て、春だな、と理由もなく思った。桜はとっくに散っていまはバラが咲き始める季節だと言うのに、今更。きちんと下処理された鶏の手羽肉は骨離れがよく、シメの雑炊まできっちりと平らげた。
「どうだったでしょうか」
「美味かったよ」
「この時期にやるにはちょっと暑かったすね」
「うん」
「雑炊、少し味薄かったですか?」
「ちょうど良かったよ」
「次回はカレー作っていいです?」
「ああ、いいな」
大体、会話は続かず、透馬ばかりが喋ることになるのだが、本人は気にせずよく喋ってくれる。聞いていて瑛佑も楽しい。「煮込むだけで簡単、栄養あるしいいかと思ったけどもう鍋の時期じゃないすよね」とこぼしたのがまるで主婦のようで、また笑えた。
夕飯後に透馬が持ってきた映画を見た。中国製作の、中国の史実をベースに作られた武侠映画だ。映画祭で高い評価を得たとして少し前に話題になっていたが、瑛佑は見たことがなかった。透馬も同じで、「映画祭特集、ってあって面白そうだったんで」とディスクをセットした。
さすがに中国語は訳せず、日本語字幕を二人で追った。色彩が鮮やかで台詞が少なく、アクションが凄まじかった。途中、含まれたラブシーンも切なく、物語に花を添えている。映画全体の評価としては見て良かった。
エンディングクレジットの際の、真っ黒な空白の時間に少しずつ心が元へ戻ってくる。隣を見ると、まだ熱心に画面を見つめている透馬の横顔に視線が行き届いた。
黒縁眼鏡の下、睫毛がふるえそうなほど長い。はっきりとした二重と、モニターの光を映す大きな黒目。これであと二年経てば三十歳に届く男だ、と思うと変な感覚だ。現実味が沸かないと言うか、時折、夢みたいにおぼろげな男だと思う。
← 35
→ 37
気付かなかった。
「うん。ちょっと降って来た」
ビニール袋を手早くキッチンに置くと、近寄ってきて頬をまず触られた。それから首筋を、額を。透馬の手がひんやりとつめたくて、思わず身体を竦めた。
「――大丈夫だって」身体を確かめられていると分かっていたが、透馬の状況がそうだと、伝えたかった。
「なら、良かった」
そう言って、ぎゅうっと抱きしめられた。透馬の力の込め具合に応じて、ゆるく息を吐いてゆく。身体から力が抜けてくたりと合わさる。女と抱き合った時のようにずぶずぶとめり込む感覚はないが、当たる張った肌や骨の硬さもいい。透馬の肩に残っていた雨粒が頬に触れて、気持ちが良かった。
よし今日は水炊きにしますから。と、宣言した透馬と目が合って、額同士を合わせたまま少し話をした。透馬は元気で、大型連休中に少し旅に出てみた、と言う。
「どこ?」
「F県。友達と会って来ました」
「そんなところに友達いるのか」
「ていうかおれ、中学から大学まであっちだったから、友達は主にあっちにばっか」
それは知らなかった。ずっとこちらだと思い込んでいた。意外だ。
「根っからの家出少年。中一までこっちの私立校通ってたんすけど、その頃からもう親父とはだめでさ。学校も行けなくなっちゃって、母親の実家に預けられてたんですよ、ずっと」
「それがF県」
「そう、F県。なんにもない田舎だけど、なんにもないのがいいとこですよ」
「山も海もあるじゃん。雪も降るんだっけ」
過去にホテルの利用客でF県から来たと言う老年の夫婦と話をしたことを思い出した。ここまで出てくるのに接続が大変でようやくたどり着いた、都会は賑わしくて煌びやかで楽しいですね、と方言混じりの言葉で話していた。孫に会いにここまで来たと言い、故郷で撮った写真を瑛佑に見せてくれた。夫婦の住居は全国有数の豪雪地帯にあり、道路わきに高く積もった雪はカーブミラーを見事に追い越していて驚いた記憶がある。
「まー、おれのいたところはそんなに大して雪は降らないですけど、こっちで3㎝積雪しました交通障害です、ってのが笑えるぐらいは、降ります」
「透馬って根っからの都会っ子だと信じ込んでたよ」
「みんなに言われるんすよね。意外って」
虫も殺せなさそうな育ちの良さあるいは臆病さがちらちらするせいだろうか。瑛佑の心を読んだかのように「虫は平気なんだけどな」と言われて可笑しかった。笑いながらようやく離れ、夕飯の支度に取り掛かる。
水炊きの中にレタスが入っていたのと、アスパラガスのバター炒めの皿を見て、春だな、と理由もなく思った。桜はとっくに散っていまはバラが咲き始める季節だと言うのに、今更。きちんと下処理された鶏の手羽肉は骨離れがよく、シメの雑炊まできっちりと平らげた。
「どうだったでしょうか」
「美味かったよ」
「この時期にやるにはちょっと暑かったすね」
「うん」
「雑炊、少し味薄かったですか?」
「ちょうど良かったよ」
「次回はカレー作っていいです?」
「ああ、いいな」
大体、会話は続かず、透馬ばかりが喋ることになるのだが、本人は気にせずよく喋ってくれる。聞いていて瑛佑も楽しい。「煮込むだけで簡単、栄養あるしいいかと思ったけどもう鍋の時期じゃないすよね」とこぼしたのがまるで主婦のようで、また笑えた。
夕飯後に透馬が持ってきた映画を見た。中国製作の、中国の史実をベースに作られた武侠映画だ。映画祭で高い評価を得たとして少し前に話題になっていたが、瑛佑は見たことがなかった。透馬も同じで、「映画祭特集、ってあって面白そうだったんで」とディスクをセットした。
さすがに中国語は訳せず、日本語字幕を二人で追った。色彩が鮮やかで台詞が少なく、アクションが凄まじかった。途中、含まれたラブシーンも切なく、物語に花を添えている。映画全体の評価としては見て良かった。
エンディングクレジットの際の、真っ黒な空白の時間に少しずつ心が元へ戻ってくる。隣を見ると、まだ熱心に画面を見つめている透馬の横顔に視線が行き届いた。
黒縁眼鏡の下、睫毛がふるえそうなほど長い。はっきりとした二重と、モニターの光を映す大きな黒目。これであと二年経てば三十歳に届く男だ、と思うと変な感覚だ。現実味が沸かないと言うか、時折、夢みたいにおぼろげな男だと思う。
← 35
→ 37
母親は母親で、そのドラマ私も見たわよとか、秀ちゃん相変わらず元気で良かったわとか、野梨子さんには大きなブーケがいいわよとか相槌を打ち、反対に自分のこと、ラジオのハングル語講座はドラマチックを演出しすぎて疲れるとか、今度ミュージカルの公演を見にゆくのだとか、教えている学生のひとりが入学直後に事故に遭って大変だとか、そんな話をした。一方が喋る時はただ黙ってうなずき、ターンがまわればそれを他方が繰り返す。会話というよりも、報告。対面で行うのは珍しいが、悪くなかった。電話と違って母親の口元のしわがくっきりと見え、ああ歳を取ったなと感じた。
「それと瑛佑、」喋り終えた帰り際、母親は予言者のように振り向いた。「あなた忙しいからって無理してるんじゃない? 熱出るよ」
「出るよって」言い切り方で言われるとちょっとたじろぐ。
「声が少し低くて掠れてる。疲れてるとそうなるのよ」
自分じゃ分からないような違和感を当て、母親はさっさと出て行った。大体、変声期前に別れているからその後の瑛佑の声なんかよくも知らないだろうに。だがこの人が根拠のない適当な発言をしているのを、瑛佑はとりあえず知らない。そしてこの母親の予言は大当たりだった。
大型連休中は微熱が続いた。大熱が出れば休みを申請するし医者にも行くのに、体温より五分高い程度。仕事は出来る、でも、だるい。喉に違和感もあったが、咳は出なかった。それを五日続けて連休を終えたら、精神的にもほっとしたのかあっけなくダウンした。
ま、疲労から来る、というやつですよ、と医者にあっさりと言われ、薬をもらって帰り、寝て起きたら身体が軽くなっていた。タイミングがうまく重なって明日の午後まで休めるのがありがたい。風邪は、薬を飲んでからの爽快感がある種麻薬のようだと思う。ドラッグハイ、なんて言わないか。冷蔵庫からペットボトルのスポーツ飲料を取り出し、直接口をつけてがぶがぶと飲み、またベッドへ戻る。
うつらうつらとしながら、短い夢を見た。
小さい頃の夢だ。両親が離婚して、母親と離れて暮らすようになってすぐの頃、ひとりが平気な子どもだったのに、瑛佑は無性に一人ぼっちが悲しかった。留守番ぐらい出来る。けれど、父親が帰宅するまでの三時間は絶望的に長くて、つらくて、耐えられないものになった。
悲しい、淋しい、つらい。ひとりにしないで、おれを見てくれよ。
きゅうと胸を絞られる感覚、これをどこかで見たような気がする、と夢の中で思っていた。自分のことではなく、誰かのこと。
トーフが鳴いて目が覚め、ああ透馬、と思い出した。そうだ透馬は、ふと淋しい顔をする。ひどく遠い顔で、はるか向こうを物悲しい眼差しで見ている時がある。あれになにか意味はあるのか、原因は、よく分からない。
透馬とはもうまる一週間連絡を取っていなかった。
瑛佑が忙しい、という話は透馬も承知で、メールも一日一通とごく控えめだった。それになにも返信していない。携帯電話を手の中で持て余しながら、どうしようかと考える。今日は平日、透馬は仕事。明日は休日。ならば夕方、来いと言えるか?
迷っていると電話が鳴って驚いた。青井透馬、と着信を見て心臓が再度高鳴る。電話に出るとき、思ったよりも声が低くなってしまった。透馬は「元気でした?」と控えめに聞いて来た。
「――元気、じゃなかった。昼ぐらいまで」
「え、」電話の向こうで透馬が黙る。
「疲れたまって熱出した。微熱続きで、今日ぶあーっと上がって寝て起きたら下がってて、要するに、身体は休みたかったらしいよ」
「大丈夫なんすかそれ? いまは? 平気?」
「平気。透馬、これから来いよ」
傍にいさせたくてそう言った。行く、と勢いよく返事があった。一時間ぐらいしてやって来た透馬は両手にビニール袋を提げていて、肩先を雨粒で濡らしていた。
← 34
→ 36
四月もそろそろ終わり、春の大型連休に向けて多忙になっている頃、唐突に実母が上京した。こちらに出張で来たついでに息子の顔も見に、と言った。平日で、まだ休みを申し出やすくて幸いだった。ホテル内の展望レストランで昼食を済ませ、どんなところに住んでいるのか見てみたいと言うので、部屋に連れてきた。
「女っ気がないかなと半分あきらめていたけれど」
広々と相変わらずもののない瑛佑の部屋をじっくりと眺める。「友だち来てた? 秀ちゃんじゃないわね。花に詳しい人?」
ベッド下に敷きっぱなしの来客用の布団を眺め、それからキッチンの出窓に飾られたブルーグレイのクレマチスの切り花に目を留め、ひっそりと笑ってそう言う。クレマチス、なんて花の名前を瑛佑は知らなかったが、透馬が持ちこんで教えてくれた。家に花は捨てるほどあるから、と言ってこうしてちょくちょく持ってきては、なにかの器に活け、置いてゆく。
「どうして友だちだと思ったの」
「親しくやってるみたいだけど、女っぽくはないから」
「花も?」
「活け方にこだわりを感じるのよね。こういうのは男よ」
母親の目には良しと映ったようだ。彼女は女である自分と、女らしい女を嫌う風がある。アクセサリーの類は絶対に身に着けないし、服装もシンプルなモノトーンが多い。同じくモノトーンの服装が多い高坂を連想するので、女版高坂、と勝手に命名している。
鋭い観察眼にどきりとしたが、恋人、と訂正するかどうすべきか迷っているうちに母親は「この椅子は変わらないのね」と言ってさっさと椅子に腰かけてしまった。母親気取りも嫌いな人で、息子の部屋にやって来ても特になにもしない。(もっとも、息子の部屋に来ること自体、惑星の衝突級に稀なことだ。)薬缶をコンロにかけて、紅茶を入れた。この紅茶は職場のティールームで購入したもので、香りのよさに母親も嬉しそうだった。
手土産、と言って母親がここへ来る途中で買った干菓子の小箱も開け、向かいに三本足のスツールを持ち出してそこへ腰かけた。こうすれば目線が同じになる。なんとなく彼女の前では、うかうかと床であぐらをかこうなんて真似が出来ない。大学教授、という肩書のせいかもしれない。
「What’s new? 最近なにか楽しいことは?」
「ドラマを見てる、かな」
「あら珍しい」
「見たい、って言われて。イギリス製作のテレビ番組、これ訳してよって言われながら」
「そのお友達の趣味なのね」
「字幕もあったんだけどな」
微妙に会話を噛みあわせないのが、二人の流儀だ。
透馬が持ってきたDVDだ。職場で話題になってるんだよ、と言っていた。けっこう小難しいことを喋るドラマで、同時訳に夢中になり、瑛佑にとってもいいトレーニングになっている。
あとは透馬と出かけた飲食店でくじが当たって一回分の食事券があるとか、秀実が彼女にぞっこんでのろけるのでやっぱりうるさいとか、母の日に義母になにを贈るべきか悩んでいるとか、日常から外れない日常の話をした。
← 33
→ 35
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
フリーエリア
最新コメント
[03/18 粟津原栗子]
[03/16 粟津原栗子]
[01/27 粟津原栗子]
[01/01 粟津原栗子]
[09/15 粟津原栗子]
フリーエリア
ブログ内検索