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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 好きに食べろと言われても、困る。それに綾の容体も心配だった。本当にどうしよう、と途方に暮れていると外から車のエンジン音がした。それは家のすぐ傍までやって来て、唐突に止まる。
 すぐに玄関をがらがらと開けながら「こんにちはー」と声が響いた。透馬が玄関へ向かうより先に家の中へ侵入してくる気配があった。誰だと慌てて廊下へ飛び出すと、綾と同い年ぐらいの背の高い男がこちらへ向かって来た。「お」
「ニューフェイスがいる。そっかおまえ、誓子の息子、だっけ」
 誓子、というとまさしく母の名前である。怪訝な顔で「どちらさまですか」と訊ねると男は快活に笑い、手に提げていたビニール袋を透馬に寄越した。
「押しかけ女房」
「は?」
「綾の幼馴染だよ。綾、いる?」
 リョウ。呼び方が自然で耳にあまかった。あまいのがくすぐったい。いつも「伯父さん」と呼んでいるし、祖父も綾のことを滅多に名前では呼ばない。男の気迫に押されつつ「風邪で寝ています」と答えると、男は「どんぴしゃ」となぜだか嬉しそうな顔をした。
「あいつ、なんとなく風邪でも引いてる気がしてたんだよな」
「……気がする、もんなんですか。風邪ひきって」
「経験と勘。おれのは当たる」
 さっぱり要領を得ない。男は知った風に家の中を歩き、綾の自室の襖を引いて入り込んでしまった。
 中をそっと窺う。綾は布団に潜ってひどい咳をしていた。その枕元に膝を付き、男は綾を覗き込んでいる。
「暁永、」ひどい声で綾は呟いた。
「……いつ帰って来たんだ」
「一昨日、だな。それ、いつから?」
「……さあ、一週間ぐらい。……今日医者に行ったから、」
 そこでまたげほげほと咳く。痛々しかった。男は綾から風邪の症状や医者の見立てをあらかた聞き出すと、部屋をすたすたと出てゆく。
 どうしてよいのか分からないので、透馬も男の後についた。
「あいつさ、咳だけひでえの?」台所で、鍋に水を張りながら男が透馬に尋ねる。
「……よく分かんないけど、多分。熱はあんまりって」
「肺に来てなきゃいいけどな。ああいう風になったら早めに医者連れてけよ……っておまえの歳じゃ、自力じゃまだ無理だな。隣頼れよ。隣のおばあちゃんな、顔はおっさんみてえだけど面倒見いいから」
 男三人いて餓死や凍死とか、いまの状況だとあり得るな、と男が呟く。確かにその通りで、ぞっとした。
「あの……」
 男の名が分からなくて戸惑う。気配を察したのか男は「柄沢暁永」(からさわあきなが)とフルネームを名乗った。
「綾の幼馴染で、いまF大の研究施設で働いてる。植物学が専門でさ、老木見たり新種の花探しに行ったりで、まああちこちしてる。あんまりこっちにはいないけど、たまにこうやって来るからよろしくな」
 勝手な言い分だったが、今日ばかりは頼りになる存在に思えた。
「からさわ、さん」
「暁永でいいぜ。おまえ、名前は?」
「……透馬、です。青井透馬、」
「いい響きの名前だな。おっしゃ、透馬」
 暁永は振り向き、透馬の背中をぐいっと引っ張った。
「料理できるか」
「……できない」
「じゃあ教えてやるから、覚えろよ。今日みたいなことになっても食いっぱぐれないようにな」
 座卓に置いたビニール袋から玉子とねぎを出すように言われた。他にもパックの白米やりんご、缶詰に鶏肉と色々と食材が詰め込まれている。
「玉子、割って溶いて」
「割る、ってこれを?」
「まさか割り方知らない?」
 どんだけめし作んねえんだよ、と暁永は笑った。怒るではなく、笑う。
 暁永も手に玉子をひとつ取り、台所のステンレスに軽やかに打ち付け、片手でボウルに割り入れる。
「こういう風に角っこで叩いて」
「あ、」同じように叩いたつもりでも、ぐしゃ、と手の内で玉子は割れてしまった。手がべたべたになる。
「強すぎたな。中潰れたっていいから割って、ふたつ。殻は取り出せばいいから」
 言われた通りに割った。一つ目の中身はやっぱり潰れ、それでも二つ目は綺麗に割ることが出来た。そこから先は暁永が引き受けた。カラザを箸で取り除き、玉子をボウルの中で混ぜ込み、塩コショウをする。魔法でもかけているかのような手つきだった。出汁を入れた鍋に流して、味見をし、また塩コショウで味を調える。
「風邪だから生姜も入れてあるけど、なくてもいい。他にもごま油足すと風味が出る。ほら」
 そうやって出てきた玉子スープは、とても優しい味がした。腹を満たすだけでなく、身体の細胞の核へと染みてゆくような。
「――美味い」
「次は作れるな、透馬」
「え、」
「ほかにもいろいろと伝授していくから覚えろよ。――綾に食わせてやってくれ」
 最後の台詞はなんだか心細かった。
 綾にはスープだけを持参し、しばらくして暁永は戻って来て、今度は別の料理を始めた。鶏肉を甘辛く照り焼きにし、青菜をおひたしにして添えて、スープと一緒に夕飯にしてくれた。「おれ流親子セット」と満足そうに微笑み、透馬の向かいに座って自分も箸をつける。
 つい一時間前まで顔も知らなかった人とこうして一緒に食事をしているのは、奇妙な感じだ。押しかけ女房、とはじめに言ったが本当にそうだ。


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 真城の家は青井の家ほどではないが大きい。曽祖父は地元の名士だったと言うし、今はほぼ病院暮らしの祖父はかつて教師で、地元の教育長から市議員まで勤め上げた人物だった。だが息子である綾は跡継ぎには興味がないらしく、三十五歳の現在でも未だに独身である。筆耕家として、現在は家の離れで教室をひらく他に個人から舞い込む仕事、カルチャースクールの講師等を務める。大体は家にいるのだが、掃除・洗濯はまめにしても食事は一切作らない。
 じゃあどうしてんの、と柿内が訊いた。週のほとんどが弁当屋の弁当か惣菜だと話すと、柿内は「それ大丈夫なんか?」と顔をしかめた。
「しょうがねえよ、母親とかばあちゃんとか女手いないとそうなるもんじゃねえの」
「ま、羨ましいっちゃ羨ましいよ。うち女ばっかりだから」
「何人?」
「おふくろだろ、姉貴と妹だろ、ばあちゃんにひいばあちゃんもいるし。女だけで五人」
 そりゃすごい。兄弟構成だけなら透馬も同じだが、母親の違う姉とは顔を合わせたことがないし、現在は不登校から脱却を図ってこの有様だ。女だらけの家というのが今では新鮮で、「すげーな」と頷いていたら柿内は「うち来る?」と訊いた。
「うち来てめし食う? 青井来るって言うなら、おふくろ張り切って揚げ物でも作ってくれるかもしんない」
「なに柿内、揚げ物好きなの」笑いながら訊ねる。
「嫌いな男いないっしょ」
 確かに。
 綾に訊けばあっさりとOKだったので、その週末は柿内の家に出かけた。あらかじめ伝えておいたせいか、ものすごい量の家庭料理が出てきた。柿内のリクエスト通りにフライやら天ぷら、野菜も食べなさいと言って大量の千切りキャベツに味噌汁、漬物。柿内の一家は揃うと八人の大所帯で、学校給食以外の場でこんなに人数を囲んで食べたことはなく、そわそわした。賑やかでやかましくて暖かで、嬉しかったのだ。
 そのまま柿内の家に泊まった。友達の家に泊まりに行くのもはじめてだと話すと、柿内は「まじで?」と驚いた声をあげた。
「まじ。っつかあんまり仲いい友達とか、いなかったし」
「青井ってハニーフェイスだしぶっちゃけ女子にもてるじゃん。はじめ馴染まなかったのは都会から来たせいかと思ってたけど、元がドライなわけ?」
「いや、ドライってかな。おれ、学校行ってなかったし」
「ふうん、」
 そっけなく言って、柿内は髪をタオルでがしがしと拭う。先程、一緒に風呂もつかった。「みんな順番待ってるんだから二人で入っちゃいなさい」と柿内母にまくし立てられたからだが、これも初めての経験だった。のっぽの柿内には陰毛もわき毛も揃っていたので、比較すれば成長の遅い自分を恥ずかしく思ったり、柿内すげえなと思ったりで、透馬は忙しかった。
「ま、学校っていつも嫌なもんだよな」
 透馬の不登校に関して、柿内は深く追求はしてこなかった。ドライなのはおそらく柿内の方ではないか、と思う。柿内のこういう大人びたところが、透馬にはちょうど良いとも感じている。
 柿内の部屋で、柿内と一緒に眠る。林間学校ってこんな感じだったな、とかろうじて不登校前に参加した学校行事を思い出し、同時に今までいた場所の不快さを思う。あそこにいなくて良かったのかもしれない。なにもない田舎だが、心地よさを感じ始めていた。
 それにしても柿内母の作る料理は美味かった、と夕飯を反芻する。
 聞けば料理教室で講師の手伝いをするほどの腕前だと言う。柿内の祖母も料理上手であり、彼女が漬けたという大根とかぶの漬物は妙に白米に合って美味しかった。こういうのは、真城の家では出てこない。明日からまた弁当だと思うと惜しい気持ちがあった。なんとかならねえかな。
 いま、真城綾は風邪をひいている。ここ数日ほど咳と微熱が続いているようで、ごほごほと重く嫌な咳をしながらずっとマスク姿で行動している。元々が肉の薄い、痩せた体の男だ。北風なんか吹いたら飛ばされちまうんじゃねえのと思っていたが案の定だった。
 最近はろくにものを食べていないのも知っている。あれ、どうにかしないと、と透馬は考える。だがスーパーへ寄りたくても車がなければ行きにくいし、そもそも何どう買って行くべきかも分からない。おかゆとか? あれ売ってるの? 作れるの?
 柿内母になにか教わっておけば良かったと思いながら翌日夕方に帰宅すると、居間の座卓に一枚のメモと五百円玉が置かれていた。「今日の夕飯は好きに食べるように。寝ています。綾」とお手本そのものの字でメモ書きが残されていた。綾の寝ている部屋は居間の隣であり、壁の向こうから重たい咳の音が聞こえた。


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 ネコは、すぐ綾に見つかってひどく叱られた。それでもめげず「飼いたい」と言い続け、ついに綾が折れた。拾って来たものは仕方がないじゃないか、と祖父が快活に笑ってくれたおかげでもある。
 正式に真城の家の子となった証に、名前を付けた。縞々だから「シマ」と呼ぶと、綾は「安易だろう」と口元を緩めて息を吐いた。
 いま、笑ったのか? はじめて聞いた感情の吐息に、あたたかみを感じた。
「じゃあ、なんかいい名前、ある?」おそるおそる訊ねてみる。
「いや、おもいつかない」
「なんだよ」
 じゃあやっぱりシマだ。飼い猫には首輪をつけるものという思い込みがあって、なんとなく母親の少女時代の部屋にあった黄色いリボンをつけてみたが、シマは嫌がってすぐに取ってしまった。だったらいいかと放っておく。今のところ夜中まで子猫のトイレとごはんがうるさくて、そんな余裕がない。
 だが日々の生活は楽しくなった。ほぼ在宅で仕事をしている綾が、嫌がるかと思ったのに案外真面目に面倒を引き受けてくれた。次第に大きく重くなり家に慣れてきた子猫は、あちこちを駆け回るようになった。「青井くんのところに子猫がいる」というきっかけで、クラスメイトが数人遊びにも来た。そのうちの一人、せいたかのっぽでバレー部の柿内と喋るようになり、なんとなく一緒に過ごすようにもなった。
 ネコを飼い出してみたらいいこと尽くめだった。やっぱりあの時、拾って良かったと思う。シマ、シマ、としきりに可愛がっていたネコだったのに、シマはあっけなく死んでしまった。春間近、透馬の登校の際にぱっと外へ飛び出して、そのまま車道へ駆け出し、車に轢かれた。あっという間の出来事だった。
「――シマ!!」
 透馬の叫び声を聞きつけた綾が家から出てきた。子猫を轢いた車の持ち主が慌てて路肩に駐車し、青くなりながら透馬に近寄る。轢かれた子猫は首の方向がおかしく、透馬は情けないことに触れなかった。そこへ綾がさっと手を伸ばす。抱く、というよりは拾い上げる、に近かった。
 透馬を見て、静かに首を横に振った。まさか、うそだ、と呟いている透馬の手に、綾は子猫を持たせた。
 まだあたたかく、しかしずしりと重たかった。ゴム毬みたいにばねのあってしなやかに跳ねるはずの身体は、動かない。
「病院へ連れて行こうよ」透馬は必死で訴えた。
「だめだ。もう死んでいる」
「そんなの分かんないじゃないか」
「首の骨が折れている。おそらく内臓も。だめなんだ、透馬」
「分かんないじゃないか!」
 混乱のまま叫んだが、透馬にも回復は絶望的だと分かっていた。
 綾の手が、透馬の頭上に伸びる。
 透馬は思わずびくりと身体をひきつらせた。大人の男の大きな手が上にあれば、ろくなことはない。父親は透馬に触りもしなかったが、怒ると身振り手振りが大きくなる癖があり、それが嫌だったことを思い出す。
 身構える透馬の肩に、綾はそっと手を置いた。それは優しく穏やかで、敵意のなさを示していた。透馬の身体を学生服の上から擦りながら、うろたえっぱなしの車の運転手に「お騒がせして申し訳ない」と頭を下げた。
「いえ、ただ、いきなり飛び出してきたのでブレーキが間に合わなくて…」
「仕方のないことなんです。むしろこちらの不注意で、嫌な思いをさせたね」
「いえ……本当にごめんなさい」
「どうか今日のことはあまり気に病まずに。これから出勤でしょう、お気をつけて」
 綾はスマートに対応し、運転手を行かせた。そして透馬を振り返り、「庭に埋めてあげよう」と静かに言った。
「あのお嬢さん、隣の地区の田山さんの娘さんだ。免許取り立てでまだ運転が危なっかしい。いきなりネコが飛び出されたら、パニックになるだろうな」
 運転手をかばう言い方に腹が立った。たった今、かわいがっていたものを失った悲しみをそんなことで慰められるとでも思っているのだろうか。「仕方なくなんかない!」と怒ると、綾は口元を引き結んで黙った。
 雪と連日の低温のせいで土が凍り、なかなか穴が掘れない。綾がタオルを持ってきて子猫をそれで包んだ。連れて来た時からずっと、ゲージに入れてある子猫お気に入りのタオルだ。
「昼間、土が緩んだらぼくがやっておく。手を洗って、学校へ行きなさい」
「……いい、おれやりたい」
 学校へ行け、と叱られるだろうか。予想に反して綾は静かに頷き、「ひとまず家に入ろう」と透馬を中へ促した。
 この時はじめて、綾は透馬にあたたかい飲み物を入れてくれた。この家は基本的に自炊をしない。米だけ炊いてあとは出来合いの総菜を買ってくるか弁当を買うかで、誰も料理はしない。だから透馬はてっきり、綾は料理が出来ないのだと思い込んでいた。
 とろりとやわらかくあまいココアだ。この家にこんなものあったのか、と透馬は驚きながらもそれを口にする。
 ココアを飲んで、凍みついていた心がほろっと融けた。つんと鼻の奥が痛くなり、目からぽろぽろと涙がこぼれる。泣きたくはなかったが、泣けて仕方なかった。ああもうあいついないんだな。そこら辺をころころ跳ね飛んでいた身体は、つめたくなってしまった。
 いないんだ、あんなに可愛かったのに。懐いて、こたつにあたる透馬の膝の上で眠るのが好きだったのに。
 嗚咽を漏らしながら一通り泣いて、泣き止む頃には眠くなった。離れで仕事をしている綾をそっと窺う。今までは邪魔するなと叱られそうで入ったこともなかった。
 部屋の中で、綾はなにかを筆で書いている真っ最中だった。筆耕、という仕事がどういう仕事なのかはよく分からない。襖から顔を覗かせた透馬をちらりと見て、「なに」と紙から顔を上げずに言った。
「……今日、学校行かなくても、いい?」
 綾は筆を丁寧に筆置きに乗せてからこちらを向いた。
「明日は行きなさい」
「うん」
「おやすみ、透馬」
 泣いて眠くなっていたことはお見通しだったらしい。おやすみなさい、とちいさく返して、透馬は扉を閉めた。


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2. 透馬(過去)


 つめたい風を頬に受けながら透馬は歩いていた。枯野原の中にずっと続く道を、マフラーに顔を半分も埋めて早歩きで行く。学生服の密な生地を細い針の一本一本で刺すように北風が身体に浸みこんでゆく。
 本来ならば自転車通学が認められる距離にあるのをわざわざ歩いているのは、ヘルメットの着用義務があるせいだ。校章入りのヘルメットなんてめちゃくちゃださいものを、この辺りの中学生は律儀に被って登下校する。今までいた学校では自転車通学の生徒自体が少数で、ヘルメットをかぶって登下校せずとも親か親の手配した迎えがあり、もしくは電車やバスで通えた。ないなんて、あり得ない。なんて田舎。苛立っているのは、寒さのせいだけではなかった。
 ほっぺた赤くして、量販店で親が購入したぺらっぺらのウインドブレーカー程度の防寒で強がり、人が通れば必ず挨拶をする。方言でまくしたて、コンビニどころか自販機での買い食いも規制され、健全でのびやかにあれとする校風――そうとしか言えない、に抗いもせず事実その通りに育ってしまう、なにもない田舎。透馬はこれらが気に入らなかった。
 もっとも、都会の私立校に通えずこんな場所に転校せざるを得なかったのは自分である。期待に応えられなかったふがいなさ、プレッシャーからの解放、心細さ。透馬を苛立たせているのはそういう様々な要因からだった。
 家まで走ったとして、まだ七・八分はかかる道のりだ。この地区は果樹園が多いが、いま透馬が歩く畑の一本道は売地でなにも植えられていない。農業を続けられなくなった農家が空き地にしていたところに、少し前まではどこかの建設会社が重機や建築資材を置いていたが、いなくなった。はびこった草木は枯れ、電柱だけが続く、くすんだトーンの淋しい一本道だ。
 そうだ、淋しくてたまらない。
 透馬は父親とどうしてもうまくゆかなかった。アオイ化学工業の社長子息、透馬の将来は生まれた時から決まっていた。上に立つ人間として恥じぬようにあらゆる教育を受けたが、それらはまだ我慢出来た。頑張ると母親がご褒美をくれる。偉いわねよく出来たわねと頭を撫で、美味しいおやつが出て、好きなものを買ってもらえた。ただそれが嬉しくて、嫌な英会話もそろばんもスイミングもヴァイオリンもなんとかこなせた。
 父親はおそらく透馬が、というよりは子どもが嫌いなんだろう。もしくは人間自体が。
 どんなに頑張っても父親からは褒められることがなかった。父親にとって百点を取れなければ透馬に存在の意味はなく、九十点なら「なぜできない」と責められる。声が太くよく通る人間で、怒ると耳にびいんと響くのが怖かった。岩のような顔つきは透馬にとっては鬼だ。
 父親に刃向おうとすれば、暴力になる。言葉では勝てないからだ。だが暴力を振る舞うには透馬は優しすぎた。ものに八つ当たりも出来ないまま、透馬の選んだ道は不登校だ。部屋に閉じこもり、日がなベッドで過ごし、夜だけふらっと外へ出た。繁華街、色んな人間が通る。営業を始める飲み屋、酔っぱらったサラリーマン、風俗の呼び込み、腕を組んで歩くカップル。一通り眺め、コンビニで漫画雑誌を立ち読みし、明け方頃帰宅する。そしてまた眠る。日々はこの繰り返しになった。
 透馬の通う学校は初等科から大学までエスカレーター式に進学できる私立校で、要するに金持ちの良い子が多かった。育ちの良い彼らの中で、透馬は浮いた。不登校児童をなんとかすべく担任や養護教諭、果てはスクールカウンセラーまで出てきたが、透馬は学校へ通う気になれなかった。だからと言って家に居場所もない。いられるのは父親が仕事で出かける時間帯の自室だけだ。困り果てた母親が、ついに父親に対して強気に出た。
『透馬を私の実家へ預けましょう』
 母・誓子(ちかこ)の実家には誓子の父親と兄だけが暮らす。F県の、ずいぶんと田舎にある。父親は反対したが、その頃より透馬のふたつ違いの妹の彩湖(さいこ)の利発さや素直さに才を認めたらしく、透馬からの関心が薄れた。最終的には「すきにしろ」で「おまえはだめなやつだ」だった。そうして透馬は秋、F県へ引っ越した。
 こちらへ来てから、いいことなんかひとつもない。
 父親のいない代わりに、出歩くべく街もない。学校も友達も皆遠い。母親も祖母もいない。いるのは無口な伯父と、病院と家との往復を繰り返す老いた祖父だけだ。
 伯父―真城綾(ましろりょう)の考えていることは未だに分からない。言葉数が少なく、あっても抑揚なく喋り、常に険しい顔をしている。整った顔立ちでそうされるので、ひどくつめたい印象がある。
 気軽に声をかけにくいのに加え、先日、母が昔つかっていたという岩絵の具の小瓶を割って以来ますます気まずい。ベッドで眠る間際に少し見るだけのつもりで部屋に持ち帰ろうとして割ったそれを、綾はひどく咎めた。ガラスが危ないと言って触らせてもくれなかった。
 苛々して淋しい。心臓にまで北風が突き通っているかと思えるほどだった。だがここで帰らないわけにはいかない。友人はまだそれほど親しくないし、周囲にはなにもなく、暖を取る場所もない。風がびゅうびゅうと吹きすさぶ中を一晩過ごすなど、ありえない。だから帰るしかないのだ。
 みゃあ、とちいさな鳴き声を風の音にまぎれて聞いた。透馬は足を止める。耳を澄ますと今度は先ほどよりもはっきりと声が聞こえた。すぐ傍の空き地に段ボール箱が放置されているのが見えた。
 疑い深く、そっと近寄る。中にはちいさなネコがみっつ入っていて、ふたつはもうぐったりと動かず、残ったひとつがもぞもぞと身体をふるわせて鳴いていた。
 そっと手を伸ばす。ぐにゃりとやわらかいそれは、しかししっとりと温かい。透馬の手は冷え切っていて、もはや感覚がなかった。それでもちいさいものの体温が知れた。触れた瞬間に手放せないと確信した。
 ―連れて帰りたい。
 こんな寒い中を、こんなか弱いものを置いて帰れる人間が信じられない。怖い、と思いながらも触れた残りの二匹ははっきり分かるほど冷たかった。胸がぎゅっと絞られて痛い。縞模様の一匹を胸に抱くと、それは透馬の手に爪を立てて生きる力を伝えてきた。
 置いて帰れるわけがなかった。しかし連れて帰っても、綾に素直に申告する気になれない。いつものつめたい顔で「置いてきなさい」ぐらい平気でいいそうだ――そう考えて、透馬の結論は「言わない」ことだった。綾には内緒で飼う。家の物置に入れておけばきっと大丈夫だ、と安易に考えた。
 動物を飼ったことはない。触れた経験と言えば、学校で飼育していたウサギと鯉の餌やりぐらいだ。温めたらいいのかなにを食べさせたらいいのか、分からなくて怖い。でもこのちいさくてあたたかなものを守ってやりたい、とただそれだけを思っていた。


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 待っているから、と言っておいて、待ち続ける気はなかった。きちんと把握しなければ逃し続ける。一通りうなだれきってから首を振って立ち上がり、瑛佑は違うナンバーをコールした。
 三度目の着信音の途中で、新花が『はい』と応答した。
「……透馬、いまそちらに?」
『いえ。一緒ではない、という意味だけれど』
「どこにいるか、知ってます?」
『大方の目星は』
 ひとまずそこで安心した。
「新花さん、以前おれの味方をしてくれると言いましたよね」
『ええ、言ったわ』
「透馬のことなんですが、」
『……そんな気がしてたの。いま、立て込んでいるから。今度はあの子なにをやらかしたの?』
「別れよう、と言われました」
『なにそれ』
 新花は大きくため息をつく。
 なにが立て込んでいるのか。透馬をFに駆り立てるなにかがそちらにあるのだ。
「でもおれはそれを容認してはいないんです。話し合いたいんですが、透馬はこちらにいないと言うし、とにかく帰らないの一点張りです。……透馬がかたく隠しているなにかがなんなのか、知りたいです」
『いまこの場でいい? 会って話す方がいい?』
「いますぐ聞いて状況が変わるなら、いま。変わらないなら、直接お会いしたいです」
『ん、そうね……』電話の向こうで新花はふっと笑った。『冷静で結構だわ。頼りがいがあるわね』
『会いに来れるかしら』
「はい、行きます」
『じゃあそうしましょう』
 新花の方は時間はいつでもいいという話だった。瑛佑の次の休みは明後日だ。翌日の晩、仕事を終えてすぐ特急列車に乗り、F県の新花の元へ向かった。新花は駅まで車で迎えに来てくれていた。
「そういえばどうして別れようなんて言われた?」
 車内にて別れ話の理由を訊かれ、瑛佑は「浮気されました」と答えた。
「――らしいです。おれは現場を見ていないし、透馬の言い分も怪しいので信じてはいませんが。でも透馬は、この通りのろくでなしなので別れようって」
「浮気って、有崎と、ってこと?」
「知っているんですか」
「透馬とも有崎とも付き合いが長いからね。でも私も瑛佑さんと同じで、透馬はそんなことしてないと思う。というか、できっこない」
 実際のところは分かんないけど、と言いつつも新花の口調はきっぱりと歯切れ良かった。
「有崎、いま別の若い男に夢中のはずだし」
 新花の言い方にぎょっとした。
「そんなことまでご存知なんですか」
「大学が一緒でお互い顔を知ってるだけ。アオイの一部じゃ噂になってたのよ、透馬と有崎。それを最近は聞かなくなった上にそういう話を耳にしたの」
 確かに瑛佑の元へやって来た有崎には、あたらしい男がいた。新花の言葉に、確証はなくても正直ほっとした。本人がyesと言っている以上、事実があったのかもしれないのだが。
 なんなら有崎に訊けばいいのか、と考え、首を振った。新花に頼めば可能だろうが、そうまでして確かめても本意と外れる。知りたいのは透馬と有崎の関係よりも、透馬が別れ話を切り出した本当の理由だ。
「それに透馬は、瑛佑さんのことが本当に好きでたまんないのよ。別れようって言うぐらい」
 そうだったとして、そこが理解できない。なにも説明されないまま一方的に宇宙人ぶりを発揮されても困る。透馬の真意をきちんと知りたい。
 ふと、車のライトに照らされてなにか金色のものが映った。スピードに負けじとよく見ればそれは商業施設の看板で、瑛佑がそれを見終える直前には青色に変わり、闇に霞んで見えなくなった。いまの光り方を、瑛佑は過去に見たことがあった。花だ。
 瑛佑の視線の先に気付いていたらしく、新花が「アオイの技術よ」と説明した。
「花と同じ原理で、ああいう広告にもつかってるの」
「目立ちますね」そういえば瑛佑の住んでいる街でも、ちらほらと目にするようになった色合いだ。
「気味が悪いわ」
 ばっさりと言い捨てた新花になにも返せなかった。
「あの色はみんな嫌ってる。嫌ってるけど、青と黄色なんて補色、強烈だから脳に残っちゃうの。本当の青い花の美しさを青井は信じてないのよ」
 確かに人工物ならではの毒々しさを持つ色だとは思っていた。それにしても新花の言葉の迫力は凄まじかった。
「透馬も、嫌いなんですか」
「アオイのあの色の花? 嫌いに決まってる」
「じゃあ、あれはなんだったんでしょうね。透馬が置いてったスケッチブックに、青い花の押し花が挟んであって」
「嘘、スケッチブック?」
 ミラー越しに新花と目が合った。
「でも透馬の描いた絵ではなさそうなんです。サインが」
「もしかして、真城?」
 その通りだった。瑛佑は頷く。実物は鞄に押し込んであって、いまそれは後部座席に乗っている、と新花に話す。
「後で見せて。多分、その花は本物の青い花なんだわ」新花は言い切った。
「真城が大事にしてた花を、透馬が持ってるんだ」
「……よく、分からないですが、」
「着いたらちゃんと話す」
 あと五分くらいで着く、と言う。
「あの、透馬は、いまどこに」
「帰って来てはいないわ。もっとも、帰っては来れないけれどね。多分、友達のところに」
 新花の向かった先は真城家ではなく、別の場所にある一軒家だった。真城の家とはまた趣の違う、ごく一般的な二階建て木造住宅。「別宅」と新花が笑う。
「透馬から聞いたかしら。旦那の家よ」
 家の中から髭面の、やや頭髪の薄い髭面の男が出てきて「いらっしゃい」と頭を下げた。まなざしのやわらかな、純朴そうな男だった。
「今夜はここに泊まっていって」
「ありがとうございます。お世話になります」
「さて、……どう話そうかな、」
 通された居間で、新花は視線を左上にあげて思考をめぐらす。家の主人がコーヒーを持ってきてくれたのを機に、ようやく口をひらいた。
「真城の家は取り壊しが決まってね」
 寝耳に水だった。まったく知らぬ話に、瑛佑は耳を疑った。「え?」
「あの家は青井の持家でね。青井がそうと決めたから、取り壊し。明日には業者が入って、あそこは更地になるそうよ」
「そんなに簡単に?」
「古い家だしね……」
 透馬と過ごした三日間を想う。ここで透馬が育ったのか、と感動し、庭で焼き肉をして無茶なセックスもした家。あの古く懐かしい家が取り壊しだなんて。
 新花はコーヒーをこくりと飲んで、息を吐いた。
「あのね瑛佑さん。透馬はね、ずーっとずっと好きな人がいて、ほしいものがあって、でもそれをことごとく阻まれている可哀想な子なのよ」
 すきな人、ほしいもの。それは瑛佑ではなくおそらくは有崎でもない別の誰かだ。
 だが瑛佑の心はもう、透馬を好きでいる。笑顔が見たいと思っている。透馬の嘘を、本心を、誰よりも知りたいと望んでいる。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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