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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 二度目に羽村に話しかけられたのは、庭の洗濯物を取り込んでいる時だった。急な雨になりそうだから取り込んでおいてくれ、と綾が出先から電話を寄越してはじめて、夕立が来そうな空の色に気付いた。それまで夢中で綾の手本を見ながら文字を書いていた。いま透馬が写しているのは綾の好きな詩人の詩集で、あと三分の一も書けば一冊写し終える、というところまで来ていた。
 電話を受け取ってから急いで庭の洗濯物を取り入れる。と、隣人も同じ空を見て同じことをしていた。透馬に気付き、またやわらかく微笑む。「雨、近いね」と空には目もくれずに透馬を見たまま言うので一瞬なんのことを言われているのか分からなかった。
 今日は長い髪を後ろで一結びにしていた。この時期にしては厚い綿地の半そでのTシャツは、白地に巨大な藍のトンボの飛ぶ斬新なデザインだった。藍色は濃く、羽村の腕も染まってしまいそうなぐらいのゆきすぎた青をしていた。
「それ、自分で染めたんですか?」思わず訊ねた。手の中を洗濯物でいっぱいにしているので顎でしか指せない。「シャツ」
「ああ、これね。うーんと、おれが染めた」
「職場で?」
「いや、大学時代に仲間と作ったやつだよ。化学染料だから色落ちしにくいのさ」
 ほーら、と羽村はくるりとその場でまわって見せた。右側にだけトンボの半身が大きく染め抜かれており、羽の紋様が美しい。
「羽村、だからハネなの、ハネ。これはー、オニヤンマ」
「かっこいいすね」
「お、こーゆうの好き?」
「だって普通にかっこいいですよ」
 素直にそう思ったから言うと、思いのほか羽村は照れた。はにかんで見せた表情が普段よりも幼い。それがかわいく思え、そう思った自分の感情に戸惑っていると頬にぽつっとぬるいものが当たった。
 雨が降って来た。
 取り込み中だった洗濯物を急いで縁側の内側へ放り込む。羽村も同じくそうしたが、「そっち行っていー?」と雨だれの中大声で訊ねられた。戸惑っているうちに、羽村は垣根を抜けてやって来る。不法侵入だ、と言ってもいいぐらいの強引さと狡さだった。
「まあまあ、雨がやむまでお話でもしましょうよ、青井透馬くん」
「勝手に人をあげると怒られるから嫌なんですけど」
 と言ってみたが、綾はそんなことで怒らない。不愉快な顔はして、客がいるうちは部屋に引っ込んでいるかぐらいはしそうだが。
 隣人だしいいか、と思って家にあげた。
 お茶、と図々しく言うのでグラスに氷を落とし、沸かしたての麦茶を急冷させて出してやる。せっかくだから先日の暁永襲来の際(例によって綾が長梅雨で体調を壊した絶妙のタイミングでやって来た)に暁永が持参したイギリス土産のビスケットも一緒に出す。王室御用達がどうのこうの、というやつだ。羽村は「なんかすごいの出て来たな」と、思いがけないもてなしを単純に喜んだ。幼い笑みをいっぱいに浮かべる。
 羽村は調子よく喋った。いわく「知らない土地に一人暮らしで淋しかった」と言う。ここへやって来たのは就職口があったからで、市で斡旋してもらえて賃貸でも格安でこんなにいい家に住めた。だが友人知人はみな大学周辺に留まっている。元より人の少ない土地だ。職場の人間以外に頼れる者がおらず、だから隣人の透馬を見て思わず嬉しくなってしまった、と。
「? おれ、嬉しかったですか?」
「タイプだな、と思ったからさ」
 話についてゆけないでいると、外から車のエンジン音が聞こえた。綾が帰宅したのだ。自家用車だったとは言え、駐車スペースから家屋までは案外に距離があるから濡れるかもしれない。強い雨だ。タオルを持って慌てて玄関へ出迎えた。
 二駅向こうのカルチャースクールで習字の講師として勤めた帰りに夕飯の買い出しを頼んでいた。ビニール袋を両手で抱えた綾は、案の定頭の先を濡らしていた。
「伯父さん、おかえり」
「……誰か来てる?」
 玄関に脱ぎ捨てられた見慣れぬサンダルに目をやってから、透馬からタオルを受け取って顔を拭う。
「隣の、羽村さんて人」
 さも興味なさ気に、あるいは非常に面倒臭そうに、綾は「ふうん」と頷いた。
「先にシャワーつかう」
「あ、洗濯物取り込んだだけで全然畳んでない。タオル、」
「いい、これつかうから」
 透馬に買い物袋を預けると、そのまま洗面台へ向かった。コース的には羽村と全く顔を合わさなかった。夏場は食品の足が早いからと羽村を放って透馬は食品を仕舞い込み始めた。それを居間の座卓で、羽村はのんびりと眺めている。
「おなか減ったなあ。ごはん食べたいなあ」
 様子を鋭く嗅ぎ取った羽村にそう言われ、年上に対してであるのに思わず透馬は「白々しい」と突っ込んだ。
「いいすよ、どうせついでだから。食べてってください」
「やったー」
 過剰に手を頭の横でひらひらさせて羽村は喜びを示す。口調がのんびりだから、本当に喜んでいるのかさっぱり分からないのだが。
「強盗みたい」
「失礼だなあ。なんにも盗ってきゃしないよ」
「今日が魚じゃなくて良かったすね。魚の日だったら、一人だけ白米でしたよ」
 喋りながら、そういえば暁永は自分のことを「押しかけ女房」と名乗ったな、と初対面時を思い出していた。周囲にはどうやら、ちょっと強引な奴らが多い。
 夕飯を作るよりも先に、と急いで透馬は洗面台へ向かった。「伯父さん?」と声をかけてから脱衣所の扉を開ける。
 湯気で煙ったすりガラスの向こうに肌色の影がある。それが動きを止め、同時にシャワーの音も止まった。
「なに?」
 ガラス戸を隔てて、風呂場から綾が答えた。
「羽村さん、めし食ってきたい、って」
「そう」
「……いい、んだよね、」
「もう了承しちゃったんだろう」
 笑うと同時にまた水音がはじまった。曇りガラスの向こうの、おそらくは背中を向けて身体を洗っている綾の裸体を想像する。見たい、触りたい。焦燥を引きちぎるかのように透馬は声を出した。「今夜は鶏にすっから」
 脱衣所を出てもまだ心臓がはやっている。


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 隣家は一年ほど空き家になっていた。綾や透馬にお節介を焼いてくれる老母が住んでいたのだが、歳も高齢、伴侶を亡くしたひとり暮らしは色々と物騒で厄介だからと言って娘夫婦の元で暮らすようになったのだ。娘夫婦はここより二十キロほど離れた市内の中心部に暮らす。家を売るのか貸すのか更地にしてしまうのか土地を活用するのか判断がつかぬまま、隣の家は荒れ放題荒れ、庭木はのびのび伸びて真城家にまで届こうかという勢いだ。
 そこに若い男が入った。市の空き家情報サイトに登録していたその物件を男が見つけ、賃貸で住みだしたのは夏の手前だ。透馬の留守中に挨拶に来たのだと言って新品のタオルが置いてあったことぐらいで、男の姿は目にしなかった。
 透馬は高校三年に上がっていた。中学校よりもさらに遠い距離にある高校へは、はじめこそ意地と体力の限りで自転車で通学していたが、高校一年次の誕生日に免許を取って以降原付で通学している。
 真城家には様々な草木が咲き、それに水を撒くのは綾の役目だが、たまに透馬もやる。綾の締切が迫っていたりすると余裕がなくなるためだ。たまたま庭に出た七月、同じく庭に出ていた隣家の男と垣根越しに目が合い、男が笑ったので透馬は驚いた。肩先ぐらいまでの長い髪は濡れていて、男の細い顎先に貼りついている。タオルをかぶっていたので風呂上りだと推測できた。
「花、好きなの?」
 男が聞いた。
「いいよね、花」
 そう言われてもなんとも答えようがない。「お宅のお父さんさあ、よく庭に出て花描いてるよね」と続けられ、透馬は二重の意味で顔を上げた。綾が花を描いている事実を男が知っていることと、綾は父親なんかではないことと。
「――父親じゃないです」
「あー、そうなの」
 のんびりと男は頷く。べつに驚くべき事柄じゃない、という風に。それでなんだか拍子抜けした。
「名前、なんていうの」
「透馬です。青井透馬」
「へえ、いーい名前。字は?」
「青いに井戸の井、透明な馬、です。…その喋り方、癖ですか?」
「気に障る?」
「……べつに、そういうわけじゃ」
 人のテンポを外す言い方ばかりされて、戸惑う。この辺りの人間とは少しイントネーションも違う。不意に男は「お宅の夕飯っていっつもいい匂いするよなあ」と今までの会話はなんだったんだというような台詞をこぼす。
「おれ一人だからさ、めしはいっつも適当。お宅んとこ、二人暮らしなんだろ? 誰が作ってるの? きみ? お父さんに見えるけどお父さんじゃない、人?」
「おれです」
 透馬が答えると、男は「そうかあ」とまた一人で納得してしまった。
「今度めし食わしてな」
 そう言って男は庭から家の中へ引っ込んでしまった。なんだったんだろう、あれ。でも笑ったな。悪い人じゃなさそうだ、と思いながら透馬も家の中へ入る。今夜はどんぶり飯にするつもりだった。時間がない時はいいぞ、肉つかえばスタミナつくしな、と言って暁永が真城家へやって来るたびに教えてくれるレパートリーのひとつで、牛肉でも豚肉でも鶏肉でも基本の味付けは同じだ。
 今日は豚肉をつかって、豚丼だ。そこに冷奴と味噌汁も足す。柿内と遊んでいたせいで遅くなってしまったから手っ取り早くつくれる料理を、と考えてのメニューだが、だからといって手抜きは絶対にしないと決めている。透馬にとって、綾に食事を作ってやることはこの上ない喜びだ。普段は顔を緩ませない男が食事の際にはほうと息をつく、それが嬉しい。
 夕餉の支度が整い、仕事場としてつかっている離れに顔を出すと、綾はテーブルの脇に据え付けたソファでうたたねをしていた。整然と美しいテーブルにはいまのいままで取りかかっていたと思われる結婚式の席次表の高級和紙が並んでいる。黒々と艶よい、上品な文字だ。それに触らないように最新の注意を払いながら、そっと綾に近付いた。
 すうすうと寝息を立ててよく寝ている。白い頬は透馬とそっくりで、だが線の細さはくらべものにならない。綾の方がはかなく、薄い。あとちょっとで四十歳になるんだっけか。この身体を前に触れていいのか触れてはいけないものなのか、透馬はいつも迷う。
 触りたい、と毎日思っている。
 透馬を認め、家に置いてくれた人だ。
 ためしに前髪をそっとつまんでみた。綾は起きない。本当は睫毛に触れてみたい。触って、目蓋を押し上げて、目に透馬を映して、――想像していると綾の寝息がふっと切れた。綾が目蓋を上げ、透馬を見上げる。
 その気だるげな仕草にも、透馬の心臓はいちいち反応する。身体が疼く。
「――めし、できたよ」
「ああ」
 ふうと大きく長く息を吐いて、綾は立ち上がった。夏が来ると言うのに暑さとは無縁の顔や身体だと思う。離れから母屋へと向かいがてら、隣家の男の話をした。そういえば名前を知らなくて、透馬だけが名乗り損だった気がする、と話したら綾はうすく笑った。
「隣、羽村さん」そう綾が言った。「川の傍に染織工場があるだろ。そこにお勤めだそうだ」
「染織工場って、なんか面白いにおいしてる、あそこ?」
「あそこ。糸がたくさん干してあるの、見たことあるだろう。あの匂いは藍が発酵しているにおいだ」
 確かかつての隣人もそこに女工として勤めていた、と聞いたことがある。あまり規模の大きな工場ではないが、なにをやっているのか、見える色合いに惹かれて気になってはいた。
「後継者不足で、って言っていたけれど、染め織りをやりたい若い人はいるんだろう。どこかの美大から人を採るようになって、最近は若い人が増えているようだ」
「そうなんだ」
 そういえば男の家の縁側にはなんとも風流な麻の暖簾がかけられていた。男が製作したものか購入したものかは分からないが、前の住人のものではなく男の趣味であることには間違いなかった。
「今度めし食わせろ、って言ってた」
「そう」
 あまり興味がなさそうに綾は頷いた。人付き合いを嫌う綾は、こういう付き合いも面倒だと思っているのだろう。それに対して淋しいような好ましいような妙な感覚を透馬は味わう。そんなんじゃ世間から取り残されてしまうよ、と綾を不安に思う気持ちと、ここには透馬と綾だけでいいのだ、という安寧の気持ちとが永久に平行線のまま存在する。


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 夕暮れがだいぶ早くなっている。夕方、まだ早い時間ではあるけれど町並みが暗闇に沈みかけ、信号機や外灯のライトが目にまぶしいと感じる。次第に上昇してゆくゴンドラ内の、窓際に寄ってそれをずっと見ていた。なんにもない町。特に高い建築物があるわけではなく、どこにでもある家々が連なり、たまに借地の畑があいだに入る。どんよりと広がる雲は一日中そうで、空さえも平々凡々としている。
「この遊園地開園直後の頃はよく来たよな」と暁永が綾に言った。振り向くと、向かいに腰かけてやはり外側を見ていた綾が暁永を見ないまま頷いた。
「ここ、いつからあった?」
「おれと綾が中学の頃だっけ、出来たの」
 やはり無言で綾が頷く。
「さっき二十周年とかいう張り紙見たよ」
二人だけで会話をしているのがなんだか悔しくて、積極的に口を出した。暁永が「そうそうそんくらい」と笑う。
「子どもだけで行っちゃいけないって学校側がうるさくてさ。でも内緒で、二人で行った。あん時も綾は絶叫系がだめで」
「違うさ。おまえが無理やり乗らせるからあれでだめになったんだ」
 ようやく口を挟んだ綾は、半笑いしていた。
「そうだっけ」
「そうだよ」
 がこん、と音がしてちょうど真上までやって来た。あとは降りてゆくだけだ。今度は反対側の景色が見たくて、綾のいる座席へ寄った。
「――思い出した、あの時も観覧車だけはおまえ喜んだんだ」
 暁永が嬉しそうに言う。綾は「まあな」と言うだけで、それ以上の会話は続かない。透馬と一緒に町並みを黙って眺めていた。
 観覧車から降りると、土産物の一帯を通り過ぎて帰るように道順が誘導されている。べつに引き返してもいいのだが、時間も良かったので食事をして帰ろうと言う話になった。
 ふと綾と暁永が同時に足を止めた。二人の目線の先には移動式の花屋のワゴンがあった。隣で遊園地のオリジナルキャラクターが風船をくくりつけた花を来園者に配っている。
 もらう人間がいないのか、ずいぶんと余っていた。「どうぞお持ちください」と言って女性スタッフと着ぐるみが男三人組にも容赦なく花と風船を寄越してくる。透馬は青を、綾は白を、暁永は赤の風船をそれぞれに貰って、そのトリコロールの色合いは遊園地のテーマカラーにあつらえてあるのだが、綾が「フランスだな」と呟き、暁永が吹いた。
 薄いビニールに包まれた花は一種類だけだった。花弁のしっかりとしたガーベラ。これも色とりどりだった。綾と暁永がしげしげとそれを眺め出す。
「花だ」
「花だな」
「やっぱこうやってもらうといいもんだよな」
「ああ」
 二人の会話は、どうもさっきから要領を得ない。二人だけで成立している辺りが気に食わない。それを聞いてよいものなのかどうか、迷う。迂闊に口を挟むと「うるさい」と怒られる――そういう理不尽さをいままで味わって来たせいで、透馬の基本には「遠慮」が組み込まれてしまっている。
 結局、花の話は聞けなかった。牛丼を食べて帰り、帰宅後は透馬の部屋にみっつの風船を押し付けられた。花は綾が引き取った。三本の花をきちんとスケッチブックに描き留めていたことを、後になって知った。


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 行き先の候補は三か所あった。ひとつ、山間のキャンプ施設で焼肉をする。ひとつ、海辺の水族館へ行く。ひとつ、遊園地へ行く。暁永は「こっち来たなら山だろ、山」とキャンプ場での焼肉を推したが、山奥にあるというそれに透馬は魅力を感じなかった。それよりも水族館へ行きたかったのだが、これは綾が嫌がった。全く知らない話で、綾は水が駄目だという。
「――え、じゃあ風呂とか洗顔も、だめ?」一緒に生活していて、そんな風には見えなかったが。
「いや、慣れたしそれぐらいは許容範囲だよ。プールはだめだな。たっぷりと水面がたゆたっているのを見ると、息苦しくなるんだ」
「たゆたう?」
「ゆらゆらしている、っていう意味」
 字を教わり始めてから、時折こうして綾は透馬の質問に答えてくれるようになった。
 それにしても水が苦手だなんて。生活に必需な事柄じゃないか、と透馬は憤りを感じる。言ってくれればいいのに、これだから無口は。そうは思っても、じゃあ水が苦手ですといざ言われて透馬がどうこう出来た話ではないのだが、教えてほしかった。綾のことを。
 暁永が至ってのんきに「やーっぱ水系はだめかー」と答え、結局行っても行かなくてもいいような遊園地へ三人で行くことになった。
 夏休みも終わった九月の半ばであるせいか、休日だというのに人影もまばらだ。ぐずぐずと煮え切らない薄い雲の広がる微妙な天気の日で、その代わりに連日の暑さはずいぶんとやわらいで過ごしやすくはなっていた。コーヒーカップやメリーゴーラウンドやゴーカートと言った入口すぐのアトラクションをすっ飛ばして、暁永がまっすぐに向かった先は案の定と言うべきかジェットコースターだった。実を言うと透馬はこういうものが苦手だ。家族で遊園地に来た思い出自体はあるのだが、彩湖が喜んでばかりで透馬は怖くて仕方がなかった。男の子のなんだからああいうの好きなんでしょう? と祖母に握らされたチケットも、結局は別の大人しいアトラクションで使った。
 おそらくは有無を言わさず強制的に仕掛けられたスピードが。強引に恐怖を与えてくるあたりある意味青井の父親とそっくりだ。ちょうどよく人がいない、と喜んで駆け寄る暁永に、透馬はついて行きたくなかった。暁永が振り返る。
「なんで? こういうもんダメ?」
「あっちにしようよ、空中サイクリング」遊園地内の空中にぐるりと張り巡らされたレールの上を走るサイクリングのアトラクションを指差す。「それか、観覧車」
「あほか、そりゃ中盤にとっとくってもんだろ。そうか、透馬はジェットコースター乗れない系か」
「乗れない系。……男だけど、ビビリ?」
「おまえの年齢じゃまだ決めつけらんないだろ。ま、綾は完全にだめだけどな」
 そういえば綾はと振り返ると、三人分の荷物を抱えて木陰のベンチに座り、ミネラルウォーターの入ったボトルを口にしている。二人に気付くと「早く行け」と言う風に顎で先を促した。
「ほら、もう端から乗る気ねえんだ」
「おれも残ってるから暁永さん行ってきていいよ」
「だからおまえの年齢じゃわかんねえって言っただろ。乗っとけよ、ここのはそんなんでもねえから」
 そう言って強引に手を引かれて連れ込まれる。どこが「そんなんでもない」というのか、という十数分間だった。身体的な気持ち悪さよりも、精神的なダメージの方が大きい。
「ほら、次アレ」
 間髪入れずに連れ込まれたのは水の上を通過するジェットコースターで、その次はタワーの一番上から猛スピードで落とされるアトラクション、次は、その次はといわゆる「絶叫系」にばかり乗せられて透馬は身がもたない。
 ただ、最中に暁永が大声を出すことを教えてくれた。思い切って手を離してみることも。力が入っているから抜けよ、という通りに声を出したり手を挙げてみると、思いのほか「楽しい」と思える瞬間があった。身体が宙に浮いて振り回される、ある意味では強引な、強烈な解放感。次第に笑顔の増えた透馬を見て、暁永は「みんなこういうこと楽しみに遊園地に来るんだよ」と冷えた炭酸飲料水を渡してくれた。
「吐き出したらどうしようかと思ったけど、そうでもねえな。楽しかっただろ、透馬」
「……あんまり連続してやらなければ」
「最後笑ってたくせに」
 飲み歩きしながら綾の元へ戻る。綾はなにをしていたかと思えば、スケッチブックを取り出して絵を描いていた。普段を裸眼で過ごす人は、絵や文字を描く時だけ眼鏡をかける。銀色の細いフレーム越しに目が合ってどきりとした。
「お、メリーゴーラウンド」綾の手元を勝手に覗き込んで暁永が言う。
「綾が建築物を描くのは珍しいな」
「こういう絵は誓子の方が得意だな、やっぱ」
「おれも見たい、」
 そう言うと綾はうすく笑って透馬にスケッチブックを寄越してくれた。普段よりもややタッチが荒い。大きなものを描くときは鉛筆を横にして持つために、線が太くなる、と言う。
「じゃ、まあ、綾も楽しませてやんなきゃだからメリーゴーラウンドも乗りますか」
 暁永が朗らかに言う。
「べつに乗りたくて描いてたわけじゃない」
「透馬どう?」
「おれ、あっち乗りたい」
 指差した先に観覧車がある。先程、けっこうな高さまで上がるアトラクションを経験して、観覧車はもっと上までゆくのを見た。寂れてはいるが町並みを見下ろせるのは魅力的で、乗りたいと思っていたのだ。
「じゃ、観覧車。綾もいいだろ」
 これには綾も頷いてくれた。それがなんだか嬉しい。


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 結論から言えば透馬は引っ越さなくても済んだ。誓子が青井を説得したおかげだと綾に説明され、疑わしかったが青井も特になんのアクションも起こさなかった。完全に信じるまでには少し時間がかかった。青井のやることはいつだってエキセントリックで衝動的、常に緊張感を強いるからだ。
 青井の一件以降、透馬も綾も疲れていた。改めて二人暮らしとなったわけだが、祖父はだいぶ前からほぼ病院暮らしのまま逝ったので生活は変わらない。変わらないことが良かったのか悪かったのか。特に綾は、なんとなくだるい、と言って横になっているところをよく見かけるようになった。身体を起こしてられないぐらい辛いのだ。
 夏の暑さも手伝っているのかもしれなかった。医者へ行こうよ、と言っても「この時期はいつものことだから」と言って聞かない。明日もあんな調子だったら隣の家のおばさんか柿内の母親に綾の調子の悪さを相談してみよう、と決意して床に就いた晩、唐突に暁永がやって来た。
 前回と同じ出現の仕方だったが、夜遅かったので透馬は寝ていた。驚くことに暁永は真城家の合鍵を持っており、それをつかって侵入したのだ。なにか物音がする、と思って起き上がり、音のする方へ行く。綾の部屋の襖は半分ほどあいていて、中からスタンドの明かりが漏れていた。
 ベッドに横たわった綾を、前と同じように暁永が見下ろしていた。とても優しい顔立ちをしていることにその時気が付いた。
 なにか話しているのを、聞いてはいけない気がした。でも聞きたい。透馬はそっと襖の横の壁にもたれ、座り込む。耳を澄ますと細々と夢のようなボリュームで二人の話し声が届いた。
――親父さん、亡くなったんだってな
――ああ
――勝手でわるいけどさっき線香あげさせてもらった
――わるいなんて思っちゃいないだろ、
――綾、また痩せたか
――なんでもっと早く来なかった
――……
――来なかったんだ
 急に音が止んで、聞こえなくなった。床木が軋まぬよう細心の注意を払いながら手をついて体重移動をし、中を覗きこむ。
 綾の頭を暁永が撫でていた。眠り際の子どもを愛おしむように、優しく髪を梳いている。
――明日もいるから。今日はおやすみ
 そう言っても、部屋を出てゆく気配がない。綾が眠りにつくまでずっとそうしているつもりか。気付かれないようにゆっくりと立ち上がり、透馬は自室に戻った。


 寝て起きたらますますあれは夢だったんじゃないかと思えたが、支度を終えて台所へ行くと暁永が「よおおはよ」と当たり前に調理台の前に立っているので、そうか本当のことだったんだと起き抜けのぼんやりとした頭で理解した。
「大変だったな」暁永は包丁とまな板の上でねぎを刻みながら言う。
「じいさん亡くなって、青井の親父が面倒事持ち込んだんだって?」
「……みんな知ってんの?」
「半分は綾から聞いて、半分は誓子から聞いた。あとほんの少しだけ新花から情報収集」
「アタカ?」
「名前も知らないのか。おまえの姉貴だよ」
 言いながらぱきぱきとした動きで食事の支度をしてゆく。小鍋の中で味噌を溶き、同時に炊飯器が炊飯終了の電子音を鳴らす。(もっともこれは透馬が昨夜仕掛けておいたものだ。)フライパンの中にはなにか別の一品も出来ているようだった。透馬は冷蔵庫から玉子を二つ取り出して歩いてゆき、暁永の隣へ立つ。
 背の高い男の肩にも届かなかった身長だが、今は暁永の顔の半分まで届いていた。
「――たまご、もう古いから使っちゃいたい」
「お、発言が前とずいぶん違うな、透馬」
「おれがめし作ってる話も伯父さんから聞いた?」
「綾じゃなくて、誓子から。大した進歩だと思うぜ。冷蔵庫、ものが充実しててかつ整ってるからさ」
「片付けろってのは伯父さんがうるさいから」
 違いない、と暁永は明るく笑った。
 透馬が取り出したふたつの玉子は暁永が炒り玉子にした。きつめの醤油と砂糖とで甘辛く、のりとごまと合わせると簡単なふりかけだ。そうかそういう使い方もあったか、と透馬は興味津々にそれを眺めた。玉子焼きにするよりも簡単で、ゆでたまごにするよりも食卓に映える。
「伯父さん、食うかな」
「おれのめし食わないなんてあり得ない。呼んで来いよ」
 暁永に指示されて透馬は綾の部屋へ向かった。少しずつ寒くなってきているから、綾は半そでのTシャツの上に薄いカーディガンを羽織った。白く細い腕がやわらかな布地に隠されてゆく。その様を見てなぜだか落ち着かない気分になった。
「? 透馬?」
「行く、」
 綾の腕を、手を見ていた。それから肩を、首筋を。指摘されてようやく意識が表へ戻り、慌てて綾の部屋から出る。
 また三人での食事だ。綾は「食べたくない」と言わずに、茶碗に小盛りの飯をゆっくりと噛んだ。良かった、とひどく安心する。暁永が「ほら言ったろ」と自信満々に微笑んだ。
「暁永さん、いつまでいんの?」
「しばらく」
 しれっと答えて、暁永はきゅうりの漬物をぱりぱりと音を立てて噛む。「ちょうど夏休みなんだ、いま」
「遅くない?」
「ずらして取ったからな。――どこでも連れてってやるぞ、透馬」
「え」
 こっちに話が来ると思ってはいなくて、驚いた。
「どこでも?」
「おまえ、ここ来てからどこにも遊びにつれてってもらってねえだろ。綾のことだし」
 違う? と暁永は綾の方を向く。綾は目だけで頷いた。
「でもおれ学校始まっちゃってるよ」
「じゃあ次の休みだな」
 次の休みまで、あと二日だ。
「綾も行こうぜ」
「ぼくはいいよ」
「付き合いわりーな。早く身体なおして遊びに行こうぜって言ってんの」
 加減なく暁永は綾の背中を叩いた。反動で綾の身体が揺れ、折れやしないかとひやひやする。しかし綾は笑っていた。透馬が久しく見ていない、心からくつろいだ顔をする。
 笑えばつめたい印象が一気にほどけ、魅力的になるのだった。人間に戻った、とでも言いたいぐらいだ。不意に見せられた笑顔に透馬の心臓が大きく鳴った。なんだろう、とても痛く、苦しい。
「そうだな、たまにはな」
 暁永に同意し、また笑う。透馬はまだ心臓が痛かった。



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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