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「あんたの明日……もう今日か、の、仕事に間に合うように送ってくつもりだったんだけど予定がずれた」
「……なに、どした?」
「姉貴が産気づいた。破水してるみたい。おれ、姉貴を乗せて病院行かなきゃ」
さすがに驚いて一気に目が覚めた。起き上がろうとするとずきっと頭が鈍く痛んだ。「あー、いいから寝てろ」と制される。
「いや、寝てる場合じゃないだろ、」
「あんたは寝てる場合でいいんだよ。客だからな」
「……いま何時、」
「三時。だからいいんだよ、ほんと」
暁登は腕に嵌めた時計を見ながら「あんたのアパートまでは朝になってから親父が送ってく」と言った。
「おれはいますぐ姉貴とお袋と義兄さん連れて病院に行く。今朝のばあちゃんの面倒と食事の用意とかは百夏がしてくれるから」
「……どこの病院?」
「市の総合病院」
聞いて、いつかの苦い記憶が甦った。かつての婚約者が子どもを産んだ病院、その父親に訳もなく責められた病院、それを暁登に聞かれていて関係がこじれた病院だ。
暁登もそれを思い出したのか、目を少しだけ細めた。理由もなく目を見合う。また足音がして、二人は即座に目を逸らした。
部屋に顔を覗かせたのは暁登の母親だった。
「――暁登、岩永さんにお話済んだ?」
「済んだ。ごめん、行こう」
暁登は立ち上がる。暁登の母親は「変にばたばたしちゃってごめんなさいね」と樹生に軽く会釈をした。
「いえ、こんな時に来てしまって、申し訳ないのはむしろこちらの方です」
「朝までゆっくり休んで。また良ければいらして下さい。そう、赤ちゃんの顔を見にね」
そう言われ、樹生も軽く頭を下げた。親子は足早に部屋を出て行く。
樹生はまた布団に体を横たえる。心臓の動きがいつもよりも速い気がした。唸っているのは、久しぶりに暁登の目なんか覗いてしまったからか。
眠ってしまうのは惜しいと感じる。また、何かの決定的な瞬間――例えば暁登の甥か姪かの産声、を逃すような気がした。だからって起きていても仕方がない。樹生はこの家では部外者で、客で、せめて自力で帰ることさえ今の状況では難しい。
考えているうちに体は浅く眠りへと向かう。微睡んでは浮上して、また沈み、ゆっくりと浮き上がると、なんとなく辺りが白んでいた。
スマートフォンの時計を確認すると朝五時より少し前だった。カッコウが遠くで澄んだ声音を響かせていた。窓の障子を引く。そこは家の裏手の道に面しているようで、ちょうどその道を歩いていた暁登の父親と目が合った。
会釈をされたので、樹生は窓を開けた。途端に朝の清浄な空気が滑り込んで来る。南風の、少し湿気た匂いがした。
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「……なに、どした?」
「姉貴が産気づいた。破水してるみたい。おれ、姉貴を乗せて病院行かなきゃ」
さすがに驚いて一気に目が覚めた。起き上がろうとするとずきっと頭が鈍く痛んだ。「あー、いいから寝てろ」と制される。
「いや、寝てる場合じゃないだろ、」
「あんたは寝てる場合でいいんだよ。客だからな」
「……いま何時、」
「三時。だからいいんだよ、ほんと」
暁登は腕に嵌めた時計を見ながら「あんたのアパートまでは朝になってから親父が送ってく」と言った。
「おれはいますぐ姉貴とお袋と義兄さん連れて病院に行く。今朝のばあちゃんの面倒と食事の用意とかは百夏がしてくれるから」
「……どこの病院?」
「市の総合病院」
聞いて、いつかの苦い記憶が甦った。かつての婚約者が子どもを産んだ病院、その父親に訳もなく責められた病院、それを暁登に聞かれていて関係がこじれた病院だ。
暁登もそれを思い出したのか、目を少しだけ細めた。理由もなく目を見合う。また足音がして、二人は即座に目を逸らした。
部屋に顔を覗かせたのは暁登の母親だった。
「――暁登、岩永さんにお話済んだ?」
「済んだ。ごめん、行こう」
暁登は立ち上がる。暁登の母親は「変にばたばたしちゃってごめんなさいね」と樹生に軽く会釈をした。
「いえ、こんな時に来てしまって、申し訳ないのはむしろこちらの方です」
「朝までゆっくり休んで。また良ければいらして下さい。そう、赤ちゃんの顔を見にね」
そう言われ、樹生も軽く頭を下げた。親子は足早に部屋を出て行く。
樹生はまた布団に体を横たえる。心臓の動きがいつもよりも速い気がした。唸っているのは、久しぶりに暁登の目なんか覗いてしまったからか。
眠ってしまうのは惜しいと感じる。また、何かの決定的な瞬間――例えば暁登の甥か姪かの産声、を逃すような気がした。だからって起きていても仕方がない。樹生はこの家では部外者で、客で、せめて自力で帰ることさえ今の状況では難しい。
考えているうちに体は浅く眠りへと向かう。微睡んでは浮上して、また沈み、ゆっくりと浮き上がると、なんとなく辺りが白んでいた。
スマートフォンの時計を確認すると朝五時より少し前だった。カッコウが遠くで澄んだ声音を響かせていた。窓の障子を引く。そこは家の裏手の道に面しているようで、ちょうどその道を歩いていた暁登の父親と目が合った。
会釈をされたので、樹生は窓を開けた。途端に朝の清浄な空気が滑り込んで来る。南風の、少し湿気た匂いがした。
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暁登父は樹生と、婿と、自身のグラスにビールを注ぎ、ホットプレートにスイッチを入れて餃子を焼き始めた。目元は暁登によく似ていたが、体格は暁登とは全く違って固く締まっていた。暁登はどちらかと言えば母親似なんだろう。暁登母は華奢で線の細い体つきをしていた。
「暁登が友達を連れて来るなんてそうはないんですよ」と暁登父は言う。
「郵便局にお勤めだとか。その節は息子がお世話になりました」
「……いや、私は特に何かしたわけではないですし」
「辞めてしまいましたけどね、配達員の仕事は暁登にとっては長く続いた職でもあるんですよ。いい先輩がいて、と言っていました。岩永さんのことでしょう」
暁登父は穏やかに喋る。あなたのお陰だ、と言わんばかりで、樹生はここにも並々ならぬ信用と信頼があるのかと、苦笑する。
「辞めてしまったのは惜しいと思いましたけど、……組織としては大きくて、色んな人のいる会社です。いい人もいれば、あまりそうでない人も」
「まあ、そんなのは僕の会社もそうですよ。きっと、どこでも」
「そうですね。塩谷くんの新しい仕事が……うまく続けばいいなと思います」
と言うと、暁登父は「本当にありがとう」と嬉しそうにはにかんだ。隣に座る暁登は黙ったまま、こちらはアルコールではなくお茶を煽る。
焼けた餃子を皿に取り分け、意味もなく杯を合わせた。とりとめもない話をする。義兄は樹生よりひとつ年下だと知って、樹生はまた苦笑した。
「岩永さんはご結婚はされてないんですか?」と義兄に尋ねられる。隣にある体は何も動じないのが悔しくなり、「したいですよ」と答えた。
「それはしたいと思う人がいるってことですか?」
「そうですね」
と言うと、カウチに寝そべる暁登の姉と、台所に立って家事を手伝っていた妹とが一斉に「きゃ」と反応した。二人とも身を乗り出して、こちらの話に興味津々だ。
暁登だけがしれっと餃子を食べている。
「ですが難しいかもしれません」
「なぜ?」
「……前にね、一度婚約破棄にならざるを得なかったことがあって。まだ二十代の半ばの頃で、とても辛かった。だから慎重になっているのと、」
いつの間にか塩谷家の皆が樹生を窺っていた。
「私はとても淋しがりで甘えたがりで家族という存在が欲しい、ということを、恋人に伝える努力をしてこなかったから、ですかね。関係をこじらせまして」
「それは、いまの恋人さん、に、ですか?」
「そうです。……言葉だけじゃ伝わらないことはたくさんありますが、言葉にしなければ分からないこともたくさんある、ということを忘れていました」
一家はボウッと樹生の言葉を聞いていたが、暁登の姉がうっとりと「そういうの、大事だよねえ」と発言したのを機に、それぞれの表情を見せた。
「ちゃんと考えてる岩永さんが偉いよ。大丈夫ですよ、きっと話せば恋人さんとの関係もうまくいきますって」
と暁登の姉は言う。義兄もうんうん、と頷いていた。
「そうだといいんですけど」
「ねえねえ、恋人さんってどんな人なんですか?」
と興味津々に訊ねてきたのは、暁登の妹だった。
「岩永さん格好いいから、こんな人あたしだったら手放さないよー」
そう言われ、困ったなと思いながら「ありがとう」と答えたらまた色の付いた悲鳴が上がり、暁登母に「あんたいい加減にしなさいよ」と窘められていた。
「だってー、格好よくない? 好きな人のこと一番に考えてるって」
「そうねえ」
姉妹は口々に樹生を褒める。妹が「あたしとかどうです?」と言い出すのは、さすがに面食らった。
「その恋人さんとうまくいかなかったら、あたしと付きあいません?」
「もーも! このばかっ! お客さん困らせるようなこと言うんじゃないよ」
すかさず突っ込んだのは暁登母だったが、懲りず妹は「えー?」と不満を漏らす。
「彼氏ほしーもん。岩永さんていくつって言いました? 年下はどうですか?」
「百夏(ももか)、」
妹を呼んだのは暁登だった。
「この人はやめとけ」
「あきっちゃんなにか知ってるんだ?」
「知んない。おれはなんにも知らないよ。でもこの人はやめといて」
「なんでー?」
「なんでも」
それ以上を暁登は語らず、また食に集中し始めた。妹はしばらく不満そうな顔をしていたが、義兄に「焼けたよ」と餃子を渡されるとそれ以上のことは言わなかった。
「――でも、」
会話を引き継いだのは姉だった。
「確かに岩永さん、とても素敵だね」
「きみもそれを言うのか?」夫が呆れた顔を妻に向けた。
「あなたも素敵なお父さんになるんだよ」
「うーん、努力はする」
夫婦に、兄妹、姉妹に、姑と嫁、親子。様々な関係がひとつの家の中にあり、それぞれで会話をする。話題は尽きず、弾んでは笑いが起こる。いい家庭だなと思ったら樹生は無性に泣きたくなった。それを堪えてビールを煽ると、暁登父が注いでくれた。
いつの間にか眠っていた。自分の足で客間に敷かれた布団まで歩いて来たことはなんとなく記憶にあったが、あまりよく覚えていない。結構深く酔っ払った。暁登の父親と義兄も同じくらい飲んだはずだ。楽しい酒だった。
客間は暁登と兼用で、だが騒がしさにふと目が覚めた時には暁登は隣にいなかった。
何時だろう、と思いながらも布団の心地よさに微睡んでいると、ばたばたと足音がして部屋の襖が開いた。目だけ開けると、廊下の明かりに照らされて暁登が樹生を覗き込んでいるのが分かった。
「なんだ、起きてる」
暁登はそう言い、「ごめんちょっと話聞いて」と樹生の布団の傍にしゃがんだ。
→ 77
← 75
暁登の実家までは、暁登の車で向かった。中古か新車かわからないが、少なくとも樹生の知らない車だった。もちろん暁登が運転した。樹生は助手席に座り、夜の街を眺めた。商店やビルや家々の明かりが窓の外に流れていく。残像ばかりちらついた。
そういえば暁登の家族構成を知らないことに気付く。訊ねると、暁登はふっと笑った。あざ笑った、という表現が正しいような笑みだ。
「……なに、」
「あんたにようやく訊かれたな、と思っただけ。おれに関わることに興味がないんだと思ってたから」
そんなことはない、と思ったが、確かにこれまで訊いたことはなかった。本人が語らないなら聞かなくていい、と思っていた。いままでは。
「……いや、いきなり実家ってのに、ちょっと心構えをしておきたいから」
暁登は「まあそうだよな」と頷き、家族の事を話しだした。
「ばあちゃんと、両親と、姉ちゃんと姉ちゃんの旦那と、妹。おれ入れて七人だな」
その数には驚く。姉がいることは知っていたが、核家族なのだと思い込んでいた。
「――お姉さんの旦那さんってのは、婿養子ってこと?」
「そう。おれが家には残りたくないと言ったら、姉貴が、なら婿取るって言ってくれた。有言実行の所が凄いよな」
「……」
「ばあちゃんは今年で九十歳、両親はまだ定年前で働いてる。母親は看護師で、父親は車の修理ってか、ロードサービスの仕事をしてる。姉貴と義兄さんは職場結婚。妹はいま高校三年生。進学したいって言ってるから、受験生だよ」
慌ただしいんだ、と暁登は言う。だがその表情は柔らかかった。その表情を見て、樹生はしようもない焦燥感に駆られた。
「家が狭くてね」
暁登のその台詞は、家に到着したときにはっきりと判明した。「どうぞ」と樹生を迎えてくれた暁登の母親の勧めで家の中に入る。リビングルームには暁登の家族が勢揃いしていて驚いたが、カウチに寝そべっていた暁登の姉の腹が大きくて、二重に驚いた。
「すみませんね、こんな格好でお客さんをお出迎えして」と謝ったのは暁登の義兄だ。
「――臨月、ですか」
「ええ。予定ならもう生まれてるんです」
「えっ」
寝そべる暁登の姉は「なかなかお腹から出てこないんですよー」とのんびり言い、暁登の母親が「初産は遅れるって言うからね」と言った。
「あなたせっかち?」と言われて意味が分からず、ひとまずせっかちではないので「いいえ」と答えた。
「残念ね。せっかちな人にお腹触ってもらうと早く生まれるって言うのにね」
面食らいながらも、さあさあどうぞどうぞと勧められるがままに座卓に座る。暁登も隣に座した。こっそりと「家が狭いって、家族が増えるからか?」と訊くと、暁登は「うん」と頷いた。
「部屋がないんだ」
「だからひとり暮らし?」
「それだけじゃないけどね。一度、ちゃんと外で、ひとりで暮らしてみたかった」
ぼそぼそと話していると、食卓に料理が並び始めた。「毎月の月初めは中華の日でね、今日は餃子」と樹生の隣に座った暁登の父親が説明してくれる。家庭内で包んだものを、ホットプレートで焼きながら食べるらしい。暁登の父親が「酒は飲めますか」とビールを片手に言うので、暁登を窺う。暁登は「泊まってけばいいよ。明日送ってくから」と言うので、グラスを受け取った。
→ 76
← 74
風呂を沸かしている間にシャワーを浴び、湯が溜まった浴槽に浸かった。引っ越しを考える。暁登はもう戻らないのだったら、ひとりにはこの部屋は広い。もっとコンパクトで綺麗で風呂は立派なところに引っ越すかな、と考えて、掌ですくった湯をざばりと顔に当てて頭を振った。
「……ひとりは、嫌だ」
呟いた言葉は浴室で少し膨らんだが、どこにも漏れず誰にも聞かれず床に落ちた。落ちて排水溝に流れる。ひとりは、嫌だ。だからってこれから新しく誰かを探す気にもなれない。恋がしたいんじゃない。樹生が守り、或いは樹生に寄り添ってくれる人が欲しいのだ。
これから先、暁登のいない生活を送ろうなんて、考えたくない。
――だったらもう、答えは出ている。
あまり長湯も出来ずに樹生は風呂を上がる。簡単に衣類を身に着け脱衣所から出ると、キッチンに背をもたせて暁登が立っていたので驚く。夢を見ているんじゃないかと思ったぐらいだ。暁登は腕組をし、樹生の姿を確認すると鋭い眼を向けて来た。
「あき、」
呼びかけると、暁登はもたせていた背を真っすぐにして、樹生を正面から捉えた。さっぱりと短くなった髪と、セミフォーマルみたいないでたちが慣れない。自分はといえば中途半端な格好で髪も濡れている。間抜けにもほどがある。
「鍵、返しに来た」と暁登は言う。ポケットから銀色の鍵を取り出すとそれをローテーブルの上にパチッと置いた。
「それだけ」
じゃあ、と去る背中に咄嗟に「あき」と声を掛けた。暁登は振り向く。思い切り睨まれたが、「なに?」と口をきいてくれたので、少しだけほっとする。
「……元気にしてるって、聞いた」
「誰から?」
「早先生」
暁登の目は醒め切っていたが、それでも「そう」とだけ彼は答えた。
いま。
いま言わなければならない。
樹生がいままで暁登に言わずにいたことを、全部。
秘密にしていたことを、全て。
「ちゃんと話そうと思うんだ。……けど、なにから話したらいい、」
声はこわばって震えた。こんなに震えてまで身を晒して誰かを引き留めようなんてばかみたいだと思ったら、心の底からこの秘密を告げることが嫌になった。
それでも言わねばならない。
「色々、あるんだけどまとまらない。だから何から話したら」
「あのさ、」
言葉の途中で暁登が口を挟む。「それ、おれが今日ここに来たから話そうとしてるんだろ」
「……」
「おれが今日ここに来なかったら、一生話さなかっただろ、おれには」
そんなことない、と言いかけて、口を噤んだ。うまく言葉を見つけられない。
「ここ何か月か、出て行った後なんの連絡も寄越さなかった」
「……」
「そういうことだろ」
「……」
「間際になって急に惜しくなって、ジタバタしてるだけだ、あんたは。本当はおれがいなくても、平気」
じゃあ、と暁登は背を向ける。だが数歩進んだ玄関で彼は振り返った。
「――おれの気持ちは変わんないよ。あんたを尊敬している。あんたを信頼している。あんたは、格好いい人だと思う。そういう人に、……おれも信頼されたかった。されなかったから、淋しくて、悲しい」
それだけ言って、暁登は靴を履いた。玄関のドアノブに手をかける、その背中に「平気じゃないよ」と樹生は言った。どうか留まってくれと思いながら言った。それは自分でも驚くぐらいの低く大きな音だった。
暁登は扉の方を向いたまま動作を止める。
「暁登の言う通りかもしれない。失う間際になって急に惜しくなってあがいている。……でも、平気じゃない。平気なわけ、ないよ」
「……」
「おれが話さなかったことを全部いま、暁登に話したら、暁登は満足するか? 信頼された、って、思える? 話さないからって、暁登のことを蔑ろにしているわけじゃない。むしろ知らないで欲しかったこともある。暁登は、……そうやってなんのことにも思い煩うことなく、ただ笑って傍にいて欲しかったんだよ」
心臓が痛い。
「傍から見れば相当に壮絶で最低で可哀想なやつなんだってさ、おれは。一晩じゃ終わんない話だ。そういうのと暁登を、切り離しておきたかった。暁登を離しておくことで、……おれもそういう過去から、離れたかった」
「……」
「一から全部根絶丁寧に、過去の話を蒸し返せって言うなら、そうするよ。ただそれは、おれの本意じゃない。ほんと、……どうしたらいいのか分かんないんだ」
そう言って、樹生は全身に疲労を感じて、思い切りよくソファに沈んだ。情けない。格好悪い。みっともない。最低で最悪だ。
暁登に嫌われても仕方がないのに、暁登はまだ樹生に信頼を置いてくれている。それが嬉しくて、辛い。
暁登はしばらく立っていた。出て行く気配がない。樹生は泣きたいような気持でいて、涙は出なかった。煙草を吸いたい。
「樹生、着替えろ」
そう言っていつの間にか玄関を上がって来た暁登に腕を取られた。樹生はその行動が意外で顔を上げた。
「着替えて、おれのうち、行こう」
「え?」
「実家」
樹生に選択の余地はないようだった。暁登は強い瞳でこちらを見る。
→ 75
← 73
それからはもう照れも臆面もなく、朝も昼も夜も暁登に情をアピールした。仕事があれば朝と夜の挨拶をスマートフォンのメッセージで、休みの日は暁登を誘ってあらゆる所に出掛けた。とりわけよくしたのはドライブで、行き先は様々だった。天候に悩まされた時は近所のカフェや食堂に行った。会う度に暁登を愛しく思う気持ちが募り、心の中では毎回パレードでもしているような高揚した気分だった。
春になる前に、二回目のセックスをした。樹生の部屋だった。寒くて家から出たくなくて、なによりも恋しくて、肌を求めた。
火が熾れば炎が上がる。とぼっていた情熱は燃えさかり、二度目が終えると飽きず懲りず、すぐに三回目をした。覚えたての中学生のような貪欲さで耽る。四回目で挿入に至った。暁登は痛いと言って身を捩ったが、やめろとは言わなかった。
春が来て雪が解けた頃、遠出をした。樹生の運転で海を見に行った。春の行楽シーズン、どこも混雑していたが、かろうじて見つけたパーキングに車を駐めて、モノレールに乗った。モノレールの中からは海がよく見えた。
モノレールの終着駅は海が近かったので、降りて浜辺を歩いた。その時、樹生はようやく「付きあいませんか」と言った。
暁登は鋭い眼差しを向けたが、樹生はもう怯まなかった。
「おれのところに来て、一緒に暮らしませんか」
「……」
「抵抗があるかもしれないけど、おれはきみといたい」
しばらく黙った暁登は、考えてから「金がない」と言った。
「定職っていう職には就いてないし、貯金もろくにない。家を出られるのは嬉しいけど、岩永さんと暮らすのは、なんか、キセイみたいになると思う」
「キセイ?」
「寄生。寄生虫の寄生」
そういうのはもっとふてぶてしい奴がなれるものだ、と思ったが口にはしなかった。それに樹生にとってそれはどうでもよいことでもあった。暁登に求めているのは単なるルームメイトじゃなく、友達でもなく、恋人だったからだ。
「おれと暮らすのは嫌?」と訊くと、暁登は細い目を少し大きくして、目線をそっと逸らした。
「……分かんない。誰かと暮らしたことがないから、」
「嬉しい気持ちには、ならない?」
「……」
暁登は立ち止まり、海の方向を向いた。春の凪いだ海が光っている。「塩谷くん」と呼ぶと、暁登はくるりと踵を返して元来た道を辿り始めた。
砂の上をすたすたと足早に歩く。樹生は追いかける。暁登の名を何度も呼ぶが、暁登は振り向かないし止まらない。
歩幅を大きくして暁登に近付き、その腕を取った。力の差は樹生の方が体が大きい分だけ勝っていた。「待って」と言って立ち止まらせる。
「なあ、逃げるな」
「……」
「逃げないでよ……」
祈りを捧げるように、樹生は暁登の手を掴んだまま上体を折った。ふ、と強張っていた暁登の力が抜ける。顔を上げると、暁登の真っ直ぐな視線とぶつかった。瞳が赤く滲んでいた。
ぷい、と暁登はそっぽを向いた。小さくか細い声で何か言うが、波音と風音にかき消されてうまく聞き取れない。
訊ね返すと、耳を真っ赤にしながらも暁登は「嬉しい」と答えた。
「おれは岩永さんを尊敬してて、あんたみたいになりたいと思ってるから」
「……」
「そんな人とこんなに近くにいて、っていうのが異常なのに、まだ近くにいられるって思ったら」
嬉しい、と言って暁登はうなだれた。まるで絶望してるかのような仕草に胸が絞られる。この青年は喜びながら悲しんでいる。その事がいじらしくて、息が詰まって苦しかった。
それで、その日から二人で探せる住居を探した。その住居が今のアパートだ。一刻も早く、と焦って探した物件だったのであまり数を選んで検討せず入居した。結果、不都合は後から多数出たが、暁登は笑っていたのでいいと思った。
そう、ここで暮らし始めたころ、暁登は嬉しそうだった。いつも笑っているのがよかった。
→ 74
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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