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車の定員の都合で、暁登の祖母だけは家に送り届けることになった。
暁登が祖母を家に降ろしている間、樹生は暁登の車の中でぼんやりと庭先を眺めていた。この家に畑はないが、花は植えてある。スミレやパンジーといったありふれた花で、樹生には大きな興味もなかったが、家に花があることはきっといいことなんだろうな、と思う。心の豊かさは家に表れる。
暁登が家の鍵を閉めて、再び車に乗り込んでくる。引っ越しの荷物も載せられるだけ荷台に載せた。アパートはどこにあるのかと聞けば、わりと郊外にある地名を告げられた。
「駅から遠いんじゃないの?」
「職場に近いから選んだ。スーパーも医者も近くにあるから、そんなに問題ないと思う。まだ暮らし始めてないからよく分かんないけど」
車は心地よく走り出した。途中、暁登はコンビニに寄った。眠気覚ましの栄養ドリンクと食料と飲料を買い込む。その間に樹生は煙草とライターを買った。あんまりにも急な来訪だったので、煙草を家に置いてきていた。
コンビニの外で煙草を吸ったが、あまりうまいとも思えずにすぐに消した。会計を済ませた暁登が店から出て来たので、一緒に車に乗り込む。
「――で、なんの話が聞けるんだ?」と暁登は運転しながら訊ねてきた。
「いまここで話す?」
「あんたに割いてる時間がない。作業しながら聞くよ」
そんなんでいいのかとも思ったが、その軽さはかえって気楽に感じた。肩の荷が下りたような。
「どうせ今日はいちんち中付き合ってくれるんだろ、」
「――そうだな」
樹生は扉に頬杖をついて、窓の外を見る。あちこちで緑が煌めいているので、早なら喜びそうだな、と思った。
「おれはきみとまたやり直したいと思うから話す」
流れる景色をぼんやり眺めながら樹生は言う。
「なにがなんでも。きみの心がまだおれにあるなら」
「……」
「面倒だよ、もう。なにから話したらいいんだか。……たくさんありすぎて、」
樹生は両の掌で顔を揉んだ。本当に面倒だ。過去のことなど思い返したくもないし、語って聞かせるなんてとんでもなかった。けれどそれをしなければならない。それくらいの努力を、大事な人には怠ってはならない。
面倒、で片付けては、失うばかりだ。
車は街中を抜けてのどかな田畑の広がる地域に進んでいく。家がぽつぽつと建つ。やがてまた湧いたように商店が並ぶ通りに出る。そこの路地をいくつか曲がり、暁登は小さなアパートの庭に車を停めた。
アパートは一階建てで、ふた部屋しかなかった。すぐそこに建っているのが大家の家なのだという。大家が空いた土地にアパートでも建てて家賃収入を得ようか、という物件だろうか。この辺りには私立の大学があり、どちらかと言えば学生向けのワンルームであるようだった。
左右どちらの部屋かと聞けば、左、と答えた。暁登が部屋の鍵を開けている間に樹生は荷台に載った荷物を軒先まで運ぶ。「どうぞ」と促され入った部屋は八畳間で、想像より広かった。骨組みとマットレスだけのベッドと、机と椅子が既に運ばれていた。
「いい部屋だな」
「そう。日がうまく当たるんだ」
と言って暁登は障子戸を開けた。大きな窓のすぐ下には小さな花壇があったが、何も植えられてはいなかった。
「荷物運んじゃおう」
「うん」
樹生が外に回り、扉の際に立った暁登にリズム良く荷物を渡していく。車の中のものを運び終えると、もう一往復して暁登の実家からアパートに荷を運んだ。それで済んだ。冷蔵庫と洗濯機は中古のものを購入予定で、そのうち店に行くという。
窓からは五月の陽光が差し込む。「早先生からなにか花でも野菜でも分けて貰って育てたら」と言ったら、暁登は頷くでもなく笑うでもなく、ただ真っ直ぐな瞳でこちらを見返してきた。どう反応したものか、シンプルに暁登は綺麗だな、と思った。樹生なんかよりずっと強い。
樹生はフッと息を吐いた。
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「そういやあんた、子ども好きだよな」と暁登が発言したのは意外だった。
「好きだけど、……知ってたの?」
「いや、公園で遊んでる子どもとか、登下校の子どもとか、嬉しそうに見てるから」
「ああ。だってかわいいじゃん」
「まあな」
暁登は頬杖をやめず、そっぽを向くのもやめなかった。それでも樹生の台詞に耳を傾けてくれている。
「婚約者だった人――水尾、って言うんだけど。水尾との間に子どもが出来たらめちゃめちゃかわいがるだろうなって想像した」
「そう、」
「家族が欲しいとずっと思ってた。きれいじゃなくてもあったかい嫁さんとかわいい子どもと、一軒家で犬か猫でも飼ってさ。そういうのずっと憧れてたんだ」
「過去形にするのは早いんじゃないの、」
相変わらず暁登はこちらを見ない。
「あんたまだそんなの諦める年齢でもないだろ。また恋でもしてさ。新しい人見つけて、結婚して、ガキ作ったら、」
「……」
「おれ、男だし。ガキ作るとかぜってー無理だし。あったかい嫁さんとかなれないし。そういう、……できないことばっかりだから。そもそももうおれとあんたは、終わってて、おれはあんたに愛想尽かしたりしてて……だから、」
暁登の声の語尾がどんどん震えて来る。樹生は鼻から息を吐いた。
「まあな。その通りなんだけど」
樹生は組んでいた足を崩して、膝に肘をついて暁登の方を見た。
「そういうの、いままでずっと夢見て来たこと諦めてでも、暁登といる方が、いいんだ」
暁登は相変わらずこちらを向かなかったので、樹生は暁登の名を呼んだ。それでも暁登はこちらを向かない。
そういうことが煩わしいと思うよりは、微笑ましいと思う。久しぶりに凪いだ気持ちでいるのは目の前の部屋に赤ん坊が並んでいるせいだろうか。生まれて数日の子らの前では、誠実でありたい。
「暁登」
返事はない。
「暁登、こっち向け」
「……」
「暁登、おれを見て」
「……」
「暁登」
四度目で暁登はようやくこちらを見た。怒っているような、苦しそうな、そういう険しい顔をしている。思わず頬に触れたくなったが、即座に振り払われそうな気がしたのでやめた。
「諦められんの、嫁さんとか、ガキとか」
「だって仕方ないさ。おれがいま一番傍にいてほしいと思ってるのは、塩谷暁登っていう男だからな」
「気の迷いかもしんないじゃん。いまはそうでも、いずれ後悔する」
「かも、とか、もし、とか、そういうことは考えても仕方がないんだ。もし両親が生きていたら? とか、婚約が破棄されなかったら? とか、早先生と惣先生の元で暮らしていなかったら、とか。そうしたらおれは幸せだったのか? 可哀想ではなかったのか? 哀れまれたり、罵られたり、しなかったのか?」
「……」
「過去は過去、未来は未来なんだよ。で、いまはいま。おれはいまあることに正直に暮らしたい」
そこまで話すと、廊下の向こうから暁登の父親や母親、義兄が揃ってやって来た。暁登に「長くて面倒な話、聞くか?」と小声で咄嗟に訊ねる。暁登は僅かに逡巡した後、樹生を睨みつけるように目を見て頷いた。
「なら、行こう」
樹生は立ち上がる。やって来た暁登の家族に挨拶をして、「私はお暇しますので」と告げた。
家族は来訪をまたぜひ、と勧め、頭を下げる。暁登の義兄は握手を求めて来たので、照れながら「おめでとうございます」と握手をした。
「またぜひ我が家にいらしてください。賑やかしい家ですが」
「いえ、……そうですね、」
樹生はちらりと暁登を窺ったが、彼は知らん振りだった。
「また行きます。どうもありがとうございました」
深く頭を下げると家族はにこにこと笑った。
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「好きだけど、……知ってたの?」
「いや、公園で遊んでる子どもとか、登下校の子どもとか、嬉しそうに見てるから」
「ああ。だってかわいいじゃん」
「まあな」
暁登は頬杖をやめず、そっぽを向くのもやめなかった。それでも樹生の台詞に耳を傾けてくれている。
「婚約者だった人――水尾、って言うんだけど。水尾との間に子どもが出来たらめちゃめちゃかわいがるだろうなって想像した」
「そう、」
「家族が欲しいとずっと思ってた。きれいじゃなくてもあったかい嫁さんとかわいい子どもと、一軒家で犬か猫でも飼ってさ。そういうのずっと憧れてたんだ」
「過去形にするのは早いんじゃないの、」
相変わらず暁登はこちらを見ない。
「あんたまだそんなの諦める年齢でもないだろ。また恋でもしてさ。新しい人見つけて、結婚して、ガキ作ったら、」
「……」
「おれ、男だし。ガキ作るとかぜってー無理だし。あったかい嫁さんとかなれないし。そういう、……できないことばっかりだから。そもそももうおれとあんたは、終わってて、おれはあんたに愛想尽かしたりしてて……だから、」
暁登の声の語尾がどんどん震えて来る。樹生は鼻から息を吐いた。
「まあな。その通りなんだけど」
樹生は組んでいた足を崩して、膝に肘をついて暁登の方を見た。
「そういうの、いままでずっと夢見て来たこと諦めてでも、暁登といる方が、いいんだ」
暁登は相変わらずこちらを向かなかったので、樹生は暁登の名を呼んだ。それでも暁登はこちらを向かない。
そういうことが煩わしいと思うよりは、微笑ましいと思う。久しぶりに凪いだ気持ちでいるのは目の前の部屋に赤ん坊が並んでいるせいだろうか。生まれて数日の子らの前では、誠実でありたい。
「暁登」
返事はない。
「暁登、こっち向け」
「……」
「暁登、おれを見て」
「……」
「暁登」
四度目で暁登はようやくこちらを見た。怒っているような、苦しそうな、そういう険しい顔をしている。思わず頬に触れたくなったが、即座に振り払われそうな気がしたのでやめた。
「諦められんの、嫁さんとか、ガキとか」
「だって仕方ないさ。おれがいま一番傍にいてほしいと思ってるのは、塩谷暁登っていう男だからな」
「気の迷いかもしんないじゃん。いまはそうでも、いずれ後悔する」
「かも、とか、もし、とか、そういうことは考えても仕方がないんだ。もし両親が生きていたら? とか、婚約が破棄されなかったら? とか、早先生と惣先生の元で暮らしていなかったら、とか。そうしたらおれは幸せだったのか? 可哀想ではなかったのか? 哀れまれたり、罵られたり、しなかったのか?」
「……」
「過去は過去、未来は未来なんだよ。で、いまはいま。おれはいまあることに正直に暮らしたい」
そこまで話すと、廊下の向こうから暁登の父親や母親、義兄が揃ってやって来た。暁登に「長くて面倒な話、聞くか?」と小声で咄嗟に訊ねる。暁登は僅かに逡巡した後、樹生を睨みつけるように目を見て頷いた。
「なら、行こう」
樹生は立ち上がる。やって来た暁登の家族に挨拶をして、「私はお暇しますので」と告げた。
家族は来訪をまたぜひ、と勧め、頭を下げる。暁登の義兄は握手を求めて来たので、照れながら「おめでとうございます」と握手をした。
「またぜひ我が家にいらしてください。賑やかしい家ですが」
「いえ、……そうですね、」
樹生はちらりと暁登を窺ったが、彼は知らん振りだった。
「また行きます。どうもありがとうございました」
深く頭を下げると家族はにこにこと笑った。
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産婦人科の病棟のある階でエレベーターを降りると、すぐそこにエレベーター待ちをしていた暁登がいて呼吸が一瞬詰まった。暁登の方も目を丸くしている。「なんで?」と暁登は尋ねたが、答えたのは樹生ではなく暁登の父親の方だった。
「岩永さんが赤ん坊を見たい、と言ったから連れて来たよ」
「え、だって今日仕事だろ?」
ちらりと暁登は樹生を窺う。樹生は苦笑してみせた。
「休んだ」
「いいの?」
「どうしても困るようならそう言われるけど、職場に電話したらあっさり有休くれたから、いいんだ」
暁登だって半年程度でも勤め先ではあったわけなので、内情は知っている。「そう」と頷いて、それから父親の方を向いた。
「おれ、いったん帰ろうと思ってたところ」
「なにかあるの?」
「今日は休みだけど、まだアパートの引っ越しが完全に終わってないからさ。とりあえず生まれたし、義兄さんとおふくろはまだ残るって言うから、後で迎えに来るよって話にして、病室出て来たんだ」
それでエレベーターを待っていたのだと納得がいく。
「せっかく岩永さん来てくれたんだから、もう少しいてやればいいのに。おまえが世話になった人なんだから」
「んー……」
暁登は腕組をして考える。
「引っ越しってのは?」と樹生は聞いた。
暁登は顔を上げ、かりかりと頭を掻く。
「えーとね、部屋はもう借りてあるんだけど荷物の運び入れがまだで。あんたも見ただろ、実家の客間の荷物をさ。あれを入れなきゃなんないんだ。距離がそんなに離れているわけじゃないから車で何往復かすれば済むかな、と思ってる。大きな家電は追々揃えるし。まあ、そういうのを休みの日のうちにやっておこうかなって」
「それ、手伝おうか」
「え?」
「おれも休み取ったし。ここには赤ちゃんの顔見に来ただけでおれもこの後の予定は特にないし。嫌でなければ、だけど」
そう言うと、暁登がまた真っすぐな目でこちらを見つめ返してきた。怖気るほど強い光を持った瞳だ。だが樹生はそれを見て、もう逸らしたりはしなかった。樹生も樹生のまなざしで、それを受け止める。
「――じゃあ、頼もうかな」と暁登は言った。
「予定が決まったならまずは孫の顔だな」と言ったのは暁登の父だ。
「病室、どっちだ?」
「あっち。でも新生児室はこっちだよ」
「はじめは虹子の顔見てからにしよう」
暁登父は母親の背に手を添えてゆっくりと歩き出す。その後ろを暁登と並んでついて行った。暁登の姉に挨拶をした後、一足先に病室を出て暁登と廊下を歩いた。
「岩永さんが赤ん坊を見たい、と言ったから連れて来たよ」
「え、だって今日仕事だろ?」
ちらりと暁登は樹生を窺う。樹生は苦笑してみせた。
「休んだ」
「いいの?」
「どうしても困るようならそう言われるけど、職場に電話したらあっさり有休くれたから、いいんだ」
暁登だって半年程度でも勤め先ではあったわけなので、内情は知っている。「そう」と頷いて、それから父親の方を向いた。
「おれ、いったん帰ろうと思ってたところ」
「なにかあるの?」
「今日は休みだけど、まだアパートの引っ越しが完全に終わってないからさ。とりあえず生まれたし、義兄さんとおふくろはまだ残るって言うから、後で迎えに来るよって話にして、病室出て来たんだ」
それでエレベーターを待っていたのだと納得がいく。
「せっかく岩永さん来てくれたんだから、もう少しいてやればいいのに。おまえが世話になった人なんだから」
「んー……」
暁登は腕組をして考える。
「引っ越しってのは?」と樹生は聞いた。
暁登は顔を上げ、かりかりと頭を掻く。
「えーとね、部屋はもう借りてあるんだけど荷物の運び入れがまだで。あんたも見ただろ、実家の客間の荷物をさ。あれを入れなきゃなんないんだ。距離がそんなに離れているわけじゃないから車で何往復かすれば済むかな、と思ってる。大きな家電は追々揃えるし。まあ、そういうのを休みの日のうちにやっておこうかなって」
「それ、手伝おうか」
「え?」
「おれも休み取ったし。ここには赤ちゃんの顔見に来ただけでおれもこの後の予定は特にないし。嫌でなければ、だけど」
そう言うと、暁登がまた真っすぐな目でこちらを見つめ返してきた。怖気るほど強い光を持った瞳だ。だが樹生はそれを見て、もう逸らしたりはしなかった。樹生も樹生のまなざしで、それを受け止める。
「――じゃあ、頼もうかな」と暁登は言った。
「予定が決まったならまずは孫の顔だな」と言ったのは暁登の父だ。
「病室、どっちだ?」
「あっち。でも新生児室はこっちだよ」
「はじめは虹子の顔見てからにしよう」
暁登父は母親の背に手を添えてゆっくりと歩き出す。その後ろを暁登と並んでついて行った。暁登の姉に挨拶をした後、一足先に病室を出て暁登と廊下を歩いた。
新生児はガラス越しにしか見ることが出来なかった。この病院で生まれた赤ん坊が小さなかごに入れられ並んでいる様はなかなか鮮烈だった。まだ赤ん坊でも大きさはまちまちで、よく見れば顔立ちも違う。だからと言ってどれが暁登の姉夫婦の子どもなのかは分からなかった。
「のんびり腹に入ってただけあってさ、わりとでかいんだ」と暁登がガラス越しの赤ん坊を見ながら言った。
「あの一番端っこの」
「へえ、女の子だっけ」
「そう。隣の子は男の子らしいんだけどさ、でかいだろ」
比べれば確かに姉夫婦の子どもの方がふくふくと丸く大きい。「名前決まってんの?」と聞くと、暁登は「ひかり」と答えた。
「ひかり?」
「うん。新緑に生まれるなら男でも女でもひかりがいい、って姉貴と義兄さんで決めた」
「字は?」
「女の子ならひらがな、男の子なら太陽のヨウの字。女の子だから、ひらがなだな」
「ひかりちゃんか」
「うん」
樹生は並ぶ赤ん坊の愛らしさが飽きなくてしばらくガラスに張り付いて眺めていたが、暁登は飽きてしまったらしい。傍にあった長椅子にどかりと座り込む。膝に頬杖をついて、そっぽを向いている。
樹生は一通り眺め終えて、暁登へ振り向く。暁登は目を閉じていたが眠っていないことは分かっていた。目蓋が僅かに震えていたからだ。
樹生もそちらへ歩き、暁登の隣へ座った。足を組む。
「おれも欲しかったんだよね、子ども」
そう言うと、暁登はゆっくりと目を開けた。
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「秘密」本編の更新は今週末で最終回の予定です。最後までお付き合いをどうぞお願いいたします。
「のんびり腹に入ってただけあってさ、わりとでかいんだ」と暁登がガラス越しの赤ん坊を見ながら言った。
「あの一番端っこの」
「へえ、女の子だっけ」
「そう。隣の子は男の子らしいんだけどさ、でかいだろ」
比べれば確かに姉夫婦の子どもの方がふくふくと丸く大きい。「名前決まってんの?」と聞くと、暁登は「ひかり」と答えた。
「ひかり?」
「うん。新緑に生まれるなら男でも女でもひかりがいい、って姉貴と義兄さんで決めた」
「字は?」
「女の子ならひらがな、男の子なら太陽のヨウの字。女の子だから、ひらがなだな」
「ひかりちゃんか」
「うん」
樹生は並ぶ赤ん坊の愛らしさが飽きなくてしばらくガラスに張り付いて眺めていたが、暁登は飽きてしまったらしい。傍にあった長椅子にどかりと座り込む。膝に頬杖をついて、そっぽを向いている。
樹生は一通り眺め終えて、暁登へ振り向く。暁登は目を閉じていたが眠っていないことは分かっていた。目蓋が僅かに震えていたからだ。
樹生もそちらへ歩き、暁登の隣へ座った。足を組む。
「おれも欲しかったんだよね、子ども」
そう言うと、暁登はゆっくりと目を開けた。
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母親と娘と客を乗せて、暁登父は車を発進させた。途中、駅に寄って百夏を降ろす。高校三年生の彼女は、姪が産まれたからと言っても学校を休む訳にはいかないらしい。授業が一日遅れると大変だと言っていた。「学校の帰りに病院寄ってみる」と言い、爽やかに手を振って去って行く。つられて樹生も手を振った。
「じゃあ病院へ行きましょうか」と暁登父は再び車を発車させる。窓を開けたから朝の風が心地よく車内に入り込んでくる。
「――暁登の姉、コウコと言うんですが、これはあの子が産まれた日が妙な天気でね。日が差しているのに雨が降っているような、そんな日でして」
運転しながら、暁登父はそんなことを語り出した。
「頻繁に虹が出ました。だから虹の子と書いて、コウコと」
「ええ」
「暁登は朝に産まれました。天気の良い朝でね。朝焼けがとても綺麗だった。だから暁、という字を入れて」
「はい」
「百夏は夏の生まれの子です。産まれた時は未熟児で一時生死を彷徨う、なんてこともありまして。だから百度夏を迎えられますようにと、名付けました。障害も残らず大きく元気に育ってくれたのは本当に幸いです」
「名付けが良かったんですね」
「今じゃ元気すぎてもう、」
父親は苦笑する。
「虹子はのんびりとした子で、でも実行力はすごいんです。大学受験も、就職も、結婚も、『やってみるー』なんてのんびり言いながらどんどん実現させて。百夏はあの通りちゃきちゃきした性格というのか。末っ子特有の甘えっ子なところはありますがしっかりしていて、一番明るく元気です」
話の方向が見えないな、と思いながらも樹生は頷いた。
「暁登は……女の子に挟まれて育ちましたが、一番センシティブで、人の心の機微に敏感です。高校でだいぶ辛い目に遭いましてね。それを長いこと引きずっていました」
「……ええ、」
「ですが彼なりになんとかしたいと足掻くし、行動力はあるんですよね。諦めない、というところが僕は好きです。いま、……新しい職に就いて、それがいつまで続くか分かりませんが――足掻いたことが結果になって、自信がついたら、もっと素敵な人間になれる、と思います」
病院の看板が見えてきた。車は徐々にスピードを落とし、駐車場へと入庫する。
「子によって性質は様々。それは親になって子育てしないと分からないですから、虹子が親になってこれからそれを味わうのだと思ったら、僕はなんだか嬉しくてね」
それを聞いて、樹生は急に今の生活が虚しくなった。誰かと添いたい。誰かに傍にいてほしい。家族が欲しい。親になって、子どもを可愛がってみたい。
それは暁登とでは無理なのだ、と思ったら急激に心臓が冷えた。絶望に近かった。望む生活は、実は暁登では叶わない。そういうことに今更気付く。というよりは考えないように後回しにしてきたことを自覚させられた。
――このまま終わればいいのだろうか。樹生が欲しかったのは恋人で、家族で、子どもで、家庭だ。それにずっと飢えてきた。暁登とでは障害も困難も多すぎる。諦めなければならないことがたくさんある。
例えば、水尾を愛していた頃のような具体的な夢を暁登には見ることは出来ない。
駐車場にうまく車を収めて、エンジンを止めたとき、暁登の父親は樹生の方をしっかり向いて言った。
「暁登が誰かを家に連れてくるなんてこと、本当にないんですよ」
「……」
「あなたという先輩がいたんですね。ありがとう」
言葉が出なかった。
→ 80
← 78
「おはようございます」
「おはようございます。眠れましたか?」
樹生は苦笑して、「実はあまり」と答える。暁登父は目尻を下げて「実は僕も」と言った。
「それで散歩ですか?」
「ええ。この時期は朝歩くには最適ですよ」
「お姉さん、どうなったか連絡ありましたか?」
「あ、無事に生まれました」
暁登父ははにかんで答えた。その顔は皺が深かったが、表情が暁登によく似ていた。
「病院行ったら特に難産でもなかったみたいで。つるっと生まれた、と連絡がありました」
「――そうですか」
樹生も優しい気持ちになった。改めて「おめでとうございます」と言うと、暁登父は「ありがとう」と目を細めて頭を下げた。
「男の子ですか、女の子ですか?」
「女の子だそうです」
「早く顔を見たいんじゃないですか?」と聞くと、「まー、そうだけどねえ、」と言う。
「男親だって出産の時にすることなんかなんにもないですからね、爺がいっても余計にないです。岩永さん送り届けて、その足で様子見に行きますかねえ」
それを聞いて、樹生はふとその新生児の顔を見てみたい気がした。
「とりあえず家の中に入りますわ。岩永さん、目が覚めたならコーヒーでも飲みましょう」
そう言って暁登父は道を戻っていく。やがて廊下の向こうから玄関の扉が開く音がした。
樹生も立ちあがり、洗面所でトイレと洗顔を済ませてからリビングに顔を出す。家に残っているメンバーは皆すでに起きていた。暁登の祖母は座椅子に座って新聞を読んでいたし、妹の百夏は制服姿でキッチンに立っている。父親も手を洗い、コーヒーメーカーに豆をセットした。
「おはよう岩永さん」と百夏が明るく言った。
「岩永さんのお仕事って朝早いんだねえ。あきっちゃんから『六時半にはこの家出ないと』って聞いてびっくりしちゃった」
確かに、一度自分のアパートに戻ってから出勤するのであれば、その時間は妥当だ。むしろぎりぎりかもしれない。
「ごはんすぐ作るからその辺に座って待ってて。うち、朝はパン派だから自動的にパンだけど」
「充分だよ。ありがとう」
「なんのなんの」
百夏は快活な性格なのか、さっぱりとした口調で答える。昨夜のはしゃぎっぷりとはまた打って変わった逞しさを見る。フライパンや包丁の扱いは軽やかで手際がよかった。日ごろから馴れているのだろう。
「コーヒー、どうぞ」
暁登父がやって来て座卓にカップを置いた。樹生はありがたくそれを受け取る。コーヒーはブラックだったが、「甘くないと飲めなくて」と素直に言ったら「もちろんいいんですよ」と朗らかに笑い、ミルクと砂糖を出してくれた。
甘いミルクコーヒーは朝の胃を程よく刺激する。そうしているうちに百夏の手で食事が運ばれてきた。トーストに目玉焼きにアスパラガスのバター炒め、コンソメスープ。「簡単でごめんね」と言われたがここ最近の樹生の朝食の中では間違いなくトップグレードだ。最高に贅沢。
「さ、召し上がって下さい」と暁登父が言う。この食卓を見て、それを用意してくれた住人を見て、樹生は心を決めた。
「今日、私も一緒に病院へ行ってもいいですか?」
場が静まる。暁登の父親も妹の百夏も、きょとんとした顔でいる。
「でも、お仕事でしょう?」
「休みます」
笑ってそう告げると、親子はますます不思議そうな顔をする。祖母だけがのんびりとお茶を啜っていた。
「迷惑でなければ、私も新生児の顔が見てみたいなと思いまして」
百夏は父の顔を窺う。その父親は、やんわりと微笑んで「もちろん」と言ってくれた。
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「おはようございます。眠れましたか?」
樹生は苦笑して、「実はあまり」と答える。暁登父は目尻を下げて「実は僕も」と言った。
「それで散歩ですか?」
「ええ。この時期は朝歩くには最適ですよ」
「お姉さん、どうなったか連絡ありましたか?」
「あ、無事に生まれました」
暁登父ははにかんで答えた。その顔は皺が深かったが、表情が暁登によく似ていた。
「病院行ったら特に難産でもなかったみたいで。つるっと生まれた、と連絡がありました」
「――そうですか」
樹生も優しい気持ちになった。改めて「おめでとうございます」と言うと、暁登父は「ありがとう」と目を細めて頭を下げた。
「男の子ですか、女の子ですか?」
「女の子だそうです」
「早く顔を見たいんじゃないですか?」と聞くと、「まー、そうだけどねえ、」と言う。
「男親だって出産の時にすることなんかなんにもないですからね、爺がいっても余計にないです。岩永さん送り届けて、その足で様子見に行きますかねえ」
それを聞いて、樹生はふとその新生児の顔を見てみたい気がした。
「とりあえず家の中に入りますわ。岩永さん、目が覚めたならコーヒーでも飲みましょう」
そう言って暁登父は道を戻っていく。やがて廊下の向こうから玄関の扉が開く音がした。
樹生も立ちあがり、洗面所でトイレと洗顔を済ませてからリビングに顔を出す。家に残っているメンバーは皆すでに起きていた。暁登の祖母は座椅子に座って新聞を読んでいたし、妹の百夏は制服姿でキッチンに立っている。父親も手を洗い、コーヒーメーカーに豆をセットした。
「おはよう岩永さん」と百夏が明るく言った。
「岩永さんのお仕事って朝早いんだねえ。あきっちゃんから『六時半にはこの家出ないと』って聞いてびっくりしちゃった」
確かに、一度自分のアパートに戻ってから出勤するのであれば、その時間は妥当だ。むしろぎりぎりかもしれない。
「ごはんすぐ作るからその辺に座って待ってて。うち、朝はパン派だから自動的にパンだけど」
「充分だよ。ありがとう」
「なんのなんの」
百夏は快活な性格なのか、さっぱりとした口調で答える。昨夜のはしゃぎっぷりとはまた打って変わった逞しさを見る。フライパンや包丁の扱いは軽やかで手際がよかった。日ごろから馴れているのだろう。
「コーヒー、どうぞ」
暁登父がやって来て座卓にカップを置いた。樹生はありがたくそれを受け取る。コーヒーはブラックだったが、「甘くないと飲めなくて」と素直に言ったら「もちろんいいんですよ」と朗らかに笑い、ミルクと砂糖を出してくれた。
甘いミルクコーヒーは朝の胃を程よく刺激する。そうしているうちに百夏の手で食事が運ばれてきた。トーストに目玉焼きにアスパラガスのバター炒め、コンソメスープ。「簡単でごめんね」と言われたがここ最近の樹生の朝食の中では間違いなくトップグレードだ。最高に贅沢。
「さ、召し上がって下さい」と暁登父が言う。この食卓を見て、それを用意してくれた住人を見て、樹生は心を決めた。
「今日、私も一緒に病院へ行ってもいいですか?」
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
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短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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