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終業するかしないかの頃に仁科がやって来た。「他の局は勝手が違うから分からないな」と頭を掻いている。
「仕事終わるならめし行かない?」
「あー、いいっすよ」
仕事が終われば早の家で夕飯を食べる予定でいたが、連絡を入れてキャンセルにしてもらう。電話の向こうで早は「楽しんでいらしてください」と穏やかに言った。また行きますから、と告げて電話を切ると、傍で仁科はにやにやしていた。
「彼女?」と訊かれ、樹生は苦笑する。
「違いますって。親です、親」
「なんで敬語なのよ」
「色々あるんですよ」
ふうん、と仁科は答え、「そういや結婚はまだなんだな」と言った。
「付き合ってる彼女いたじゃん」とずばり指摘された。水尾とのことだ。
「昔の話です。別れました」
「いまは?」
「まあ……仁科さんこそ、」
と、目にちらつく銀の指輪を指して言うと、仁科も苦笑した。
「結婚したんすね」
「いや、してない。けど、してる」
「どっちですか」
「パートナーシップ協定」
「はい?」
「って言ってる。ま、色々あるんだ、おれにもね」
お互い煮え切らないまま、職場から近いところにある店に決めて適当に入った。
和定食の店で、ビールを飲みたいところではあったが車で来ているので我慢した。カウンター席に陣取る。出されたおしぼりが冷たくて最高に気持ちが良かった。
ふと隣の仁科を見て、この人こんなんだっけな、と白いものが混じりはじめている頭髪や、目尻のしわを見て思う。
年齢を訊ねると、「もう四十一だわ」と言われた。
「――えっ、四十越えた?」
「おまえだって三十路街道をひた走ってんだろ? そんなもんだよ。あーあ、懐かしいねえ。新人でおまえ入って来たころ。十代の岩永、おれもまだ二十代」
くつくつと仁科は愉快そうに笑った。「やったら図体でかいやつが入って来たと思ってたな」
「ま、第一印象それで決まりますよね。『でかい』」
「そうそう。実際に仕事させてみたら要領はいいし覚えは異様に早いし、なんだコイツ? って」
「頼もしい後輩だったでしょう?」
「まーな。……あの集配局は職場の雰囲気良かったよな。上司の人望だよな、あれは」
「仁科さん、そろそろ昇進したりしないんですか?」
「どうだろうな。おれは自分が楽しいようにのらくらやってるだけだから、出世はまあ、特に期待してない。おまえこそあっという間に昇進しそうだけど。集配のリーダーよりもっと上のやつ」
「金は欲しいですけど、勘弁願いたいですね」
誰それは退職したとか、どこそこのあいつは転職しただとか、そんな内輪の話をしているあいだに料理が運ばれてきた。仁科はカレイの煮つけの定食で、樹生はミックスフライ定食だ。食べながらまだ話は尽きない。楽しい席だったが、ひとつ引っかかっていることがあった。
(確か、仁科さんって)
それを訊ねようかやめるか迷っているとき、カウンターの内側から女将が「いらっしゃいませ」と新規の客をもてなす。つい振り向いてしまったのは、隣の仁科が振り向いて手をひらひらと振ったからだ。
カウンター席へまっすぐやって来た男は、「朗」と仁科を呼んだ。Tシャツにジーンズといういでたちだったから気付くのが一瞬遅れた。
昼間、道路をものすごい速さで駆け抜けていった、あの青年だった。
→ 後編
← 前編
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配達に出た矢先に、通行止めにぶつかった。
市町村対抗駅伝だとかで、そういえばこの時間からこの時間まではどこそこの道路が通行止めになると前もって知らされていたが、日々の忙しさにかまけてそのことをすっかり忘れていた。もっと直前に指示されていたら覚えていたのにな、と頭の中で改めて今日の配達の道順を組み立てなおす。配達する家の順番でバイクの荷を組んであるので、あまりにもこの通行止めが長引くようなら一度集配局に戻った方がいいだろうか。
情報収集が先かと思いつく。ちょうどよく車の影がなかったので通行止めの道路のぎりぎりまで近づき、先で交通整理をしている警察官にこの通行止めがどのくらいかかるものなのかを訊ねた。
警察官は「一時的に止めているだけですよ」とにこやかに教えてくれた。
「ちょうど選手が通過するので止めているだけで、ある程度選手が去ったら順番に道を通します」
「選手の通過に時間がかかりますか?」
「そんなには。いまこの集団が通り過ぎたら、通すと思います」
ならばさほどのロスにはならないだろうと踏む。そのまましばらく待つことにした。
沿道はそこそこの人出で賑わっており、時折「がんばれー」という声や拍手が聞こえた。樹生自身も時折、ストレス発散の意味合いで走ることはあるが、生身の人間が走る、それを客観的にはあまり眺めたことはなかった。興味深い気がして、選手を観察する。結構な速度で走っていることに驚く。ここの道路はわずかだが傾斜があり、選手からすれば上り坂だが、ものともせず駆けて行く。
テレビなどで大学駅伝や都道府県駅伝などを見る機会はあった。わりと好きで、やっていれば見てしまう。あれはずっと中継車が選手を追いかけてくれるからドラマを見ている感覚に陥る。沿道で旗を振りながら声援を送る行為自体は、選手の通過は一瞬で終わるので、なにが楽しくて応援に行くのかね、ぐらいに思っていた。
だがいま目前を走っている生身の体は、しなやかに逞しく、アスファルトを蹴り飛ばしてびゅんびゅん進む。案外、重たい音がすることに気付いた。テレビではさほど音声を拾わないので気付かないことだ。選手が何キログラムの体で走っているのかまでは知らないが、それでも肉の塊が地面を蹴り出し、前進し、着地してまた進む。それに音が伴わないわけがないのだと分かる。テレビの画面の中ではまるでぽんぽんと弾む毬みたいに軽やかに見える選手たちも、実は体重があること、筋力を使って前を進むことを、確かな迫力で知らされて軽く衝撃を受けた。
選手があらかた通り抜けた。警察官が目でサインを寄越したのでこれで通すかと思いきや、後方から凄まじいスピードで駆けてくる選手がひとりいた。先ほどまでこの付近を通過していた選手らと明らかに速度が違う。「羽根が生えているかのような」軽やかさで、でもきちんと量感を伴って、やって来る。警察官が樹生にもう少し待て、のサインをした。沿道の皆がみな、この選手に釘付けになっているような、そういうアトラクティブな選手だった。
沿道からひときわ大きな声で「ゆうだいーっ!」と声援が響く。呼ばれた選手はそちらを見て、ふっと笑ってみせた。その笑みがあまりにも爽やかだったので、どきりとして樹生は笑みの方向を見た。誰が叫び、誰に笑顔を向けたのか、気になったのだ。
そこには知っている顔があった。笑みを向けられた本人も同時に樹生に気付き、ふたりで「あ」と声をあげた。
「――仁科さん、」
「相変わらずでっかいなあ、岩永」
人混みをかき分けて男が樹生の傍までやって来る。樹生がまだ非正規雇用社員だった頃に世話になった人で、いまは別の集配局で配達員をしているはずの男、名を仁科朗(にしな ろう)と言う。
「いま叫んだの、仁科さんでした?」と訊くと、仁科は一瞬だけ顔を素にしてから、やわらかく笑った。
「そうだ。あいつ、知りあいでさ」
「ひとりだけ猛スピードで行きましたね」
「前のたすきを持ってた中学生が途中で転倒して順位を大幅に落としちゃってさ。それを挽回するって腹積もりなんだろうな。ま、あいつにはたやすいでしょう。熱いけど、冷静だから」
よっぽど熱心に応援しているのか、仁科の言い方に特別な親しさが滲んだ。それを聞いてなんだか腹の奥にずしんと重たい温みが沸いた。ぼんやりしていると、交通整備の警察官が「もうじき通します」と言うので、樹生は慌ててバイクのハンドルを握りなおす。
「あ、悪い、仕事中だったな」
「仁科さん、良ければうちの職場に顔出してきませんか?」
「あー、そうだな」
仁科は腕時計を見る。
「じゃあ、終わったら寄るわ。えっと、この辺の集配区ってW局だったよな」
「そうっす」
「気をつけて配達に行きな」
お疲れさん、と仁科は樹生に軽く手を振る。警察官が道をあける。樹生は沿道を歩く人に注意を払いながら、バイクを発進させた。
→ 中編
いまさらですがカウンター100万歩達成のお礼(のつもり)です。
十一.嫌いじゃない
梅雨寒の日がある。他地域であまり暮らした経験がないので分からないのだが、この辺の気候では、梅雨入りした中で雨がざあざあと降りしきって寒い日がある。肌寒いで済めばいいが、耐えかねて灯油の芯出しストーブを焚いてしまうぐらいの寒さの日だ。
梅雨の日にストーブを焚くのはメリットもある。何日も雨続きで乾かない洗濯物を乾かせるし、かび臭く湿気た室内を乾燥することも出来る。小さなストーブでも効果大だ。冬の残りの灯油をこの梅雨寒に使う。
早は台所のテーブルに裁縫道具を広げて繕い物をしていた。広い家の中に作業台として使えるテーブルはいくつかあるのだが、なんだかんだここのテーブルが一番コンパクトで使いやすい。ブラウスのボタンが取れてしまったのでそれをつけ直す。上から二番目のボタンで、取れたボタンは紛失してしまったのだが、廃棄する衣類から外したボタンを入れている缶からちょうどよさそうなガラスのボタンが出て来た。ファッションのアクセントになるかなと思い、それをつけている。あとは少し前にやって来た樹生にズボンの裾上げを頼まれていたのでそれもする。いわく「制服のスラックスが傷んだので新しく交換してもらったんだけど、若干裾が長くて」ということだ。測ってみたら本当に若干だったが長かった。長身の樹生はむしろ裾が短い方が当たり前だったので、制服の幅の広さに感服する。どんな体格の人が身につけても対応出来るようデザインされているのだろうか。
岩永樹生は最近、甘えてくるようになった。
以前だったら一刻も早く家を出て、早たち夫婦の手を煩わせたくないというどこか借り物の気持ちが見えていた。出来ることは自分でやったし、出来なければ聞いて自分で出来るようにする、それが岩永樹生という男だった。要領がよく理解力もよかったので大抵のことは出来てしまっていた。樹生が十八歳でこの家を出たとき、もしかしたら彼は今後あまり関わりを持とうとしないのかもしれない、と予感したぐらいだ。
それは少し当たって、少し外れた。連絡はくれたしこの家にもやって来たが、それでも頻繁という訳ではなかった。それが最近は違う。意識が変わったのか、なんなのか、早の元を以前よりは頻繁に訪れるようになった。訪れては昼寝だけして帰る時もあるし、買い物に付きあってくれる時もある。
早にとっては嬉しいことでもあった。ひとり暮らしは気ままで楽しいが、誰かにいて欲しくない訳ではない。人の存在は安心する。とりわけ、夫と苦労して育てた子ならば尚更だ。
スラックスの裾上げをしていたら廊下の奥の方でドサッと何かが崩れ落ちる音がした。大方、積み上げた本が崩れたのではないかと察する。放置しようか迷ったが、それでも立ち上がって、そちらへとゆっくり歩いて行った。暁登が整理を請け負ってくれている部屋の本が、一部だけ崩れていた。
それらを拾い、また積み重ねていく。あまり高く積まないように暁登に言うべきかもしれない。
一冊の本を拾い上げた時、それはアルバムであることに気付いた。中を開くと強面の夫と小柄の早が正装で並んで写っている写真が真っ先に出て来て懐かしくなった。写真だけ撮った結婚の際のものだ。
パラパラとそれをめくる。行った旅行の時のもの、夫の学会の際に学生と撮ったもの。夏居巌との写真も出て来た。夫が個人的にまとめた、自らに関する写真のアルバムであるようだった。
捲っていくとひらりと一枚の写真が落ちた。貼り付けてはいなかったようだ。よっこらせと腰を屈めて拾う。写っていたのは家の前でぎこちなく並ぶ早と樹生だった。
自分も樹生も今より若い。樹生は身長だけは恐ろしく高かったがまだ少年の顔立ちで、なぜ、どのようなタイミングで撮った写真なのかをまるで覚えていない。樹生の着ているシャツには覚えがあった。上背のあった樹生には体に合った衣類が見つけ辛く、この辺の量販店ではなかなか揃わなかった。それを気にした夫が樹生の体をきちんと採寸してから洋裁の得意な知人にオーダーをして、シャツを何枚か誂えてもらった。既製品を手直ししただけのものもあれば、生地から選んで作ったものもある。そのうちの一枚で、この深緑色のスタンドカラーのシャツを樹生はとりわけ気に入ってよく着ていた。
ふと、柔らかい気持ちが押し寄せる。今日は雨だ。制服を取りに来がてら、樹生が夕飯を食べに来る。仕事が終われば暁登も合流すると聞いている。暁登の新しい仕事は順調なようだ。
シェア生活を解消しても、二人はよくつるんでいる。いつか「前よりいい」と暁登が言っていた。「離れて分かることがありました。前より岩永さんのことを少し嫌いになって、好きになりました」と。
それぞれがそれぞれの暮らしを営んでいる。その中で都合をつけてそれぞれの時間を、空間を共有する。とても素敵なことだと思う。私達はあくまでも個であるけれど、誰かと接せずにはいられないことを、きちんと認識出来る。
私の人生は私のもので、貴方の人生は貴方のものだ。どう生きるかは自分で決めていい。一人で過ごしても、暮らしを持ち寄っても、いい。
アルバムを元に戻そうとして、気が変わって持ち出した。今夜、樹生に見せたい。どんな反応をするだろうか。興味なさげにふうん、と言うのを、暁登が何かコメントする。そういう想像をした。
写真はいい。写っていなくても誰かが撮っているという事実がある。この写真には不在でも、これを撮ったのは惣先生だ。並んで、もうちょっと寄って、ふたりとももっと笑ってよ。強面でも柔らかくそう言う、かつての夫の声が聞こえた気がした。
梅雨の日にストーブを焚くのはメリットもある。何日も雨続きで乾かない洗濯物を乾かせるし、かび臭く湿気た室内を乾燥することも出来る。小さなストーブでも効果大だ。冬の残りの灯油をこの梅雨寒に使う。
早は台所のテーブルに裁縫道具を広げて繕い物をしていた。広い家の中に作業台として使えるテーブルはいくつかあるのだが、なんだかんだここのテーブルが一番コンパクトで使いやすい。ブラウスのボタンが取れてしまったのでそれをつけ直す。上から二番目のボタンで、取れたボタンは紛失してしまったのだが、廃棄する衣類から外したボタンを入れている缶からちょうどよさそうなガラスのボタンが出て来た。ファッションのアクセントになるかなと思い、それをつけている。あとは少し前にやって来た樹生にズボンの裾上げを頼まれていたのでそれもする。いわく「制服のスラックスが傷んだので新しく交換してもらったんだけど、若干裾が長くて」ということだ。測ってみたら本当に若干だったが長かった。長身の樹生はむしろ裾が短い方が当たり前だったので、制服の幅の広さに感服する。どんな体格の人が身につけても対応出来るようデザインされているのだろうか。
岩永樹生は最近、甘えてくるようになった。
以前だったら一刻も早く家を出て、早たち夫婦の手を煩わせたくないというどこか借り物の気持ちが見えていた。出来ることは自分でやったし、出来なければ聞いて自分で出来るようにする、それが岩永樹生という男だった。要領がよく理解力もよかったので大抵のことは出来てしまっていた。樹生が十八歳でこの家を出たとき、もしかしたら彼は今後あまり関わりを持とうとしないのかもしれない、と予感したぐらいだ。
それは少し当たって、少し外れた。連絡はくれたしこの家にもやって来たが、それでも頻繁という訳ではなかった。それが最近は違う。意識が変わったのか、なんなのか、早の元を以前よりは頻繁に訪れるようになった。訪れては昼寝だけして帰る時もあるし、買い物に付きあってくれる時もある。
早にとっては嬉しいことでもあった。ひとり暮らしは気ままで楽しいが、誰かにいて欲しくない訳ではない。人の存在は安心する。とりわけ、夫と苦労して育てた子ならば尚更だ。
スラックスの裾上げをしていたら廊下の奥の方でドサッと何かが崩れ落ちる音がした。大方、積み上げた本が崩れたのではないかと察する。放置しようか迷ったが、それでも立ち上がって、そちらへとゆっくり歩いて行った。暁登が整理を請け負ってくれている部屋の本が、一部だけ崩れていた。
それらを拾い、また積み重ねていく。あまり高く積まないように暁登に言うべきかもしれない。
一冊の本を拾い上げた時、それはアルバムであることに気付いた。中を開くと強面の夫と小柄の早が正装で並んで写っている写真が真っ先に出て来て懐かしくなった。写真だけ撮った結婚の際のものだ。
パラパラとそれをめくる。行った旅行の時のもの、夫の学会の際に学生と撮ったもの。夏居巌との写真も出て来た。夫が個人的にまとめた、自らに関する写真のアルバムであるようだった。
捲っていくとひらりと一枚の写真が落ちた。貼り付けてはいなかったようだ。よっこらせと腰を屈めて拾う。写っていたのは家の前でぎこちなく並ぶ早と樹生だった。
自分も樹生も今より若い。樹生は身長だけは恐ろしく高かったがまだ少年の顔立ちで、なぜ、どのようなタイミングで撮った写真なのかをまるで覚えていない。樹生の着ているシャツには覚えがあった。上背のあった樹生には体に合った衣類が見つけ辛く、この辺の量販店ではなかなか揃わなかった。それを気にした夫が樹生の体をきちんと採寸してから洋裁の得意な知人にオーダーをして、シャツを何枚か誂えてもらった。既製品を手直ししただけのものもあれば、生地から選んで作ったものもある。そのうちの一枚で、この深緑色のスタンドカラーのシャツを樹生はとりわけ気に入ってよく着ていた。
ふと、柔らかい気持ちが押し寄せる。今日は雨だ。制服を取りに来がてら、樹生が夕飯を食べに来る。仕事が終われば暁登も合流すると聞いている。暁登の新しい仕事は順調なようだ。
シェア生活を解消しても、二人はよくつるんでいる。いつか「前よりいい」と暁登が言っていた。「離れて分かることがありました。前より岩永さんのことを少し嫌いになって、好きになりました」と。
それぞれがそれぞれの暮らしを営んでいる。その中で都合をつけてそれぞれの時間を、空間を共有する。とても素敵なことだと思う。私達はあくまでも個であるけれど、誰かと接せずにはいられないことを、きちんと認識出来る。
私の人生は私のもので、貴方の人生は貴方のものだ。どう生きるかは自分で決めていい。一人で過ごしても、暮らしを持ち寄っても、いい。
アルバムを元に戻そうとして、気が変わって持ち出した。今夜、樹生に見せたい。どんな反応をするだろうか。興味なさげにふうん、と言うのを、暁登が何かコメントする。そういう想像をした。
写真はいい。写っていなくても誰かが撮っているという事実がある。この写真には不在でも、これを撮ったのは惣先生だ。並んで、もうちょっと寄って、ふたりとももっと笑ってよ。強面でも柔らかくそう言う、かつての夫の声が聞こえた気がした。
梅雨寒の配達は辛いが、雨の日は嫌いじゃない。外回りで雨具を身につけるのが面倒でも、顔に雨が当たっても、運転には最大の注意を払わなくてはいけなくても、雨の日はなんだか心が優しくなれるように思う。
郵便物を濡らさぬように気を配りながら、樹生は家と家の間を縫い綴じるようにバイクを走らせ、停め、郵便受けに郵便物を投函し、またバイクで走る。広く真っ直ぐな道に出て、少しスピードを上げる。今日は早く仕事を終えて定時で帰る。雨だから。
不意に、さっと明るくなった、と思った。雨は当たっているが雲が割れたのだろう。右斜め前方に虹が現れた。あまりにも大きな虹だったので、樹生はバイクを止めてそれを見る。
しばらく見とれてから、またバイクを走らせた。この虹のことを今夜早や暁登に話すかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。
今日は雨だ。雨の日は嫌いじゃない。雨の日は早く帰る。会いたい人がいる。
End.
→ 84
当初の予定よりも長く更新日を取りまして、これにて本編は完結となります。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
明日は更新をお休みいたしますが、明後日からまた、今度は番外編などを予定しております。
まだまだ樹生や暁登や早、その周辺のことなどを語りたいと思います。
こちらもぜひお付き合いくださると嬉しいです。
これを書いている時点では、全国あちこちで災害が起きているようです。
どうかご無事で、そしてこのブログが、読んでくださる方にとっての味方のようなものであればいいなと願っております。
郵便物を濡らさぬように気を配りながら、樹生は家と家の間を縫い綴じるようにバイクを走らせ、停め、郵便受けに郵便物を投函し、またバイクで走る。広く真っ直ぐな道に出て、少しスピードを上げる。今日は早く仕事を終えて定時で帰る。雨だから。
不意に、さっと明るくなった、と思った。雨は当たっているが雲が割れたのだろう。右斜め前方に虹が現れた。あまりにも大きな虹だったので、樹生はバイクを止めてそれを見る。
しばらく見とれてから、またバイクを走らせた。この虹のことを今夜早や暁登に話すかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。
今日は雨だ。雨の日は嫌いじゃない。雨の日は早く帰る。会いたい人がいる。
End.
→ 84
当初の予定よりも長く更新日を取りまして、これにて本編は完結となります。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
明日は更新をお休みいたしますが、明後日からまた、今度は番外編などを予定しております。
まだまだ樹生や暁登や早、その周辺のことなどを語りたいと思います。
こちらもぜひお付き合いくださると嬉しいです。
これを書いている時点では、全国あちこちで災害が起きているようです。
どうかご無事で、そしてこのブログが、読んでくださる方にとっての味方のようなものであればいいなと願っております。
「おれもあんたの所に行くから」
「うん」
「早先生のとこにも行こうよ」
「それはな」樹生は苦笑した。
「行かないと。一人を漫喫してるみたいだけど、やっぱり、親だから。年も年だし」
「あの家の手入れ、あんたもやれよ」
「――そうだな、」
そう言って、樹生は暁登の腕を掴み、その肩に額を乗せた。目頭が熱っぽい。不意に膝の力が抜け、かくん、と樹生は暁登を引っつかんだまま床に崩れた。
引きずられた暁登が声を立てる。
「――どうしたんだよ、」
「いやなんか、……力抜けた」
緊張していたのかもしれない、と言うと暁登に笑われた。その笑みがいい。
立つ? と聞かれて、樹生は首を横に振った。立たないのか? と言われて、うん、と頷く。
「眠くなってきた」
「あー、ベッドに布団敷くか。あんたは寝ろ」
「暁登も寝ようよ」
「片付けがまだ終わらない」
「寝ようよ」
そう言うと、暁登はふん、と鼻から息を漏らして立ち上がった。部屋の壁際に降ろして寄せておいた布団をベッドに運び始める。
「ほら、寝るならこっちで寝ろ」
「あきも」
「んん、」
「寝よう」
しつこく寝よう寝ようと言うと、暁登は面倒臭そうな顔をしたが「まあ、いいか」と樹生の腕を引っ張る。敷いたばかりの布団に二人で寝転んだ。狭かったが、久しぶりに触れる体温と重さに安心した。
「少しだけ」
「ん、……」
体を動かすと顎と顎がぶつかった。至近距離で瞳が合わせられる。樹生は暁登の眼鏡を外した。
「おれの顔、見える?」
「見えるよ、これだけ近ければ」
そのまま抱き合って束の間眠りについた。
→ 85
← 83
「うん」
「早先生のとこにも行こうよ」
「それはな」樹生は苦笑した。
「行かないと。一人を漫喫してるみたいだけど、やっぱり、親だから。年も年だし」
「あの家の手入れ、あんたもやれよ」
「――そうだな、」
そう言って、樹生は暁登の腕を掴み、その肩に額を乗せた。目頭が熱っぽい。不意に膝の力が抜け、かくん、と樹生は暁登を引っつかんだまま床に崩れた。
引きずられた暁登が声を立てる。
「――どうしたんだよ、」
「いやなんか、……力抜けた」
緊張していたのかもしれない、と言うと暁登に笑われた。その笑みがいい。
立つ? と聞かれて、樹生は首を横に振った。立たないのか? と言われて、うん、と頷く。
「眠くなってきた」
「あー、ベッドに布団敷くか。あんたは寝ろ」
「暁登も寝ようよ」
「片付けがまだ終わらない」
「寝ようよ」
そう言うと、暁登はふん、と鼻から息を漏らして立ち上がった。部屋の壁際に降ろして寄せておいた布団をベッドに運び始める。
「ほら、寝るならこっちで寝ろ」
「あきも」
「んん、」
「寝よう」
しつこく寝よう寝ようと言うと、暁登は面倒臭そうな顔をしたが「まあ、いいか」と樹生の腕を引っ張る。敷いたばかりの布団に二人で寝転んだ。狭かったが、久しぶりに触れる体温と重さに安心した。
「少しだけ」
「ん、……」
体を動かすと顎と顎がぶつかった。至近距離で瞳が合わせられる。樹生は暁登の眼鏡を外した。
「おれの顔、見える?」
「見えるよ、これだけ近ければ」
そのまま抱き合って束の間眠りについた。
→ 85
← 83
「そこのラック、組み立てて」と暁登が言った。
「組み立てたらどこに置くの、」
「机の横かな。そこには本を入れるから」
「こっちの衣類は?」
「押し入れに衣装ケース置いたから、そこに仕舞う」
樹生はラックを、暁登は衣類を仕舞いこみ始める。収納予定の本が納められた段ボール箱の中にミヒャエル・エンデの本があるのを見て、樹生はついに覚悟して口を開いた。
「早先生の家に引き取られたのは、八歳の時」
「……小学二年生?」
「かな。父親がいなくて、母親も交通事故で死んだ。茉莉は」
「まつり?」
「ああ、姉貴の名前、……そっか、そんなことも言ってなかったんだっけ、おれは」
自分の情けなさに呆れて笑う。暁登は背を向けて衣類を畳みながら「そうだよ」と冷たく言った。
「うん、茉莉、っていうんだ。おれの姉ちゃん。十歳離れててさ。母親が死んだとき、茉莉は高校三年生で、進路が決まってた。それは変更しないって決めて、だけどおれを養うことは出来ないってなって、早先生のところに引き取られた。十八歳で家を出るまであの家にいたから、まる十年いたんだな」
ラックは簡単に組み上がった。それを机の横に動かして、段ボール箱から本を取り出す。
「それが不登校の理由?」と聞かれたので、「半分マルで半分バツ」答えた。
「あの家で暮らし始めて一年ぐらい経った頃、アトピーが酷くなった。それをクラスメイトに笑われて。こんなくだんない奴らと一緒にいるなら嫌だな、と思ったから行かなくなった。クラス内の空気のどっかに、岩永は親を亡くしたかわいそうな子、っていうのもあって、それで気を遣うのも嫌だった。授業参観とかさ、懇談会とか、運動会に音楽会、遠足の時の弁当作りとか、親の出番ってたくさんあるだろ。その度に、だったからさ」
仲の良い友人がいないわけではなかったが、それだけでは学校へ行く理由にはならなかった。
「勉強は基本ひとりでテキスト進めて、わかんないところは早先生と惣先生に教えてもらえた。教師と教授の家の子になれたんだから、すげえラッキーだったよな。
高校へ行かない選択は、自分でした。惣先生は進学を勧めたけど、おれは早くあの家を出た方がいい、って思ってたから。ただ、中卒で働けるところってほんと少なくてさ。いまの会社に決まって、収入も安定してきて、家を出られたのが十八歳の時。せいせいしたけど、淋しかった。
早く自分の家族が欲しいって思って、二十歳過ぎぐらいで水尾と知り合った。知り合ったっていうか、元から知ってたのが恋愛に発展した、って言うのかな。水尾とは、母親が起こした交通事故の時に出会ってた。おれの母親の運転してた車と、水尾の母親が運転してた車がぶつかって起きた事故だったから。うちの母親は死んだけど、水尾の母親は生きてる。でも障害が残ってさ。半身まひ」
「樹生、」と暁登が僅かに咎めるような口調で呼んだが、樹生は苦笑して首を横に振った。
「自分の嫁さん半身まひにさせられて、恨みをぶつけたくても加害者は死んじまった。そんな女の子どもと自分の娘が結婚するなんてさ、そんなの許せる訳がないよな。水尾の父親――緒方さん、に猛反対喰らった。おれも相当辛かったけど水尾の方が追い詰められてた。それでこの婚約はなかったことにしようっておれから言った。あの時の水尾の、悔しくて悲しいって顔は忘れらんないな。強烈に覚えてるけど、おれはどっかで安心もした。これで苦しいのが終わると思ったから。逃げたんだ」
「樹生、」
「行方知れずの父親のことを、茉莉はずっと許せなくてね。そもそも母親を死なせたのはあいつのせいだって思い込んで、妄執に駆られて、彼女は二十何年もそれに囚われることになった。復讐する人の執念ってほんとに凄いのな。生活の隙をついて父親探して、探して、探して。ようやく見つけたと思ったらもうとっくに死んでたってオチでさ。しかも遺体の大部分は見つかってないんだって。山の遭難死で、ただ、腕が見つかったって」
「樹生」
「そういう恨みとか、怨念、執着心、色んな感情の渦巻いている人が周りにたくさんいる環境だったのに、おれは早先生と惣先生に守られてぬくぬく育って。――だからもう、本当に過去なんだよ。全部が過去。おれにとっては大したことじゃなくて、気に病むことでもないし、話すことでもなかった」
いつの間にか暁登は静かに泣いていた。瞳から零した涙は光に透過している。なにか酷く美しく眩しいものでも見たかのように、樹生は目を細める。
「大事な人にも、話すことじゃなかったんだ。例え相手が知りたがってたとしても、おれにはどうでもいいことになってたから。秘密だとか、そんな大層なものじゃなかった」
「樹生」
「黙ってて、ごめん。でも、そう……たいしたことじゃないんだ」
暁登の体が自然に近付いたので、樹生はその頬に今度こそ手を伸ばす。涙を親指の腹で拭ったのが合図で、暁登の体温が衣類の上から寄せられた。細い体をきつく抱きしめる。
「……――あんたのことでぜってー泣くもんか、って思ってた」
とくぐもった声が肩口に浸みた。樹生はようやく触れた体温にますます力を込める。
「早先生の家で暮らしたら、楽しいだろうな」
「……楽しかったよ」
「だからあんたはこんなにさっぱりしてるんだな」
「そうかもしれない。マイナス面の感情を早先生たちは育てなかったから」
そう、樹生の中には茉莉のような怨念も、緒方のような憎しみも、水尾のような悲しみも、晩のような執着もなにもない。こんな生い立ちでいて、身体にも精神に曇りがないことがある。それが幸いだったのか不幸だったのかはわからない。ただいまは、それでいいと思っている。
大切なものをこうして抱けているのだから、いいのだと思う。
「――おれも引っ越さなきゃな」と言うと、腕の中で暁登が身じろいだ。
「あの部屋でひとりは広すぎるからな。どうせ暁登は、ここで暮らしてくんだろ、」
「うん」
「決めたんだよな」
「そう」
暁登は樹生の胸に手を置き、体と体の距離を置いた。
「あんたの夢が家庭を築くことだったら、おれの夢は自立することだった。夢というか、目標か」
「うん」
「だからいまはそれをしてみたい」
「その先は?」
「考えてない。まだ、いまは」
暁登は少しだけ笑った。その小さな微笑みを優しく感じた。柔らかな風が吹いたように感じたのだ。
実際、吹いたのかもしれない。
「ここに遊びに来てもいいよな」と言うと、暁登は頷いた。
→ 84
← 82
「組み立てたらどこに置くの、」
「机の横かな。そこには本を入れるから」
「こっちの衣類は?」
「押し入れに衣装ケース置いたから、そこに仕舞う」
樹生はラックを、暁登は衣類を仕舞いこみ始める。収納予定の本が納められた段ボール箱の中にミヒャエル・エンデの本があるのを見て、樹生はついに覚悟して口を開いた。
「早先生の家に引き取られたのは、八歳の時」
「……小学二年生?」
「かな。父親がいなくて、母親も交通事故で死んだ。茉莉は」
「まつり?」
「ああ、姉貴の名前、……そっか、そんなことも言ってなかったんだっけ、おれは」
自分の情けなさに呆れて笑う。暁登は背を向けて衣類を畳みながら「そうだよ」と冷たく言った。
「うん、茉莉、っていうんだ。おれの姉ちゃん。十歳離れててさ。母親が死んだとき、茉莉は高校三年生で、進路が決まってた。それは変更しないって決めて、だけどおれを養うことは出来ないってなって、早先生のところに引き取られた。十八歳で家を出るまであの家にいたから、まる十年いたんだな」
ラックは簡単に組み上がった。それを机の横に動かして、段ボール箱から本を取り出す。
「それが不登校の理由?」と聞かれたので、「半分マルで半分バツ」答えた。
「あの家で暮らし始めて一年ぐらい経った頃、アトピーが酷くなった。それをクラスメイトに笑われて。こんなくだんない奴らと一緒にいるなら嫌だな、と思ったから行かなくなった。クラス内の空気のどっかに、岩永は親を亡くしたかわいそうな子、っていうのもあって、それで気を遣うのも嫌だった。授業参観とかさ、懇談会とか、運動会に音楽会、遠足の時の弁当作りとか、親の出番ってたくさんあるだろ。その度に、だったからさ」
仲の良い友人がいないわけではなかったが、それだけでは学校へ行く理由にはならなかった。
「勉強は基本ひとりでテキスト進めて、わかんないところは早先生と惣先生に教えてもらえた。教師と教授の家の子になれたんだから、すげえラッキーだったよな。
高校へ行かない選択は、自分でした。惣先生は進学を勧めたけど、おれは早くあの家を出た方がいい、って思ってたから。ただ、中卒で働けるところってほんと少なくてさ。いまの会社に決まって、収入も安定してきて、家を出られたのが十八歳の時。せいせいしたけど、淋しかった。
早く自分の家族が欲しいって思って、二十歳過ぎぐらいで水尾と知り合った。知り合ったっていうか、元から知ってたのが恋愛に発展した、って言うのかな。水尾とは、母親が起こした交通事故の時に出会ってた。おれの母親の運転してた車と、水尾の母親が運転してた車がぶつかって起きた事故だったから。うちの母親は死んだけど、水尾の母親は生きてる。でも障害が残ってさ。半身まひ」
「樹生、」と暁登が僅かに咎めるような口調で呼んだが、樹生は苦笑して首を横に振った。
「自分の嫁さん半身まひにさせられて、恨みをぶつけたくても加害者は死んじまった。そんな女の子どもと自分の娘が結婚するなんてさ、そんなの許せる訳がないよな。水尾の父親――緒方さん、に猛反対喰らった。おれも相当辛かったけど水尾の方が追い詰められてた。それでこの婚約はなかったことにしようっておれから言った。あの時の水尾の、悔しくて悲しいって顔は忘れらんないな。強烈に覚えてるけど、おれはどっかで安心もした。これで苦しいのが終わると思ったから。逃げたんだ」
「樹生、」
「行方知れずの父親のことを、茉莉はずっと許せなくてね。そもそも母親を死なせたのはあいつのせいだって思い込んで、妄執に駆られて、彼女は二十何年もそれに囚われることになった。復讐する人の執念ってほんとに凄いのな。生活の隙をついて父親探して、探して、探して。ようやく見つけたと思ったらもうとっくに死んでたってオチでさ。しかも遺体の大部分は見つかってないんだって。山の遭難死で、ただ、腕が見つかったって」
「樹生」
「そういう恨みとか、怨念、執着心、色んな感情の渦巻いている人が周りにたくさんいる環境だったのに、おれは早先生と惣先生に守られてぬくぬく育って。――だからもう、本当に過去なんだよ。全部が過去。おれにとっては大したことじゃなくて、気に病むことでもないし、話すことでもなかった」
いつの間にか暁登は静かに泣いていた。瞳から零した涙は光に透過している。なにか酷く美しく眩しいものでも見たかのように、樹生は目を細める。
「大事な人にも、話すことじゃなかったんだ。例え相手が知りたがってたとしても、おれにはどうでもいいことになってたから。秘密だとか、そんな大層なものじゃなかった」
「樹生」
「黙ってて、ごめん。でも、そう……たいしたことじゃないんだ」
暁登の体が自然に近付いたので、樹生はその頬に今度こそ手を伸ばす。涙を親指の腹で拭ったのが合図で、暁登の体温が衣類の上から寄せられた。細い体をきつく抱きしめる。
「……――あんたのことでぜってー泣くもんか、って思ってた」
とくぐもった声が肩口に浸みた。樹生はようやく触れた体温にますます力を込める。
「早先生の家で暮らしたら、楽しいだろうな」
「……楽しかったよ」
「だからあんたはこんなにさっぱりしてるんだな」
「そうかもしれない。マイナス面の感情を早先生たちは育てなかったから」
そう、樹生の中には茉莉のような怨念も、緒方のような憎しみも、水尾のような悲しみも、晩のような執着もなにもない。こんな生い立ちでいて、身体にも精神に曇りがないことがある。それが幸いだったのか不幸だったのかはわからない。ただいまは、それでいいと思っている。
大切なものをこうして抱けているのだから、いいのだと思う。
「――おれも引っ越さなきゃな」と言うと、腕の中で暁登が身じろいだ。
「あの部屋でひとりは広すぎるからな。どうせ暁登は、ここで暮らしてくんだろ、」
「うん」
「決めたんだよな」
「そう」
暁登は樹生の胸に手を置き、体と体の距離を置いた。
「あんたの夢が家庭を築くことだったら、おれの夢は自立することだった。夢というか、目標か」
「うん」
「だからいまはそれをしてみたい」
「その先は?」
「考えてない。まだ、いまは」
暁登は少しだけ笑った。その小さな微笑みを優しく感じた。柔らかな風が吹いたように感じたのだ。
実際、吹いたのかもしれない。
「ここに遊びに来てもいいよな」と言うと、暁登は頷いた。
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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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