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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 三十代に入って、岩永直生からまめに連絡が入るようになった。
 中学三年生という一年間を共にしたが、そして通孝は恋心を抱いていたが、直生に告げることはなかったし、むしろ離れる道を選択した。直生は勉強が出来たので当たり前のように県内屈指の進学校へ進んだし、通孝は早く親の経営を支えなければと考えていたので、手っ取り早いかと思って商業高校へ進学したのだ。以降、音信は途絶え、初恋は初恋のままで終わるのだと思っていた。
 直生の結婚披露宴に招かれたときに久しぶりに直生に会った。直生の隣で微笑む女性のことは、少々複雑な想いで見ていた。綺麗な女性だったので嫉妬の対象にはならなかった。ああ、結局はこういうのを望んだんだな、と思うと、男の自分は逆立ちしたって無理だから、仕方がないと思う。直生との恋が叶うなんてことは、端から諦めていたのだ。
 披露宴の席に鳥飼がいたことは、とても驚いた。度胸があるなと思ったのだ。かつて恋心を抱いていた人を自分の結婚披露宴に呼ぶ、その意図はなんだろうか、と。ましてや鳥飼は四十歳に届こうかというころでも未婚であったから、そういう女性を招くのはどういう心境かと問いたかった。もちろん訊きはしなかったが。
 直生は幸せそうに笑いながら、「すぐに子どもが産まれるからそのときは見に来てくれ」と言った。大学を出て就職して一年かそこらだ。よっぽどセックスに励んだかと鼻白んだが、直生は直生の人生で、通孝とは関係がないことだと思いなおした。
 道は分かれたまま、交わることはない。そう思っていたから、ぽつぽつと便りが届きだしたころは意外に思った。他愛もないことからはじまった交信。ある日強く「会いたい」と要請があったときは、だから、正直戸惑った。
 実際に会ってみて驚く。直生はひどく痩せていて、目ばかり血走らせていて、幸福そのものの披露宴からすっかり様変わりしていた。
 昔通った、昔からある喫茶店で、直生の妻・美藤も同席していた。美藤にはあざがあり、明らかに暴力を振るわれていることが見て取れた。そして直生自身の手も生々しく腫れていた。妻を殴って出来たあざだと言った。
 入院しかないと思うんだと、直生は覇気のない声でぼそぼそと喋った。
「――どうしても美藤や、子どもを、殴ってしまう」と。
「家庭内暴力、」
「そう、それ……」
 なぜ、と問う前に直生は顔を手で覆い隠して震えだした。美藤が「直生さん、」と言って背に手を添える。直生は泣いていた。「ごめんなさい」と後悔から来る謝罪の言葉は、間違いなく自分自身のことを責めていた。「ごめんなさい、ごめん……」言葉はむやみに繰り返される。
 それを聞いて、通孝の体に衝撃が走った。こんなにも苦しんでいる。こんなにも追い詰められている。
 ――全く知らなかった。ただ幸福に在るのだと思い込んでいた。
 直生と美藤のことを、自分のことから切り離して考えられるくらいには、初恋から逃げ切っていた。けれどこの直生の切実な嗚咽を聞いてしまえば、それは途端に怪しくなった。
 一から全て話せ、と促した。直生が渋ることも苦しがることも容赦せず語らせた。そこから分かったのは大したことではなかったが(例えば自身に当てはめるなら、そんなのは少し考え方を変えるだけで解決出来そうなことだった)、直生にとっては大問題で、その根本はすべて直生の精神の弱さにあるように感じた。少なくとも通孝はそう結論づけた。
 中学生のころのことを思い出せば、晴れたり曇ったり、こころのうつろいは岩永直生という男にさほど遠いものには感じなかった。
 自分に対して悔しく、憎らしく思うんだ、と直生は歯を軋ませながら言った。
「――美藤を、子どもらをこのままでは、殺す」
 ギリ、と奥歯を噛みしめる音を耳にして、通孝はやるせなくなった。
 どうして直生の性質を分かってやれないのだろうと、美藤を責める気持ちがあった。どうしてここまで追い詰められてしまったのだろう、と。それはおまえの、おまえたちのせいではないのか、と。安心して一家を支えてくれる役目にあるとでも思ったのか、この弱い男を。
 むせぶ直生の背を優しく叩きながらも、疲労した目で通孝を見つめてくる女に無性に腹が立った。
「……そういえば今日、娘さんと――息子、だったか。は、どうしたんだ?」
 と訊くと、美藤は目を伏せ、直生は「早先生のところだ」と言った。
「――早? もしかして鳥飼早?」
「そう。いまは結婚して、草刈早、だ」
「結婚した?」
「うん、……おれの大学時代の恩師と結婚したんだ」
 ざっくりと鳥飼早の話を聞いた。彼女は変わらず岩永直生にとっての「聖母」として、交流があるらしかった。
 黙ったままの美藤が口をひらいた。
「この人を、失いたくないんです」
「ええ、」
「だから、主人と話して決めました。治療に専念しましょう、って」
「それは……つまり、」
「主人のかかる病院には、急性期の患者が入る病棟があります。そこに入院しよう、と」
「ばかなこと」
「それしか……いまは考えられないので、」
 それはつまり、閉鎖病棟に閉じこめられる日々を送ることを意味していた。
 病棟、病気療養、といえばまだ聞こえとしては充分だ。哀れみと同情の目を傾けられることに馴れればどうってことはない。けれど精神科の閉鎖病棟は違う。キチガイのかかるところであるし、医師は匙を投げたも同然の意味だ。
 おまえは社会にとって触れてはいけない狂気だから隔離する。一生そこで暮らして、とっとと死ね、と言われているようなものだ。
 通孝の背筋がぶるりと震え、強張った。
「――そう、それで、入院する前にきみに会っておこうと思って」と直生は言った。
「……どうして僕なの、」
「おれはもう肉親を亡くしている。いたとして、関わりたくもない間柄だった。美藤も同じような境遇で、おれたちには頼れる人がいないんだ。だから、美藤や子どもらをきみや早先生らに頼めたら、という甘えと、あとは……きみなら受け入れてくれると、思った。これも甘えだ」
「なにを、受け入れればいい?」
「……おれが存在すること、」
 そう言って直生はまた顔を伏せ、美藤に背をさすられていた。だがそれもうっとうしいのか、「触るな!」と妻に吠えた。
 怒鳴ってからはっと顔をあげ、通孝を見て目を逸らした。「ごめんなさい」
 通孝は、辛くなった。どうして、という思いが募る。どうしてこんなに責められなきゃならないのか、この弱い人が。なぜ周囲はここまで放置したのだ。なぜ、どうして。答えは出ないが、ただ直生を取り囲む環境に対しての憤りと怒りがあった。
 僕なら直生のいちばんの理解者になる、と通孝は根拠もなく自信を漲らせた。
 彼をゆっくり休ませてやれるのは、自分だけだろう、と。
「うちにおいで」と通孝は言った。
「うちの山荘の従業員寮のひと部屋きみにあてられる。外界と隔てられるという意味じゃ、入院や療養生活と変わりないよ。なんせ周囲は山しかないからな。自然環境は多少厳しいけれど、空気と水がいいのが自慢だ。きみにきっと、合う」
 ひゅ、と直生の喉が鳴ったのが聞こえた。
「いいか岩永、きみは他人よりすこし繊細に作られてしまっただけだ。おかしいところはなにもないし、ましてや謝る必要もない。きみは、治る。元気になる。そうすればまた、……暮らしていける、」
 そう思う、と結ぶと、直生は目からぼろぼろと涙をこぼして頷いた。
「そうしても、いい?」
 直生は泣きじゃくりながら訊ねる。
「きみに甘えても、いい?」
「甘えるために連絡寄越したんだろう?」
 そう言うと、直生はようやく笑った。ぎこちなく頬の筋肉を動かした。久々にそうしたから忘れてしまった、そんな言い分を聞いた気がして、目の前の痩せた背の高い男を憐れに思った。
 すぐに来い、という話でまとまり、当面の必要な荷物だけ持って直生をその場で預かることにした。
 去り際、美藤は通孝に深く頭を下げた。なにからなにまで、という慣用句を、通孝は最後まで言わせずに一蹴した。
「岩永のためです」
 そう言うと美藤は疲れた顔を少し緩ませた。諦め、不安、安堵、そういったあらゆる感情が垣間見える。
「なぜ、ここまで、……」と美藤は疑問を口にした。その疑問には「友人なので」と答える。
「岩永が幸福に暮らせることを考えただけです」
「……」
 そこには「おまえには無理だ」の誹りも含まれていた。美藤は黙って頭を下げた。


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 有起哉にそう言われてから、通孝は自然と直生の行動を追うようになった。直生が鳥飼と共に話しているのを見ては勝手にドキドキしたし、橋本といるときは冷や汗をかいた。
 表向き、直生の態度はどちらの教師に対しても変わらなかった。心の中でなにを考えているかまでは、心を読めないので分からない。ただ、直生の視線の先には確かに鳥飼がいるな、というのは少し観察すればすぐ分かることだった。
 ある放課後、通孝は職員室に用事があって廊下を歩いていた。教室から職員室までのルートは美術室の前を通る。岩永、いるのかな、と思って美術室の前を通った際に覗くと、美術室には鳥飼と直生のふたりしかいなかった。
 直生は椅子に腰かけ、鳥飼と話している。あまり大きな声で話していないので聞こえてくる会話は途切れ途切れで、だが東京で開かれている展覧会の話をしているのだ、ということは分かった。
 鳥飼は画布を引っ張り出して木で組んだ枠に画布を張る作業をしながら、直生の相手をしていた。鳥飼の顔つき、喋り方は普段と変わりなかったが、直生の方はいままで見たことのない、甘く幼い顔をしていた。
 先生、と直生が鳥飼を呼ぶ。
 なんですか、と鳥飼は作業する手を止めずに答える。
 先生、と直生はまた鳥飼を呼んだ。
 ――特に用事はないんですね。
 ――うん。
 ――最近おうちの様子はどうですか? 
 ――……別に、変わりありません。
 ――お母さんの様子は? 
 ――特に、……もう、慣れてるし。ねえ先生、母さんの話はいいですから、展覧会の話、もっと聞きたいです。この間の休みに行ったっていう、S県はどうだったんですか?
 ――そうですね。庭が広くて、ばらが綺麗でしたよ。
 そのふたりの様子を見ていられなくて、通孝はそっと教室から離れる。
 直生が鳥飼を慕っているのは明らかで、それがなんだか、通孝の心をざりっと引っ掻いた。
 それから通孝の行動は早かった。元々が思いつくと熟考の出来ない、せっかちな質だ。行動力が自慢ともいえる。へまをして誤解を招くことだけは避けたかったのでそこだけは慎重にことを進め、裏を取り、確証が持てる段まで来たので、得た情報を公開することにした。
「――岩永、いる?」
 通孝が放課後の美術室を訪ねたのは、あのハイキングから十日後のことだった。美術室には直生とほかに数名の美術部員がいたが、鳥飼の姿はなかった。
「ちょっといい?」
 直生を廊下に連れ出す。開け放った廊下の窓から中庭が見える。その日は暑いぐらいの陽気で、傾きかけた陽の光はまだ強くふたりを照射していた。
「あのさ、あの件なんだけど」と切り出すと直生は意味が分からなさげに首を傾げたが、「鳥飼と橋本」と言うと、はっと不安げな表情を見せた。
「あれ、勘違いだから」
「――え?」
「鳥飼と橋本の間は、男女関係とかそんなのは、ない。どうして言い切れるかっていうと、ちゃんと聞いたから」
「えっと、……そういう関係のあるなし、を?」
「うん。橋本に確かめて、それだけじゃ片手落ちかなと思ったから、鳥飼にも聞いた」
 というと、直生は途端に顔を赤く染めた。
「いや、誰が気にしてたとか、そういうことは言ってないよ。最近鳥飼先生と仲がよろしいようですがと、突っついてみただけ」
 橋本のことだから単刀直入に切り出せば素直に答えるだろうと予想はしていたが、案の定なんにも包み隠さず話してくれたので、そんなことも聞けずにやきもきしていた直生のことは、ばかだな、と思った。
「橋本は、お見合い相手とうまくいってんだよ」
「え、お見合い?」
「うん。したんだって、この前の春休みに。会ってみてよい人で、向こうもわるくない返事だったから連絡を取ってる、って。けど、豪快に見えてあいつは奥手だからな。その年頃の女性がなにに喜ぶものなのかが分からないって言って、鳥飼に相談に乗ってもらってるそうだ。お相手さんがちょうど、鳥飼と同い年くらいだからって」
 そう告げると、直生は絶句した。黙り込んだままただ目をまんまるにひらいている。
「鳥飼にも聞いたよ。そうなんですか? って。鳥飼も笑ってた。同い年の女性みな一同に同じものが好きだとは限らないんですけどね、ってさ」
「そうなの?」
「そうらしいよ。橋本の照れ笑いと鳥飼の呆れっぷりを見てたらもう、間違いないよ」
「すごい、すごいな、晩は。おれがもたもたしているあいだに、あっという間に解決させた」
「行動力が自慢なんだ」
「すごい、本当にすごい。すごい、」
 直生の体が次第に震えだす。このあいだ、山荘で過ごした夜のときのようなこわばりからではなく、むしろ体が跳び跳ねたがっているような、そういう震えだった。「すごい、すごい」と直生は子どものように繰り返す。いつも大人しいイメージがあったから、この高揚感を通孝は異常に感じた。
「そうなんだ、――晩、すごいよ、すごい――――!」
 瞬間、直生は窓の桟に手をかけて、外へ向けて思いきり吠えた。わー、だったのか、あー、だったのか、とにかく大音量で、通孝はとっさに耳を押さえた。叫んだだけでは足りないのか、直生はその場でぐるぐるとまわり出す。そして思いきり通孝の背を叩き「ありがとう」と言うと、また叫んで――同時に窓枠にひょいと足をかけて外へ飛び出した。
「えっ――!!」
 声が出たのは、ここが一階ではなく二階だったからだ。ぽーん、と直生の体は宙を舞い、しなやかに反り、地面に綺麗に着地した。飛び降りた! と通孝の心はざわめく。本人はそのままの勢いで庭を猛然と走って行ってしまった。目撃したのか、階下の窓から教員が即座に顔を出した。
「こらっ! なにをしている!!」
 共犯でいたずらでもしていると思ったのだろうか、通孝に向かって教員は叫ぶ。すぐさま別の教員が直生の後を追うのが確認できた。通孝は慌てて窓から顔を引っ込め、美術室に逃げ込む。
 すごい、と思った。あの身体能力もそうだし、ありがとう、と通孝に告げたときの表情もそうだし、人間ってあんなに素直に感情を爆発させる瞬間があるんだな、とも思った。信じられないぐらいの躍動感に、通孝は衝撃を受ける。
 急いでやって来た教員にまんまと見つかって職員室へ連行されても、通孝はすっかり惚けてうわのそらだった。
 人がきらきらと輝いて見える、そういう瞬間があるんだな、と。心臓が爆発しそうに痛かった。
 このとき間違いなく恋に落ちた。


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 直生の話をきちんと聞いて、ようやく事情を把握した。風呂から上がった後、部屋に戻って話を聞いた。なぜだか料理人の有起哉も酒をちびちびと舐めながら混ざっていた。
 直生いわく、橋本は鳥飼のことが好きなのだという。
「根拠は?」
「見てれば分かるよ。用事もないのにやたら美術準備室に橋本先生が顔を出すから。理科準備室と美術準備室なんて階が違うのにわざわざ」
「用事があるんじゃないの? ほら、同じ学年でそれぞれ担任持ってるし」
「ないよ、用事なんて……多分。この間は美術準備室で関係ないこと喋ってた。星の話とか」
 話ながらも、直生の頬が紅潮していく。
「今日だって……鳥飼先生に対して橋本先生はすごく、親身で、」
「そりゃ企画した本人だからさ、足の遅いやつのこと面倒見るのは当たり前だと思うけど」
 そんなことを喋っていると、それまでずっと静かに酒を舐めていた有起哉が「独身?」と口を挟んだ。
 え、とふたりして有起哉を見る。
「その、ハシモトとトリカイは、独身なの?」
「あ、えーと、そうです。鳥飼先生も、橋本先生も、独身……」
「歳は?」
「橋本先生は分からないです、……でも多分、三十代半ばくらい。鳥飼先生は、今年、二十九歳」
「ふうん。じゃああり得るな」
 と、有起哉はあっさり言った。直生は瞬時に傷ついた顔をして、通孝はそれを見ていられなくて「どうしてさ?」と聞いた。
「年頃の男女で、話も合うなら『いいお友達』同士の方がおかしいだろ?」
「そんなの一般論じゃないか。あのふたりに当てはまると思えないけどな、僕は」
「大多数に当てはまるから一般論なんだろ」
「よく知ったふうに言うけど、有起哉さんだってまだ十代じゃないか」
「ばか、経験値なめんなよ。おまえらみたいに童貞じゃねえんだよ、とっくにな」
 それを聞いて俯いたのは直生だった。照れている、というよりは怯えて青白い。ぽんぽんと身内の気安さでつい言い合ってしまったが、話があからさま過ぎたかもしれない、と通孝は反省する。
 謝ったが、直生の表情は硬い。次第にはカタカタと震えだすので「あー、悪かった悪かった」と有起哉も謝った。
「大丈夫か? おい、えーと、」
「岩永直生だよ」
「直生、悪ふざけが過ぎた、ごめんな」
 有起哉は直生の肩に手を当て、さする。しばらくそうしていたが、有起哉はふと手元にあったコップ酒に気付くと、「ほら」と直生の口元に無理に寄せた。
「――有起哉さん、」
「別に、ちょっと飲ますぐらいいいだろ。本当は温かい牛乳にちょっとブランデー垂らしたやつがいいとか言うけど、まあ、要は一緒だろ」
「そんなざっくり」
「ひと口舐めるだけでいいから。直生、」
 言われて直生は顔を上げ、有起哉から渡された酒を一口舐める。みるみる顔が赤くなり、倒れるように布団の上に横たわった。
「そうそう、寝ちまいな」と有起哉は言った。直生に布団をかぶせ、目元を掌で覆う。
「そう、そうだよ直生――いい子」
 そうして直生が大人しくなり、やがて規則正しい寝息を吐き出すようになった頃、通孝と有起哉はそっと部屋を出た。
 部屋を出て廊下を降り、従業員一同がつかう談話室にひとまず腰を据える。もう深夜のような時刻で、朝早くから始まる仕事だということもあって起きている人間は誰もいなかった。
 明かりを点け、椅子を引っ張り出すと有起哉は「なんだありゃ」と呟いた。
「え? 岩永?」
「ああ。あいつ結構、なんていうかな――『揺らぐ』な」
 有起哉の言っていることの意味が分からず、通孝は首を傾げた。
「揺らぐ?」
「そう、……ぶれる、とでも言うんかね。落ちる、かもしれない。とにかく、安定しない。ここが」
 とんとん、と有起哉は親指で自分の胸を指した。
「思春期ってそんなもんなんじゃないの、」と通孝は知ったようなふりで言ったが、実際いま自分の年齢がそうであるのに、遠くの噂話みたいに思えた。
 有起哉は「は」と息を吐く。
「それにしちゃあな。生理前の女と相対してるみてぇだ」
「……有起哉さん、そういうことばっかり言うから」
「分かってるって。これでも言うやつは選んでるんだぜ。共同生活の節度ってやつ」
 有起哉は頭の後ろで手を組むと、後ろにふんぞり返って「まあ、あれだな」と言った。
「直生は本気でその、トリカイが好きなんだろうよ」
 ままなならんもんだな、と有起哉は呟いた。


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 山荘までは片道二時間半ほどだ。従業員用の裏口から山荘内に入った。ちょうど休憩中だった従業員が人懐こく三人を迎える。直生はもの珍しそうにキョロキョロと施設内に視線を巡らせていたが、従業員のひとりに「大きいねえ」と声をかけられ、恥ずかしげに「はい」と答えた。
「通孝くんの同級生だって?」
「はい。岩永と言います。今日はお世話になります」
 ぺこぺこと頭を下げ続ける直生を引っ張り、通孝は表玄関へと向かう。受付台にいたのは祖父だった。フロントマンが休憩に入ったので、祖父が替わったのだ。
「通孝」と祖父は孫の姿を認めて声をかけた。「ずいぶんでかいの連れてきたな」
「なにか手伝うことがある?」と訊ねると祖父はニコリと笑むことで答えた。
「今日はな、もう客も入っちまったから後は従業員に任せておけばいい。むしろお前達みたいなのにうろちょろされたら迷惑だ。明日、頼むよ。客が捌けたらトイレと風呂の掃除だ」
「分かった」
「厨房に顔出しな。まかない出してくれるだろうよ。夕飯だ」
 祖父に礼を言って通孝はまた歩き出す。直生もついてきた。言われた通りに厨房に顔を出すと、料理人らが忙しなくも笑顔で出迎えてくれた。「こっち」と直生を隅のテーブルに着かせる。勝手を知っている通孝は邪魔にならないように料理をよそってもらい、テーブルに運んだ。
「やったね。今日のまかないはシチューだ」
 黒々とこっくり煮詰めたシチューは、野菜の残り屑やら肉の切れ端やらで作られる。何時間も煮込んで作るそれは白米に泣けるほど合うので、ここでしか食べられない通孝の好物でもあった。
 直生は目を開いて料理を見つめていた。
「食べようよ。あ、嫌いだった?」
「……いや、こういうのははじめて食べるから、」
「残り物ばっかり入ってるのに、美味いんだよ」
 口々に喋っていると、料理人のひとりがフライパンを持って近付いてきて、「そう、美味いんだ」と言ってふたりの皿にそれぞれオムレツを滑りこませた。
「玉子があると絶品だ」とにやりと笑う。
「玉子、いいの?」
「特別な。その代わり明日はうんと働けよ」
「ありがとう」
「はいよ」
 通孝が食べ始めたのを見て、直生もおそるおそる皿の中身を口にした。しばらく無言だったが、「どう?」と聞くと口の中のものを咀嚼して飲み込んでから「食べたことのない味がする」と答えた。
「美味い」
「だろう?」
「本当に美味い」
 それからは無言で腹を満たし、満たされた後は食器を洗って今度は従業員寮に向かう。今夜はそこに一室、通孝と直生の為に部屋を貰っていた。「お客さんが使った後に風呂を使うからさ、十時にならないと風呂には入れないんだ」と説明して、押し入れから布団を引っ張り出してごろりと寝転んだ。
 さすがに疲れていたが、冴えてもいた。直生は布団の上に体育座りでぼんやりしていたが、やがて「みんないい人たちだな」とこぼした。
「色んな人がいるから、一概にそうは言えないよ」
「でも、晩は可愛がられている」
「いずれの跡継ぎ、って立場だけだよ」
「……いや、違うと思う」
 耳の後ろをガリガリと掻き、直生もついにごろりと寝そべった。
「おれの家は、こんな風にはならない」
「……おふくろさんと、ふたり暮らしなんだよな」
 訊ねるも、勇気が要った。昼間さらっと聞いた話の限りでは、家庭環境のことを安易に訊ねるのはどうかと思った。だが直生からこの話題を振ったので、無視しようにも無視できない。
 直生は黙る。言葉を探しているふうに思えたので、「言いたくなければ言わなくていい」と言い添える。
「話したくないことは話さなくても。……ごめん、やっぱり僕は距離が近いんだよな」
 直生は黙っている。うつ伏せて顔を上げない。
 だがややあってくぐもった声で「晩にはなんでも話せてしまうから怖い」と返事があった。
「警戒心を解かれるっていうのか、……話しても大丈夫かなって、安心感があるっていうのか、」
「そうかな」
「うん。人と人との距離にするっと入り込んでくる」
 少し考えて、「それが嫌なら気をつけるよ」と言ったが、直生は首を横に振った。
「嫌、ではないから、気をつけることはないよ」
「……そう」
 ぼそぼそと喋っているうちに扉がノックされた。顔を覗かせたのは先ほどふたりの食事にオムレツを滑りこませてくれた若手の料理人だ。「風呂、入るだろ?」とわざわざ声をかけに来てくれた。
「時間前だけど、入っていいってさ」
「ありがと、有起哉(ゆきや)さん」
「先行くぜ」
 パタンとまた扉が閉まる。風呂行こうか、と通孝は支度を始める。タオルを渡してやると、直生はようやく起き上がった。通孝を見上げる格好になる。
 ひどい顔色で、泣きそうな表情をしていた。
「――晩、」
 と呼ばれてドキリとした。
「協力してくれないか」
「なにを、」
「橋本先生が鳥飼先生に近付くことを、おれは容認出来ないから」
 きゅ、と寄った眉根で切々と訴えられたが、通孝にはまるで分からない話だった。


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 バスの中では父親が案内人らしく今日のコースや見どころ、注意事項などを説明してみせた。直生は通孝の隣に座ったが、反対側の座席には鳥飼が座ったので、通孝と喋っていてもどこか彼女を気にしている風だった。なんとなく違和を感じながらも窓の外を見る。今日行く山は通孝自身も父親や山荘の従業員らとよく来ていたので、いま進んでいる道も知っている道だった。
 今日は主に湿原を行くコースだ。五月の湿原は山からの雪解け水が流れ込む為、普段よりも水量も多く、ちがう一面を見せる。こんな平地をうらうら歩くよりはもっと岩場や雪渓を歩きたかったな、と通孝は思うのだが、あくまでも「初心者向け」の「ハイキング」の様相だ。
 バスを降りてまずは皆で柔軟体操をした。屈伸をし、ふくらはぎを伸ばす。手首足首をまわす。それから隊列を組んで歩き始めた。生徒を中程に置き、教師を前方と後方に置いて一行は進む。
 ここの湿原は手入れが行き届いている。木道も地元民によって丁寧に整備されていた。けれど時折、驚くぐらいの段差やぐらつきがあったりもする。ここは気をつけて、と前方で父が注意するのを後ろへと伝えていく。
 通孝の後ろに着いた直生にそれを伝える時、それよりもっと背後で不意に笑い声が響いた。振り向くと鳥飼と橋本が何やら楽しそうに笑顔を見せている。背後の並び順までは気にしなかったのだが、橋本が鳥飼の後ろに着いて歩いていたようだった。鳥飼は体の小ささに見合うように足が遅く、この集団からは遅れ気味であった。その鳥飼を見守るようにして橋本が最後尾についていた。
 大方、橋本がくだらない冗談か大げさな体験談でも語ったのだろう。いつものことだ。だが直生が立ち止まってそちらをしばらく眺めていたので進行が一時止まった。通孝は「どうした?」と訊ねる。
 直生の、捩った首に現れた大動脈の盛り上がりを見て、訳も分からず心臓が一瞬跳んだ。なんの感情かは分からないが、その造形が恋しいような気がして、通孝は自身のその感情に戸惑う。直生は「いや」と言ってまた歩き出した。「順番替わって」と言うので通孝の先に通す。
 大きな歩幅でぐいぐいと直生は木道を進んでいく。一堂はやがて湿原を抜け、川沿いの野原に出た。「ここで休憩にしましょう」と通孝の父が言い、めいめい好きな場所に腰を下ろした。もちろん、通孝は直生と共に座る、はずだった。
 遅れて鳥飼と橋本が到着した。話が弾んでいるのか、ふたりは笑っている。直生はスッと立ち上がると、そこへ駆けて行った。通孝に何も言わず、その場からあっさり去ってしまったのだ。
 傍で輪を作って弁当を取り出していた山岳部員のひとりが「部長?」と声を掛けてきた。「なんか、置いてかれてしまいましたね」
「うん……」
「こっちの輪に入りますか?」
「いや、……」
 通孝は直生の行動を遠くから眺めた。鳥飼と橋本と直生とで何か話していた様子で、結局三人でその場に腰を下ろしてしまった。弁当でも食べるのだろうか。通孝はなんだか面白くない気分になり、先ほど声を掛けてくれた部員に「やっぱり入れてくれ」と頼んで輪に交ざった。
 弁当を食べ、適当に会話を楽しみ、野原で自由時間を過ごした後に、再び列を組んで木道を進んだ。来た道とは別ルートを利用してバスまで戻る。だが通孝の後ろには直生は着かなかった。最後尾の鳥飼と橋本、このグループに加わって歩いていた。
 バスの座席が決まっていた訳ではなかったが、なんとなく行きと同じ席順で座った。通孝の隣には直生。だが会話が弾まない。通孝の方が気分の悪さを引きずっていて、あえて窓の外を眺めることで直生を無視していた。
 一行は学校に戻り、解散となった。通孝の父は山好きの教員連中となにやら談笑していたので、通孝はひとりで帰るべく集団から遠ざかる。と、直生が「晩!」と大きな声で呼んだ。振り向くと直生は長い足をしなやかに動かして通孝の元へ駆け寄ってくる。
「少し話がしたいんだけどだめかな」と直生は言った。直生のその台詞に被せるようにして今度は「通孝!」と遠くから呼ばれる。父親が呼んだのだ。彼は小走りに通孝の傍へやって来る。
「今日これから山荘の方に来ないか? 明日も学校は休みだろう」と父親は言った。
「連休の手伝い要員が欲しいだけなんだろう?」
「そういう意味合いもあるな」
 通孝は傍らに控える直生のことを考えた。考えて、「友達も一緒でいいなら」と直生を指差しながら答えた。
 直生は「え?」と言い、父親は「お」と言った。
「構わないよ。うちの山荘に来てみるかい?」と父親が直生に言う。
「でも、」
「手伝わされるだけだから嫌なら断っていいよ。でも、岩永がいいなら」
 しばらく直生は逡巡していたが、やがて頬を少し赤くして、「じゃあ、行きます」と父親に言った。
「このまま直行していいかい?」と父親はふたりに訊ねる。
「構わないです」
「ではふたりとも車に乗って。行こう」
 三人で通孝の父親の車に乗り込んだ。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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