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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 麻痺と言うにはやや違う。眞仲曜一郎(まなかよういちろう)の右手の中指には「攣る」癖がある。
 大事なときに限って攣る指のことを、誰にも話したことはない。原因は分からないが、ここは慎重に行いたいと思うときに、指はぴきっと、曜一郎にしか聞こえない僅かな音をさせて、棒のようになってしまう。時に痛みを伴うから、竦む。図画工作の授業の、大事な一筆を入れる瞬間。技術の授業の数ミリの位置にのこぎりを当てたとき、はじめて出来た彼女の背を抱き寄せたいと思ったとき。肝心なところで攣るのは極度のあがり症だからだろうか。原因はよく分からない。分からないが、このことは黙っていようと決めた。欠点は隠し通したかった。勉強は出来たので、技術職に就かなければいいだろう、そう考えた。
 妻に関しては、申し訳ない、の言葉に尽きる。曜一郎の指が攣るから。力加減を誤るから、彼女を満足にさせてあげられない。ずっとそう思って来たし、いまでも思っている。
 だからよその男と寝るのは仕方がない、と諦めてもいた。結婚している他の同僚や友人らから話を聞けば、「妻」といつまでもセックスできるなんて変態だ、と豪語するやつもいたので、夫婦とはそういうものなのだろうとも思った。
 ただ、彼女が曜一郎ではない男とホテルに入っていくところを目撃してしまったときは、目の前が真っ赤になった。足元からじんと痺れ、曜一郎を支配した感情は「怒り」だった。妻のことを自分の所有物のように思っており、それを取られた、と思った。相手の男に怒り、妻に怒り、自分に対して怒った。
 感情のままに別居を告げ、娘ふたりを連れて実家に一時的に戻った。だが娘たちは家に、妻の元へ帰ることを望み、離縁しようかどうしようかの踏ん切りもつかずにいた冬の終わりに、別居生活は解けた。
 妻の方から「一緒に暮らしたい」と連絡があったとき、嘘だろ、と思ったものだ。
 彼女は曜一郎を望んだ。望まれるなんて思ってもいなかったから、単純に嬉しかった。


 岩永茉莉をはじめて見たときの衝撃が凄まじかった。大学生活も最後の年で、他校の女子学生と飲み会をするから来ないかと仲間に誘われてついて行った、その席に彼女はいた。曜一郎はただの人数合わせだということは分かっていた。自分の取り柄といえば仲間らよりは勉強が出来ることぐらいで、見目は地味だし、運動もだめで、女の子を喜ばせてあげられるような気の利いたひと言も言えない。そんな自分に興味を持つ人間などいないだろう、と思っていた。
 けれどその飲み会の席について行って、曜一郎は茉莉を見て恋に落ちてしまった。彼女は美しかった。とてつもない美人のくせにちっとも笑わず、周囲を拒んだまま食事を淡々と続けた。そこが素敵だった。孤高の女王様に出会えて、曜一郎はこの飲み会をセッティングしてくれた友人に感謝すらした。ひと言も話せなかったけれど、話す必要も感じなかった。謁見出来て光栄。そういう気持ちだった。
 飲み会は誰ひとり収穫なく終え、プレイボーイで名をはせる友人も茉莉の連絡先すら得ることは叶わなかった。さようなら女王様。そういう、ある意味満足した気持ちで帰宅したのに、一週間後、彼女と再会した。
 曜一郎はいつもの仲間と街中を歩いていて、女王様はひとりだった。ばったりと出くわしたことに仲間は喜び、先日のリベンジとばかりに彼女を食事に誘った。
 だが女王様の返事は「誰?」だった。
「えー、こないだ一緒に飲んだじゃん」
「覚えてないわ。覚える必要もなかったのかしらね」
「じゃあ今日これから覚えることにしてさ、食事にでも行かない?」
「結構よ。ひとりでいい」
 一向になびかずつれない態度を取る女王様に、仲間が苛立ち始めた。まあまあ、もう行こうよ、と仲間をなだめようとすると、ふと女王様の視線が曜一郎に止まった。
 きつい、つんと澄んだ美しい瞳。透けるような黒目が曜一郎に向けられて、曜一郎は落ち着かない気持ちになった。
「――あなたは覚えてる」と彼女は目を見たまま言った。
「眞仲曜一郎」
「えっ」
「あなたとだったら食事に行ってもいい」
 仲間内から動揺の声が上がる。なんで眞仲? おれのことは? ひとりでいいって言ったのに? 口々に仲間が不満を訴えたが、曜一郎の耳には入ってこなかった。雲の上にいる人に手を伸ばそうとも思わないように、岩永茉莉に対して曜一郎が抱く気持ちは、そういうものだった。同じ時代に生きてはいても、暮らしは決して同期しない。次元が違う、宗教が違う、国が違う。同じ言語を介しているだけ奇跡とさえ思っていた。
 女王様の視線がいま、曜一郎に向けられている。好奇心かもしれない。食事に行ってもいいだなんて……――曜一郎が「なにが食べたい?」と照れも恥じらいもなくストレートに訊ねられたのは、「きっとこれ一度きりだから、やらない後悔よりやる後悔だ」という潔い気持ちからだった。
「あなたに任せる。私に好き嫌いはないから」
「じゃあ、そこの角のパン屋のタイムセール品でも文句言わない?」
「言わない。美味しいよね、あそこの惣菜パン」
 話はそれで充分だった。
 そんなわけで僕は行くから、と茉莉を伴って仲間から離れる。普段だったら仲間を見返してやれたようで、優越感が最高に気持ちいい、と感じたかもしれない。けれどこの時の曜一郎は、全くそんなことを感じていなかった。ただ茉莉と共に過ごせる時間に舞い上がっていた。
 ふたりきりになってから曜一郎は財布を取り出して所持金を確かめた。こんなのは女性のいないところで確認すべきなのだろうが、格好つけるなんて頭はなかった。だってこれ一度きりだ。取り繕っていい格好しようとも、彼女には見透かされるような気もしたし、そんなに器用なタイプでもないのでぼろが出るだろう。
 本当に角のパン屋のタイムセール品になってしまうな、とぼやいたら、茉莉はきょとんとして「パン食べないの?」と訊ねてきた。
「いや、冗談のつもりだったんだ。ちょっと待っててくれればお金おろしてくるよ」
「そうなの? 私はすっかりパンを食べるつもりになってた」
 その言い方があまりにもがっかりしていたので、曜一郎の方こそ驚く。
「本当になんでもいいんだ」
「あんまりお金がないから、選り好みしてると食い逃すの。あなたの提案で充分よ」
「タイムセール50円のパンで、公園のベンチでお茶とか、そんなナンパは聞いたことないしされたこともないんじゃない?」
「あなたがそれでもいい? って聞いたのに?」
 可笑しい、と茉莉は笑う。あ、笑顔を初めて見るなと思った。氷で閉ざされた国の女王様は、ほころぶとこんなに愛らしく素敵で、曜一郎はころっと恋に転げる。
 魅力的な人だと思った。そんな人と時間を共にできる喜び。
「茉莉さん、て呼んでいい?」と訊ねると、彼女は首を横に振った。
「茉莉、でいい」
「いいの?」
「いいの。私も曜一郎、って呼ぶわ」
 ごく自然に手が二の腕に添えられる。その手を取って、腕を組んで歩いた。指は攣ったが、手を離したりはしなかった。離したくなかった。
 パン屋のタイムセールは売り切れで、結局自販機のコーヒーを買って公園でお茶をした。一度で終わることが惜しくて、次回こそ、と次をねだったら、茉莉は「いいよ」と曜一郎には甘かった。


 交際を始めたが、体を繋ぐ関係には、けれどなかなか至らなかった。半年ぐらいは会っても食事ばかりした。茉莉の生い立ちは交際直後に聞いていて、ゆえに彼女がいつも腹を空かしていることが分かったから、余計にそうだったのかもしれない。
 初めて体を重ねた日は、雪が舞っていた。寒さに耐えかねてしたキスが深くなり、肌を合わせた。だが曜一郎の指は攣る。寒いと余計に強張り、痛みも増した。竦みながら最悪なセックスをした。ことが済むと茉莉は一言、「下手ね」と言った。
 男としてのプライドというものは、彼女に対しては元よりない。だから砕かれるものはなかったのだが、曜一郎はこの時ほど強張る指に腹が立ったことはなかった。
 だが茉莉は「下手でも、目的は果たせるからね」と言った。
「――え?」
「私の卵子と、あなたの精子が、結びついて受精すれば、成功。子どもが出来る」
「……きみ、僕の子どもを産んでくれるの?」
「あなたの子どもじゃないわ。あなたと私の子どもよ」
 曜一郎は驚いて声も出なかった。
「曜一郎、顔が真っ白」茉莉のたおやかな手が頬に伸びる。
「寒いんだ」
「雪、降ってるね」
「うん」
「積もるかな」
「どうだろう」
「静かなのは、いい。賑やかなのは嫌い」
「そうなんだ? 僕はわりと好きだよ、人が集まってざわざわしているところにいるの」
 思うに、彼女とは体を交わすより言葉を交わす時間の方が圧倒的に濃密だった。
 春、曜一郎は大学を卒業し、就職した。交際は続いた。茉莉も学校を卒業し、しばらくの後にプロポーズをして、結婚した。言ったとおりに茉莉は「あなたと私の」子を産んでくれた。
 幸福な家庭だと思った。
 茉莉が男遊びをする、ただその一点を除いては。


→ 後編




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 今年もまたK高地は開山を迎え、山荘の営業がはじまって一か月ほどが過ぎた。
 標高が高いために木立にはまだ葉がつかず、山々にも残雪がたっぷりあるのがよく見える。この時期は野鳥観察を目的とする客がよく入る。葉が茂らないため、梢に鳥が止まっていれば発見しやすく、バードウオッチングには最適なのだと客から聞いた。
 最近は、山荘の経営を後進に譲りつつある。妹の息子、つまり甥っ子が根っからの山好きで、学生時代からちょくちょく山荘に来ては手伝っていた。妻も子どももいないのであればちょうどいいのではないかと妹と話し合い、本人も乗り気だったので、ゆくゆくは彼にここを継いでもらう前提で、いまは色んなことを教えている。
 甥は今年で三十歳になる。歳をとるはずだよな、と甥や若い従業員らを見て思う。調理場を覗いてももう有起哉はいない。何年か前にここを辞めて山を下りた彼はいま、妻と子どもと孫に囲まれて豊かな老後を過ごしているはずだ。
 冬の終わりに会った姉弟のことを思い出す。美藤にそっくりだった娘、直生にそっくりだった息子。確かな意思で殴られた箇所はあの後けっこう腫れた。従業員らに「社長、どうしたんですか?」と訊かれるたび、嘘の答えを述べるのは面倒くさかった。
 可哀想な孤児たち。あの後彼らはどうしただろう。すこし考えて、だが自分の知った事ではないなと通孝は思いなおす。よく似ていても、別人だ。通孝が望む男ではない。
 ザックに食料や防寒具、雨具などを詰め込んでいると、甥が顔を出した。
「あれ? どこか登ります?」と彼は訊いた。
「うん、K高地の観光センターからの依頼で、この時期の山の写真を撮りにね。ホームページに載せたり、パンフレットを新しくしたりするそうだ」
「あ、なんだ。おれはてっきりまたH岳に行くのかなって。でもまだ雪が残ってるから大丈夫かなって」
「違うんだ、今回はH岳には行かない。D沢へ行くだけだよ。夕方には戻る」
「分かりました」
 と言って甥は一度下がったが、「違うちがう」と言って再び顔を覗かせた。
「お客様お見えになってます。社長にお会いしたいと言って、アポなしだそうですが」
 甥が受け取ったという名刺を見せられる。旅行会社の営業のようだった。
「不在だと言ってくれ。これで出てしまうから。きみが話を聞いておいてくれればいいよ。対応に困ったら支配人に聞くか、僕に電話をくれ」
「はあい」
 甥は下がる。通孝は荷物を背負うと、裏口からそっと抜け出した。甥が本格的に経営に携わるようになってくれたので、自由時間が増え、好きに行動できるようになった。いわゆる隠居の生活が見えている。もっとも体力は年々落ちていくばかりだから、いつまで好きに動けるかは分からない。
 D沢の湿原を歩き、写真を撮りながら徐々に高度を上げていく。時折、忘れぬようにメモを取る。歩いていくと雪渓に出くわしたので、さてどう超えたものかな、としばらく考える。雪の様子を見て、アイゼンを履いた。一歩一歩慎重に踏んで、雪渓を登っていく。
 途中、振り返ると素晴らしく晴れた春の街並みがはるか遠くに見えた。街は様々なものを反射してきらきらと光っている。通孝は目を細め、やがて決意してまた雪渓を登り始める、その時だった。
 留め方が甘かったのか、片足のアイゼンが外れ、靴底が滑った。バランスを崩して転び、そのまま数メートルほど斜面を滑り落ちた。岩に強かに体を打ち付けて止まる。背から打ったので背負っていたザックがうまくクッションとなったが、手袋やサングラスは滑っている途中で外れ、雪の斜面に点々と散った。
 衝撃に、しばらく体を丸めて呻いた。たいしたことはない。衝撃が薄れて来ると通孝は半身を起こして、その場に座り込んでザックを下ろした。頬がひりひりする。降って溶けてを繰り返し硬くザラメ状になった雪で擦った。
 ――ああ、生きているな、と思った。
 生きているから痛いと感じる。直生はとっくに死んだというのに、自分は直生のいないこの世界をもう何十年と生きてしまっている。こんなめに遭ってもピンピンしている。あとどれくらい生きるだろう。どんな死に方をするだろう。出来れば――あの日、来客なんか放って直生と共に山に登り、共に滑落して、死にたかった。
 ザックを枕にしてごろりと寝そべる。信じられないぐらいに澄んだ青空だった。通孝は眩しくて目を閉じる。生きているから眩しいと感じる。
 目尻から涙が一筋だけこぼれた。頬に流れて沁みて痛い。むなしさが心の内側にこんなに切々とあるのに、山は、空は、森は、木々は、こんなにも美しい。
 ああ、生きているなと、再び思う。それは喜びとほぼ同一の、深いふかい悲しみだった。


End.


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 通孝は気づけば舌打ちしていた。有起哉は情事の痕跡を残したがらなかったが、確かに自分でせがんで噛んだり吸ったり、そういうことをさせて遊んだ時期があった。出来るだけ人に見られぬよう注意をはかっていたつもりだったが、直生に対しては鈍いから気付くまいと油断もしていた。
 舌打ちに、通孝は直生に対して怒ったのだと勘違いしたようで、直生は即座に「怒らせてごめん」と謝った。
「違っていたら、」
「いや、違わない。自分の行動の甘さに腹が立っただけだ。そうだよ、僕はゲイだ。……気持ち悪いよな」
 と言ったが、直生はやわらかく微笑んで顔を振った。
「気持ち悪くはないよ。びっくりはしたけど、でも、その、……きみはそんなに、なんていうのかな、がつがつしてないっていうか、」
 そこで言葉を区切り、考え、また発言を続けた。
「セクシュアルな部分を、少なくともおれは見たことがなかったから」
「……」それは出さないように最大限注意を払っていたからだった。直生にだけは嫌われたくなかったし、蔑まれたくなかったし、ホモで気持ち悪いなどと思ってほしくなかった。
「うん、……きみのこと全然知らなかった。きみの秘密を探って当てちゃって、だからの交換条件ってわけじゃなくて、おれももう白状するんだけど、……中学生のころ、おれは、母親と関係してた」
 それを聞いて、通孝は目を見開いた。わん、と耳の奥でいま聞いた台詞がおかしなふうに増幅される。
 ――母親と関係してた。
「驚くよね。……でもこれはずっと、きみには言いたい、と思ってたんだ。ようやく言えた、こんな歳になってさ」
「直生、それ、もしかして鳥飼は、」
「いや、早先生には言わなかった。言えなかったよ。毎晩母親にレイプされてますとかさ、……。母子家庭ってことで、色々と気にかけてはもらったけど、」
「……そういえば母親のこと、話してたな、きみは」
 直生の母親は直生の父のことが大好きで、だが直生の父はアルコール依存で早世した。残された息子を見ると夫の面影を重ねて辛い、だからひっぱたいたり、急に抱きしめて来たり――。
『親が子どもを食っちゃうんだなって、思って』と、いつかの直生の台詞が不意に蘇る。あの真意。
「中学になって急に背が伸びて父に似て来た、……息子が『男』だと意識してしまった。地獄だったよ。寝てるあいだに布団に潜りこまれて、しゃぶられて、……泣きながら父親の名前、呼ぶんだ。拒絶すれば叩かれた。だから学校が終わっても家に帰らないようにしてた。もしくは押入れに閉じこもって内側からつっかえ棒して眠ったり。夏は暑くて何度も気を失ったな。
 中学三年生できみと知り合えて、すぐ家に招いてくれただろ? ここにも呼んでくれた。安心できる逃げ場が出来て、心底ありがたかった。きみという存在は、本当に、本当に、おれにとっての救世主だったんだ。だから……結婚して子どもが出来てまた追い詰められてったときに、きみのところに逃げよう、って、逃げなきゃだめだって、そう思ってここへ来た。そしてまたきみはおれを助けてくれた。スーパーヒーローだよ。きみにどれだけ恩を返しても返せない。感謝、……それしか、ない」
 通孝は知らずに涙を流していた。告白は、衝撃だった。驚き、悲しんだし、でも喜びが体を貫いていて、やはり辛かった。この男にとって自分はなにかかけがえのないものになれていること。けれどそれは自分が望んだ関係ではないこと。こんなときでもエゴイズムが顔を覗かせて、いやになる。
 泣くなよ、と直生は情けなく笑った。それはいつもおれの役割じゃないか、と。手を伸ばしかけて彼はそれを引っ込めた。「不用意に触らない方がいい?」
 ああそうか、ゲイである友人を気遣ってくれたんだなと、そのやさしさが腹だたしかった。
「いや、ゲイにだって好みはある。男だったらだれかれめっぽう構わず好きだってわけじゃないんだ」
「はは」
「そういうやつもいるけどな」
「……握手、してもいいかな」
「……いいよ、」
 直生の大きな手が通孝の手を包む。はじめて好きな男にまともに触れたな、という感動に立っていられなくなるほどだった。固く握手をしてからは、どちらからともなく手を伸ばして体を引き寄せ、抱きしめあった。あくまでも友情がもたらすそれとして。心臓の音が伝わりませんようにと願いながら、間近で嗅ぐ男の体臭や、豊かな肉の質感に、狂喜していた。
 同時に、これ以上の喜びはこの男からはない、と悟る。
「きみはヒーローだ。本当に、ありがとう」
「まだ、すぐここを下りるわけじゃないだろ、」ず、と鼻水をすする。
「そうなんだけどね。きみにきちんと、話したかった」
 ドン、と荒っぽく背、というより腰の辺りを叩いてやる。「辛くなったらいつでも逃げて来いよ」
「いつか、きみの恋人の話も聞かせてくれ」
「そんなの、いないけどな」
「嘘言うなって」
「本当だよ」
 ひと通り言い合って、体を離す。
 その翌週、晴れを予感させる早朝。直生は「行って来ます」と言ってH岳連峰に入った。そしてついに「ただいま」は聞けず、だから「おかえり」も言えなかった。


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 シーズンオフの期間中は、事務所を置いているKに直生をとどまらせた。雇用というかたちで、電話番や伝票の整理などといった雑務をさせた。家族の元に帰ってよいのかどうかを直生は迷っていたので、あの手この手で不安をあおらせ、直生の意思を「帰るのはまだ早い」に結び付けさせた。支配というよりはちょっとした話術で、操縦だ。職業柄、通孝が身に着けたことだった。
 ただ、ちょっとした合間に電話をかけたり、「一時間だけ美藤に会って来る」と出掛ける男を、止めることは出来なかった。早く春が来てまた山荘の営業が始まらないかと通孝は焦れる。そうしたら簡単には帰れない。
 帰るな、帰るなと、何百何千何万回も願い、それは最終的には叶ってしまった。


 連日連夜、雨が続いて億劫になる。直生を山荘暮らしにさせて八年という月日が流れようとしていた。雨に客足を取られて山荘全体がひどく静かだった日、空き時間に窓の外をぼんやり眺めていると、背後から男の近づく気配があった。足音だけで分かる。直生だった。
「通孝、」と声をかけられる。「なにぼんやりしてるんだ?」
「これからシーズンオフになるから、閉山後の山荘のこと」
「ああ……。これ、有起哉さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「ありがとう」
 直生が差し出してくれたステンレスのマグカップを受け取る。熱く濃く淹れられたブラックコーヒーは通孝の好みだったが、隣に佇んだ男のマグカップに同じものは入っていない。直生は甘党で、砂糖と牛乳を加えないとコーヒーが飲めない。
「山の様子、どう?」
「山頂はどこももう、雪だな」
「そっか。……今度晴れたら、その日はおれに休みをくれないかな」と直生は言った。
「閉山する前に、山に登ろうと思って」
「どこ?」
「H岳連峰。通孝も一緒に登らないか?」
「いつ晴れるかにもよるかな。天気予報じゃ来週が天気よくなるみたいだけど、その週は団体の宿泊予約があるから」
「じゃあ、タイミングが合えば」
 それきり黙り、ふたりで窓の外の雨を眺めながら佇む。
 ここへ直生が来て、山にはもう何度も登った。大抵はふたりで登った。はじめこそ初心者登山で直生の足元は覚束なかったが、いまでは岩場も雪渓もコツを得てひょいひょいと登れる。健康な肉体は、健康な精神をもたらした。ここへ来たばかりのころは「家族に申し訳ない」と泣いた男だったが、ここ最近は癇癪を見ていなかった。
 通孝はそれを喜べなかった。健康であることは嬉しい。けれど体力と精神力が戻ってしまったら家族の元へ帰ると言い出すのではないか――それが気がかりだった。
 険しい顔をしている通孝をよそに、直生はぽつぽつと喋り出す。H岳連峰のルートの話を、通孝は上の空で聞いていた。「結局、ジャンダルムは踏破できなかったな」の台詞がようやく耳から脳を刺激して、通孝は直生の顔を見あげた。
「いつか越えたいと思ったけど、無理だった」
「……直生、」
「うん。……おれ、今シーズンの営業が終わったら、山を下りようと思って」
 それはつまり、Kにある事務所にもとどまらないということだ。つまり、……とうとう帰るのだ、妻と子の待つ家に。
 ドッと背筋に冷汗が沸いた。
「すこし、話してもいいかな」
 と言うので、心臓をうならせながらも平気なふりで「いいよ」と言った。
「ここを下りたらまず早先生のところに行く。長いことご迷惑をおかけしましたって言って、……美藤と子どもとの再会に、出来れば同行をお願いする。多分、第三者がいる方がいいんだ」
 具体的な予定がつらつらと出てくる。通孝は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「茉莉は専門学校に進学が決まったって聞いた。樹生ははじめて会うようなもんだから、どう反応していいのか分かんないな、」
「僕には子どもの扱いなんて想像もつかないよ」
「……おれ、どうして通孝が嫁さん貰わないのか、ずっと気になってた。見合いの話が来ても先から断ってたじゃん。山荘の跡継ぎのこと考えなきゃいけない立場だってのに、『僕は向かないんだ』とか言って、……。どうしてなのか、付きあいの長い有起哉さんなら知ってるかなって、聞いたんだ」
「……なんて、」
「有起哉さん、笑いたくて笑えない顔して、『知ってるよ』って言って。『知ってるけど言わない、自分で訊くか気付け』って言うんだ。……通孝が彼女を連れているところは見たことがないなとか、色々考えた。でも、前に風呂場で気付いた、ここにあった、痣」
 とん、と直生は首筋を指した。
「あれは、鬱血痕だったな、って。……自分でそんなところ吸えるわけないよね。てことは誰か、恋仲ぐらいはいて、……多分、男なんだろうなって」
「……」
「きみは、ゲイ?」


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 直生との生活がはじまった。それは通孝にとっては青春のやり直しみたいで、とんでもなく楽しく嬉しい日々のはじまりだった。
 父親から山荘の経営を引き継いでいた通孝は、従業員らに直生のことを説明した。療養が必要な、大切な友人であると。父の代から勤めてくれている従業員もいて、彼らは「懐かしいな」と直生を出迎えてくれた。中には有起哉もいた。はじめでこそ直生の変わりっぷりに驚いていたが、本当にはじめのうちだけで、やがて慣れ親しんだ態度で直生を呼び捨てにし、かわいがった。あまりにも有起哉が「直生、直生」と呼ぶので、自然と通孝もそう呼ぶようになっていた。
 直生はあてがわれた部屋に閉じこもる日々を送っていたが、やがて食事のときだけ出てくるようになった。あまり食は進まないようだったが、有起哉が「懐かしいだろ」と出してくれたシチューは、ゆっくりとだが食べ切った。食事の場に出てこられるようになると、部屋を出て散歩する姿を見せることも多くなった。山荘の周辺を、気ままに歩いていたようだった。「よければ案内してくれないかな」と通孝を頼ってきたときは心から嬉しかった。せっかくだからとカメラを出して、通孝も共に歩いた。
 通孝にとってはよく慣れ親しんだ道でも、久しぶりに訪れたK高地の山道は直生にとって珍しく映るようだった。「懐かしいけれど」と直生は言った。「でも色々変わったんだな。こんな木道、なかった」と湿原に設置された木道を歩いて周囲に視線をめぐらす。
「そうだな。この辺は国が整備事業計画を進めてくれたから、綺麗に整ったんだ。それで一気に客も増えたな」
「そうか。……でも前の方が好きだった。ちょっと危ないところもあるのが、冒険みたいで」
「いまのきみにはこのぐらい安全な道の方がいい」
「……あの山、」と直生は前方に見える山の頂を指し示した。
「ああ、Y岳?」
「あれにきみは登ったことがあるの?」
「あるよ、もちろん。あの峰も、あそこも、あっちの尾根も、そうだな、ここから見える稜線はすべて歩いている。仕事が仕事だからね」
 直生は少し黙り、山の山頂を見つめ、「おれも登れるようになるかな」と呟く。
「いますぐは無理だろうな。けど、きちんと体力が戻れば、きみにはたやすいんじゃないかな」
 直生の身体能力の異常さは、中学校のころに間近で見ていたからよく分かる。ぽーんと窓枠を蹴って飛び出していった、あの放課後。
 その日は小一時間ほど歩いた。次第に直生は部屋から出て散策する回数が増え、伴えれば通孝も付き添って案内した。体力は少しずつ戻っていき、宿の簡単な作業――掃除や、ルームメイキングなど、は自然とやるようになった。山荘の従業員らとも距離を縮め、やがて「直生さん」と慕われるようになった。
 こんなに穏やかな男が、まさか家庭内暴力を起こしていたなんて信じられないだろうな、と通孝は従業員らとくつろいでテレビを見ている直生を見て思った。緩やかではあったがそれぐらいに、直生は回復していった。
 だが直生が家族に暴力をふるっていた話を聞いた有起哉だけは、「分かる気がする」と言った。
「まあ、脆いんだろうな」
「……僕もそう思う」
「よく嫁さんもらって子どもも作ったもんだな。……いや、そういうのは勢いだけだったりするか」
「それ、自分のこと?」
 含める台詞で有起哉に問うと、有起哉は背後を振り返って部屋の鍵がかかっていることを確かめてから、「そうだな」と通孝に顔を近づけた。
 そのころ、有起哉と通孝は不倫の関係にあった。
 はじめから不倫だったわけではない。ふたりが肉体関係に至ったのは通孝が高校を卒業して本格的に家業を継ぐべく山荘の仕事に入ったころだった。有起哉は二十代のはじめの年齢で、独身だった。
 直生を好きになった時点で、通孝は自分の性癖を知った。男に抱かれたい男なのだと自覚したときの足元の覚束なさは、例えようがないぐらいの不安と失望だった。それを助けたのが有起哉だったと言える。有起哉はバイセクシャルで、直生のことを好きな通孝をとうに見抜いていた。「一生初恋こじらせたまま童貞でいいってんならそれはそれで構わないけど、性衝動だけで言うなら、おれはおまえを抱けるよ?」と有起哉に誘われて、至った。それは自己肯定につながり、同時に、肉体の快楽を教え込まれた。有起哉はどこで覚えてきたんだか、上手かった。
 心は直生にあったので、いっそう有起哉とは長く続いているのだと思う。有起哉が欲しい、心まで支配したいという気持ちがあればとうに関係は壊れていただろうが、あくまでも求めるのは体で、体温で、肉の重さで、性衝動の解消だった。有起哉は三十代のはじめに妻を娶り、子をなして父となったが、山荘での料理人の職を手放さなかったので、シーズンオフのみ妻子の元に帰りあとは山荘で暮らすという生活をしている。
 頬と頬を合わせ、耳元で有起哉は「もしかして誘ってる?」と囁いた。
「直生がここに来てから全然してない」
「これでも遠慮してたんだぜ。初恋相手が傍にいる生活をおまえはずいぶんと楽しんでるみたいだったからさ」
 そう言いながら、有起哉の手が背後にまわってくる。するすると簡単にズボンのウエストから手を入れ、シャツをたくし上げると胸の先を引っ掻いた。
「――んっ……」
 深夜で自室とはいえ、従業員寮の壁は防音に優れているわけではない。漏れてしまう声を有起哉は口で封じた。胸の先を指で弄られ、口腔を舌でかき回されば、性感にぞくぞくと背がしなった。這いまわる手で体が熱くなっていく。有起哉の股間も熱く硬くなっていた。
「これ、欲しい……」とキスから逃れて熱っぽく訴えると、有起哉は「声出すなよ」と言って通孝を畳の床に押し倒す。ズボンをひと息におろし、むき出しになった性器を口に含まれて、通孝は慌ててシャツの袖を噛んだ。
 後ろには指を入れられた。前と後ろを同時に弄られ、通孝はあっけなく有起哉の口内で果てる。それを有起哉は背後に足して、泡立てるように指の動きを速める。性急に有起哉のもので後ろをひらかれて、そのタイミングでも通孝は精液を漏らした。
「すげー感じてんじゃん」
 有起哉は声を顰めて言った。興奮で音程が上擦っている。
「久しぶりだからか? それとも、大事な初恋相手が同じ屋根の下で寝てるって、興奮してる?」
「んっ……どっちも……っ」
「つくづくいやらしいね、おまえ」
 素直さがかわいいよ、と本気にしようもない台詞を甘く吐いて、有起哉は腰をつかう。揺さぶられながら必死で声を殺す。やがて有起哉は通孝の中に当たり前のように出した。久しぶりなのは有起哉もそうで、濃く、量も多かった。
 事後の始末をして有起哉は自室に戻ろうとしたが、通孝はそれを引き留めた。
「――なに?」
「僕が直生に抱かれる未来って、来ると思う?」
 尋ねると有起哉は腕組をして、うーんと唸った。
「ないだろうな。直生にその気はないし、おまえだって誘うつもりもないだろ?」
「そうだね」
 直生に欲望を告げて関係がわるくなるのだけは嫌だった。山荘の従業員寮、というある意味閉ざされた空間であればなおさらだった。
「でも」と通孝は続ける。
「直生を奥さんや子どもの待つ家に帰す気は、さらさらないんだ」
「怖いね」
 有起哉は肩を竦める。「おやすみ」と言って部屋を出て行った。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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