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 麻痺と言うにはやや違う。眞仲曜一郎(まなかよういちろう)の右手の中指には「攣る」癖がある。
 大事なときに限って攣る指のことを、誰にも話したことはない。原因は分からないが、ここは慎重に行いたいと思うときに、指はぴきっと、曜一郎にしか聞こえない僅かな音をさせて、棒のようになってしまう。時に痛みを伴うから、竦む。図画工作の授業の、大事な一筆を入れる瞬間。技術の授業の数ミリの位置にのこぎりを当てたとき、はじめて出来た彼女の背を抱き寄せたいと思ったとき。肝心なところで攣るのは極度のあがり症だからだろうか。原因はよく分からない。分からないが、このことは黙っていようと決めた。欠点は隠し通したかった。勉強は出来たので、技術職に就かなければいいだろう、そう考えた。
 妻に関しては、申し訳ない、の言葉に尽きる。曜一郎の指が攣るから。力加減を誤るから、彼女を満足にさせてあげられない。ずっとそう思って来たし、いまでも思っている。
 だからよその男と寝るのは仕方がない、と諦めてもいた。結婚している他の同僚や友人らから話を聞けば、「妻」といつまでもセックスできるなんて変態だ、と豪語するやつもいたので、夫婦とはそういうものなのだろうとも思った。
 ただ、彼女が曜一郎ではない男とホテルに入っていくところを目撃してしまったときは、目の前が真っ赤になった。足元からじんと痺れ、曜一郎を支配した感情は「怒り」だった。妻のことを自分の所有物のように思っており、それを取られた、と思った。相手の男に怒り、妻に怒り、自分に対して怒った。
 感情のままに別居を告げ、娘ふたりを連れて実家に一時的に戻った。だが娘たちは家に、妻の元へ帰ることを望み、離縁しようかどうしようかの踏ん切りもつかずにいた冬の終わりに、別居生活は解けた。
 妻の方から「一緒に暮らしたい」と連絡があったとき、嘘だろ、と思ったものだ。
 彼女は曜一郎を望んだ。望まれるなんて思ってもいなかったから、単純に嬉しかった。


 岩永茉莉をはじめて見たときの衝撃が凄まじかった。大学生活も最後の年で、他校の女子学生と飲み会をするから来ないかと仲間に誘われてついて行った、その席に彼女はいた。曜一郎はただの人数合わせだということは分かっていた。自分の取り柄といえば仲間らよりは勉強が出来ることぐらいで、見目は地味だし、運動もだめで、女の子を喜ばせてあげられるような気の利いたひと言も言えない。そんな自分に興味を持つ人間などいないだろう、と思っていた。
 けれどその飲み会の席について行って、曜一郎は茉莉を見て恋に落ちてしまった。彼女は美しかった。とてつもない美人のくせにちっとも笑わず、周囲を拒んだまま食事を淡々と続けた。そこが素敵だった。孤高の女王様に出会えて、曜一郎はこの飲み会をセッティングしてくれた友人に感謝すらした。ひと言も話せなかったけれど、話す必要も感じなかった。謁見出来て光栄。そういう気持ちだった。
 飲み会は誰ひとり収穫なく終え、プレイボーイで名をはせる友人も茉莉の連絡先すら得ることは叶わなかった。さようなら女王様。そういう、ある意味満足した気持ちで帰宅したのに、一週間後、彼女と再会した。
 曜一郎はいつもの仲間と街中を歩いていて、女王様はひとりだった。ばったりと出くわしたことに仲間は喜び、先日のリベンジとばかりに彼女を食事に誘った。
 だが女王様の返事は「誰?」だった。
「えー、こないだ一緒に飲んだじゃん」
「覚えてないわ。覚える必要もなかったのかしらね」
「じゃあ今日これから覚えることにしてさ、食事にでも行かない?」
「結構よ。ひとりでいい」
 一向になびかずつれない態度を取る女王様に、仲間が苛立ち始めた。まあまあ、もう行こうよ、と仲間をなだめようとすると、ふと女王様の視線が曜一郎に止まった。
 きつい、つんと澄んだ美しい瞳。透けるような黒目が曜一郎に向けられて、曜一郎は落ち着かない気持ちになった。
「――あなたは覚えてる」と彼女は目を見たまま言った。
「眞仲曜一郎」
「えっ」
「あなたとだったら食事に行ってもいい」
 仲間内から動揺の声が上がる。なんで眞仲? おれのことは? ひとりでいいって言ったのに? 口々に仲間が不満を訴えたが、曜一郎の耳には入ってこなかった。雲の上にいる人に手を伸ばそうとも思わないように、岩永茉莉に対して曜一郎が抱く気持ちは、そういうものだった。同じ時代に生きてはいても、暮らしは決して同期しない。次元が違う、宗教が違う、国が違う。同じ言語を介しているだけ奇跡とさえ思っていた。
 女王様の視線がいま、曜一郎に向けられている。好奇心かもしれない。食事に行ってもいいだなんて……――曜一郎が「なにが食べたい?」と照れも恥じらいもなくストレートに訊ねられたのは、「きっとこれ一度きりだから、やらない後悔よりやる後悔だ」という潔い気持ちからだった。
「あなたに任せる。私に好き嫌いはないから」
「じゃあ、そこの角のパン屋のタイムセール品でも文句言わない?」
「言わない。美味しいよね、あそこの惣菜パン」
 話はそれで充分だった。
 そんなわけで僕は行くから、と茉莉を伴って仲間から離れる。普段だったら仲間を見返してやれたようで、優越感が最高に気持ちいい、と感じたかもしれない。けれどこの時の曜一郎は、全くそんなことを感じていなかった。ただ茉莉と共に過ごせる時間に舞い上がっていた。
 ふたりきりになってから曜一郎は財布を取り出して所持金を確かめた。こんなのは女性のいないところで確認すべきなのだろうが、格好つけるなんて頭はなかった。だってこれ一度きりだ。取り繕っていい格好しようとも、彼女には見透かされるような気もしたし、そんなに器用なタイプでもないのでぼろが出るだろう。
 本当に角のパン屋のタイムセール品になってしまうな、とぼやいたら、茉莉はきょとんとして「パン食べないの?」と訊ねてきた。
「いや、冗談のつもりだったんだ。ちょっと待っててくれればお金おろしてくるよ」
「そうなの? 私はすっかりパンを食べるつもりになってた」
 その言い方があまりにもがっかりしていたので、曜一郎の方こそ驚く。
「本当になんでもいいんだ」
「あんまりお金がないから、選り好みしてると食い逃すの。あなたの提案で充分よ」
「タイムセール50円のパンで、公園のベンチでお茶とか、そんなナンパは聞いたことないしされたこともないんじゃない?」
「あなたがそれでもいい? って聞いたのに?」
 可笑しい、と茉莉は笑う。あ、笑顔を初めて見るなと思った。氷で閉ざされた国の女王様は、ほころぶとこんなに愛らしく素敵で、曜一郎はころっと恋に転げる。
 魅力的な人だと思った。そんな人と時間を共にできる喜び。
「茉莉さん、て呼んでいい?」と訊ねると、彼女は首を横に振った。
「茉莉、でいい」
「いいの?」
「いいの。私も曜一郎、って呼ぶわ」
 ごく自然に手が二の腕に添えられる。その手を取って、腕を組んで歩いた。指は攣ったが、手を離したりはしなかった。離したくなかった。
 パン屋のタイムセールは売り切れで、結局自販機のコーヒーを買って公園でお茶をした。一度で終わることが惜しくて、次回こそ、と次をねだったら、茉莉は「いいよ」と曜一郎には甘かった。


 交際を始めたが、体を繋ぐ関係には、けれどなかなか至らなかった。半年ぐらいは会っても食事ばかりした。茉莉の生い立ちは交際直後に聞いていて、ゆえに彼女がいつも腹を空かしていることが分かったから、余計にそうだったのかもしれない。
 初めて体を重ねた日は、雪が舞っていた。寒さに耐えかねてしたキスが深くなり、肌を合わせた。だが曜一郎の指は攣る。寒いと余計に強張り、痛みも増した。竦みながら最悪なセックスをした。ことが済むと茉莉は一言、「下手ね」と言った。
 男としてのプライドというものは、彼女に対しては元よりない。だから砕かれるものはなかったのだが、曜一郎はこの時ほど強張る指に腹が立ったことはなかった。
 だが茉莉は「下手でも、目的は果たせるからね」と言った。
「――え?」
「私の卵子と、あなたの精子が、結びついて受精すれば、成功。子どもが出来る」
「……きみ、僕の子どもを産んでくれるの?」
「あなたの子どもじゃないわ。あなたと私の子どもよ」
 曜一郎は驚いて声も出なかった。
「曜一郎、顔が真っ白」茉莉のたおやかな手が頬に伸びる。
「寒いんだ」
「雪、降ってるね」
「うん」
「積もるかな」
「どうだろう」
「静かなのは、いい。賑やかなのは嫌い」
「そうなんだ? 僕はわりと好きだよ、人が集まってざわざわしているところにいるの」
 思うに、彼女とは体を交わすより言葉を交わす時間の方が圧倒的に濃密だった。
 春、曜一郎は大学を卒業し、就職した。交際は続いた。茉莉も学校を卒業し、しばらくの後にプロポーズをして、結婚した。言ったとおりに茉莉は「あなたと私の」子を産んでくれた。
 幸福な家庭だと思った。
 茉莉が男遊びをする、ただその一点を除いては。


→ 後編




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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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