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草刈家での生活には、すぐ慣れた。早を手伝いながらも空いた時間はひとりで勉強を進められたし、朝が早い分、いちばん暑い時間帯での昼寝もよくした。家の中はひんやりと涼しく、真夏でも午前中いっぱいぐらいは冷房をつけずに過ごせた。実家にいるよりも規則正しい生活は、しかし苦ではなかった。早との時間は楽しかったが、ひとりの時間もきちんと尊重してくれる。距離感が心地よい。
叔父は家に来たり来なかったりで、来たときは食事を共にした。泊まっていく日は(もしかしたら藍に気を遣って)なかった。それでもこの家には叔父の気配がそこかしこにあった。頻繁に通っているのだろう。
滞在三日目の昼前、ポーンとインターフォンが鳴らされた。早と揃って昼食の支度をしていた時で、早は火をつかっていたので「出ていただけますか?」と藍に依頼した。
「きっと暁登さんです。連絡がありましたから」
「アキトさん」
「ええ。中へお招きしてください。ちょうど昼食になりますし」
素麺を拭きこぼさぬよう、早は差し水を入れる。本当は知らない人を家に招く役割なんて負いたくなかったが、家主の指示では仕方がない。ぺたぺたと廊下を進み、玄関の扉を開けた。だがそこに人はいなかった。
夏の熱気が途端に家の中へ押し寄せる。ただのいたずらでインターフォンを鳴らすには、この家の敷地が広い分向かないように思う。きつい日差しに目を細めつつ辺りを見渡すと、男がこちらに背を向けて立っているのが見えた。家の周りの雑木林の一本を見あげて眺めている。後ろ姿なので年齢が分からないのだが、紺色のポロシャツに膝上のハーフパンツといういでたちは若いように思えた。
あの、と声をかけると、男が振り向く。振り向きざま、眼鏡越しのきついまなざしに、藍は言葉を忘れる。
雰囲気のある人だな、と思ったのだ。
すらりと伸びた手足は成人した男の人のそれで、けれど叔父のように熟成してしっかりと重量を持った肉体とはまた違い、ほとばしるようなみずみずしさを感じた。眼鏡とその奥の暗く輝く瞳に知性を見た。叔父を海の底や川べりにあるような、水の流れで削れてまるい石に例えるなら、この人はまだ原石だ。尖って硬く、硬い分だけもろい。黒曜石、ととっさに思った。そうだ、黒曜石だ。黒くガラス質の、透かすと美しい石。
言ってしまえば「見惚れた」。男は藍を認めて歩み寄ると、「眞仲藍」と名を発音した。
その掠れたハスキーな声も魅力的だった。
「――さん?」
「え?」
「眞仲藍さん、で合ってる?」
藍は目を数度瞬かせて、「はい」と答える。まさか男に名を知られていると思わなくて、一気に全身で緊張した。
「夏休みを利用してこの家に来てる、岩永さんの姪っ子。中学三年生」
岩永、という苗字が誰を指すのか思いつくまでに数秒を要した。叔父だ。
そうです、と答えると、男は「ふうん」と言った。
「目元がちょっと、似てる」
誰に、とはなんとなく聞き損ねた。
→ 5
← 3
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ひとり暮らしと聞いていたのでコンパクトな家を想像していたが、まるで外れる家だった。広い木造二階建てのつくりで、周囲の雑木林も含めて敷地内だと教えられて驚く。天窓のある居間なんてものははじめてだった。天窓と言えば、学校の階段の上部に明かり取りとしてはめ込んであるが、あれの印象しかなかった。こんなのが、一般家庭に存在するなんて。
はじめて会った草刈早は、ふつうのおばあちゃんだった。けれどさほど歳を取っている風にも見えない。足腰は丈夫な様子だし、ぼけてもいないのだろう。眼鏡をかけていたので目は悪いのかもしれないが(否、単なる老眼だった)、耳はよく聞こえているし、受け答えも快活だった。
「よく来ましたね」と藍を出迎えてくれた。品のいいものの喋り方をする。家の様子にきょろきょろと視線を迷わせていたら、叔父が「藍、こっち」と荷物を抱えて階段を示した。
「藍の部屋は二階ね。好きに使っていいから。足りないものがあったら言うといいよ。トイレは一階にしかないんだ、そっち使って。洗面台と風呂場はこっち」
叔父の案内をざっと聞いてから居間へ戻ると、座卓の上にお茶が用意されていた。
三人分あって、菓子の類も置いてある。早が「こちらへどうぞ」と言うので言われるままに席に着く。
改めて自己紹介をした。初対面の人には緊張する。あまり上手なことは言えなかった。それでも早はにこりと笑った。
「女の子の同居人ははじめてですねえ」と言う。
「藍さんはこれから約二週間の滞在となるわけですが、なにかしたいことがありますか?」
「え、と……」
「私はもうこんな老人なので、どこかへ連れ出してあげることはちょっと難しいです。海に行きたい、と言われても困ってしまうわけですが、」
「海は、別に行かなくてもいいです」
「ならよかった。この家では自由に過ごしてください。と言ってもはじめは戸惑うでしょうから、そうですね、基本的な家事全般のお手伝いはしていただけると助かります。おうちでは家事の手伝いをしますか?」
「少しですけど、やります。その、……お母さんのおなかに赤ちゃんがいるので、なおさら、」
「ああ、そうでしたね。ではお願いします」
そして茶を飲みながら雑談をする。疲労を感じたので部屋で少し眠らせてもらった。目を開けると夕暮れが迫っており、慌てて階下へ向かうとすでに夕食の支度が整っていた。
「――ごめんなさい、お手伝い、」
「いいんですよ。よく寝ている、と思ったから起こしませんでした。それよりもそこで横になっている大きな大人を起こしていただけますか?」
早に言われて見れば、樹生叔父が居間のカウチでのんびりと寝ていた。あまりにもくつろいだ顔をしていて、ああこの人の家はここなのだな、と妙に納得した。
叔父を起こし、三人で食事を取った。家庭菜園で採れるという夏野菜が様々なかたちで並んでいた。藍は野菜が好きなので単純に嬉しい。とりわけ、ゴーヤと豚こま切れ肉の炒め物が美味しくて、そればかり箸を伸ばして食べた。
早が「それが好きですか?」と訊いてきた。
「はい、美味しいです。ごはんによく合います」
「ゴーヤ好きな女子中学生なんて貴重だ」と叔父が神妙な顔つきで言う。
「樹生さんは食べませんね、ゴーヤを」
「苦いから」
叔父の返答に早はくすくすと笑って楽しそうだ。
「ゴーヤが熟すとどうなるか、藍さんはご存知ですか?」と早は藍に笑顔を向けた。
「え……熟すんですか?」
「熟しますよ。緑色のものを私たちは食べますが、これはまだ若い実なんです」
少し考えて、藍は「色が変わる」と答えた。早は「当たりです」と満足そうに微笑んだ。
「何色になると思いますか?」
「えーと、……じゃあ、白」
「どうしてそう考えましたか?」
「ゴーヤって、ウリ科ですよね。ウリ科で緑色って言ったらきゅうりかな、って。きゅうりが熟しているところを見たことがないけど、きゅうりも切れば白いから、中身が表皮と同じ色になるんじゃないかなって思いました」
「素敵な思考力をお持ちですね」
早はお茶を一口飲むと、「正解は黄色です」と答えた。
「え、黄色くなるんですか?」
「ええ、黄色。実はきゅうりも熟せば黄色くなりますよ。そしてゴーヤは、実が割れます。中身の種は真っ赤で、この種は甘いんです」
「甘い?」叔父が驚いて口を挟む。
「甘いですよ。今度食べてみますか、樹生さん」
「いや、いいです」
「私は食べてみたいです」
そう言うと、早は「ではいまなっているゴーヤのひとつは、収穫せずに残しておきましょうかね」と答えた。
「この時期ですと私はいつも朝四時頃には起きて、菜園の手入れや収穫をします。昼間は日差しがきついので、畑仕事は朝のうちと、夕方簡単に見回りをします。朝食は六時半頃です」
「じゃあ私も、四時には起きます」
「私に合わせる必要はないですよ」
「いえ、私もいつもそのぐらいに起きるんです。朝のうちに勉強をするのが日課だから。その方が頭に入ります」
「では大丈夫そうですね。せっかくですから、この家にいる間は野菜の収穫もしてみますか?」
「はい」
「それでは明日の朝に」
初対面だったけれど、驚くほど早には馴染んだ。学校生活について早とおしゃべりをする。叔父だけがつまらなさそうに会話から外れ、夕食後はまたごろりと横になっていた。よく眠る叔父だ。
→ 4
← 2
中学三年生の夏休みをどう過ごすかで家族内で話し合った結果、藍は母方の叔父・岩永樹生の元へ行くことにした。
正確には樹生叔父が幼少を過ごした「早先生」という人の家で過ごすのだ。
茜は短期留学で海外へ出た。母は妊娠中で、この夏のさなかに臨月の妊婦などをしている。父は相変わらず仕事が忙しい様子だ。家にいて母を手伝うことも考えたが、両親は「藍の好きにしていいよ」という。ならば藍も「家から離れてみたい」と言ったものの、具体的な案を思いついているわけではなかった。ただ、いとこらの住んでいる父方の祖父母の家にはあまり行きたくない。あの家は、母に似ている藍や茜を少し嫌うふうがあった。とりわけ祖母から。
考えた結果、母が叔父に連絡を取った。わりあい近くに住んでいるのでいざとなった時に簡単に呼び戻せるから、というのが理由のひとつだ。叔父とは特に頻繁なやり取りがあったわけではなく、むしろ疎遠な方だ。知らない人、に近い。けれど藍が意見を言おうとする頃には、あれよあれよという間にその「早先生」の家に滞在することが決まってしまっていた。
「いい家よ」と母は言った。
「ホームステイみたいなつもりで行ってらっしゃい」
「でも、日本語の家でしょ?」
「じゃあ山村留学かしら、なんでもいいわ。私からよりもずっといろんなことを教わると思うよ。藍みたいな子は特にね」
「……」
「藍、挨拶をして」母は膨らんだ腹を藍の方へ向けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母の腹の水に浸かっている妹だか弟だかに触れて(つまり、母の腹に触れて)、藍は叔父が迎えに来てくれるはずの駅へと向かった。
うだる暑さが街のそこらじゅうに溜まっていた。直射日光は帽子で防げても、ビルの壁から反射する熱はどうにも防ぎようがない。重たい荷物を引きずるように歩きながらも、ひとりでよかったと思う。母がこんなところまで送るなどと言わなくてよかった。あの腹を見ていると相当に重たくてしんどそうに思える。あれだって中身は生き物なのだから、体温を持っているのだろう。重たく熱い塊を腹に抱えて歩く華奢な母を、見たくはなかった。
送迎のある駅までは、バスに乗り、電車に乗り換えて十分程度だ。ホームに降り立つとそれでも若干爽やかな風がそよいだ。気のせいだと言える類の風だったが、藍は敏感に感じ取った。この地域の夕方は特有の風が吹くおかげで街中よりも涼しくなることを、体で知った。
叔父とはすぐに合流できた。降り立つ人もさほど多くない駅で、背の高い叔父はとてつもなく目立った。
「――藍、久しぶり」
「――はい、」
帽子を取り、お世話になりますと頭を下げると、叔父は「お」と小さく唸った。
「髪、切ったんだ」腰まで伸ばしていた髪はいま、肩で揃えていた。
「うち、短髪ブームからの長髪ブームなんです」
「なんだそれ」
「お母さんが髪をばっさり切った時、あれを見て茜が、私も髪を切るって騒いで、切ったんです。藍は? って聞かれて、じゃあ切ろうかなって切りました」
「それが短髪ブーム?」
「うん。みんな一気にショートカットにしたら、お父さんがなんか淋しがっちゃって」
「ああ。曜一郎さん、髪の長い女の人好きだもんね」
「それでまた伸ばし始めたんです。でも私は、いまぐらいの髪の長さが好き」
「前より似合うよ。大人っぽくなった」
と樹生叔父は何気なく褒めたが、それを受け流せるぐらいの免疫が藍にはまだなかった。どう答えていいやら、藍はすこし恥ずかしくなって戸惑う。
行こうか、と叔父の大きな掌が藍の背中に当てられた。促されるままに車に乗り込む。重たい荷物を運んだおかげで腕が痺れていた。肘の内側は赤く擦れてしまった。
車は軽快に走る。車内の冷房は心地よかったが、じきに寒くなった。鞄からカーディガンを引っ張り出すと、気づいた叔父が「寒い?」と訊いて冷房を弱める。
「寒いなら言いなよ。藍、遠慮しすぎ」
「……」
「早先生には遠慮は無用だから。っても、そういうのおれが分かったのも、最近なんだけどね」
叔父はやわらかく微笑んで言う。その横顔を見て、藍は質問を投げた。
「樹生叔父さんは、早先生のところで育ったんですよね」
「そうだね」
「どうして?」
「そりゃ、藍のおじいちゃんとおばあちゃんが早くに死んじゃったからだよ。って、お母さんは話してくれなかった?」
「聞きました。けど、分からなくて。早先生は、親戚とかじゃなくて、他人なんでしょ? どうして赤の他人の家にいたんですか?」
「うーん」叔父は苦笑いをした。「なかなか直球を投げて来るね」
「お母さんは早先生の家で育ったわけじゃない、って聞いて、どうして叔父さんだけだったのかな、ってことも分かりません」
「茉莉とおれは歳が離れてるからね。事故があっておれたちの両親は死んじゃったんだけど、藍のお母さんはぎりぎり自立できる年齢だったんだよ、そのときね。頼れる親類はいなかった。早先生の方がよっぽど付き合いが濃厚だったみたい。だから茉莉はおれだけでもお願いしますって、草刈の家に頼んだんだ」
「でも、関係のない人ですよね」
「そうだね、関係はないよ」
そう言ったけど、叔父は気にする風でもなかった。
「血とかそういうのじゃなくても、人って繋がってんだなってことだと思ってるよ」
やがて車は雑木林の中へと入っていった。
→ 3
← 1
藍の感覚では、夏は三角形だ。
底辺は煮えたぎって焼けたアスファルト。斜辺に熱気をはらむ家並みや学校があって、空へ突き抜ける巨大な三角形がこの街を覆っている。そういえばこの時期の星座には夏の大三角形があるのだ。これはこと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルだと言ったっけ。もくもくと湧く入道雲は円錐みたいに見える。と言ったら父には不思議な顔をされたのでもう二度と人には言わないと決めている。
いつか参加した大学主催のサマースクールで、偉い先生が「3、という数字は都合がいい」と言っていたことを思い出す。四点取るより三点取った方が安定するのだと言っていた。だからカメラの支えは「三脚」でしょう、と。3について考えると確かに面白い。時間の数え方がいい例だと思う。一時間は60分で、一分は60秒だ。60は割っていけば3にたどり着く。
藍の家族は四人だから、2の倍数だ。頂点が四つ存在する平面と言えば四角形だ。頂点が四つある立体は三角錐だが、それでも4という数字があまり好きではない。どうしてだろう。しっくりこないんだ。
底辺は煮えたぎって焼けたアスファルト。斜辺に熱気をはらむ家並みや学校があって、空へ突き抜ける巨大な三角形がこの街を覆っている。そういえばこの時期の星座には夏の大三角形があるのだ。これはこと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルだと言ったっけ。もくもくと湧く入道雲は円錐みたいに見える。と言ったら父には不思議な顔をされたのでもう二度と人には言わないと決めている。
いつか参加した大学主催のサマースクールで、偉い先生が「3、という数字は都合がいい」と言っていたことを思い出す。四点取るより三点取った方が安定するのだと言っていた。だからカメラの支えは「三脚」でしょう、と。3について考えると確かに面白い。時間の数え方がいい例だと思う。一時間は60分で、一分は60秒だ。60は割っていけば3にたどり着く。
藍の家族は四人だから、2の倍数だ。頂点が四つ存在する平面と言えば四角形だ。頂点が四つある立体は三角錐だが、それでも4という数字があまり好きではない。どうしてだろう。しっくりこないんだ。
眞仲藍はその年、中学三年生になった。一般的には受験生だと言われるが、藍の場合、受験生だったのは小学校六年生の時だった。大学付属の中学校に合格できたので、ここから先は外への進学を望まなければ高校・大学とエスカレーター式に上がっていける。
だから周囲も割とのんびりしている。とはいえこの学校の偏差値自体は高く、授業もハイレベルだ。いままでいた公立小学校と比べてあまりにも授業に差があったので、入学当時の藍は勉強に追いつくのに必死だった。
本来なら小学校から受験出来る学校で、藍のように小学生時に受験をして入って来る生徒はあまり多くない。たいがいは幼稚園生の頃に受験を済ませており、藍は入学当時「外の子」と呼ばれたことがある。
友人が出来ればそういうことも言われなくなった。また、翌年には妹の茜も同じ学校に中学受験で入学したので、「眞仲姉妹は揃って頭がいい」というような評価も出来上がった。そしてそこには「ふたりとも美少女」と必ずくっつく。さらに言えば、「お母さんが美人だから当然だよね」となる。
確かに藍の母・茉莉は美しい人だと思う。妹も母によく似ており、将来は美人になるだろうと分かる。藍もそうだと言われる。言われるが、実はそうではないということを、藍自身はとっくに気付いていた。
母を思わせるようでいて、藍はどことなく違う。眉は太いし、目もなんとなく小さい。体の輪郭も、華奢な印象の母よりはわりとしっかり出来ている。手足のサイズが大きいことが悩みだ。母は「背が高くなる証拠」と言い、「叔父さんみたいにね」と付け加えたが、そんなのまっぴらごめんだった。藍の将来の目標はモデルでも女優でもない。一般の範囲に収まっていたい。
藍を見た目だけで言えば、母のフェイクだ。偽物、よく似せて作られた模造品といったところ。茜みたいに、似るなら完璧に似て欲しかった。茜は藍と違って運動神経がよく快活で、かつ天真爛漫で、どこからも文句がない。こんなに完璧な母と妹を持ってしまって、藍と言えばコンプレックスを抱えてばかりだ。臆病なところ、人見知りなところ、少し視力が悪いところ、なにもかもに不満をつけられる。
ケチばっかりつく人生だな、と十四歳にして藍は半ば諦めていた。
それもこれも、母が美しいばかりに、と。
→ 2
だから周囲も割とのんびりしている。とはいえこの学校の偏差値自体は高く、授業もハイレベルだ。いままでいた公立小学校と比べてあまりにも授業に差があったので、入学当時の藍は勉強に追いつくのに必死だった。
本来なら小学校から受験出来る学校で、藍のように小学生時に受験をして入って来る生徒はあまり多くない。たいがいは幼稚園生の頃に受験を済ませており、藍は入学当時「外の子」と呼ばれたことがある。
友人が出来ればそういうことも言われなくなった。また、翌年には妹の茜も同じ学校に中学受験で入学したので、「眞仲姉妹は揃って頭がいい」というような評価も出来上がった。そしてそこには「ふたりとも美少女」と必ずくっつく。さらに言えば、「お母さんが美人だから当然だよね」となる。
確かに藍の母・茉莉は美しい人だと思う。妹も母によく似ており、将来は美人になるだろうと分かる。藍もそうだと言われる。言われるが、実はそうではないということを、藍自身はとっくに気付いていた。
母を思わせるようでいて、藍はどことなく違う。眉は太いし、目もなんとなく小さい。体の輪郭も、華奢な印象の母よりはわりとしっかり出来ている。手足のサイズが大きいことが悩みだ。母は「背が高くなる証拠」と言い、「叔父さんみたいにね」と付け加えたが、そんなのまっぴらごめんだった。藍の将来の目標はモデルでも女優でもない。一般の範囲に収まっていたい。
藍を見た目だけで言えば、母のフェイクだ。偽物、よく似せて作られた模造品といったところ。茜みたいに、似るなら完璧に似て欲しかった。茜は藍と違って運動神経がよく快活で、かつ天真爛漫で、どこからも文句がない。こんなに完璧な母と妹を持ってしまって、藍と言えばコンプレックスを抱えてばかりだ。臆病なところ、人見知りなところ、少し視力が悪いところ、なにもかもに不満をつけられる。
ケチばっかりつく人生だな、と十四歳にして藍は半ば諦めていた。
それもこれも、母が美しいばかりに、と。
→ 2
いま、女王は酷く落ちこんでいる。
ことの顛末は聞いた。聞いたが曜一郎にはどうしようもない。それよりも彼女と今後をどうすべきかを、真剣に悩んだ。何度も別れを決意しておいてそれは決意などではなく、ほんの僅かな揺らぎでまたはじめに戻っていた。転んでは白紙に戻るの繰り返し。
本当は共にいたかった。それはなにごとにも代え難い本音で、だが手の指の攣る癖が、痛みが、曜一郎を竦ませる。
この指でいる限り彼女の全てを満たすことは出来ない。
曜一郎が別居を解いてようやく家で眠りつくようになって、半年ほど経過した。茉莉とは表面上はなだらかで、だが彼女は明らかに元気がなかった。生来の気の強さ、激しさがごっそり抜け落ちていて怖いぐらいだ。娘たちがいる場でもなんとなく反応が遠い。物思いにふけって、呼びかけても返事がないことがままあった。
曜一郎と茉莉は、寝室を共にしない。茉莉は茉莉の部屋を持ってそこで眠るし、曜一郎は曜一郎で部屋があった。もう彼女とはずいぶんと長いこと一緒に眠っていないな、とベッドに体を横たえたときに思いがよぎった。もう十何年も夫婦をしている。だと言うのに彼女との距離を誤る。どうしていいのかよく分からない。
熱帯夜で寝苦しかった。空調を効かせたまま眠ると喉を痛めるので夜間の睡眠のあいだは窓を開けて眠るのだが、今夜はちっとも風が入らない。こういう日はいっそ眠ることを諦めて、居間にでも行って寝酒を煽ろうかな、と考えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。「入っていい?」妻の声はか細い。
起き上がり、曜一郎から扉を開けた。パジャマ姿で茉莉が立っている。もっとも今夜は、この家にはふたりしかいない。長女の藍も次女の茜も、学校主催のサマーキャンプに出掛けている。
「こんばんは」と妻は夜の挨拶をした。
「どうしたの?」
「寝苦しいから、こっちで寝ようと思って」
この台詞にはとても驚いた。
「いいけど、僕の部屋も暑いよ。暑いから居間で酒でも飲もうかと思ってたところ」
「じゃあ、私もそうする」
ふたりで居間へ向かい、茉莉は冷房を入れ直し、曜一郎はアルコールを用意した。茉莉ははっきり言って酒豪だが、曜一郎はほとんど下戸に近い。飲酒のペースが合ったことはなかった。
水で割ったごく薄い梅酒を自分に、茉莉にはロックの梅酒を渡した。これは茉莉の弟・樹生からもらってきたものだ。正確に言えば彼の育ての親・草刈早が漬けたもので、この梅酒をはじめて飲んだ時の美味しさが忘れられなかったので彼女にお願いして毎年梅酒を分けてもらっている。
広いカウチに、ふたり並んで座る。梅酒をひとくち口にすると、茉莉は「もう他の誰とも寝ない」と言った。
「もし誰かと寝たら、私を殺していいよ」
「いやだよ、そんなの。……ごめんだ、」
滅多なことを言わないでくれ、と言うと、彼女は大人しく「ごめんなさい」と言った。
「でも、本気よ」
「きみにそんなことが出来るのか、僕は思えないな。実行できたとして、……僕はきみを満足にしてあげられない。なんてったってへたくそだからね」
「知ってる。仕方がないよね、指が攣るんだから」
その台詞にハッとして隣にいる妻を見た。誰にも、親にも、兄弟にも、妻にさえ言ったことのない曜一郎の癖を、彼女は気付いていた。
「分からないとでも思ってたの?」と言われる。
「はじめてデートしたときにもう気付いてた。指、痛い?」
「痛いわけじゃないんだ。痛いときもあるけど、……びっくりした」
茉莉は曜一郎の手を取って、中指をやさしく撫でる。こういうことは過去の誰にもされたことがなく、安心感と心地よさと、少しの申し訳なさを曜一郎にもたらす。
そのまま指とゆびを絡めて手をつないだ。つないだまま酒をちびちびと舐める。
「子どもが欲しい」と茉莉が呟く。曜一郎は再び驚く羽目になった。「え?」
「なんて声出すの。それとも私とのことをもう、嫌だと思う?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。えっと、……これから産もうって話?」
「そう。今度は男の子を育ててみたいなって」
「いまから産むのは、大変だろう? 高齢出産になるんだし、」
「確かにそうだけど、初産じゃないならなんとかなるでしょう」
茉莉はふっと笑った。心から穏やかな顔をしていて、彼女のこんな表情を曜一郎はいままで見たことがなかった。
彼女の中で、なにかが変化した。
笑顔を見て、曜一郎は泣きたくなるような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。胸が熱くて鼻の奥がキンと痛む。少しうなだれてから、「きっと大変だよ」と妻に告げる。
「そうかな。楽しいと思うわ」
「藍や茜の頃みたいな体力が僕にはないなあって」
「藍や茜を巻きこんじゃえばいいのよ」
「家族みんなで育てる?」
「私はよく分からないんだけど、そういうものなんじゃないの、家庭って」
その台詞が辛かった。彼女の身の上に起きた話を、もうこれ以上彼女に重ねたくなかった。
「男の子なら、樹生くんみたいに背の高い格好いい子になるかな」と、努めて明るく言った。
「まさか。曜一郎との子なのに、なんであの子みたいな子どもになっちゃうの。あなたに似るわ」
妻はきっぱりと言い放つ。つないだ手は汗ばんで来ていたが、離そうとは思わない。
「男の子、いいね」
「でしょう?」
「女の子ももちろん」
「ね。なかなか素敵なアイディアだと思わない?」
「思うよ」
その日は夜じゅうふたりで喋っていた。くだらないことも真剣なことも全て巻き込んで。
手はつないだまま、けれど曜一郎の指はその夜、攣らなかった。
End.
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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