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シーズンオフの期間中は、事務所を置いているKに直生をとどまらせた。雇用というかたちで、電話番や伝票の整理などといった雑務をさせた。家族の元に帰ってよいのかどうかを直生は迷っていたので、あの手この手で不安をあおらせ、直生の意思を「帰るのはまだ早い」に結び付けさせた。支配というよりはちょっとした話術で、操縦だ。職業柄、通孝が身に着けたことだった。
ただ、ちょっとした合間に電話をかけたり、「一時間だけ美藤に会って来る」と出掛ける男を、止めることは出来なかった。早く春が来てまた山荘の営業が始まらないかと通孝は焦れる。そうしたら簡単には帰れない。
帰るな、帰るなと、何百何千何万回も願い、それは最終的には叶ってしまった。
ただ、ちょっとした合間に電話をかけたり、「一時間だけ美藤に会って来る」と出掛ける男を、止めることは出来なかった。早く春が来てまた山荘の営業が始まらないかと通孝は焦れる。そうしたら簡単には帰れない。
帰るな、帰るなと、何百何千何万回も願い、それは最終的には叶ってしまった。
連日連夜、雨が続いて億劫になる。直生を山荘暮らしにさせて八年という月日が流れようとしていた。雨に客足を取られて山荘全体がひどく静かだった日、空き時間に窓の外をぼんやり眺めていると、背後から男の近づく気配があった。足音だけで分かる。直生だった。
「通孝、」と声をかけられる。「なにぼんやりしてるんだ?」
「これからシーズンオフになるから、閉山後の山荘のこと」
「ああ……。これ、有起哉さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「ありがとう」
直生が差し出してくれたステンレスのマグカップを受け取る。熱く濃く淹れられたブラックコーヒーは通孝の好みだったが、隣に佇んだ男のマグカップに同じものは入っていない。直生は甘党で、砂糖と牛乳を加えないとコーヒーが飲めない。
「山の様子、どう?」
「山頂はどこももう、雪だな」
「そっか。……今度晴れたら、その日はおれに休みをくれないかな」と直生は言った。
「閉山する前に、山に登ろうと思って」
「どこ?」
「H岳連峰。通孝も一緒に登らないか?」
「いつ晴れるかにもよるかな。天気予報じゃ来週が天気よくなるみたいだけど、その週は団体の宿泊予約があるから」
「じゃあ、タイミングが合えば」
それきり黙り、ふたりで窓の外の雨を眺めながら佇む。
ここへ直生が来て、山にはもう何度も登った。大抵はふたりで登った。はじめこそ初心者登山で直生の足元は覚束なかったが、いまでは岩場も雪渓もコツを得てひょいひょいと登れる。健康な肉体は、健康な精神をもたらした。ここへ来たばかりのころは「家族に申し訳ない」と泣いた男だったが、ここ最近は癇癪を見ていなかった。
通孝はそれを喜べなかった。健康であることは嬉しい。けれど体力と精神力が戻ってしまったら家族の元へ帰ると言い出すのではないか――それが気がかりだった。
険しい顔をしている通孝をよそに、直生はぽつぽつと喋り出す。H岳連峰のルートの話を、通孝は上の空で聞いていた。「結局、ジャンダルムは踏破できなかったな」の台詞がようやく耳から脳を刺激して、通孝は直生の顔を見あげた。
「いつか越えたいと思ったけど、無理だった」
「……直生、」
「うん。……おれ、今シーズンの営業が終わったら、山を下りようと思って」
それはつまり、Kにある事務所にもとどまらないということだ。つまり、……とうとう帰るのだ、妻と子の待つ家に。
ドッと背筋に冷汗が沸いた。
「すこし、話してもいいかな」
と言うので、心臓をうならせながらも平気なふりで「いいよ」と言った。
「ここを下りたらまず早先生のところに行く。長いことご迷惑をおかけしましたって言って、……美藤と子どもとの再会に、出来れば同行をお願いする。多分、第三者がいる方がいいんだ」
具体的な予定がつらつらと出てくる。通孝は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「茉莉は専門学校に進学が決まったって聞いた。樹生ははじめて会うようなもんだから、どう反応していいのか分かんないな、」
「僕には子どもの扱いなんて想像もつかないよ」
「……おれ、どうして通孝が嫁さん貰わないのか、ずっと気になってた。見合いの話が来ても先から断ってたじゃん。山荘の跡継ぎのこと考えなきゃいけない立場だってのに、『僕は向かないんだ』とか言って、……。どうしてなのか、付きあいの長い有起哉さんなら知ってるかなって、聞いたんだ」
「……なんて、」
「有起哉さん、笑いたくて笑えない顔して、『知ってるよ』って言って。『知ってるけど言わない、自分で訊くか気付け』って言うんだ。……通孝が彼女を連れているところは見たことがないなとか、色々考えた。でも、前に風呂場で気付いた、ここにあった、痣」
とん、と直生は首筋を指した。
「あれは、鬱血痕だったな、って。……自分でそんなところ吸えるわけないよね。てことは誰か、恋仲ぐらいはいて、……多分、男なんだろうなって」
「……」
「きみは、ゲイ?」
→ 12
← 10
「通孝、」と声をかけられる。「なにぼんやりしてるんだ?」
「これからシーズンオフになるから、閉山後の山荘のこと」
「ああ……。これ、有起哉さんがコーヒー淹れてくれたよ」
「ありがとう」
直生が差し出してくれたステンレスのマグカップを受け取る。熱く濃く淹れられたブラックコーヒーは通孝の好みだったが、隣に佇んだ男のマグカップに同じものは入っていない。直生は甘党で、砂糖と牛乳を加えないとコーヒーが飲めない。
「山の様子、どう?」
「山頂はどこももう、雪だな」
「そっか。……今度晴れたら、その日はおれに休みをくれないかな」と直生は言った。
「閉山する前に、山に登ろうと思って」
「どこ?」
「H岳連峰。通孝も一緒に登らないか?」
「いつ晴れるかにもよるかな。天気予報じゃ来週が天気よくなるみたいだけど、その週は団体の宿泊予約があるから」
「じゃあ、タイミングが合えば」
それきり黙り、ふたりで窓の外の雨を眺めながら佇む。
ここへ直生が来て、山にはもう何度も登った。大抵はふたりで登った。はじめこそ初心者登山で直生の足元は覚束なかったが、いまでは岩場も雪渓もコツを得てひょいひょいと登れる。健康な肉体は、健康な精神をもたらした。ここへ来たばかりのころは「家族に申し訳ない」と泣いた男だったが、ここ最近は癇癪を見ていなかった。
通孝はそれを喜べなかった。健康であることは嬉しい。けれど体力と精神力が戻ってしまったら家族の元へ帰ると言い出すのではないか――それが気がかりだった。
険しい顔をしている通孝をよそに、直生はぽつぽつと喋り出す。H岳連峰のルートの話を、通孝は上の空で聞いていた。「結局、ジャンダルムは踏破できなかったな」の台詞がようやく耳から脳を刺激して、通孝は直生の顔を見あげた。
「いつか越えたいと思ったけど、無理だった」
「……直生、」
「うん。……おれ、今シーズンの営業が終わったら、山を下りようと思って」
それはつまり、Kにある事務所にもとどまらないということだ。つまり、……とうとう帰るのだ、妻と子の待つ家に。
ドッと背筋に冷汗が沸いた。
「すこし、話してもいいかな」
と言うので、心臓をうならせながらも平気なふりで「いいよ」と言った。
「ここを下りたらまず早先生のところに行く。長いことご迷惑をおかけしましたって言って、……美藤と子どもとの再会に、出来れば同行をお願いする。多分、第三者がいる方がいいんだ」
具体的な予定がつらつらと出てくる。通孝は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「茉莉は専門学校に進学が決まったって聞いた。樹生ははじめて会うようなもんだから、どう反応していいのか分かんないな、」
「僕には子どもの扱いなんて想像もつかないよ」
「……おれ、どうして通孝が嫁さん貰わないのか、ずっと気になってた。見合いの話が来ても先から断ってたじゃん。山荘の跡継ぎのこと考えなきゃいけない立場だってのに、『僕は向かないんだ』とか言って、……。どうしてなのか、付きあいの長い有起哉さんなら知ってるかなって、聞いたんだ」
「……なんて、」
「有起哉さん、笑いたくて笑えない顔して、『知ってるよ』って言って。『知ってるけど言わない、自分で訊くか気付け』って言うんだ。……通孝が彼女を連れているところは見たことがないなとか、色々考えた。でも、前に風呂場で気付いた、ここにあった、痣」
とん、と直生は首筋を指した。
「あれは、鬱血痕だったな、って。……自分でそんなところ吸えるわけないよね。てことは誰か、恋仲ぐらいはいて、……多分、男なんだろうなって」
「……」
「きみは、ゲイ?」
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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