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 今年もまたK高地は開山を迎え、山荘の営業がはじまって一か月ほどが過ぎた。
 標高が高いために木立にはまだ葉がつかず、山々にも残雪がたっぷりあるのがよく見える。この時期は野鳥観察を目的とする客がよく入る。葉が茂らないため、梢に鳥が止まっていれば発見しやすく、バードウオッチングには最適なのだと客から聞いた。
 最近は、山荘の経営を後進に譲りつつある。妹の息子、つまり甥っ子が根っからの山好きで、学生時代からちょくちょく山荘に来ては手伝っていた。妻も子どももいないのであればちょうどいいのではないかと妹と話し合い、本人も乗り気だったので、ゆくゆくは彼にここを継いでもらう前提で、いまは色んなことを教えている。
 甥は今年で三十歳になる。歳をとるはずだよな、と甥や若い従業員らを見て思う。調理場を覗いてももう有起哉はいない。何年か前にここを辞めて山を下りた彼はいま、妻と子どもと孫に囲まれて豊かな老後を過ごしているはずだ。
 冬の終わりに会った姉弟のことを思い出す。美藤にそっくりだった娘、直生にそっくりだった息子。確かな意思で殴られた箇所はあの後けっこう腫れた。従業員らに「社長、どうしたんですか?」と訊かれるたび、嘘の答えを述べるのは面倒くさかった。
 可哀想な孤児たち。あの後彼らはどうしただろう。すこし考えて、だが自分の知った事ではないなと通孝は思いなおす。よく似ていても、別人だ。通孝が望む男ではない。
 ザックに食料や防寒具、雨具などを詰め込んでいると、甥が顔を出した。
「あれ? どこか登ります?」と彼は訊いた。
「うん、K高地の観光センターからの依頼で、この時期の山の写真を撮りにね。ホームページに載せたり、パンフレットを新しくしたりするそうだ」
「あ、なんだ。おれはてっきりまたH岳に行くのかなって。でもまだ雪が残ってるから大丈夫かなって」
「違うんだ、今回はH岳には行かない。D沢へ行くだけだよ。夕方には戻る」
「分かりました」
 と言って甥は一度下がったが、「違うちがう」と言って再び顔を覗かせた。
「お客様お見えになってます。社長にお会いしたいと言って、アポなしだそうですが」
 甥が受け取ったという名刺を見せられる。旅行会社の営業のようだった。
「不在だと言ってくれ。これで出てしまうから。きみが話を聞いておいてくれればいいよ。対応に困ったら支配人に聞くか、僕に電話をくれ」
「はあい」
 甥は下がる。通孝は荷物を背負うと、裏口からそっと抜け出した。甥が本格的に経営に携わるようになってくれたので、自由時間が増え、好きに行動できるようになった。いわゆる隠居の生活が見えている。もっとも体力は年々落ちていくばかりだから、いつまで好きに動けるかは分からない。
 D沢の湿原を歩き、写真を撮りながら徐々に高度を上げていく。時折、忘れぬようにメモを取る。歩いていくと雪渓に出くわしたので、さてどう超えたものかな、としばらく考える。雪の様子を見て、アイゼンを履いた。一歩一歩慎重に踏んで、雪渓を登っていく。
 途中、振り返ると素晴らしく晴れた春の街並みがはるか遠くに見えた。街は様々なものを反射してきらきらと光っている。通孝は目を細め、やがて決意してまた雪渓を登り始める、その時だった。
 留め方が甘かったのか、片足のアイゼンが外れ、靴底が滑った。バランスを崩して転び、そのまま数メートルほど斜面を滑り落ちた。岩に強かに体を打ち付けて止まる。背から打ったので背負っていたザックがうまくクッションとなったが、手袋やサングラスは滑っている途中で外れ、雪の斜面に点々と散った。
 衝撃に、しばらく体を丸めて呻いた。たいしたことはない。衝撃が薄れて来ると通孝は半身を起こして、その場に座り込んでザックを下ろした。頬がひりひりする。降って溶けてを繰り返し硬くザラメ状になった雪で擦った。
 ――ああ、生きているな、と思った。
 生きているから痛いと感じる。直生はとっくに死んだというのに、自分は直生のいないこの世界をもう何十年と生きてしまっている。こんなめに遭ってもピンピンしている。あとどれくらい生きるだろう。どんな死に方をするだろう。出来れば――あの日、来客なんか放って直生と共に山に登り、共に滑落して、死にたかった。
 ザックを枕にしてごろりと寝そべる。信じられないぐらいに澄んだ青空だった。通孝は眩しくて目を閉じる。生きているから眩しいと感じる。
 目尻から涙が一筋だけこぼれた。頬に流れて沁みて痛い。むなしさが心の内側にこんなに切々とあるのに、山は、空は、森は、木々は、こんなにも美しい。
 ああ、生きているなと、再び思う。それは喜びとほぼ同一の、深いふかい悲しみだった。


End.


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youtorika2さま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
いただいたコメントの「誰も悪くないのに」には、私自身もそう思います。本編では最低な人間として書かれた晩ですが、晩の立場からすると苦しみは樹生たち姉弟の比ではないかもしれません。この物語を書いていてしんどいとも思ったし、救いだとも思ったことは、晩が「生きている」と噛み締めるところです。「秘密」の中で最も辛く囚われ続けている人、それが晩なんでしょう。
番外編はまだ続きます。本日は茉莉に絡むお話の予定ですので、こちらもぜひお付き合いくださいね。
拍手・コメントありがとうございました。
粟津原栗子 2018/07/27(Fri)06:06:36 編集
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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