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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ホテルを取るか樹生の部屋へ向かうかで、結構真剣に悩んだ。ホテルならば時間で強制的に退室できるから、暁登にとって逃げ場があるように思った。樹生の部屋へ連れ込んでしまったら、樹生の思うがままに出来る。けれど一方で、それも辛いような気がした。暁登を下手に部屋になど連れ込んで逃げられてしまったら、後で絶対に暁登の面影を追ってしまう。使う寝具はもちろんのこと、そこに暁登が佇んでいたと思うだけで、窓枠にまで胸が絞られそうだと。
 そんなことを考えてしまう自分のおかしさには、自覚しながら本当に参っていた。
 一応、ホテルを覗いた。だが今夜がクリスマスであることを失念していた。どこも混雑していて、部屋は満室。考えることはみな同じだ。聖なる日にはセックスをして、愛なのか繁殖欲なのかとにかくそういうものに耽りたい。
「えーと、」
 一歩下がりつつも真面目な顔で樹生の後をついてくる暁登に、声をかけた。
「どこも満室みたい。そりゃ、こんな日だもんな」
「……あの、おれ、よく分かんないんですけど、その辺の公園のトイレとかでも、いいですよ」
「え?」
「って、前に誘われたことがあったのを、思い出しました」
「公衆トイレでやろう、みたいな話?」
「嫌だったんで、無視したんですけど、岩永さんなら」
 と言うので、なんだか煮えてしまった。
「ばかっ。おれだって嫌だわ」
「……ですよね、すみま」
「じゃなくて、自分をもっと大事にしろよって話。なんだよ、おれにならどこででもいいのかよ」
「――」
「さっさと捨てろ、その、変な憧れとか信頼」
 樹生は早足で歩きだす。慌てて暁登がついてきた。決して背の低い男ではなかったが、樹生の背が高すぎるので歩幅が合わない。暁登はついに小走りになる。
「岩永さん、そっち住宅街じゃ」
「おれの部屋に行くから」
 振り返らず顔も見ずそう言った。
「ここからならまあ、徒歩圏内だよ。途中でドラッグストア寄るから。道、よく覚えておきなよ。逃げるならいま」
 樹生はずんずんと進む。いま、と言っておきながらいざ逃げられたらきっとすごくショックだし、追いかけなおすだろうと思った。背後で暁登がふ、と息を吐いた音が聞こえた。緊張を逃している音のように思った。
 ドラッグストアでコンドームとペットボトルの飲料を買う。こんなのを買ったのは久しぶりだった。暁登の分もいるのかどうかまではよく分からず、そんなことでいつまでも店で悩んでいるのも嫌でさっさと買い物を済ませる。
 たどり着いたアパートは、なんだかようやく、という感じで、とても遠いところまで来てしまったように感じた。樹生も暁登も、息を荒く吐いていた。これから行うことへの興奮や緊張からというより、単に疲労を感じた。ペットボトルを取り出し、暁登に一本渡す。樹生ももう一本を飲んだ。酷く渇いている。アルコールを摂取した後のウォーキングのせいだと思うことにする。
 暁登は物珍しそうに辺りを見渡していた。日ごろ人を招く部屋ではなかったので、樹生が好きに使うだけの、あまり片付かない部屋だ。それでも水回りだけはまめに綺麗にしていた。風呂が好きなので、そこが汚いのはなんだか嫌だったのだ。
 一応、暁登に「風呂、使う?」と訊ねた。
「――え、」
「使うならそこ、扉開けたら脱衣所になってて、浴室はその奥。タオルは乾いたやつがあったかな、」
 樹生は窓を開け、ベランダに干しっきりの洗濯物に手を伸ばした。ひやりと冷たかったが、濡れている訳ではなさそうだった。それを暁登に投げる。
 暁登は明らかに戸惑っていた。ぼんやりと立ち尽くしていたので、「入らない?」と訊いた。
「……こういうの、よく、分かんなくて。体を洗うのがマナーとか、あるんですか」
「いや、まあ、人ぞれぞれだと思うけど。おれはシャワー浴びるかな、余裕があれば」
「……」
「初めてってのはこういう、体売ります、的なことが初めて、なんだと思ってたんだけど、……もしかして女も男も、なんにも経験ない?」
 瞬間的に暁登は顔を赤くした。ぱあっと耳まで赤くなる、その様にそそられた。暁登は顔をくしゃくしゃにして「そうだよ!」と怒るように言った。
「なんにも経験なんかないです」
「それで本当に本当のいきなり初めてを買春か? ……度胸あるんだか、やけくそなんだか、」
「岩永さんは?」
「おれ? 売春の経験はないし、買ったこともないよ。キャバクラぐらいは仕事の付き合いでなくはないけど、」
「じゃなくて、あの、……セックスの、経験が」
「あるよ。それなりには」
 そう言うと暁登は恨めしそうに樹生を睨んできた。
「初体験て、いくつの時でした?」
「いつだっけな。多分、煙草と同時期だったと思う」
「……」
「あんま気にしなくてもさ。二十歳で初体験なら別に、て感じもするし」
「……」
「それに男はおれも初めてだし」
 と言うと、暁登はくるりと背を向けて、「風呂、借ります」と言って脱衣所に進み、引き戸を閉めた。すりガラスなので中の明かりを灯すとシルエットが分かってしまうのが難点の物件で、でも呼ぶ人もやって来る人も特にいないので別に構わないと思っていた。だが今夜だけは違った。樹生はガラス越しの素肌につい見惚れた。それが風呂場へ消えるまで眺める。



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 あの後、数日と待たずに暁登に連絡を取った。樹生には仕事があったが暁登は時間を持て余し気味に生活していたので、メッセージのやり取りをたくさんした。時間はお構いなしに、とにかく暁登をつなぎ留めたかった。おはよう、でも、おやすみ、でも、いまなにしてる? でも、なんでもよかった。暁登からメッセージが届けばそのたびに安堵したし、届かないとあらぬことを考えた。とりわけ、また売春なんてばかな行動を起こしてほしくないと思っていたから、それに対しては最大級の警戒をしながらメッセージを送り続けた。
 同時に、暁登の細い腰回りの写真を脳内で何度も再生し、そのたびに、隙間に手を差し込む想像をした。それをしたとき暁登は一体、どんな反応をするのか、吐息を漏らすのか。熱は、質量は、肌の心地は。
 また食事に誘い、それが叶ったのがちょうどクリスマスの日だった。多忙に多忙を重ねた中にふっと出来た隙間をうまく利用して、今度こそ夜の繁華街の飲み屋に入った。だがクリスマスや年末に浮かれる周囲の様子とは裏腹に全く酔えない夜だった。樹生の方から「あれ、見たんだ」と言ったのだ。
 はじめ「あれ」にピンとこなかった様子の暁登であったが、「ヤシオ、二十歳、初めてなのでリードしてくれる人」と告げると、表情は一気にこわばった。
「……嫌だって、言った……」
「言ったろ、人はわかんないよって」
「……岩永さん、なんで、」
「あれを見たら塩谷くんはおれのことを軽蔑するのかな、と思ったのが、ひとつ」
 暁登からの信頼が迷惑だとか、そういうことではなかった。ただ試してみたかった。憧れの人もただの人間だと知った時に、それでも受け入れて接してくれるのか、離れるのか。
「興味本位も、ひとつ」
「……」
「あとは――」
 語っている間、暁登は震えていた。見ていて分かるぐらいだったのだから、相当な緊張だった。それでも顔を上げ、樹生の顔を見る。また、あの、こちらが怖気づくぐらいの鋭く光った目を向けられて、樹生の背筋に危ういものが走る。
「――うん、その目が見たかった」
「酷いです」
「最低だろ」
「最低、」
 樹生はぬるくなり始めていたビールを煽ってから、「最低ついでに言うけど」と続けた。
「きみがあの掲示板に載せていた写真を見たい」
 暁登は目を見開いた。
「どんなに探してももう出てこないから。データが残ってんなら、もう一回見たいな、と思って」
「見て、どうしようってんですか、」
「だからさ、最低なんだ、おれも。塩谷くんを買いたいと思ったやつらと一緒だ」
 と言ったが、少し考えて、「違うか」と打ち消す。
「確認したい」
「……なにを、」
「おれがこの間からきみに対して感じている、これ、」
 と、樹生は自分の心臓の辺りを、自身の手で押さえた。
「が、一体なんなのか」
「……」
 暁登は黙った。ずっと黙っていた。心配になるぐらいに黙ったままなんの動作もしなかったので、樹生は息をついた。
「悪かった、困らせた。ごめんね」
 樹生は立ちあがった。
「先輩の立場ってのを利用して最低なことをした。もう連絡はしない。ここ、会計は済ませとくから、めしは食ってって。元気で」
 ジャケットと伝票を掴み、樹生はレジへと歩き出した。たいしてアルコールを入れたわけではないのに、体が重い。こんな年齢にもなって恋か性欲かも分けられないのは、相手が男であるという戸惑いもある。樹生は決してゲイではなかった。それでも暁登に抱くこの感情はなんなのか。最低なことがたくさん起きている人生ではあるが、こんなクリスマスもなかなかだな、と自嘲した。
 レジを済ませ、表へ出た。澄んだ空気が途端に突き刺さってくる。ジャケットを羽織って歩き出そうとすると、背後から「岩永さん」と呼ばれた。少し上ずって掠れた声の主は、暁登だった。
 追いかけてもらえるとは全く思わなかったので、これには驚く。
「……めし食った?」情けないことに、こんな台詞しか出てこなかった。
「食ってません。食えないです。あの、そうじゃなくて」
 暁登は握りしめていたスマートフォンを樹生の顔の前に突き出した。それは樹生が見たいと思っていた、あの写真だった。
「これは、ここです」
 と暁登は、雑に羽織ったコートの上から自分の脇腹を押さえた。
「岩永さんが見たいなら、見せます。その、……写真じゃなくて、」
「――」
「それで、確認が出来て」
「……うん、」
「それの正体がただの性的な欲求とか、なんか、……そういうのだったら、金をください」
 暁登は強い目をしながらも、声は震えていた。
「もし違ったら、……」
「……」
「違っていたら、どう、したら、……いいんでしょうね」
 と暁登は眉根を寄せた。
「分かった」と樹生は言った。
「見たいから、見せて。それで塩谷くんの言う通りだったら、金を払う」
 違っていたら、ふたりで考えよう。そう言おうとしたが、舌が乾いてうまく言えなかった。



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 暁登を駅に降ろしてすぐ、車を路肩に停車させたまま樹生は自分のスマートフォンを取り出した。検索サイトを開き、先ほど暁登のメールを見た際に得た情報を入れてゆく。メールアドレスとユーザーネームぐらいしか得てはいないが、それでも探っていくと当たった。表示された検索結果のひとつを樹生は開く。淫猥な広告のバナーがたくさん貼られたサイトだった。
『ヤシオ 二十歳 身長百七十五㎝ 体重五十二㎏ 痩せ型 初めてなのでリードしてくれる人』
 そんなそっけない、要点だけの文面とともにメールアドレスが貼りつけられていた。こんなに無防備ではどんな危険に晒されてもおかしくなかった。昨夜のことを思うとうっすらと背筋が寒くなる。自分が仲間と飲んで楽しんでいた頃、もし暁登の前に相手が現れてあの頼りない体を攫っていったとしたら。雑居ビルの下から消えていたとしたら。暁登があんな風に頼りなげにうなだれていたからつい声をかけたが、痕跡すらなくいなくなっていたら、おそらく自分は暁登のことなど忘れていただろうし、連絡を取ろうともしなかったと、思う。
 貼られた写真は、暁登の腹だった。
 自分で衣類を捲り上げた、そのごつごつとした細長い指も少し写っていた。上からのアングルで、脇腹を中心に撮ってあったが、その肌の滑らかさもさることながら、履いているジーンズの腰回りに息をのんだ。ウエストが緩すぎて、奥まで見えそうで、だが濃く影が落ちているのでよく見えない。
 そそられてしまう自分を最低だと思った。こうやって男を釣ったのだと思うと急激な焦りが湧く。この心臓の高鳴りをどうしてよいのか分からなかった。暁登の体を意識してしまった、初めのはじめだった。
 コンコン、と車のウインドウを叩かれ、樹生は我に返る。訝しそうな顔をした老年の男が立っていて、「M市役所駅前整備係」と書かれた腕章をつけていた。樹生は慌ててスマートフォンを仕舞い、ウインドウを下げる。
「ここねえ、駐車禁止なんですよー」と男はやたらと大きな声で言った。
「すみません。すぐ動かします」
 頭を下げ、樹生は車をゆっくりと発車させた。もしかしたらスマートフォンに表示されたいかがわしい内容でも見られたかもしれない。街中ですべきことではなかったのだが、一刻も早くと焦っていた。
 帰宅してすぐにスマートフォンを開いた。暁登のあの腹の写真をもう一度見たいと思ってしまった自分はどうしようもない。衝動に突き動かされて樹生はサイトを開いたが、もうそのページにたどり着くことは出来なかった。情報はどんどん更新される。淋しさや性衝動や気の迷いや詐欺、そんなものを書き込む輩は本当に多く、暁登は静かに埋もれてしまった。樹生は諦めてスマートフォンを放った。
 絶対に暁登へ連絡を取って、また会おう。会いたい。会わなければならない。そう決意して、少しだけ眠った。


「――なんでそんなこといきなり言い出したの?」と、再会とその後のことを会話した後で、暁登に尋ねる。暁登は「なんとなく」と答えた。
「今日は早先生のところに作業しに行ったわけじゃなかったから、先生とお茶飲みながら喋ってて」
「うん」
「先生が、亡くなったご主人のことを話してくれたんだ。これってさ、結構珍しいんだ。先生の所に通い始めて一年? 二年は経たないけど、なんかまあそんくらいで、おれはそういう話をあんまり聞いたことがなかった。早先生の中ではまだご主人てのは生きたままの人で、語るのも辛いとか、そういうのなのかなって勝手に想像してたんだけど」
「……」
「今日はするっと話してくれたんだ。よく本を朗読し合ってたって。声のいい人だったからその時間が心地よかったって。早先生もやっぱ先生やってただけあるよな。あんまり声を荒らげない人だけど、声の通る人だと思う。だから余計にあんたの声が聞きたくなった、無性に」
「待て待て、なんか飛躍がないか、いまのところ」
 ふたりが本を朗読し合っていた話から、樹生と暁登の出会いの話は結び付かない。けれど暁登は楽しそうに笑った。
「要するに、早先生とご主人の関係を、いいなと思ったんだ。思ったらあんたのことがすごく恋しくなった。おれたちにも『いいな』って思えるところないかなって、確認したくなったんだ」
「それで昔話?」
「かな。あとはあんたの声のこと。あんたの低い声、特に寝起きとか、熱とか出してるときとかの、掠れてさらに低くなってる音。あれがいい」
「……聞きたくなった?」
「毎日聞いてるのにな。不思議と飽きない。毎日いいって思ってる」
 今日はやけに素直だな、と樹生は思う。調子がいいのだろう。雨の日でもこれだけ元気でいてくれると、病に伏せっていた身にはなんだか存在が染みた。


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 樹生の車に乗り込んでしばらくして、暁登は「でも」と言った。先ほどの続きがあるらしかった。
「ん?」
「岩永さんの方がすごいと思います。学歴から言ったらおれの方がいいかもしれないですけど、……でもいまは正社員で、ちゃんと働いています。おれはただの引きこもり。あの、……岩永さんの働き方って、憧れで」
「なにがよ」樹生はつい笑ってしまう。だが暁登は真面目だった。
「線引きができるところというか。岩永さんって教え方も上手いし面倒見いいですけど、適当に放り投げるし、見ないふりもしますよね。判断が早くていつも冷静で、それって会社のシステムや状況を理解してなきゃできないし、頭の回転が速くないとやっぱりできないと思う。コミュニケーションも上手いし、おれみたいに、言葉に詰まったり選んだりってことがないなって。……なんでもできるな、って、思っていて……」
「べた褒めだね」
「尊敬しているんです」
「おれ程度が尊敬の対象なんかじゃだめだよ」
 樹生は笑ったが、暁登は不服そうでもあった。その時、暁登のスマートフォンが震えた。実は先ほどから気になるほど、暁登のスマートフォンはひっきりなしになにかを告げていたのだが、暁登は知らんぷりだった。しつこく鳴動するこれが気になり、ついに「出なよ」と言ってやった。
「いや、電話じゃないです。多分、メール」
「だから確認しなって。急ぎの連絡かもだろ、」
「いまのおれに急ぎの用件がある人なんか、いないです」
 と、暁登はスマートフォンを取り出そうともしない。樹生はハンドルに腕を置き、そのまま顎を乗せる。「あー、そう」
 だが、暁登の言葉に反して、スマートフォンはバイブレーション機能を発揮させる。静かな車内に響くので、樹生が焦れて「だから確認しなって」と言った。
「それとも確認したくない用件? 借金取りからとか」
「……」
「え、借金してんの?」
「してません」
 と、暁登はきっぱりと否定したが、樹生の言った「確認したくない用件」であるのだろう。そこまで考えて、樹生は「あ」と勘づく。「もしかして、昨日のアレ?」
 暁登は瞬時に表情を変え、わかりやすくうつむく。嘘のつけない性格は好ましいが、この青年のこの先のことを考えると嘘ぐらいはつけた方がいい。なんだかやるせなくなった。
「それ、メール? LINEとかじゃない?」
 と尋ねると、暁登は小さく頷いた。
「――パソコンのフリーメールです。登録用に取得したやつで、スマホにアプリ入れてあって。それがうるさいだけです」
「そのアドレス宛に頻繁にメールが届く?」
「……そう、ですね」
「見てもいい?」
 と訊いたが、さすがに頷くわけがないと思った。しかし樹生の思惑に反して、暁登は少しの間を置いてから頷いた。スマートフォンをようやく取り出すと、とんとんと指で操作して、画面を差し出す。「どうぞ」
 どうぞと差し出されてもな、と思ったが、見てもよいかと尋ねたのは自分である。メールの中を見ると、下品なタイトルのメールばかりだった。どういうところに登録したのかまでは不明だが、おそらくその時点でアドレスを基本とした暁登の情報は抜かれているのだろう。セックス、セックス、セックス、金金金、セックス。おおむねそんな内容だった。こんなのを受信すること自体が無意味だ。
「とりあえずこのメールのアプリ、消すよ」
「え」
「アンインストールするだけ。やかましいだろ」
 暁登はなにも言わなかった。「それとも困ることがある?」と訊くと、諦めたように首を横に振った。樹生は暁登のスマートフォンを操作して、即座にアプリケーションを消した。
「なあ」気になっていたことを訊くことにした。「どういうところに登録したの?」
「……よく、わかんないです。登録っていうか、掲示板みたいなところに書き込んだ感じで」
「それ、まだ消してない?」
「……はい、」
「おれも見ていいかな」
「――嫌です」
 これにははっきりと否定する。
「なんで? メールはよくて書き込みは駄目?」
「駄目なんじゃなくて、嫌なんです」
「……だったら、おれが塩谷くんの気持ちを無視しても、見るのはいい、ってこと?」
 そう言うと、暁登は「岩永さんはおれが嫌なことをしません」と答えた。
「わかんないよ、人なんて」
「岩永さんは、しません」
「……あのさ、そういう信頼? とか、さっきの尊敬とか、いったいどこから来てるんだ?」
 樹生はややうんざりしながら尋ねる。自分はそんなたいした人間ではないと思うからだ。卑下するつもりは全くないし、自分に自信がないわけでもない。ただ、事実。暁登が自分のことを飾って見ているのだとしたら、それはやめてほしかった。
 暁登はうつむいていたが、顔をあげた。樹生の目を真正面から捉えて来る。黒縁の眼鏡の奥の瞳はなんだかわけの分からないものに燃えていて、迫力に樹生は思わず圧倒される。先ほどまで冷めたような、諦めたような態度だった人がいきなりこのような目をする――それは震えるほどに、強かった。
「おれは岩永さんを、心から尊敬しています」
 樹生の問いの答えにはなっていなかった。けれど樹生は「そうか」と頷き、車を発進させて来た道を戻った。



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「少し、話してもいいですか?」
「いいよ」
「おれ、本当は大学に行きたかったんです。大学行って、国際系の仕事に就きたかった。だから高校は進学校を選んで」
 と、暁登はこの辺ではかなり偏差値の高い有名校の名を挙げた。その高校は英語教育に力を入れていて、留学制度を熱心に取り入れている学校でもあった。
「でも、なんか学校生活がうまくいかなくて。……勉強は好きでしたけど、こう、クラスメイトと仲良くするとか、委員会や部活動に力を入れるとか、そういうのがあんまりで。そうやってたら、クラスから浮いて」
「うん」
「別にいいかな、とは思ったんです。学校は勉強するところだから、勉強さえできていれば、って。でも、周囲の環境に一向に馴れないことにだんだんストレスを感じるようになって、……だめになってきて。あんまり食べる気がしないとか、眠れないとか、学校へ行くのに足がこわばったり、クラス内の音が増幅されて、まるで騒音聞いてるみたいに苦痛に感じたり、……そういうのが毎日続いて。学校に通えなくなりました」
「……でも、卒業はしたんでしょ?」
「かろうじて。でも成績なんか本当に底辺でしたし、日数もぎりぎりで、……高校卒業のころは、もう、ほとんど引きこもり状態。大学受験なんかできるわけなくて、」
 それを聞いて、樹生はなんとなく理解したように思った。暁登が高校卒業後すぐに就職せず、秋に中途採用で雇用された理由だ。
 暁登も「卒業して半年ぐらいは引きこもってました」と言ったので、確信に変わった。
「じゃあ、局に入ったのが本当に初めての就職だったのか」
「そうです。このまんまじゃだめだってずーっと思い続けてて、でもどうしていいのか分からないし、家を出る気力も金もない。そしたらちょうどポストに配達員募集のチラシが入ってて。家からいちばん近いところの集配局だったから、とりあえず実家から通えるならいいんじゃないか、って両親にも言われて。だから応募しました」
 それで暁登と樹生が出会うことになる。「岩永さんに丁寧に仕事教えてもらったから、なんとか続いてたんですけど」と暁登は続けた。
「……岩永さんいなくなって、代わりに転勤してきた正社員の人の当たりがきつくて。リーダーともどんどん噛み合わなくなって、苛々するし、朝起きて心臓が痛かったり、ずっと緊張してたりで、……だから結局、続けられませんでした」
「……仕方がないんじゃないかな」
「でも、また結局は引きこもりに後戻りですよ」
「いま、なんにもしてない?」
「……朝早く起きて、ちょっとだけ新聞配達の仕事をしています。これは親戚が新聞店をやっているので、そのコネみたいな。小遣い稼ぎ程度です」
「なんだ、してんじゃん」
 樹生は暁登の背中をポンポンと叩いた。
「高校出て、バイトして。充分なんじゃない?」
「でも、」
「おれなんか中卒だから」
 と言うと、暁登はさすがに意外だったらしい。「え」と台詞には驚きの色が滲んだ。
「……四大とか、普通に出てたんだと思ってました」
「いや、中卒。でも中学もほぼ行ってない。小学校の中学年ぐらいから学校とかそういうの、無縁」
「……なんで、ですか?」
「んー、アトピーがひどかったせいかな。生活に支障が出るほどじゃなかったけど、肌のことで笑われた。それが嫌でさ」
 と樹生は笑って見せた。これは本当のことで、嘘は言っていない。学校へ行かなかった理由は、アトピーで常に肌が荒れていたのをクラスメイトに「汚い」と言われからかわれたことで、こんなやつらと同じ空間にいて仲良くしてかなきゃならないのを面倒くさいと思い、時間の無駄だと思った。周囲はほかに理由を見つけたがったが、樹生の中では単にそれだけだった。
「だから高校まで行って卒業したっていう塩谷くんは偉いよ。おれなんか大学に行こうっていう夢? 将来の目標? そういうのすら全くなかった。ないままなんとなくいまの職に就いてやってんだからさ」
「自分のことを偉いとか、思わないです」
「思っときなって。立派だよ、おれよりはるかに」
 暁登はそこで黙った。風が次第に強く吹き始め、寒さを感じていた。「車に戻るか」と言うと、暁登も頷いて弁当のごみを片付け始めた。



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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