忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「岩永さんは煙草っていつ覚えました?」
 火を点けて一息吐いたところで暁登はそう訊いた。
「んー、十七とか、八とか、その辺だったかな」
「じゃあ、未成年ですね」
「そうだね。でもみんな黙ってるだけで割とそんなもんじゃないかな」
 煙草を吸いながら樹生は答える。暁登はしばらくその姿をぼんやりと眺めていたが、やがて口を開く。「おれももう、煙草吸えます」
「――え? 塩谷くん、煙草吸うようになったの?」
「あ、年齢の話です。六月に二十歳になったんで。飲酒も煙草も解禁です」
「あー、成人したっていう意味か。おめでとう」
 樹生は指で挟んでいた煙草の吸い口をたわむれに暁登へと差し出し、「吸う?」と言った。もちろん冗談のつもりだったのだが、暁登は煙ののぼるそれをしばらく見つめていた。真剣で、あまりにまっすぐで強い色を放つ瞳に吸い込まれそうで怖かった。
「冗談、冗談。塩谷くんが煙草吸ったり酒飲んだりするのはさ、正直おれにはあんまりイメージ湧かないわ。実際、飲んだり吸ったりしてんの?」
「いえ、……飲酒は、成人したときに父親にもらって、してみました。けど、ビールの味の良さがよく分からなくて、それきり。それに多分、アルコールに弱いんだと思います。貧血も起こしちゃって、」
「あらら」
「すごく気持ち悪くなって、目の前が暗くなって、耳鳴りがひどくて。しばらくトイレから出られなかったんですよ。それが初飲酒の思い出」
「あー、そりゃ飲まない方がいいね」
 樹生は携帯灰皿に煙草の灰を落とし、また吸う。
「でも、飲めたり吸えたりした方がストレスをうまく逃がせるなら、そうした方がいい気がしてます」
 と暁登は真顔で言う。それこそ真面目な意見で、樹生のように「なんとなく興味を持って吸い始めてやめられなくなった」とは根本的に違う。飲酒や喫煙をそんな風に考えたことがなかった。樹生は「やめときな」と暁登に言う。
「百害あって一利なし、っていうでしょ。体にいいわけないし、金だってなんだかんだで地味にかかるしね」
「でも岩永さんは煙草も吸うしお酒も飲みますよね。昨夜も飲んだんでしょう?」
「おれはおれで、塩谷くんは塩谷くんだ。まあ、……おれが言っても説得力はないよな。塩谷くんが飲むなら飲む、吸うなら吸うで、止められない。自由だ」
「じゃあ、教えてください」
「おれが? なにを?」
「煙草の吸い方」
 あんまりにも思い詰めて言われたので、樹生は吹き出した。
「やだよ。教えない」
「どうしてですか」
「塩谷くんには教えたくない」
 と言ったが、手はポケットの煙草の箱をまた探っていた。それを暁登に渡す。
「ほら」
「……言っていることとやることが、違いませんか」
「そうだね」
 暁登は渡された煙草の箱をしばらく眺めていたが、やがて「火、ありますか」と訊いてきた。
「チャレンジ?」
「はい」
 ほら、とライターも渡す。暁登は不慣れな手つきで煙草の箱を開けるも、「入ってない」と言った。
「岩永さん、空です」
「あれ? そうだっけ?」
 暁登に返された煙草の箱を見ると、確かに一本たりとも入ってはいなかった。
「そっか、これが最後か」といま手にしている煙草を見て言った。ゴミ箱がなかったので空になった箱を後で捨てようと思い、ポケットに入れた、そのことをいまさっきのことだったのに、忘れていた。
「じゃあやっぱりこれ吸う?」
 と随分と短くなった煙草を差し出すと、暁登はそれを親指と人差し指でつまんで受け取った。そのまま唇に近づける姿は、煙草を吸うにしてはちょっと貧乏じみていた。
「そうじゃなくて。人差し指と中指で挟むんだよ」
 こう、と暁登の手を取って教えてやる。暁登は手にした煙草の吸い口を唇に寄せて、こわごわ吸った。吸って、案の定むせた。
 ごほごほと咳き込みながら「やっぱいいです」と樹生に煙草を寄越す。樹生はそれを吸いきって、携帯灰皿に押しつぶした。
「な、やめときなって」
「……でも、馴れかもしれないです」
「いや、塩谷くんは吸わない方がいいよ」
 と、根拠もなく樹生は言った。暁登は不満そうな顔をしたが、ペットボトルの茶を飲むと、ふっと息を吐いた。
「軽蔑しましたか、おれのこと」と言う。
「なんで?」
「めちゃくちゃだから」
「ああ、昨夜のこと?」
「それもそうだし、……色々と、ぐっちゃぐちゃで」
 消え入りそうな声で、暁登は言う。うなだれてから、それでも意を決したように顔をあげた。



→ 18

← 16




拍手[9回]

PR
「未遂でよかったよ、ほんと」
 と、樹生はあの時のことを思い出してしみじみと言った。買春なんて、ばかなことを考えたものだと思う。けれど当時の暁登の状況のことを考えるとあまり笑えもしない。精神的な脆さから、暁登は配達員の職を辞めた。元々、その集配局のリーダーとはあまり合わず、樹生が間にいてこそ続いていた職だったと後になって聞いた。辞めてからはまともな職にありつけず、アルバイトに挑んでは短期で辞めることを繰り返していた。実家暮らしですねかじりの身であることが辛く、その辛さはストレスを悪化させる。「金が欲しかった」の台詞は、切実なものだった。暮らしてゆくには、金が要る。


 再会の翌日の昼にはもう顔を合わせていた。前の職場の飲み会の際、暁登は未成年であることを理由にいつも運転手をさせられていて、だからか樹生の中で暁登を夜の繁華街に誘い出すイメージが全くなかったのだ。実際には暁登はその夏のはじめに二十歳を迎えていたのだが、そこまで考えが及んでいなかった。
 それに樹生自身が、暁登を昼間の明るさの前に引きずり出して、安心したい気持ちもあった。それほど昨夜の暁登の姿は不安定で、痛々しかった。
 指定した待ち合わせ場所は樹生のアパートの最寄り駅で、暁登は公共交通機関を利用してやって来た。樹生の後輩だった頃の暁登は職場まで自家用車で通勤していたから、車はどうしたのかと聞けば、あまり使っていないという。
「少し前に父親の車が車検だったんですけど、もうかなり古かったから車検には通さずに廃車にしたんです。おれの車はいま、主に父親が使っています。あまり……おれには、必要のないものになってしまったので」
「……バイト先とか、どうしてるの、」
「昔乗ってた原付引っ張り出して使ってます。それで充分ですから。今日も実家から駅までは原付で来ました。で、駐輪場に駐めといて、電車でここまで」
「そっか」
 暁登を助手席に乗せ、車を発車させた。郊外へと向かい、昼飯の予定をちょっとしたドライブに変更した。店内よりも車内の方が暁登の話をちゃんと聞き出せる気がした。
 昨夜の雨が嘘のように晴れて気持ちのよい日だった。洗われた青空がたまらなく綺麗で、より空に近い道を行った。高原の有料道路を走る。
 途中で適当に弁当と飲料を買い、道をひたすらに走る。まもなくやって来る冬、この道は閉鎖される。雪の深い地域であるためだ。
 車内で暁登は黙り通した。黙ったまま、有料道路のほぼ頂上付近にある見晴らしのよい公園に立ち寄り、外へ出てベンチで弁当を食べた。腹を満たしペットボトルのお茶で一息つき、樹生は暁登に言葉をかけた。
「少しは気分転換になった?」
「……」
「風が乾いてて気持ちいいな。ま、ちょっと寒いか」
 すると暁登は小さな声で「はい」と答えた。「寒い」に賛同したのだと思い、「戻る?」と駐車場の方を指差すと、暁登は「いえ」と言う。
「昨夜は、すみませんでした」
 頭を下げられた。
「……謝られるようなことはなんにもないよ」
「久しぶりに会って、最低なところ見せて、おまけに今日も甘えました。岩永さんにも研修会の疲れとか休日の予定とか色々ありますよね。なのに誘ってくれて、ご迷惑をおかけしている、から」
 もう一度、暁登は頭を下げた。樹生は無意識にポケットの煙草を探っていた。指がコツンと煙草の箱の角を捉えて、自分が喫煙したいのだと認識する。「吸っていい?」と訊ねると暁登は頷いた。


→ 17

← 15



拍手[9回]


 樹生が何故その街にいたかと言えば、職場絡みの研修会があったからだった。この地域では一番大きな街で、研修施設もそこにあった。樹生は他の集配局で働く同期の仲間数人と連れ立って駅への道を歩いていた。研修は終わり、飲んで帰ろうぜ、ということになったのだ。
 そこで暁登と再会した。唐突な再会にうろたえていたのは暁登の方で、樹生はと言えば懐かしい気持ちの方が強かった。
 暁登は繁華街の雑居ビルの前で、寒そうにしながら立ち尽くしていた。通りかかった樹生は思わず「塩谷くん」と声を掛けた。「なんでこんなところにいんの」とか「元気?」とか、一方的に喋った。
「あの集配局辞めたって聞いたから、もったいないなって思ってた。いまなにしてんの? この街に住んでるとか?」
 と樹生は訊ねた。が、暁登は歯切れの悪い返答ばかりで目を合わせようとしない。
 仲間が樹生を呼んだ。樹生自身も、このかつての後輩にあまり歓迎されていないようだと分かったので、「じゃあ、またね」と言ってその場を離れた。
 終電に間に合う時間ギリギリまで仲間と飲んだ。仲間らはこのまま恋人の家に直行するとか、遠いからホテルを取っているとか、とにかく帰りはバラバラになったので、飲み屋の前で別れて樹生は駅への道を急いだ。と、そこでまた暁登の姿を認めた。先ほどと同じ雑居ビルの庇の下で、先ほどとは打って変わってしゃがみ込んでいた。
「塩谷くん?」と樹生は声をかける。さすがに見過ごせなかった。「大丈夫?」
 暁登は顔を上げた。酷い顔色で、寒さなのか緊張だったのか、震えていた。
「なあ、……どうしたんだよ。具合悪いの? 立てる?」
「……」
「とりあえずここにいない方がいいと思うんだけど、」
 と、暁登の痩せて尖った肩を掴んで立ち上がらせた。暁登は大人しく立ったが、あまりにも震えていたので、肩に添えた手を離せなかった。
「……待ち合わせた人が、いるんです」と暁登は小さく言った。雨音に消されてしまいそうな音量だった。
「でも来なかったから、多分おれが嫌だったんでしょう」
「……」
 恋人でも待っていたのかとはじめは思った。暁登は「帰ります」と言って樹生の手から逃れるように歩き出したが、傘も差さないしそもそもそんなものを持ってすらいなかった。樹生はその頼りない背中を慌てて追いかける。
「帰るってどこに?」と聞くと、暁登は「家です」と答える。実家暮らしなのは前の職場の頃から変わらないらしく、ならば同じ方向の電車だと分かった。終電まで間がない。樹生は「おれも帰るからさ、一緒に行こう」と言って、ふたりで雨の中を小走りに駅へと向かった。
 終電は、混んでいた。けれど次第に人が降り、車内が空いてきたのでふたりでシートに並んで座った。
 暁登はずっとうなだれていた。うなじに浮いた脊椎の出っ張りを見て、なんだか切ない気分になったのをよく覚えている。
 なにか喋った方が良いような気がして、樹生は「誰を待ってた?」と訊ねた。
「おれの春を買ってくれるはずの人」と答えられたので、意味が分からなかった。笑おうかとも思ったが、声のトーンが暗かったので樹生も真面目に訊ね返した。「どういうこと?」
「体、売ろうとしてました」と暁登が言うので、樹生はぎょっとした。
「――え?」
「ネットに登録しておくんです。顔写真は怖くて載せられなかったけど、体の一部とかは載せて。あとは身長とか体重、スリーサイズに顔立ちの傾向とか、体型とか」
「……塩谷くん、それは、」
「で、連絡先と。それを見て向こうがコンタクトを取ってくる。日時と場所と目印決めて。待ってて、」
 暁登は淡々と語った。樹生は驚きながらも暁登の告白を真剣に聞いた。
「……誰も来なかった。怖じ気づいたか、からかわれたか、……ひょっとしたら来たけど、おれが好みじゃなくて引き返したのかも」
「……それ、相手は男? 女?」
「どっちだろう。やり取りだけだったら男だと思ってましたが違ったのかもしれない。どっちでもいいです。金が、欲しかった」
「……こういうの、もう何度もしてるの」
 暁登は首を横に振る。それには樹生もほっとした。
「はじめてで、……すごく緊張してて……だから、岩永さんが通りかかったとき、」
「うん」
「見られて最悪だと思ったのと、安心したのと、どっちもあって――」
 ず、と暁登は洟をすすり、それでこの男が泣き始めていることを知った。樹生は必死で背中をさすった。知らない間に、かつての後輩はこんなにも追い詰められてしまっていた。
 このまま実家に帰してしまってよいものか、真剣に考えた。樹生が当時住んでいたワンルームに狭いけれど来るかと訊ねたとき、暁登はそれでも健気に首を振った。
「じゃあ塩谷くん、約束して。今夜は家に帰る。絶対に実家に戻る。風呂入ってあったまって、寝る。よく休む」
「……」
「明日はなにか予定がある?」
「……いえ、」
「なら明日はおれも非番だからさ。どっかでめし食おう。えーと、連絡先って変わってないよね」
 と樹生はスマートフォンを操作した。暁登と最後に連絡を取ったのはいつだったか。業務上の連絡だったと記憶する。タッチパネルを下へとスクロールしていけば、何人もの「友だち」に埋もれてはいたが暁登の名前が出て来た。
「よし。じゃあ、また明日」
「……」
「なに食いたいか考えておいて」
 いいね、と念を押すと、暁登は小さく頷いた。多少強引だとは承知で、でも放っておけない。そのまま電車を降りるまで、暁登の背を優しく、一定のリズムで叩いていた。暁登はずっとうなだれて顔を上げなかったが、泣き止んだ。


→ 16

← 14



拍手[7回]


 汗が不快で目が覚めた。最初に視界に映ったのは見慣れた天井で、ああそうか、医者に行って帰って来て寝ていたんだと樹生は現在の状況を思い出す。体を起こすと、思いのほか軽かった。辺りは薄暗く、いまが夕方なのか朝方なのか分からない。枕元に置いたスマートフォンを確認すると、十六時四十二分の表示だった。
「あ、起きたな」と、部屋の扉が開いた。暁登が手にマグカップを持って入ってきたのだ。よく見れば樹生の寝ていたベッド下に、毛布とクッションと本が置かれていた。
 暁登はカーテンを閉め、代わりに明かりを点けた。「飲む?」とマグカップを差し出してくる。
「なに?」
「ココア。あんたの買い置きの。おれが飲もうかなと思って淹れたけど、あんたが飲むならいいよ、これ飲んで」
「じゃあ、もらう」
 カップを受け取り、一口飲む。甘さが喉に浸みた。
「調子は?」と暁登の手が伸びた。汗ばんでべたつく額に躊躇なく触れた手は冷たく、気持ちがよかった。
「そんなに熱くないな」
「熱は下がったと思う。体が軽いし、汗もかいた」
「一応、体温計で測れ」
 スマートフォンと一緒に枕元に置かれていた体温計を腋窩に差し込まれた。しばらくして体温計は音を鳴らす。体温は三七度台まで下がっていた。
「まだ少しはあるか。でも悪くないな」
 数字を見て、暁登は安心したようだった。再び部屋を出て行く。しばらくしてまたマグカップを持って現れた。今度こそ自分で飲むつもりなのだ。
 暁登はそのまま、当たり前のように樹生のベッドに背をもたせ、クッションを尻に敷いて座り込んだ。分厚い本をめくり出す。
「ずっとこの部屋にいた?」と樹生が訊ねると、「まあな」と暁登は答えた。
「本が読みたかったから」
 と暁登は言ったが、そんな答えは理由にもなんにもならなかった。熱で苦しい時に暁登がずっと傍に着いていてくれていたことが嬉しい。ひとりではなかった。
 暁登が開いている本は厚い。なにをそんなに熱心に読んでいるんだか。体をずらして上からのぞき込むと、暁登は「ああ」と気付いて本の表紙を見せてくれた。
 表紙を見て、息が詰まった。
「――」
「知ってる? ミヒャエル・エンデ。早先生のご主人の蔵書の中から攫ってきたんだ」
 暁登は懐かしそうに本のページをペラペラとめくる。
「って、あんたは本には興味なかったんだよな。知るわけない」
「表紙だけ知ってる」
 暁登の台詞を変に遮るようになってしまったが、今更取り消せなかった。
「面白いよ、って渡されたけど、全く興味を持てなくてさ。読みません、って返したよ」
「……誰に?」
「誰だったかな。忘れた」
 と、適当に答える。本当は覚えている。これを寄越した人には恩を感じてはいたが、なかなか馴染めなかった。本を返却したときは、少し勇気を出した。もらったけど読んでいません、よりは誠実だろうと決意して返した。返したとき、あまり表情の分からない人だったが、淋しさを感じていることは伝わった。だがその人は「そうだね」と言った。「きみのそういうはっきりとしたところはとてもいい」と言われ、その人のことを少しだけ好きになった。
 暁登は不満そうな顔をしていた。それを無視して毛布を引き上げ布団に潜り込む。と、暁登が「なあ」と声をかけてきた。
「初めて会ったときのこと、覚えているか?」
「おれと暁登が?」
「そう」
 意外なことを訊ねられ、樹生は頭を巡らす。はっきりしたことは覚えていなかった。
「あんまり。秋頃の採用だったのは覚えてる」
「そんなもんだよな。おれもぼんやりしてる。緊張してたし」
「あき、いまいくつだっけ?」
「二十二歳」
「じゃあ、三年前か」
 樹生が正社員になって一年か二年が経った頃で、まだ転勤する前でもあった。人手が足りないと言って配達員の募集をかけていたところにやって来たのが暁登だった。正社員いう立場であったので、暁登に仕事を教えたのは樹生だった。
 その時はお互い恋愛感情なんてものは持ち合わせなかった。ただの先輩と後輩、もしくは上司と部下か。暁登は樹生をよく頼ったがそれは樹生が教育係だったからで、それ以上もそれ以下もなかった。
 暁登とは、そのまま半年ぐらい共に働いた。樹生が異動となり、その職場を去ってふたりは自然と会わなくなった、はずだった。
「再会したときは?」と暁登が問いを重ねる。それはとてもよく覚えていたから、樹生は思わず笑った。
「あきが無茶苦茶だった」
 と言うと、暁登は「切羽詰まってた」と、しれっと言う。
「あれが二年前?」
「そう」
「雨の日で」
「降ってた。すげー寒くて」
「終電で一緒に帰った」
「うん」
 樹生はその日のことなら鮮明に覚えているし、何度でも思い出す。なにぶん、その街で再会した暁登の、その街にいた理由が凄かった。暁登は雨の中、その痩せた細い身を知らぬ男に売ろうとしていた。売春を試みていたのだ。


→ 15

← 13



拍手[8回]


 先に台所に戻った早は、テーブルの上に叩き終わった豆を置き、かたちが悪かったり上手く育たなかったりした欠損豆と良い豆とを選り分けた。これをしておくと、正月用に黒豆を煮る作業がすんなり出来る。ひとり暮らしのいま、それでも早は暮れになれば年越し蕎麦を食べるし、新年が明ければ用意したおせちを食べる。さすがに重労働なので餅はつかずに買うようになったが、蕎麦やおせち料理は自分の手で用意する。
 早の知り合いには、そういうことをやめてしまった人が何人もいる。病気など心身の理由でそれが出来ない人、嫁や孫にその座を譲ってやらなくなった人等、理由はそれぞれだ。だが早は、ずっと続けて来たことをやめてしまうのが嫌だった。卒中などで倒れでもしたら諦めるかもしれないが、子どももいない身である。気ままな人生を最後まで楽しみたい気持ちがある。
 芋は焼けたが、暁登が戻らないのでもう少しと作業を続けた。昼前に掛け時計が鳴り、早はようやく顔を上げる。同時に暁登も戻ってきたので、お芋を食べませんかと暁登を誘う。
「あ、甘い」席に着きほっこりと焼き上がった芋を口にして、暁登が感想を漏らす。
「おいしいですね」
「これ、早先生が育てたんですよね」
「そうです。『紅はるか』という初めて育てた品種ですが、美味しく出来て良かった」
 ふたりで黙々と食べる。これが昼食になってしまいそうだった。
 食べ終わると同時に、暁登のスマートフォンが鳴った。メールなのかなんなのか、その画面を操作して暁登は「岩永さん」と言った。
「診察、終わりました?」
「みたいです。これから会計と薬局だって。おれ、行きますね」
 ごちそうさまでした、と暁登は丁寧に掌を合わせて頭を下げる。早は微笑んでその若い背中を見送る。と、玄関へと進みかけた暁登が立ち止まる。
「これ、持って行きますがいいですか?」
 と暁登は本を二冊早に見せた。分厚い本はミヒャエル・エンデの「果てしない物語」「モモ」。どちらも日本語版だった。
 早は頷きつつも、不思議に思っていた。この本がこの家にあることを知らなかったのだ。おまけに原書ではなく翻訳されたものだ。本は新しそうではなかったが、かといって読み込まれた様子もない。
 どんな言語の本でも読み漁っていた夫が、当時大流行した児童文学小説――とりわけ日本語に訳されたファンタジー小説、を購入していたことが不思議でならなかったのだ。
「懐かしいです」と暁登は本の表紙を撫でて言った。
「これ、同じものがおれの実家にもあるんです。子どもの頃に読んだけど全く理解出来ませんでした。また、読んでみようかな、って」
「これも本棚にありましたか?」
 と訊くと、暁登はきょとんとしながらも「隅の方にありました」と言う。
「あ、……持って行ったら駄目ですか?」
「いえ、構いません。ただちょっと、私はその本の存在を知らなかったので」
 というと、暁登は不思議そうな顔で後頭部をカリカリと掻いた。
「ですが、夫の蔵書のほとんどを私は把握していませんので、それもそのうちのひとつなんだと思います。持っていってください。本は読まれた方が幸せです」
 暁登は安心したように頷き、では行きます、と言って早の家を去った。早はしばらく考え込んでいたが、ひとつ思い当たって思わず「ああ」と漏らす。
 おそらく夫はこれをたったひとりの少年の為に買った。
 少年はアトピーが酷く、いつも肌を荒らしていた。そのせいでクラスメイトにからかわれ、それが嫌で学校に行かなくなった。家にいて時間を持て余していた少年を、夫なりに元気づけたかったのかもしれないし、もしくはなかなか懐かない少年と仲良くなりたかったのかもしれない。
 これを夫は少年に渡したのか、渡さなかったのか、渡せなかったのか。早が知る限り、少年は読書には縁遠く、興味も持たなかった。だからおそらくこの本を読みはしなかったのだと思う。
 全ては想像だ。いまとなっては知る由もない。けれど今日、暁登がこの本をあの家に持ち帰ることはきっと、意義あることだと思えた。


→ 14

← 12


拍手[8回]

«前のページ]  [HOME]  [次のページ»
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501