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「最近、おかしい」
「おかしい?」
「はい。ずっと黙っていて、話しかけても難しい顔をしているから話すのを諦めます。なにかあるのかあったのかだと思うんです。でもそれをあの人は、おれには話してくれません」
何か知っているか、と訊かれたが、早には分からない。樹生には会っていないし、連絡もなかった。
ただ、何も思い当たらないかと訊かれれば、答えは違う。大雪の日に不意に訪れた茉莉のことが引っかかっていた。秋に「茉莉は復讐に向かっている」というようなことを樹生は漏らしている。あの姉弟の、とりわけ姉の、長年の望みが叶うことを早は危惧していた。
「お仕事で疲れているんじゃないですか?」と言ってみたが、暁登は納得しかねる、という顔で鼻から息を漏らした。
「仕事自体はいま、そんなに忙しくないと思います。年末年始はばかみたいに働いてましたけど、いまはゆるゆると休みもあるみたいだし」
「そうなんですね」
「ちょっと隙があると、重たい顔して溜息なんかつくんです。明らかになにかあると思うんですが、訊くと『別に』ってはぐらかされます」
確かに、と早は遠い昔のことを思い出す。何か憂鬱なことがあると、樹生という男は黙する。不満を口にしたり、おしゃべりに興じるタイプではないのだ。
「あんまり食べないで煙草ばっかりふかして。テレビなんかろくに見てもないのに点けっぱなしでぼーっとしてて。ふらっと出かけたと思ったら財布を空にして帰って来るから、多分パチンコかスロットかその辺なんだろうな、と思っているんですが」
その姿は容易に想像がついたので早は苦笑した。
「……おれも口うるさかったんだと分かってるんですが、その、……そういうのやめろよ、と言ったら、『おまえには関係ない』と言われてしまって。……おれは岩永さんから信用されていないんだな、と思ったら、辛くて」
ああ、それなのだな、と早は納得した。
暁登の、樹生に対する絶大な信頼は、見ていてストレートに伝わる。暁登は岩永樹生という人間のことを心から敬愛している。ともに暮らす仲であればその信頼はいつ失望に変わってもおかしくないと思うのに、暁登にはそれがなかった。むしろその思いは日を追うごとに強くなっているとさえ感じる。
塩谷暁登という男は自分に自信のない男だ。それでも、初めて早の元へやって来た時のことを思えば、随分と明るく朗らかに笑うようになった。仄暗く瞳だけを血走らせていた力のない青年だったのに、こうして早の気まぐれの外出にも付き合ってくれるようになった。雨の日の頭痛や倦怠感も、以前と比べれば随分と減ったようだ。
樹生との暮らしの中で少しずつ得て来た「自信」なのだと思う。それを与えてくれた相手から「関係ない」と言われれば、暁登でなくても落ち込む。
樹生は暁登のことをどう思うか考えているのか知らないが、早が受け取る感覚としては「溺愛」だ。
暁登のことがかわいくてかわいくて仕方がない。樹生と暁登は年が離れているはずだが、その年下の暁登に対して樹生が見せるのは「甘え」だ。樹生は体こそ大きいがその中身は淋しがりで甘えたがりの部分がある。それに暁登が気付いているのかいないのか、とにかく暁登に対しては、樹生は甘えている節がある。
大事に思う存在ほど、大切に、手の中で温めたいと思うのが樹生という男の性質だ。外の風雨から守り、徹底的にかわいがり、自身も甘えすがる。信頼とか信用ではないのだ。
「あまり暁登さんは気にしない方がいいと思いますよ」と早は答えた。
「樹生さんの自立する力はすさまじく揺るぎないと、よくご存知だと思います。何かに直面していたとして、それをひとりで解決しようとして黙り、実際、解決してしまいます。それだけの自己回復力の強い人なので、きっと今回もそのうちけろっとして笑うようになるんじゃないですか?」
と言いながらも、こんなのは慰めにもならないだろうと思ってはいた。実際、樹生が今どんな状況に追い込まれていて、どれほど思い悩んでいるのかを早は知らない。それを傍らで見ながらも歯がゆい思いをしている暁登のことはいまなんとなく伝わってきたが。
優先順位ならば、いま目の前で怒っている青年の気持ちをなだめる方だろう。
「ですが、暁登さんのような方にとっては、気に病まない方が難しいということも分かります。そうですね……何か樹生さんの気分が晴れそうなことにお誘いしてみてはいかがですか? あまり言葉を介さない発散の仕方の方がよさそうですので、例えば一緒にスポーツをしてみるとか。観戦でもいいかもしれませんね。樹生さんはお風呂が大好きですので、ドライブがてらちょっと辺境の温泉へ行ってみるのも、気分が変わっていいかもしれません」
と話しているうちに降車が迫って来たので、暁登がボタンを押した。硬貨を入れてバスを降りる。ここから家までは五分ほどだが、先日の大雪で地面が凍結している個所もあるので、ゆっくりと歩いた。
暁登は早の荷物を当然のように持ち、早の隣を同じ速度で進む。もっと早く歩けるだろうに、早に添ってくれている。こういう心配りの出来る青年を樹生がかわいがるのも無理はない気がした。暁登の本質は、誠実なのだ。
ザクザクと硬い路面を踏みながら、やがて暁登が「スポーツ観戦、いいと思います」と呟いた。
→ 43
← 41
「おかしい?」
「はい。ずっと黙っていて、話しかけても難しい顔をしているから話すのを諦めます。なにかあるのかあったのかだと思うんです。でもそれをあの人は、おれには話してくれません」
何か知っているか、と訊かれたが、早には分からない。樹生には会っていないし、連絡もなかった。
ただ、何も思い当たらないかと訊かれれば、答えは違う。大雪の日に不意に訪れた茉莉のことが引っかかっていた。秋に「茉莉は復讐に向かっている」というようなことを樹生は漏らしている。あの姉弟の、とりわけ姉の、長年の望みが叶うことを早は危惧していた。
「お仕事で疲れているんじゃないですか?」と言ってみたが、暁登は納得しかねる、という顔で鼻から息を漏らした。
「仕事自体はいま、そんなに忙しくないと思います。年末年始はばかみたいに働いてましたけど、いまはゆるゆると休みもあるみたいだし」
「そうなんですね」
「ちょっと隙があると、重たい顔して溜息なんかつくんです。明らかになにかあると思うんですが、訊くと『別に』ってはぐらかされます」
確かに、と早は遠い昔のことを思い出す。何か憂鬱なことがあると、樹生という男は黙する。不満を口にしたり、おしゃべりに興じるタイプではないのだ。
「あんまり食べないで煙草ばっかりふかして。テレビなんかろくに見てもないのに点けっぱなしでぼーっとしてて。ふらっと出かけたと思ったら財布を空にして帰って来るから、多分パチンコかスロットかその辺なんだろうな、と思っているんですが」
その姿は容易に想像がついたので早は苦笑した。
「……おれも口うるさかったんだと分かってるんですが、その、……そういうのやめろよ、と言ったら、『おまえには関係ない』と言われてしまって。……おれは岩永さんから信用されていないんだな、と思ったら、辛くて」
ああ、それなのだな、と早は納得した。
暁登の、樹生に対する絶大な信頼は、見ていてストレートに伝わる。暁登は岩永樹生という人間のことを心から敬愛している。ともに暮らす仲であればその信頼はいつ失望に変わってもおかしくないと思うのに、暁登にはそれがなかった。むしろその思いは日を追うごとに強くなっているとさえ感じる。
塩谷暁登という男は自分に自信のない男だ。それでも、初めて早の元へやって来た時のことを思えば、随分と明るく朗らかに笑うようになった。仄暗く瞳だけを血走らせていた力のない青年だったのに、こうして早の気まぐれの外出にも付き合ってくれるようになった。雨の日の頭痛や倦怠感も、以前と比べれば随分と減ったようだ。
樹生との暮らしの中で少しずつ得て来た「自信」なのだと思う。それを与えてくれた相手から「関係ない」と言われれば、暁登でなくても落ち込む。
樹生は暁登のことをどう思うか考えているのか知らないが、早が受け取る感覚としては「溺愛」だ。
暁登のことがかわいくてかわいくて仕方がない。樹生と暁登は年が離れているはずだが、その年下の暁登に対して樹生が見せるのは「甘え」だ。樹生は体こそ大きいがその中身は淋しがりで甘えたがりの部分がある。それに暁登が気付いているのかいないのか、とにかく暁登に対しては、樹生は甘えている節がある。
大事に思う存在ほど、大切に、手の中で温めたいと思うのが樹生という男の性質だ。外の風雨から守り、徹底的にかわいがり、自身も甘えすがる。信頼とか信用ではないのだ。
「あまり暁登さんは気にしない方がいいと思いますよ」と早は答えた。
「樹生さんの自立する力はすさまじく揺るぎないと、よくご存知だと思います。何かに直面していたとして、それをひとりで解決しようとして黙り、実際、解決してしまいます。それだけの自己回復力の強い人なので、きっと今回もそのうちけろっとして笑うようになるんじゃないですか?」
と言いながらも、こんなのは慰めにもならないだろうと思ってはいた。実際、樹生が今どんな状況に追い込まれていて、どれほど思い悩んでいるのかを早は知らない。それを傍らで見ながらも歯がゆい思いをしている暁登のことはいまなんとなく伝わってきたが。
優先順位ならば、いま目の前で怒っている青年の気持ちをなだめる方だろう。
「ですが、暁登さんのような方にとっては、気に病まない方が難しいということも分かります。そうですね……何か樹生さんの気分が晴れそうなことにお誘いしてみてはいかがですか? あまり言葉を介さない発散の仕方の方がよさそうですので、例えば一緒にスポーツをしてみるとか。観戦でもいいかもしれませんね。樹生さんはお風呂が大好きですので、ドライブがてらちょっと辺境の温泉へ行ってみるのも、気分が変わっていいかもしれません」
と話しているうちに降車が迫って来たので、暁登がボタンを押した。硬貨を入れてバスを降りる。ここから家までは五分ほどだが、先日の大雪で地面が凍結している個所もあるので、ゆっくりと歩いた。
暁登は早の荷物を当然のように持ち、早の隣を同じ速度で進む。もっと早く歩けるだろうに、早に添ってくれている。こういう心配りの出来る青年を樹生がかわいがるのも無理はない気がした。暁登の本質は、誠実なのだ。
ザクザクと硬い路面を踏みながら、やがて暁登が「スポーツ観戦、いいと思います」と呟いた。
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六. 薄氷を踏む
揃って汁粉を頼むと、店員は「お待ちくださいね」と言ってパタパタと足音をさせて下がっていった。一枚板の大きなテーブルが贅沢だと思う。思わず鼻歌でも出てしまいそうな気持ちになっているのは、これが本当に久しぶりの外出であるからだった。
市街地に昔からある甘味処で、買い物に来ればここへ寄って甘いものを食べて帰った日が懐かしい。外出だからと、久々に指に指輪を嵌めた。老いて細くなった手には不釣り合いな指輪だったが、向かいに座る暁登はそれを褒めてくれた。
「赤が綺麗ですね」
「この赤い石はガーネットです」
「名前を聞いたことはありますが、あんまりこういうことには、興味がなくて」
暁登は申し訳なさそうな顔をしたが、早はふふ、と笑う。
「久しぶりの外出ですから、これでも少し張り切ったんですよ。こんな指輪はね、もう似合わないと分かっているんです。若いころに母からもらったものです。たまにはお洒落でもしなさいと、あの時はこれに合うようなワンピースも一緒に仕立ててくれて」
「そのワンピースは?」
「さすがにもう着られません。いつかのタイミングで処分しました。でも、真っ白い襟が素敵なワンピースでした。よく覚えています」
派手なデザインではなかったので、結構な年齢になるまで大事に着ていた。それを着て夫と出かけた記憶もある。あの時も指にはこの指輪を嵌めた。
いま、こうして早と外出に付き合ってくれるのは、なんの縁なのか、若い男だ。夫が聞いたらどんな顔をするだろう。「早さんやるじゃないか」と唸る夫の表情が見えた気がして、早はくすりと笑う。
二月の初旬で、よく晴れている。今日の外出はつい先ほど決めた。いつものようにやって来た暁登があまりにも浮かない顔――というよりは、なにかに苛立っている刺々しい空気感、でいたので、「甘いものでも食べに行きませんか?」と暁登を誘った。ちょうどよくバスがあったので、それを使って市街地までやって来たのだ。
暁登という男は、定期的に「陥る」。自分の不甲斐なさを歯がゆく思い、落ち込み、食欲をなくしたり眠れなくなったりしている。ただそれは暁登自身にかかわることだった。だからそのたび、「また内側に落っこちている」と心の中で思っていた。
だが今日の暁登は違った。どうも「外側に苛立っている」のだ。暁登にしては珍しく、何かに怒っている。それは自分自身のことではなくて、外側にあるものに対してだ。怒りの対象がはっきりと存在する。それが何であるかを暁登は明らかにしていないが、とにかく彼は怒っている。
冬も終わりが見えそうで、まだ終わらない。陽光は日に日に強くなっていくのを感じるが、風は冷たいし、朝晩は冷え込み、地面は硬い。いつか「この時期が一番消耗する」と言っていたのは、夫の友人だった。彼は農業を営んでいて、冬のこの時期は畑に出られないのだから農閑期なのではと思い込んでいた早には意外な台詞だった。
『そろそろ春の畑の準備をしたいですからね、外へ出るでしょう。風は冷たいけれど陽は長くなり始めているから、外での活動時間が自然と長くなります。ですが体は冬のまま。なまっている体にはきつい、冬の日ですよ』
なるほどな、と思ったものだ。
そういう、季節的なことをこの青年に当てはめていいのか迷うが、無きにしも非ず、といったところだろう。早自身も家にこもる日が続いていたので、正直飽きていた。外へ出てますます消耗するという例もあるが、疲れたら早めに帰って風呂にでもゆっくり浸かればいい。ただちょっとおやつを食べに街へ出てみた。気分転換の散歩の上級版。暁登は嫌がらずについてきてくれたので、楽しい気分になっていた。
やがて店員が盆に椀を乗せて戻って来た。焼いた餅が熱い小豆の汁に浮いている。こうばしく甘い匂いを嗅いで、急激に胃が動いた。「いただきます」と手を合わせて箸を取ったが、暁登は一緒に運ばれた豆皿の上に乗った青菜の漬物を不思議そうに眺めている。
「どうしましたか?」
「なんで漬物が出て来るんだろう、と思って」
頼んでいないものが出て来たので首をひねっている。「お汁粉を外で食べたことはありますか?」と訊くと、暁登は首を横に振った。
「あまりこういう店ってないですし、あっても入ったことはないです」
「そうでしたか」
「この漬物は食べていいんですよね」
その尋ね方がおかしくて、早は微笑みながら頷いた。
「汁粉を頼めば、たいていはこういうものがついてきます。地域で様々なようですが、しその実や塩昆布のところが多いでしょうか。梅干しのお店もありました。このお店はその季節の漬物ですね」
「どうしてですか?」
「汁粉は口が甘くなるから、口直しという意味合いなのだと思いますよ」
「へえ、……知らなかった」
それから暁登は改めて汁粉に口をつける。食べているうちに青白かった頬には赤みが戻ってきて、早は安心した。
店は程よい時間で切り上げた。途中のスーパーで少しだけ買い物をして、またバスに乗って戻る。車内で暁登がようやく口を開く。発せられたのは樹生に対する不満だった。
→ 42
← 40
市街地に昔からある甘味処で、買い物に来ればここへ寄って甘いものを食べて帰った日が懐かしい。外出だからと、久々に指に指輪を嵌めた。老いて細くなった手には不釣り合いな指輪だったが、向かいに座る暁登はそれを褒めてくれた。
「赤が綺麗ですね」
「この赤い石はガーネットです」
「名前を聞いたことはありますが、あんまりこういうことには、興味がなくて」
暁登は申し訳なさそうな顔をしたが、早はふふ、と笑う。
「久しぶりの外出ですから、これでも少し張り切ったんですよ。こんな指輪はね、もう似合わないと分かっているんです。若いころに母からもらったものです。たまにはお洒落でもしなさいと、あの時はこれに合うようなワンピースも一緒に仕立ててくれて」
「そのワンピースは?」
「さすがにもう着られません。いつかのタイミングで処分しました。でも、真っ白い襟が素敵なワンピースでした。よく覚えています」
派手なデザインではなかったので、結構な年齢になるまで大事に着ていた。それを着て夫と出かけた記憶もある。あの時も指にはこの指輪を嵌めた。
いま、こうして早と外出に付き合ってくれるのは、なんの縁なのか、若い男だ。夫が聞いたらどんな顔をするだろう。「早さんやるじゃないか」と唸る夫の表情が見えた気がして、早はくすりと笑う。
二月の初旬で、よく晴れている。今日の外出はつい先ほど決めた。いつものようにやって来た暁登があまりにも浮かない顔――というよりは、なにかに苛立っている刺々しい空気感、でいたので、「甘いものでも食べに行きませんか?」と暁登を誘った。ちょうどよくバスがあったので、それを使って市街地までやって来たのだ。
暁登という男は、定期的に「陥る」。自分の不甲斐なさを歯がゆく思い、落ち込み、食欲をなくしたり眠れなくなったりしている。ただそれは暁登自身にかかわることだった。だからそのたび、「また内側に落っこちている」と心の中で思っていた。
だが今日の暁登は違った。どうも「外側に苛立っている」のだ。暁登にしては珍しく、何かに怒っている。それは自分自身のことではなくて、外側にあるものに対してだ。怒りの対象がはっきりと存在する。それが何であるかを暁登は明らかにしていないが、とにかく彼は怒っている。
冬も終わりが見えそうで、まだ終わらない。陽光は日に日に強くなっていくのを感じるが、風は冷たいし、朝晩は冷え込み、地面は硬い。いつか「この時期が一番消耗する」と言っていたのは、夫の友人だった。彼は農業を営んでいて、冬のこの時期は畑に出られないのだから農閑期なのではと思い込んでいた早には意外な台詞だった。
『そろそろ春の畑の準備をしたいですからね、外へ出るでしょう。風は冷たいけれど陽は長くなり始めているから、外での活動時間が自然と長くなります。ですが体は冬のまま。なまっている体にはきつい、冬の日ですよ』
なるほどな、と思ったものだ。
そういう、季節的なことをこの青年に当てはめていいのか迷うが、無きにしも非ず、といったところだろう。早自身も家にこもる日が続いていたので、正直飽きていた。外へ出てますます消耗するという例もあるが、疲れたら早めに帰って風呂にでもゆっくり浸かればいい。ただちょっとおやつを食べに街へ出てみた。気分転換の散歩の上級版。暁登は嫌がらずについてきてくれたので、楽しい気分になっていた。
やがて店員が盆に椀を乗せて戻って来た。焼いた餅が熱い小豆の汁に浮いている。こうばしく甘い匂いを嗅いで、急激に胃が動いた。「いただきます」と手を合わせて箸を取ったが、暁登は一緒に運ばれた豆皿の上に乗った青菜の漬物を不思議そうに眺めている。
「どうしましたか?」
「なんで漬物が出て来るんだろう、と思って」
頼んでいないものが出て来たので首をひねっている。「お汁粉を外で食べたことはありますか?」と訊くと、暁登は首を横に振った。
「あまりこういう店ってないですし、あっても入ったことはないです」
「そうでしたか」
「この漬物は食べていいんですよね」
その尋ね方がおかしくて、早は微笑みながら頷いた。
「汁粉を頼めば、たいていはこういうものがついてきます。地域で様々なようですが、しその実や塩昆布のところが多いでしょうか。梅干しのお店もありました。このお店はその季節の漬物ですね」
「どうしてですか?」
「汁粉は口が甘くなるから、口直しという意味合いなのだと思いますよ」
「へえ、……知らなかった」
それから暁登は改めて汁粉に口をつける。食べているうちに青白かった頬には赤みが戻ってきて、早は安心した。
店は程よい時間で切り上げた。途中のスーパーで少しだけ買い物をして、またバスに乗って戻る。車内で暁登がようやく口を開く。発せられたのは樹生に対する不満だった。
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古い掛け時計がボーンと鳴って、早は我に返る。毛玉を取り終えたセーターを畳んで紙袋に押し込み、ゆっくりと立ち上がる。窓の外を見ると雪があっという間に積もり、どこもかしこも真っ白く覆われていた。
ポーン、と呼び鈴が鳴らされた。
こんな日に誰がやって来るだろう。もう夕方になろうかという時刻だった。早が玄関へ向かう途中で、再び鳴らされる。「どちら様ですか?」と大きな声で内側から訊ねると、「ごめんください」と女の声がした。
声で誰なのか分かったが、あまりにも意外な声だったので早は驚く。鍵を開けるとそこに立っていたのは樹生の姉・茉莉だった。
漆黒のダウンジャケットに柔らかく仕立ての良さそうな灰色のマフラーを巻き、そこに鼻先を埋めている。ブーツには雪がまとわりついていた。庭先に積もった雪に点々と茉莉の足跡だけが残っている。
風に長い髪がなびいた。こんなに冬そのものみたいな日に現れた茉莉を見て、早の頭にぽっと浮かんだのは「雪女」だった。人ならざる雰囲気を感じたのだ。
「……ごめんなさいね、雪かきをきちんとしていなくて」雪まみれの靴を見ながらそう言うと、しかし茉莉は首を横に振った。
「上がりますか?」
「……いえ。あの、最近樹生に会っていますか?」
茉莉は酷く疲労しているように見えたが、瞳だけは強く光る。ただ、縋り付くような色もあったから、彼女のこんな表情は珍しいと思った。
「最近……と言っていいのか分かりませんが、年始にこちらへ顔を出してくれましたよ。その後、電話も」
「あの子、元気ですか?」
「ええ、おそらくは」
「ならいいです」
と言って、茉莉は早に頭を下げる。そのまま足早に去ってしまった。相変わらずどういう行動を起こすか分からない女性だと思う。
樹生の様子が知りたいなら、本人に直接電話なりなんなりをすればよいのだ。今まで定期的にそうやって連絡を取り合って来た姉弟だ。いまは違う、とでもいうのだろうか。姉弟の関係がどうなっているのかが分からない。
雪の降りしきる中をひとりで消えていった女に、早の胸はざわめく。だからと言って追いかけはしないし、これから樹生に連絡を取ることもしないだろう。
早はこの家にいて、あの姉弟のすることに何も干渉はしない。それはあの姉弟が探し物を始めた時に決めたことでもあった。
ポーン、と呼び鈴が鳴らされた。
こんな日に誰がやって来るだろう。もう夕方になろうかという時刻だった。早が玄関へ向かう途中で、再び鳴らされる。「どちら様ですか?」と大きな声で内側から訊ねると、「ごめんください」と女の声がした。
声で誰なのか分かったが、あまりにも意外な声だったので早は驚く。鍵を開けるとそこに立っていたのは樹生の姉・茉莉だった。
漆黒のダウンジャケットに柔らかく仕立ての良さそうな灰色のマフラーを巻き、そこに鼻先を埋めている。ブーツには雪がまとわりついていた。庭先に積もった雪に点々と茉莉の足跡だけが残っている。
風に長い髪がなびいた。こんなに冬そのものみたいな日に現れた茉莉を見て、早の頭にぽっと浮かんだのは「雪女」だった。人ならざる雰囲気を感じたのだ。
「……ごめんなさいね、雪かきをきちんとしていなくて」雪まみれの靴を見ながらそう言うと、しかし茉莉は首を横に振った。
「上がりますか?」
「……いえ。あの、最近樹生に会っていますか?」
茉莉は酷く疲労しているように見えたが、瞳だけは強く光る。ただ、縋り付くような色もあったから、彼女のこんな表情は珍しいと思った。
「最近……と言っていいのか分かりませんが、年始にこちらへ顔を出してくれましたよ。その後、電話も」
「あの子、元気ですか?」
「ええ、おそらくは」
「ならいいです」
と言って、茉莉は早に頭を下げる。そのまま足早に去ってしまった。相変わらずどういう行動を起こすか分からない女性だと思う。
樹生の様子が知りたいなら、本人に直接電話なりなんなりをすればよいのだ。今まで定期的にそうやって連絡を取り合って来た姉弟だ。いまは違う、とでもいうのだろうか。姉弟の関係がどうなっているのかが分からない。
雪の降りしきる中をひとりで消えていった女に、早の胸はざわめく。だからと言って追いかけはしないし、これから樹生に連絡を取ることもしないだろう。
早はこの家にいて、あの姉弟のすることに何も干渉はしない。それはあの姉弟が探し物を始めた時に決めたことでもあった。
その寒波がもたらした積雪は、結局50cmほどになった。雪への備えはある程度してあるからさほど騒ぐことでもなかったが、その後の晴れ間の方が樹生には恐怖に感じた。晴れれば雪が溶ける。溶けて乾いてくれれば道路が開くので結構なことなのだが、乾かないと厄介だ。晴れた分大気は温度を放出して、今度は一気に冷え込む。濡れた地面は凍って固まり、路面はスケート場のようになる。
凍結防止剤を撒くのだが、要するに塩なのでこれも厄介だ。車の腹側につくとそこから錆びていってしまう。生活にも仕事にも車を使わないことは考えられないので、気を遣う分、面倒に感じる。
凍って溶けてまた凍る。そういう悪路の中、樹生は仕事に出る。バイクで郵便を配るか、車に乗って荷物を配るかを樹生が今いる集配局ではシフトでまわしており、その日の樹生は車で荷物を運ぶ役割だった。荷物には時間指定があるので郵便と違って少し面倒くさい。配りながらもあちこちに設置されたポストを開けて郵便物を取り集めて来る役割もあるので、道順をうまく組み立ててから出発しないと時間に追われることになる。
市内の大きな総合病院も配達区域内に入っている。病院の前には小さなポストが設置されていた。車を脇に止めてそこから郵便物を集めていると、視界の端からキラッと光りが飛び込んで来た。
光った方向へ顔を向けると、そこには腹の大きな女性がいた。女性はカバンに車の鍵を仕舞うところだったので、その鍵が反射して樹生に光を届けたのだと察した。
この病院は産婦人科があるので、こういう光景は珍しくない。腹を大きくした女性は病院の入口、樹生のいる方へゆっくりと歩いてくる。樹生はポストを再び施錠すると、軽く会釈だけして傍らの車へ乗り込んだ。女性は樹生の方を向かなかったが、車を発進させようとしたとき、その白い顔が視界に映り、樹生は思わず目を見開く。
――なんで水尾(みお)がここにいる。
とっさに思ったのは、それだった。ドドッと心臓がテンポを乱して暴れはじめるのを、呼吸を大きくすることで抑え込む。
――そりゃ、いてもおかしくないか。
冷静に頭は分析を始めた。女性は赤い車の脇をすり抜け、病院の中へ吸い込まれていく。
――実家から一番近い、産婦人科のある病院って、ここか。
ふ、と大きく長く息を吐く。
――結婚、したとは聞いた。子どもが生まれるのか。
瞬間、ありとあらゆる記憶とそれに伴う感情に襲われて、樹生は身動きが取れなくなる。もう過去になったはずで、心は痛まないはずで、――それでもやはり動揺している自分がいる。
コンコン、と車の窓ガラスを叩かれて本当に驚いた。見れば病院のスタッフらしき格好をした女性が立っている。樹生はこわばった体を瞬時に動かして車のウインドウを下げた。
「すみません、この郵便物って預かってもらえますか?」
スタッフが手にしているのは切手の貼られた封書だった。
「普通郵便でよろしいですか?」
「あ、はい。ポストに投函しようと思っていて忘れていて。赤い車が集めに来たのが見えたからいま慌てて」
「大丈夫ですよ。お預かりしますね」
樹生は封書を受け取り、ようやく車を発進させた。体中から汗が噴き出ていて、無性に煙草が吸いたいのを、ラジオを点けることでやり過ごした。
水尾は、綺麗だった。昔も綺麗だったが、今はもっと綺麗に見えた。
かつての婚約者のことを樹生はそう評価する。やりきれない気持ちになるのを無理やりこらえる。
幸せそうだから、自分とは別れてよかったのだと、そうこじつけた。
→ 41
← 39
凍結防止剤を撒くのだが、要するに塩なのでこれも厄介だ。車の腹側につくとそこから錆びていってしまう。生活にも仕事にも車を使わないことは考えられないので、気を遣う分、面倒に感じる。
凍って溶けてまた凍る。そういう悪路の中、樹生は仕事に出る。バイクで郵便を配るか、車に乗って荷物を配るかを樹生が今いる集配局ではシフトでまわしており、その日の樹生は車で荷物を運ぶ役割だった。荷物には時間指定があるので郵便と違って少し面倒くさい。配りながらもあちこちに設置されたポストを開けて郵便物を取り集めて来る役割もあるので、道順をうまく組み立ててから出発しないと時間に追われることになる。
市内の大きな総合病院も配達区域内に入っている。病院の前には小さなポストが設置されていた。車を脇に止めてそこから郵便物を集めていると、視界の端からキラッと光りが飛び込んで来た。
光った方向へ顔を向けると、そこには腹の大きな女性がいた。女性はカバンに車の鍵を仕舞うところだったので、その鍵が反射して樹生に光を届けたのだと察した。
この病院は産婦人科があるので、こういう光景は珍しくない。腹を大きくした女性は病院の入口、樹生のいる方へゆっくりと歩いてくる。樹生はポストを再び施錠すると、軽く会釈だけして傍らの車へ乗り込んだ。女性は樹生の方を向かなかったが、車を発進させようとしたとき、その白い顔が視界に映り、樹生は思わず目を見開く。
――なんで水尾(みお)がここにいる。
とっさに思ったのは、それだった。ドドッと心臓がテンポを乱して暴れはじめるのを、呼吸を大きくすることで抑え込む。
――そりゃ、いてもおかしくないか。
冷静に頭は分析を始めた。女性は赤い車の脇をすり抜け、病院の中へ吸い込まれていく。
――実家から一番近い、産婦人科のある病院って、ここか。
ふ、と大きく長く息を吐く。
――結婚、したとは聞いた。子どもが生まれるのか。
瞬間、ありとあらゆる記憶とそれに伴う感情に襲われて、樹生は身動きが取れなくなる。もう過去になったはずで、心は痛まないはずで、――それでもやはり動揺している自分がいる。
コンコン、と車の窓ガラスを叩かれて本当に驚いた。見れば病院のスタッフらしき格好をした女性が立っている。樹生はこわばった体を瞬時に動かして車のウインドウを下げた。
「すみません、この郵便物って預かってもらえますか?」
スタッフが手にしているのは切手の貼られた封書だった。
「普通郵便でよろしいですか?」
「あ、はい。ポストに投函しようと思っていて忘れていて。赤い車が集めに来たのが見えたからいま慌てて」
「大丈夫ですよ。お預かりしますね」
樹生は封書を受け取り、ようやく車を発進させた。体中から汗が噴き出ていて、無性に煙草が吸いたいのを、ラジオを点けることでやり過ごした。
水尾は、綺麗だった。昔も綺麗だったが、今はもっと綺麗に見えた。
かつての婚約者のことを樹生はそう評価する。やりきれない気持ちになるのを無理やりこらえる。
幸せそうだから、自分とは別れてよかったのだと、そうこじつけた。
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片としてはやや大ぶりだが、たいした積雪にはならなそうだった。ひらひらと舞い落ちる雪の中を、三人で歩いた。広い庭の、雑木の間を抜けてゆく。夫と少年が横並びで歩き、早は一歩下がってふたりの会話に耳を澄ませながら、二人の男の背中を眺めた。
夫の質問に、少年はぽつぽつと答えた。何に興味があるかと訊かれた時は、特に何もと答えたし、何が嫌いかと訊かれれば、別に、と言う。それでも夫は質問をやめなかったし、少年も回答を拒んだりはしなかった。
この家はどうだと聞かれた時、少年は「どう?」と質問の意図を尋ね返した。
「なんでもいいよ。この家やぼくらに思っていることがあれば、言ってごらん」
「怒らないですか?」
「怒られるのは怖い?」
「……」
少年は黙る。しばらく考えてから「姉ちゃんはずっと怒ってた」と答えた。
「お姉さんが怖い?」
「怖いです」
「会いたいとは思わない?」
少年の姉は高校を卒業して、当時は専門学校に通っていた。一人で暮らし、奨学金などの助成金の制度を利用しながらではあったが、生活費・学費を全て自力のアルバイトで賄っていた。援助を申し出ても「それは弟に」と言うだけで、かたくなに受け入れてはもらえなかった。
その姉に対し、少年は「思わない」と答えた。「怒ってるから」
「分かった。じゃあいまこの場できみが言うことに関して、ぼくは絶対に怒らないと約束する。だからなんでも言って。不満、希望、なんでも」
早はそれを聞いて、結婚したばかりの頃のことを思い出した。一緒に暮らし始めて数か月が経ったころ、夫は早に同じことを言った。なんでも言って。怒らず聞くから。
少年は「惣先生は顔が怖いです」と言い、夫は苦笑した。「なるほど」
「早先生のご飯はいつも美味しいけど、たまにはカップラーメンが食べたい」
「カップラーメンはぼくもたまに無性に食べたくなるよ。だからそういう時は大学生協に行ったり、学生にこっそり分けてもらってる」
それを聞いて早は後ろで思わず笑ってしまった。本当はジャンクなものが好きで、どこかで食べているんだろうなというのはなんとなく気付いていた。少年が振り向き、それから夫に「こっそりがばれちゃったよ」と言う。夫は「そうだね」と頭を掻く。
「……この家には本がたくさんあるけど、本に興味はないです。だから、……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
「家は、好きです。……庭が広くて走れるし、自分の部屋があるし」
「それは嬉しい」
少年の声は少し掠れていて、これから声変わりの予感があった。身長もぐんぐんと伸びるだろう。早の背を追い越し、夫の背を追い越す。ふと少年の華奢な背に、少年の父親が成長期だった頃の背中が滲んだ。
家の外をぐるりと一周して、玄関の前まで戻ってきた。そして夫は少年の肩に手を置き、「きみはこれからしなきゃいけないことがたくさんある」と言った。
「まず、健康に育つこと。それにはよく食べてよく動いてよく寝ることだ」
「寝るのも食べるのも動くのも、好きです」
「じゃあきっと大丈夫。これはクリアできる」
それから、と夫は僅かに天を仰ぎ、また少年の顔を正面から見た。
「生きる技術を身に着けよう」
「……勉強、ってこと、」
「それももちろんある。でも学校へ行けと言うわけじゃないよ。行きたくなかったら行かなくていいんだ。と、こんなことを言ったら早先生には叱られるかな」
と、夫は早の顔を茶目っ気ある瞳で振り向いた。早は微笑みながら首を横に振る。夫は「大丈夫みたいだ」と少年に言う。
「これまでの学校の成績から判断すると、きみはどうやら算数と国語が得意だね。算数なんか、通知表の全部の項目が二重丸で驚いた。算数は、好きかな?」
「好きです。気持ちがいい。問題を見たときに頭の中が走り出す感じがするっていうのか……次々に数字が浮かんで来ます。答えを書く手の方が遅いから、もどかしい」
「すごい答えだ」
夫は心底嬉しそうに早の顔を見た。
「国語は?」
「あんまり……書いてあることは理解出来るし問題の意味も分かるけど、好きじゃないです。まわりくどくて、面倒臭い」
「他の教科は?」
「社会の、地理は面白かったです。理科は普通。道徳は気持ち悪くなる」
「体育や図工、音楽は?」
「体育は……わりと好き。図工と音楽は嫌いです」
少年ははっきりと答えた。夫は「だってさ」と早を振り返ったが、こればかりは仕方がない。子どもは色々で個性も色々だ。少年の父親も早には懐いてくれていたが、美術そのものに興味があったわけではなかった。早がクラス担任をしていたから縁のあった子だ。
少年から一通り話を聞いて、夫は「そうだなあ」と顎に手を当て視線を空に向ける。考えごとをするときの癖だった。
「勉強は、しよう。学は頭の柔らかなうちにつけた方がいいから。算数が得意ならそれを重点に、主要な教科はきちんとやろう」
夫が言うと、少年は「はい」と素直に答えた。
「それから、この家のこともやろう。家を維持していくのはなかなか大変でね。掃除、買い物、洗濯に食事の準備、片付け。僕と早先生がやっていることを、とりあえずは一緒にやってみよう」
少年は面倒臭そうな顔をしたが、観念したのかこれも「はい」と答えた。
「早さんは何かある?」と夫に尋ねられたので、早は「土日以外は、学校へ行くときと同じ生活リズムがいいでしょう」と答えた。
「最低限、眠る時間と食事の時間は、あまり乱さない方がいいと思います」
「賛成だな」
夫が頷いたのを見て、少年もこくりと頷いた。
家に入ろうとしたとき、「おれもお願いがあります」と少年から言うので、夫は少年を振り返った。
「靴が欲しいです」
「靴?」
「きついから」
「おお、」
それを聞いた夫は嬉しそうだった。「いいよ、買いに行こう」と、いましがた少年が脱いだスニーカーに目をやる。
「冬だし、スニーカーより暖かいブーツの方がいいのかな」
「走れる靴がいいです」
「走るのは好き?」
「好きです」
そしてその冬、夫は少年に新しいスニーカーを買った。少年は基本的には家にいたが、朝晩は庭の周囲をよく走ったので靴はすぐに傷んで古くなった。動く量に比例するようによく食べよく眠り、やがてすぐに身長が一気に伸びて声変わりもした。
それはあまりにも鮮やかな成長だったといまでも思い出す。数々の子どもらを見て指導してきたが、間近で見る成長期の迫力には、心から驚かされた。
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庭の隅に建てた納屋には色んなものが入っている。使わなくなった足踏みミシンに、アップライトのピアノ。古い布団はいつかちゃんと中の綿を陽に当てて干し、打ち直そうと思っていてやらず仕舞い、いまでは虫や小動物に食い荒らされている。屋外の納屋なので、家の中にあるそれとは違い、保管には向かない。大事なものは仕舞っていない。
農機具もここに入れてあった。ビニール紐に始まり、シュロ縄、スコップ、薬剤や耕運機まで。夫が生きていた頃、鎌や鍬の手入れは彼に任せていた。刃を研ぐとき、微妙な角度で切れ味が変わって難しい、と言って楽しげで真剣だった。いまは違う。早がやる。
前の日にこの納屋から雪かきスコップと竹箒、長靴などを出して、家の玄関の中へ運び入れていた。これは正しい判断だった。気象予報士が散々訴えた予報は当たり、いまはそこら一面、真っ白だ。しかもまだ止まず、むしろこれからもっと降るという。
昨日までに頼んでおいた灯油の配達は済んでいる。食料も野菜と米を中心に整っているので、雪で閉じ込められてもすぐに困ることはないだろう。停電や断水でもあったら難儀はするが、マッチ一本で着火する芯出しストーブを使っているので暖は取れる。このストーブの上で煮炊きも出来るから、まあなんとかなると踏んでいる。
本当は暁登にこの雪への備えを手伝ってもらえたら、と思っていた。しかし彼の電話は何度かけても繋がらず、折り返しの着信もなかったので諦めた。きっとなにか不都合があって電話に出ないのだ。都合がよくなれば連絡があるだろう。
雪の複雑な結晶の溝に音が吸い込まれて、酷く静かだ。チリチリと雪がガラス窓に当たる時の微かな音と、ストーブの炎の揺らめき、そのストーブの上に載せた薬缶の沸騰、それしか聞こえない。雪の降り方を眺めて早は少し、わくわくしていた。まるきりひとりの時の非常事態で、誰のことも心配しないでいいならこんな天気も悪くない。もちろん、そんなことを考える自分は不謹慎かつ至って呑気であることも承知だ。
最後にこの一帯が大雪に見舞われたのは、ちょうど五年前だった。あのときはもっと酷かった。夫の病が進み始めた頃と重なってしまい、病院へはどう行ったら、とか、雪かきをいつ、とか、あれこれ考えてはおろおろするばかりだった。
庭が広いせいで雪かきが間に合わず、家の敷地内から脱することがもう大変だった。結局、降り続いた雪は80cmほどの積雪となった。ライフラインが寸断されやしないかと気を揉んだが、それも夫という存在がいたからであり、いないいまはこんなに違うものかと驚く。
大切な誰かの為にありとあらゆる不安を抱いては対策を練る。それはとても貴重で尊い経験なのだとつくづく実感する。実感はするが、いまその状況でないことを悲しんだりはしない。夫は死んで、それは過ぎたことだ。早はまだ生きているので、懐かしんだり感傷に浸ったりして後ろばかり振り返っても仕方がない。
雪が止むまでは、必要最低限の雪かきだけ行って家に籠もる。先ほどから早はセーターを引っ張り出して、ブラシと鋏で丁寧に毛玉を取っていた。夫が気に入って着ていたネイビーブルーの分厚いセーターは、値が張った分ものも良く、擦り切れた肘当てだけ付け替えればまだ充分着られる。虫食いもない。これは大柄の樹生には着られないだろうが、暁登には似合うかもしれないと思っている。暁登が着ないと言ったら、市のバザーなどに出せばいい。それでも貰い手がなかったら鋏を入れて鍋つかみにでもしてしまおうか、と考えながら毛玉を取る。
雪が降っているから散歩をしよう。
不意にきらりと、その台詞が頭に過ぎった。早は無意識のうちに目を細め口元を引き締めていた。かつて夫が、学校に行かなくなった少年にそう言った。
少年にアトピーの気が見受けられるようになったのは、少年がこの家にやって来て二度目の冬を迎える頃だった。確かに日ごろから痒いと言って皮膚を掻いてはいたが、それはごく軽度で、市販のクリームを塗ってごまかせる程度のものだった。それが二度目の冬、いきなり広範囲に広がった。全身真っ赤で、全身猛烈に痒い。とりわけ上半身が酷く、掻き壊して血が滲んでいた。
初めはじんましんも疑ったが、発疹の出方が全く違う。医者に診せればあっさり「アトピーでしょう」と言われた。その小さな医院には少年が本当に幼いころからのカルテが残っていた。幼少の頃より少年がアトピーに悩まされていたことを、その医院で初めて知った。
薬をもらい、少年を家に連れ帰った。彼が風呂を使っている間に夫にそのことを話す。夫は「アトピーってのは慢性的なものじゃなかったかな」と疑問を早に投げた。
「これまではあんなに酷い痒みにはならなかったよね。それが突然ああなのだから、別の皮膚症状ってことは考えられない?」
「お医者様が言うには、アトピーには様々な原因があるそうです。季節的なこともあるし、ストレスも原因になると」
「……ああ、ストレス、ね」
「あの子は、あんなことがあったのにこちらが驚くぐらいに冷静で、落ち着いています。泣くことも、駄々をこねることも、攻撃的になったりすることもない。怖いぐらいだと思っていました」
「それは確かにそう思うよ」
「反動がこういう形で現れたのだと、私は思うのですが」
夫は静かに頷いて、左手を口元に当ててしばらく考えていた。やがて少年は登校をきっぱりと拒否し、一日を家の中で過ごすようになる。アトピーは薬でかなり落ち着いたが、学校に行こうとはしなかった。
十二月中旬、雪が降った。夫は自室にこもる少年を呼んだ。面倒くさそうに少年は階段を降りてくる。夫は少年に上着を渡し、「雪が降っているから散歩をしよう」と自身も上着を羽織った。
「早さんもおいで」と夫は早にもコートを渡した。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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