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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 鍵を開け、部屋に入る。ひんやりと冷たい部屋には早の家のようなやわらかな温かみはない。暖房を入れてもそれは得られないだろう。早の家は早ひとりしかいないのに温かく、この部屋はふたりでいるのにいつまで経っても冷たく、慣れない。緒方の台詞がぽこぽこと腹の底から湧き出る。それは延々とこだまし、消えない。
 暁登を部屋まで連れて行き、リビングには暖房を入れて樹生はその温風の前で制服を脱ぐ。社員証まで丁寧に身につけたままで、それを忘れていたので、上着を脱ぐときに引っかかった。そんな些細なことにも苛ついた。
 その背中に「みお」と声が掛けられて、樹生はギクリとして振り向いた。包帯も痛々しく、暁登が部屋から出てそこに立っていた。
 きつい眼差しは、あの雨の日の再会で見た瞳の色、そのままだった。濃く透き通っていて、光を宿して、強い。
 その目にただただ戦くばかりで、鳥肌が立った。
「――って、誰」
「……」
「結婚相手?」
「……」
「母親を奪った女の息子、って、何?」
「聞いてたのか、」
 と問い返したが、暁登は頷きもせず、否定もしない。ただ目の色を深くするだけだ。
「あんたには母親がいないのか?」
 重ねられた問いの語尾は、怒りか何か巨大で激しい感情で震えていた。
「そういやあんたの家族のことは、聞いたことがない。月一で姉に会うって言うけど、その姉貴のことだって聞いてもはぐらかす。母親がいないなら、父親は? 『みお』は?」
 追及に、樹生は口を噤む。暁登だって樹生が素直に答えるとは思っていないだろう。思わないまま、苛立ちをぶつけずにはいられない。
 暁登は「おれは知らないままは嫌だ」と言った。
「あんたの事だから知りたいと思うのに、あんたはおれには絶対に言わない。親のこと、姉弟のこと、『みお』のこと、……本当は早先生の事だって不思議だったんだ。早先生とあんたは明らかに先生と教え子とは別の、もっと深い関係だ。あの家に出入りしているから、うっすらと分かる。あの家には『男の子が住んでいた』。二階の六畳間には、小・中学生向けのテキストがあって、箪笥があって、古いゲーム機があって、椅子と机もある。不思議だよ。早先生には子どもがいないはずなのにな」
 暁登に目を合わせるのが辛くて、ついに樹生は固く目を瞑った。
「あんたの事が知りたい。ちゃんと知っていたい」
「……」
「だけどあんたはだんまりを決め込む。おれは、あんたの、何?」
「……」
「あんたは近いけど、あんたほど遠い奴はいない……むかつく」
 それでも樹生は、話そうとは思わなかった。
 樹生の身の上話などして、どうしようと言うのか。樹生の過去は樹生の人生で、樹生の悩みはこれから自分で解決すればいいし、出来る、とも思っている。暁登に話したから悩みが軽くなるとか、そんなことは考えない。暁登にとってそれは他人事に過ぎない。
 樹生の黙秘に、暁登は頭をがりがりと搔いた。それから足を引き摺ってシンクへ向かうと、洗って伏せてあったマグカップを取り、それを思い切り壁――樹生の脇から背後へと、投げつけた。
 壁に投げつけられた陶器は派手で不快な音を立て、割れて、落ちた。
 暁登は続け様にもう一つカップを取ったので、樹生は瞬時に動いてその手首を取った。細い体を押さえつける。
 当然ながら暁登は嫌がり、暴れた。
「あき、暁登、」
「うるさい!」
「いいからやめろ。傷が開くから、」
「うるさい! 話す気もないくせに、」
「あき、」
「おれは……おれはなんなんだよ」
 暁斗の両手首を取り、壁に押さえつけた。その体の細さからは想像もつかないような力強さには驚いたが、かろうじて樹生の方が勝った。
「……あき、」
 手を押し返す力が抜けたその隙をついて樹生は暁登の体を思い切り抱きしめた。
 暁登は細かく震えている。
 どうすればいいのか、痺れた頭で考えるにはもう余力もなかった。この面倒なことから解放されたい。暁登を休ませて、自分も休みたい。今日なら夢も見ずに深く眠るだろう。それだけ疲れている。
 暁登が脱力したので、発作的な暴力が治まったのだろうと解釈した。腕の力を緩めると、暁登が顔を上げた。
 樹生の目を覗き込むようにまっすぐ捉えてくる。深い黒い目。それに背筋を粟立たせていたから、油断した。樹生の肩に手を添えると、暁登は樹生の首筋にスッと顔を寄せ、そこを思い切り噛んだ。
「――ってぇ、」
 樹生は咄嗟に暁登の肩を掴んで体を剥がし、距離を取った。びりびりと噛まれた首筋が痛く、そこに手を当てた。
 暁登は鋭い眼差しで樹生も見る。
「――おれ、実家に戻るわ」
 と暁登は言った。「帰る」ではなく「戻る」。それは「別れる」と同じ響きがあり、――体中にドッと冷や汗が吹き出した。
「あき」
「あんたの傍にいたくない。自分が――こんなに嫌いになる」
 そう言って暁登は自室へと戻った。樹生が呆然としているうちにとりあえずの荷物をまとめ、足を引き摺りながら樹生の脇をすり抜けて、部屋から出て行った。
 ガチャン、という重い扉の音を聞いて、樹生は我に返った。
 首筋に当てていた手をようやく外す。手指には血がうっすらと付いていた。
「……は、」
 色んな事が馬鹿馬鹿しくなる。制服を雑に脱ぐとそれを片付けもせず、自室のベッドへ潜り込んで眠った。


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 病院を出た後は、暁登が「先生の家に行きたい」と言うので、早に一報を入れてからそちらへ車を向かわせた。
 早の家は明るく暖かで、だが割れた天窓のガラスはまだ直ってはいなかった。業者は応急処置だけ施して明日出直してくるという。
 室内は綺麗に掃除されていた。ひょこひょこと足を引きずりながら廊下を進む暁登を見て、早は表情を曇らせた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなかったら多分帰れてないです。明日また行きますけど、大丈夫なんだと思います」
「傷みは?」
「鎮痛剤が効いているみたいでそんなに。掌の方が大事だったみたいで」
 包帯の巻かれた手を見せると、早はますます顔をしかめる。
「夕飯、召し上がりました?」
 と早は暁登の手に優しく触れながら樹生に訊ねた。
「――あ、そういや、まだだ」
「簡単なものですけど、ありますので良ければ召し上がっていきませんか」
「いや、」
 と、咄嗟に言ってしまったのは、あまり食欲を感じていなかったからだ。腹は減っているのだが、胸の辺りが重たい。食事よりも煙草の気分で、煙草よりは風呂で、眠りたかった。
 それでもと暁登を見ると、目が合った。眼鏡の奥の瞳が黒く静かで、鋭い。あまりの強さに、樹生は反射的に目を逸らしてしまった。
 暁登は「せっかくですが」と早に告げた。
「家の窓の様子を確かめたくて寄っただけなので。岩永さんも仕事上がりで疲れているみたいですし。帰ります」
「そうですか」
「すみません」
「謝ることではありません。こちらこそ気を遣わせてしまいましたね。明日、病院に行ったら結果はどうだったか、経過がどうなるのか、教えて頂けますか?」
「はい、それは」
「その怪我ではアルバイトもしばらくお休みせざるを得ないですよね……本当に、申し訳なく」
「おれがうっかりしていただけです。心配をかけて、こちらこそ申し訳ない」
 謝り合戦のふたりを、樹生はどこか遠い場所に心を置いたまま眺めていた。
 暁登が使っていたバイクはしばらく早の元に置かせてもらう話でまとまり、樹生の運転で家を発つ。車内で樹生は煙草を吸ったが、気が乗らずにすぐに消した。暁登は何も喋らない。
「家には連絡したの、」とかろうじて樹生から語りかける。
「何を?」
「怪我のこと」
「してない。でも、バイトを休むことになるから、しなくても伝わるだろうな」
「明日の病院の予約、何時?」
「とりあえず十時半、でも混んでるから朝一番で来られれば来て下さい、って」
「なら、仕事行くタイミングになるけど送ってくよ。帰りは分かんないけど、診察終わったら連絡くれれば」
「いい」
「え?」
「送り迎えはいらない。ひとりで行く」
 その台詞に硬さを感じた。樹生も今夜ばかりは広い心を持ち合わせていない。「ああ、そう」とだけ答えて、後のことは何も聞かなかった。
 アパートの駐車場に車を停めて降りる。暁登はあくまでもひとりで歩くつもりでさっさと歩を進める。しかし部屋までの道はところどころ凍っているし、階段もあれば段差もある。見ていられなくて腕を取った。
 そのまま腰を屈めて背中を暁登に差し向けた。
「ほら」
 暁登は「いい」と歩き出そうとする。
「いい、とかなんとか言ってる場合じゃないだろ。介助が必要なんだから、素直に頼ってよ」
 ほら、と腕を引っ張ると、暁登は観念したように大人しく樹生の背に体を乗せた。
「もっとちゃんと体重預けて」
「……」
「……そう。動くよ」
 暁登の腕を顔の前にまわし、足をしっかりと抱え込んで暁登を背負う。階段はさすがにきつかったが、それにしても恋人の体は軽かった。
 不意に暁登の頭が肩先から離れた。ずっと隠すようにして伏せていた顔を上げて、暁登は樹生の後頭部に口先を押しつける。と、つむじより少し下の辺を噛まれて驚く。噛みつく、というよりは歯を当てる、という表現の方が正しい力加減であったが、頭を噛まれるなんてことは過去一度もなく、その意図が全く読めない。
「あき?」
 と言うと、暁登はあっさりとその行為を止めた。樹生の肩にまたすがるように顔を埋める。
 階段を上りきると同時に、樹生はわずかに窪んだコンクリートに出来た水溜まりに張った氷を踏んだ。滑りはしなかった。砕かれた薄氷の音がやけに耳に障った。


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拍手[9回]

「――岩永くん、」
 声をかけられて顔を上げる。そこには還暦を過ぎたぐらいの歳の男が立っていた。初めは誰なのか本気で思い出せなかったが、「まさかこんなところで会うなんて」と耳を引っ張って搔く、その仕草で思い出した。思い出した途端に舌打ちしたくなった。
「――お久しぶりです、緒方(おがた)さん」
「ああ、うん……」
 緒方は険しい顔をして耳を搔いていたが、ややあって「どこか悪いのか」と訊いてきた。
「私ではないです。知り合いが怪我をして治療を受けているので、様子を見に」
「そうか」
 また沈黙が出来た。そしてやはり緒方の方から「相変わらず、勤めは変わっていないんだな」と樹生の格好を見て言った。着替える手間を惜しんで飛び出したので、ダウンジャケットの下は職場のユニフォームそのままだった。
 樹生は笑いもせず、「そうですね、変わりません」と答える。
「相変わらず、非常勤雇用でか」
「……いえ、数年前に正社員になりました」
 と言うと、緒方はふん、と鼻から息を漏らした。こういう男だったな、と思い出す。社会人とはすなわち正社員のことを指し、アルバイトやパートタイム、非常勤雇用など立場の弱い働き手の事を認めようとしなかった。
 隣いいか、と言うなり緒方は樹生の返事も聞かずに隣に座った。樹生に用はなかったので、帰りたくなった。
 仕方がないので、「水尾さんの付き添いか何かですか」と訊いた。緒方は驚いた顔で樹生を振り返る。
「……水尾と連絡を取っているのか?」
「取っていません、全く。ただ、結婚した事は耳にしたので知っています。子どもが出来たことも、先日知りました」
 臨月が近いのか、あの時見た水尾の腹はパンパンに膨れていた。緒方は渋い顔をして、「そうだ」と答えた。
「産気づいて、今日の昼からここに入院している。まだ生まれてないが、」
「こんなとこにいていいんですか」
「娘のこんな時に、母親ならともかく男親の出来ることなんかないさ」
 その台詞に責められているような気がした。被害妄想も甚だしい、と自分を一蹴する。
 緒方は「きみには悪いことをしたのだとは、思っている」と言うので、余計に腹立たしくなった。「悪いことは何もしていない」などと開き直って自分を正当化してくれた方がまだマシだと思う。
「きみと水尾が結婚して家庭を築いて……そういうことが本当に耐えられないと思った。きみはおれの妻を奪い、水尾から母親を奪った女の息子だ。そんなやつに……どうして娘をやれるか、と」
「……」煙草が吸いたい。この場から立ち去りたい。
「だが、事故のあったとき、きみはまだ十歳にも満たない少年だった。その責はきみには問えない。きみも母親を失ったからな。……今日か明日には、水尾は子どもを生んで母親になる。もう関わらないでくれ。ようやく……ようやく当たり前の幸せを手に出来た水尾やおれの為にも、どうか」
 それを聞いて、樹生の目の前が真っ赤になった。怒りで視界がぶれることがあるのだ、と知った。
『おまえには誰も幸せには出来ない』と言われているも同然だ。
 この男とこれ以上いると怒りでこいつを殴り殺しそうだと、瞬時に想像が巡る。離れなければと思って腰を浮かせかけると、病院の長い廊下の方から「お義父さん!」と若い男が駆け寄って来た。
 丸い眼鏡をかけた、どこか剽軽な印象のある男だった。
「どこまで飲み物買いに出かけてるんですか。携帯も置いてくし。生まれちゃいますよ」
「すまん、いま行く」
 緒方は男に引っ張られて立ち上がった。この眼鏡の男が水尾の夫なのだろう。スーツがよく似合っていたから、緒方も望む「まっとうな職」に就いた、「まっとうな男」なんだろう。
 緒方と水尾、親子に「当たり前の幸せ」をもたらした幸福の使者。
 若い男は樹生に気付くと、くりっとした目をこちらに向けた。
「お義父さんのお知り合いですか?」
「まあな」
「初めまして、婿の守脇(もりわき)と申します。すみませんね、お話に割り込んじゃって」
「大した話はしてないから」
 緒方は娘婿の背を叩き、「行こう」と促す。娘婿はにこにこしながら「郵便屋さんなんですね」と樹生に言った。
「僕の勤め先は印刷会社のデザイン部門なんですが、郵便屋さんにはよくお世話になっていますよ。サンプルを送ったり、冊子の発送を定期的にしますし」
「そうですか、ありがとうございます」
「おい、行こう」
 緒方はよっぽど娘婿を樹生に引き合わせたくないようだった。もっともそれは樹生も同じだ。もう二度と緒方には会いたくない。
 すみませんね、と頭を何度も下げて守脇は緒方を伴ってエレベーターホールへと消えた。
 樹生は重く長くため息をつく。ついてから頭を天井に向けた。
 ここのところ、こんなことばかりだ。過去の出来事を樹生自身はもうなんとも思っていないのに、周囲が騒ぎ立て、道をぬかるませる。
 ただ自分は静かに、恋人と安らかに暮らしていたいだけだというのに。
 長いことそうしていた。だから処置を終えた暁登がとっくに処置室を出て、乗せられた車椅子でじっとしたままそれを聞いていた事には、全く気付いていなかった。


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***
本日、ブログに設置しているカウンターの数が100万に達しました。
構想上の樹海では、カウンターの数=ひとりの方の1回の訪問数、ではなく、ページビューの数になります。
この忍者ブログを利用し始めて8年になりました。途中お休みも頂きましたが、私が書き続けて来たことへの純粋なアンサーなのだと思っています。
とても嬉しいです。どうもありがとう。
なにかお礼的なことを考えているようないないような。時間が許せばやりたいです。

ブログの記事投稿数も、あと少しで1500に達します。
よく書いたものだと感慨深いです。


100万というキリ番を踏んだ(ことに気付いた)方。おめでとうございます。
もしよければメッセージをください。リクエストにおこたえ出来たらと思います。

本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


拍手[11回]


 電話対応に追われる一日だった。
 配達員の誤配達による苦情の電話から始まって、郵便物が届かないのだがどうなっているのだ、という問い合わせ、挙句は他の集配局で起きてしまった交通事故の件で緊急の会議が開かれることにもなった。電話対応を同僚に任せ、会議へと出ようと準備をしていると、スマートフォンが鳴った。早からの電話で、とても珍しいと思いながらも樹生は出なかった。まだ就業中であったし、これから用事もある。
 早は、丁寧に留守番電話にメッセージを残してくれた。よっぽどの用件があるようだと分かったので、ようやくスマートフォンを耳に当ててメッセージを聞いた。
『草刈です。暁登さんが梯子から落ちて手足を怪我してしまいました。ちょっと、いえ、だいぶ困っています。これを聞いたら早めに連絡をください』
 それを聞いて、樹生の心臓がドッと冷たい北風を吹き込まれたように冷え込んだ。梯子から落ちて怪我、とはなんだ。早が「だいぶ困る」用件とは穏やかではない。慌ててかけなおした。早は着信の早さに驚いていたが、冷静に事の経緯を聞かせてくれた。
『足から落ちて頭を打っていないことは幸いでした。が、足はかなり腫れてきました。打撲と捻挫あたりだと思ってとりあえず冷やしていますが、医者に連れていきたいのです。落ちた時に手をついて、ついた先にガラスの破片があったので、掌を傷つけてもいます』
「出血がひどいですか?」
『まだ血は止まりません。ちょっと傷が深いようです。腱までいっていないといいのですが』
 更に早は、いまちょうどガラスの処置をしに業者が来ているところであるので、早自身は家から出ることが出来ないとも添えた。
「――分かりました。とりあえず救急車というレベルではなさそうですので、足冷やして手を圧迫させたまんまで、タクシー呼んで市民病院まで暁登を寄越してください。おれもこれからそこへ向かいます」
『お仕事は?』
「仕方がないですよ、こういう時はね。もう病院の受付が締まりそうですので、病院にも急患が行く旨の連絡を入れておいた方がいいかもしれません」
『分かりました、すぐ手配します。……申し訳ありません』
「早先生が謝ることなんてないです」
 通話を終え、さて、と樹生はまず大きく息をつく。リーダーを捕まえて急用が出来たので帰らせてほしい旨を伝えると、顔を渋くはしたが理由も聞かずに承諾してくれた。上着を羽織り、樹生は急いで病院に向かう。
 市民病院に着く頃には、受付はもうすでに終了しており、夜間外来に切り替わっていた。ここに塩谷という若い男が運ばれてこなかったかと訊くと、看護師は「こちらです」とすぐに案内してくれた。
 暁登は救急の処置室にいた。白く硬いベッドの上に転がされ、当直の医師に右足を診てもらっていた。右手には包帯が厚く巻かれている。
「塩谷暁登の身内です」と言うと、医師は頷いて樹生に椅子を促した。
「右の掌からの出血が酷かったので、まずはそちらの処置をしました。ガラスが深く食い込んだようですが、腱は繋がっていますので安心してください。洗浄をした後、縫いました。これから腫れて痛みも増してくるでしょうから、薬を出します」
「足の方はどうなんですか?」
「これはね、整形の先生に診てもらいたかったんですが、今日はもう閉まってしまったので明日また来てください。まあ、打撲と捻挫というところでしょう。今日のところは湿布を貼って固定して様子を見ます。明日改めて整形へかかってください」
 それから暁登はされるままに右足を医師に任せた。あまり大事ではなさそうだったが、この手足では当分は自由に動けないだろう。話を聞けば充分だったので、暁登を処置室に残してひとまず部屋を出た。
 待合室の傍にあった売店の横には自動販売機があった。そこで樹生は温かいミルクティーを買い、掌の中で転がしながら待合室のベンチに腰掛けた。診療時間を過ぎた病院は静かで、人の気配が酷く薄い。ようやくミルクティーのキャップを捻って甘い飲み物を胃に入れる。ぼんやりしながらも、暁登の家族には知らせるべきか、早には連絡をするべきだ、などと考える。
 考えに浸っていたので、男が近付いて来た事に気付かなかった。


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拍手[11回]

「誘ってみようかな。何がいいんだろう。相撲はこの間終わっちゃったしな」
「この時期ですので、ウインタースポーツなんかは結構あちこちで大会があるんじゃないですか? いつかの冬のオリンピックの時に、私は観戦に行ったことがあります」
「へえ。何を観たんですか?」
「あの時はスキーのジャンプを観ました。日本人選手が活躍していた時代でしたね」
「ジャンプ台に遊びに行ったことはありますよ。小さい頃に家族に連れていかれて、上まで登りました。あれはものすごい高さから飛ぶんですね。夏で雪なんかなかったけど、めちゃくちゃ怖かったです」
 喋っているうちに暁登の声に張りが出て来た。やがて家の前までたどり着く。玄関の鍵を開けていると、不意に暁登が中庭の方へ顔を向けて「何か聞こえませんか?」と言った。
「何か?」
「なんだろう、鳥の羽音みたいな」
 と、暁登は玄関前に荷物を降ろしてそちらへ歩いていく。早はその荷物を玄関の内側に運び入れてから後を追った。中庭は居間に面しており、居間の大きなガラス窓からバルコニーへと出られるようになっている。雑木林に囲まれた家だが、ここだけまめに枝を刈ってもらってあるので日当たりもよい。そのバルコニーに外から侵入すると、そこに何か動くものがあった。
「鳥だ。鳩?」
 灰色の鳩が仰向けになり、バタバタと体を動かしている。動物にでもやられたのかと思いながら周囲を見渡せば、暁登が家の異変に気付く。「あそこ」と言って彼は居間のガラス窓の上部を差した。天窓が割れ、屋内にガラスが落ちている。
「窓ガラスに鳥がぶつかったんですね」と言うと、暁登は早を振り向いた。
「以前にもこの居間の窓に鳥が飛んできてぶつかったことがあったんです。その時はガラスは割れなかったんですけど、ぶつかった鳥は骨を折って死んでしまいました。鳩ではなく、桃色の羽が綺麗なヒレンジャクでした」
「ああ、じゃあきっと今回も」
「ここの窓は大きく広いですから、鳥が勘違いするみたいなんです」
 早は体をばたつかせている鳩の元へ屈み込んだ。暁登はしばらく窓ガラスの様子を確かめていたが、「他に家の周りに異変がないか見てきます」と言い、ひらりとバルコニーの柵を超えて雪の積もる地面へ着地すると、そのままザクザクと家の周りを進む。
 鳩は思いのほか元気ではあったが、ガラスを破るくらいの衝撃をその体に受けたと考えると、このまま野生に帰り元通りの生を生きるのは難しい気がした。早がそっと手を伸ばすと鳩は身を捩る。そのままの勢いでくるりと態勢を立て直し、二本の足でトントンと跳ねる。そうしていきなり羽ばたいて雑木林の方へ消えたが、随分な低空飛行だったので、傷の深さを実感させた。この寒さであるし、まず助からないだろう。
 暁登が戻って来る。「大丈夫みたいですので、とりあえず中に入りましょう」と言う。
「あれ、鳩は?」
「飛んで行ってしまいました」
「飛べたんですね」
「ええ。でも、重症のようでしたし……」
 飛び散った羽毛を片付けなければなりませんね、と言うと、暁登も同意した。
 家の中に入ると、外よりはずっと暖かかったが、思っていたよりは暖かくはなかった。天窓の破れから風が入り込んでいた。居間に飛び散ったガラスを拾い集めながら、暁登は「ガラス窓の修理などを決まって頼んでいるところはありますか?」と早に尋ねる。
「ええと、いつかトイレの小窓にひびが入ってしまった時に、夫の知人の修理工に頼んだことがありました」
「じゃあそこに連絡してください。こんな季節ですから早く来てくれると助かりますが、今日はもう夕方なので、難しいかもしれませんね。それでも一報をいれて、早めの対応をお願いしてください」
「分かりました。と、暁登さん、手袋を」
「ああ、ありがとうございます」
 農機具を扱うときに使う革の手袋と、ガラスの破片を入れるためのバケツを渡す。言われた通りに修理工へ電話をかけると、急な呼び出しであるにも関わらずこれから来てくれると言った。
 暁登にその旨を告げると「よかった」と言い、また天窓を見上げた。
 天窓は、家の内側にくの字型に設置されている。広く明かりを取るための窓で、よって居間は陽が入りさえすれば冬でもあまり暖房を入れずに暖かい。多くの鉢植えの植物はここで越冬させていたが、業者が来るのであればひとまず片付けなければならない。
 暁登が「脚立、ありましたよね」と言った。
「ええ、外の納屋に」
「ちょっと持ってきて、様子を見ます。すぐ来てくれるなら応急処置的に塞がなくても大丈夫だと思いますが、それでも一応」
 そう言って彼はまた外へ出る。やがて脚立を肩にかけて、バルコニーの方から現れた。足元をしっかりと確認してから脚立を組み、天窓へ向かってひょいひょいと登り始める。早が大きな声で「気を付けて」と言うと、暁登はにこりと微笑んだ。
 天窓をあらかた点検し終え、破れたガラスの間から暁登は早に声をかけた。「この窓、一枚だけみたいです」と他は異常ないことを早に伝える、
「他は割れたりひびが入ったりは、していませんか?」
「大丈夫みたいです。ですが場所が場所なので、はめ込むのに苦労するかもしれませんね。なので後は業者に任せます」
 そう言って暁登は脚立を降り始める。と、突風が窓に吹き付けた。がたがたと音をさせて震え、脚立の上部にいた暁登が煽られてバランスを崩す。
「――暁登さん!!」
 それはまるでスローモーションのように映る。ゆっくりと暁登はバルコニーの床に落ちた。


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拍手[8回]

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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お久しぶりです。短編長編更新。
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

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