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『夏居さんはS温泉郷で老舗旅館を経営されてきた方です。いまは代を替えて息子の嘉彦さんに経営を譲っておられます。あの通り口が悪いのでなかなか一見のお客が付かないのですが、悪気はなくむしろあの率直な辛口が心地よいと言って、様々な分野からのお客さまに愛された方です。主人もその数いるお客のうちの一人でした』
と早は説明したが、なんにも評価すべき箇所はなかった。少なくとも樹生にとっては、そうだった。
『広く知識を蓄え、物事の骨格を瞬時に見極めるその眼力が素晴らしいと主人などは言っていました。本来はとても努力家の方です。朝は必ず十数社にも上る複数の新聞紙に目を通しているそうです。これに基づく話題の広さも彼の経営を支えて来ましたし、それは嘉彦さんにも受け継がれているようです。このご時世、S温泉郷に訪れる人もずいぶんと減ったというのに、夏居旅館は変わらず繁盛していますね』
早の夫と夏居は、先輩と後輩のようにも取れ、盟友でもあり、特別親しかったと言う。
『よく手紙のやり取りをしていました。夏居旅館には若い頃から年に一度は必ず訪れていましたし、夏居さんは私たちの結婚の際に保証人を引き受けてくれた方でもあります。嘉彦さんが大学進学を決めた際にはぜひうちの大学へと、夫は熱心に勧誘したそうです』
「――つまり惣先生の教え子だった、てことですか」
『そうなります』
それで「岩永」と気安く呼ばれた理由が分かった。まだ早は説明を果たそうとしたが、樹生の方が嫌になって電話を切った。こんなことぐらいで滅入っている自分に嫌気が差す。
茉莉のことも気になっていた。熱が下がったか上がったか、生きているのか死んでいるのかさえもよく分からない。茉莉はあれきりなにも連絡を寄越さなかった。
あのとき、寝起きで頭が鈍っていてすっかり素通りしてしまったが、茉莉は「あの男に関わる人の場所が特定できた」と言った。「捕まえられる」と。「あの男」に関しては、茉莉の数いるボーイフレンドの中に興信所に絡む男がいて、彼に仕事を任せている、つまり「あの男」に関して調べ上げさせ、報告させている、そんな話を聞いていた。だがこれまで目立った成果はなかった。それが一気に動いたのではないか。そういう電話だったのかといまになって気付く。
こうして刻一刻と動く時の、沈黙の時間が恐ろしくなる。茉莉はなにかアクションを起こしたのではないか。決定的ななにかは既に起きたのではないか。
あの雨の日のように、樹生がぼんやりしている間に事が済んでいやしないか。
そう思いながらも目の前の暁登を愛でることで淋しさを紛らわせ現実から目を逸らしている。
じりじりと、炙られるように、しかし確実に追い詰められていた。
煙草を灰皿に押しつけ、吸うのをやめた。ニコチンが体を巡って独特の浮遊感が得られるのがよかったのに、考えが巡ってしまうなら煙草を吸う意味がないと思った。風呂を湧かし、ゆっくり浸かった。後で暁登を起こして、せめて風呂と食事だけはきちんとして、暁登は暁登の部屋のベッドへ戻すのがいいだろう。考えているうちに風呂でしばらく眠っていた。上がると暁登は起きていて、湯を沸かしていた。
「――大丈夫?」と間抜けに聞いた。
「んー、平気。なんか食おうと思ったけど、なんにもなかった。冷蔵庫」
「買いに行ってくる。なにが食いたい?」
「別にいいよ。夏の残りの素麺見つけた」
暁登はそれをさっと茹で、コンソメの粉末を落としたスープに浸した。それを樹生の分まで丼によそう。樹生はありがたく受け取り、ふたりでずるずると啜った。
途中、暁登はテレビを点けた。ちょうどニュース番組の放映中で、明日から天気が悪くなると注意喚起していた。
「雪降るのか」とテレビを見ながら暁登が呟く。
「道理で冷えるはずだよな。あんた、明日は仕事か?」
「うん」
「あんまり酷くならないといいな、雪」
冬場のバイクでの配達というだけで凍えるのに、雪で道路状況が悪化すればさらに面倒である。この辺りは山沿いであり、気象条件として冬は冷え込みやすいし、雪も降る。毎年のことで慣れているとはいえ、降られれば歓迎はしない。
「でもおれ、明日はバイク乗らないんだ。車で配達の日」
「ああ。なら凍えることはないな」
「うん。それよりあきも気をつけろよ、早朝」
新聞配達のバイトは、暁登の場合は親戚宅から譲られた濃い緑色のカブで行っている。早朝で道は暗いし、寒く、おまけに雪予報である。朝の数時間に限られるとはいえ、郵便配達並の過酷さだ。
「そうだな」と暁登は同意した。それから食べ終えた器をシンクに下げ、風呂場へ消えた。
テレビの中ではニュース番組はCMを経てバラエティ番組に変わっていた。賑やかでやかましいのが気に障り、樹生はそれを消してしまった。
→ 38
← 36
と早は説明したが、なんにも評価すべき箇所はなかった。少なくとも樹生にとっては、そうだった。
『広く知識を蓄え、物事の骨格を瞬時に見極めるその眼力が素晴らしいと主人などは言っていました。本来はとても努力家の方です。朝は必ず十数社にも上る複数の新聞紙に目を通しているそうです。これに基づく話題の広さも彼の経営を支えて来ましたし、それは嘉彦さんにも受け継がれているようです。このご時世、S温泉郷に訪れる人もずいぶんと減ったというのに、夏居旅館は変わらず繁盛していますね』
早の夫と夏居は、先輩と後輩のようにも取れ、盟友でもあり、特別親しかったと言う。
『よく手紙のやり取りをしていました。夏居旅館には若い頃から年に一度は必ず訪れていましたし、夏居さんは私たちの結婚の際に保証人を引き受けてくれた方でもあります。嘉彦さんが大学進学を決めた際にはぜひうちの大学へと、夫は熱心に勧誘したそうです』
「――つまり惣先生の教え子だった、てことですか」
『そうなります』
それで「岩永」と気安く呼ばれた理由が分かった。まだ早は説明を果たそうとしたが、樹生の方が嫌になって電話を切った。こんなことぐらいで滅入っている自分に嫌気が差す。
茉莉のことも気になっていた。熱が下がったか上がったか、生きているのか死んでいるのかさえもよく分からない。茉莉はあれきりなにも連絡を寄越さなかった。
あのとき、寝起きで頭が鈍っていてすっかり素通りしてしまったが、茉莉は「あの男に関わる人の場所が特定できた」と言った。「捕まえられる」と。「あの男」に関しては、茉莉の数いるボーイフレンドの中に興信所に絡む男がいて、彼に仕事を任せている、つまり「あの男」に関して調べ上げさせ、報告させている、そんな話を聞いていた。だがこれまで目立った成果はなかった。それが一気に動いたのではないか。そういう電話だったのかといまになって気付く。
こうして刻一刻と動く時の、沈黙の時間が恐ろしくなる。茉莉はなにかアクションを起こしたのではないか。決定的ななにかは既に起きたのではないか。
あの雨の日のように、樹生がぼんやりしている間に事が済んでいやしないか。
そう思いながらも目の前の暁登を愛でることで淋しさを紛らわせ現実から目を逸らしている。
じりじりと、炙られるように、しかし確実に追い詰められていた。
煙草を灰皿に押しつけ、吸うのをやめた。ニコチンが体を巡って独特の浮遊感が得られるのがよかったのに、考えが巡ってしまうなら煙草を吸う意味がないと思った。風呂を湧かし、ゆっくり浸かった。後で暁登を起こして、せめて風呂と食事だけはきちんとして、暁登は暁登の部屋のベッドへ戻すのがいいだろう。考えているうちに風呂でしばらく眠っていた。上がると暁登は起きていて、湯を沸かしていた。
「――大丈夫?」と間抜けに聞いた。
「んー、平気。なんか食おうと思ったけど、なんにもなかった。冷蔵庫」
「買いに行ってくる。なにが食いたい?」
「別にいいよ。夏の残りの素麺見つけた」
暁登はそれをさっと茹で、コンソメの粉末を落としたスープに浸した。それを樹生の分まで丼によそう。樹生はありがたく受け取り、ふたりでずるずると啜った。
途中、暁登はテレビを点けた。ちょうどニュース番組の放映中で、明日から天気が悪くなると注意喚起していた。
「雪降るのか」とテレビを見ながら暁登が呟く。
「道理で冷えるはずだよな。あんた、明日は仕事か?」
「うん」
「あんまり酷くならないといいな、雪」
冬場のバイクでの配達というだけで凍えるのに、雪で道路状況が悪化すればさらに面倒である。この辺りは山沿いであり、気象条件として冬は冷え込みやすいし、雪も降る。毎年のことで慣れているとはいえ、降られれば歓迎はしない。
「でもおれ、明日はバイク乗らないんだ。車で配達の日」
「ああ。なら凍えることはないな」
「うん。それよりあきも気をつけろよ、早朝」
新聞配達のバイトは、暁登の場合は親戚宅から譲られた濃い緑色のカブで行っている。早朝で道は暗いし、寒く、おまけに雪予報である。朝の数時間に限られるとはいえ、郵便配達並の過酷さだ。
「そうだな」と暁登は同意した。それから食べ終えた器をシンクに下げ、風呂場へ消えた。
テレビの中ではニュース番組はCMを経てバラエティ番組に変わっていた。賑やかでやかましいのが気に障り、樹生はそれを消してしまった。
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五.冬の華
三日連休だったのでどこかへ出かけるのもいいと思っていた。そのどこかへは暁登を伴えばもっといい、とも考えていて、現実問題、暁登は新聞配達のアルバイトがあり、そんなには休めないし金もない、と言った。金ぐらいは別に構うことはなかったが、バイトを一日ないしは二日休んで収入が減る、と浮かない顔をする暁登の顔を見るのは、それはそれで嫌だな、と思った。だから三日あった連休は、どこへも出かけなかった。三日間きっちり家から出ず、そのうちの二日間ぐらいは自室で過ごし、自室で過ごしたうちのほぼ百パーセントをベッドの中で過ごした。ベッドの中には暁登も巻き込んだ。彼がアルバイト以外で出かけることを許さず、電話もメールもSNSの利用もする隙を与えず、眠るかセックスに耽るか。腹が減って起きて適当に食事をして、衣類はろくに身に着けず、風呂を沸かせば風呂場でセックスをしたし、台所で湯を沸かす暁登におおいかぶさって、そこでもした。驚異的に漲る性欲というよりは、全身で暁登を欲していたと言える。
ただただ淋しかった。
恋人の淋しさに付き合わされていた暁登にとっては、相当ハードな三日間であっただろう。朝数時間のアルバイトにのみ出かけるだけで、軟禁状態もいいところだった。はじめは素直に快感に顔を歪ませては啼いていたが、次第に声は掠れ体は疲労を滲ませた。腰がだるい、と訴えられたが、だからと言って容赦せず、やめなかった。
連休最終日の夕方、ようやく暁登の軟禁を解く。ベッドの上でぐったりと放心している暁登から自身の雄を引き抜くと、入れっぱなしだったせいであいた穴から樹生の体液がどろりと、呆れるぐらいに垂れたが、それを見てもさすがにもう、したいとは思わなかった。思ったとして言えない。健気に樹生を受け入れ続けた体が可哀想になり、穴に指を入れ、中身を掻き出す。暁登は鼻から息を漏らし、だるそうに体を丸めた。
「……まだすんの」
「しない、もうさすがに。わるかった。痛い?」と尋ねる。擦れて縁が赤く腫れていた。
「痺れて感覚ない。閉じてんのか開いてんのか分かんねえ」
暁登は自身の背後に手を伸ばす。樹生はその手を取って確かめさせた。腫れた局部に触れて、そこがどうなっているのか想像したくもないのだろう、暁登は「うわ」と手を引っ込めた。
「信じらんない」
「わるかった」
「明日の朝のバイト行けんのか? おれ」
「立てる?」
「いまはなんかもう、立つ気が起きない」
「……ごめん」
ベッドに沈む暁登を背に、樹生は部屋から出る。暖房の入らない居間は寒々しく、裸体にはきつい。コップに水を汲んで、早々に部屋へ戻った。
暁登を抱き起こし、水を飲ませた。こくこくと上下するのどぼとけの動きをぼんやりと見つめる。お代わりを求められ、同じことをもう一度繰り返す。コップ二杯の水を飲み干して、暁登はまたベッドに横たわった。
「風呂入る?」
「だるいから後で」
「腹は?」
「すいてる。けど、これも後でな」
樹生の質問に答えることすら煩わしいとばかりに、暁登は背を向けた。「ごめん」と言うと、しばらくの沈黙の後に暁登が「なんなんだよ」と言った。
「謝ってばっかだな、あんた。別に悪いことしてないだろ。やりまくってただけ。合意の上だ」
「……」また謝りそうになるのをこらえた。
「あんた年始からずっとそんな調子だな。疲れてるっていうか、ほけてるっていうか。なんかあった?」
「……繁忙期過ぎて、反動がガクッと来たんだよ」
「ふうん」
それ以上暁登はなにも言わなかったが、体のだるさに負けただけで納得はしていないと分かっていた。しばらくして暁登は眠りだした。その体に毛布をかぶせ、樹生は部屋を出る。煙草が吸いたくなった。
冬のベランダに裸で出る勇気はないので、換気扇をまわしてその下で煙草を吸った。ぼんやりと考えごとに耽る。暁登に触れてすっきりするかと思ったのに、なかなかの憂鬱で、気分が晴れない。それもこれも全てあの爺とその息子のせいだ、と心の中で樹生は毒づく。加えて茉莉。嫌になる。
あれから早の家を出て仕事に向かっても、心の中はあまり穏やかではなかった。仕事は仕事、プライベートはプライベートとすっきり割り切れる性分の樹生には珍しいことで、正直参った。吸う煙草の本数は増えるばかりで、果ては苛々してきた。苛々すれば対人関係に摩擦は出るし、ミスも出やすくなる。同僚にも「話しかけづらい」と言われた。
早の元は訪れていないが、電話では話した。早の話では、あの老人と中年の男は親子で、老人は早の亡くなった夫の古い馴染みだという。名を、老人の方は「夏居厳(なついいわお)」、息子の方は「夏居嘉彦(なついよしひこ)」と言うのだと教えてもらった。
→ 37
← 35
PCメンテナンス、無事に終了しました。
間にあってよかったです。
ただただ淋しかった。
恋人の淋しさに付き合わされていた暁登にとっては、相当ハードな三日間であっただろう。朝数時間のアルバイトにのみ出かけるだけで、軟禁状態もいいところだった。はじめは素直に快感に顔を歪ませては啼いていたが、次第に声は掠れ体は疲労を滲ませた。腰がだるい、と訴えられたが、だからと言って容赦せず、やめなかった。
連休最終日の夕方、ようやく暁登の軟禁を解く。ベッドの上でぐったりと放心している暁登から自身の雄を引き抜くと、入れっぱなしだったせいであいた穴から樹生の体液がどろりと、呆れるぐらいに垂れたが、それを見てもさすがにもう、したいとは思わなかった。思ったとして言えない。健気に樹生を受け入れ続けた体が可哀想になり、穴に指を入れ、中身を掻き出す。暁登は鼻から息を漏らし、だるそうに体を丸めた。
「……まだすんの」
「しない、もうさすがに。わるかった。痛い?」と尋ねる。擦れて縁が赤く腫れていた。
「痺れて感覚ない。閉じてんのか開いてんのか分かんねえ」
暁登は自身の背後に手を伸ばす。樹生はその手を取って確かめさせた。腫れた局部に触れて、そこがどうなっているのか想像したくもないのだろう、暁登は「うわ」と手を引っ込めた。
「信じらんない」
「わるかった」
「明日の朝のバイト行けんのか? おれ」
「立てる?」
「いまはなんかもう、立つ気が起きない」
「……ごめん」
ベッドに沈む暁登を背に、樹生は部屋から出る。暖房の入らない居間は寒々しく、裸体にはきつい。コップに水を汲んで、早々に部屋へ戻った。
暁登を抱き起こし、水を飲ませた。こくこくと上下するのどぼとけの動きをぼんやりと見つめる。お代わりを求められ、同じことをもう一度繰り返す。コップ二杯の水を飲み干して、暁登はまたベッドに横たわった。
「風呂入る?」
「だるいから後で」
「腹は?」
「すいてる。けど、これも後でな」
樹生の質問に答えることすら煩わしいとばかりに、暁登は背を向けた。「ごめん」と言うと、しばらくの沈黙の後に暁登が「なんなんだよ」と言った。
「謝ってばっかだな、あんた。別に悪いことしてないだろ。やりまくってただけ。合意の上だ」
「……」また謝りそうになるのをこらえた。
「あんた年始からずっとそんな調子だな。疲れてるっていうか、ほけてるっていうか。なんかあった?」
「……繁忙期過ぎて、反動がガクッと来たんだよ」
「ふうん」
それ以上暁登はなにも言わなかったが、体のだるさに負けただけで納得はしていないと分かっていた。しばらくして暁登は眠りだした。その体に毛布をかぶせ、樹生は部屋を出る。煙草が吸いたくなった。
冬のベランダに裸で出る勇気はないので、換気扇をまわしてその下で煙草を吸った。ぼんやりと考えごとに耽る。暁登に触れてすっきりするかと思ったのに、なかなかの憂鬱で、気分が晴れない。それもこれも全てあの爺とその息子のせいだ、と心の中で樹生は毒づく。加えて茉莉。嫌になる。
あれから早の家を出て仕事に向かっても、心の中はあまり穏やかではなかった。仕事は仕事、プライベートはプライベートとすっきり割り切れる性分の樹生には珍しいことで、正直参った。吸う煙草の本数は増えるばかりで、果ては苛々してきた。苛々すれば対人関係に摩擦は出るし、ミスも出やすくなる。同僚にも「話しかけづらい」と言われた。
早の元は訪れていないが、電話では話した。早の話では、あの老人と中年の男は親子で、老人は早の亡くなった夫の古い馴染みだという。名を、老人の方は「夏居厳(なついいわお)」、息子の方は「夏居嘉彦(なついよしひこ)」と言うのだと教えてもらった。
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PCメンテナンス、無事に終了しました。
間にあってよかったです。
「――え?」
「岩永、……なわけないよな。もしかして、息子か?」
「あの、」
「そうだそうだ、息子だ。すごいな、昔の岩永にうり二つだ。よく似ている。背の高いところも」
「……」
「身長いくつ?」
訊かれて戸惑ったが、「189cm」と答えると、中年男は笑う。
「あいつは190cmだとよく自慢していた。そこは負けたな」
誰なのか、なんなのか、父を知っているのか――あの男を。樹生が黙ったままでいるうちに老人を支えて、男は玄関を上がる。
「誰だ?」と老人が樹生に向き直った。小刻みに体が震えている。髭は豊かだがかなりの高齢のようで、耳も遠いようだった。中年男が大声で答える。
「岩永の息子だよ、息子。ほら覚えてるだろ? おれの大学の時の同期でさ、家にも何回か遊びに来てる。親父も会ったことあるだろ」
「息子? ああ、息子か」
老人が樹生を見上げる。皺だらけの目元の奥の瞳は、まるで品定めでもするかのようにぎょろりと開かれる。
「草刈が引き取った息子か。あの、かわいそうな」
「……」
「ふうん。でかくなったもんだ。おれが見たときは痩せて、肌も荒れててな。みすぼらしい少年だったが」
老人の手が樹生の腕に伸びた。
「たらふく食ったか、この家で」
「夏居さん、」早が咎める。
「でかくなったな。立派なもんだ」
腕を軽く叩き、老人は廊下の先へ進もうとする。中年男が慌てて老人の体を支えた。
「先に行っていてください」
と、男らに言い、早は棒立ちのままの樹生の手を取った。「樹生さん、あなたはお仕事へ行きましょう」と玄関の扉を開ける。
「夏居さんはものの言い方が悪いので、嫌な思いをさせましたね」と早は樹生を見上げる。
「……あの人たち、」
「言い方は悪いですが、根まで悪い人ではありません。どうか気にしないで」
「……」
「お仕事、気をつけて行ってらっしゃい。またお話しましょう。今日は嬉しかったですよ」
樹生の手をぎゅっと握って離し、早は家の中へ入った。
言い方は悪いが悪い人ではない。そう言われてもたったいま向けられた悪意を許す気になれない。老人の言葉がぐるぐると巡った。かわいそうな、みすぼらしい少年。
少年には家族がいた。父と母と十歳離れた姉と、四人で暮らしていた。
だが少年がものごころついた頃には、なぜか家の中には父の姿がなかった。母は「お仕事で遠くへ行っているのよ」と答えたが、それにしても帰ってこない。何日、何週間、何カ月、何年。さすがにおかしいのだと少年も気付いたが、父の不在に慣れきっていたので淋しいとは思っていなかった。
少年が小学校へ上がった頃には、家はすっかり荒れて貧しかった。母はずっと勤めに出ていて、帰宅するのは深夜だった。姉は学校に通いながらバイトをしていた。ふたりとも帰ってくると少年の世話を焼いてはくれたが、明らかに疲労しており、その姿が痛々しくて少年には苦痛だった。
ある雨の日、学校へ知らないおじさんが少年を迎えに来た。
病院へ行こうと言われた。強面のおじさんに連れられて少年は総合病院へ行く。廊下の長椅子に制服姿の姉がピンと背を伸ばして腰かけ、前を見ていた。前だけを、呆然と見つめていた。少年に気付くと姉は「お母さんが死んだ」と少年に告げた。
会っておいでと言われたが、白布をかけられたなにかに近寄る気にもなれなかった。少年にはなにか理解し難いことが起きていて、だが理解する努力を彼は放棄した。
ただ、少年の肩を強く掴んでいるおじさんのきつい瞳を見たとき、納得はした。母はいない。父もいない。姉はいるが、いままで通りの生活にはならない、と。
おじさんは「きみたちはたくさん食べよう」と言って、おじさんの家に姉弟を連れ帰った。家にはなんとなく見覚えのあったおばさんがいて、姉が「サキセンセイ」とおばさんを呼んだので、それを真似した。「サキセンセイ」はテーブルにたくさんの食事を用意して待っていた。
泣きはしなかった。何も悲しくはなかった。むしろ、もう疲れ切った母の頭を撫でてやらなくてもいいのだな、と思ったら、安心してしまった。
「少年」は「あの家」で「たらふく」食べて、よく寝て、遊んだ。そうして「立派」に成長した。なにも間違ってはいない。
あの老人の言った通りだ。
「岩永、……なわけないよな。もしかして、息子か?」
「あの、」
「そうだそうだ、息子だ。すごいな、昔の岩永にうり二つだ。よく似ている。背の高いところも」
「……」
「身長いくつ?」
訊かれて戸惑ったが、「189cm」と答えると、中年男は笑う。
「あいつは190cmだとよく自慢していた。そこは負けたな」
誰なのか、なんなのか、父を知っているのか――あの男を。樹生が黙ったままでいるうちに老人を支えて、男は玄関を上がる。
「誰だ?」と老人が樹生に向き直った。小刻みに体が震えている。髭は豊かだがかなりの高齢のようで、耳も遠いようだった。中年男が大声で答える。
「岩永の息子だよ、息子。ほら覚えてるだろ? おれの大学の時の同期でさ、家にも何回か遊びに来てる。親父も会ったことあるだろ」
「息子? ああ、息子か」
老人が樹生を見上げる。皺だらけの目元の奥の瞳は、まるで品定めでもするかのようにぎょろりと開かれる。
「草刈が引き取った息子か。あの、かわいそうな」
「……」
「ふうん。でかくなったもんだ。おれが見たときは痩せて、肌も荒れててな。みすぼらしい少年だったが」
老人の手が樹生の腕に伸びた。
「たらふく食ったか、この家で」
「夏居さん、」早が咎める。
「でかくなったな。立派なもんだ」
腕を軽く叩き、老人は廊下の先へ進もうとする。中年男が慌てて老人の体を支えた。
「先に行っていてください」
と、男らに言い、早は棒立ちのままの樹生の手を取った。「樹生さん、あなたはお仕事へ行きましょう」と玄関の扉を開ける。
「夏居さんはものの言い方が悪いので、嫌な思いをさせましたね」と早は樹生を見上げる。
「……あの人たち、」
「言い方は悪いですが、根まで悪い人ではありません。どうか気にしないで」
「……」
「お仕事、気をつけて行ってらっしゃい。またお話しましょう。今日は嬉しかったですよ」
樹生の手をぎゅっと握って離し、早は家の中へ入った。
言い方は悪いが悪い人ではない。そう言われてもたったいま向けられた悪意を許す気になれない。老人の言葉がぐるぐると巡った。かわいそうな、みすぼらしい少年。
少年には家族がいた。父と母と十歳離れた姉と、四人で暮らしていた。
だが少年がものごころついた頃には、なぜか家の中には父の姿がなかった。母は「お仕事で遠くへ行っているのよ」と答えたが、それにしても帰ってこない。何日、何週間、何カ月、何年。さすがにおかしいのだと少年も気付いたが、父の不在に慣れきっていたので淋しいとは思っていなかった。
少年が小学校へ上がった頃には、家はすっかり荒れて貧しかった。母はずっと勤めに出ていて、帰宅するのは深夜だった。姉は学校に通いながらバイトをしていた。ふたりとも帰ってくると少年の世話を焼いてはくれたが、明らかに疲労しており、その姿が痛々しくて少年には苦痛だった。
ある雨の日、学校へ知らないおじさんが少年を迎えに来た。
病院へ行こうと言われた。強面のおじさんに連れられて少年は総合病院へ行く。廊下の長椅子に制服姿の姉がピンと背を伸ばして腰かけ、前を見ていた。前だけを、呆然と見つめていた。少年に気付くと姉は「お母さんが死んだ」と少年に告げた。
会っておいでと言われたが、白布をかけられたなにかに近寄る気にもなれなかった。少年にはなにか理解し難いことが起きていて、だが理解する努力を彼は放棄した。
ただ、少年の肩を強く掴んでいるおじさんのきつい瞳を見たとき、納得はした。母はいない。父もいない。姉はいるが、いままで通りの生活にはならない、と。
おじさんは「きみたちはたくさん食べよう」と言って、おじさんの家に姉弟を連れ帰った。家にはなんとなく見覚えのあったおばさんがいて、姉が「サキセンセイ」とおばさんを呼んだので、それを真似した。「サキセンセイ」はテーブルにたくさんの食事を用意して待っていた。
泣きはしなかった。何も悲しくはなかった。むしろ、もう疲れ切った母の頭を撫でてやらなくてもいいのだな、と思ったら、安心してしまった。
「少年」は「あの家」で「たらふく」食べて、よく寝て、遊んだ。そうして「立派」に成長した。なにも間違ってはいない。
あの老人の言った通りだ。
アラームより先に電話で起こされた。
液晶を確認すれば姉からの着信だった。眠気に負けて、出るのが面倒で、一度は鳴動するスマートフォンを握ったまま眠りに落ちかけた。だが留守番電話サービスに切り替わった途端に切れた着信は、間髪入れずに再び鳴った。さすがに目が覚めて、樹生は電話に出る。
「――なに?」
『あんたいま仕事?』
いきなり本題に入った自分も自分だが、応える姉も姉だ。「いまは仕事じゃないけど」と答えると、茉莉は『ちょっと出てこれない?』とさらに質問を投げる。
「これから仕事なんだよ。ええと、だから、なに?」
『今日はKまで行く予定だったの。けど、熱が出て』
「茉莉が?」
『この家に私以外いないわよ』
相変わらず別居が続いているらしいが、そんなのは樹生の知ったことではなかった。ただ、電話の向こうの姉の声は確かに普段より乾いているように聞こえた。
「何度か測った?」
『三十九度五分』
「おい、」
すぐに医者にかかるべきレベルの話だ。夫に連絡したかと聞けば、していないという。
『休日診療の病院を探すのも手間だから、とりあえず寝てる。だからあんたにお願いがあるの。Kに行ってくれない? 私の代わりに』
「なんで」
『あの男に関わる人の場所が特定できた。これから向かえばそいつをうまく捕まえられるだろうって。そしたらあの男も引きずり出せる。だからお願い、すぐ行って。お願い』
と言うので、瞬間的に頭に血がのぼる。これから仕事と言う弟に頼む話ではない。そのことも腹立たしかったが、一番は自分を蔑ろにする、その神経だった。
そんなにまでしたい復讐だろうか?
「ばかっ」と樹生は電話口で叫ぶ。台所に移動して繕い物をしていた早が驚いて顔を上げた。
「自分の心配をしろ、自分の。いいか、茉莉の熱が下がるまではなにがあってもおれは一切動かないからな」
電話の向こうで姉は『でも』と弱々しく反論したが、その後は続かなかった。
「曜一郎さんに連絡しろよ。いいね? 病院も絶対に行って。熱が下がったら付きあってやるよ。下がるまではなにも聞いてやらない。いいな? 家族と、病院だ」
煮えた頭のまま、自分から電話を切った。早が立ち上がる。カウチの上で樹生はあぐらをかき、ガリガリと頭を掻いた。
「茉莉さん?」と早が訊ねる。
「はい、熱出したって」
「まあ。でもご家族が」
「いないんです、いま、あいつには誰も。――っくそ、」
時計を確認すると、もうこの家を退出する時間が迫っていた。
「いいや。おれ、とりあえず仕事行きます」
「いいんですか?」
「いいんです。あ、洗面台借ります」
樹生は部屋を出てトイレを済ませ、手を洗うついでに顔も洗った。冬の水が冷たく痺れるが、それでも湯ではなく水がよかった。
荷物を取りに居間に戻ると、早はいなかった。なにやら玄関の方から声がする。上着を羽織りながらそちらへ向かうと、玄関の扉の前には白い髭を蓄えた老人と、老人を支える中年の男の姿があった。老人の方は着物姿で、中年男の方はたっぷりとしたモスグリーンのセーターを着ている。
モスグリーンの中年男と目が合う。早の背後に見えた背の高い樹生を見て、早に笑いかけていた表情があっという間に変わった。
「岩永?」と中年男が言うので、樹生も驚いた。
→ 35
← 33
翌朝は日の出前には起きた。よく晴れて晴れた分だけ冷え込んだ朝で、群青色の空にはまだいくつか星が残っていた。防寒だけはきっちりとして、アパートを出る。車の表面には霜がびっしりと降りていたのでそれを削り、エンジンをしばらくアイドリング状態にして暖め、ゆっくりと車を発進させた。
出迎えてくれた早は和装だった。それを見て、そうだ正月だったな、と昔の記憶が呼び起こされた。この家の住人は正月の三が日やなにかの祝いごとには決まって着物を着たのだ。いまは夫も亡くしてひとりだと言うのに、早の決まり事は変わっていないようだった。
おそらくウールなのだろう。灰色に近い、密に織り上げられた地厚の着物だった。着物自体は地味であるが、締めている帯は新雪そのものの白で、帯揚げと帯締めは染液にたっぷりと浸して濃く染められた藍色だった。先ほどの夜が明ける前の空の色を思い出す。
家の中は早朝だというのにきちんと暖められていた。居間まで来ると、座卓には質素ながらも丁寧に食事が整えられていた。お重には樹生の好きな黒豆の煮物とだて巻き、栗きんとんが揃っていることを確認して思わず微笑んだ。子どもだと言われようがなんだろうが、正月の楽しみはいつもこれだった。
「さあ、頂きましょうか」
早から熱い吸い物の椀を受け取り、樹生は手を合わせて食事にありつく。樹生の好きな甘味の他には、紅白のかまぼこに海老や昆布巻き、松前漬けなども並ぶ。茶碗に盛られた炊きたての白米が、感動するほど美味かった。暁登もいればよかったのにな、と思う。
「相変わらずまめで丁寧な暮らしをしていますね」と言えば、早は「張り切りましたから」と答えた。
「樹生さんが帰ってくると思ったら、わくわくしてしまって」
「ありがとうございます」
「ですが、昔よりはかなり簡単に済ますようにもなったんですよ。ひとりは淋しいですが、気楽ですね。一日中自分のことだけして暮らせます。……まあ、これは私がまだ、元気に動くことの出来る体でいられていることが大きいですが」
早は「豆は煮ましたが、松前漬けは買いました」と器を見ながら言った。
「昔は材料を買ってきて、自分で漬けましたけどね。だんだん端折るようになってきました。ひとりならひとりに見合った大きさがある、ということですね」
その言い方があまりにもさっぱりとしていたので、樹生は安心した。早のこういうところが好きだし、だから自分はこの家に寄りつくのだと実感する。早は早で、個で、自分の時間をきちんと持っている。この人が持つ精神的な強かさなのだろう。
「元旦の配達、お疲れさまでした」と言われ、樹生は苦笑した。
「ほんと、疲れました。今年はリーダーが変わって最初の繁忙期でしたから、リーダーのやり方に不満のある社員からの苦情が半端なくて」
「あら」
「前任者がリーダーとして優秀な人だったので皆信頼を置いていて、だからこそ余計にだったんですよね。さすがにこれはと思う部分もあったのでリーダーに言ったんですが、聞く耳持たずで」
「それは別の疲労がありましたね」
「そうですね」
「樹生さんも立派に中間管理職になってきましたね」
と、早は小さく笑った。
「暁登さんがね、前に言っていました。『自分は岩永さんのことを心から尊敬しているんです』って。『絶対にいい上司になる、岩永さんはそういう人だ』って」
「……買いかぶりすぎですね」とは言ってみたが、暁登の揺るぎない信頼っぷりを、樹生はよく分かっていた。
「だからこそ暁登さんは苦しい」
「……」
「彼に足りないのは自信です。……どうにか、ならないかと思うのですが」
難しいですね、と言い置いて、早は樹生の湯呑みにほうじ茶を入れてくれた。樹生は頭を下げる。
それからはさして大したことは話さなかった。食べているうちに樹生は眠気を感じ、食べ終える頃、早が「少し休んでから出社されては?」と言ったので、ありがたく横になった。睡眠に困ったことはなく、むしろ寝過ぎなぐらいに寝る性分だ。早の家だろうが自分の部屋だろうが職場の休憩室だろうが、樹生はどこでも、すぐに眠れる。
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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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