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三月初旬、駅前に現れた姉は黒づくめだった。黒のダウンジャケットにグレイのショールを巻く、と言う冬仕様だ。とはいえ樹生もまだダウンジャケットを脱げない。この冬のバーゲンで買ったくすんだ赤い色のジャケットを、姉は「いい色」と褒めてくれた。
「髪も切ったのね」
「この間、仕事の帰りに。……茉莉こそ思い切ったな」
髪型が前回と全く違っている。茉莉は、長かった髪をばっさりと、ベリーショートに切っていた。
「春が来るからね」
その台詞は意味を含んでいたように聞こえたが、樹生は答えなかった。
三月でも道路の脇には雪が残っていた。道は乾いているのでさして問題なく車は進む。高速道路ではなく、一般道を使って目的のカフェに向かう。その車中で姉は「かわいい子は帰ってきた?」と訊いた。
「――気配もねえ」
「なんで喧嘩なんかしたの」
「……」
樹生はどう答えたものか考える。この姉には嘘をついてもはぐらかしても仕方がないだろうと思い、正直に話した。「水尾に会った」
さすがに姉も驚いたようで、白い仮面を被ったような顔を変えた。
「――え?」
「本人にしっかり会った訳じゃない。たまたま……こっちに帰ってきてたんだな。でかい腹して産科にかかるところを見た。その時は、それだけ」
「……水尾ちゃん、赤ちゃんが出来たの、」
「そう、……それで、」
樹生は乾いて貼り付く唇を舌で湿した。
「ちょっと病院に緊急でかかる日があったんだ。おれじゃなくて、恋人が。おれは待合で待ってて……そしたらそこに水尾の親父と旦那がいたんだよ。ちょうど水尾が子ども産むとかなんとかってタイミングで来てて。……緒方さんには色々言われたけどまあ、あまり気にしない。けど、その会話を恋人に訊かれてて」
「――」
「それがきっかけで、喧嘩っていうかな、すごく怒られた。怒って出てった」
姉は黙った。しばらく視線を下に向けて考えていた風だったが、やがて顔を上げた。
「二つ、ある」
「何、」
「一つ目。緒方さんに何を言われたの」
「……別にしょうもないことだよ。もううちに関わるなとか、そんな話」
「まだそんなこと言ってんのね、あのクソ爺」
ばっさりと茉莉は言い捨てた。
「それも、あんたに言っても仕方がない恨み節ばっかり。同情さえしないわ。過去のことぐちぐちぐちぐち、胸くそ悪いったらありゃしない」
「……」
「いつまで被害者面してんだか。いつまで可哀想な自分気取りでいるんだか。突然、幸福な家庭ってのを壊されてなんて憐れなおれ! どうせそんな所でしょ。あほらしい」
姉はぽんぽんと、むしろ小気味よく罵る。それを聞いて樹生の中にあった重たい石のような痞えが、ころっと転げ出た気がした。
息をつくと、姉は「ほんとむかつくわ」と心から蔑む瞳で窓の外に目を向けた。
「もうそんなに気にしてない。一時は本当に参ったけど、」
「そうね。あのクソ爺の事で心砕いているその時間が人生の無駄遣いだわ」
で、と姉は顔をこちらに向ける。短すぎる髪のおかげで表情のひとつひとつが手に取るように分かる。樹生はこの美しい魔女の二つ目の言葉を覚悟して待った。
魔女は「あんたのかわいい子は水尾ちゃんの事を知らないのね?」と言った。そこを突かれるだろうなとは予想していたので、樹生は大人しく頷いた。
「話してないの、」
「ああ」
「何も?」
「そう、……何も」
姉は「ばかだわ」と溜息をついた。
「隠すから喧嘩になんかなるのよ」
「隠してない。言う気がないから言ってないだけ」
「向こうからすれば同じでしょ」
それはその通りで、何も反論は出ない。
反論代わりに「茉莉は?」と訊ねた。姉は「私?」と怪訝な顔をする。
「曜一郎さんには言ってあんの、」
「あるわ、付き合い始めてすぐにはね」
「藍と茜は?」
「あの子たちには、まだ、かいつまんでの程度かな。こっちに片が付いて、彼女らがもう少し大きくなったら、話す。私が話さなくても曜一郎が話すでしょうね。『母方の祖父母に会えない理由』だから」
「……」
「家族になるってそういうものかもね」茉莉は言った。「別居で家庭崩壊に追い込んだ私が言うことじゃないけど」と。
「……まだ、曜一郎さん達と別居、してんの、」
「してる。けど、藍と茜は家に戻ってきてる。曜一郎の実家は大きいけど、そうは言ってももう曜一郎の弟が家を継いでるからね。――ほら、お正月に私が熱出したとき」
「ああ、あれあの後何もなかったからひやひやしたけど、連絡したんだな?」
「したわ。そしたらみんなでいったんは家に戻ってきた。面倒見てくれて……その時に藍が『おじいちゃんの家は居辛い』って辛い顔をしたから、藍だけ戻した。そしたらそのうち茜もそうしたいって言い出して、今、家にいないのは曜一郎だけ」
そこで言葉を句切り、茉莉は「は」と嘲る吐息をこぼした。
「……変なの。私が壊した関係なんだから、私が出て行けばいいのよね。曜一郎が実家に帰るんじゃなくて」
「……」
「ばかみたい。こんなにばかで、不器用で、愛おしいなんて、今まで思わなかった。……距離を置くと見えるものもあるのね」
横目でちらりと姉の様子を窺うと、彼女は茫洋とした眼差しで前を見ていた。
→ 53
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光線は次第に春に傾くが、まだ冬が冬でいたいと駄々をこねて泣いている、そんな風の吹き方のする夜に電話があった。これには樹生の方からも連絡を取ろうとしていたから、こういうタイミングってあるもんだな、と思う。
最後に会ったのは十一月で、声を聞いたのは先月の初旬。これだけ長いこと姉となんの連絡も取らない、という日々はいままでにはなかった。
「茉莉、」という発音さえ久しぶりで、なんだか噛み締めるような響きになる。姉もそれを聞いて思うことがあったようで、『あんたなんて声出すのよ』と呆れながらも身内の気安さで答えた。
『そんなに淋しそうな声出さないでよ。何かあった?』
「ペア解消に陥ってるからな」
『え? 一緒に暮らしてるかわいい子と?』
「うん。喧嘩した」
するすると話をする弟のことが珍しいらしい。姉はしばらく黙ったが、ややあって『ばかね』と言った。
『そんなに好きならさっさと孕ませて結婚すれば?』
「うーん、そうなってくれると話は早いけどね。そうもいかないから」
『なに、あんたのセックスが下手でセックスレスにでもなってるの、』
「うるせ」
くだらない言い合いでくだらなく笑う。その親しい感覚も久しぶりだった。
『色々と訊きたいことあるけど直接会って聞くわ』と姉は言う。
『三月の一週目の日曜日、空いてない?』
「えーと待って、シフト見る」
樹生は通勤用の鞄に押し込んだままになっているシフト表のコピーを取り出す。日付を確認すると、その日は休みになっていた。
「OK、空いてる。いつもの墓参り?」
『それもしたいけどね。冬の間、全然行ってないから』
「茉莉、行ってなかったんだ」
『あんた行った?』
「いや、全然」
母さんが淋しがるわ、と茉莉は言った。樹生も、そうだな、と返す。
『車出してほしいの。ドライブしましょう』
「――Kまで?」
『そうね、Kへ』
Kと言えば「あの男」の居場所だと茉莉が言っていた土地だ。いよいよ復讐に向かってことを起こすのか。おれはどうしたらいいんだろうなとぼんやりと考えたが、どうも思考が鈍る。
だが姉は『お茶しましょ』と言った。
『パンとコーヒーとカレーが美味しいっていう有名なカフェがあるのよ。そこに行ってみたくてね。でもKってまあまあ遠いじゃない。あんたに連れてってもらおうと思って』
「え?」
『何よ』
「いや、……」
裏も表も何もない台詞に、面食らった。しばらく考えて、「いまKまでの道って開いてんのかな?」と、本当に訊きたいことからずれた発言をする。
『開いてる?』
「あっちって雪降るだろ、ここより。道路が開いてるのかなと思って」
『知らない。でも雪道ぐらい平気でしょ、郵便屋さんは』
「んー、まあ」
『カフェも冬季閉鎖じゃないから、ってことはどうやってだか人が来るんでしょ。じゃあ、そういうことでよろしく』
いつも待ち合わせる駅前に朝八時に集合、という話でまとまって、電話は切れた。
→ 52
← 50
「したかった? その、昔の婚約者さんと?」
「うん。おれは家族が欲しかったから」
自分だけの家族、自分だけのもの。樹生自身が作り出した、樹生を癒してくれる、樹生の居場所だ。それにとても憧れていて、手にしたいと渇望していた。
そしてそれは水尾とでしか作れないと思い込んでもいた。だからそこ婚約を解消せねばならなかったときは、心から絶望して、でもそれが自分と言う人間の運なのだと、どこか醒めた気持ちで思っていた。
そういうある種の諦めの良さがもしかしたら水尾との仲をここまで遠くしたのではないかと、今、思い至る。
同僚は静かに樹生の言葉を待っている。いい態度だなと思う。仕事では持ち前のうっかりを発してそれのカバーに時間をかける事があるのだが、一家の主としてはいい資質を持っていそうだと思った。不意に早の顔が浮かび、その隣で怖い顔をしていた、――けれどそれは見た目の話で、実はおおらかに微笑んでいた優しい人、の顔が浮かんだ。あれこそ、と思う。
あれこそ、樹生が心から欲しいと思った他者との関係だった。
「でも、今思えば、『家族』ってのに幻想があったのかも」
「幻想」
「うん。『家族』がいればなんでも出来て、普通で、当たり前で、あったかくて、淋しくなくなるんだと思ってた」
「岩永さん、淋しいんだ?」
「おれは極度の淋しがりだよ。図体がでかいから、あんまりそう見えないみたいだけど」
同僚は「そうだったんだ」と笑った。
「誰かといても淋しいもんは淋しいし、むしろ感情のぶつかり合いは面倒臭いし」
「うん、分かるな」
「……でも、だからってひとりがいいってのは、やっぱりどうしても思えないんだ」
「うん、」
「ひとりは嫌だな……」
もうあの雨の日のような、唐突な別れと猛烈な孤独感は味わいたくない。水尾との別れを決意した時の、心の中に大穴が空いたような虚ろで理不尽なやるせなさも嫌だ。
暁登と再会した日の、暁登の頼りなく丸まって震える背中の強烈な切なさ、滲み出る淋しさ。そんなのも感じたくはない。出来ることならそれは自分の力で温め、甘やかし、守りたい。そう思う。
暁登に会いたい。顔が見たい。目を覗き込みたい。抱きしめたい。肌が恋しい。声が聞きたい。
「ばか」でもなんでも、いつもの呆れた口調で、でも笑って欲しい。
不意に同僚が「おれ、一度離婚してるんだよね」と言うので、樹生は驚いた。
「え、バツイチってこと?」
「そ。若気の至りかなあ、付き合ってた彼女に子どもが出来ちゃったから慌ててデキ婚したんだけど、結局その子どもは流れちゃってね。籍入れたけどぜーんぜんうまくいかなくなってしまいにはおれといるとプレッシャーなのかなんなのか過呼吸起こすようになっちゃって。若かったしね。金もなかった。あっさり離婚」
「……知らなかった、」
「十代の話だもん。まだこの会社じゃなかったし」
同僚はひとしきり苦笑いをしてから、「しばらくひとりでいいかな、って思ったりはしたんだけど」と穏やかに話す。
「やっぱり結局は誰かの傍にいたくなった。あれ、なんだろうな。突然やって来る人恋しさ」
「……うん、」
「だから今、それが叶って、おれはハッピー。そのうち関係は変わるかもしれないけど、その時また考えるんだ」
「そか」
「うん」
樹生はしばらく口元に手を当てて思案していたが、やがて立ち上がる。
「帰るわ。ありがとう」
そう言うと、同僚は「うん」と手をひらひら振って樹生を見送った。
→ 51
← 49
「うん。おれは家族が欲しかったから」
自分だけの家族、自分だけのもの。樹生自身が作り出した、樹生を癒してくれる、樹生の居場所だ。それにとても憧れていて、手にしたいと渇望していた。
そしてそれは水尾とでしか作れないと思い込んでもいた。だからそこ婚約を解消せねばならなかったときは、心から絶望して、でもそれが自分と言う人間の運なのだと、どこか醒めた気持ちで思っていた。
そういうある種の諦めの良さがもしかしたら水尾との仲をここまで遠くしたのではないかと、今、思い至る。
同僚は静かに樹生の言葉を待っている。いい態度だなと思う。仕事では持ち前のうっかりを発してそれのカバーに時間をかける事があるのだが、一家の主としてはいい資質を持っていそうだと思った。不意に早の顔が浮かび、その隣で怖い顔をしていた、――けれどそれは見た目の話で、実はおおらかに微笑んでいた優しい人、の顔が浮かんだ。あれこそ、と思う。
あれこそ、樹生が心から欲しいと思った他者との関係だった。
「でも、今思えば、『家族』ってのに幻想があったのかも」
「幻想」
「うん。『家族』がいればなんでも出来て、普通で、当たり前で、あったかくて、淋しくなくなるんだと思ってた」
「岩永さん、淋しいんだ?」
「おれは極度の淋しがりだよ。図体がでかいから、あんまりそう見えないみたいだけど」
同僚は「そうだったんだ」と笑った。
「誰かといても淋しいもんは淋しいし、むしろ感情のぶつかり合いは面倒臭いし」
「うん、分かるな」
「……でも、だからってひとりがいいってのは、やっぱりどうしても思えないんだ」
「うん、」
「ひとりは嫌だな……」
もうあの雨の日のような、唐突な別れと猛烈な孤独感は味わいたくない。水尾との別れを決意した時の、心の中に大穴が空いたような虚ろで理不尽なやるせなさも嫌だ。
暁登と再会した日の、暁登の頼りなく丸まって震える背中の強烈な切なさ、滲み出る淋しさ。そんなのも感じたくはない。出来ることならそれは自分の力で温め、甘やかし、守りたい。そう思う。
暁登に会いたい。顔が見たい。目を覗き込みたい。抱きしめたい。肌が恋しい。声が聞きたい。
「ばか」でもなんでも、いつもの呆れた口調で、でも笑って欲しい。
不意に同僚が「おれ、一度離婚してるんだよね」と言うので、樹生は驚いた。
「え、バツイチってこと?」
「そ。若気の至りかなあ、付き合ってた彼女に子どもが出来ちゃったから慌ててデキ婚したんだけど、結局その子どもは流れちゃってね。籍入れたけどぜーんぜんうまくいかなくなってしまいにはおれといるとプレッシャーなのかなんなのか過呼吸起こすようになっちゃって。若かったしね。金もなかった。あっさり離婚」
「……知らなかった、」
「十代の話だもん。まだこの会社じゃなかったし」
同僚はひとしきり苦笑いをしてから、「しばらくひとりでいいかな、って思ったりはしたんだけど」と穏やかに話す。
「やっぱり結局は誰かの傍にいたくなった。あれ、なんだろうな。突然やって来る人恋しさ」
「……うん、」
「だから今、それが叶って、おれはハッピー。そのうち関係は変わるかもしれないけど、その時また考えるんだ」
「そか」
「うん」
樹生はしばらく口元に手を当てて思案していたが、やがて立ち上がる。
「帰るわ。ありがとう」
そう言うと、同僚は「うん」と手をひらひら振って樹生を見送った。
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ふーっと息を吐くと、同僚はますます驚いた顔をする。
「疲れてるね、岩永さん」
「かも。やっぱその弁当ちょっとくれない? つくねでいいよ」
「だめ、やらない」
同僚はきっぱりと言い放ったが、笑いなおして、弁当を樹生に寄越した。
「本当に食っていいの?」
「つくねだけな」
そう言われたので、同僚の箸も借りてそれを貰う。つくねには甘辛くタレが絡んでいて、ごまの風味がよかった。
「うまいな」と漏らすと、同僚は「だろ?」と言って樹生から弁当を受け取る。
「奥さん元気?」
「元気だよ」
「共働きだよな」
「まあね、子どももいないしね。いまは貯金、て感じだな」
子ども、と聞いて連想したのは水尾の事で、緒方の事で、婿の守脇の事だった。内心で樹生は舌打ちをする。
「結婚って、どう?」と同僚に訊くと、彼はきょとんとした目を向けてから、「うーん」と唸った。
「多分、人それぞれ。おれの場合はいまのところハッピー。めしは美味いし嫁さんはかわいいし」
子どもが出来ればまた変わっちゃうんだろうな、と同僚は息をつく。樹生はそれを自分と暁登に当てはめて考え、すぐに馬鹿らしいと自分を嘲った。樹生と暁登はどう頑張っても子を成せないし、結婚すらしない。方法がないわけではないが、そこまでするのは面倒だとも思っている。だから恋人のままで、夫婦や親という選択肢はない。
そうだと言って変わらないかと問えばそれは違う。感情は日々変化する。だから関係も変わってしまう。
同僚が「岩永さん、結婚考えてるの?」と聞いてきたので、樹生は「なんも」と言ってやった。
「彼女いるんでしょ、岩永さん」
「どこ情報、それ」
「中野(なかの)さんが言ってた。岩永はよく内緒で電話してたり雨の日は早く帰ったりするから、絶対に独り身とかひとり暮らしじゃない、って」
「中野か」
樹生は苦笑する。よく見られているものだ。だが同僚が続けて「婚約してるんでしょ?」と訊ねてきたので、樹生は思わず目を大きくして同僚を見返してしまった。
「――え?」
「違うの? 中野さんそう言ってたけど。中野さんと同期で入社した人が岩永さんの前の職場にいて、その人からそう聞いた、って」
言いながら同僚も根拠のない噂だと思ったようで、台詞の最後は自信がなさそうに窄んだ。
樹生は「昔な、昔」と言葉を濁す。その事について話す気は全くない。樹生の中でその事は既に終わっている。
同僚は困ったように眉尻を下げたが、やがて「今は?」と優しく訊ね返す。
「いま?」
「結婚はしないの?」
「どうだろ」
「また、そういう言い方ではぐらかす。秘密主義なところあるよね、岩永さんってさ」
と同僚に言われ、そういう訳ではないのだけどな、と心の中で考える。続けざまに「はぐらかしてばっかりだと離れてっちゃうよ」と痛い所を突かれ、樹生は思わず顔を顰めた。
参ったな、と樹生は頭を抱え、髪に手を差し込んでぐしゃぐしゃとかき回した。
「図星?」
「んー……」
樹生は黙る。同僚は言葉を待つでもなく弁当を腹に収めテレビに目を向ける。その距離感がいいなと思った。彼になら話しても他人事で済ませてくれると感じたのだ。
「秘密主義って訳じゃない」と答えると、同僚は顔をこちらに向けた。
「別に、特に。ただおれの中で過去は終わった話で、整理もついてるから。今更話すことなんてない、それだけ」
「秘密主義の理由?」
「秘密主義なんて主義もないけど。ただ、言う必要を感じてないから」
ふうん、と同僚は曖昧な返事をした。よく分からないのだが、突っ込む気持ちもないのだ。
「――結婚は、したかった」
そう言うと、同僚はさすがに聞く気になったらしい。テレビの音量を小さくして体をこちらに向けた。
→ 50
← 48
七.冬の華(二)
ロッカールームで着替えていると、同僚もやって来た。彼の今日のシフトは夜勤で、樹生と違ってまだ仕事が終わらず、帰れない。樹生の隣に据えられた個人ロッカーから弁当を取り出したので、これから休憩に入るのだと察しがついた。
樹生よりひとつ年下にあるが、既婚者だ。結婚して一年か二年になるとかで、まだ子どもはいない。持参する弁当はいわゆる「愛妻弁当」だ。色味は地味だがどれも手の込んだ品を弁当に詰めているので、いつ見ても「うまそうだ」と思う。
ロッカールームに隣接している休憩室へと移動する時、同僚は「あれっ?」と立ち止まった。
「岩永さんどしたの、首」
「え?」
「ここら辺」
とんとん、と自らの右手で耳下の首筋を指す。樹生もつられて自らのそこに手を当て、そこが傷ついている事を自覚して、「ああ」と気のない返事をした。
暁登がつけた傷はあれから数日が経って治りつつあったが、傷の痛みよりは治りかけの痒みの方が樹生の気に障り、よくそこを搔いた。普段は制服で隠れるからと、隠そうともしていない。
同僚はのんびりと「痛そう」と言った。
「赤紫に盛り上がってる」
「あ、そうなんだ」
「そうなんだって、自分の傷っしょ?」
同僚は苦笑したが、傷の理由までは尋ねなかった。樹生はロッカーの内側に掛けられた小さな鏡に首筋を映してみる。確かに搔いたせいで傷口が膨れ、しっかりとケロイドになっていた。
これは痕が残るかもしれないと思う。
暁登が樹生と暮らす部屋から出て行って、一週間が経過しようとしていた。本当に実家に帰ったのかどうか確かめていない。その後を樹生は追おうともしていなかった。早の元へは通っているのだろうか。怪我を理由に行っていない可能性は充分あるが、その先を考えることを、樹生の脳は拒否した。
今頃なにをしているんだかな、と浮かんだが、それを想像はしない。すればするだけ辛くなる。出来るだけ空っぽの頭でいたかった。感情に身を任せて身の捩れるような想いでいるのは、嫌なのだ。
休憩室から総菜の香りが漂った。同僚が電子レンジで弁当を温め、休憩し始めたのだ。着替え終えた樹生はそのまままっすぐ帰ればよかったのに、なんだかその温みに惹かれてしまい、同僚のいる休憩室へと顔を出した。テレビを点けて夕方の情報番組を見ながら、同僚は弁当を食べていた。
そこへ寄って、樹生は背後から同僚の弁当の中身を覗き込む。しばらく黙々と食事をしていた同僚だったが、樹生のその行為に首を傾げて、「なに」と苦笑気味に振り向いた。
「弁当が美味そうだったから」
「あげないよ」
「いや、いらない」
「なんだよ」
と同僚は笑った。それから「どしたの」とまた訊いた。
「岩永さんがこんなことするなんて珍しいね」
「あー、まあ、うん、」
日ごろなら同僚の弁当を適当に茶化して帰るのだが、なんとなく今の気分でいたくなくて、樹生は休憩室の小上がりに腰を下ろした。
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樹生よりひとつ年下にあるが、既婚者だ。結婚して一年か二年になるとかで、まだ子どもはいない。持参する弁当はいわゆる「愛妻弁当」だ。色味は地味だがどれも手の込んだ品を弁当に詰めているので、いつ見ても「うまそうだ」と思う。
ロッカールームに隣接している休憩室へと移動する時、同僚は「あれっ?」と立ち止まった。
「岩永さんどしたの、首」
「え?」
「ここら辺」
とんとん、と自らの右手で耳下の首筋を指す。樹生もつられて自らのそこに手を当て、そこが傷ついている事を自覚して、「ああ」と気のない返事をした。
暁登がつけた傷はあれから数日が経って治りつつあったが、傷の痛みよりは治りかけの痒みの方が樹生の気に障り、よくそこを搔いた。普段は制服で隠れるからと、隠そうともしていない。
同僚はのんびりと「痛そう」と言った。
「赤紫に盛り上がってる」
「あ、そうなんだ」
「そうなんだって、自分の傷っしょ?」
同僚は苦笑したが、傷の理由までは尋ねなかった。樹生はロッカーの内側に掛けられた小さな鏡に首筋を映してみる。確かに搔いたせいで傷口が膨れ、しっかりとケロイドになっていた。
これは痕が残るかもしれないと思う。
暁登が樹生と暮らす部屋から出て行って、一週間が経過しようとしていた。本当に実家に帰ったのかどうか確かめていない。その後を樹生は追おうともしていなかった。早の元へは通っているのだろうか。怪我を理由に行っていない可能性は充分あるが、その先を考えることを、樹生の脳は拒否した。
今頃なにをしているんだかな、と浮かんだが、それを想像はしない。すればするだけ辛くなる。出来るだけ空っぽの頭でいたかった。感情に身を任せて身の捩れるような想いでいるのは、嫌なのだ。
休憩室から総菜の香りが漂った。同僚が電子レンジで弁当を温め、休憩し始めたのだ。着替え終えた樹生はそのまままっすぐ帰ればよかったのに、なんだかその温みに惹かれてしまい、同僚のいる休憩室へと顔を出した。テレビを点けて夕方の情報番組を見ながら、同僚は弁当を食べていた。
そこへ寄って、樹生は背後から同僚の弁当の中身を覗き込む。しばらく黙々と食事をしていた同僚だったが、樹生のその行為に首を傾げて、「なに」と苦笑気味に振り向いた。
「弁当が美味そうだったから」
「あげないよ」
「いや、いらない」
「なんだよ」
と同僚は笑った。それから「どしたの」とまた訊いた。
「岩永さんがこんなことするなんて珍しいね」
「あー、まあ、うん、」
日ごろなら同僚の弁当を適当に茶化して帰るのだが、なんとなく今の気分でいたくなくて、樹生は休憩室の小上がりに腰を下ろした。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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