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大先生が町内会の旅行で留守をするという。その隙を狙って日野辺の家、日野辺の自室でセックスをした。昼間の、なにも隠せない交合。日野辺のごく平均的な身体が硬く張り詰め、声をうわずらせ、頂点を迎える、その先端からの体液の放出も、余すことなく全部見た。
日野辺の中は、狭くて、蠢いて、温かかった。熱い、ではなくて、温かい。包まれる性器は自分のものなのに、羨ましいと感じた。こうして日野辺の中に全身で潜り込んで、日野辺の身体の中に取り込まれたい。それはさぞかし温かくて優しいのだろうかと思ったら、知らずで目元が濡れていた。
下になった日野辺は「汗?」と額を撫でた。
「それとも泣いてるのか、現」
「わかんない」
「ばかだなあ」
そのまま目蓋に唇を押し付け、体液を吸われ、唇に行きついてままならない息継ぎを夢中で貪った。
対位を変え、日野辺を上に乗せた。この方が奥まで入り込める。日野辺が辛いのもわかる。けれど求めても求めきれない焦燥感でどうにかなりそうだった。
がたがた、と窓が鳴る。薄い生成りのカーテンの向こうはしんしんと冷え込む冬がある。身体の熱さに隙間風が心地いい。日野辺を揺すり、腰を抱え、突き上げながら、あちこちに唇を落とした。
「――あっ、現、……またいく、」
「おれもいくよ」
がつがつと突きあげ、日野辺はその喉仏を晒す。そこに噛み付いて最後の坂を駆けあがり、先にいったのは日野辺だった。間髪入れずに日野辺を倒し、心地よかった狭間から性器を引き抜いて、思いきり日野辺の腹にかけた。
荒い呼吸の中で、日野辺は自身の腹に散ったどっちつかずの精液を、すくって舐めた。不味そうな顔をして、「あんまりいいもんじゃないな」とコメントする。
「身体拭いてやるよ。ちょっと待ってろ」
「このまんまがいい」
「あちこち汚れたろ」
「現に離れてほしくない」
日野辺はそっとカーテンをあけた。真冬の青空が広がっていた。なにか種類は分からぬが、ちいさな鳥が散らばるように渡っていく。カーテンをあけても室内が見られるような高所に建物があるわけではないから(以前住んでいた街ならあった)、日野辺の手をそのままにしておいた。
窓辺に伸びていた手は、探るように目元に当てられた。
「涙、乾いたな」
「……泣いてねえし」
「ちょっと寝ろ。うちの親父の戻りは明日だから。泊まっていけるんだろ、現」
「ん、」
「まだするか?」
絡んでいる身体の健全を安直にからかわれた。
「するなら僕はいったんインターバルを置きたいんだけど。連続は無理」
「さほど若いわけじゃないんだよな、あんたも、おれも」
「そう、昔みたいに爆発する感じでセックスってできなくなったなあ」
しみじみと言った男は、もっと若い身体があったころ、どんな爆発力でセックスに及んでいたのか気になった。でもそれを訊くのも野暮なのかもしれない。少なくとも自分はもう、義兄とのセックスのことは過去の話にとどめておいて、そこに付随する感傷には浸りたくないし。
過去は過去。いまはいま。日野辺と裸体をベッドに沈ませている、いまがあったらそれでいい。
「悪いことじゃないよな」
「そうだな。じっくりやれるっていうか。相手の身体の声が聞こえるようになった気がする。抽象的な表現かな?」
「いや、分かるよ。自分勝手じゃなくなったってことだろ」
ふあ、とあくびをした。
「――寝る。起きたら飯食って、する」
「いいよ。三大欲求を素直に備えてるな」
「ばかにしてるか?」
「そんなわけないよ。健康な証拠じゃん」
医者の台詞には説得力がありすぎた。そうだな、とみじろぎ、日野辺の肩に頭を載せた。
そのままとろとろと、じっくりと煮込まれるような心地で布団と日野辺に親和する。
*
目が覚めたら、日が暮れかかっていた。傍にあったはずの日野辺の身体がない。あれ、と思って半身を起こすと、日野辺は箪笥から衣類を漁っている最中だった。下は下着を身につけただけで、でも上半身にはたっぷりとした起毛のセーターをかぶる。
それからベッドに戻ってきて、現の隣に「さむさむ」と潜り込んだ。
「汗かいたまま寝たら寒くなった」
「そのセーター、よれよれだな。毛玉だらけだし」
「昔買った安いのだからなあ。もう首元が伸びちゃったんだよね。ぶかぶか」
ハイネックのセーターだったが、喉仏がしっかり見えるほど緩んでいた。
「でも肌触りが馴染んでてつい着ちゃう」
「風呂沸かすか?」
「んー、もうちょっとこのままごろごろしてたい」
セーターの裾から手を入れて日野辺の肌にじかに手のひらを滑らせる。熱く湿っていた肌は乾いて、鳥肌がぷつぷつと立つ。
「寒い?」
「寒い。鼻水出てきた」
「せめてストーブ入れろよ。この部屋隙間風ありすぎ」
「このあたりってさ、この時期は風が強くて」
その台詞を裏付けるかのように、カタカタと窓はまだ鳴っていた。
「寒冷蕁麻疹出てうちに駆け込んでくる患者もいるよ。うちは内科だから、皮膚科行けよってなるんだけど」
「あんた、まだ鳥肌立ってる」
「寒いんだよ」
日野辺からすれば、おそらく自分の方が体温は高いのだと思う。日野辺の腹にひたひたと当てていた手をそのまま滑らせ、ニットを引っ張って裾から頭を潜り込ませた。
「おい、現、」
衣服の中で出口を探す。冷えた日野辺の身体に密着しながら、ぷは、と顔を出せたのは緩んだセーターの襟口だった。
至近距離で日野辺と目を合わせる。「このセーター伸びすぎ」と言ってやると、日野辺は「でも役に立つな」と笑った。
同じセーターに潜り、顔だけ同じところから出して、身体をすり合わせて抱きあう。
「寒いけど、冬って悪くない」
「送、もっと体重のせろよ。収まりが悪い」
「いやあ、この体勢だと無理でしょ」
笑って、近い場所にある顔に頬を擦り寄せた。
「飯、なに食う?」
「なにがあんの? この家に」
「あー、いただきものの白菜がある。あとそこの牛飼ってるところが肉牛つぶしたとかで牛肉もあるな。すき焼きもどきでどうだ。ねぎと焼き豆腐もあったはず」
「田舎の贅沢きわまれり、だな」
「どうせならちょっといい酒も入れよう。地酒がある」
「いいな」
それでもこの、せまっ苦しい状況から脱する気になれない。セーターの下で身体が確実に温まっていく。それが分かる。
もうしばらく、もうすこしだけ。身体が完全に温まるまで、互いの体温で高めあう。
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日野辺医院の裏口にカブを停め、かごを下げて玄関をくぐる。ちょうど大先生が出かけるところで、「おお、ぼうず」と笑った。
「送のやつ、寝てるから起こして相手してやれ」
「なんかあったんすか?」
「今日はちょっと急患が多かったもんでな。さっきまでばたばたしてただけだ。連休前の駆け込み需要ってやつだよ。それにあいつはさ、冬のはじめになると毎年こうなんだ。秋までの疲れが出んのかね。気温が下がると、眠くなるらしくてよく寝てらあ」
「冬眠しそうすね」
「実際、冬のあいつと夏のあいつじゃ体重も二、三キロぐらいは差があるんじゃねえのか? 実に生物的なやつだろ。動物的っていうのかね」
くくく、と可笑しそうに笑って大先生は出かけて行った。家にあがると確かに居間で日野辺がすうすうと寝息を立てて眠っていた。
眼鏡をかけっぱなしで、白衣も着たままだ。よれよれでくたくたでぼろんちょ。なんでこんなのに惹かれるんだろうなあと、ちょっと笑って、ちょっと呆れた。材料の入ったかごを台所に置き、「おい」と肩のあたりを軽く蹴とばす。「送、起きろよ」
「……んん、……現か、」
「さっき大先生が出かけてった。あんた起こして相手してやれって」
日野辺をまたいでシンクに向かうと、寝ぼけたまんまで「なに作ってくれんの」と日野辺は訊いた。
「りんごのお菓子。美味いぜ。ちゃんと常盤果樹園のお墨付きだ」
「現はお菓子なんか焼くのか?」
「おれ、甘いもんめちゃくちゃ好きだもん。好きすぎて調理の専門で勉強したぐらい。ここはさ、すげー田舎の町だけど、果樹園が多いじゃん。材料は贅沢でいいよな。安いし」
「秋はりんごで、」
まだ眠いのか、日野辺は寝ころんだまま腕を上に突き出してくるくると絵でも描くように空をなぞった。
「いちじく、栗、柿、ぶどうに梨、キウイ。冬はハウスで柑橘。春になればいちご、ブルーベリー、さくらんぼ、そのうちにプラム、桃、メロン、すいか、とうもろこし、……ってこれは野菜か」
「この辺はそうらしいな。あんた、甘いもんは?」
「好きだよ。フツーに好き」
「そっか」
フツーに好きか。くつくつと笑っていると「げんー」と寝っぱなしの日野辺に呼ばれた。
「げんー、げんー、げんー」
「なぁんだよ」
何度も呼ばれて呆れながら傍にいくと、伸びた腕に頭を絡めとられた。
「いいよ、りんご後で。後で作って、ちゃんと食べる……眠いんだ」
「今日は大変だったらしいな」
「風邪流行りだしたからな。……葬儀屋じゃないからさ、うちは。みんな生きてるってことでしょう」
「……」
「こういうとき、医者でよかったと思う。なんかさ、思うんだ」
「……そうだな、」
そのまま日野辺の上に体重を預けて重なると、日野辺は重さで「うっ」と唸ったが、目はあけなかった。眼鏡をはずしてテーブルの上に置いてやる。
毛布をずりずりとかぶせて、横になる。日野辺はあやふやな口調のまま、「春になるとさ」と言った。
「この辺はすごいよ。常盤さんとこもそうだけど、あちこち果樹の花ざかりで」
「へえ」
「りんごの花、見たことあるか?」
「いや、ない」
「春になったらたくさん見られる。……花見、しようなあ。現はお菓子の担当で」
「いいよ」
「じゃあおれは、酒と肴の担当で……」
日野辺の手足は熱かった。眠りの隣にいるのが分かる。そっと日野辺の胸に頭を載せる。
心臓が、心拍が、ゆっくりと、打っている。冬の熊みたいな遅さと力強さで。
この辺は冬が深いと聞いている。そういう気候はいままで経験したことがない。農家によっては農閑期に入り、常盤果樹園では収穫したりんごを貯蔵して、注文に応じて出荷したり、加工品に仕立てたりと、内職が主になる。
その間、自分はよそでバイトでもしてみようかと思っている。除雪のバイトとか、スケートリンクの管理のバイトとか。いままで体験したことのないような仕事が、なんのかんのであるようなので。
そうやってこの町で暮らしていく。この男の傍で暮らしていく。
霜の当たったりんごは、蜜が入ってとても甘いらしい。先日、そのりんごを収穫した。冬が間近に迫っている。
短い夢を見た。姉と義兄が赤子をあやしているあのマンションの一室に、立っていた。いや、自分だけ浮かんでいるみたいだった。地縛霊みたいに、未練がましくぷかぷかと漂っている。
自分に気づいた義兄が、こちらを見た。その手には赤子ではなく、青りんごが載っていた。そちらへ泳いでいくと、義兄はあのずるくてものがなしい目をしているのが分かった。
口をぱくぱくしている。なにかを喋っているが、うまく聞き取れない。空を掻いて掻いて、ようやく傍へ寄った。
「Don’t forget me and all the things we did.」
――僕と、僕らがしたことのすべてを、忘れるな。
そう言って、青りんごを寄越す。罪は消えない。姉を裏切ってこそこそと身体を合わせた事実は、いつまでも消えない。
忘れるもんかね。あんたのことなんか。絶対に。そう思いながら青りんごを齧る。とてもすっぱかった。
最悪で、最低で、人災みたいだったあの恋を、真剣に愛しあったことを、忘れたりするもんかね。
すっぱい、と思いながらマンションの扉を泳いでくぐり抜ける。騒がしくて懐かしいあの街の上を泳いでいく。
りんご、ブラウンシュガーが手に入らなかったのできび砂糖、薄力粉に、バター。それからシナモン。これはスーパーで買えた。
薄力粉にきび砂糖を加えたものに、室温に戻したバターを落とし、手で練る。ぽろぽろとだまになればそれで完成。りんごを適当な大きさにスライスして砂糖とシナモンをまぶす。耐熱容器にりんごを入れ、その上にだまにした薄力粉を覆うようにしてかぶせ、オーブンでしばらく焼く。
それとは別にカスタードを作る。これは牛乳に卵と砂糖と薄力粉を混ぜて小鍋で焦げつかないように火にかければ案外簡単にできる。オーブンで焼きあがったりんごに、カスタードを添える。
あたたかいうちにそれを十時のおやつに提供すると、口にした常盤果樹園のみなが「あら」「へえ」「ほお」と息をついた。
「カスタードは別にあってもなくてもいいんですけど、ある方がおれの好みなんで」
「美味しいわねえ、これ。イズミくんにこんな特技があるなんて知らなかった」
「おれ、これでも一応調理の専門学校出てるんですよ」
「あ、そうなの? じゃあこんなところで働いてる場合じゃないんじゃない?」
「いえ、ここ気に入ってますから」
そう言うと奥さんは笑って、「これなんていうお菓子なの?」と訊いた。
「アップルクランブル。イギリスの家庭的なお菓子です。材料もりんごとバターと砂糖と薄力粉あればできるし、混ぜて焼くだけだし。すぐできて美味しいですよ」
「これいいわねえ」
「ほんと。傷もののりんごでもこれなら全然いいわよね。ちょっとすっぱくても、古くなっても、どんなりんごでも」
「今日はおれの好みでカスタードにしちゃったけど、クリームチーズでも美味いですよ」
「やだ、それも食べたい」
それまで黙って食べていた社長が、ひと息ついて、「ああ、美味い」と言った。
「このレシピ、起こせるか? イズミ」
「おれ、字には自信がないんで、清書は奥さんとか字や絵の上手い人あたりにやってもらう方がいいと思いますけど」
「じゃあうちの嫁にやらせよう。あいつはちょっと絵も描けるしな。このレシピつけてこないだの台風で落ちたりんご、売ろう。直売所に持ってけば、他とちょっと差がついて、まあ、売れるだろう」
「このぽろぽろしたのが美味しいわよね。他の果物でも応用がききそう」
「それをクランブルって言うんです。ブルーベリーに変えても、洋なしに変えても、美味い」
「やだわー、食べてみたいものばっかりで」
女性陣は嬉しそうにはしゃいで食べていた。甘いものを久々に作ったし、久々に食べた。
ふ、と息をついて空を見あげる。秋の澄み切った空にうろこ雲が伸びている。
「さて、休憩したら作業すっぞ」
「はぁい。イズミくんごちそうさま」
「また作って」
用意されていた食事は、簡単なものだったが、なんだか腹に染みた。とても美味しいと感じた。白米とみそ汁と缶詰と漬物だけなのに。味覚をつかうってこういうことなのかな、と思った。先ほど雨に打たれながら日野辺が叫んだ言葉がよぎる。投げやりに、死んだみたいに生きるんじゃなくて。まっとうに生きてくれよ。
食器を片付けていると、日野辺が現れた。目に疲労はにじんでいたが、眠る気はないようで日本酒の瓶を探り出した。黒い上着を脱いで椅子にかける。コップをふたつ携え、「こっち」と呼ばれるままに和室へ向かう。
仏壇の置かれた部屋は、いまは遺体の安置室になっていた。棺と花が置かれ、黒塗りの台に線香が立てられている。
その畳の上に座して、どん、と酒瓶を置くと、「通夜」と日野辺は言った。
「文字通りだよ。線香絶やさないようにひと晩じゅう付き添う。まあ、事情が事情だし、この雨だから、弔問客をもてなす気もないし誰も来ないと思うけどね。……台風が去ったら坊さんが来て葬式だ。いとこがね、通夜ぐらい仕事だからいてくれるって言ったんだけど、断った。今夜は付きあえよ、現」
そう言われ、ひとまず日野辺いずみに線香だけあげて、日野辺の前に座った。日野辺はコップにとぷとぷと日本酒を注ぐ。
「……お姉さん、どんな最後だったの、」と訊く。日野辺はビールのときと同じく、ちびちびと舐めるように酒を飲んだ。
「まあ、穏やかだったよ。バイタルがゆっくり下がって、ゆっくり死んだ。いままで散々苦しかっただろうから、最後ぐらいこういう穏やかさでよかったよな、って思った」
「こんな日に、……本当にごめん。探しに来てもらうようなことさせて」
「いや、かえって頭が冴えた。悲しみに暮れてる場合じゃなくなって。まあ、常盤さんから連絡もらったときはものすごく心配で走り回ったけどね。嵐のときは危険だから、むやみに出かけるなよ」
「……どうしてもあんたに会いたかった」
その言葉で、日野辺は飲みかけたコップを下におろした。
「現、」
日野辺の目の、眼鏡の奥の瞳の、瞳孔が、しんしんと透きとおって深い。
「おまえになにがあったんだ?」
いままで訊かなかったことを、日野辺は訊きだそうとしていた。真剣に、流さず、受け止めようとしている。
「……姉夫婦に子どもが出来た。無事に生まれたって、今日、連絡があって」
「おめでたいことだ」
「めでたくなんかねえよ。すくなくとも、おれは」
「……なぜ?」
「子どもができたって聞いたときから、嘘つき、このやろうって、裏切られた気分でいた。そもそも間違ってたのはおれなんだけどな。でもあの人は、姉とはセックスレスの夫婦だからって言ってた。ずるい人だったよ。すごく、ずるかった」
「あの人」
「義兄さん。義理の兄。姉の夫。……おれ、義兄さんとは身体の関係にあった」
「……」
「きったなくて醜い話だろ。……姉貴にさ、この人と婚約したのって紹介されてはじめて会ったときに、あっ、て感じで。転げ落ちるみたいに、これが恋なんだって分かった。向こうもおんなじで、姉貴に隠れて何度も会ったし、会えばセックスした。おれもあの人も本当にろくでもない人間で、会えば全部のことがどうでもよくなって、お互いしか見えなくなるんだ。何度もバイトくびになったし、アパートの家賃すら払えなくなるような事態にもなった。それでも会うことをやめられなくて、……結局、向こうが辛かったんだろうな。おれと恋をし通し続ける覚悟はなかったんだ。姉貴が妊娠したって聞いて、そっからおれ、もう、どうしていいのか分かんなくなっちゃって。なにやってもしんどかった。毎日視界が灰色みたいな。……耐えられなくなって、逃げるみたいに電車乗って、乗って、乗り換えて、……この町であんたに拾ってもらって、なんか、ここにいる」
日野辺はまた、ちびりと酒を飲んだ。
「姉貴は知らないまんまだと思う。知らないから『生まれたよ』なんて、あんなLINE寄越したんだろうし。そのことも罪悪感だ。おれもね、姉貴のこと好きなんだよ。あんたみたいに。だからいっそ、あんたひどい、あたしの旦那だよとかって、姉貴に罵られたらすっきりした。恋を終わりにできた」
「すっきりなんかしないさ」
「……」
「しないし、終わりにする気もなかっただろう」
「……」
自分もまたコップに手が伸びて、酒をくっと煽る。そのあいだに日野辺は立ちあがり、新しい線香をつけた。
ふう、と息を吐く。これから語るのは、認めたくない感情だ。
「そうだよ。……結局おれは、義兄さんに、裏切られたと思ったことが、いちばん、堪えてる……」
絞り出した答えは、自分を痛めつける刃だった。だから向きあいたくなかった。日野辺が訊くから。受け止めようとしてくれるから。
「痛い、……痛くてたまんないんだ。どっかへ行きたくて電車に乗ったけど、帰れないだけなんだ。忘れたい。なかったことにしたい。もうこの先、……間違いたくない。誰かを想って想い返されて、他の人を傷つけて、自分も傷ついて、……そういうのは、嫌なんだ。おれは、どうしたらいいんだ? どうやったら痛くなくなるのか、……」
わからない、と言おうとしたが、声が詰まって言えない。姉に隠れて義兄と恋をしたこと。義兄に裏切られたこと。すべてが痛くてつらい。こんなところに来てまで、まだ自分は苦しい。それはこの先いつまでも続きそうで、嫌だった。
その言葉を包むかのように、日野辺は「ここにいろ」とはっきり言った。
コップを畳にじかに置いて、日野辺の腕が肩に力強く添えられた。
「現は、きみは、ここにいろ。帰らなくていい。帰るな。ここで、おれたちの傍にいろ」
その台詞も迷うようで、「んー、ちがうな」と日野辺はうなだれてがりがりと髪を掻きながら言葉を探る。それを必死で聞く。聞き逃すまいと耳をすませる。
「きみが、……駅で途方に暮れていて、家に呼んで名前を聞いて、『和泉現(いずみげん)』だと名乗ったときに、……おれがどれだけ救われたような気持ちになったか、分かるか? 姉貴はこれから死んでいこうっていう人なのに、この人は生きていこうとしている人だって思った。死にたくて乗った電車じゃないよ。生き延びたくて乗った電車だったろう。現が、自分を殺さない選択をしてくれて、どれだけ嬉しいか、分かるか? 疲れ切ってたおれの傍にいてくれて、ひとりにならないように一緒に酒を飲んでくれた。くだらないしょっぱい話を、くだんねえな、って顔で聞いてくれた。現の顔を見るとおれは、ああそうか、これはくだらないことなんだと軽くなれるし、現が傍にいると、どうしようもない現実をどうしようもなくない、と思えた。それがどんだけおれにとって楽になることだったか、想像しろ。理解しろ。現、おまえはここにいる必要があるんだ。ここで、おれの傍にいろ。おれは医者のくせにちっとも度胸がなくて、……でも現にはそれを、ぼっこぼこに殴って正される。しっかりしろよてめえ、って」
肩を掴む手は、力をこめすぎてふるえていた。コップを置いて、腕を伸ばす。日野辺の脇の下をくぐってぐるりと背中に手を回すと、日野辺もまた、頭を掻き抱くように縋ってきた。
こうやってお互いがお互いに縋って、支えて、支え返して、生きている。
「現は、現実の現。現在の現。いやでもいまを見ろと突き付けられる。すごく、いい名前だ」
「おれ、ここにいていいの、……」
「いろよ」
「……」
「ずっといろ、ここに」
横に倒れると、巻き付いたままの日野辺もまた、重なって崩れた。
「日野辺送」
「……ああ」
「ひのべ、わたる」
「そうだよ」
「わたる」
「なんだよ」
「送……」
日野辺の肩越しに天井を見あげる。煌々と眩しい電灯の下に、線香の煙が細くのぼっていく。
「送、」
「なに、」
「いや、」
目元から滲むものがあった。多分この町へ来てはじめて泣いている。
「呼びたいだけだ」
「そうか」
日野辺医院に着いて、まず風呂に蹴り転がすように入れられた。自分もずぶ濡れのくせに、有無を言わせず浸かれ、と。大先生がいて、タオルごしに頭を叩きながら「あったまれよ」と言われた。だからとにかく誰も気にせず時間も気にせず、ゆっくりと風呂に浸かった。
暴風雨に紛れて、人の気配がしていた。だからこそ余計に風呂から上がれなかったのかもしれない。ざわざわと、数人が行ったり来たりを繰り返している。耳をすませつつ、風呂場でぼんやりする。
さっき日野辺は、名前を呼んでくれた。それをどんなに望んでいて、どんなに嬉しくて、だが悲しかったか。自分の名前を当たり前に呼んでくれていた姉を思い出し、家族を思い出し、義兄を思い出した。あのスマホの中の写真の義兄は、父親になった喜びか、戸惑いか、複雑で見たことのない顔で、赤子を抱いて写っていた。
未練は、ある。いまだにものすごくある。後悔している。でもこの土地に来て、忘れることも増えた。常盤の奥さんやその家族は訳ありの自分にもおおらかで、なにも訊かずに家に置いてくれたし、りんごの木の手入れをしているあいだは、したことのない農作業でも気持ちがよくて自分はここでやっていけるのかな、と思えたほどだ。
夏の盛りのりんごの木の、まだ青い小ぶりの実と葉がついたそれを下から眺めると、信じられないほど深い山の緑と、空の青さが、目に眩しかった。それは間違いなく自分を癒した。この実が熟して出荷になるのは十一月から十二月のはじめ、初冬の霜に当てないと甘くならないのだと奥さんから聞いて、そこまでこの実が熟すのを待たねばならないことに、とても驚いた。月日というものが必要なのだと感じた。
日野辺といると、やっぱり義兄を思い出した。なのに日野辺の傍にいたかったのは、日野辺が義兄と似ているからじゃなくて、日野辺が義兄と真逆だと思ったからだろう。義兄ならこうだった、義兄はこうだった、という比較で、日野辺を見て義兄を思い出していた。違う人間なのだから、違って当然だ。そして日野辺に縋れることが、縋っていいよと当たり前に許されることが、たくさん、幾度も、自分を救ってきた。
風呂から上がって、日野辺の着替えを借りて脱衣室を出る。日野辺の衣類はちょっとちいさかった。喪服の人間がてきぱきと動き、医院の一室から棺が運ばれてくるところに出くわした。日野辺もまた、喪服だった。ああ、と悟る。日野辺いずみはとうとう亡くなったのだ。
自分に気づいた日野辺が、「台所に食事があるよ」と穏やかに告げた。
「常盤さんには連絡しておいた。葬儀が済むまでうまいことつかってやってください、だそうだ。その代わりあとですごく働いてもらうって言ってたよ」
「……こんな日におれ、ここにいたら迷惑だったり、邪魔じゃない?」
「迷惑でもないし、邪魔なんかじゃない。……いや、おれが現にここにいて欲しいと思ってるだけなんだ」
「……」そんな嘘、いまつかなくてもいいのに、と卑屈な思いがよぎった。でも必要とされる言葉が、泣きたいほど嬉しい。
「常盤さんにお礼を言わないといけないな。……あの家もね、若社長のお兄さんという人を、本当に幼い頃に亡くしてる」
はじめて知る事実に言葉に詰まった。
「常盤の社長も奥さんも、あのときは辛かっただろう。いろんな境遇の人は多いって話だ。食事、してて。おれもあとで行く」
ワタル、と葬儀社の若い男性に呼ばれて日野辺は行った。その際に背中をぽんぽん、と数度叩かれた。台所に行くとやはり喪服姿の大先生が茶を飲んでいた。「おお、ぼうず」と立ちあがる。
「こんな日にすまねえな。あったまったか」
「……」
「ワタルの服じゃつんつるてんだな。最近の若いもんは上にばっかりびよびよのびやがってよう」
「……日野辺先生も充分若い人だし、おれもそんなに若いわけじゃないですよ」
「いやそれでも、あいつだっておまえよりはな」
「……」
「そのくせにだ。ついててやってくれ。悪いな」
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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