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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 日野辺医院に着いて、まず風呂に蹴り転がすように入れられた。自分もずぶ濡れのくせに、有無を言わせず浸かれ、と。大先生がいて、タオルごしに頭を叩きながら「あったまれよ」と言われた。だからとにかく誰も気にせず時間も気にせず、ゆっくりと風呂に浸かった。
 暴風雨に紛れて、人の気配がしていた。だからこそ余計に風呂から上がれなかったのかもしれない。ざわざわと、数人が行ったり来たりを繰り返している。耳をすませつつ、風呂場でぼんやりする。
 さっき日野辺は、名前を呼んでくれた。それをどんなに望んでいて、どんなに嬉しくて、だが悲しかったか。自分の名前を当たり前に呼んでくれていた姉を思い出し、家族を思い出し、義兄を思い出した。あのスマホの中の写真の義兄は、父親になった喜びか、戸惑いか、複雑で見たことのない顔で、赤子を抱いて写っていた。
 未練は、ある。いまだにものすごくある。後悔している。でもこの土地に来て、忘れることも増えた。常盤の奥さんやその家族は訳ありの自分にもおおらかで、なにも訊かずに家に置いてくれたし、りんごの木の手入れをしているあいだは、したことのない農作業でも気持ちがよくて自分はここでやっていけるのかな、と思えたほどだ。
 夏の盛りのりんごの木の、まだ青い小ぶりの実と葉がついたそれを下から眺めると、信じられないほど深い山の緑と、空の青さが、目に眩しかった。それは間違いなく自分を癒した。この実が熟して出荷になるのは十一月から十二月のはじめ、初冬の霜に当てないと甘くならないのだと奥さんから聞いて、そこまでこの実が熟すのを待たねばならないことに、とても驚いた。月日というものが必要なのだと感じた。
 日野辺といると、やっぱり義兄を思い出した。なのに日野辺の傍にいたかったのは、日野辺が義兄と似ているからじゃなくて、日野辺が義兄と真逆だと思ったからだろう。義兄ならこうだった、義兄はこうだった、という比較で、日野辺を見て義兄を思い出していた。違う人間なのだから、違って当然だ。そして日野辺に縋れることが、縋っていいよと当たり前に許されることが、たくさん、幾度も、自分を救ってきた。
 風呂から上がって、日野辺の着替えを借りて脱衣室を出る。日野辺の衣類はちょっとちいさかった。喪服の人間がてきぱきと動き、医院の一室から棺が運ばれてくるところに出くわした。日野辺もまた、喪服だった。ああ、と悟る。日野辺いずみはとうとう亡くなったのだ。
 自分に気づいた日野辺が、「台所に食事があるよ」と穏やかに告げた。
「常盤さんには連絡しておいた。葬儀が済むまでうまいことつかってやってください、だそうだ。その代わりあとですごく働いてもらうって言ってたよ」
「……こんな日におれ、ここにいたら迷惑だったり、邪魔じゃない?」
「迷惑でもないし、邪魔なんかじゃない。……いや、おれが現にここにいて欲しいと思ってるだけなんだ」
「……」そんな嘘、いまつかなくてもいいのに、と卑屈な思いがよぎった。でも必要とされる言葉が、泣きたいほど嬉しい。
「常盤さんにお礼を言わないといけないな。……あの家もね、若社長のお兄さんという人を、本当に幼い頃に亡くしてる」
 はじめて知る事実に言葉に詰まった。
「常盤の社長も奥さんも、あのときは辛かっただろう。いろんな境遇の人は多いって話だ。食事、してて。おれもあとで行く」
 ワタル、と葬儀社の若い男性に呼ばれて日野辺は行った。その際に背中をぽんぽん、と数度叩かれた。台所に行くとやはり喪服姿の大先生が茶を飲んでいた。「おお、ぼうず」と立ちあがる。
「こんな日にすまねえな。あったまったか」
「……」
「ワタルの服じゃつんつるてんだな。最近の若いもんは上にばっかりびよびよのびやがってよう」
「……日野辺先生も充分若い人だし、おれもそんなに若いわけじゃないですよ」
「いやそれでも、あいつだっておまえよりはな」
「……」
「そのくせにだ。ついててやってくれ。悪いな」
 そうしんみりと笑って大先生も台所から去った。


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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