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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「やっぱりジュースかねえ」
「ありきたりでつまんないよね。この辺の農園みんなやってるし」
「こうなるとパッケージかねえ。どこかいいデザインを格安でやってくれる人がいるのかねえ」
「菓子屋に格安で卸すのも手じゃない? 隣の市まで行けばお菓子屋さんなんてざらにあるし」
「それもねえ、みんな狙ってるしねえ」
「安く買いたたかれるのがオチだわね。でもそうでもしないとねえ」
 やいやい言いながら手は動く。だいぶ雨のひどくなった夜間、社長と若社長が戻ってきた。パートの従業員には、今日はもういいから帰れ、と指示を出す。
「だいぶ大きい台風だ。備えはしたが、被害は出るだろうな」と合羽の水気を払いながら社長が言った。
「今夜これからが肝だ。運頼みに近いな」
「まだこれから収穫するりんごがいっぱいあるのにねぇ」
「加工も手だな。――どうした、イズミ」
 ポケットやあたりを探っていたら、社長にそう訊かれた。素直に「忘れ物したみたいで」と答えた。
「スマホ消えたな、って。どっかに落としたか置き忘れたっぽいです」
「案外その辺にあるんじゃないか? 最後に確認したのいつだ」
「農園で時間見たのが最後だったと思うんです。まあ、なくてもあんまり困らないんですけど」
「いいから。おい、電話してみろよ」
 と社長が奥さんに指示をすると、聞き慣れた着信音が鳴った。社長の言うとおり、その辺にあったらしい。よく探せば作業台のかごの中に放り込まれていた。「すいません、ありました」と言いながら着信を確認すると、相手は姉からだった。
 不在だと分かると、それはメッセージに切り替わった。ぽん、ぽん、とメッセージが入る。はじめの通知は「生まれたよ」だった。写真も添付されている。赤子を抱いた姉と、赤子を抱いた義兄と、赤子を囲む両親が、それぞれに送られてくる。
『無事に生まれた。私も元気』
『ねえ、どこにいるの? 連絡ぐらい寄越してよ』
『元気でやってるの?』
『会いたがってるよ、みんな』
『あなたを心配している』
 嘘だ、と思った。そんな嘘をずらずらと並べて、姉はひどい。けれど嫌えない。血を分けた姉弟だからか。なんでそんなおめでたい時に、自分など思い出すのか。
 ひどい。姉も、義兄も、ひどい。こんな仕打ち。本当にひどい。
「すいません、ちょっと日野辺先生のところ行ってきます」
「え、これから? もう暗いし雨ひどいわよ?」
「すいません」
「ちょっとイズミくん!」
 無理を押し切って、外へ出た。もうカブで移動できる風速でもなく、歩いて日野辺医院へと向かう。雨に打たれたら身体も心も冷えてましになるかと思ったのに、ちっともだった。どこもかしこも熱い。あの人を思い出す。それを打ち消してほしい。あの朝、縋る自分を抱きとめてくれたみたいに。
 ――おれさ、自分の名前が本当に嫌いでさ。
 いつか日野辺から聞いたどうでもいい台詞がよぎる。
 ――送る、って書いて、ワタル、って読む。読み方はまあ、いいよ。ヒノベワタルでさ。漢字がよくない。日野辺送なんてさ、野辺送りじゃん、って。いっそ葬儀屋に就職してた方が納得だろう?
 日野辺、日野辺、と念じながらひどい暴風雨の中を歩く。そうでもないと義兄の名前を呼んでしまいそうで、怖かった。
 ――きみは、とてもいい名前だと思う。おれは好きだよ。
 嘘つけ。おれの名前。呼んでくれたことなんか、ないくせに。
 めちゃくちゃに歩いていると、増水した川にかかる橋に差しかかった。ここを渡ると日野辺医院には近い。だが轟々と川は唸っている。橋の低いところは浸水しかかっていた。それでも日野辺に会うには行くしかない。
 なんで日野辺に会いたいんだろう。こんな日に、日野辺の傍へ行きたいと思っているんだろう。
 風がひと際強く吹き、雨が身体中を強く叩く。頭上にある民家の植木があり得ないほどしなり、電線がびゅんびゅん唸る。背の高いものは、木も、電柱も、家すらも、風雨の前に崩れそうなほど周囲は荒れていた。
 水の音がひどい。川からごとごとと音がするなと思っていたら、それは大きな岩が動いている証拠だと気づいた。早くしないとこの橋も崩れるか浸水するか。あまり迷っている時間はなさそうだった。
 このひどい気分は、日野辺に会えば鎮められる。それは神頼みのように思った。ひどい状況も、身の上も。日野辺さえいれば。日野辺が肯定してくれれば。駅舎で途方に暮れていたときに、うち来る? と、当たり前に助けてくれた日野辺にさえ、会えれば。
 いま行動しないと、会えないと、後悔する。きっとまた自分は逃げる。
 なあ、おれの名前を呼んでよ。イズミ、じゃなくて。名前。
 それでおれを現実に引き戻してくれよ。
 濁流の上に足を進めると同時に、合羽のフードを引っ張られて転んだ。木の枝かなにかに引っ張られたのだと思い、抗おうとして、その手をふっと取られる。これは人間の仕業だと数秒遅れて理解した。
 後ろを向く。そこには雨合羽を着た日野辺の姿があった。
「ばっかやろう! 現! こんな日にうろついてこんなところを渡ろうって、死にたいのか!」
 胸ぐらを掴まれ、日野辺は馬乗りになって揺さぶった。
「おまえ、なにがあったんだよ」
「……」
「そんなことも言わずに勝手にいなくなるな! 生きてんだから、死ぬんじゃねえよ!」
「……――っ」
「現! 生きろ! 投げやりに、死んだみたいに生きるんじゃなくて、まっとうに生きてくれよ……!」
 日野辺はうなだれて、今度はこの前と逆に、胸に縋ってきた。ふるえていたから、泣いていたのかもしれない。風雨に紛れてわからない。けれどその身体を、確かな重さのある身体を、きちんと抱いた。大人の男の体臭を嗅いで、とてつもなく安堵した。
「みんなおまえを心配してたんだ。……現、」
「ああ……」
「帰ろう。帰るよ」
 どこに、とは訊かなかった。多分わかっていた。だって望みはあっさりと叶えられた。
 濡れねずみのまま、傍に置いてあった日野辺の車に押し込まれ、安全な道へ迂回して車は嵐の中を進んだ。


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 頭に触れられていた。自分も裸で、相手も裸だった。肌をすりあわせて、汗まみれになって、額と額をあわせる。そのまま髪を梳かれ、やわらかく撫でられていた。
 名前を呼ばれる。呼ばれると身体が熱くなる。心臓が逸って痛い。痛い、痛いよ、と呻き、泣いたが、相手はうすく笑う。いつの間にか服を着ていて、すうっと寒かった。
 寒くて寒くて、ふるえた。がちがちと歯が鳴る。名前を呼んだ人は、消えるようにどこかへ行こうとしていた。行くな、行くな、行かないで、と手を伸ばすと同時に、目が覚めた。日野辺が顔を覗き込んでいて、額に手が当てられていた。
 もうあたりは明るくなりはじめていた。「大丈夫?」と訊かれ、自分が脂汗を浮かせて夢にうなされていたのだと気づかされた。
 咄嗟に伸ばした腕をそのまま日野辺の頭の後ろに引っ掛けて、覗き込む顔の下、胸に縋った。
「――う……、」
「イズミくん」
 日野辺はしっかりと背を抱き、そっと叩く。あやして叩く。
「大丈夫だよ」
「……」
「きみは大丈夫だよ」
「……、」
「大丈夫」
「……――ん、」
 じゃああんたは? そう訊きたくて、漏れるのはとめどない後悔と未練からくる嗚咽ばかりだった。

 日野辺からあれこれ持たされたのをまたカブの荷台に積み替えて、月曜日の早朝に常盤果樹園に戻った。果樹園の社長も奥さんも若社長もその嫁も、パートのおばちゃんたちもすでに農作業の格好でスタンバイしており、急いで作業着に着替える。
「センセ、どうだった? 元気?」と奥さんに訊かれた。
「りんごいつもありがとうございます、って言ってましたよ。それで色々もらって来ました。なんか、ぶどうとか白菜とか。もらいものでわるいけど食い切れないからって」
「あらまーわるいわね。ぶどうはあとでお茶に出そうか。今日はね、忙しいよ。台風来るっていうからね。収穫できるものはみんなしちゃう。酒巻さんについてってくれる?」
「あ、了解っす」
 ベテランパートのおばちゃんとひと組になり、収穫かごにりんごを捥いで詰めていく。作業をしながら思い出すのは、思わず縋った日野辺の、温かい確かな身体の感触だった。あの人とはまったく違う身体だ。あの人はやたら細くて白くて、冷たくて、頼りなかった。日野辺は身体が大きいというわけではないが、あの人よりはきちんと生活感の漂うまともな身体をしていた。熱い、でも、寒い、でもなく、温かい。ぬるま湯みたいな身体だった。
 それがどんなに染みたか。けれど淋しかったか。この感情をいまはまだきちんと言葉にできない。
 昼過ぎには風が吹き、天気が荒れはじめた。昼時に社長がそれぞれの作業の進捗を確認し、天気図も確認して、「とにかく三時までには収穫し終えるぞ」と言い切った。いつもより短い昼休憩を済ませ、木から木へ、りんごを捥いでいく。捥いだりんごのかごをせっせと軽トラックの荷台に運ぶ。そうして予定より遅れた四時過ぎ、あらかたの作業は終わった。そのころには強い風に雨が混じっていた。
 社長は、まだ収穫に適さない品種のりんごがあるからと、りんご園に残った。息子である若社長もともに残る。軽トラを運転して、奥さんたちと家の離れの農作業スペースにりんごのかごを運び込んだ。収穫したりんごが出荷できるよう、今度は選定と箱詰めの作業に追われる。
 おばちゃんたちはこんな時でもおしゃべりに余念がない。その中で傷ものりんごをどうにか販売ルートに載せられないか、という話になった。


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 日野辺医院は診療を終えて明かりは消えていた。裏口にまわると、奥さんの噂通りに喪服の人間とすれ違った。濃い線香と樟脳のにおい。洗っても洗っても落ちず染みついているのだろう。
 その、喪服の人間にふかく頭を下げていた男は、顔をあげてこちらを見た。ずり落ちる眼鏡を戻す。
「――イズミくん」
「常盤の奥さんが、あんたんとこ持ってけって」
 りんごの入ったかごを渡す。秋が深まる手前のこの時期、採れるのは青りんごだった。
「ああ、いつもすまないな。もうこの品種が採れる時期なんだな」
 りんごをひとつ取り、日野辺はにおいを嗅いだ。
「さっきの人たち、」
「親戚。日野辺葬儀社……おれの叔父さんといとこ」
「町で噂んなってるけど、……いよいよだって」
 不躾は承知、でも言った。日野辺はくるりと背中を見せて「当たってる」と答えた。
「多分、あと二・三日ぐらいには」
「……大先生、いんの、」
「いや、さすがに見てらんないんだろうね。黙っていなくなったから多分どっかに打ちに行った。上がれよ。週末だから来るだろうと思ってさ、ビール買ってある」
 りんごのかごを手に、日野辺は別室に下がった。姉――日野辺いずみの病室に向かったのだろうと分かる。もうなんべんも来て勝手がわかりきっている家を勝手に進んで、居住スペースの台所へやって来る。日野辺が先ほどまでもてなしていたのか、二組の客用湯呑みがテーブルに出ていた。
 この町へ来たのは、夏のすこし前だった。梅雨で大雨で、あてなく電車から電車を乗り継いでいたら、この町で止まった。大雨で動かないとアナウンスが告げる。仕方なくバックパックを背負って降りた。ちいさな町は、山が近く、果樹園ばかりが広がる。ホテルか民宿、と思ったがそんなものはなかった。コンビニすら見当たらない。駅舎に戻ってどうすべきか難儀していたところを、日野辺に拾われた。旅の人? 泊まるところないでしょ、この辺。うち来る? そんな流れだった。
 旅ではないことを告げ、この辺で契約できるアパートと仕事はないかと日野辺の家の風呂でひと息ついてから訊ねた。日野辺は驚いた顔をしていたが、ここは案外いろんな事情の人が多いんだよ、とおおらかで、しばらく家に置いてくれた。後に常盤果樹園を住み込みの仕事先として紹介してくれて、いまに至る。
 その中で、日野辺の家の不幸を知った。日野辺の姉、日野辺いずみが植物状態で日野辺医院の一室に寝かされていることだった。
 日野辺医院はいかにも町の診療所、というところで、基本的には内科だ。植物状態の姉を治療できる施設となると、外科のある隣の市立病院に運ばねばならない。日野辺は姉の延命を拒否してここで看護を続けているとのことだった。
 日野辺いずみは春先、自死を選んで日野辺医院の薬品庫から致死量の薬を服毒した。が、至らず、意識が戻らないままだという。
 自分で栄養が摂取できないのであれば、胃にチューブで栄養を送るしかない。そうやってでしか延命できないと分かっていたから、日野辺は姉の身体をいじらず、自然に亡くなるままに任せようとした。自力ならばもって三か月、と自身の知識と経験から理解していた上で。
 いま日野辺いずみはかろうじてバイタルを保っている。だがそれも終わりに近いようで、ここ数週間の日野辺の疲労具合は見ているこちらが辛くなるほどだった。
 日野辺の疲弊を見ていたくないから、いっそ日野辺いずみの首を絞めておれが殺してやろうか。
 たまに、そんな考えが浮かぶ。そもそもそんなことで疲れているなら医者などやめちまえ、と思う。それでも日野辺は姉の看護を続ける。日野辺いずみが自死を選んだ背景には、産んだ子どもをたった一か月で亡くしてしまった、という追い討ちに追い討ちをかけるようなどうしようもない話が待ち受けていた。
 ――乳が張る、って言って泣くんだ。絞らないと痛いって言って。
 いつか飲んだ夜、日野辺はそう言った。
 ――子どもは死んだのに、自分は子どものためにお乳が出るって。胸がさ、本当に濡れてるんだよね。あれを見ちゃうとさ、死ね、とも、生きろ、とも、おれは言ってやれなかった。
 そうして缶ビールの中身をちゃぷちゃぷ振って、ここにイズミくんが来たのは、と続けた。
 ――姉貴とおんなじ発音のきみを寄越したのは、おれを試してるとしか思えないんだよな。ばかげてるだろう。医者として、おれはだめだな。すごく、だめだな。
 日野辺は泣かなかった。あの日も、今日も、日野辺と酒を飲む。週末になればこの家でふたりで飲む。
 冷蔵庫を漁ると栗の甘露煮があった。医院を訪ねた誰かが手作りを寄越したのだろう。ツキッと心臓が痛んだ。それを見ないふりで、隣にあったバターを取り出して野菜室の野菜を適当に炒めて酒のアテを作る。
 もう甘いものなんかほとんど口にしていない。
「ああー、腹減った」と、ようやく白衣を脱ぎながら日野辺がやって来た。
「なに作ってくれてんの?」
「野菜炒め。テキトー。しいたけとサバ缶ぶち込んだ」
「あ、ならちょっと貸して」
 さっと立場を入れ替え、日野辺はフライパンを握った。指と指がそっと触れ、離れる。
「バターか。ならしょうゆかな」
 はいはいはい、とあれこれ足して、出て来たのは野菜炒めではなく、パスタだった。
「酒飲むっていうか、めしだな、これ」と言ったら、日野辺は笑った。
「食えるならちゃんと食うのがいいんだよ」
「説得力が違うね、センセイ」
「これはビールじゃなくてワインだったかな。大島さんからもらったワインがどっかにあったと思うんだけどなあ」近所のぶどう農家兼ワイナリーの話をする。
「いいよ、大島さんとこのワインって高いんだろ。大事に飲んどけよ」
「イズミくんと飲む時間も大事なんだよ、おれにはね」
「そういうのいいから。ビールくれ」
「ん、」
 かん、と缶同士を打ち鳴らして、どうしようもない同士で夜は更ける。

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『きみは
林檎の花を知っているか
青林檎の味を知っているか
林檎のにおいを嗅いだか
林檎の重みで樹がたわむのを知っているか

林檎の木陰で休み
青々と澄んで遠い空を見上げたか』


 最初は嫌だった。嫌い、じゃなくて、嫌。そう思ったのは多分、似ていると直感したから。同族嫌悪というやつかもしれない。
 ――いよいよかもしんないわねえ。
 ――でもこれで日野辺(ひのべ)先生も楽になるんじゃない?
 ――そうは言ってもねえ。だって、事情が事情じゃない?
「なにがいよいよなんですか」
 噂話に介入するほど、興味があったわけではなかった。むしろその逆だ。これ以上噂話をしてほしくなかった。あんたらが勝手なこと言うなよ、と苛々していた。
「やぁだイズミくん、人の話聞いてぇ」と常盤(ときわ)の奥さんが困った顔で振り向いた。
「聞こえるでしょ、そんなボリュームで話してればさ」
「ああ、ごめんねぇ、イズミくんには面白くない話よね。気を付けるわ」
「別に、そこまでお膳立てするほど事情もわかっちゃいないです。日野辺先生が、いよいよ、なに?」
「ああー」
 奥さんと噂話を囲んでいたふたりは「お先に失礼するわね」とそそくさといなくなった。残った奥さんは仕方なく、「日野辺先生のとこ。若先生のお姉さん」と話をしてくれた。
「もう半年になるじゃない。はじめは一か月か三か月か、なんて言われてた人がね。よくもってるもんだわって話してたんだけど、最近どうやら、日野辺先生のところに出入りしてるみたいだから」
「誰が?」
「日野辺先生のご親戚の葬儀屋さん。一応ね、親戚とは言っても医者と葬儀屋が仲良くしてるなんてだめだって、日野辺の大先生が言ってるから表立っては仲良くしてないじゃない、あそこ。でも出入りしてるのをトミさんがよく見かけるっていう話をね、いましてたのよ」
「そうすか」
「そうすか、って。イズミくんあれだけお世話になってるのに」
「だっておれ、部外者でよそ者ですもん」
「そんなこと言わないで。ほら、今日もこれ持ってってあげて」
 そう言って奥さんは籐編みのかごに入った小ぶりのりんごを寄越す。傷がついて売りものにならないりんごを、こうしてせっせと寄越す。
「これ持ってったら、いまの話しちゃいますよ、おれ」そう言うと、奥さんは片眉だけを上手に釣りあげた。
「いいのよ、ご近所の噂話は日野辺先生のとこにも勝手に入るでしょ。ほら、行って」
「……」
「いずみちゃんね、うちのりんご大好きだったんだから」
 行きなさい、と無理に送り出される。週末だから、帰って来なくていいと言っているのだ。酒の相手でもしてあげなさいよ、と。
 ――いまにも死にそうな姉の看護に追われる若い医者。
 ――姉夫婦に子どもが産まれるとわかって逃げ出してきた自分。
 姉を慕っているのは同じだ。くそったれ、と悪態ついてカブの荷台にくくりつけたかごにりんごを載せ、エンジンをかける。


→ 


お久しぶりです。
この冬は長編・短編とあれこれ更新出来る予定です。
よろしくお願いします。



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「スポーツクライミング、という競技からは引く。だから、引退っていえば引退」
「……チームには、残るのか?」
「いや、独立する。スポンサー背負って、これからはクライミングに専念するんだ」
「クライミング? いまやってるだろ?」
「ロッククライミング。競技には出ないけどね。ええとさ、スポーツクライミングってのは、競技なわけだから、ルールや、時間や、点数が決められてるじゃん」
 うん、と僕は頷く。綜真がワールドレコードを叩き出したときの試合映像はこの国のどこのテレビ局でも扱ったから、よく目にしていた。たった五秒かそこらで壁を駆け上がっていく、そのときの綜真の柔軟で精悍な競技姿が頭によみがえった。
「そういうのと離れる。ルールも時間も点数にも縛られないところで活動する。まあ、スポンサーついてる以上は結果は出さないといけないけど」
「……どう、なるんだ?」
「世界中の岩っていう岩に、ただ、登る。誰も登頂が成功してないようなところに最短ルートで登りたい。出来ればフリークライミングで。装備上難しいところもあるからリードクライミングもやるけどね。それが、これからの目標で、やろうとしていること」
「……」
「その前に緑哉には会って、どうしても確認しておきたいことがあった。だから同窓会があるって分かってすぐ帰国した。なくても帰国したけど、……石丸にさ、緑哉は来るのかってめちゃくちゃ確認したよ。ロクヤって誰みたいなこと平気で言うからさ。国際電話でおれ怒鳴っちゃった」
「……怒鳴るようなことするのか? 綜真が?」
「短気だもん、おれ。せっかちだし。そういう世界で勝負してきてるし。でもこれからは、それを改める」
 そこへ綜真の追加オーダーが運ばれてきた。ショコラの三点盛りは、この時間だと今日の売り残りをサービスで出すことがある。だから三点の他に、毛色の変わった青いチョコレートがひとつサービスされていた。
「へえ、青いチョコなんてはじめて食うな。でもこれもさ、高いんじゃねえの? ひと粒の値段。サービスで出していいもの?」
「それ、中身が半生だから。明日まで置いとけないんだ」
「それにしてもだよ」
「そういう売り方してるんだ。……それで、なにを改めるの、」
「ああ、そうそう。だからさ、最善の一手ってやつ」
 それを聞いて、思わず顔をあげた。
「おまえさ、将棋指すときも、指さないときも、いっつも言ってたじゃん。最善の一手を指せたらって。これから先最善手だけを指せたらって。おれ、あんまり言葉が得意じゃないから、それをずっと考えてたんだけど、……故障して時間ができて、気づいた。おれが競技でいつも狙ってたのは、自然と、最善手だったんだなって。頭で分かってなくても、身体で狙ってた」
「……」
「最短ルート、最短時間。コースを読んで、どこに手をかけて足を置くかを想像して、試して、それがはまれば、タイトルで、レコード。でも競技でやっていく以上は制約があるから。もう身体ひとつで動ける年齢でもない。これからは頭もつかっていかなきゃなんない。いままでずっと身体の声に耳をすませていた感覚だったんだけど、これからは身体と、脳と、精神の声も聴く。未踏の岩を、どこに手をかけて、足を乗せれば、登れるか。それには頭もつかう。脳の栄養は糖分だ。チョコレートはますます重要になってくるな。この店スポンサーやってくんないかな? ――はは、話それた」
 綜真は笑い、ホットチョコレートを口にしてから、僕の顔を見て「最善の一手を指したい」と言った。
「それを教えてくれたのはおまえだ。卒業式の日にさ、約束した場所におまえいなくて、めちゃくちゃ探した。あの日おれは、一緒に帰ったらなに話そう、どうしてやろうって式のあいだじゅう考えてたからさ。後期選抜で大学受かんなきゃ最善じゃないんだ、ってむつかしい顔して思い詰めてるおまえを、どうやってシフトさせようって。いや、どうやっておれのこと考えさせようかって思ってたんだけど」
「綜真、あの日、僕は」
「おれとじゃ最善じゃないって、怖くなったんだろ。それも分かるよ。あのときおまえは、自分の決めたルートから外れることをすごく怖がってた。あのさ、おれはね。おまえと将棋指してるときの、おまえが、筋を読み違えないように、ってめちゃくちゃ考えてるあの顔がすげー好きでさ。最善手を考えてるときの、静かで真剣で深い顔が」
「綜真、僕は」
「あの顔を覚えてたから、どの試合に出てもなんとかやってこれた。でもこれから先はおまえを確認しないと怖くて進めない。筋を読み違えることは、事故につながることになるから。緑哉、おれは卒業式の続きをちゃんとやり直したい。いま、これから、やり直したい」
 綜真の顔は、筋を読み違えないようにと、ルートを辿る、テレビの中で競技に向かうあれと全く同じだった。慎重に、丁寧に、迅速に、臨む。
 最善手を手繰って進む。僕の最愛は高校のころから全く変わらず僕を惹きつける。
「今夜さ、一緒に帰ろうよ」
 そう言われれば、観念するしかなかった。
「僕は、……本当は、カカオアレルギーなんかじゃなくて、」
 絞るように答えると、綜真はそっと笑って「知ってる」と言った。
「本当は、チョコレートがめちゃくちゃ好きで、でも、……高校のころのクリスマスかなんかで、きみが女の子からもらってたチョコレート菓子を僕に『食う?』とか言ってたのを、意地張って、アレルギーだとかって、誤魔化して、……」
「うん」
「卒業式も逃げちゃったけど、……一緒に帰ればよかったって、ずっと後悔していて。……綜真が、僕が年上でも、冴えなくても、なんでも、無条件に僕を信頼して肯定していてくれたことは、僕にとってすごく、……嬉しいことだったのに、って」
「そっか。よかった。おれも後悔してたから、おんなじ後悔だったんだって分かって、――うん、よかった」
 息をつき、綜真は力を抜いた。そしてテーブルの上にある青いチョコレートを指し、「食べなよ」と言う。
「……食べる、けど、ここじゃ食べない」
「おれと一緒に帰る?」
 僕はテーブルにほとんど沈みながらこくこくと頷く。
「帰る……そうま、と、一緒に、帰る、……」
「やべ、めちゃくちゃかわいいわ。じゃあこれは包んでもらおう」
 すいませーん、と綜真はスタッフに声をかける。これ持ち帰りたいんで包んでください。あと、お会計を。はい、かしこまりました。少々お待ちください。あ、チョコレートって他にも買えるんですか? はい、ご購入いただけますよ。あちらのショーケースよりお選びください。
 その会話を、僕はテーブルに突っ伏してふるえながら聞いていた。だってテーブルの下で綜真の手が僕の手を掴んでいる。手首をぐるっと、離さないように、逃げないように、しっかりと掴んでいる。
 僕の人生。高校は留年して、大学も卒業できなくて、憧れの先生にもなれなかったけれど、大好きなチョコレートの専門店に勤めている。テレビの向こうで笑っていた最愛の人が、いま僕の手をホールドして離さないでいる。
 だから僕は、僕が思うよりずっと最善の一手を指しているみたいだ。そう思って、必死で僕を掴む手を僕も掴み返す。

 ◇

 卒業式の朝早く、図書館へ行くと綜真が窓辺の席に突っ伏していた。
 春はじめの日差しを受けて、そこだけ光っているみたいだった。そうま、と僕は呼ぶ。綜真はふっと顔を上げる。寝てた? と訊くと、本当はずっと起きてた、緑哉が来るのを耳すませて待ってたんだ、とてらいなく答えた。
 ――将棋、今日でもう指せなくなっちゃうな。
 ――いや、指せるよ、多分。
 ――多分ってなんだよ。
 ――えーとさ、だから、なんていうかさ。
 そう言って綜真は僕の手首を取り、そこを支点にしてするりと身体を寄せた。鼻が当たり、息が触れ、短くキスをする。
 ――緑哉、いまの嫌じゃなかっただろ。
 心臓がもたない。すごく痛い。痛い、と思いながら僕は頷いた。
 綜真はものすごく嬉しそうに笑った。
 ――そうだろ、な。今日、一緒に帰ろうよ。
 とても幼い顔で、これ以上の喜びはないという顔で、笑ってそう言った。

end.

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短編は久しぶりでした。楽しかったです。
次回はおそらく冬頃に。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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