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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 引っ越した際にそのままにしていた段ボールを押し入れから取り出す。中身は書物だった。とりわけ重たい一冊を取り出す。それは母の代から流通していた菓子のレシピ本だった。
 過去、私はこの本をめくって、様々な菓子を作ってきた。古い本なので使用されている器具は古いのだが、基本を丁寧に踏んでいてはやりすたりのものは記録されていない。貴重な本を母も使ったし、私も使った。だから本には経年劣化の他に油じみやなにかの粉が付着していたりする。
 タルト、ショートケーキ、クッキー、プティング、パイ、シュークリーム、チョコレートガナッシュ、ドーナツ、アイスクリーム。
 それを眺めながら先生と出会ったばかりのころを思い出した。
 ――男性は、僕らだけみたいですね。
 ――きみの作るものだとなんだか優しそうですね。きみからはそういう印象を受けます。
 先生は、いまよりさらに痩せていて、でもすっきりした面立ちで、なによりまくった袖から見える肘から先の腕とか、襟足の髪のきれいな刈りあがり、一音一音を丹念に発音する話し方や、考えてじっと見るときの癖なんかをとても好きだと思った。
 深夜、そっと部屋を抜け出した。ふすまを静かにあけてヒロがしっかり寝入っているのを確認する。音を立てないように廊下を進み、先生の書斎の扉をあけた。
 先生は、ソファでまるくなっておられた。枕元のスタンドが消灯されていない。それを消そうと手を伸ばすと、腕を掴み返された。
「――起きていらっしゃったんですか、」
「あまり、……なんていうのか、眠りづらくて。きみは?」
「ちょっと先生の顔を見たくなったんです」
「……ここでこのまま待ってて」
 先生はそうおっしゃって、私に毛布をかぶせると部屋を出ていかれた。しばらくして戻ると、トレイにカップをふたつ載せている。
「こんな夜は飲まなきゃやっていられない。きみにはホットミルクです」
「……あまいにおいがします」
「はちみつと、ラム酒をすこし入れました」
「ラム酒なんかこの家にあったんですね。先生は?」
「僕はウイスキーのお湯割りです」
 ソファに並んで腰掛け、同じ毛布にふたりでくるまって、ちびちびと手の中のドリンクをすする。
「ヒロの幼なじみ、テンちゃんっていうんですけど、男の子なんですよ」
 そう言うと、先生はしばらく黙り、それから「そうですか」と答えられた。
「さっき寝る前、ちょっと話をしに行ったんです。帰ったらテンちゃんとすっからかんになるまでやりまくる、と身も蓋もない返事があって苦笑しっぱなしでした」
「若いですね」
「うん、……若くて、まだまだ、これから、です」
 間があいた。しばらくして先生は、「前妻との話をします」とおっしゃられた。
「嫌な話になりますので、嫌だと感じたら、すぐに言ってください」
「……先生が嫌なのではないですか?」
「いま話さないと僕は一生黙りそうなので。……学生結婚でした。学生のうちに子どもができてしまって。僕は大学を卒業しましたが彼女は結局卒業できませんでした。年子でふたりの子どもに恵まれまして、かかりっきりになってしまったんですね。妻には、そういう、鬱屈があったと思います。同じ年ごろの人間がコンパだサークルだと遊んでいる中で、自分は育児や家庭に追われている。自由になれないもどかしさ。彼女のストレスを僕はうまく逃してやれませんでした」
「……はい」
「彼女の夢は、カフェや食堂をひらくことでした。食べることが好きな人だったんです。僕はきみが見ているとおりに胃弱で食が細いので、ここは本当に趣味、というか、生活が合わなくて。付き合っているときはさほど問題でもなかったのですが、一緒に暮らすと食い違うことはこんなにもか、と、愕然とする思いでいました。……彼女のストレスの矛先は、ジャンクフードに向かいました。ファーストフード店での食事。スイーツを買い込む。大量にジャンクな食事を作る。……僕にとっては胃の痛くなる食事で、受け付けられませんでした。帰宅しても妻の作ってくれた食事、揚げ物とか、ピザとか、オムライスとか、とにかくそういうものを食べられなかったんです。バターや油のにおいを嗅いだだけで吐き気をもよおしてしまう。それが妻にはますます面白くない話になって、そのうち僕だけ別メニューになりました。帰宅すると、ごま塩とごはん、とか、買ってきた佃煮とごはん、とか」
「それは、」
「いま思えば、ある意味立派な家庭内暴力を受けていた、と言えますね。ジャンクなものを子どもは喜びましたから、ますます食事が離れて、やがて妻も、子どもも、目に見えて肥えていきました。顔がむくんで血色もわるかったです。僕は僕で元々の胃弱とストレス性の胃痛でまともな食事ができなくなっていました。妻と子どもらは僕の目の前でケーキやアイスクリームをむしゃむしゃ食べます。あれは、恐怖に近かった。……せめて子どもたちの味覚は守ってやらないと、健康を害してしまうと思って懸命に妻に話しましたし、子どもたちにも注意した。そういうものを買えないように金銭的な部分で制限を設けたりもしました。けれど、止められなかった。お互いにストレスが溜まりきって、言い争いばかりするようになり、僕も妻も健康を害したこともあって、別れました。僕は親権を主張したのですが、子どもたちが妻を選んだので、そちらに。もっともいまはふたりとも成人しましたので、個々に会って話をすることが可能になりました。子どもたちとの関係は、いまは良好です。やっぱりそうは言っても僕の子どもでもあったというか、特に下の子が胃が弱くて。体型も標準に戻りました。雑で濃くて栄養過多だったよね母さんの料理は、などと笑って話します。……けれど僕はあの日々を、到底笑えない」
 先生はついにカップを置き、ふうっとソファの背もたれに沈み込まれた。
「離婚してひとりになって、僕自身もようやく身軽になってなんとか健康を取り戻して、やっぱり食事は自分に合ったものをきちんと仕立てられるようになろうと思って、カルチャー講座に通うようになりました。『基本のき、から作る、家庭料理』。あの講座は女性ばかりでしたけど、そこにきみがいましたね。お互い女性に囲まれて世話を焼かれてましたけど、おかげできみに出会えた」
 先生も思い出してくださったのか、と思った。出会いの場のことを。私は料理上手になることが目的ではなく、半分ぐらいは取材目的だったのだけど、駆け出しのイラストレーターに対して先生は嬉しそうに接してくださった。
「……あの講座で料理の基本もわかって、自分の味覚にそぐう食事を作れるようにもなって、きみにも出会えて、僕にとってはいいことばかりでした。妻と、……別れたことを僕は後悔をなにひとつしていません。結果的にきみとこうする現在もあります。結婚生活は、本当につらいばかりの日々でしたから。ですが、いま、僕は果たしてきみに対して誠実なのだろうかと考えてしまう。きみの優しいところに逃げて甘えているばかりではないかと」
「そんなふうには」
「今日の博高さんの話は、そういうことを僕に再び問い直すものでした。離れない身体があっても、傍にいても、すれ違うことは多分にある。人間には、感情や経験や性質がありますからね。……僕は、目隠しをして手触りの良さだけを味わっているんじゃないかと。もしかして、しなくても、自然ときみの行動を制約するような発言や、態度を、とってはいないか、と」
「……それは僕が、この家であまいものを食べないこと、ですか?」
「作りたいなら作って、食べたいなら食べて、と言えないんです。……どうしても胃がむかむかしてしまって」
「先生」
 先生は、ついに膝を抱えてしまわれた。その痩せて硬い肩に手をまわし、毛布をかけ直す。
「僕は、しあわせですよ」
「……そうなんでしょうか」
「先生とお菓子とどちらを選ぶかと言われたら、絶対に先生を選ぶんです」
「……」
「ですが」
 そうですね。考えていることは、まとまらなくて言葉にもならなかった。そのまま身を寄せ合って夜をまんじりと過ごす。

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 翌日、先生は私とヒロの分までお弁当を作ってから出勤された。私とヒロは車に乗り、ヒロの受験予定の大学の下見へ向かう。会場を確認し、当日の移動手段も確認する。あらかた済んだところでヒロが「ちょっと入らねえ?」とレトロな看板の喫茶店を指差し、私は同意した。
 ヒロはチョコレートパフェとカフェオレを、私は紅茶とモンブランのケーキセットを頼んだ。ヒロは「やっぱりあまいの食うんじゃん」と笑った。
「やっぱりあれ? センセイが嫌いっていうから作らねえし食わねえの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、……先生があそこまではっきりとあまいものを拒絶されるのは、昨夜はじめて見たし」
「そうなの?」
 じゃあなんで? という顔をした。
「んん……やっぱり食べてくれる人がいないから、かな。僕だけの分を作るよりはこうやって外で食べた方が早いし」
「外じゃ食うんだ」
「そもそも先生とはあまり外食をしない。一緒に出掛けたりをあんまりしないからかな。先生ご自身もそういうのは好みじゃないみたいだし。僕はほら、仕事で打ち合わせとかあると外に出る。そういうときに食べたり、買い物ついでに商店街で買い食いしたり、かな」
 ヒロはしばらく黙ってパフェを食べていたが、ややあって「目が怖かった」と言った。
「め?」
「嫌悪感、って言ったときの、センセイの目。怖いってか、暗いってか。すげえ目すんだと思ったから、あんまり話も突っ込めなかった」
「……だね」
「でもさー、ゆうちゃんのお菓子また食いてえなあー」
 もう最後の方になってチョコレートソースとクリームでぐずぐずになったフレークを突っつきながらヒロは言う。
「テンちゃんもそう言ってた。また食いたいね、って」
「テンちゃん、元気なのか?」
「ん、……なんていうかさ。幼なじみでも、高三で、卒業だから、……」
 しんみり言って、ヒロはカフェオレを飲み干す。せっつかれてケーキセットを食べ終え、家に戻ってヒロはまた勉強すべく部屋にこもった。
 その日の夕飯は、炊き込みご飯と豚汁だった。どうやら先生は若いヒロのために懸命に腹持ちするものを、と考えてメニューを組んでいる様子だ。このメニューなら副菜はついてもせいぜいが漬物ぐらいなのだが、今夜の先生はほかにだし巻き卵と身欠きにしんの甘露煮まで作って出された。そんなに作ったらエンゲル係数だだ上がりしちゃいますよ、と言ったら、先生は微笑んで「滞在費までいただいてしまっているので、これぐらいは」とおっしゃる。
「大学まで無事に行けそうですか」と食事をしながらお訊ねになられた。
「あ、行けそうです。駅まで出られればバスで一本でした。天気予報見ても、変な天気にもならなさそうですし」
「それはよかったです。けれど天候悪化などの場合は、僕や遊さんを頼ってくださいね」
「三日後が第一志望で、その二日後が第二志望だっけ?」
「うん。そこまで受けたらおれ、うち戻るから。卒業式出て前期の結果見て、だめなら後期にかけてまた来るけど、いい?」
「前期で受かってても住むところ探しに来なきゃだろ? いいよ、いつでもおいで」
「あんがと。おかわりもらっていいすか」
 その日も、翌日も、翌々日も、ヒロは旺盛な食欲を見せ、先生は笑っていらした。
 数日して、第一志望も第二志望も試験を受け終え、あとは帰るだけ、となったヒロに、どうせ来たならあと一日ぐらいは滞在を延長したらどうですか、と先生はおっしゃった。郊外へ出るとちょっと大きな湖があり、そのふもとには有名な大きな神社があるのだ。観光にどうですか、と先生も自身で車を出す気でいらっしゃる。ヒロも嬉しいようで、「じゃあそうします」と言って滞在延長の旨を実家に連絡していた。
 外出の日は、ちょっと曇っていて雪が降りそうな天気だった。三人でゆっくりと朝食を済ませ、のんびりと出かける。ここの神社は天満宮で、梅の花がひらひらしていた。「知ってたら試験前に来たのに」とヒロは笑い、授与所でお守りをふたつ買っていた。
 寒かったので、近くの甘味処に入った。先生は甘酒を頼み、私とヒロは団子の皿を分けることにして抹茶も頼んだ。
「誰あてにお守りを買われたんですか?」と先生がヒロに訊ねられた。
「絵馬も熱心に書かれてましたね」
「ああー、えーと。……交通安全とか、学業成就とか、厄除けとか、……なんかそんなのです。幼なじみに」
 それを聞いて私はすぐにテンちゃんのことだと理解したが、知るはずもない先生は「仲がいいんですね」とおっしゃった。
 ヒロは、「いいなんてもんじゃないです」と抹茶の碗をまるく握って答える。
「おれ、そいつのこと大好きなんです。で、そいつもおれのことがめちゃくちゃ好きで」
 なんのためらいもなく、ヒロは言葉をつむぐ。まっすぐでひたむきな愛情が身体の隅々にまで満ちているような発言だった。
「ちっちゃいころからずっと一緒で、ずっと好き。でもこの春、おれたちは学校を卒業します。おれは予定通りなら家を出るし、あいつも同じなんです。進路が分かれます。しかもあいつの進路先はニューヨーク。留学するんですよ」
「それは、……ずいぶんと離れることになるんですね」
「物理的な距離が離れると、生活も離れるだろうなってぐらいは、想像つくんです。でもいまは無料で海外の人間とやりとりする方法なんかいくらでもあるし。大したことないよってお互い笑ってるんですけど、……笑って前向いてこうやって、言ってるんですけど」
 ヒロの言い口に、私も先生も気軽なおしゃべりからは遠ざかってしまっていた。
「身体が離れることがどういうことなのか、わかんないんです。ずっと一緒だったから。一緒にゆうちゃんのお菓子おいしーね、ドーナツ食べたいねとかって言ってた距離に、いられなくなる。会いたいと思うときに会えなくて、触りたいと思うときに触れなくなるのは、……いま想像がついてない状態でも気が遠くなるのに、実際に離れてしまったら、どうなるんだろ。おれたち、それでも笑ってられんのかな」
「……」
「いままでは春先は先輩とか後輩とか同級生とかを見送るだけだったんです。でもそれもけっこう痛かった。それで今年、いちばん近いやつと離れるってなって、……憂鬱になりますよね。だからこうやって、神頼みっす」
 先生は甘酒を口にして、「幼なじみさんは、いつ出国されるんですか?」と訊ねられた。
「卒業式終わってすぐです。向こうで語学プログラム受けるから早めに行きたいって言ってて」
「そうですか」
「ま、これでおれは受験済んだんで。明日には実家戻るし、そしたら会い倒します」
「引き留めたようで申し訳なかったですね」
「いいえ?」
 ヒロはようやく顔を上げて、にやっと笑った。
「ゆうちゃん元気だったよって言ってやれば、あいつも嬉しいと思います。ゆうちゃんとセンセイと出かけた話もできるから」
 言い切って、ヒロは残りの抹茶を飲み干し、やっぱりばか丁寧に「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

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 ヒロは到着して家を案内したのちすぐに、用意した一室にこもった。勉強にとことん集中したいらしい。だから私はヒロを放って、自分の仕事をこなした。この古い家には壁掛けの古い時計があり、それがボーン、ボーン、と六つの鐘を打ち鳴らして顔をあげた。夕方六時、普段なら先生が戻られる時間だ。
 ヒロの部屋を覗くと、彼は電話中だった。
「ちょうどいいや、ゆうちゃん。親父だから、代わって」
 そう言ってスマートフォンを渡される。長兄とは先日話したばかりなのでこちらは特に用事がないのだが、とにかく息子を頼む、という話と、滞在費の足しにといくらか持たせたから受け取ってくれ、という話と、土産に自家製の干物があるからそれは早めに食べてくれ、という話だった。
「お、さばのみりん干し。こっちはするめいかか。よく作ったね?」と紙袋の中身を甥と改める。
「ばあちゃんがこういうの張り切って作るからさ。干物作るなら冬がいいとか聞くとすぐやる」
「おふくろらしいな」
 笑っていると先生が「楽しそうですね」と帰宅された。
「おかえりなさい。ええと、今日からしばらくの、甥です」
「あ、はじめまして、……ゆうちゃんの甥の、博高(ひろたか)と言います」
「ヒロ、こちらが同居人の、名鳥(なとり)先生」
「先生?」
 ヒロは疑問符をつけて先生を見た。先生は笑っていらした。
「僕は別に遊さんの先生をやっていたわけではありませんが、大学教授なんて仕事をしていますので、先生、と呼ばれてしまっています」
「いや、先生は先生ですよ。なんていうのか、僕の人生の」
「そう言っていただけるほどの実績があるわけではないんですけどねえ」
 先生はマフラーを外しながら、「食事は僕が担当しています」とヒロに告げた。
「今日の分はこれから作ります。若い人が来るから、と思って材料をちょっと買い足して来ました。博高さん、の、食事は僕らと同じで構いませんか?」
「大丈夫です。すごく助かります。おれ、手伝わなくてもいいんですか?」
「遊さんにはいつも食器の上げ下げだけしてもらっていまして、基本的には僕がひとりで作ります。好きなんですよね、ひとりで作業するのが。考え事をしながら作るせいもあるかもしれません。今夜は鶏の水炊きにしようと思うのですが、どうですか?」
「めちゃくちゃ食いますよ、おれ」
「よかった。作りがいがありますね。いまから準備して、七時過ぎに呼べると思いますよ」
「ヒロ、そのあいだに風呂入ったら?」と私は口を挟む。
「じゃあ、そうさせてもらいます。なにからなにまですみません」
「夕飯のときに、きみのこれからのスケジュールを聞かせてもらいましょうか。僕らが手助けできることもあるだろうから」
 そうおっしゃって先生は書斎へと下がった。私はヒロにバスタオルや石鹸を出してやる。
 ヒロは、ふう、と息をつき、「ゆうちゃん、大学の先生と一緒に暮らしてるんだな」とびっくりした顔を隠さなかった。
「もしかしておれが受ける大学の人?」
「いや、聞いた話だと違う大学だよ」
「ゆうちゃんどういう経緯で知りあって、こうなったの? 歳も離れてるでしょ?」
「先生に訊いて。先生が話していいと思ったら、話してくれると思うから」
 甥っ子を風呂に押し込み、台所へ向かった。先生は鶏肉やねぎの他に、茶碗と箸も買い足していて、それらを洗っておられた。
「水炊きというよりは、寄せ鍋になりますかねえ」と冷蔵庫から出した具材をあれこれ見て思案なさっている。
「あ、うちの母が作ったという干物があるんです。甥っ子が持ってきてくれて。さばのみりん干しと、するめいかの干物。自家製だから早めに食べてくれ、と」
「それは嬉しい。ではそれは、明日の朝食と、昼ごはんのおかずにしましょうか」
 その夜、先生は鍋のほかにほうれん草の胡麻和えや高野豆腐の卵とじなどの副菜も準備し、鍋の締めに朝の残りの玄米を入れて雑炊にしてくださった。
 若い人の食欲はすさまじいものなのだなあ、と思わざるを得ないほど、ヒロの食べる量はすさまじかった。先生よりも私は食べる方だが、彼はその倍は食べたのではないかと思えるほどだった。
「あー、うまかったー。腹いっぱい」とお茶をすすって彼は天井を仰ぐ。
「これなら夜食とかいらねえや。でもあまいもんは欲しくなるな」
「あまいもの、お好きですか?」と先生が訊ねられる。
「食後の別腹、ですかね。勉強してると脳に栄養ほしいし。おれがまだこーんなちっちゃかったころ」
 ヒロは背の高さを手で示してみせた。
「たまに、爆発するみたいにゆうちゃんが大量のお菓子を作ってくれて。それを親とか兄弟とかいとことか友達とか、みんなでいっせいに食べる日がありました。あれが懐かしくて、むしょうに欲しくなるときがあります」
「遊さんが、お菓子ですか」先生は私の顔を見た。
「すごかったですよ。量も、種類も豊富で。スイーツバイキングみたいだった。チョコレートのケーキとか、シュークリームとか、さくらんぼのパイとか、チーズケーキ、プリン、おれと友達はクッキーとドーナツがお気に入りでした」
 喋っているうちに「食いたくなってきたな」とヒロはひとりごちる。
「ここにはあまいものがないんですよねえ。僕も遊さんも食べないから、……そう思ってたけど、遊さんはご自分で作るほど好きだということですか?」
「昔の話ですよ。ストレス発散で手の込むもの作ってたんです。お菓子づくりって、工作と似てますから。工作は作っても置き場に困りますけど、お菓子なら消費してもらえます」
 なんだか言い訳みたいになってしまった。
「食後のデザートが欲しければ買ってきましょうか?」と先生はおっしゃる。
「いや、いいすよ。それに欲しくなったら自分でコンビニでも行きます。そのー、ナトリ先生はあまいものはあんまり好きじゃないんですか?」
「そうですね」
 先生はそっと視線を下げた。
「嫌悪感、に近いです」
「そうすか」
 ヒロは手をあわせて「本当にごちそうさまでした」とあいさつした。

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 食事を終えると、先生は書斎に籠られる。日ごろからたくさんの書物を読み解かれる方だが、食後にゆっくりとご自分のお好きな本をお読みになる時間が、とても大事である様子だ。私はその時間、食卓を片づけたり、今日の作業が残っていればそれを片づけたり、あるいは風呂に浸かったりと、やはり自分の時間に充てている。そしてころあいを見計らい、書斎の扉をそっとノックする。
 先生は眼鏡を下げ、「もうそんな時間か」と頷かれる。
 布団は、私が準備する。ふたり分の布団を和室に敷いて、冬なら湯たんぽであたためておくし、夏なら縁側の窓を放って風を通しておく。いまは冬なので、前者だ。先生は肩を揉んでらしたので、布団にうつぶせに寝かせ、その上にかぶさった。マッサージを施す。
 デスクワークなのはお互いで、先生も私を寝かせて腰などを揉んでくださる。先生の硬くて細い指は、とても気持ちがいい。私はうっとりと目を閉じ、寝かけてしまう。先生がそっと布団を被せて、電灯を消すまで、私はうつらうつらとしていた。
 布団に入って、しばし目をあける。
「……さっき兄に連絡したら、むしろその同居人て人に迷惑にならないかと恐縮してました。だから甥っ子呼んで、いいですよね」
「僕は一向に構いません。遊さんの決定で」
「あ、でも甥っ子来たらこうやっておんなじ部屋で寝ているのはだめですね?」
「うーん」
 暗い部屋の中で、先生はそっと笑った。
「僕の書斎にはソファがありますので、僕はしばらくそこで寝ましょう」
「すみません、あれは先生の仮眠用なのに」
「仮眠用だからと仮眠しかできないわけではないですから。甥っ子さんは、いつ来ますか?」
「ええと」
 私は充電器に繋がれたスマートフォンを出して、日付を確認する。
「地元で大学共通テスト受けて、結果見てこっち来るみたいです。学校は自由登校だからって。一月の終わりぐらいからでしょうか」
「じゃあもうすぐですね。何学部を受けるんですか?」
「家政部だそうです。家庭科の先生か、管理栄養士の資格を取りたいみたいで」
「それはまたきみと毛色が違いますね」
「いえ、根っこはおんなじですよ。手先を動かすのが好きなんです」
「なるほど」
 なにか頷いて、先生の手が布団の中に潜り込んできた。
「締め切り前の遊さんには酷ですか?」とじかに腹に触れながらおっしゃる。
「甥っ子が来たらしばらく自由にはなりません。それに僕も先生に触りたいです」
「こっちへ来ますか? そっちへ行きますか?」
「……そっちへ行きます」
 布団を抜け出る際に、浴衣の帯をほどいた。室内の寒さで鳥肌がいっせいに立つ。先生は布団を持ちあげて私を迎え入れ、組み敷いて、上に重なった。私も先生の浴衣の帯を引っ張ってほどく。
 先生の、普段は穏やかな目が、こういう夜だけ夜行の獣のように光る。その発光が、私の胸をざわざわとくすぐる。
 先生は硬く細い指で、やっぱり私を、丁寧になぞるように愛してくださった。先生がたまに飲まれる日本酒、あんな感じで含福を味わうべくして啜られる。


「ゆうちゃーん」
 駅舎でボストンバッグぶら下げて、久々に会った甥っ子はなにもかもが規格外だった。
 厚みも背もしっかりとたくわえて、伸びやかな身体をダウンジャケットの下に隠している。高校生男子ってこうだったかな? と自分を思い返してもうまく思い出せない。短く切り揃えた襟足に、マフラーをぐるぐる巻いて、白い息を吐いて、「うわ、まじでゆうちゃんだ」と人懐こく笑った。
「これ、親父から。迷惑かけるなよって、色々持たされた」
 そう言って大きな紙袋を突き出す。中には菓子折や地元の名産などが詰め込まれているようだった。
 ヒロを車の助手席に乗せ、発進する。受験の塩梅を訊ねると、彼は「多分、いける」と答えた。
「家政科ってそんなに倍率高いわけじゃないし。共通テスト受けた感じでは手応えあったから」
「これで前期試験は?」
「第一志望は筆記試験やるだけ。第二志望の方は面接があるけどね」
「受かったらこっちでどうすんの?」
「下宿かな。寮でもいいけど。安く済む方法がいいから、アパートじゃない方法がいいかなって」
 んあー、とヒロは大きく伸びをした。ここまでの長距離移動をほぐす。
「部屋、ひとつあけといたからさ。好きにつかっていいよ。ストーブと布団は入れといた。座卓だけど、机もある。いやじゃなければ食事も一緒にどうぞって、先生、……同居人も言ってる」
「ああ、ゆうちゃんありがとな。同居人ってさ、ルームシェアとか、そういう友達? それとも同棲?」
「……それを答えてキミはどうするのさ」
「いや、心構えが違うと思ったからさ」
 それから窓の外を見て、「なんかいい街だな」と言った。
「こじんまりしてるけど、ほこほこしてて賑やか」
「暮らすには不便ないよ」
「あ、焼き芋売ってる」
「あそこの商店街にいつも出してる焼き芋屋さんは美味しいよ」
「芋よりさ、おれ、またあれ食いたいな。ゆうちゃんの爆弾投下おやつタイム」
 そんな名称がついていたっけと、私は驚いてしまった。
「ケーキからクッキーからゼリーからドーナツまでなんでもあった。あれだけ大量のおやつタイムがさ、ゆうちゃん出てったあとは食えてないから。受験ひと段落したらやってよ」
 そう言われて、私は苦笑した。
「お菓子、こっち来てからは全然作ってないよ。というか、いまの人と暮らしはじめてからは全く」
「え、まじで?」
「食べる人がいなくなったからかなあ。僕は基本ひとりで在宅だし、同居人も食の細い人だし」
「ああ、そっか」
 納得した、という風に、ヒロは頷いた。
「てことはやっぱり同居人って、ゆうちゃんのいい人なんだ」
 ギャ、と急ブレーキを踏んだのは、歩行者の横断待ちに気づいたからだった。
「ごめん、」
「いや、ヘーキ」
「そういえばテンちゃんって元気? まだ一緒に遊んでる?」
「えーと」
 甥っ子は歯切れ悪く、「おれも早く免許取りてえな」と答えた。

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 バター、砂糖、小麦粉に、卵。牛乳、チョコレート、ナッツに、シナモン。生クリーム、クリームチーズ、レモン、リキュール、ココアパウダー。バナナ、グレープフルーツ、りんご、栗。
 なんかそういうものを一気に買い込む。重たいから、免許を取得して以降は車をつかうようになった。そして前日までに片付けておいた冷蔵庫やオーブンをフルにつかって、一日じゅう菓子作りに明け暮れる。ガトーショコラ、アイスボックスクッキー、アップルパイ、栗の甘露煮、バナナブレッド。
 散々出てくる菓子を消費するのは大人もそうだったけれど、主には子どもたちだった。要するに姉や兄の子どもたち。私の甥っ子や姪っ子たち。まだ年若い叔父のことを彼らは「ゆうちゃん」と呼んだ。ゆうちゃんこれ食べていいの? ゆうちゃんお菓子まだ? ゆうちゃん、ゆうちゃん、ゆうちゃん。
 長兄の末っ子のヒロは、当時まだ小学生だった。幼なじみのテンちゃんという子とよく遊んでいて、ふたりはいつも一緒だった。そしておやつをねだりに来るのもまた、ふたり一緒だった。
 ――ゆうちゃん、おれとテンちゃんにお菓子ちょうだい。
 ばかみたいに一日通して菓子を作るのは、私にとってストレス発散の意味あいだった。それを食べることまではあまりセットで考えていなかった。ただ自分が手を動かした結果、世にも魅力的なきらきらしたあまいものが出来あがる、ということが、快感だったのだ。
 ――ゆうちゃん、今日はなに?
 あれから十年経って、私はとっくに家を出た。三十路かあ、と自分の年齢を顧みて苦笑いする。道理で色々と億劫になったものだ。先生はそれでも私を「若い若い、これから」とおっしゃるけれど、そうは言ってもさ、と思う。
 家を出て以降まったく会わなかったヒロと、十年ぶりに再会することになった。ちっちゃくて足元をうろちょろしていたのが大学受験だというのだから、年月っておそろしいよね。

 ◇

 先生は、大学で教鞭を取っておられる。
 食の細い方で、痩身で、形容するなら「長い」だと思う。手足も、身長も、上下に長い。厚みのない身体は、夏でも長袖をお召しになる。秋ならベストが足されて、冬ならセーターが重なる。春はジャケットを着ておられることが多い。
 食事の一切を、先生が作られる。私は手出しをしても、食器を出すとか、下げるとか、その程度だ。先生の作る料理は、とても美味しい。和食が中心で、質素で淡白だけれど静かにひたひたと私を満たす。おかげで私は先生と暮らしはじめてから健康診断に引っかかったことがない。
 一昨年の冬に庭の土をおこして、ちいさな畑を作った。家庭菜園の類を出ないけれど、これは私がやりたくてやっている。私の仕事は在宅のイラストレーターだ。机やモニターに向かうことが多いので、こうやって庭に出る機会は、私を頑固な肩こりから解放してくれる。
 収穫した野菜を、先生はとても丁寧に食事に仕立ててくださる。今年はミニトマトの出来が良くて、たくさん取れた。先生はそれを夏の日差しに当てて乾かし、上手に貯蔵した。それらが冬のこの時期でもたまに食卓にのぼることがあるから、私はとても満足する。
 その日の晩ご飯の一品に上がったのは、ドライトマトを千切りの生姜とだし醤油、ごま油で和えた一品だった。
「これ、美味しいですね。お酒が欲しくなります」
「遊(ゆう)さんが夏に収穫したトマトですよ。お酒、飲みますか?」と先生はゆったり訊ねられる。
「いえ、僕はすぐ寝てしまいますから」
「明日も忙しいのですか?」
「甥っ子がうちに来たいと言っていて、その前に片付けたい締め切りがどうしてもあるので」
 あ、これ先生にちゃんと伝えてなかった。私は先生の淹れてくださった昆布茶をひと口飲んで、「すみません、相談なんですけど」と申し出る。
「僕の田舎にいる甥っ子が、この冬は大学受験なんです。こっちの大学を受けたいそうです。公立と私立と受けるみたいなんですけど、試験のあいだ面倒見てくれないかと、兄からお願いされてまして」
「そんなに大きな甥ごさんがいたんですね」
「僕は兄や姉とは歳が離れているので、年ごろの甥っ子や姪っ子はたくさんいるんですよ」
 先生は、ふふ、とほっくり笑った。
「僕はかまいませんよ。ここはきみの家でもあるんですから。和室がひと間あいてましたね。そこなんか、いいんじゃないでしょうか。居間と離れますから、静かに勉強に励めるでしょう」
「ありがとうございます。じゃあ。兄に連絡しておきます」
 そう言いつつ、スマートフォンを握る指が止まった。
「あー、でも、でも先生。やっぱり甥っ子を預かるのは、ちょっと」
「問題がありますか?」
「僕がここで古い一軒家で暮らしている、ということは、家族には伝えてあります。でもそこに先生がいらっしゃる、先生と暮らしている、ということは、伝えていませんから」
 先生も昆布茶をひと口飲んで、息をついた。
「そうですね。僕もきちんと挨拶にお伺いしていません。しなければ、と思うことを、僕はあえて置いてますので」
「……」
「本来なら遊さんと暮らしていることを、きちんとご報告に上がらなければなりません。それを僕の勝手で放棄しています。このことで遊さんが心苦しい思いをしているのと分かっていながら、です。分かっていて、……この歳になるとどうしても、若いころのような踏ん切りはつきませんね」
 きみに不満はありますね、と、先生は私を正面から見て静かにおっしゃった。その通りでもあるし、けれどそんなに先生がおっしゃるほど気にすることでもない、と、私は首を横に振る。
「僕はもう、三十路です。することのいちいちに親の許可の必要な年齢ではありません。家を出て、自立して生活しているわけですから。その僕がどこで誰と暮らしていても、文句をいうような親や兄弟でもないです」
 先生は、かつて結婚されている時期があった。学生結婚だったと聞いている。お子さんもいらっしゃる。けれどその結婚生活は、先生いわく「お互いのだらしなさで」崩れたそうだ。過去の結婚生活について私はあれこれを先生に訊ねたことはない。先生がご自分から語られる範疇でしか知らない。けれど先生があまりその生活を快く思っていなくて、かつ、心理的な傷であるかのような顔をされるのが、辛かった。
 先生は、ご自分のことを語るときに、たまに「きみのような若い子にいい年齢の者が手出しして」と苦しそうにおっしゃることがある。
 いま、私と先生は、とても穏やかに、充足して暮らしている。それだけで充分ではないかと私は思っている。こんな生活を、たとえば私と同年代のほかの人間が、得られているものだろうか? 私は充分すぎるほど幸福だ。だから先生のおっしゃるようにはけじめをつけなくてもいいと思っているし、「手出し」は心苦しく思ってほしくないなと思っている。
「どうしますか?」と先生は訊ねられた。
「遊さんが決めていい話です。断るのも、しばらく僕だけホテル住まいするのも、遊さんが考えるようにしてください」
「先生を追い出してまで甥っ子預かるなんて、嫌に決まってます。兄には同居人がいることを伝えます。それでもいいならおいで、という話で、いいですか?」
「もちろん構いませんよ」
 先生はそっと笑みをつくり、「食べましょうか」と食事の続きを促した。

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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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