忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 用意されていた食事は、簡単なものだったが、なんだか腹に染みた。とても美味しいと感じた。白米とみそ汁と缶詰と漬物だけなのに。味覚をつかうってこういうことなのかな、と思った。先ほど雨に打たれながら日野辺が叫んだ言葉がよぎる。投げやりに、死んだみたいに生きるんじゃなくて。まっとうに生きてくれよ。
 食器を片付けていると、日野辺が現れた。目に疲労はにじんでいたが、眠る気はないようで日本酒の瓶を探り出した。黒い上着を脱いで椅子にかける。コップをふたつ携え、「こっち」と呼ばれるままに和室へ向かう。
 仏壇の置かれた部屋は、いまは遺体の安置室になっていた。棺と花が置かれ、黒塗りの台に線香が立てられている。
 その畳の上に座して、どん、と酒瓶を置くと、「通夜」と日野辺は言った。
「文字通りだよ。線香絶やさないようにひと晩じゅう付き添う。まあ、事情が事情だし、この雨だから、弔問客をもてなす気もないし誰も来ないと思うけどね。……台風が去ったら坊さんが来て葬式だ。いとこがね、通夜ぐらい仕事だからいてくれるって言ったんだけど、断った。今夜は付きあえよ、現」
 そう言われ、ひとまず日野辺いずみに線香だけあげて、日野辺の前に座った。日野辺はコップにとぷとぷと日本酒を注ぐ。
「……お姉さん、どんな最後だったの、」と訊く。日野辺はビールのときと同じく、ちびちびと舐めるように酒を飲んだ。
「まあ、穏やかだったよ。バイタルがゆっくり下がって、ゆっくり死んだ。いままで散々苦しかっただろうから、最後ぐらいこういう穏やかさでよかったよな、って思った」
「こんな日に、……本当にごめん。探しに来てもらうようなことさせて」
「いや、かえって頭が冴えた。悲しみに暮れてる場合じゃなくなって。まあ、常盤さんから連絡もらったときはものすごく心配で走り回ったけどね。嵐のときは危険だから、むやみに出かけるなよ」
「……どうしてもあんたに会いたかった」
 その言葉で、日野辺は飲みかけたコップを下におろした。
「現、」
 日野辺の目の、眼鏡の奥の瞳の、瞳孔が、しんしんと透きとおって深い。
「おまえになにがあったんだ?」
 いままで訊かなかったことを、日野辺は訊きだそうとしていた。真剣に、流さず、受け止めようとしている。
「……姉夫婦に子どもが出来た。無事に生まれたって、今日、連絡があって」
「おめでたいことだ」
「めでたくなんかねえよ。すくなくとも、おれは」
「……なぜ?」
「子どもができたって聞いたときから、嘘つき、このやろうって、裏切られた気分でいた。そもそも間違ってたのはおれなんだけどな。でもあの人は、姉とはセックスレスの夫婦だからって言ってた。ずるい人だったよ。すごく、ずるかった」
「あの人」
「義兄さん。義理の兄。姉の夫。……おれ、義兄さんとは身体の関係にあった」
「……」
「きったなくて醜い話だろ。……姉貴にさ、この人と婚約したのって紹介されてはじめて会ったときに、あっ、て感じで。転げ落ちるみたいに、これが恋なんだって分かった。向こうもおんなじで、姉貴に隠れて何度も会ったし、会えばセックスした。おれもあの人も本当にろくでもない人間で、会えば全部のことがどうでもよくなって、お互いしか見えなくなるんだ。何度もバイトくびになったし、アパートの家賃すら払えなくなるような事態にもなった。それでも会うことをやめられなくて、……結局、向こうが辛かったんだろうな。おれと恋をし通し続ける覚悟はなかったんだ。姉貴が妊娠したって聞いて、そっからおれ、もう、どうしていいのか分かんなくなっちゃって。なにやってもしんどかった。毎日視界が灰色みたいな。……耐えられなくなって、逃げるみたいに電車乗って、乗って、乗り換えて、……この町であんたに拾ってもらって、なんか、ここにいる」
 日野辺はまた、ちびりと酒を飲んだ。
「姉貴は知らないまんまだと思う。知らないから『生まれたよ』なんて、あんなLINE寄越したんだろうし。そのことも罪悪感だ。おれもね、姉貴のこと好きなんだよ。あんたみたいに。だからいっそ、あんたひどい、あたしの旦那だよとかって、姉貴に罵られたらすっきりした。恋を終わりにできた」
「すっきりなんかしないさ」
「……」
「しないし、終わりにする気もなかっただろう」
「……」
 自分もまたコップに手が伸びて、酒をくっと煽る。そのあいだに日野辺は立ちあがり、新しい線香をつけた。
 ふう、と息を吐く。これから語るのは、認めたくない感情だ。
「そうだよ。……結局おれは、義兄さんに、裏切られたと思ったことが、いちばん、堪えてる……」
 絞り出した答えは、自分を痛めつける刃だった。だから向きあいたくなかった。日野辺が訊くから。受け止めようとしてくれるから。
「痛い、……痛くてたまんないんだ。どっかへ行きたくて電車に乗ったけど、帰れないだけなんだ。忘れたい。なかったことにしたい。もうこの先、……間違いたくない。誰かを想って想い返されて、他の人を傷つけて、自分も傷ついて、……そういうのは、嫌なんだ。おれは、どうしたらいいんだ? どうやったら痛くなくなるのか、……」
 わからない、と言おうとしたが、声が詰まって言えない。姉に隠れて義兄と恋をしたこと。義兄に裏切られたこと。すべてが痛くてつらい。こんなところに来てまで、まだ自分は苦しい。それはこの先いつまでも続きそうで、嫌だった。
 その言葉を包むかのように、日野辺は「ここにいろ」とはっきり言った。
 コップを畳にじかに置いて、日野辺の腕が肩に力強く添えられた。
「現は、きみは、ここにいろ。帰らなくていい。帰るな。ここで、おれたちの傍にいろ」
 その台詞も迷うようで、「んー、ちがうな」と日野辺はうなだれてがりがりと髪を掻きながら言葉を探る。それを必死で聞く。聞き逃すまいと耳をすませる。
「きみが、……駅で途方に暮れていて、家に呼んで名前を聞いて、『和泉現(いずみげん)』だと名乗ったときに、……おれがどれだけ救われたような気持ちになったか、分かるか? 姉貴はこれから死んでいこうっていう人なのに、この人は生きていこうとしている人だって思った。死にたくて乗った電車じゃないよ。生き延びたくて乗った電車だったろう。現が、自分を殺さない選択をしてくれて、どれだけ嬉しいか、分かるか? 疲れ切ってたおれの傍にいてくれて、ひとりにならないように一緒に酒を飲んでくれた。くだらないしょっぱい話を、くだんねえな、って顔で聞いてくれた。現の顔を見るとおれは、ああそうか、これはくだらないことなんだと軽くなれるし、現が傍にいると、どうしようもない現実をどうしようもなくない、と思えた。それがどんだけおれにとって楽になることだったか、想像しろ。理解しろ。現、おまえはここにいる必要があるんだ。ここで、おれの傍にいろ。おれは医者のくせにちっとも度胸がなくて、……でも現にはそれを、ぼっこぼこに殴って正される。しっかりしろよてめえ、って」
 肩を掴む手は、力をこめすぎてふるえていた。コップを置いて、腕を伸ばす。日野辺の脇の下をくぐってぐるりと背中に手を回すと、日野辺もまた、頭を掻き抱くように縋ってきた。
 こうやってお互いがお互いに縋って、支えて、支え返して、生きている。
「現は、現実の現。現在の現。いやでもいまを見ろと突き付けられる。すごく、いい名前だ」
「おれ、ここにいていいの、……」
「いろよ」
「……」
「ずっといろ、ここに」
 横に倒れると、巻き付いたままの日野辺もまた、重なって崩れた。
「日野辺送」
「……ああ」
「ひのべ、わたる」
「そうだよ」
「わたる」
「なんだよ」
「送……」
 日野辺の肩越しに天井を見あげる。煌々と眩しい電灯の下に、線香の煙が細くのぼっていく。
「送、」
「なに、」
「いや、」
 目元から滲むものがあった。多分この町へ来てはじめて泣いている。
「呼びたいだけだ」
「そうか」
 日野辺はやっぱりあやして、髪を梳いてくれた。
 


→ 

← 


拍手[6回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501