×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日を追うごとに、夜鷹との秘め事も回数が増えていく。土曜日は大抵落ち合ったので、よほどの天気でなければ天体観測と称して屋上でセックスをした。天候が悪いときには夜鷹の宿舎に招かれて、ふたりで過ごした。仲間内に夜鷹と過ごす日々のことが知れるのは当然のことで、彼らには「夜鷹が故郷に残した嫁と子どもの話を聞いてやってるんだ」と説明した。日本人同士なら話が多少なりとも分かって、騒ぐ郷愁を惜しむ相手に不足ないとみなされた。
地質学者であり、鉱山技師であるにもかかわらず、夜鷹の肌は一向に日焼けを知らず、白いままなのが恐ろしかった。慧は土着の民とだいぶ混ざって色黒なので、肌を合わせるときは、絡んだ手足の色彩差に目が眩んだ。痩せて細い身体はどうしてこれで山や森や沢筋を歩けようか、という頼りなさで、だが夜鷹の筋肉の確かさを慧は覚えたから、丹念に愛した。するときいつも夜鷹は眼鏡を外した。裸眼だと焦点が合わないようで、きつい眼差しがどこか潤んでぼんやりとする。それが自分にだけ向けられる夜鷹の甘えなのだと勘違いした。
土砂降りの土曜日、明かりを落として夜鷹の部屋でセックスをした。壁が薄いので部屋での情事は避けていたが、この雨なら構わないだろうとどちらからともなく触れて抱き合った。もっとも夜鷹は情事であまり声をあげない。それはいつも堪えているのか、出ないものなのか判別つかないが、囁く程度に呻き声はあっても、決して嬌声は上げず、あるのは荒い息遣いだけだった。
夜鷹の中に自身を突き入れ、尻たぶを掴んで腰を揺さぶる。夜鷹はうっとりと目を閉じ、半開きの口から荒く息を吐いていた。そこに噛みつこうとして、不意に「せい」と夜鷹は言った。はっきりと、英語なんかではなく、日本語で、「せい」。それは誰かを指しているような気がして、瞬間的に心臓が凍りついた。
「せい」って、なに?
動きを止めた慧を、夜鷹は焦らしたのだと思ったらしい。「動けよ」と急かした。腰にしっかりと夜鷹の足が絡みつく。いちばん弱いところを晒して快楽を追っているのに、弱さはもっと別の場所にあるようだと感じた。そしてそこは慧には晒されない。
「どうした?」
「せい」と呼んだ本人は自身の誤りに気づかない。慧はやけになり、その声をあげさせようと激しく腰を使った。
「――うんっ、ふっ……」
夜鷹がいく。慧もいく。でも全然気持ちよくなんかなかった。
がらんとした夜の食堂で、夜鷹は紅茶を入れてくれた。夜鷹はコーヒーを好まない。頭痛がするという理由でいつも茶の類を飲んでいた。事後の火照りは嘘のように冷え、長机に向かい合わせで紅茶をすする。誰もいなかった。
夜鷹の手元を見る。ダミーの指輪の嵌まった白い指。見ていると夜鷹は「なに?」ときつい目でこちらを見た。視線が絡む。慧はカップをテーブルに置いて、「セイってなに?」と訊いた。
途端ぎくりと夜鷹の身体が強張る。けれどすぐに嘲笑に変えた。「知らねえよ」
「知ってるだろ。さっきおれをそう呼んだ」
「情事の相手ぐらい間違えねえよ。ケイ、と聞き間違えたんだろ」
「Kの発音とSの発音は間違えない。……誰?」
せい、と呼んだ舌足らずな声。甘えるようで切実に求める響きがあった。夜鷹は表情を変えずに「誰でもねえよ」と答えた。
「聞き間違いだ。あんなに熱心におまえの名前を呼んでやったのにね」
「しらばっくれるならヨダカらしくないし、そんなヨダカは嫌いだ」
「おれが正直なときがあったか?」
「いつだって正直だろ、ヨダカは。嫌なことは嫌だと言うし、面白いことなら笑うよ。ただ人とちょっと感覚がずれてるだけで」
「ふん」
カップを手に、夜鷹は立ち上がった。
「つまんねえな、慧」
今度ははっきりと「ケイ」と聞こえた。
「そんな詮索をするおまえは、おれも嫌いだね。おれとおまえに、なにがある?」
「……」
「お互いに都合いい相手。それ以上でも以下でもねえ」
「ヨダカ、おれは」
「今夜はこれで帰りな。おれの部屋には泊めねえ。絶対にだ」
ひどい雨の中を帰れと言う夜鷹。それでも慧は従うのだ。この人に逆らう気持ちはどこにも、ひとつもない。
そういう気持ちにさせないのが、夜鷹という男の魅力だった。
← 6
→ 8
PR
土日の休暇の他には、もちろん長期休暇もあった。経済の導入先は欧米が手本だったのでどうしてもそのような制度が導入された。日がな肉体労働に明け暮れる男たちも、休暇の一ヶ月間ばかりは家に戻る。だがここ数年を共にしている夜鷹が例えば本来の住まいのある大学都市に帰るとか、日本に帰るとか、そういうところは見たことがなかった。旅行には出るようだったが、それはこの国から出ずに山々を歩き回る程度で、数日間で戻ってくるのは結局ここだった。
「家族のところに帰んないの?」と訊いたが、一笑された。
「家族って呼べるもんはいねえな。親父もおふくろもそれぞれ好きにやってるし、姉貴の産んだ子どもにめろめろで帰って来いとも言われたことがない。おれはおれで好きにやってるってことをあっちも分かってるし」
「でもヨダカには奥さんがいるだろう?」
「嫁?」
「指輪をしているから」
そう言って夜鷹の左手薬指にはまる銀色のリングを指す。このあたりで男が決まった指に指輪をつける風習はないが、一経済活動地域と化してからは、そのような男を見ることも多くなった。
は、と夜鷹は嘲る息を吐いた。
「ダミーだ。結婚はしていない」
「ダミー? 結婚してないのに指輪を嵌めてるってこと? なぜ?」
「独身でいると色々と面倒が舞い込むからな。既婚だと思われていれば厄介ごとから離される。色々と世話を焼きたがるやつも多いし、言い寄るやつもいる。ここで言えばなぜ週末に町に降りないのかと言われるが、妻に操立てしてるんだと言えば愛妻家だと納得される。指輪ひとつで効果は抜群だ。うってつけなんだ」
「なんだ……てっきり、ヨダカには日本に奥さんがいるんだと思ってたよ」
納得して、安堵した。夜鷹のどこかに誰かの気配を感じ取ってはいたが、それはそう思わせるように仕向けているだけのことだと分かって、慧はほっとする。
と同時に、慧に示された事実にうろたえた。こんなにあっさりと慧に対して秘密を漏らしていいのか。慧が「あれはダミーでミスターマエジマは本当は独身なんだ」と周りに言いふらしたら、夜鷹のせっかくの偽装も水の泡だ。
だが夜鷹は「おまえは言わないだろ」と言ってのけた。
「どうして? そんなの分かんないよ」
「おまえが、おれが独身だと言いふらすことで利益があるか? ないだろ。毎週末町に降りる連中ならともかく、おまえも宿舎に引きこもりだからな」
「損得じゃなくて、ただ単に喋ってしまうことだってあるよ」
「おまえはそこまでお喋りじゃない」
そうか、と思って聞いていた。口の悪い夜鷹がそんな言い方をするのは意外で、慧は素直に嬉しかった。信頼されている、と感じる。毎週土曜日の天体観測以降、夜鷹との距離の近さを感じていた。
「ホリデーなんだから、面白いとこを案内しろ」と言われた。
「おれが? ヨダカを?」
「金なら払う。遺跡に行ってみてえな。あるだろ、この辺に。地元しか知らないようなしけたのが」
「いいけど、最近はそれでも人が増えてるから、変な連中もうろついていると聞く。観光客相手にぼったくるとか」
「ならおまえがうまくやれ」
そう言われ嬉しくない訳がなかった。地元の観光案内所やガイド仲間から情報を仕入れ、三日後にふたりで遺跡を訪れた。このあたりで権力のあった豪族の廟で、埋葬されている宝飾品まで見学が可能だった。祭壇の壁に書かれた絵とも文字とも判断つかない絵に興味を持って眺めている夜鷹の横顔をずっと見ていた。出口で子どもの乞食に無理やりブレスレットを巻きつけられ金を請求されるのを凄みを利かせていなし、あとは周囲をぶらぶらと歩いた。近くの宿で一泊取り、翌日には宿舎に戻った。
休暇中の宿舎は変わらずがらんとしていた。人のいない宿舎で、残りの期間もほぼ夜鷹と共に過ごした。その日「今夜は流星群が極大なんだ」と夜鷹は珍しく嬉しそうで、いつものサンドイッチと温かいお茶を水筒に用意していた。みのむしみたいな寝袋に潜り、その上から同じ毛布をかぶって、ふたりで夜空を見上げる。しんと静かな空。紺色の背景に瞬く星。目当ての方角に目を凝らしていると、すうっと流れるものを確かにいくつも見ることが出来た。
「流れた」
「もう何個見た?」
「んー、十個? もっと見たかな」
「おまえは視力がいいから羨ましい。わずかな光もおまえには見えるんだな」
隣を向く。空を見たまま、けれど眼鏡越しのその瞳はなにかを求めて写しているようには見えなかった。
「星を見ていると視力が良くなると言われて見続けたことがある。させられた、が正しいな。ぼんやりとでいいから遠くを見ているといいと言われたが、視力はよくならなかった」
「……ヨダカは眼鏡を外すとどれくらい見えるの?」
訊ねると、夜鷹は息をついて眼鏡を外し、空を見上げて「全く」と答えた。
起きあがり、その顔を覗き込む。
「見える? おれの顔」
「全然」
そう言われたので、顔を近づけた。
「見える?」
「もっと近くないと見えない」
「……」
「もっとだ」
息が触れ合う距離だった。間近に覗き込む夜鷹の、信じられないほどの深い目の色をありえないほど近くで見てしまい、うろたえている。これ以上近づいていいものかどうか。けれど夜鷹は拒まなかったし、毛布の下から伸びた腕が慧の首の後ろに触れた。顔が近づき、目を閉じないキスをした。夜鷹は目を閉じていた。
たっぷりと口唇を触れあわせる。もう挨拶では済ませられないキスをする。開けた唇から舌を滑り込ませると、氷のつめたさをそのまま持った夜鷹の舌が絡んだ。混ざる唾液は熱くもならず、慧はまるで冬とキスをしているような錯覚に陥る。荒くなった吐息でようやく唇を離すと、夜鷹は目を開け、誘う笑みで「意外と上手いな」と言った。
「……みんなにはからかわれるけど、別にはじめてなわけじゃない」
「男とも?」
「うん」
「じゃあ気持ちよくしてくれよ。おまえは出来るんだろう」
鼻で笑われるかのような言い方をされたのに、それが夜鷹の誘い方だと思ったらどうしようもなく煮えた。毛布の下、寝袋のジッパーを外して夜鷹の衣服の隙間に手を入れる。口の中と同じようにつめたい身体だった。冷えた石を握っているとそれもぬるまってくる、あれに似ている。夜鷹はまるで体温を持たず、ただ慧が与える熱でしか温まらなかった。
夜鷹を組み敷いて、昂りに指を這わせ、許された場所へ性器を突き入れる。夜鷹も男ははじめてではないことが分かった。準備もないのに挿入はスムーズで、怖いぐらいだった。ほんの少しでも痛みが伴った方が、人間とセックスをしているという現実感を知れたと思う。
夢みたいな時間が終わって慧は放心していたが、夜鷹は軽いスポーツでも終えたかのようにさっぱりとした動作で、毛布から抜け出た。衣類を直す。立ちあがった夜鷹を追って空を見あげると、一際目立つ流れ星が尾を残して落ちていった。
情事に名残はなかった。慧は夜鷹と関係を持ったことに喜びを感じるよりは、無性に淋しさを感じていた。夜鷹がただの肉欲を晴らすためだけに慧を求めたのは明らかだった。恋心も愛情もない。けれどそれすら夜鷹らしいと思った。
「来週にはまたここも賑やかになるな。休暇は終わりだ」と夜鷹は言った。
「でも、土日の宿舎は空っぽだよ」
「――そうだな」
夜鷹は笑い、執着のようにまた夜空を見あげた。
← 5
→ 7
労働者たちは週末が来ると麓へ下りた。麓まで下りれば町が出来ており、市場があり、娯楽があるのだ。秘境が秘境でなくなり、経済活動拠点になって以降、麓の町はますます盛んに、猥雑に発展して行った。こうやって賑わいって出来ていくんだなと思いつつ、慧の興味はそこには注がれない。そしてそれは夜鷹も同じようで、宿舎に残る数名の中に彼は必ずいた。
男たちが麓で遊興にふけるあいだ、夜鷹は宿舎にとどまった。宿舎にとどまる人間はたくさんはいない。大抵は宿舎の布団でごろ寝しているだけだったから、こうなるといないも同然である。労働者の宿舎と専門分野を担う学者連中の宿舎は隣接しているといえども異なっている。労働者は大部屋に雑魚寝だが学者の宿舎は個人の部屋が割り当てられているらしい。専門の道具や資料の揃ったミーティングルーム兼ラボもあると聞く。
慧は家から通えたので、宿舎にとどまることはそうはなかった。けれど人がいないのが面白くて週末だけは宿舎をうろちょろしていた。今日も一週間の労働を終えて男たちがこぞって町へ下りていく。それに逆らって厨房からさらった食糧を手にあちこち歩いて屋上へ向かう。そこでチーズなりパンなりの夕食を食べる。露天掘りがはじまっても夜は相変わらず深く、星が濃い。上着の襟をかき寄せて食事を済ませ、ごろりと寝転がって夜空を眺める。風の強いこの地域はそれでも時折風のやむ夜があって、それは心地のよい時間だった。
誰かがいる、と気づいたのは、うとうととしかけて寒さを感じたときだった。
なにか歌をうたっている。鼻歌程度だが聞こえた。妙に癖のあるハスキーな鼻声で、しばらく聞いているうちにそれは日本語であると気づいた。ここで慧以外に日本語を操れる人間など限られている。確信を持って歌の方向へ向かうと、慧が寝転んでいたちょうど向かい側の送風機の裏に、天体望遠鏡を据えて星を覗き込んでいる夜鷹がいた。
毛布にすっぽりと包まり、水筒とサンドイッチを用意して、鼻歌をうたいながら望遠鏡を覗き込んでいる。「ヨダカ」と声をかけると音は止んだ。背後に立つ慧を見て、「なんでおまえがこんなところにいんだよ」とまた人を小馬鹿にした目で見た。
「おまえのすみかはここじゃねえ」
「そういうヨダカこそ違うだろ。学者の宿舎は隣だろ? ここは労働者の宿舎だ」
「あっちの屋上は邪魔な木があって空がひらけない。こっちの方が覆い隠すものがなくてよく見えるんだ」
「星が?」
「この望遠鏡の倍率だと月だな。惑星も見えることには見えるが」
「ヨダカは地質の専門じゃないのか?」
「天文は趣味だ。邪魔すんじゃねえぞ」
そう言いながらまた望遠鏡を覗き込む。端から見ていると鼻歌とは裏腹に不愉快な顔つきで、こういう夜鷹を見たことがなかったから新鮮に思った。付き合いだけならもう三年も経つというのに。
「星、好きなの?」と訊いた。「嫌いなら見ねえ」と返事があった。
「もっとも、詳しいわけじゃない。詳しいやつが傍にいたから星の見方を覚えた。それだけだ」
「でも望遠鏡まで持ってるぐらいだろ。それって高いんじゃないのか?」
「おれが買ったわけじゃねえから値段までは知らねえ。だがせっせと小遣い貯めて買ったのを、もう星は見ないからやると抜かしやがるから、もらってやっただけだ。本当は目の前で叩き壊してやればよかったと思ってるよ」
あまりにも慧が質問攻めにするので、月を見るのを諦めて夜鷹は水筒から茶を注いで飲んだ。濃い紅茶の香ばしい香りが漂う。それを嗅いで無性に寒気を感じ、くしゃみをすると、夜鷹は笑った。嘲笑う、という表現が似合う笑い方だった。
「飲むか?」
「いや、……今夜は帰る」
「懸命だな」
「ケンメイ?」
「正しい判断だってことだよ」
夜鷹はサンドイッチにも齧りつく。「週末はいつもいるの?」と訊いた。
「あ?」
「労働者のやつらはみんな町へ降りるよ。それで日曜日の夜まで帰ってこない」
「町におれにとって面白いもんがあるなら降りるけどな。生憎興味がない。それにここが空っぽになって、誰もいないところで星を見ているのは気持ちがいい。普段は飯ぐらいしか楽しみもなくて、娯楽に飢えて文句ばっかり言ってるやつらだからな。学者先生は実際に働かないからいいとか抜かしやがる。ばか言ってんじゃねえよ。そういうやつらが、町の女にうつつ抜かして金巻き上げられてると思うと、ここにいるだけでせいせいするね」
つくづく口も性格も悪い男だな、と思った。でも慧にも分からない気持ちじゃない。夜鷹が言うほどにここの男たちを嫌っているわけではないが、雑用要員としてうろちょろしている慧をばかにする風はあって、なぜ町へ下りないのかとからかわれることもしばしばだ。その度に「さっさと筆下ろし済ませろよ」だの「学者先生と話が出来るからってお高く止まってんじゃねえよ」だの言われるのだ。
「おれも空っぽになる宿舎が好き」と言うと、夜鷹はサンドイッチを咀嚼して「ふん」とだけ答えた。
「おれも土曜日の夜は厨房漁って飯もらって来てここで食うんだ。来週から一緒でもいい?」
「うるせえやつが増えるだけだな」
「おれにも星教えてよ」
「詳しいわけじゃねえんだって。星座まで知らねえし」
理由をつけて文句を言われたが、断られているわけではないと分かった。
「もっとあったかいもんでも持って来い」去り際、そう言われた。
「そのうち流星群が極大になる」
「じゃあ、寝袋持ってくる。あったかいお茶も」
「酒じゃねえあたりがおまえは健全だね」
「ケンゼン?」
「健康でくらくらするって意味さ」
そう言われても意味はよく分からなかった。けれどその週から、土曜日の天体観測がはじまった。
← 4
→ 6
二.慧と夜鷹(pure green and navy blue)
はじめて前嶋夜鷹(まえじまよだか)を見たときの衝撃を、忘れられない。
こんなに真っ黒な人がいるのか、と思った。肌は色白だったが、髪はまっすぐに黒く、黒縁の眼鏡をかけていて、なにより瞳の色が濃かった。日ごろ様々な虹彩の人間と接するが、夜鷹ほど暗い色の目をした人間は、見たことがなかった。
きついまなざしは人を小馬鹿にするような生意気さも含んでいたが、単純にそれだけを感じ取るには、夜鷹はあまりにも暗すぎた。底の見えない湖のような目だな、と思った。いや、沼かもしれない。とてつもなく巨大で、恐ろしいなにかにこの人は飢えている、と直感した。
それは淋しさで渇望だったのだな、といまになって思う。ずっと求めているものがあり、それに飢えていた。だがいまさら理解したところであの人のことを考えても仕方がない。夜鷹はきっともう戻らない。
そんなやわな覚悟で行ってしまったわけではないことぐらい、分かる。
こんなに真っ黒な人がいるのか、と思った。肌は色白だったが、髪はまっすぐに黒く、黒縁の眼鏡をかけていて、なにより瞳の色が濃かった。日ごろ様々な虹彩の人間と接するが、夜鷹ほど暗い色の目をした人間は、見たことがなかった。
きついまなざしは人を小馬鹿にするような生意気さも含んでいたが、単純にそれだけを感じ取るには、夜鷹はあまりにも暗すぎた。底の見えない湖のような目だな、と思った。いや、沼かもしれない。とてつもなく巨大で、恐ろしいなにかにこの人は飢えている、と直感した。
それは淋しさで渇望だったのだな、といまになって思う。ずっと求めているものがあり、それに飢えていた。だがいまさら理解したところであの人のことを考えても仕方がない。夜鷹はきっともう戻らない。
そんなやわな覚悟で行ってしまったわけではないことぐらい、分かる。
週末になれば男たちは町へ下りる。普段は汗臭くやかましい宿舎が一気に静まり、やたらと風通しのよくなるこの休日を、本宮慧(もとみやけい)は心待ちにしていた。ある者は家族の元へ帰るし、またある者は恋人に会いに行く。その他は町でくだらないギャンブルに興じたり、水商売の女を抱く。休日なのだから、各々が好きに過ごせばいい。ただ宿舎が空になる、それが爽快でたまらなかった。
あまりにも高地にある鉱脈の掘削現場だ。広大な土地で露天掘りを行っている。ここで掘られる鉱石の用途まで慧はよく分からない。けれど掘削がはじまる前段階の調査から、慧はこのチームに加わり、ここで働いている。
はじめはどこかのラボからの依頼だった。高地ゆえに秘境とされ、滅多に人も訪れないこのような場所に鉱脈の可能性があるとの話で、どこか遠くの国から数名が派遣されて来た。まず地質調査を行うにあたり、この辺をよく知る案内人が欲しいとの内容だった。慧は山師である祖父についてこの辺りをとにかく歩き回っており、山のことを知っていた。若いし語学力も問題ないとのことで村の議員から指名された。議員はこの山奥すぎる秘境をとにかくひらけた土地にしたがっていた。慧の祖父はそれに反対する一派の相談役のような立ち位置にいたため、孫の慧を丸め込むことで彼らを抑え込みたい意図もあったのかもしれない。
土地に惹かれた曽祖父の代でこの土地にやって来ていて、名前こそ日本名がついているが慧はほとんどこの村の人間との混血だった。英語、日本語、この土地の方言と、トリリンガルの慧は重宝されていた。土地に詳しく足も強い。他に誰が適任だろうかと議員は祖父を説き伏せ、慧は短いアルバイトのつもりでガイドの仕事を引き受けた。
やって来た学者は三名、誰もが地質に詳しかったが所属は違うようだった。政府、大学、企業といたらしいのだが誰がどの所属かまでは把握しなかった。ただその中のひとりに夜鷹がいた。三人の中で一番若く、山を歩けるとは思えぬ線の細さと肌の白さ、対比するような髪と目の黒さがあった。
「Are you speak English?」
金髪碧眼の大柄な学者にまずそう訊かれた。彼がこのチームのリーダーのようだった。英語が通じる旨を告げると彼らは安堵した。名乗り合い、握手を交わす。この辺りではまず見かけない白人に混ざった東洋人は、きつく尖った眼差しのまま慧に「Are you speak Japanese, too?」と訊いて来た。
「――あ、喋れます。読み書きは難しいけど」
そう答えると、嫌味ったらしかった目つきが一転、お、と眉を上げた。
「日本名だけど顔立ちは完全にミックスだな。日系?」
「はい。ひいじいちゃんとひいばあちゃんが日本人です。ルーツはアワモリ」
「ばか、そりゃ南方の酒だ。アオモリだろ。本州最北端だな」
「ミスターマエジマは?」
「ヨダカでいい。おれは東京。行ったことあるか? 日本の首都だ」
「ない。ここから出たことがないから」
「ふん。まさかこんな秘境で日系に会うとは思わなかった」
『ヨダカ、なにを話してるんだ?』
リーダーが英語で割り込んできた。夜鷹は瞬時に英語に切り替え、『同郷に会ったのさ』と答えた。
『なにもこんなところで会わなくてもね』
『トウキョウが恋しくなったか?』
『全く。帰りたいとも思わないね』
そう言って夜鷹は他のふたりに断って先に簡易宿舎に入って行った。その日は翌日からのルートや装備の打ち合わせだったのだが、夜鷹は参加しない。だがそれは他のふたりにとっては暗黙の了解のようで、特に触れられることはなかった。
翌日から本格的に鉱脈探しがはじまった。地形を珍しがる一行を不思議に思いながら、慧は自身の経験から安全に気を配りながら淡々と山を歩く。意外にも夜鷹はこういう山歩きには慣れているようで、へばったところを見せなかった。野営して、また歩く。歩きに歩いたところで地面に現れはじめた石を見て、学者たちは途端色めきだった。
結果、そこに鉱脈があると証明された。本格的な掘削がはじめられることになり、慧の祖父らの反対を押し切って高地がひらかれ、たちまち重機が運び込まれた。多くの作業員が雇われ、場所が場所であったので彼らのために宿舎が据えられた。労働者が仕事を求めてやって来て、いままでの静けさをあっさりと崩し、大規模な露天掘りがはじまった。それは資源を掘り出すことで、すなわち金を産み出し、経済をまわすことだった。静かな秘境は秘境でなくなり、あっという間に元の風感を崩し、一大経済拠点と化した。
慧は案内さえ終われば用済みだと思ったのだが、まだこの辺りには慣れないことも多いので留まって手助けして欲しい、とチームリーダーから申し入れがあった。慧が頷いたのは、このプロジェクトに夜鷹が地質学者として関わる点、それだけだった。あの暗く澄んだ目が気になって仕方がない。慧は掘削地域を広げるにあたっての偵察部隊のガイド要員として残り、仕事のない日は労働者に振る舞われる調理を手伝ったり、ゴミ出しをしたり、地元民との通訳を引き受けたりと、なんでも行った。
← 3
→ 5
あまりにも高地にある鉱脈の掘削現場だ。広大な土地で露天掘りを行っている。ここで掘られる鉱石の用途まで慧はよく分からない。けれど掘削がはじまる前段階の調査から、慧はこのチームに加わり、ここで働いている。
はじめはどこかのラボからの依頼だった。高地ゆえに秘境とされ、滅多に人も訪れないこのような場所に鉱脈の可能性があるとの話で、どこか遠くの国から数名が派遣されて来た。まず地質調査を行うにあたり、この辺をよく知る案内人が欲しいとの内容だった。慧は山師である祖父についてこの辺りをとにかく歩き回っており、山のことを知っていた。若いし語学力も問題ないとのことで村の議員から指名された。議員はこの山奥すぎる秘境をとにかくひらけた土地にしたがっていた。慧の祖父はそれに反対する一派の相談役のような立ち位置にいたため、孫の慧を丸め込むことで彼らを抑え込みたい意図もあったのかもしれない。
土地に惹かれた曽祖父の代でこの土地にやって来ていて、名前こそ日本名がついているが慧はほとんどこの村の人間との混血だった。英語、日本語、この土地の方言と、トリリンガルの慧は重宝されていた。土地に詳しく足も強い。他に誰が適任だろうかと議員は祖父を説き伏せ、慧は短いアルバイトのつもりでガイドの仕事を引き受けた。
やって来た学者は三名、誰もが地質に詳しかったが所属は違うようだった。政府、大学、企業といたらしいのだが誰がどの所属かまでは把握しなかった。ただその中のひとりに夜鷹がいた。三人の中で一番若く、山を歩けるとは思えぬ線の細さと肌の白さ、対比するような髪と目の黒さがあった。
「Are you speak English?」
金髪碧眼の大柄な学者にまずそう訊かれた。彼がこのチームのリーダーのようだった。英語が通じる旨を告げると彼らは安堵した。名乗り合い、握手を交わす。この辺りではまず見かけない白人に混ざった東洋人は、きつく尖った眼差しのまま慧に「Are you speak Japanese, too?」と訊いて来た。
「――あ、喋れます。読み書きは難しいけど」
そう答えると、嫌味ったらしかった目つきが一転、お、と眉を上げた。
「日本名だけど顔立ちは完全にミックスだな。日系?」
「はい。ひいじいちゃんとひいばあちゃんが日本人です。ルーツはアワモリ」
「ばか、そりゃ南方の酒だ。アオモリだろ。本州最北端だな」
「ミスターマエジマは?」
「ヨダカでいい。おれは東京。行ったことあるか? 日本の首都だ」
「ない。ここから出たことがないから」
「ふん。まさかこんな秘境で日系に会うとは思わなかった」
『ヨダカ、なにを話してるんだ?』
リーダーが英語で割り込んできた。夜鷹は瞬時に英語に切り替え、『同郷に会ったのさ』と答えた。
『なにもこんなところで会わなくてもね』
『トウキョウが恋しくなったか?』
『全く。帰りたいとも思わないね』
そう言って夜鷹は他のふたりに断って先に簡易宿舎に入って行った。その日は翌日からのルートや装備の打ち合わせだったのだが、夜鷹は参加しない。だがそれは他のふたりにとっては暗黙の了解のようで、特に触れられることはなかった。
翌日から本格的に鉱脈探しがはじまった。地形を珍しがる一行を不思議に思いながら、慧は自身の経験から安全に気を配りながら淡々と山を歩く。意外にも夜鷹はこういう山歩きには慣れているようで、へばったところを見せなかった。野営して、また歩く。歩きに歩いたところで地面に現れはじめた石を見て、学者たちは途端色めきだった。
結果、そこに鉱脈があると証明された。本格的な掘削がはじめられることになり、慧の祖父らの反対を押し切って高地がひらかれ、たちまち重機が運び込まれた。多くの作業員が雇われ、場所が場所であったので彼らのために宿舎が据えられた。労働者が仕事を求めてやって来て、いままでの静けさをあっさりと崩し、大規模な露天掘りがはじまった。それは資源を掘り出すことで、すなわち金を産み出し、経済をまわすことだった。静かな秘境は秘境でなくなり、あっという間に元の風感を崩し、一大経済拠点と化した。
慧は案内さえ終われば用済みだと思ったのだが、まだこの辺りには慣れないことも多いので留まって手助けして欲しい、とチームリーダーから申し入れがあった。慧が頷いたのは、このプロジェクトに夜鷹が地質学者として関わる点、それだけだった。あの暗く澄んだ目が気になって仕方がない。慧は掘削地域を広げるにあたっての偵察部隊のガイド要員として残り、仕事のない日は労働者に振る舞われる調理を手伝ったり、ゴミ出しをしたり、地元民との通訳を引き受けたりと、なんでも行った。
← 3
→ 5
駅までは歩いてもたかが知れているような距離なので、すぐに着いてしまった。送迎車用のスペースに車を停め、青を降ろす。「こっち来るようなときはまた連絡くれ。今度は飲みに行こうぜ」と言うと、青は「そうだな」と微笑んで、そのまま別れた。あまりにも淡白な再会と別れだった。
せっかく駅前まで来たので買い物でもして帰るかと思い立ち、車を駅のロータリーから発進させる。適当な駐車場はどこかと思案しているとき、後部座席に乗っていた次男が「これは?」と口をひらいた。
「どうした?」
「この紙袋、おじさんの?」
「あ」
次男がかざして見せたちいさな紙袋の中には、香典と、妻から持たされた菓子が入っている。青に渡そうと思っていたのに、つい忘れていた。まだ間に合うだろうかと慌てて車を路肩に停め、青のスマートフォンの番号にコールする。繋がるのだが、青は出ない。それでもと思い、車をUターンさせて駅の駐車場に突っ込んだ。次男には「すぐ戻るから待ってろ」と言いおいて、駅の改札口へと走った。券売機あたりをうろうろしていてくれるといいなと思いながら、青に再コールする。日曜日だけあって、駅は混雑していた。
電話はやはり繋がらなかった。辺りをきょろきょろと見渡しながら小走りに進むと、改札口の脇にふたり組の男性の姿を見つけた。ふたりとも黒っぽい服装で似た雰囲気だったが、片方は背が高く、片方は眼鏡をかけていた。向かい合ってなにかを話している。その片方の横顔が青だと分かり、智美は「せいちゃん」と手を挙げかけて、動きを止めた。黒い服装の男らの距離が近づき、眼鏡の男の腕が青の首の後ろに伸びた。自然な動作だ。そのまま青はうなだれるように、縋るように、男の肩に額を押し付ける。
呆然としてしまった。
青は泣いているように見えた。眼鏡の男がそれをあやしているように見えた。彼らはとてつもなく近い存在なんだろう。ただ事ではない親密で濃密な気配が、離れていても伝わった。
ここを離れるべきか、それでもなにも見なかったふりで青を呼ぶか、迷う。立ち尽くしていると眼鏡の男が不意に顔をあげ、こちらを見た。歳はおそらく同じぐらいで、きつい黒々とした目が印象的だった。
智美は動揺しつつも、そちらへ進んだ。「せいちゃん」と呼ぶと雑踏の中でも声は伝わり、青も顔を上げた。智美に気づくと男とわずかに距離を取り、二言三言呟き、こちらへやって来る。
「どうしたの」と青は訊ねる。目元を見たが別に泣いてなどいなかった。
「香典渡し忘れて。スマホ、何度か電話したんだけど」
「ああ、本当だ。気づかなかった」
ポケットのスマートフォンを手早く確認して、「わざわざ悪いな」と青は紙袋を受け取った。
「中にお菓子も入ってるから、適当に食って。疲れてるときは甘いもんだって、嫁が」
「そっか。上野さんにもお礼を言っておいて」
それで「じゃあ」と別れようとして、思わず「あ」と声をあげてしまった。
「え?」
「逃げた」
「逃げた?」
「は、違うのか。さっきせいちゃんといた人が、いま、あっちに」
それまでこちらを睨みつけながらもその場を動かなかった男が、さっと身をひるがえして反対方向へ歩いて行ってしまったのだ。青もそれを確認して、「ヨダカ、あいつ」と苛立ちをあらわにした。
「あまのじゃくめ、――っくそ、」
「行っていいよ、せいちゃん」
「すまない」
と青は身体をそちらに向けたが、智美を見た。「なあ、トモ」と言う。
「どうした?」
「今日は久々にトモに会えて、結構楽しかったし、嬉しかった。トモのこと色々と聞けたしさ」
「おれも楽しかったよ」
「あのさ、おれにも、……色々あるんだ。とにかく、色々とあって」
青の目が正面から智美を捉える。
「それを、トモは分かっといてくれ」
「ーー分かった」
「ありがとう」
じゃあ、と今度こそ青は走って行ってしまった。眼鏡の男はとっくに見えなくなっていたが、糸に引っ張られているかのように、青は迷いなく雑踏を進む。
それを見送ることなく、智美も身をひるがえして、その場を離れた。
せっかく駅前まで来たので買い物でもして帰るかと思い立ち、車を駅のロータリーから発進させる。適当な駐車場はどこかと思案しているとき、後部座席に乗っていた次男が「これは?」と口をひらいた。
「どうした?」
「この紙袋、おじさんの?」
「あ」
次男がかざして見せたちいさな紙袋の中には、香典と、妻から持たされた菓子が入っている。青に渡そうと思っていたのに、つい忘れていた。まだ間に合うだろうかと慌てて車を路肩に停め、青のスマートフォンの番号にコールする。繋がるのだが、青は出ない。それでもと思い、車をUターンさせて駅の駐車場に突っ込んだ。次男には「すぐ戻るから待ってろ」と言いおいて、駅の改札口へと走った。券売機あたりをうろうろしていてくれるといいなと思いながら、青に再コールする。日曜日だけあって、駅は混雑していた。
電話はやはり繋がらなかった。辺りをきょろきょろと見渡しながら小走りに進むと、改札口の脇にふたり組の男性の姿を見つけた。ふたりとも黒っぽい服装で似た雰囲気だったが、片方は背が高く、片方は眼鏡をかけていた。向かい合ってなにかを話している。その片方の横顔が青だと分かり、智美は「せいちゃん」と手を挙げかけて、動きを止めた。黒い服装の男らの距離が近づき、眼鏡の男の腕が青の首の後ろに伸びた。自然な動作だ。そのまま青はうなだれるように、縋るように、男の肩に額を押し付ける。
呆然としてしまった。
青は泣いているように見えた。眼鏡の男がそれをあやしているように見えた。彼らはとてつもなく近い存在なんだろう。ただ事ではない親密で濃密な気配が、離れていても伝わった。
ここを離れるべきか、それでもなにも見なかったふりで青を呼ぶか、迷う。立ち尽くしていると眼鏡の男が不意に顔をあげ、こちらを見た。歳はおそらく同じぐらいで、きつい黒々とした目が印象的だった。
智美は動揺しつつも、そちらへ進んだ。「せいちゃん」と呼ぶと雑踏の中でも声は伝わり、青も顔を上げた。智美に気づくと男とわずかに距離を取り、二言三言呟き、こちらへやって来る。
「どうしたの」と青は訊ねる。目元を見たが別に泣いてなどいなかった。
「香典渡し忘れて。スマホ、何度か電話したんだけど」
「ああ、本当だ。気づかなかった」
ポケットのスマートフォンを手早く確認して、「わざわざ悪いな」と青は紙袋を受け取った。
「中にお菓子も入ってるから、適当に食って。疲れてるときは甘いもんだって、嫁が」
「そっか。上野さんにもお礼を言っておいて」
それで「じゃあ」と別れようとして、思わず「あ」と声をあげてしまった。
「え?」
「逃げた」
「逃げた?」
「は、違うのか。さっきせいちゃんといた人が、いま、あっちに」
それまでこちらを睨みつけながらもその場を動かなかった男が、さっと身をひるがえして反対方向へ歩いて行ってしまったのだ。青もそれを確認して、「ヨダカ、あいつ」と苛立ちをあらわにした。
「あまのじゃくめ、――っくそ、」
「行っていいよ、せいちゃん」
「すまない」
と青は身体をそちらに向けたが、智美を見た。「なあ、トモ」と言う。
「どうした?」
「今日は久々にトモに会えて、結構楽しかったし、嬉しかった。トモのこと色々と聞けたしさ」
「おれも楽しかったよ」
「あのさ、おれにも、……色々あるんだ。とにかく、色々とあって」
青の目が正面から智美を捉える。
「それを、トモは分かっといてくれ」
「ーー分かった」
「ありがとう」
じゃあ、と今度こそ青は走って行ってしまった。眼鏡の男はとっくに見えなくなっていたが、糸に引っ張られているかのように、青は迷いなく雑踏を進む。
それを見送ることなく、智美も身をひるがえして、その場を離れた。
後日、中学時代の同級生で同じくこの町に暮らす友人が、わざわざ家までやって来た。彼は開口一番「出た」と言うのだった。
「出た? なにが?」
「吾田だよ、吾田青。おまえらいちばん仲良かっただろ」
「なんだよ、出た、って。幽霊みたいな言い方してさ」
「だって吾田って言ったら高校卒業以来全く会ってないしさ。成人式とか同級の結婚式とか、ああおまえの結婚式もそうだったよな。同窓会にも、全然顔出しやしねぇ。それがさ、こないだこの町で男と歩いているところを見たってやつがいるんだよ」
友人があまりにも興奮して言うのは、それだけ青に魅力が備わっているからだ。背が高く、走って日に焼けて、クラス内では静かに笑っているようなやつだったが、それに誰もが惹かれていた。青に会いたいかどうかは置いて、青の動向は皆が気になっているのだ。
「おふくろさん亡くなって戻って来たんだろ。いていいよ」
「聞いた話だけど、吾田って結婚してるらしいぜ」
それは青本人から聞いた話とは異なる情報だった。「聞いた話」と「本人から直接聞いた話」では信憑性は明らかに後者にある。あほくさい、と智美はため息をついた。
「どうでもいいけど。せいちゃんとならおれも会ったから、一緒に歩いてた男って、おれのことだろ」
「えー? だって揃って黒っぽい服着てたって話で、片っぽ眼鏡だったって」
「なら弔問客とでもいたんじゃないか? なんにせよ、せいちゃんなら確かにこっちにいたよ。実家があるんだからぎゃあぎゃあ騒ぐ話でもないだろ。ばからしい」
「そうだけど、……」
それ以上は自信がなくなったのか、友人の言葉はか細く消える。
あの眼鏡の男と青とがどういう関係なのかは、分からない。
けれど青が別れ際に言った「分かっといてくれ」が全てだろうと思う。青の身の上に起こっていることは確かにあるが、それを話すつもりはないということ。すべてを明らかにする間柄だけが友人ではない。それぞれの関係性の中でそれぞれが判断していくものだ。
この先、青が智美を頼ることはないのかもしれない。けれど会えれば嬉しいし、軽口を叩いて笑う。なにかのきっかけでまたつなぐ縁もあるかもしれない。どちらになるかはそのときにならないと分からない。青とはそれでいい。
友人は勢いを削がれたか帰ると言い、玄関先まで見送った。
夏がそこまで来ている。空は薄曇りでぼけているが、月がやたらと白く、目に染みた。今日みたいな夜に、青はどこでなにをしているのか。誰といるのか。なにを考えているのか。
それは自分の把握することではないなと思い、しばらく月を見あげて、家の中に入った。
← 2
→ 4
「出た? なにが?」
「吾田だよ、吾田青。おまえらいちばん仲良かっただろ」
「なんだよ、出た、って。幽霊みたいな言い方してさ」
「だって吾田って言ったら高校卒業以来全く会ってないしさ。成人式とか同級の結婚式とか、ああおまえの結婚式もそうだったよな。同窓会にも、全然顔出しやしねぇ。それがさ、こないだこの町で男と歩いているところを見たってやつがいるんだよ」
友人があまりにも興奮して言うのは、それだけ青に魅力が備わっているからだ。背が高く、走って日に焼けて、クラス内では静かに笑っているようなやつだったが、それに誰もが惹かれていた。青に会いたいかどうかは置いて、青の動向は皆が気になっているのだ。
「おふくろさん亡くなって戻って来たんだろ。いていいよ」
「聞いた話だけど、吾田って結婚してるらしいぜ」
それは青本人から聞いた話とは異なる情報だった。「聞いた話」と「本人から直接聞いた話」では信憑性は明らかに後者にある。あほくさい、と智美はため息をついた。
「どうでもいいけど。せいちゃんとならおれも会ったから、一緒に歩いてた男って、おれのことだろ」
「えー? だって揃って黒っぽい服着てたって話で、片っぽ眼鏡だったって」
「なら弔問客とでもいたんじゃないか? なんにせよ、せいちゃんなら確かにこっちにいたよ。実家があるんだからぎゃあぎゃあ騒ぐ話でもないだろ。ばからしい」
「そうだけど、……」
それ以上は自信がなくなったのか、友人の言葉はか細く消える。
あの眼鏡の男と青とがどういう関係なのかは、分からない。
けれど青が別れ際に言った「分かっといてくれ」が全てだろうと思う。青の身の上に起こっていることは確かにあるが、それを話すつもりはないということ。すべてを明らかにする間柄だけが友人ではない。それぞれの関係性の中でそれぞれが判断していくものだ。
この先、青が智美を頼ることはないのかもしれない。けれど会えれば嬉しいし、軽口を叩いて笑う。なにかのきっかけでまたつなぐ縁もあるかもしれない。どちらになるかはそのときにならないと分からない。青とはそれでいい。
友人は勢いを削がれたか帰ると言い、玄関先まで見送った。
夏がそこまで来ている。空は薄曇りでぼけているが、月がやたらと白く、目に染みた。今日みたいな夜に、青はどこでなにをしているのか。誰といるのか。なにを考えているのか。
それは自分の把握することではないなと思い、しばらく月を見あげて、家の中に入った。
← 2
→ 4
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
06 | 2025/07 | 08 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
フリーエリア
最新コメント
[03/18 粟津原栗子]
[03/16 粟津原栗子]
[01/27 粟津原栗子]
[01/01 粟津原栗子]
[09/15 粟津原栗子]
フリーエリア
ブログ内検索