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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 目を開けると、模様の入った壁紙の天井が見えた。
 その模様は小刀に入っていた細工に似ており、瞬時になにをしていたのかを思い出す。反射的に起き上がろうとして、痛みが走って起き上がれなかった。腹が熱く脈打っていて、ずきずきするのは頬で、口の中だった。
「やめとけって。おまえ、腹に銃弾食らってんだから。あちこち殴られて切ってるしな」
 傍で声がして、そちらへ目線を向ける。いままで見たことのないようなさっぱりとしたスーツ姿で夜鷹が傍らの椅子に腰掛けていた。こんな土地に出向だとはいえ、一応フォーマルなものを持参していたのだと知る。
「ヨダカ、無事? 銃は?」
「肩先かすっただけだ。まあ動かしにくいし痕も残るだろうけど、身体に不自由は残らない。おまえもラッキーだった。あんな至近距離で銃弾食らっといて、脇腹抉った程度で済んだんだ。内臓に損傷はないとよ。まあ当分山歩きは出来ねえだろうがな」
「ここ、どこ?」
「隣町の病院。しばらく療養だろうな」
 大人しくしとけ、と言われ、慧はほっと目を閉じる。夜鷹が無事でよかった。だがそればかりで安心していられないとすぐに思い出した。ウルやその仲間はどうなっただろう。
 慧の不安を見透かすように、「ウルってやつは友達だったんだってな」と夜鷹が言った。
「そう、幼なじみなんだ。ウルは?」
「刺しただろ、おまえが。小刀で」
 事実を突きつけられ、ひゅっと喉が鳴った。
「太腿を、裏側から、深くな。おかげであいつも歩けない。生きちゃいるよ。騒ぎに気づいたおれの仲間らに通報されて、おれたちと一緒にこの病院に運び込まれた」
「手当てしてもらえた?」
「ああ。でももういない。軽傷だったあいつの仲間の手引きで病院から逃げた」
 その答えは、慧から言葉を奪う。
「あいつはあいつで、別の村議を首謀に事件を起こすようにけしかけられてたんだ。いまおまえの村は大変だよ。二派で対立してるが、どちらも自分たちのこと棚に上げてお互いを罵っている。おれたちをここに呼んだ議員は企業から金を積まれてたって話だし、今回の暴動を計画した議員はよりにもよって面倒臭い外国人のおれを巻き込んじまったしな。国際問題に発展すれば、ぼんくらとは言え地元の警察も動かざるを得ない。メディアもかなり入ってる。まあ、怪我で動けないあいつが向こうにとって価値のあるものになるかどうかは不明だ。友達ってんなら、最悪の事態になる前に早急に動くべきだが、おまえも動けねえな」
「……」
「考えて、喋れることが幸いだ。よく話せ」
「ヨダカ」
「あ?」
「ヨダカはどこかへ逃げるのか?」
 彼の傍らにはスーツケースがあった。シルバーのスーツケースは歴代の長旅で傷だらけだが、覚えている。これを引っ張って夜鷹はここへやって来た。
「退去命令」と夜鷹は答えた。
「暴動が起こるような危険な地域からは逃げろ、とおれのボスからの命令だ。まるっきり納得は行かねえが、おれが首を突っ込んでると事態はますますややこしくなるから潮時なのかもしれない。ついでに休暇をたんまりともらった。から、帰る」
「帰る?」
「東京へ」
 聞いたことのない単語を耳にしたかのようだった。夜鷹が東京へ。帰国する。あんなに嫌悪していた遠い街へ。
「おまえのこと、ずっとあいつと重ねてた。似てもいねえのにな」と夜鷹は言った。
「……アガタセイ?」
「察しがいいな。察せられるおれも愚かか。……おれはな、ずっとあいつのことを考えていて、思っていて、抱かれたくて、叶わなくて、叶わないことは分かっていたから、先まわりして逃げてたんだ。ずっとな」
「……どれくらい?」
「三十年」
「――」
 気の遠くなるような年月を、夜鷹はさらりと口にする。
「忘れたかったが、忘れられなかったから、忘れないで生きていこうと思ったが、それは地獄だよな。未練がましく望遠鏡も大事にしてさ、趣味でもないのに星を眺めて。なんつーか、おまえはあいつにちっとも似ちゃいないが、でもあいつにこうされたいと思う願望が透けてたのか、それをおまえに叶えられる時があってさ。それはそれで、幸福だったんだと思う」
「……東京に戻って、どうするの?」
「会いに行く。奪ってみるか、奪えるのか、ぼろくそになってまた逃げるかは分かんないが。だめなんだ。あいつに会えばおれは傷つくし、逃げたくなるほどうんざりする。だがあいつにつけられる傷ならおれは喜ぶ。だから会ってみる。……故意に離してたがやっぱりどうしても会いたいと、銃に撃たれてようやく思ったよ」
「……」
「死んでからじゃだめだ。身体があるうちに会いたい」
 夜鷹が泣いた気がした。何事にも上から目線で、すれていて、気の強い夜鷹が。でもそれは気のせいだった。夜鷹は立ち上がり、「そろそろ頼んでいた車が来る」と言って左手の指輪を外した。
 それを慧の手に握らせる。
「これはおまえにやるよ」
「……また戻ってくる?」
「ぼろくそに捨てられてやけくそにでもなったら、ここでおまえと骨埋めてやろうか」
「……」
「健康で。安全に過ごせ。楽しかったよ」
 ガーゼの貼られた頬に軽く触れ、夜鷹は笑った。「じゃあな」と言い、スーツケースを片手に引っ張って病室を出ていく。
 なんとなく分かっていることだった。夜鷹の心は慧にはない。けれど交えた肉体も年月もあり、その一切を断たれた悲しみに浸るというよりは、ただ呆然と目を閉じる。握らされた指輪は夜鷹の温もりか、慧の温もりか、生暖かくてしみる。
 しばらくして祖父が病室に顔を見せた。父親も一緒だった。首都で医師として働く父は、慧の状態と安全を考えて父の勤務する病院に転院させると言った。慧はそれをぼんやりと聞く。忙しい父が去り、祖父とふたりきりになってようやく祖父が口をひらいた。
「村は荒れる。しばらく治まらんだろう」
「……じいちゃん、はじめからおれが鉱脈のガイドをするのは、反対だった?」
 慧の疑問に、祖父は首を振った。
「おまえにはおまえの道があると思っている。おまえの父親がこんな田舎は嫌だと言って医者になったように。あの村におまえを縛り付けておくのは疑問があった。だから外の連中と交流を持つのも、いいと思ったのは確かだ」
「でもじいちゃんは、山が好きだっただろ?」
「だがおれは先に生まれた人間だ。してやれるのは、後に残る人間のためになることだ。……おれも町に降りろとおまえの父親には言われたがな、おれは残る。どう転ぶか分からないが、残って、片付けをして、種は撒かないとな」
「……」
「おまえがどうするかは、おまえの自由だ。このまま首都の病院に転院して居を移しても、止むを得ないと言える。逃げではない」
 慧は手の中の指輪を握り直す。
「じいちゃんに付き合うよ。おれも村に残る。父さんには反対されるだろうけど」
「いいのか?」
「ただしどっちにもつかない。どっちも両立する方向を探るんだ。ウルも、鉱山の労働者も、みんなをおれは知ってるから」
「……険しくて厳しい道だぞ」
「分かってる」
「そうか。おまえがいると色々とありがたい。……次に来るときはなにか美味いもんでも持ってこよう。まずは傷を癒す体力をつけないとな」
「家に戻るの? じいちゃんの安全が心配だよ」
「おれはな、なんとでもならあ。山のことなら誰よりも知ってる。おまえが案内せずに鉱山技術者たちも見逃した安全な逃げ場所があるから心配するな」
 そう言って祖父は去った。慧はなんとか起き上がり、痛む身体を引きずって病室の窓を開ける。高地から下りたせいか、湿り気を帯びた重たい空気を感じた。手を振り上げ、指輪を遠くへ放り投げる。
 それは一瞬だけ陽光に反射して光り、草むらに落ちた。窓を閉める。夜鷹に愛されたかったなと思った。真っ黒い髪、真っ黒い目、人を小馬鹿にした態度。三十年抱えた恋心。
 そんなのどうしようもねえよ、と慧はひとりごちる。慧が生まれるはるか前から夜鷹の心を占めている男のことなど。どうかそいつと幸福で、とは思わない。ただ夜鷹を恨む気持ちはどこにもない。
 乱暴なくせに不思議と心地よかった。慧はそれを噛み締めて、ベッドに横たわる。一筋伝った涙が、シーツに染みた。



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〈ケイはやっぱりこいつに毒されたんだな。こいつを庇うか?〉
〈ウル、そうじゃない。この人を襲ってもなんにも意味がない。今夜は引いてくれ〉
〈こいつが先に手を出した。仲間があの通り顔を殴られてるんだ。もう引けねえよ。あのな、ケイ。おまえはレンじいの孫だけど、だからってあっちの味方をするなら容赦しねえ。死体のひとつふたつな、鉱山坑に落としちまえば出てこねえ。そうやって消える人間が出れば、この掘削もやめざるを得ないよな〉
 そう言ってウルは腰ベルトから拳銃を取り出した。よりにもよってまずいものを持っている。これも市場で手にしたのか――慄然とする。
 他の男たちも、棒や鎌など、それぞれに物騒なものを握り直した。
〈音が大きいからあまり使いたくない。抵抗しないなら殺さない。こっちへ来い。おまえたちを人質に交渉する〉
〈ウル、そんなことをしても意味がない。おれはおまえに人殺しになってほしくないし、みすみすこの人やおれが殺される気もない。人質にもならない。行ってくれ、頼むから〉
〈おまえら日本人同士でケツ掘りあってるあいだにな、おれたちがどれだけ苦労してるか知ってるか? ここにいるのは先祖代々の土地を奪われたやつらだ。鉱脈にあった土地を安く買い叩かれ、家を出ざるを得なくなって、町の隅っこで残飯漁ってマンホールの下に潜って、なんとか寒さと飢えをしのいでるやつらなんだよ。それをレンじいは議員に申し立て、交渉に持ち込もうとしてくれた。その孫がだぞ? 孫のおまえが、こうやって丸め込まれて、自分はいい暮らしをして、なにをしてるんだ?〉
 男たちのぎらつく視線が刺さる。言葉が出ない。
〈どっちつかずの日和見もいい加減にしろよ。日本人がいいならそいつと坑に落っことしてやるからよ。そこで永遠にやりまくってろ〉
 にじり寄る気配があった。夜目の効く慧には月の欠けた夜でも動作のひとつひとつが他愛なく分かる。だが背後の夜鷹はどうだろう。彼を守って、逃してやらなければという気持ちが強い。
 じりじりと距離を詰められ、囲まれる。慧は夜鷹を庇うように背にしながら、腰を低く落とす。まずはウルの拳銃を手元から弾きたい。けれど慧は身軽すぎて、身に着ける武器など持たなかった。
 ウルが拳銃を構える。周囲の仲間らが半円状に逃げ場を塞ぐ。
「ヨダカ、なんとか逃げ道を作るから、そこから逃げっ――」
 膝裏を思い切り弾かれ、反射でその場に竦んだ。背後からで、夜鷹が慧の膝を払ったのだ。守ろうとしている相手からの裏切りに、なにがなんだか訳が分からなくなる。顔から地面に突っ込むと、慧の腰に容赦なく夜鷹の靴が乗った。
〈なるほどね。鉱山開発のおかげで家のなくなったやつら? だったら鉱山で働け。口なら山ほどあるし、農林業より収入は安定するぞ〉
「ヨダカっ!」
 流暢な現地語は、癖もなかった。三年いて覚えるレベルではない。慧を足蹴にして、夜鷹は男たちを挑発した。
〈ここの土地がどうなろうが、おまえらがどうなろうが、どうでもいい。おれはおれのものを傷つけられた落とし前をつけさせてもらう。報復には報復だ〉
〈どうでもいい? そういうおまえみたいな学者気取りがおれたちの生活を壊して、どれだけ――!〉
 ウルの指が引き金を引くより早く、夜鷹が動いた。手にしている三脚であっさりとウルの拳銃を払う。その三脚はそのままウルの鼻先を弾いた。ウルが痛みと衝撃で膝を折る。そこに間髪入れずに夜鷹は蹴りを入れた。
〈がっ!〉
 ウルを取り巻いていた四人がそれぞれに夜鷹へ向かう。夜鷹は実に巧みにそれを躱し、三脚で武器を払っていった。だがひとりに足を掬われ、夜鷹は地面に崩れる。眼鏡が飛んだ。それを拾い、慧は夜鷹の元へ駆け出す。
「ヨダカっ!」
 四人にもみくちゃにされている夜鷹をなんとか引きずり出し、引き剥がす。逃げようと必死になっていた。五人相手では敵わないのは分かる。捕まってはおしまいだ。だが慧も足を引きずられ、再度地面に伏してからは、ふたり共に逃げる道はなくなった。
「逃げて、ヨダカっ!」
 叫ぶ慧の横っ面に容赦のない拳が繰り出される。口の中を切ったらしく、鉄の味がした。痛みで脳天がくらくらする。霞む目で夜鷹を追えば、彼はひ弱に見える手に上手く重心を移動させ、ウルの仲間をぶっている。
〈くそ、ふざけやがって〉
 近くでウルが立ち上がる気配がした。慧もなんとか身体を起こそうと躍起になる。ウルは手探りで離れた銃を引き寄せ、銃口を夜鷹に真っ直ぐ向けた。仲間たちと乱闘を起こしているというのに、全ての悪の根元は夜鷹にあると言わんばかりに、彼しか見ていない。
〈ウルっ、やめろっ〉
 ウルの足にしがみつく。ウルは転び、だが銃から手を放さなかった。グリップの部分で思い切り殴られた。痛みに呻く慧を横目に、ウルは雄叫びを上げて引き金を引いた。鋭い破裂音が鼓膜を破る勢いで響く。
 夜鷹が崩れた。
 後ろへのけぞるように、彼は膝を折った。夜鷹を取り巻いていた男たちも驚きつつ夜鷹に群れる。夜鷹を殴り、足を引きずってその場から立ち去ろうとする。道の向こうにトラックがあり、そこへ夜鷹を載せて去ろうとしている。
 それだけはなんとしても避けなければならない。
 立ち上がったウルは仲間らに近づこうとよたよたと歩き出す。夜鷹を助けなければという一心で慧は眩む頭を振る。ベルトに手をやり、そこにウエストポーチをまだ外し忘れて残っているのに気づいた。
 そこから細工の綺麗な小刀を取り出し、素早く鞘を払う。
〈やめろぉおおおお!〉
 背を向けていたウルが振り向き、拳銃を構える。高い銃声音と腹に衝撃が走るのと、手にした小刀に確かな感触を感じるのとが、同時だった。



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 慧は元来た道を駆け出す。宿舎の方へ。背負っていたザックは途中で路肩に投げた。スピードを上げて走り、やがて騒然としている宿舎へ駆け込む。土曜日の今日人はみな町へ出て、ひっそりとしている。それ以上の異常を見つけられず、それよりも学者たちの宿舎の方の静けさが妙に気になり、そちらへ向かう。
 よく知った部屋の前で、数人の学者たちがたむろしていた。慧に気づくと渋い顔で首を振る。
『どうした? ケイ』
『ちょっと気になることがあったから……ヨダカは? ここ、ヨダカの部屋だろう?』
『……見ない、というよりは、関わらない方がいい、ケイ』
 そう言われても慧は立ち去らなかった。強引に男の静止を振り切って中に入ると、めちゃくちゃに荒らされた夜鷹の部屋があった。窓ガラスは叩き割られ、断線したケーブルがぶら下がっている。机も椅子もベッドもめちゃくちゃだった。パキッとなにかを踏んだ音で足元を見ると、天体望遠鏡がひしゃげて転がっていた。「吾田青」とおとめ座の落書きのされた、旧式の望遠鏡。
 学者のひとりが『戻って来たらこうなっていたんだ』と言った。
『ヨダカの部屋だけ?』
『ラボもこんな風だ。他はいま確認している』
『なあ、あれはなんて書いてあるんだ?』
 別の学者に訊ねられる。指差した先は壁で、スプレーで大きく落書きがされていた。この辺の言語で書かれている。
『あれを見た途端、ヨダカは走ってどっかへ行ったんだ』
 慧は壁に近寄る。シンナーの匂いにむかむかした。
『次はこれで済まない、掘削をやめて国へ帰れ、ホモ野郎』
『なんだって?』
『ヨダカはひとりで? どっちの方へ?』
 学者に詰め寄ると、蒼白な顔で『分からない』と言った。
『ただ、外に出て行ったのは確かだ』
『ありがとう。行ってみる。危ない気がするんだ』
『ケイ、やめた方がいい。いくらきみに地の利があっても、首を突っ込んでいいことじゃない』
『警察。ここの駐在はあんまり当てにならないから、村議とか、会社、自分の国の大学、どこでもいいです。とにかく騒ぎを広めておいてください。動きづらくした方がいい』
『おい、ケイっ』
 割られた窓からそのまま外へ出た。あの落書きの意味することを考えるなら、夜鷹と慧の関係は知られているということだ。だから夜鷹の部屋が見せしめのように最初のターゲットになったのだろうか。慧をたぶらかし丸め込んだとでも思われているのかもしれない。夜鷹だって雇われの身で、一地質学者でしかすぎないのに。
 外は暮れかかり、肌寒くなっていた。慧は立ち止まり、耳をすまし、目を凝らす。夜鷹が向かった先はどこだろう。慧との仲が知られているなら労働者たちの宿舎かもしれない。今日の宿舎はほとんど空っぽだ。侵入はいつも以上にたやすい。
 階段を駆け上がって屋上へ向かったが、誰もいなかった。ではどこだと言うのか。屋上から見渡せる限りで注意深く下を窺う。すると宿舎の壁伝いに数人の人影を見つけた。ひとりが壁際に追い詰められ、それを四・五人の男が距離を取って相対している。
 まずいと思った。慌てて階段を降り、壁際を二階の窓から見下ろす。壁側にいるのが夜鷹だと分かった瞬間、血が煮えた。〈なにしてるっ!〉と叫び、窓から飛び降りた。
 夜鷹と男たちのあいだに割って入るように着地する。よく見れば男らのひとりは頬を押さえて後ろに下がっており、夜鷹の手には天体望遠鏡の三脚があった。
「ケイ、邪魔してくれんなよ」と言ったのは夜鷹だった。
「おれの部屋を荒らしてくれたヤローだ。ご丁寧な落書きまでな」
「夜鷹がやったのか?」慧は最後尾に下がった男を指す。「その三脚で?」
「おれを非力と理解してくれているようだからな。一発やった」
「それにしたって五対一じゃ無茶だ……」
〈ケイ、分かるように話せよ〉
 相対している男のひとりが喋った。慧と夜鷹の日本語が分からなかったようだ。よくよく向き合って帽子に隠された顔を窺い見る。聞き覚えのある声、背格好。ウルだった。



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 夜鷹と屋上で天体観測をする。いつも通りの土曜日だったがその日は宿舎にわりと人が多く残っていたので変に触れ合うことだけは避けた。それに夜鷹と慧だけではなく、研究者のうちのひとりも混ざっていた。夜鷹は心底面白くない顔をしていたが、プロジェクトのチームリーダーを務める彼は夜鷹にとってはそうそう邪険にできる相手ではないようで、『こんな面白いことをしているならもっと早くおれを呼んでくれよ』との快活な笑みに文句はつけなかった。
『あんたは星にゃ興味ないと思ってたんでね』
『大アリだよ。火星がなぜ赤いか、その理由は地質だろう? わくわくするよ』
『その望遠鏡の倍率で火星も見えるのか?』
『時期によっては見られる。まあ今夜は月の観測でオーケーだ。いやあ、こうして宇宙に想いを馳せると、行ってみたい星ばかりだよね』
『宇宙飛行士になって惑星探査に乗り出した方がいいんじゃねえの、それ』
 夜鷹は文句を言い、やる気なさげに水筒からお茶を注いで飲んだ。観測のセッティングまで任せるつもりらしい。『ずいぶんと旧式だな』とリーダーは望遠鏡をいじりつつ、見たい星に合わせていく。
『なんだこりゃ、ヨダカが書いたのか』
 望遠鏡に触れていたリーダーが笑った。『ケイも見てごらんよ』と言われて指さされた先を見る。筒の部分に落書きがされていた。いままで気づかなかった落書きだった。星のマークがいくつか雑に並び、そこに『吾田青』と書かれている。慧は日本語の読み書きはあまり得意でないので、それが漢字だと分かっても、読めなかった。
『そうだな、おれが落書きした』と夜鷹は答える。
『自分の名前でも書いたのか?』
『いや。これの本来の持ち主の名前だ。念願叶ってようやく望遠鏡を買えて、あんまりにも嬉しそうだったからな。丁寧にそいつの名前を書いてやったんだ』
『それいたずらって言わないか?』
『ちゃんとあいつの星座だって書いてやったさ。乙女座』
『ああ、これ乙女座か。言われてみれば確かに乙女座だな』
 ふたりの会話を背に、慧は望遠鏡の落書きを見つめる。どうしても漢字が読めない。けれど三つあるうちのふたつはさほど難しくない漢字だったような気もしている。
『これがカンジか。ヨダカもサインはたまにカンジで書くよな。これはなんて読むんだ?』
『アガタセイ』
 夜鷹の低い声を聞いた途端、身体がこわばった。夜鷹は知ってか知らずか、いつものすました表情で『三文字目がファーストネームで、本来は色名だ。Blue』と答えた。
『英語の順番に言い換えるならセイ・アガタだな』
『青なんて素敵な名前じゃないか。日本人なら目が青いわけじゃないよな?』
『蒙古斑でもついてたんじゃねえの』
 やがて学者ふたりは望遠鏡をセットして、観測をはじめた。慧はなんとなく考え事に浸ってしまう。アガタセイという、乙女座の、おそらくは男のこと。ぐるぐると思考が廻る。慧と間違えて呼んだのは、「セイ」だった?
 微かな物音を聞いて、ふと顔を上げた。学者たちは気づかない。音の方向へと顔を向けると、屋上から出ていく人影を見た。ここの立ち入り自体は自由だから気にならなかったが、その後ろ姿が先日、祖父の元へ集まって実家から出て行った中にいた連中のひとりであるような気がして不思議に思う。彼はここの労働者ではなかったはずだ。
 思い過ごしかもしれない。だが関係者以外の立ち入りもさほど難しくはない。幼なじみの言葉が蘇った。〈肚決めて行動しろよ〉。
 郷愁がないと言えば嘘になる。変わっていく山を見るのはやはり辛かったし、もうあの山々を歩けないと分かったときは惜しくも思った。それでもどこかでストレンジャーな自分が「変わっていくのは仕方がないんじゃない?」と囁く。暮らしはどんどん良くなっているし、変わらないものを求める方に無理があるとも感じている。ならば自分は革新派か?
 もし、彼らが衝突するようなことが起こったとき、自分はどうするのかなと、漠然と考えた。名案は思い浮かばず、自分自身もどっちつかずだ。
 
 掘削現場をもっと拡大したいという意向は村の意向であり、会社の意向でもあった。潤沢な資源があるのだから掘り出して経済を回したい。職を求めてやって来る労働者も増え、鉱山はますます栄えていく。一方で不穏な動きを感じるのも確かだった。これ以上の環境破壊を望まないというよりは、現況を壊されることを望まないグループが存在し、彼らは諦めることなく抗った。そのリーダー格が慕うのが慧の祖父であったことは、だが慧にはどうしようもない。
 拡大に向けての地質調査に、慧はガイドとして同行した。一週間ほどかけて夜鷹たち研究者や技術者たちとフィールドで行動する。おおまかな調査と下見を終えて下山し、夜鷹らと別れて家に戻る。その道中、舗装されていない小径に差し掛かったところで数人の男に囲まれた。帽子を目深にかぶったり、襟立てに顔を埋めたりとあまり顔を明らかにしなかったが、祖父を慕うグループだとすぐに分かった。
 若者が多かった。剣呑な雰囲気に慧はわずかに腰を低く構える。
 サングラスをかけたひとりに、〈いきなり悪いが訊きたいことがある〉と言われた。
〈なに?〉
〈露天掘りの現場をもっと広げるというのは本当か?〉
〈……まだ正式に決まった話じゃない、と思う。おれはただのガイドで通訳だから。内情まで知らないんだ〉
〈そうか〉
 慧は答えながらも男の数を確認する。慧の前にひとり、背後にふたり。体格から言っておそらく慧よりは劣る。荷物を捨てれば逃げ切れると思う。だが束になってかかってこられれば分からない。なにか得物も持っているだろうし。
〈広げる話があるのは本当なんだな。隣村も巻き込むのか?〉
〈知らない〉
〈どこまで案内した? 村境にはもちろん行ったんだろう? 一行には隣村の誰がいた?〉
〈……そういう話はさ、おれじゃなくて村議の家に直接行って聞いて来なよ。おれはただ雇われているだけだから。誰が誰なのか、覚えてないよ〉
〈なら、ケイ。頼みがある〉
〈頼み?〉
 サングラスの男は地面に小袋を投げた。金属の擦れた音で、中身が知れた。
〈前報酬でやる。ケイはとてもいい立場にいる。誰がどういう行動をして、どういう発言をしているかを探って情報をこちらに流してほしい。それだけでいい。おまえの立場ならたやすいだろう〉
〈……あんたらがどういうグループかも分からないのに?〉
〈察しはつくよな。おれたちはこれ以上の掘削に反対なんだ。山が裸にされていくのを見ていられない。鉱山に頼らないと生活できないなんて馬鹿げている。厳しいけど、元の静かな山村暮らしに戻りたいんだ。ケイはレンじいの孫だ。おれたちの気持ちが分かるだろう?〉
〈それこそ村議に正しい形で訴えるべきなんじゃないかな。反対です、って〉
〈言ったさ、もう何度も、ずっと。でも耳を貸さない。もうな、実力行使しかないんだよ〉
 言われて慧はますます腰を低くし、地面をいつでも蹴り出せるような体勢を取る。けれど男は〈警戒するな、ケイを傷つけるつもりはない〉といった。
〈おれたちの側についてさえくれれば〉
〈……おれはどっちにもつかない。金は受け取れない〉
〈レンじいの孫なのに?〉
〈村の人間の生活も、鉱山労働者の生活も、どっちも見てるから。どっちにもつけない〉
〈そうか。……残念だな〉
 男は屈んで小袋を拾った。この辺で鉱山労働でもしない限り、得られる金銭などたかが知れている。皆で出し合った貧しい金の集まりか、もしくはどこかにルートを持つか。
〈今日はこれで下がろう。だが連絡をくれればおれたちはいつでもおまえを歓迎する〉
〈だから、つかないんだ、おれは。どちらにも〉
〈そういう甘いことを言って、実際にもう実害があったとしたら、おまえはどうするんだろうね。特におまえは、あの日本人に執心しているから〉
 その台詞には背筋がヒヤリとした。男たちは気味悪く笑って〈じゃあな〉と去っていく。
 その場に残った慧の、足元からなにか暗い影が這い上って来るような気がした。実際にもう実害があったとしたら? 実害ってなんだ。なにをした? 誰に? 夜鷹に?
 慧たち研究者や技術者の連中は一週間ここを離れていたという事実に気づき、ハッとした。



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 帰り着くころには雨は止み、風が出ていた。帰宅すると家の中からぞろぞろと数人の人影が出てきた。慧と同い年ぐらいの若さの者から祖父と同じような歳のころの者まで。男きりで集まっていたらしい。慧に気づいたひとりが手を挙げて合図し、集団から外れてやって来た。慧の幼なじみでいちばんよく知れた仲であるウルだった。
〈またじいちゃんとこに集まってたのか?〉
〈まあな。それよりおまえ。におうぞ〉
〈え?〉
 ウルがくんくんと鼻をひくつかせ、慧は自身の上着の襟に鼻を埋めてにおいを嗅いだ。自分のにおいはよく分からない。夜鷹とのにおいがしているなら、一応身体は拭いた。
〈麓の女郎宿でも行ってたのかよ〉
〈いやまあ、……そうかもしれない〉
〈ふん? おまえはすっかり金払いがよくなっちまったな。鉱山付きの案内人とやらはさ、儲かるか〉
 ウルはその場にとどまり、煙草を取り出した。煙管ではなく、紙煙草だ。慣れた手つきで火を付ける。風に流されて煙がすぐに消えた。
〈まあな。おまえこそ煙草なんてどこで覚えたんだ。麓の市場だろ〉
〈市場はどんどんでかくなってる……。これはよ、市場の中に出来た新しい店で買ったんだ。だいぶ安く流通するようになって、おれでも買えた〉
〈うまいか? 煙草は〉
〈おまえの買ってる女の味と変わんないと思うぜ〉
 ウルが煙草をふかす。夜鷹は煙草も嫌いだ。においがつくのが嫌だと言っていた。だから慧は吸わないし興味も持たない。
〈ここは変わっていくなあ〉
 とウルはひとりごちた。
〈あの地質学者たちが来てから一気に変わった。どんどん変わって、まだ変わる。山は掘削され続けるし、麓の市場は広がる一方だ。森はかろうじて残っちゃいるけど、もう元の森じゃない。知らない花が咲くし、獣も消えた。おまえ、レンじいと話してるか?〉
 レンじい、と呼ばれるのが慧の祖父の通称だった。慧は首を横に振る。
〈そっか。たまには聞いてやれよ。レンじい、山はやめるらしいから〉
〈え?〉
 山や森を散々歩き、木を知り、切って植え、切った木を細工したり炭焼きしたりして、細々とながら共存しつつ産業をまわす。そういうことをしていたのが慧の祖父だった。誰よりも山を知るので、慕う人間も多い。山の中で事故死でもして死ぬかな、それが本望だな、と言っていた祖父が、山をやめる。体力の衰えというよりは、明らかに別の意味を持っていた。
〈レンじいぐらい知ってる人が山を諦めちゃったら、ここはどうなっちまうんだ……〉
〈……〉
〈日系のおまえを受け入れるぐらいに懐が広い村、ってわけじゃねえんだ、ここは。閉じてる。ものすごく閉じていて、皆それで充足してるんだ。レンじいの親父さんがそれをちゃんと理解して、おれたちのやり方を尊重した上でおれたちに共感してくれたから、おれたちはおまえの先祖を受け入れたんだ。おまえの一族は博識で、山の歩き方も知ってたしな。だけどあいつらそうじゃねえ。ずかずかと踏み荒らして行きやがって〉
〈あいつらって、学者先生たちのことか? それは違う。そもそも、先生たちをここに呼んだのは村議員だ。村がそういう決断をしたんだろ? もっと経済をまわしたい、って〉
〈そうだな。それでいい生活を送りたかったんだ。……いまみんな送れるようになった。確かになったよ。けど、悲鳴をあげてるモンだってあるのに、無視しちゃなんねえ〉
〈……〉
〈おまえ、ふらふらしてっから巻き込まれるぞ。ちゃんと肚決めて、行動した方がいいぜ〉
〈肚決めるって、〉
〈議員連中にいいようにされてるだろ、おまえ。おまえが案内した先で見つかった鉱脈だからな。面白くない思いしてるやつだっているってこと。いくらおまえがレンじいの孫でもな〉
〈……もしかしてそれで集まってるのか?〉
〈だからレンじいの話は聞いてやれって〉
 煙草の燃殻を地面に落とし、足でにじり消す。慧の背をぽんぽんと叩き、〈じゃあな、おやすみ〉と言って夜風に紛れて消えていく。
 友人の忠告を、だが慧はぼんやりとでしか聞けなかった。保守派と革新派、どちらにつくのか、慧の頭にはない。ただ夜鷹の傍にいられたらいいと思っている。
 村の皆も好きだし、嫌いだし、鉱山で労働する皆のことも好きで、嫌いだ。それぞれにいい面と悪い面があって、仕方ないなと思う部分も多々あるが、それでもどちらも憎めない。だが双方が共存する道はないだろう。鉱物の掘削は、山を削る。元には戻らない。
 ようやく家の扉をくぐると、祖父だけが居間に残っていた。黙々と刃物の類を研いでいる。みな山に入る上でつかうもので、手入れは祖父の日課でもある。だが山に入るのをやめると聞いた上での行動とは思えなかった。
 慧に気づくと、手招きされた。
「外でウルと話していただろう」
「うん。……じいちゃん、山、やめんの?」
「入る山がないから仕方ない。収入ならまあ、おまえがあるんだし。この家の庭先で畑でもやっていればなんとかなる」
 手入れをした刃物を火で炙り、水分を飛ばして丁寧に並べた。それから慧を見て「これも売ろうと思ってる」と言った。
「え?」
「大した値段は付かないだろうが、ものはいい。柄を付け替えれば見栄えもよくなる。売って羊か山羊でも買う足しにしようと思ってな。――もう、この家に残しておいても、あまりつかうこともないだろうから」
「……」
「なにか欲しいものがあればおまえにやろう」
 そう言われ、並べられた刃物を眺めた。鋸刃の手刀、鉈、斧。確かにこの先、自分はこれをつかわないと実感するものばかりだった。つかい方を知らない訳ではない。つかう先がないのだ。
「これ」
 と指さしたのは、房飾りのついた小刀だった。何にでもつかえるものだ。獣肉を捌くとき、木を削るとき、蔦や草を払うとき。
「これでおもちゃでも作って、土産物として市場に売ろうかな」
「石は削れんぞ。……いい、持って行け。おまえが持ってるなら、道具も嬉しいだろう」
 彫刻の施された鞘に納め、祖父は小刀を慧にくれた。慧はそれを受け取り、この土地に昔からある作法で礼を述べた。
「なんだそれは?」と祖父は怪訝な顔をする。
「忘れないでおこうと思って。おれは日本語も英語もここの言葉も喋るけど、血も色々と混ざってるけど、ここの土地で育ってるから」
「そうだな」
 道具を片付けはじめた祖父を背に、自室へ下がった。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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長編「ファンタスティック・ブロウ」
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