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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 夜鷹を背後から抱いて、男は眠りと覚醒の境を彷徨っているようだった。耳の下にある腕が心地よく、頭の後ろに当たる吐息は穏やかで熱い。腰に乗った手先をいじっていて、夜鷹はふと自身の右手に目を向けた。暗がりでは分からないからベッドサイドのスタンドを灯す。唐突に湧いた灯りに、青は「ん」と呻いて身体を捩った。
「……夜鷹、どうした」
 眩しい、という抗議は口にせず、夜鷹の後頭部に目元を押し付ける形で示された。
「んー、そういや刺さったガラスがどうなったかなって」
「……帰国した日に言ってたやつ?」
「そう」
「見せろ。どこだ」
 青は起き上がり、目元をこすりながらも夜鷹の差し出した右手を取った。
「てのひら。親指の付け根あたり」
「……よく見たら傷だらけだな」
「治って来てるだろ。もうだいぶ時間経ってるし」
「普通は放置せずにすぐ処置するもんだ。なんでガラス?」
「ガラスっていうか、岩石に混じったガラス質っていうか。サンプルを砕いてさ」
「ああ、もしかしてこれ?」
 青の爪先が一点を突き、疼いた痛みに声が漏れた。
「これっぽいな。ここだけ白っぽく盛り上がってる」
「もう皮膚張っちゃっただろ」
「薄皮程度だ。すぐに取れるよ」
 待ってろ、と言って青はベッドを降りた。恥ずかしがるでもなく裸体で部屋を出て、再び戻った手にはプラスチックケースがあった。工具箱的な扱いをしているようで、中にはドライバーやネジ、ニッパーなどが入っている。
 そこからライターとカッターを取り出し、カッターの刃を炎で炙った。カッターの刃は通常よりも鋭角で、黒く光る。
「夜鷹、右手」
「外科治療か? おまえいつ医師免許なんか取得したんだ」
「これぐらいはやるだろ。それに工学部卒の現技術職をばかにするなよ。細かいことは得意なんだ」
 青は明かりの下に夜鷹の手を広げさせ、カッターの先端で薄く盛り上がった皮膚を掻いた。ちくちくとした痛みがよみがえるが、青にされればそれも快楽の一部で、不快ではなかった。
 皮膚の表層だけをめくるようにして刃を入れ、薄く肉が開かれる。血も滲まないごく表面で、皮膚に覆われた異物を青は丁寧にあらわにし、「これだ」と呟いて刃先だけで器用に取り除いた。先ほどまで身体中にされていた愛撫が呼び起こされ、身体の奥に火の揺らぎが起こるのを感じた。
 ティッシュの上に異物を落とし、他にもガラスの刺さる箇所がないかと確かめられた。目視と夜鷹の実感ではこれ以上はないと判断され、消毒液で拭われたあとは、まじないのようにふ、と息を吹きかけられた。
「すぐ塞がると思うけど、絆創膏でも貼っとくか?」
 青の手を握り返し、口元に持って来て器用な指先を舐めた。
「夜鷹、」
「欲しい。入れろ」
 スタンドの明かりはそのまま、青をベッドに押し倒す。散々夜鷹の内部を翻弄した性器をしゃぶると、青は息を詰めながらも夜鷹の髪を引っ張った。
「明日も仕事だから。積極は嬉しいんだけど、さすがに休みたい」
「じれったいこと言うなよ。分かった。指だけ貸してろ。自分でするから」
 青の腰に跨り、手を取って背後に回した。掻き回されてほぐれているそこに青の指を差し込もうとして、夜鷹の意思に反する動きでぷつりと長い指が潜り込んできた。
「あっ、……っ」
「やわらかいな」
「……おかげさまで、」
 本当に奥に遠慮なく出されたから、掻き出しても掻ききれなかった精液が内部を伝いおりるのが分かった。それは青の指を潤滑に動かし、新しい指をやすやすと飲み込む助けをする。
「青っ、そこ……んっ」
「ここ……前より膨らんでないか?」
「あっ、知る、かよ……っ」
「触って欲しいみたいだ……」
 通電する一点を押され、性器がみるみる漲ってゆるやかだった性感が束になる。拠り合わされて強固になる。指だけで好きにやろうと思ったが、とても足りない。自身の性器に触れるともう出ないと思った先端からはまた腺液が滲み、潤んで透明な皮膜を作る。
「青、やっぱり無理。欲し……」
 青の上に重なると、耳を齧られた。束の間指を引き抜き、ベッドの反対側へ押し倒され、望む通りに硬く長いもので埋められた。悲鳴が出る。
「あああっ――!」
 中を進む青の性器が、硬くたくましくて嬉しかった。遠慮なしに端からがつがつと腰を使って出し入れされる。踏ん張らないとベッドからずり落ちそうで必死でシーツを掴む。ゆっくりやる気はないらしく、青は夜鷹の性器も盛んに擦った。後ろの快楽と前の快楽で、夜鷹はもう自分のコントロールが出来ない。
「あっあっ、青っ、せいっ」
「いけ。出せ、夜鷹――っ」
 大きく突かれて下腹に凄まじい寒気が走った。猛烈な性感に堪えきれず射精する。出すものは薄く水のようだった。青もほぼ同時に射精し、数度夜鷹の中でしぶいて、硬直を解いてぐったりと倒れ込んできた。
 狭いベッドの中で、指一本動かせないような心地よい疲労に包まれる。青はしばらく呼吸を荒くしていたが、やけに動かないと思っていたら、そのまま眠りへと移行しつつあった。
「こら青、寝るな。重い」
「……ん、」
 返事をしたものの、青の目は開かない。そのうちすうすうと穏やかな寝息が肌に当たるようになった。出したら寝るか。男の生理そのままだなと思った。冷静になれば外からは秋虫の声が聞こえる。もうそんな時期になったんだなと夜鷹は腕を伸ばし、スタンドの明かりを消した。
 青の性器を自分で抜いて、こぼれ出る精液をティッシュで拭う。ベッドの縁に腰掛けてミネラルウォーターを口にした。青の髪を梳く。青はうつ伏せのまま、よく眠っている。
 あやすように青の背を叩く。いい子のまままっすぐ素直に大人になった青。


 目覚めるとベッドに青の姿はなかった。時間を確認すれば午前十時をまわっており、仕事に出たかと納得して大きく伸びをする。まだ眠いし、身体はだるい。シャワーを浴びてキッチンへ向かうと、ダイニングテーブルに青が腰掛け、新聞を読んでいた。テーブルの上には朝食が用意されている。
「仕事は?」と冷蔵庫から牛乳を取り出して訊ねる。
「午後出にしてもらった。飯食おうぜ」
「ずいぶんと豪勢な飯だな」
「昼も兼ねてるからな。それにやりまくって飯だと言ったのはおまえだ」
 テーブルの上には色鮮やかな野菜を挟んだサンドイッチとハムやチーズ、フレッシュフルーツのジュースやデニッシュも並ぶ。夜鷹の好きな両面焼きの目玉焼きも、カリカリに焼いたベーコンを添えて皿にある。スライスしたアボカドやヨーグルトもあった。ポットの紅茶に牛乳を混ぜて、夜鷹は青の向かいに着く。青は新聞を畳んでグラスにジュースを注いだ。ミックスジュースのようだった。
「いつも洋食か?」
「いや、その日の気分。玄米が食べたい時は炊いて味噌汁とおかかだよ」
 空腹に任せてただ黙々と食事を取る。食べ終えて夜鷹は「片付けはおれがやる」と告げる。青は頷き、ありがとうと返事があった。
「――日本の地質だって、相当面白いだろ」と青は再び新聞に目を通しながら言った。
「ああ。プレートの真上だしな」
「夜鷹がつまらんと言っているのは、研究者の姿勢だよな。もちろん、積極的な研究者もいるんだろうけど」
 ぬるいミルクティーを口にして、夜鷹は「そうだな」と答えた。
「いつか戻って来て、自分のルーツをきちんと研究してみろよ。きっと、悪くないはずだ」
「老いって言うんだよ、それ」
「老いるんだから当たり前だろう」
 同僚の台詞がふっとよぎった。「潮時」ってやつ。
 それはそのうち来るんだろう。気づかないうちに潮が満ちているように、足元は浸っている。そう想像していると、青は新聞を丁寧に畳み、テーブルの傍に置いた。
「夜鷹の言う、夜鷹だけが見つけた地質の上に寝転がって考え事をする日が、日本でも可能かもしれない。そのときはおれも混ぜてくれ」
「隣で寝るか?」
「夜だったら望遠鏡を構えるよ」
 青は笑った。一瞬にしてその図が夜鷹の脳内に過ぎる。夜鷹の見つけた夜鷹しか知らない場所に、夜鷹は満足して寝転がる。空には星が広がっている。隣で青が望遠鏡をセッティングして、夜鷹が頼みもしないのに星について語り出す。
「――おまえらしい平凡な発想だ」
「なかなかいいだろう」
「日本に限らなくてもおまえさえ来れば世界中のどこでも可能だよ」
「じゃあそれが出来るように真面目に働いて稼いで有休はしっかり溜めておくよ」
 ごちそうさま、と言って青は立ち上がった。外の光を見て「今日も暑そうだな」と漏らす。
「ああ、夜鷹。今日・明日と行ったら明後日からは夏休みだから」と青は言った。
「Nに帰るか?」
「ずっと帰ったことはなかったから、いつも通りの夏休みにするつもりだ。夜鷹、しばらくいるよな」
「出国は再来週だ」
「じゃあいいな。どこか行くか――行かなくてもいいけど、夜鷹に任す」
 不意に青に手を取られた。昨夜ガラスを取り除いた右のてのひらを確かめられる。「もう塞がった」と青はそこに唇をつけた。
 ゆっくりと吸引して、唇を離す。
「かわいいことするなよ。やりたくなるじゃねえか」
「あ、夜鷹。シーツ洗って干しといてくれ。すぐ乾くだろ」
「オーケイ」
「あとそれ、いつまで着てる気だ?」
 青は夜鷹の着ているシャツを指した。青のシャツだが、夜鷹のものみたいに当たり前に馴染んでいる。
「あんまり服を持って来てないんだ。スーツケース軽くしといて、買い物出ようと思ってたから。服はな、日本で買った方がサイズが合う」
「付き合うよ」
「じゃあ夏休みのプランに入れておく」
「おっと、時間がまずいな」
 青はばたばたと支度をして、家を出る。間もなく夏休み。青と夜鷹はやっぱり夏を一緒に過ごす。
 着ているシャツから青の匂いがする。しばらく襟元に鼻を埋めて、夜鷹はテーブルを片付けはじめた。知らず鼻歌が漏れる。



end.



← 4



そんなに遠くないうちにまた更新が出来る……と思います。
災害、災厄、災難、様々な事態が起こっていますが、どうか安全に、健康にお過ごしください。







拍手[7回]

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「あったか、あるのか、言いたいことなのか、考えていることなのかまでは分からないけど。でもおれに話があるから、散歩に誘った」
 夜鷹はジュースを置き、青の唇に自身の唇を押し付けた。
 青の目が見開かれる。だが拒まれはしなかった。夜鷹は青の頬を両手で包み、たっぷりとキスをする。雨で人通りがないけれど、公園の敷地内だった。構わずキスを続けて、青の手が肩にまわる。惜しんで唇を離した。
 近い距離にある目が、夜鷹の好きなカーブで夜鷹を見ている。その目を舐めるように覗き込み、「あるよ」と答えた。
 一時的な雨が去りつつある。夜に向けて陽の落ちる時間帯だった。濡れてもタオルなど持っていないから、ドリンクを飲み干してベンチを立ち、コーヒースタンドに返却してまた歩き出す。
「通常、日本に出張が多くなるってのは、いずれそのまま日本の研究所勤務になる前段階だ」
 青の顔を見ないまま、青より少し先を歩きながら喋る。後ろから「Gの?」と訊かれて、振り返る。
「Gだけじゃねえ。日本のどこか」
 また前を向いて歩き出す。濡れたシャツが肌の表面温度を奪う。
「単身赴任にはなるだろうけど、おまえと日本で暮らすのもいいかなと、少しは思ったんだ」
 急な雨の直後だったから、公園には驚くほど人気がなかった。
「どう思う? 青」
「どう思う、って」
「おれがこっちに戻れば嬉しいだろう?」
 冗談として笑うつもりで言ったが、青の返答は遠かった。
「夜鷹はもう、結論を出してるよな」
「なにを?」
「とぼけるなよ。……こっちでおれと暮らすつもりなんか、おまえはないよ」
 夜鷹は前を向いたまま立ち止まる。青が追いつき、隣に並んだ。
「いずれ日本に戻っておまえと暮らす未来のことを、よく考える」
「……それこそ珍事だな」
「けれどそれは未来であって、いまじゃないんだ。おれはまだ、この国でやっていきたいとは思わない。もっといろんな国の、いろんな土地で、いろんなものを見て、知りたい。空気を吸って、おれだけが見つけた特等席みたいな地質の上に寝転がって空でも見上げながら考え事や昼寝をするんだ。……そんなことやってたら生涯八十年だったとしても終わんねえけどな。いつか日本に戻るタイミングがあったとしても、いまじゃねえと思ってる」
「ああ」
 隣の青の腕が伸びる。濡れた髪ごと頭を抱かれた。
「だがいまこのタイミングを逃して次いつ日本に戻るのか、戻れるのかも分かんねえ。未来のことなんざ考えても仕方がねえとも思うが、……おまえといるとどうしても、先のことを想像してみたくてたまらなくなる」
「……」
「全く面白くねえ話だ」
 青に引き寄せられるままに頭を押し付ける。
「もうボスにはメールした。つまんねえ勤務先になんかされたらボケて死期が早まるってな。いまのボスは温和だが、その分冒険心に欠ける。日本におれを派遣するのも、暴動に巻き込まれて大変な思いをしただろうからという配慮だったんだろうが、こっちにはいらねえ世話だ」
「上司から返信はあったか?」
「日本にいる大事な人と話せ。その後でこちらでも話そう。準備はしておく」
「いい上司じゃないか」
「気弱なだけさ」
 青の頬に唇を押し付け、離れる。濡れたせいで肌の上で熱が気化して、冷たかった。
「あっちに戻ったら、ボスとの話し合い次第だが、やっぱり遠地勤務を希望すると思う」
 なんとなく青の顔を見られなかったが、無理に顔を上げた。夕闇に青が溶け込んでいく。
「そうなったらいつ戻るかなんて、分からん。それでもいいか?」
「いまさらだな」
 青は歩きはじめた。夜鷹のことを気にするそぶりもなく、自分のペースで進んでいく。
「おまえがこっちでおれと暮らす未来のことなんか、おれは考えたことがないよ」と青は言った。
「大学生になる前からなったあたりでは、考えたこともある。でもいまは難しい。夜鷹が自分の意志で東京を選ぶなら歓迎するけど、夜鷹は多分、もっといろんなところを飛びたいと思ってるはずだ。昼も夜も関係なくさ。おれと暮らしはじめてみろよ。おまえの言う通り退屈であっという間に死んじまう」
「おまえは淋しいはずだ」
「そう、淋しい。でもそれはいまにはじまった話じゃない。夜鷹との距離なら、いつだって遠い。おまえよく言うだろ。おれの淋しさはおれだけのものだと。だからこれはもう、仕方ないんだ。おれがいくら淋しがってもおまえは行くし、構わず飛んでいく。そのさ、ボスの言葉を実行してくれたのは嬉しかったよ。おまえがおれを尊重してくれるなんてな。でもおまえは揺るぎないやつだから」
 青は立ち止まり、夜鷹を見た。目を合わせて「淋しいよ」と訴えた。
「おれは、淋しい。おまえは、好きに飛ぶ。これは昔から変わんないことだろ」
「そうだな」
「だからいまさらだ。……風が出てきたな。もう戻ろうか。濡れたし」
 街は宵闇に包まれ、街灯の明かりが目立つ。盛夏は過ぎ、日暮れが早くなった。夏の終わりに差し掛かっている。
 公園を抜けてまた住宅街へと戻ってきた。
「おれは淋しいと言うのを堪えるから、……けど、どうしても淋しくなったらそのときは慰めてくれよ」
「たっぷり可愛がってやるよ。テレフォンセックスでもするか?」
「随分と高くつきそうなセックスだな」
「じゃあスカイプ。映像付きだぞ」
「いやだよ。……まあな、電話は遠くても出来るし、手紙もメールも送れるけど、セックスは相手が傍にいないと出来ない。遠隔操作じゃだめだな。これだけテクノロジーが進んでいるけど、実像がいないと出来ないことは山ほどあるな」
「『どこでもドア』並みの技術力じゃないとな」
「ああ、あれは一気に解決するな」
 家の前まで来て、青が鍵を開ける。空には星が見えはじめていた。
「じゃあ、実像がないと出来ないことを思いっきりしようぜ」
 玄関をくぐって青を誘う。男は夜鷹の腰に腕を回してきた。
「飯は?」下唇を指でなぞられる。
「思いっきりやって思いっきり腹減らして食おう」
 唇をなぞる指をがぶがぶと食むと、青は笑った。
「おれの部屋のベッドと、おまえの部屋のベッド、どっちがいい?」
「どこだっていいよ。ふたりっきりだからな」
「ああ、いい言葉だな」
「ふたりっきり?」
「うん」
「確かにおまえは好きそう」
「夜鷹の口から聞くとすごく新鮮だ……」
 玄関の扉を背に押さえられ、たっぷりとキスをする。どんなにしても欲しくて喉が鳴る。空腹で腹が鳴るみたいに。
 唇をわずかに離した青は、熱っぽい吐息を漏らして「ここで出来るな……」と苦笑した。
「いいぜ、ここでも」
「だめ。行こう、夜鷹」
「どっちの部屋?」
「近い方」
 ならば夜鷹の部屋だった。身体を絡ませて服を引っ張ったり髪を掴んだりしながらなんとか部屋までたどり着く。ベッドに押し倒され、カーテンを引き忘れた部屋の窓から夜空を見た。
 そこを飛んでいく鳥があった。だが青にシャツを脱がされ肌の温度が上がる。すぐに忘れた。



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 ソファで眠っていたが思いのほか熟睡して、起きるともう陽が高かった。やかましいセミの声が外からわんわんと響いている。朝食とも昼食ともつかない食事を取りながらメールを送った。洗濯物やら庭木やらなんやらの世話や片付けをしているあいだにメールの返信が届き、また返信を打って、パソコンを閉じる。
 夕方の早い時刻に玄関の鍵がまわった。青が荷物を抱えて汗だくで帰宅したのだ。居間でクーラーに当たりながら雑誌をめくっていた夜鷹を見て微笑み、「出張は順調に終えたか?」と荷物を下ろしながら訊かれた。
「フィールドワークにも出ないでなにが学会だ。クソったれ」
「荒れてるな」
 土産、と言って渡されたのは地酒と海の珍味の瓶だった。いまの時期なら冷酒だろうと冷蔵庫に仕舞う。シャワーを浴びに浴室へ消えた青を追い、躊躇いなくすりガラスを開けた。
「どうした?」
「青、今日この後なんかあるか?」
 シャワーのコックを捻って湯を止め、青は振り向いて「ないよ」と答えた。
「報告は明日以降でいいって言うから、今日はもう終わり」
「じゃあいいな。デートしようぜ、青」
 その申し出が意外だったか、青は目を丸く開いた。
「これから?」
「どっか気張って行こうって言ってんじゃねえ」
「おまえとデートなんて珍事もいいとこだよな」
「珍しいか? 散々一緒に出かけてるだろう」
「フィールドワークはデートって言わないんだよ、夜鷹」
 青はバスタオルを引っ張り出し、身体を拭って着替えはじめた。「いいよ」と返事がある。
「これからなら夕飯でも食べに出るか?」
「そんなに気取ると肩が凝る」
「夜景でも見に行く?」
「どこまで出掛けるつもりだよ」
「だってデートなんだろう?」
「散歩程度でいい。……おまえと歩きたい」
 裸身の肩に額をすり寄せる。髪に軽く触れ、「なら公園でいいか」と青は答えた。
「着替えて支度する。あと十分待ってくれ」
 その時、ゴロ、と遠くで雷鳴を聞いた。
「傘がいるかな? 夕立が来るかも」
「そん時考えりゃいいよ」
 脱衣所を抜けて、夜鷹も着替えた。


 家を出る頃の空模様は悪くはなかったが、雷鳴は相変わらず遠くで鳴っていた。「このまま遠くに行ってくれるといいな」と青が空を見上げて呟く。青の着ている真っ青なTシャツは襟元が少しあくデザインで、湯上がりだということもあって暴悪に夜鷹を誘った。ショート丈のパンツにスポーツサンダルという軽い服装で、日頃走り込んでいる青のしなやかな筋肉が惜しみなくさらされている。それを通行人は見られるのだと思ったら、見るんじゃねえよと妙な独占欲に支配されて夜鷹は内心で息をつく。
 夜鷹は夜鷹で、自分の荷物から取り出すのを面倒くさがって青のシャツを着ていた。夏用の薄い綿麻のシャツは、夜鷹には大きい。こちらは薄い青で、夜鷹もそれに膝丈のパンツを合わせている。暑くて袖をまくろうとしたら、青に「あんまり出すな」と肌の露出を咎められた。夜鷹のアレルギーのことがよぎったらしかった。
「夏の終わりぐらいになってくるとな、割と平気なんだぜ」と答える。
「日光というより、紫外線が悪さをするらしい。春先の方があちこち荒れる」
「でも昔のサマースクールでアレルギー出したの、真夏だったろ」
「もうガキでもねえってことなんじゃない」
 青の静止を振り切って袖をまくった。青はなにか言いたげに夜鷹の手元を見ていたが、諦めたか日陰を選んで歩き出した。
 近所という近所でもないが、住宅街を抜けたところに大きな公園があった。夜鷹の小さい頃からずっとある古い公園だ。池があり、貸しボートも営業している。小規模だが動物のいる広場や遊具の広場もあるので、小さい頃の夜鷹は姉と共によくこの公園へ連れてこられた。
「実はきちんとこの辺を歩いたことはないかもしれない」と青が言った。
「夜鷹の家には何十も何百も通って、いまじゃ住んでるってのにな」
「おまえのことだから隅々まで走り尽くしてると思ってたよ」
「ランニングコースはやっぱり走るだけだから。道を知っているけど、じっくり歩いたことはないかな」
 公園はセミのシャワーだった。夏の終わりに近づき、セミがわんわんと鳴いている。
「彼女欲しい結婚したいセックスしたい!」
 セミの気持ちを代弁すると青は笑った。
「地中に七年とかだからさ。沈黙破って思いっきり生を謳歌してるんだろ」
「昔の話だけど、ラボの同僚が派遣されたのが昆虫食のある文化圏で。セミの幼虫をさくっと」
「やめてくれ」
「成虫だとナッツの香りがするとか」
「うわ」
 青は本気で二の腕をさすった。その手を掴んでみると、よっぽどの寒気だったのかぷつぷつと鳥肌が立っていた。
「おまえんとこの田舎も虫食うだろ」と言ってやった。
「食べるね。祖父母は食べてた。でもおれは無理だった」
「まあ、考えてみればイカの塩辛だって充分グロだ。内臓と刻んだ身を和えるんだから。でも日本の食卓には一般的だ」
「夜鷹はむしろ好きだよな」
「酒がうまいからな」
 掴んだ腕に唇と寄せ、わざと音を立ててキスをした。青は苦笑しながら「公共の場だ」と言ったが、絡んだ視線は夜鷹を許すものだった。
「いままでに食べた一番強烈なものの記憶ってなに?」公園の中を進みながら青が訊いた。
「マーケットで食べた羊の頭かな。子羊の首が皿に乗ってるやつ」
「儀式みたいだな。どこを食べるんだ、それは」
「脳みそ」
「ああ、なるほど……」
「目が合うと辛いんだと現地のガイドは笑っていた。あとおれは食べたことがないけど、親父の話じゃイタリアにはウジ虫入りのチーズがあるって」
「やめてくれ」
「おまえが振った話題だからな」
 にやにやと青を見る。昆虫に関してこんなに苦手意識のある男だったかと、新鮮に思った。虫を特別怖がっていたような少年時代ではなかったし、サマースクールの昆虫の講座も平気な顔で受けていた。口にする、となると抵抗があるんだろう。
「おまえは? じいさんの食ってた虫か?」とあえて訊く。
「……びっくりしたのは、Oの港に行ったときに魚市場で売ってたイルカの切り身かな」
「食ったのか、イルカ」
「いや、食べてない。けど、食用で売っているんだととても驚いた。まあ、捕鯨文化の国だけど、やっぱり水族館のイルカショーでしか見たことがないから」
「馬を食うにも抵抗のある国はある。ウサギは食うくせにな。カンガルーやトナカイもおれたちには動物園でしか見られない鑑賞用の動物だが、国によっちゃジビエだ。みんなそれぞれの土地でそれぞれの都合で飯を食ってる」
「夜鷹はベジタリアンって怒りそうだな」
「同僚にもいるし、必ずしも否定はしない。が、一部の言う『生き物の捕食に抵抗がある』は賛同しない。じゃあ野菜は生き物じゃないのか? 植物の生命力は凄まじいよ。いまもこんなに覆い茂ってるのに、生き物じゃないから食える、食えないの判断はどこでするんだ?」
 公園の樹木や下生えを示すと、青はそっと頷いた。
「畑に芋しかないからそればっかり食ってる、ってのは分かる。だがテーブルの上に鶏も羊も載っているのに、それを食べずに遠くの国から取り寄せたベリーしか口にしないってのは、やっぱり歪んでる」
「野菜しか食べられない選択も、それはそれで苦しくて辛いと思うよ」
「おれは共感しないって話だ。人間なんてどっか歪まなきゃ生きてけないもんだしな」
 喋りながら歩いて、喉が渇く。敷地を進んだ先の芝生に移動式のコーヒースタンドがあったので、「なんか飲もうぜ」と青を誘う。青はアイスコーヒーを買い、コーヒーを好まない夜鷹はブラッドオレンジジュースを選んだ。
「アルコールメニューもあったのに」とスタンドの脇の木陰に置かれたベンチに座って青が言った。
「無理にノンアルコールで揃えなくても」
「しらふの方がいいような気がしたんだ」
「……夜鷹さ、なにか」
 と青は言いかけ、顔を空に向けた。ぽつぽつと雨粒が当たりはじめたのだ。ずっと木陰を歩いていたからあまり意識をしなかったが、遠い向こうにあったはずの雨雲がいつの間にか頭上を覆っていた。「降りそうだな」と立ち上がりかける青の手首を取る。右手で掴んだのでてのひらが相変わらず疼いた。
「夜鷹?」
「いいじゃねえか。降られようぜ」
 青はなにかを言いかけたが、結局は夜鷹の隣に腰を下ろした。諦めてストローを口にしている。降りはじめた雨は雨量を増やし、あっという間に周囲に湿気が満ちる。頭上にある木の陰でいくらかましとはいえ、濡れないわけではなく、頭から腕から足先から、水がしみ込んでくる。
 短時間でかなり降った。夜鷹は構わず青の手首を掴んだままジュースを飲む。戸惑った風の青が「夜鷹」とこちらを向いた。雨に濡れて髪がいつものボリュームを失っている。肩先も濃い青に変色していた。
「なにがあった?」と青は言った。雨音に負けない、不思議と通る声だった。



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拍手[7回]


 出張先へは列車で移動した。車内で夜鷹はノートパソコンを開き、ニュースや学術誌などを好きに読んでいた。メールもチェックし、少しばかり眠り、着いた駅には学会を歓迎する垂れ幕が掲げられていた。夜鷹の到着を待っていた日本人研究者に迎えられ、車で移動する。
「前嶋さんはあっちが長いんでしたっけ?」と助手席に座る年長の研究員から訊ねられた。
「あっちがどこを指すかにもよります」
「ああ、あちこちされてるんでしたね。体力も行動力もおありで羨ましい」
「C鉱脈の掘削現場に長くおられたんですよね」
 口を挟んできたのは運転席に座る方の若い研究員だった。
「そうですね。鉱山の開坑調査の段階から参加していました」
「いい資源の産地でしたが、いまだいぶ危険な土地になって、渡航も厳しいとか」
「やっぱりねえ、安全は大事ですよ。私なんかずっとこの土地の地質一本でやっていて、いまじゃ誰よりもここに詳しいと言われます。無茶をしてみたい年齢の時分もありましたがね、変わらないことが一番いいとこの歳になると思いますよ」
 と老年の研究者は述べた。平和ボケって言うんだよそういうのを、と罵りたい気持ちをぐっと堪える。誰よりもここに詳しいと頼られて満足か? 右肩の銃創でも見せてやりたい気分になる。
 会合と学会は二泊三日の予定で、夜鷹の宿はよくあるタイプのビジネスホテルが用意された。平和になった日本で、平和でのんびりとした会議が、三日も続く。夜鷹はすっかり飽きてしまい、帰りの車内でボス宛に打ったメールには、『クソつまんねえ仕事を寄越すんじゃねえよ。また撃たれに行くぞ』と報告した。
 帰宅したが、青もまた出張だとかで入れ違いの留守に重なった。くそったれ、と思いながらビールを口にする。タブレットで英語のニュースサイトを開き、興味のあるニュースもないニュースも片っ端から読み漁る。英語に飽きて別の国のニュースに移る。また別の国。別の言語。そうやってネットサーフィンで次から次へと見ているうちに、去年まで滞在していた国のニュースへと移った。
 ローカル紙のサイトに、〈C鉱山に再開の動き〉と見出しがあって、ついタップする。
〈地元議員による贈収賄に発し一時抗争激化により閉山していたC鉱山が約一年二ヶ月ぶりに掘削を開始すると発表された。ただし具体的な時期までは公表されていない。再開にあたって時期を検討しているところとの発表であり、現地の治安の回復を待つものと見られる。〉
 情報とも言えない情報を、夜鷹は隅々まで目を凝らして読み取る。写真すら載らない記事だったが、夜鷹には重要な記事だった。それ以上の情報をインターネットからは拾えないと判断し、タブレットからスマートフォンに持ち替えて登録してあるナンバーをコールした。
 電話の向こうで『いま何時だと思ってるんだ?』と呆れた、でも愉快そうな声がした。
『日本に追いやられちまったもんでな。グリニッジからプラス九時間に戻されちまった』
『アレックスに日本はクソつまんないとメールを送ったそうだね』
『情報が早えな。監視されてんのか?』
『メールを読んだアレックスから電話が来たんだ。ヨダカはエキサイティングな土地でないと満足しないと嘆いていたよ。あんまり困らせないでやってくれ。一応、きみの新しいボスだからね。それともきみがアレックスに代わるかい?』
『人の上に立つ器じゃねえんだ』
『全くだな。はぐれ狼のくせに所属を嫌ってないから不思議だよ』
 台詞の割に楽しそうな口調だった。夜鷹は『おい、じじい』と親しみを込めて呼ぶ。
『ああ、懐かしい呼び名だね。周囲で僕をじじい呼ばわりするのはきみだけだった。変わってなくて嬉しいよ』
『一応元・ボスのあんたを敬称のつもりで呼んでるんだけどね。聞きたいことがある』
『C鉱山のことかい』
『詳しいだろ。あんたはなんでも知ってる』
『知らない情報はないよ。さて、だが困ったね。きみに話してもいいけどまたあの鉱山で仕事がしたいと言い出すようだとアレックスが困る』
『再開するらしい、というニュースを読んだ。うちのラボから誰か派遣されてんのか?』
『いや、手を引いている』
 元上司はあっさりと答えた。
『専門家なしで動きはじめてるのか?』
『そんなことはない。いる。ただうちではないし、聞いたことのない所属の専門家のようだった。あの国で長く活動している個人の研究者を充てたんだろう』
『名前だけの素人か?』
『それも違うだろう。あの土地には一気に人がよそから入りすぎて、地元民からの反発が大きかった。だからこそ起きた暴動だったとも言える。地元出身の専門家を充てることで新体制を図った、というところだろう。発案はヨダカたちをコーディネートした現地の、ええと名前が――思い出した。ケイ・モトミヤ。彼のおじいさんであるレン・モトミヤ氏の説得で集まった地元民をケイ・モトミヤ氏が助ける形で、新しい動きになっていると聞いている』
『新しい動き?』
『鉱山が一大経済拠点としてこれからも機能するだろうことは分かっている。かつての暮らしを無理に変えたからあれだけの大事になったのであって、ひとつひとつ絡まった糸を丁寧にほぐす作業を厭わなければ、やって行ける土地だとモトミヤ氏らが確信したのだろう。利益を一部の人間ではなく皆にきちんと分配する仕組みを作れば、皆が納得する形で村が続く。そういうことをやっている、ということだ』
 よそから来た人間に対する嫌悪感や差別的な雰囲気は、あの宿舎にしかほとんどいなかったとはいえ、感じ取っていた。移民を拒む風潮があった。その中で一体どれだけの苦労をして、得た信頼感だろう。モトミヤの祖父と孫がやっていることは、生半可な覚悟ではなし得ない。
『国の経済を回したいならやはり自国民が回さなければね。モトミヤ氏らは主導を地元民に渡し、あくまでも補助的な立場に徹している。あの土地の人間のことをよく分かっている。いまはまだ厳しい状況だろうが、彼らのしていることに光明が差す日はきっと近い。戻りたいと言うか? ヨダカ』
 フ、フ、と独特の笑い声が電話の向こうから響く。心底楽しんでいる時に出る笑い声だった。
『いくらモトミヤ氏が日系だろうが、だからって迂闊に日本人が歓迎されねえことぐらい分かるよ。それにしても相変わらずの情報通だな。世界中のスパイの元締めってあんただろ』
『老いぼれに愚痴をこぼしに来る輩が多いだけだよ』
『悪かったな、変な時間に』
『随分と殊勝な様子だね』
 電話を切ろうとした間際、元上司は『日本は平和でつまらないか、ヨダカ』と言った。
『あんたらアメリカ人が落とした爆弾で痛い目見た結果のピースだからな。文句はないさ』
『なんだ、昔の話を持ち出すねえ。あの戦争を正当化してはいけない。きみたちも、わたしたちも。愚かな歴史だ』
 だが、と区切られる。
『その枠に囚われないのがきみ本来の性質だ。ノーとはっきり言える日本人だからな。きみに日本は、合わないのかもしれないねえ』
『なにが言いたい、じじい』
『アレックスとよく話をしなさい。きみらしく利発で論理的に。嫌味も添えてね』
 フ、フ、とまたあの小気味よい笑い声が聞こえる。今度こそ電話を切ろうと思ったが、話はまだ続いた。
『ケイ・モトミヤ氏は結婚したそうだ。地元の観光局に勤める女性らしい』
『……なんだ、政略結婚か?』
『あちらではまだ女性の地位が低いから、その中で台頭するとあればきっとやり手の女性なんだろうね。じきに子どもも生まれるそうだから、いつかあの土地へ行けるようになったら訪ねてお祝いをしてあげるといい』
『それアレックスに言っといて』
 ようやく電話を切り、スマートフォンを投げた。ソファにぐったりと横になり、ふーっと長く息をつく。結婚したか。そりゃ年頃だったし当たり前か、と思う。あれから一年以上が経過している。最後に見たケイは腹に穴があいて動けなかったから、目覚ましい回復力と行動力だと思った。素晴らしいね。夜鷹は目を閉じる。
 バラバラと雨音がした。いきなり猛烈に降って唐突にやむ、夏特有の雨だろう。
 雨音を聞いているうちに眠っていた。青ではなくケイの夢を見たが、目覚めの瞬間からおぼろげになり、そのうち忘れた。


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〈宿舎の部屋のベッドの下からこれが出て来ました。この近辺では産出されない石だと専門家が言ったので、あなたにお返しします。大事なものであってもなくても。ケイ〉

 ラボのデスク宛に届いた荷物に、こんなメッセージの葉書が添えられていた。国際郵便が届くぐらいには治安が回復したらしい。近況は全く書かれていなかったが、表面的な話では聞いている。大変な状況であることは承知で、でも郵便を送る余裕はあるのだから、元気な証拠だ。
 書かれた文字の言語はあの土地のもので、日本語でも英語でもない辺りに、数年を共にした若い男の決意が滲んでいる気がした。日系であることを器用に受け入れて生きている男だと思っていたが、どこかで「どうでもいい」と醒めるような、投げやりな一面も見ている。ついに彼は覚悟したのだろう。自分は日本にルーツを持つが、生きて行く場所はここだという覚悟だ。
 自分はどうだろうかと夜鷹は考える。いつまで経ってもふらふらと、居場所を決めない。覚悟をしていないというよりは、覚悟を放棄する決意をした、と言うべきか。いつだってどこへでも行ける準備で生きている。夜鷹は夜鷹の思うように飛びたいから。
 まあ、そういう腹づもりだったな、と封書に収められていたものを取り出しながら思う。人生はどう転がるか分からないもので、蛇行運転も予定調和のつもりだったが、だいぶ大きくカーブして、気付けば一回転。
 新聞紙に包まれた白い石塊を見て、とっさに握り潰してしまった。やわらかい石は夜鷹の手の中であっけなく崩れる。だがガラス繊維がざくざくと肌を刺し、疼きに似て夜鷹を刺激する。
『やだヨダカ、一体なんのサンプルを砕いたって言うの?』
 デスクの傍を通りかかった同僚が、散らかった床を見て大仰にため息をついた。
『日本にある山の山頂の石だ。花崗岩』
『血が滲んでるじゃない。見てもらった方がいいんじゃない?』
『舐めりゃ治るよ。舐めてくれるか? ミランダ』
『いやよ。指輪の相手に恨まれたくないわ』
 ちゃんと片付けろ、と言わんばかりに箒を渡された。仕方なく受け取る。
『それより今夜の便でしょう? お土産よろしくね。大好きなの、アンコ』
『なんの話だったかな』
『あのヨダカがこんなに短期間で日本に帰る日が来るなんてね』
 同僚は肩を竦める。全くだ、と夜鷹も頷く。
『巣なんかかけるつもりはなかったんだけどな』
『潮時、って言うのよそれ。みんなそうやって歳取ってくのよ』
『みんなそうやって、ね』
 箒で寄せた石塊をダストボックスへ払い落とす。
『一番嫌いな言葉だね』
 右手の中にはまだちくちくと痛みが残り、そこを舐めながらデスクを後にする。


 夏の盛り、地獄のような湿度を払いたくて真っ先にシャワーを浴びた。高温多湿の国への派遣経験もあるけれど、どちらかと言えば夜鷹のこれまでは標高の高い山岳地帯が多かったので久しぶりの東京の夏がものすごく堪える。シャワーの前にクーラーを入れておいたので、さっぱりした身体で涼しい居間に戻ることが出来た。冷蔵庫を開ける。ビールがない。どんな生活してるんだよあいつは、と考えてしまう。飲めない身体でないくせに、麦茶で過ごしてるとか言うのか。
 諦めてミネラルウォーターを飲み、ソファではなく床に寝転んだ。フローリングの床が冷えていて心地よい。まめに掃除をしている辺りがさすがだと思う。部屋は綺麗に片付けられている。
 帰国の途について約二日。右のてのひらは相変わらずちくちくと疼いた。ひょっとするとガラスが入り込んでいるかも知れなかった。あれ身体の中に入るとどうなるんだっけ。そのまま傷が塞がると体内に残るよな。
 戦中に落とされた原爆の中で生き残り、背中に熱風を浴びた少年の話を思い出した。ただれた背中は治療されたが、ガラスが埋まって治らなかった、そういうドキュメンタリーを見たことがあった。少年は生き残ったが傷が完治することはなく、後に妻となった女性は初夜のしとねで夫となった青年の背中をはじめて目の当たりにする。彼女は傷に薬を塗る役割になった。それでも夫は手術を重ねる。塞がらない傷のまま、確か彼は亡くなったはずだ。
 なんでこんなこと思い出したかな、と目を開けて、カレンダーを見て納得した。原爆の投下された日。もちろん夜鷹に戦争の記憶はない。その時代には生きなかった。けれどサマースクールの中にはそういう講座もあったので覚えている。オキナワの地獄、ヒロシマ、続くナガサキの地獄。トウキョウ他多くの都市での空襲。疎開、学徒動員、カミカゼ、B29、マツシロ大本営。みんな習ったから覚えている。だが習ったこと以上に追究はしていないから、語る言葉は持たない。
 そして再び慧のことを思い出した。戦争にはならなかったが、抗争は発生した。慧のルーツを辿ればいくらでもこの国へ逃げることは可能であるのに、彼はその選択をせず、残ることを決めた。
 ただ見てみぬふりをしていた目に、これからの光景はどう映るだろうか。痛いか。痛いだろうなと想像する。だが夜鷹は思い入れない。慰めない。援助も、返信も、なにもしない。
 飢えたまま飛び続けていた夜鷹に、ひと時だったが大事な若い温もりをもたらした。あの健康で伸びやかな肉体。
 それを思い出すぐらいはいいと判断して、目を閉じる。


 物音で目が覚める。いつの間にかカーテンが引かれ部屋には明かりが灯っていた。夜鷹を気遣って照度は落とされている。そして夜鷹自身にはタオルケットがかけられ、冷房の当たりが防がれていた。
 キッチンで動いていたせいたかのっぽが顔を上げ、キュ、と水道を止めて夜鷹を見た。
「おれはおまえを迎えに空港へ行ったことが一度もないんだけど、どうやったらそれが出来るようになるかな?」
「足がないわけじゃねえ。困ってないから心配すんな」
「前触れぐらい連絡してくれ」
「家主が家に帰るのに断りが必要か?」
 起き上がり、グラスに飲みかけの水を口にしようとしたら、冷えたビールが出て来た。
「さっき慌てて買いに行った」
「分かってるな。おまえも飲めよ」
「おかえり、夜鷹」
 青はそう言い、夜鷹の肩先に縋ってきた。夜鷹はその髪をくしゃくしゃと掻き回す。汗と整髪剤の混ざった匂いがした。
「あ、悪い。まだシャワーを浴びてないから汗臭い」
「いまさら言うことじゃねえな。青、飯は?」
「いま用意してた。これも慌てて買った惣菜だけど」
「おまえって案外自炊をしないよな」
「するよ。ひとりだから気ままに手を抜いたり本気出したりするだけだ」
 夜鷹の傍から離れ、青はキッチンでまた作業をはじめた。再会のハグに至らない不器用さが青らしいなと思う。
 両親から相続した家に青を住まわせて管理させるようになって数ヶ月が経った。冬の終わりに一度帰国しているが、それ以来なので、数ヶ月ぶりの実家だ。だが二十代の終わり以降で全く日本に寄り付かなかった夜鷹にとって、これは同僚も指摘した通りの驚くべき頻度である。潮時、と言われたことを思い出した。潮の傍に営巣するなら自分は鷹ではなく海鳥だったようだ。
 出て来た惣菜は海のものが多かった。夜鷹が好きだと分かっていて。偉いな、と夜鷹は口角を上げる。
「慣れたか、この家は」と刺身を口にしながら訊ねる。
「順調だよ。近所付き合いはあんまりないけど、困るような隣人じゃないってみなされたのかな。たまにおじさんもメールをくれる。残したもので分からないことがあればいつでも聞いてって」
「でもそんなに残ってないだろ」
「本だけ書斎にだいぶ残ってるんだ。次に帰国したときに古書店に査定を依頼すると言ってたけど、次がいつかはまだ聞いていない。まあ、眺めているだけでも面白いから、残してもらってもおれは困ったりはしてないよ」
「そりゃなにより」
「夜鷹の本もだいぶ残ってるよな。親子だなと思った」
 嬉しいような羨ましいような、もしくは淋しいような。そういう複雑な表情で青は笑った。
「おまえどこの部屋使ってんの?」
「とりあえず寝室は一番西側の角部屋に。夜鷹のお姉さんが使ってたっていう部屋」
「ああ。おれの部屋でもよかったのに」
「だめ。学生時代思い出して心中複雑になるから」
「相変わらずご繊細なご様子で」
「おかげさまでつつがなく」
 惣菜をつつきながらも、だが夜鷹はあくびをこらえられなかった。
「眠い? 休むか?」
「そうする。実はもう明日は予定があるんだ。Gに行かなきゃならん」
「なんでまた」
 青は箸を止めた。
「おれがただ休暇で帰国したとでも思ったか?」
「違うのか?」
「ボスが変わってな。まあこれは予測してたことだから驚く話でもない。ただ方針はだいぶ変わった。おれは日本人なんだからと、そっちへの出張が増えた」
「てことは、出張で来てるのか?」
「そういうこと。まあ、休暇も兼ねてるから、二週間ぐらいはこっちにいるけどな」
「Gでなにするんだ?」
「研究所が学術提携しているジオパークがある。そこの研究者と会合だったり、学会だったり」
 ふあ、とあくびが出た。止まらないあくびを青は笑った。
「休めよ。おまえの部屋のベッド、そのままだから」
「おまえは一緒じゃないのか」
「疲れてる相手に盛れない。ベッドはシングルだし。それにおれも仕事持ち帰ってるから」
「ご苦労なこった」
「お互いにな」
 青は食器を下げ、テーブルを片付けはじめる。だが夜鷹が自室に戻る直前、腕を引かれて肩を抱かれた。顔が近付く。夜鷹は口を開けた。キスを交わす。
「なあ、体内に入ったガラスってどうなるか知ってるか?」
「大きさは?」
「トゲみたいなもんだ」
「抜いた方がいい」
「妥当な答えだな」
 おやすみ、と言って部屋に入った。



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これを更新する頃には梅雨明けして暑い盛りだろうな、と思っていました。
全然ですね。



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
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