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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 帰したくないと自分は思っていて、相手も帰りたくないと言うのだから、帰すはずがなかった。慈朗はそのまま、二週間ほど理の家にとどまった。家には「友達のところにしばらくいる」と伝えたらしい。病気療養で実家に帰っている息子を心配はしただろう。けれど変に行動を制限するようなことを、慈朗の家庭はしなかった。
 慈朗は主に家の中にいて、それまでの不眠が嘘のように寝倒してばかりいた。たまに起きあがったときは、勝手口から庭に出た。食事の準備は出来なかったが、洗濯だけはまめにしてくれて、ありがたかった。肌寒い日は理の分厚いセーターをすっぽりとかぶって日なたに丸まっていたりして、かわいいもんだな、と思っていた。
 木枯らしが吹いて寒いさむいと帰宅した日、慈朗は起きて台所のテーブルに着いていた。電気ストーブをつけ、湯たんぽを抱いて、器用な手先で針金をいじっている。理がしばらく学校に飾っていまは持ち帰り、物干し場の先に吊るしていたモビールを直しているようだった。帰って来た理に「おかえり」と言い、まだ針金をいじる。
「懐かしいだろ、それ」と言ってやった。
「うん。……先生の家にまだ取ってあったって、びっくりしたけど嬉しかった。羽根のとこちょっと曲がってたから、直してる。あとちょっと、」
「風呂は?」
「沸いてる。おれ、先に入っちゃった」
「別に構わない。おれももらってくる」
 風呂に浸かり、冷えた身体を温める。ほっくりと温まって出て来たときには、慈朗のモビールは完成していた。慈朗の手の先でゆらゆらと揺れている。
「もうそういうの、作んないのか」と冷蔵庫を探りながら尋ねる。冷えるので、今夜は鍋物にしようと思って材料だけは用意してあった。
「……あんまり集中力も、なくて」
「まあ、無理やり作るもんでもないけどな。おまえの腕なら、いい小遣い稼ぎになりそうだなって思っただけ」
 慈朗を背に、自分は調理台に向かって食事の支度をはじめる。鶏が美味そうだったのでそれをメインに寄せ鍋にしようと思っていた。個人的な好みを言うならもつ鍋が食べたかったが、寄せ鍋なら魚でも豆腐でも野菜でもなんでも入れられる。慈朗は徐々に食欲が出つつあったがまだ小食で、だから痩せすぎの身体のことを考えると栄養バランスを重視したかった。
 鍋の支度が出来て、食卓にカセットコンロを据えて土鍋を置いた。食おうか、と器を渡すと、受け取りつつも慈朗は理の顔を正面からまっすぐに捉えた。
 ことんと音をさせて食器を置き、「先生」と、小さいがはっきりした発音で言った。
「おれ、もう帰らないといけない」
「……大学に戻る?」
「ん、それは、まだ……だけど今日、父さんから連絡があって。家にいられないのも分かるけど、あんまり友達の家に長くとどまるのもやめなさい、って言われた」
「まあ、心配は分かるが、……」
「おれも、そうだな、って思う。いまずっと先生の家にいて、ごはんも風呂も着替えも全部先生の厄介になってて、……家賃や生活費入れてるわけでもないのに、こんなに、なんにもしないのに」
「それはおれが気にする話だ。おれが気になってないんだから、問題ない」
「……うん、でもやっぱりさ、……家には、戻んなきゃな、って」
 慈朗の声は自信なさげに沈む。いったん鍋の火を止めて、理も慈朗の顔を正面から見た。
「おまえが元気になって、また大学に戻るって言うなら、送り出す。もしくはその準備期間に充てるから帰る、とかならな。けど、まだ充分じゃないだろ」
「……」
「それともおまえは家に帰りたいか」
「……」
「とりあえず食おう」
 手を伸ばすと、それでも慈朗は椀を寄越したので、食欲が戻りつつあることには感謝した。鶏やら野菜やら豆腐やらをよそってやる。自分の器にも盛って、ふたりで黙って食べた。
 食べ終え、食器を片付け、なんとなくふたりでテレビを観た。この家にテレビはあるがそれはもっぱらニュース番組での情報収集に限られており、朝すこしつけるが、熱心には活用されていない。けれどその日は娯楽らしく、映画を観た。金曜日で映画が放映されており、慈朗が観たいと言った。古い映画は、映画を撮った監督が亡くなった、その追悼の意が込められていた。
 観ている最中、ずっと手を握っていた。映画のエンドロールまで丁寧に見終えて、理は大きく伸びをする。「休もうか」と言うと、慈朗も頷いた。なんとなく離れがたく、なんとなく一緒に洗面台をつかって、狭い階段を上がる。
 この二週間弱、同じ布団をつかっていた。理ひとり分の布団では狭かったから、古い客用布団を並べて敷いたが、くっついて眠るのであまり意味はなかった。先に理が布団に潜りこみ、慈朗のスペースを作ってから、布団を持ちあげて招いてやる。慈朗は理の腕の中にすっぽりと収まる。理は慈朗の髪に鼻を埋めて眠る。そういう日々を幾日も繰り返す。
 だがその夜は、理の腕の中に収まるも、慈朗は顔を胸に押し付けず、理の顔を至近距離から見た。
 まっすぐで真っ黒で大きな瞳とぶつかる。
「おれ、帰りたくない」
 慈朗はそう言った。
「先生とここにいたい」
「……じゃあ、考えなきゃな」
 慈朗の髪をつまんで軽く引っ張る。
「おれも、いまのおまえを帰す気はないんだ。それが親御さんの強い希望でも、どうしてもな。だからそれが出来るだけみんなの意向に添うような方法を考えないと。おれとおまえのわがままだけじゃなくて」
「……先生ってやっぱり先生だね」
「ばあか。おれは後で揉めて面倒になるのが嫌なだけだ」
「とっつきにくいし、目つき悪いし、怖いけど、でも、……先生が先生なの、おれはすごく好き」
「……ふん」
「好きだな……」
 じわ、と温度が上がった気がした。慈朗の身体も、理の身体も。相変わらず至近距離に慈朗のまっすぐな目がある。見られていることに照れくささが沸き、慈朗のまなじりに唇を押し付け、反射的に瞑った目の、目蓋にも押し付けた。


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拍手[10回]

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 目覚めは、朝だった。だいぶ夜も浅い時間に寝入ったが一度も起きなかったのは、誰かの隣が温かく安心するものだったからだろうか。身体中が凝っていて、無理に動かすと痛めそうだったのでそっと手足の先から順に動かす。慈朗はまだ眠っていた。目が腫れている。
 目覚ましもかけずにいつも通りの時間に起きられたことに苦笑した。月曜日だから、今日からまた仕事が始まる。本当に月曜日かな、と一瞬本気で危惧して、スマートフォンを確認した。慈朗と眠りすぎて一日二日はすっ飛ばしてしまったように、時間の感覚がない。
 ちゃんと月曜日の朝だった。充電を忘れていたので出勤までの束の間でプラグを繋ぐ。身体を起こして離しても慈朗は目覚めなかった。髪にくしゃりと触れ、理は起きあがった。
 シャワーを浴び、髭を剃り、湯を沸かし、コーヒーを淹れる。ふたり分の朝食を作る。冷蔵庫を見て、そういえばケーキを食べ損ねたなと気付いた。生菓子で賞味期限は過ぎている。起きるかなと思い、再び二階へ上がった、
 声をかけると雨森はようやく身じろぎ、だるそうに身体を起こした。必死に目をこすっている。「開かない」と言った。声が掠れている。「先生、目が開かない」
「あれだけ泣けば腫れるのも当然だよ。顔洗って、ちょっと冷やしとけ」タオルを投げる。
「……なんか久しぶりに、寝たって感じします」
「うん、よく寝てた」
「……」
「これから朝飯だ。ケーキもある」
 そう声をかけると、慈朗は「起きます」と言って布団から抜けた。理の後ろをぼんやりとついて来る。洗面台で顔を洗い、濡らして絞ったタオルを目元に当てながら、台所へやって来た。
「めし、どうする? 食えるか?」
「……すこし。ケーキ、は、食べます」
「うん」
 慈朗を席に着かせ、予備の食器に簡単な食事を少なめに用意した。ケーキも皿に盛って出してやる。理は出勤まで間もなく、いつも通りに食べたが、向かいの慈朗はやはり食が進まぬようで、ひと口食べては箸を置き、目元にタオルを当て、またしばらくして口にものを運ぶ、という感じだった。茶を飲み、ケーキのクリームをすくい、舐めて、また目を閉じる、の繰り返し。それでも全く食べないでいられるよりはいいか、と思った。
 先に食事を終え、理は出勤の支度をする。
 明らかに慈朗の機嫌が悪くなった。食事の途中で不安そうに膝を抱き、支度で慌ただしく部屋をめぐる理を恨みがましく見ている。それから膝に顔を埋めた。帰りたくない意思表示は充分伝わる。
 帰す気はなかった。
 これで出かける、という段になって、理は改めて慈朗の傍に立った。
 慈朗は膝から顔を上げ、理を見て、また顔を元に戻した。「いやです」と言う。「……帰りたくない」
 理はふと食べ差しの慈朗の食事に目を向けた。無様につつかれたショートケーキが食卓に載っている。それを指でつまんで、口に運んだ。それから慈朗の後ろ髪を掴み、無理に顔を上げさせる。
 慈朗の目が開かれる。顔の距離を一気に近づけ、唇を押し付ける。無理やり口をこじ開け、舌で甘いスポンジとクリームを慈朗の中に押し込んだ。
 ん、と慈朗から吐息混じりの声が漏れる。
 舌で押し込むだけ押し込み、名残を惜しみながら下唇を軽く食み、唇を離した。
「月曜日だから、七時くらいには帰れると思う。台所や風呂場は好きに使っていい。夕飯はまた一緒に食おう」
「……」
「家にはちゃんと連絡入れとけよ。出掛けるなら鍵かけてって。そこにあるから」
 行ってくる、と言って玄関へと向かう。こんなことを言うのも久しぶりだ。玄関で靴を履いていると慈朗が台所から小走りにやって来た。
「――……行ってらっしゃい」
 それにはひらりと手を振って応えた。


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拍手[6回]

「……」
「寮はやっぱり、学校に通う人のためにあるところだから、休学したらいられないよっていう規則があるので、いったん退寮して。実家にいるとやることないけど、だからって寝っ転がってる気にはなれない。それで変に焦ったりして、やっぱりしんどくて、……今日は先生の誕生日だから、会いに来たんですけど、なんかこう、もっと、……もっと明るいってか、こんな話をするつもりでも、なくて、」
 慈朗はますます体を固く縮こませる。テーブルに顔が引っ付きそうだった。
「元気ですよって、先生に言うつもりだったのに。大学超楽しいです、って」
「ばか」
「……」
「なんでもっと早くここに来なかったんだよ、おまえ」
「……」
「なんで黙ってようと思ったんだよ、そんなこと、――おれに、」
 理は立ちあがった。怒りや、むなしさや、淋しさ、いろんなものが押し寄せてくる。知らずのうちに慈朗が苦しんでいることがなにより痛かった。慈朗には元気にいてほしかったのだ。理のことなど構えなくて忘れるぐらいに。
 慈朗は突っ伏したまま、細かく震えていた。背に手を当てると震えが酷くなる。シャツの上からでも分かる痩せた身体が、とてつもなくやるせなかった。
「寒いのか」
「……寒い、」
「うん」
 慈朗をテーブルから引きはがし、上体を起こさせる。瞳には涙が滲んでいた。そういえば今日はあまり笑い顔を見ていない。昔はあんなにころころとよく笑っていたくせに。
「ほら」と、腕を伸ばした。
「……」
「来い、雨森」
 そう言うと、慈朗は戸惑いつつ、理の腕の中に身体を寄せた。腕をまわさせて、思いきり抱きしめる。渾身の力加減に負けた体は、理の腕の中でしなった。それから負けじと理の背にまわした手に力を籠め、胸に顔を押し付け「うう」と唸った。
 一度弾ければあっという間で、慈朗はわあわあと泣いた。
 理の腕の中で、理に縋りつき、胸に鼻を押し付けて、ずっと泣いている。手の力は緩められることがなく、どんなに悔しく、どんなに無念で、どんなに苦しいかを物語っていた。理はただ黙ってその身体をしっかりと抱き留める。子どもに言い聞かせてあやすような余計な言葉は一切口にしなかった。出来なかった。そんな言葉で元気になるぐらいなら、学校を休学するなんて事態には陥らないことは分かる。
 いままでこらえていたのだろう、凄まじく激しい泣き方だった。何十分でも泣いて、泣き止まなかった。全身の力を振り絞って泣いている慈朗が哀れでならない。どんなに腕や腰が痺れて痛んでも、理は慈朗を抱きしめ続ける。
 どのくらい泣いていたか、いつの間にか日が暮れていた。この時期は陽が落ちるのが早い。薄暗くなった部屋の中で、慈朗はひっくひっくとしゃくり上げていた。もう目も開けられない。身体は熱く、泣き疲れて眠りが隣にいるらしかった。
(子どもみたい)
 だがそれは、嫌悪すべき感想ではなかった。うとうとと眠りにかかる慈朗を抱え直し、抱きあげると簡単に持ちあがった。軽くなってしまった身体がせつない。抱えたまま二階へ上がり、自室へ入る。慈朗を壁際におろそうとすると、力の抜けた手がそれでも理を掴みなおした。
「大丈夫だから。布団を敷くだけだ」
「……」
「ちょっとだけ我慢してろ。ちょっとだけだ」
 言い含めて、慈朗から身体を離す。慈朗はもはや自分の身体に力を入れることが出来ないようで、壁に背をつけるとずるずるとその場に崩れた。泣いて腫れぼったくなった目蓋は真っ赤だ。理は押入れから自分の布団を引っ張り出し、丁寧にシーツを張る。
 再び慈朗を抱きあげ、布団へと運ぶ。寒そうに身体を固くするので一緒に布団に入った。抱え込んでやると、慈朗はそっと目を開けた。「寝ろ」と言って目蓋に腕を押し付けた。慈朗の熱い身体が徐々に眠りに引き込まれる。理も慈朗の髪に顔を押し付けて、目を閉じた。
(……誰かと眠るなんて、もうずっと、してない)
 久しぶり、なんて表現では足りないぐらいだと思った。ずっとこの家で、ずっとこのままひとりで暮らしていく。そうやって生涯を終えるのだと思っていた。まさか教え子をこうやって自室に招く日が来るとは思わなかった。そしてそれがたとえ今日一日限りのことだったとして、自分はこの記憶やこの熱さを思い出してこれから先を過ごせる、と思った。
 違う、と熱くなりはじめた身体の奥底で、誰かが異を唱えた。
(……そうだな、違うな)
 理はそれを認めた。そんな綺麗な感情ではなかった。慈朗が泣き縋って来たから、もうこの男を離せない。なにがどうなろうと守ってやりたいし、世間が慈朗を蝕むのなら、閉じ込めてしまい込んでおきたい。慈朗が嫌だと言っても我を通す気がした。それだけ慈朗のことをいとおしく思ってしまっている。
(家に、帰したくないな)
 次第に思考が沈んでいく。
(どこにもやらない)
 眠りに落ちる間際、そう思った。


(3)

(5)



拍手[8回]


 慈朗がいつごろより理を想うようになったかは、知らない。理の方もいつから慈朗がかわいくなったのかは、分からない。
 慈朗が「月が綺麗です」と空を指して言ったときは、驚いた。夏目漱石のそのエピソードを教えてくれたのは大学のころの先輩だった。と言っても五浪している理よりは年下だった。彼女は文学と美術を愛していて、こういう告白があるのよ、と言い、そのまま理に「付き合ってみない?」と持ち掛けた人だった。
 女に興味はなかったが、慕う先輩ではあり、悪い気はしなかった。彼女とは彼女が卒業するまでの半年ほど、交際をした。抱くことは出来なかった。それでも胸にやわらかな疼痛は存在して、それは一時、赤城を忘れるほどの温かい感情だった。慈朗に月云々と言われたときはそれを思い出した。赤城のことで心中が暗く重たくなるなら、慈朗からの感情は淡い光のようだった。救済に似ていた。
 学校を卒業してS美へと進学した慈朗とは、連絡を取らなかった。理はたまに慈朗を思い出したが、向こうは新しい環境で理のことなど忘れているかもしれない。それならそれでよかった。理はひとりでいることを望んだ。赤城に対する気持ちのように、凝り固まって真っ黒になるのだけはごめんだった。
 それでも時折、慈朗からもたらされた温みが恋しくなるときがあった。衝動で電話したい夜が何度かあり、こらえるときは、必死だった。慈朗が高校を卒業して二年目、八月、慈朗の誕生日。相当迷って慈朗にメッセージを送った。ちょうど夏風邪を引いていて、心が淋しかったのかもしれない。誕生日おめでとう、学校はどうだ? と送ったが、返信はいつまでたってもなかった。落胆と同時に安心する。理のことなどどうでもよくなったのなら、それはそれで楽だと思った。ひとりは孤独だが、ひとりは気楽だ。
 それが十一月、冷たい風が吹きはじめたころに唐突に街で慈朗に出くわした。日曜日、USBメモリが欲しくて街中の電器屋に買い物に出かけたときだった。慈朗はケーキ屋の窓に張り付いて熱心に中を窺っていた。理に気付いてこちらを向いた慈朗は、雑誌から抜け出たかと思うぐらいに見目良く、人の目を惹く。長い手足にロング丈の上着が似合っていて、高校時代の制服姿しか知らなかった理にとって、衝撃そのものだった。
「先生」と慈朗は言葉を発した。
「ちょうどよかった。これから先生のところ行こうと思ってたんです。――先生、なんのケーキが好きですか?」
「おまえ、なんでこんなところにいる?」
「先生のところに行くからに決まってる。……選んでください、ケーキ」
 やたらとケーキを勧めてくる。理はあまり甘いものを好まなかったが、熱心な要求に負けていちばん売れ行きのよさそうだったショートケーキを選んだ。慈朗は満足そうに微笑み、ショートケーキをふたつ買った。手土産のつもりだろうと思っていたが、慈朗は「誕生日ですから」と答えた。
「誕生日? あ、……おれか、」
「まさか忘れてました?」
「もうこの歳になるとどうでもよくなるよ」
「先生、いくつになったんですか」
「三十四、……確か、」
「ふふ、」
 家に行きたい、と慈朗が言うので、根負けして車に乗せた。
 もうだいぶ秋も深い時期だ。家ではちいさな電気ストーブをつけた。慈朗が理の家に来るのは二度目だった。「変わってないですね」と家の内観を評価する。
 台所のテーブルに向かい合わせで着いて、目の前に現れた青年の姿を見ながら考えた。上着を脱いではっきりしたが、慈朗は痩せたようだった。だから余計に細長く見えるのかもしれない。男子として平均的な身体つきだと思っていたが、垢ぬけた格好もあって、理にとって魅力的だった。
「元気にしてたか」と訊ねる。
「……まあ、」
「前にメッセージを送ったときに返事がなかったから、充実してるんだろうな、と思っていた。大学、楽しいか?」
「……」
 慈朗の返答はぎこちなく、あまりいい感触ではなかった。ひょっとして今日ここへ来たのは、ご丁寧に交際お断りの話をするためか、と思った。そうならそれで黙ったままフェードアウトしてけばいいのに、とまで考えていると、慈朗はふ、と息をついた。
 やけに冷たい呼吸だなと、届きもしないのに温度を感じた。
「大学、楽しいんだと思ってました」と慈朗は喋る。
「いや、講義は楽しいですよ。でも課題が多くて、こなすだけでおれは精一杯で。なのにみんな元気なんで不思議です。青沼とか、講義受けて課題こなして自主制作もしてバイト行ったり、友達やゼミの人とかと飲みに行ったり、赤城先生のこと探しまわったり、なんか、……エネルギーがすごくて」
「ああ」自分も学生のころを思い出せばそうだった。
「おれはなんか、その、……そういうのに、全然ついていけなくて。なんでだろう? って考えれば考えるほど泥沼にはまり込んじゃうみたいな、……寮は個室ですけど、でもなんかいつも誰かが寮内のどこかで騒いでるからあんまりひとりの時間もなくて、やることはいっぱいあるし、……そしたら食べる気がしなくなったり、眠れなくなったり、急にしんどくなったりして、……先生がせっかくメッセージくれたのに、おれ、ちゃんと成人したのに、あのときはいっぱいいっぱいで」
 喋るほどに慈朗の頭が下がっていく。
「あのときってか、いまもですけど、……なんか、痩せちゃって、ますます体力落ちてしんどくなって、――だからおれ、親とか教授とかと話しあって、後期から学校休学して、いま実家に戻ってるんです」



(2)

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拍手[7回]

 ☂


 早く大人になれとは言った。だがそれを待つ気はあまりなかった。子どものうちに手を出しておきたい、という意味ではない。心変わりは若いうちならなおさらするだろうと思った。つまり、雨森慈朗の想いは一時的なもので、それを信じたりはしなかった、という意味だ。
 そもそも、自分ほど恋愛に向かず、ひとりを好む人間もいないだろう、というのが理の経験から来る実感だった。恋愛をしたとしても、理のそれまでの恋愛対象は同世代か少し上、大人っぽい方が断然好みだった。教員の道を選んだのは自分に絵の才能がないと分かったからだったが、自分には案外向いてる道かもしれない、と思ったのも確かだった。職場で接する人間らは、恋愛対象からは確実に外れるからだ。生徒には手を出さない。興味もない。仕事をする上で重要なことだと思っていた。私情を挟まない、ということだ。
 したがって慈朗のことも、はじめから気になっていたわけではなかったし、むしろ鬱陶しいとまで思っていた。
 理には、高校時代からずっと想いを寄せているやつがいた。すごい絵を描き、周囲をあっと言う間に感動の渦に巻き込む、芸術の神様に愛された天才。尊敬もしていたし、同時に、どうしようもなく惹かれていた。
 赤城詠智(あかぎえいち)は、高校進学で同じクラスになったことがきっかけで知り合った。美術部の体験入部に行ったら赤城もいて、「絵、好きなん?」と親しく話しかけられた最初のことをいまでも覚えている。
 理の家は代々続く植物の育苗家の家系だった。祖父は庭師で、父は庭木を中心に様々な樹木の育苗を生業としていた。生家は狭いながら店舗も兼ねており、種や鉢植えを買い求めに来る客もいて、それの管理や接客は母の仕事だった。姉はこの家の生業を幼いころより受け入れており、植物のことならなんでも知りたがり、後に大学の農学部で樹木について学び、カナダへ留学して現在の夫と知り合い、向こうに移住した。カナダの自然は魅力的で絶対にいまより楽しい暮らしが出来るよと両親を呼び寄せ、家督は理へと譲られた。家族はなんとなく気づいていたのだろうと思う。「息子は植物よりも芸術に興味があり、性的弱者でもある。好きなように人生を歩ませてあげたい」。そういう思考は思春期に差し掛かるころにはなんとなく透けて見えていた。
 とはいえ理の興味の先もやはり植物に向いた。緑の指は持っていなくても、描く絵は繁茂する植物ばかりだった。そんな理が出会った赤城詠智という男は、抽象画の描ける男だった。リアリティを追究して具体的なものを描く理と違い、色彩やタッチ、マチエールの美しさで目を惹く絵の描ける男。違いに驚き、惹かれない方が無理だった。
 赤城がS美を目指すと聞いたから、理も目指すようになった。高校三年生に上がるときに、受験対策として美大予備校に揃って入校し、高校と予備校の中間地点に安いアパートを借りてふたりで生活をはじめた。切磋琢磨する日々は充実していたし、なによりも憧れている、好いている男と共に暮らせる喜びは大きかった。はじめのうちは本当に楽しい、その一言に尽きる日々だった。
 予備校に通うようになって、理は自分の力不足を痛感するようになった。厳しい塾講師の指導、なにをどう描いても評価はされなかった。赤城は同じ洋画の夜間クラスに通ったが、赤城のデッサン力はすさまじく、こちらは参考作品に何度も選ばれるほどである。次第に違いが明確になり、理は苦しんだ。描いても描いても上達しない。赤城は先へどんどん進んでいく。絵を諦めようかと何度も思った。けれど赤城の存在が、無邪気で一心不乱な絵が、理の心に何度も感動を呼び起こす。この人と同じ場所に立ちたいと強く願った。それはもう執着に近かった。
 赤城は現役合格を果たし、あっさりとふたりの生活は終わった。だが赤城が「S美の近くにも予備校はあるんだから、そっちに通った方がよくない?」と言うので、浪人生活はS美の傍で送った。念願の入学まで五年かかった。それは赤城の活躍を知っていたからこその意地だった。
 バイトをして予備校へ通うの繰り返しの日々がようやく終わったころ、赤城は学校を卒業していた。ようやくやって来た大学生活は、しかしあまりいいものではなかった。描く絵描く絵でやはり酷評される。同時期、赤城が「絵を辞める」と知った。酷い仕打ちだと思った。あんなに憧れていたやつが、どうしてこうもあっさりと絵を辞めるなんて言えるのか。おれの立場はどうなる? と自問する。
 赤城が絵を辞めると聞いて、教職の講義を取るようになった。どうせ芸術家として大成しないのは目に見えている。目標にしていた人間まで絵を辞めるくらいだ。だったらせめて絵の傍にいようと思って選んだ、理なりの妥協だった。
 教員採用試験は地元で受けた。ここは運があったようで、高校の美術科という狭き門でもあっさり採用に至り、大学卒業後は美術教師として学校に勤めるようになった。二年ぐらい勤めて慣れてきたころ、赤城と再会した。いつ間にか赤城も国語科の教員免許を取得しており、同じ高校に国語教師として赴任してきたのだ。
 絵を辞めても、赤城は変わらなかった。久しぶりの再会を理は歓迎しなかったが、赤城は嬉しそうだったし、家にふらりとやって来るようになった。大抵、赤城は甘いものを持参した。赤城はたいそうな甘党で、それは昔から変わりなかった。理の家で持参した菓子だけ食って帰る。そういう日々がまたやって来た。高校時代より抱いていた熱がよみがえって来る。だが赤城の目は外へ向いた。よりにもよって教え子だった。
 おれは一体、こいつに何度期待して、何度失望するのだろう、と思った。
 赤城が傍にいる限りは、もうこいつに執着するのだろうな、と分かった。好きとか嫌いとかそういうものを通り越して、赤城に対する思いは執念だった。来年あたり異動願いを出そうかと思っていたころ、赤城と生徒との関係が明るみに出た。そしてまたあっさりと、赤城は理の前から消えた。
 いつだって思いもよらぬ方向へ行く。そういうところも許せてしまうのだから大概いかれている。でも、いなくなったことで理は正直、軽くなった。もうこれで日々の生活を、理の心を乱すようなやつはいない。うつろで、さっぱりして、これより先、もう誰かを好いたり好かれたり、という生活はない、と思った。


(1)


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
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