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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 空港の到着ロビーは混んでいた。めいめいに到着を待つ人がゲートの先を見つめている。「お帰りなさい日本へ」と日本語で書かれた札を持つ人がいれば、「Mr. Smith」と英語の札を掲げる人もいる。国際空港の到着ロビーなので、待機する人間の人種もばらばらだった。
 柾木理(まさきあや)の隣にはやたらと背の高い黒人の女性が立っていた。ひょろりと長い背は女性のはずなのに理と同じぐらいある。年齢は分からないが軽快な服装からして若そうに思えた。理がいま待っている人間と同い年か、もしかすると年下かもしれない。
 最初のひとりが出てくると、到着ゲートを次々とくぐる人間が現れはじめた。家族と再会したり、旅行で来たりと、これも多様な目的の人間が行き交う。理は視線をむやみに巡らせることはせず、ただゲートを見ていた。そのうちそこにひとりの青年が現れる。ほわほわと揺れる赤茶の猫毛は相変わらずで、誰よりもしなやかに、誰よりも軽やかに歩くその様は贔屓目に見ても目を惹くと思う。若いから、と言ってもこの夏で二十五歳になる。出会いのころよりは確実に年齢を重ね、その分様々なものを背負ったはずなのに、いつだって彼は軽そうに見える。見た目も、社会的なしがらみからも、解き放たれてフリーに感じる。
 彼がゲートをくぐった途端、何人かの視線はそちらへ向いたまましばらく離されなかったことに彼は気づいていないだろう。昔からそうだった。他人からの評価なくしては成り立たない商売についていながら、他人の目をこれほどまでに惹きながら、無自覚。こういう人間はどんな大人になるんだろうな、とはじめは思っていた。いまでも思う。どんなふうに年を重ねるものなのか。重ねたら少しは地に足がつくかと思ったが、そうでもなかった。いまのところは。
 青年が理に気付く。彼は高く手を挙げた。理も軽く手を挙げ、ゲートの方へ近づく。引っ張っているスーツケースのほとんどは機材だ。自身の荷物は機内持ち込みが出来るほどコンパクトだったろう。彼はいつだってそうやって旅に出る。
「理」と青年が呼んだ。ゲートの外側でふたりは落ちあう。
「遅かったな」
「着陸、一回やり直したんだよ。危うく別の空港に着陸になりかかってたんだけど、無事に降りれてよかった。日本は天気悪いな」
「梅雨だし、台風来てるって話だ。飛行機もそんな地域によく飛んだなと思った」
「そんなんなのに迎えに来てくれてありがとう」
 素直に言う言葉に、「ああ」とか適当に言い返してしまう。正面切って「どういたしまして」なんて言えるはずなかった。照れ臭いし、ガラじゃない。
「駐車場こっち」と言って、青年の手から荷物を攫って歩き出す。「あ、ちょっと待って」と言われて振り向いた。なにかあるのかと思ったから振り向いたのだが、その瞬間を写真に撮られた。
「――くそ、」
「行こっか。駐車場、どっちだって?」
 いつの間にか手にしていたカメラをあちこちに向けるから、ちゃんと見て歩いているのか分からなくてちょっと怖い。腕を取って「こっち」と改めて指示すると、青年――雨森慈朗(あまみやしろう)は嬉しそうに笑った。
「しばらくこっちいられるんだろ」と乗り込んだ車内、パーキングを徐行しながら尋ねる。
「んー、いる」
「なら買い出しもしてこう。食材がない」
「あれ食べたいな、西京漬け。つか、魚食いたい。サカナサカナ」
「ハワイだって島なんだからシーフードぐらい食べただろ」
「いやー、すげえ肉率だった。ゆってもUSAなんだよ、ハワイって。シーフードもあったけど、大体油で調理してあるから疲れた、なんか」
「そうか」
「あ、でも果物美味かったな。なんか、なんだっけ? なんかのミックスジュースだかスムージーだか飲んだけど、濃厚でさ」
「そうか」
「ケーキはめちゃくちゃ甘かった。けどあれは、赤城先生が甘党なせいだと思う」
「そうかもな」
 車はパーキングの中でも高層に停めていたので、抜けるのに時間がかかった。その間、慈朗はよく喋った。
「――いいお式だったよ。通りがかりの人もいつの間にか混ざってて、花とか飾って」
「写真、撮れたか」
「うん。あとで見せる。そうだな、幸せそうでよかった。青沼と、赤城先生」
「――そうか」
 ようやく立体駐車場を抜けると、外はとうとう雨が降り出していた。



拍手[7回]

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 結局、だらだらと店で過ごし、帰るころには夕方だった。陽はだいぶ暮れていて、雲の隙間から白く発光する月が見えた。そろそろ帰ろうか、と言って店を後にする。青沼は予備校の方にも顔を出すつもりだと言うので、駅前で別れた。試験結果が出たら必ず報告する、と約束をもらった。
 おれも帰ろうかな、とぼんやり思う。本当は柾木に会いたかった。会ってどうするかはともかく、柾木とこのまま卒業でさようなら、は嫌だったのだ。だが日を改めた方がいいと言われた。そうまでして会いに行っていいのかは、よく分からない。
 スマートフォンが着信を告げた。先に帰った母親からだった。出ると「あんたいつまでほっつき歩いてんの」と呆れられた。「今夜はあんたの卒業と進学祝いも兼ねて夕飯は外に食べに行くって話してたでしょう?」
「あー、ごめん。もう駅までは来てるから、これで……戻る、」
『駅にいるの? だったらそこにいなさい。これからみんなで車乗って出かけるようにするから、駅前で拾うようにするわ』
「でもおれ制服だよ?」
『そんな気にするような店には行かないわよ』
 それで、駅前にしばらく待機となった。陽が落ちるとしっかりと寒く、どこかの店にでも入っていようかなと辺りを見渡す。喫茶店は先ほどまでいたので、本屋か、とそちらへ足を向ける。
 以前、赤城や柾木や青沼と来たことのある本屋だ。交差点で信号が青に変わるのを待つ。時刻を確認し、マフラーを巻きなおし、顔を交差点の向かい側に向ける。幾人かがこちらへ渡るべく信号待ちをしていた。その人の中に見たことのある眼鏡姿を見つけて心臓が鋭く痛んだ。向こうもこちらへ気付いたらしい。信号が青に変わった。
 歩き出す。柾木は歩き出さず、慈朗を待っててくれた。交差点を渡り切って柾木と合流する。「こんなところでなにやってんですか、先生」と訊く。会えたことが嬉しくてどことなく声が弾んでいた。
「見回り」
「え、また変質者が出たとか?」
「卒業式だろ。おまえみたいに街中うろちょろしてばかやってるやつがいないか、見てまわってんだよ」
「おれ、ばかはやってないですよ」
「さっき青沼を見た。一緒にいたか」
「うん。おれはもうじき家族が迎えに来るので、本屋で待ってようと思って」
「そうか。なら、いい」
 いつもだったらここで「先生さようなら」だ。だがなんとなくとどまる。柾木も立ち去ろうとはしなかった。ふたりで言葉を探っているようにも思えた。
「……いつ引っ越すんだ」
 ようやく沈黙が解かれた。柾木からの質問だった。
「……寮に入るんですけど、卒業する学生を退寮させてからじゃないと入寮できないって言われたんで、それを待ってから入寮します。だから、わりとぎりぎりまでこっちに」
「まだ寮なんてあるんだな、S美」
「先生も寮にいたんですか?」
「いや、下宿してた。寮、ぼろぼろだったし。赤城は寮にいたらしいが」
「いまは建て替えて新しくてきれいになったって聞きました。個室もらえるし」
「ならいいけど、寮は人間関係にしぶといやつでないと結構辛いって聞くよ。おまえそういうところ神経質そうだからな。大丈夫か?」
「まあ、様子見で」
「そうだな」
 ふあ、と柾木はあくびをした。白い吐息が天へとのぼっていく。中綿のジャンバーの下は卒業式らしくスーツ姿だった。前髪も、普段と違ってあげている。
「写真、撮っていいですか」と訊くと、「嫌だ」と言われてしまった。
「おれはあんまり写真って好きじゃねえんだ」
「これから写真コースへ入学する生徒によくそんなこと言えますね」
「そういうやつも世の中にはいるってこと。正直な意見だろ」
「どうして嫌なんですか?」
「どういう顔していいのか分かんないから。人に顔向けてりゃ自然に表情もつくけど、レンズにはぎこちなくしか顔を向けられない」
 もっともな意見だな、と思った。
「じゃあおれと写真撮りましょうよ。ふたりで一緒に」
「もっと嫌だ」
「さっき青沼とは撮りましたよ」
「ならよかっただろ。それぐらいにしとけ」
 ちえ、と言いながら、うつむく。履いているスニーカーの先が、柾木の履いている革靴の先に近い。こうやって柾木の傍にいて話せるのも今後はほとんどなくなるのかな、とため息をついた。なにか言った方がいいのに、言わなきゃおしまいなのに、なにも言葉が出てこない。
 どうしよう、と思いながら今度は空を仰ぐ。外灯の明かりに紛れて、月がぼんやりと霞んでいた。「あ」と思いつく。「先生」
「なんだ」
「月」
「ん?」
「月が綺麗です」
 天を指さすと、そちらを柾木も見た。それから「おぼろ月か」と呟いた。
「そうですけど、……そうじゃなくて、」
「ああ」
「その、だから」
 うまく言えないものだな、とじれったく感じる。やはりうつむいてしまう。柾木もなにも言わない。
「おれは、」
「雨森」
 台詞が重なった。思わず顔を上げる。柾木の目はいつもの険しさよりは少し、緩んでいた。やさしい顔だ、と感じる。感じたら、心臓が痛いほど鳴った。柾木の表情、整えられた髪、外灯を反射する眼鏡の弦、首元、すこし緩んだネクタイ、分厚いジャンバー、大人の男の手足、袖口から見える、絵の具で汚れる白い手。
「おれもそう思うよ」
「――」
「いい月夜だ」
 それからすぐ面倒くさそうな顔に戻し、「こういうのはガラじゃない」と言った。
 柾木らしいな、と思う。甘い顔なんか全然見せてくれない。
「引っ越す前に先生の家に遊びに行っていいですか?」
「今月三十一日まではおまえはまだおれの生徒だから、断る」
「じゃあ、それ以降は?」
「そうだな」柾木は再び空を見あげた。
「早く大人になってくれ」
「――」
「おれは子どもは嫌いなんだ。がっちがちに守られてるやつに手ぇ出すやつの気が知れない」
「赤城先生のことですか?」
「どうだろうな」
「元気かな、赤城先生」
「知るか」
「大人になります」
「……」
「速攻で大人になります。待ってて、先生」
「……ふん」
 そっけない台詞だったが、充分だった。柾木とまた会っていいのだと思ったら、嬉しい。
 それ以上に言葉を交わさなかったが、なんとなくその場にふたりでいた。



End.



(25)



明日は更新をお休みします。
明後日からその後のことを少し。よければお付き合いください。




拍手[13回]

C.



 最後のホームルームが終わり、クラスメイトや担任らとは写真を撮った。せっかく映像科への入学が決まったんだからとやたらと「撮って」と頼まれることがなんだか嬉しかった。スマートフォンやコンパクトデジタルカメラを預かって、慎重に、かつスピード感を重視して撮る。人をよいと思う瞬間は一瞬で、それを逃すことだけはしたくない。
 おまえも入れよ、と言われ、何度かは自身も輪に混ざって撮ってもらったりした。やっぱり写真はいいなと思う。誰かと誰かの距離を近づけたり、結び付けたりする。カメラというツールが身近になったいまだからこそ実感は濃い。
 次第に人もまばらになり、それぞれが家に帰ったり、あるいは別れを惜しむ会などに参加しに行ったりする。半数ほどの人がいなくなったころに、慈朗も教室から立ち去った。卒業式に出席してくれた親には自分で帰るから先に帰って、と伝える。卒業式の、妙に胸がすっきりとする、なにかが抜け落ちたような、埋まったような、ひとつの区切りを、自分のカメラに収めたいと思った。
 三月のはじめで、まだ寒い。マフラーに顔を埋めながら校舎のあちこちを歩いた。立ち止まってはカメラを構え、シャッターを押して、また歩く。これからこの先もう、この校舎にこんなに熱心に通う日々はない。教職にでも就けばありうるだろうが、慈朗にそのビジョンはいまのところさっぱりなかった。だからこれで最後だ。本当に、最後。
 進路指導室には誰もいなかった。教員もみな出払っている。渡り廊下を歩いて、別棟の上階に位置する美術室へと歩いて行った。わずかに緊張した。いるかもしれない、という期待が、いないかもしれない、という失望を振り切っている。
 階段をのぼったらすこし息が切れた。同時に、「失礼しました」という声が聞こえた。美術準備室から頭を下げて出てきたのは青沼だった。慈朗を見て、「よう」と手に持っていた卒業証書の筒を振る。
「柾木先生ならいないぜ。おれも先生に用があって来たんだけど、いないよって言われちゃった」
「そうなんだ」シンプルにがっかりした。
「なに、雨森は挨拶にでも来たん?」
「まあ、そうだね。先生写真撮ろーって」
 あ、と思いついて青沼に「おまえも被写体になれよ」と言った。
「えー、今度はなんのスキャンダルをスクープするつもりですかー」
「人をパパラッチみたいに言うなよ。なんかさ、卒業式の雰囲気をうまく写真に収められないかなって思ってさ。会う人会う人、カメラに収めてんの。そこ立って、ほら」
「いーけど、一緒には撮らんの?」
「……じゃあ、一枚」
 青沼を美術準備室の扉の前に立たせて、箱椅子をふたつ重ねて簡易の三脚を作った。その上でカメラを構え、画角とカメラのもろもろの数値をあらかじめ設定して、その設定のままに今度はタイマー機能をセットする。「行くぞ、十秒、九、」カメラがピ、ピ、と音を立てる。「六、五、四、」青沼の元へ走って行く。青沼はごく自然に慈朗の腕を取った。天井へ腕を高く上げる。「二、一、」
 ピー、と音がして、次の瞬間、シャッターの降りる音がした。「なんでこんなポーズ?」とまだ離されない手首を見ながら問う。青沼は「ヴィクトリー感を出そうと思って」と言った。
「学校、まだ決まってないくせにな」カメラの元へ戻って画面を確認した。
「明日、明日には結果が分かる。言っとくけどおれは闘志に燃えてるからな。絶対に受かってる。受かっておまえと一緒に入学式だ」
「受かってなかったらおれの後輩だな」
「ちきしょー、あっさりとAOで結果出したやつはヨユーだよな。車の免許まで取りやがって」
「あっさり受かったわけじゃないけどな」
 騒いでいると、美術準備室から非常勤の美術教師が出て来た。「まだ騒いでるの?」と準備室の鍵を閉めながら言う。
「ここはもう閉めてしまうよ」
「あ、柾木先生は戻らないんですか?」
「柾木先生に用事があるなら日を改めた方がいいんじゃない? 今日はもう学校には戻らないと仰って出て行ったよ」
 その台詞には、心底落ち込んだ。
 仕方がないので青沼と共に歩いて階段を下りた。なんとなく駅の方向へ向かう。さすがに今日ばかりは自転車ではなく、バスと電車をつかって学校へ来ていた。青沼が「腹減ったな」と呟く。
「――青沼さあ、赤城先生と連絡、ついた?」
 尋ねると、青沼は息を吐きながら首を横に振った。
「どこ行ってるんだろうな。日本にいなかったりして」
「……まだ赤城先生のこと、好きか?」
「……」
「だってさ、ひどいじゃん。ネットに写真上げられたってのは被害者だけど、でも、それにしたって青沼にろくに話もせずに勝手にいなくなったんだよ。このご時世なんの連絡も寄越さないでさ。もう青沼は、赤城先生以外の人を好きになったって、赤城先生は文句も言えないと思う」
「……それはそうだな」
「せめて連絡だけでも取れたら違うんだろうけど、……こう、励ましあったり、話しあったりしながら、時が来るのを待つっていうのかさ、」
「……時って、いつだろう」
「そりゃ、もうちょっと大人になったとき、とか」
「おれは、いま会いたいよ。いま赤城先生に会いたい。会って、――話したり触ったりしたい」
 その言葉の響きの切なさに、心臓が抉られた。
「おれは、いま、だと思ってる。先生はぼくらが出あうのが早すぎたって言ってたけど、あのときあのタイミングでしか出会えなかったんだから、あれが適正だったんだ。歳は取りたくない。いま会いたい。いまじゃなきゃだめだ。いま、――この星のどっかにいる先生と、話がしたい」
「……」
「時が来るのを待つとか、待てとか、くそくらえだ」
 そう言って、青沼はわずかに先を行く。後ろ姿を見て、猛烈な虚しさを感じた。慈朗はこの男をどこかでまだ好いている。男は慈朗を見てはいないが、この先ずっと、慈朗はこうなのだと思う。青沼に対しては、無条件でこうなってしまう。親しい距離でいたいから諦めた恋だ。
 赤城は「こらえる」と言った。ずっと同じ気持ちを同じ熱量で持ち続けたら「時」は来るのかもしれない。けれどそれを待つことは、気が遠くなる。とりわけ、若い慈朗たちからすれば。
 いまどんな気持ちで赤城が過ごしているかを考える。青沼は何千何万回と考えただろう。それを力にして、彼はずっと受験対策をして過ごし、受験を迎え、いまは結果待ちだ。なんとしてもS美には進学したいだろう。赤城が通った大学だから。
「決めたんだ、おれ。先生を探しながら、でも全力でおれの生活を過ごす。二兎同時に追っかけるんだ。それでどっちも仕留める」
 と、青沼は言い切った。
「それで赤城先生と会えたら、そのときにはおまえを呼ぶからさ。おれと先生の写真を撮ってよ」
「……約束する」辛いけれど、最高の約束だと思った。
「なんか食って帰ろうぜ」
 あーあ、と青沼は伸びをした。駅前まで来ればファーストフード店がいくつかある。普段行くハンバーガーショップよりもちょっと値の張る喫茶店に入った。大人びたい気持ちがある。
 早く大人になりたい。青沼はそうでなくても、慈朗はそう思う。


(24)

(26)


拍手[7回]

「月?」
「月が綺麗ですって言ったって」
「ああ、春先? あんまりちゃんと覚えてないですけど、言ったと思います。けど、それ以上の意味はないですよ」
「ないの?」
「なんですか……」
 含んだ口ぶりで言われて、意味が分からず困惑する。
「夏目漱石が英語の教師をしていたころ、『I love you』を『月が綺麗ですね』に訳しなさい、って学生に指導したエピソードがあるの、知らない?」と赤城が言った。
 さすがに驚き、赤城を二度見してしまった。
「知らなかったんだ」
「……全然、」
「まあ、そう指導した、っていう文献が残っているわけじゃないから、都市伝説みたいな話なんだけどね。奥ゆかしく、そう表現したって、わりと有名だよ」
「……」
「アヤね、きみのこと結構話してくれるんだ。それでそう言われたって話してくれたときは、こう言ってたよ。『あれは久々に心臓に悪かった』って」
 心臓に悪かった。それは学生から好意を寄せられて気持ち悪くてひやひやした、という意味だろうか。思わず「すみません」と謝ってしまう。
「あ、違うよ。んー、あいつは口が悪いから。国語力に乏しいんだ。そういうふうにしか言えなかっただけでたぶん本当は」
「赤城」
 気づけば隣の部屋から柾木が移動して背後に立っていた。見あげると柾木は慈朗を一瞥して、「その辺にしろ、ばか」と赤城に言った。
「教員辞めたからって調子に乗んな。こっちはまだ公務員やってんだよ」
「アヤ、ごはん食べれた?」赤城は気にも留めない。
「ちょっと、でも、だいぶ。ありがとな」
 ふう、と苦しそうに息を吐き、柾木も空いている椅子に座った。すぐだるそうに机に突っ伏す。赤城は立ちあがり、柾木の食べさしの盆を下げた。
「赤城、最後まで悪いな」と柾木はようやく顔を上げて言う。
「ん、別に全然構いやしないけどね。僕が押しかけているようなものだし」
「もう、そろそろ時間だろ」
「うん。そう、……。湿っぽくなるかと思ったのに、意外と楽しかった。雨森がいてくれたからかな」
 食器をざっと流し終え、赤城は調理台を背にこちらに体を向けた。柾木と数秒、目を合わせる。
「連絡は寄越せよ」
「まあ、気が向いたら」
「偏食ばっかして体調崩すんじゃねえぞ。甘いもんはほどほどに、ちゃんと野菜も食っとけ」
「そうする。僕らもそろそろ若くないね」
「……また絵を描いて。スケッチでいいから、」
「……そうだね、……そうだといいな」
 ありがとう、と言葉を交わし、赤城は深く頭を下げる。柾木も下げた。一体どういうことだと目の前の展開に追いつけずにいる。赤城は床に下ろしていたかばんを持った。
「じゃあ、またな」
「先生?」
「雨森も元気でね。きみの進路、心から応援している」
「どういうことですか? ねえ、赤城せんせ」
 玄関へと向かう赤城を追いかけようと椅子から立ちあがったが、柾木に強い力で手首を掴まれ、振り払えなかった。病人のはずなのに柾木は力強い。ただ、その手はとても熱かった。
 玄関先から「おじゃましました」と声がして、扉の閉まる音が続いた。不意に静けさに包まれる。柾木の手は離されない。ただ呆然と背中を見送ったが、我に返り「どういうことですか?」と柾木に訊ねた。
 柾木は再び机に突っ伏した。
「あいつの車、乗って来たんだろ。だったら分かるだろ。えらく荷物が載ってたの」
「そうですけど」
「これから遠いとこ行くんだよ。ここじゃないところへ行くんだ、赤城は」
「ここじゃないところ?」
「アパート引き払ってな。とりあえず旅がしたいなって言ってた。行先は聞いてない。まあ、所属を嫌うのは昔からで、ちょっと時間が出来ればふらふら旅に出るようなやつだった。今回も、そんなもんだろ」
「……そんな、だって」
 ――だって。
「青沼は?」
「知らねえよ、そんなところまで。あいつらの問題なんだからあいつらが決めるだろ」
「いまの話じゃ、戻って来る気、ないんでしょ?」
「それも知らねえ」
「そんなの、そんなのは、青沼がかわいそうだ」
「そうだな」
「――先生は?」
「え?」
「先生だって、……好きな人が遠く行くんですよ?」
「……」
「なんでそんなに、諦めたって顔で、平気で見送っちゃうんですか?」
 喋っているうちに、辛くなってきた。柾木の前では強がっていたい気持ちがあるのに、溢れてくる涙はもうどうしようもない。止められない。
「先生と赤城先生のことなんか、詳しくは知らないですよ。でも、……こんなの、ないじゃないですか。青沼だってみんな、どこもかしこも痛んでばっかりで、そんなのおれは、嫌だ」
「雨森、」
「嫌だ……」
 情けないと思いつつ、ぼろぼろ涙が出てくる。「ちきしょ」と悔しがりながら目元を押さえ、押さえながら泣いた。どうしてみな、痛みを伴うことばかりだ。どうして好きな人とは一緒にいられないのだろうか。
 単純なことなのに。たったそれだけがこんなに難しいことが、悲しい。
 制服のシャツで涙を拭っていると、不意に柾木の手が頭に伸びた。子どもみたいにあやされるのは嫌だと思った。抗おうとして、だが柾木に抱き寄せられるように、肩先へ頭を持ってこられ、柾木の体温やにおいを意識した途端に抗う気が失せた。
 あり得ないほど近い場所に柾木がいる。大人の男の異常に発熱した体臭が濃く香る。
「巻き込んで悪かった」
 柾木が囁くように、力のない声で言う。
「でも、おまえが今日ここに来てくれて、よかった。――赤城にも、おれにも」
 それを聞いたら、体の力が抜けた。抜けて、保っていられなくなる。
 腕を動かし、柾木の胸に縋りついた。信じられないほどいくらでも涙が出てくる。自分の恋が叶わなかったこと以上に、赤城が去ること、それを見送る柾木のことが、痛くて、淋しくて、辛かった。


(23)


(25)


拍手[6回]

「アヤ、具合どう?」と隣の台所で差し入れを冷蔵庫にしまい込んでいた赤城が部屋に戻ってきた。
「……よくない」
「そりゃそうだよね。熱は?」
「さっき測ったときはだいぶあった」
「頭痛い?」
「痛い」
「食欲は、――まあ、ないか」
 赤城の質問は柾木のことをよく知っている、慣れたものだった。「軽く食べられるもの作るからすこし寝てて」と言って台所にまた引っ込む。が、戻って来て慈朗を手招きした。「手伝って」
「……おれ、料理はあんまり。なにしたらいいですか、」
「そこの水差しの水をさ、替えてあげて。アヤの水枕も、冷たいやつに」
「あ、ハイ」
「あと洗濯物入れて、畳んで仕舞ってくれる? その中にアヤのパジャマもあるから、それに着替えさせてやって」
「物干し場、どこですか?」
「この家の二階。ベランダがあるんだ」
 指さされた先に廊下があり、階段が見えた。それをのぼって行く。二階には部屋がふたつあり、ちょっとした温室みたいに、ガラスで覆われたスペースがあった。そこに洗濯物が干してあった。赤城の言う「ベランダ」なんだろう。
 洗濯物をかごに取り込む。タオルの類がほとんどだった。階下に降りて柾木の寝ている部屋に戻った。台所では赤城が湯を沸かしている。それを背後に、せんせい、と柾木の肩をそっと叩く。
「ん……」
「起きられますか? パジャマ乾いたんで、着替えましょう」
「……自分で着替えられるから、おまえ、あっち行ってろ」
「え」
「生徒に見られてたまるか。ほら」
 手で振り払われ、仕方なく慈朗は柾木の部屋を出た。確かに柾木の反応が教師と生徒として正しいんだろうな、と思う。思うが、なんだかがっかりした。
 なんとなく手持ち無沙汰に、赤城の手元を覗いた。赤城はそうめんを茹でている。隣のコンロではつゆも弱火にかかっていた。ひとり分にしては多くないかと言うと、「食べてくだろ?」と当たり前のように言われた。
「夕飯には少し早い? でもおなか減ってるでしょう」
「まあ、」
「そこの勝手口から裏庭に出られるんだ。そこにプランターがあってね、大葉が生えてる。採って来てくれる? あ、大葉は分かる?」
「分かります。何枚ぐらい?」
「葉のやわらかそうなところを、四・五枚」
 言われたとおりに勝手口を出て、プランターへと向かう。家や繁る庭木のあいだにぽっかりと穴のあいたような空は、暮れかかっていた。ひぐらしが鳴いている。なんとなく空を見あげ、大葉を摘んで戻る。台所は出汁のいい香りが漂っていて、扇風機がまわっていても、蒸して暑かった。
 にゅうめん、赤城スペシャル、と赤城は笑いながらどんぶりに食事を盛り付けた。温かいだしには溶き卵が入っており、それをそうめんの上にかけ、大葉と梅干とかつおぶしを載せた。白ごまをぱらりと振って、隣の部屋に行く。「こっちで食べる? そっちで食べる?」と柾木に訊き、結局柾木は布団の上でそれを食べることにしたようで、赤城は盆だけ置いて戻ってきた。
「僕らも食べよう。こっちは冷たいバージョン」
 そう言って薬味のたくさん載ったそうめんの皿をテーブルの上に置く。向かい合わせで腰かけてそうめんをすすった。「ごま油かけると美味いんだ」と勧められてそうしたら本当に美味しかった。あっという間に平らげる。
 赤城から冷えたほうじ茶のグラスももらった。本当にこの家のことをなんでも知っているんだな、と思った。柾木のこともだ。青沼が以前話してくれた通りだったら、このふたりは高校三年生のときにアパートをシェアして共同生活を送っているので、当たり前なのかもしれない。だがあまりにも慈朗の知らない柾木をまざまざと見せつけられたので、感情が追い付かなかった。
 慈朗の向かい側で赤城はにこにことしている。
「アヤがきみのこと応援したくなるの、分かる気がするな」と言う。
「応援? 柾木先生が?」
「うん。素直で、頑張り屋で、いい子だね、きみは。育ちのよさが分かる感じ」
「それは、どうだか」苦笑する。
「そういえばきみ、アヤに告白したんだろ?」
 そう言われて、思わぬ方向から話が来たなと思った。そんな事実はない。「してませんよ」と否定したが、「だって月が綺麗だったんでしょう?」と返される。


(22)

(24)


拍手[7回]

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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