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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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一.


「南波」のプレートが掲げられた門扉をくぐると、玄関までの踏み石を飛び跳ねるようにしてセーラー服姿の少女が駆けていた。制服はこの辺り一帯の公立中学校のもの。リボンの色から一年生だと分かる。
 その年齢にすれば抜群に長身だろう少女は、小鹿のような体躯をくっととどまらせて「あ、セノくん」と私の顔を見た。だが急いでいるようで足がいまにも飛び出しそうだ。
「なんだか忙しそうだね」と私は少女が巻いているマフラーについた糸くずを咄嗟に払う。
「学校から帰ったんじゃないの?」
「歯医者の予約忘れて帰って来ちゃったの――もう予約時間過ぎちゃってて」
「送って行こうか?」
「走ってくから平気」
「走って行ったら呼吸が大変だよ」
「あ、そうだね。そうだけど」
 少女はいま気づいた、という風に笑った。
「でも走る。大丈夫、すぐそこだし。いまおじいちゃんいないけどヤツカくんいるから。すごーく本に夢中。ピンポン連打して」
「ありがとう。気をつけて行って」
「ヤツカくんと飲みに行くといいよ。歯医者の後にえっちゃんと約束してるの」
「大家さんも留守?」
「社交ダンスの集まりで忘年会なんだって」
 喋るだけ喋って少女は軽やかに駆けていなくなった。ふっと懐かしい香りを嗅いだ気がした。私よりもはるかに最新を生きているはずで、見目なんかも最先端に見えるのに。彼女はいつもどこか懐かしい。
 彼女の叔父の方はもっと懐かしい気がする。親しく馴染む感覚というのか。同年代だからだろうと思いながら玄関へと進み、インターフォンを押した。ゆっくり十数えて案の定反応はなく、少女に言われた通りにその後は三秒間隔でインターフォンを押し続けた。
 六回目を鳴らそうかというときに玄関の引き戸があいた。
「……あいてるんだって分かってるんだから入ればいいのに」
「なんの本読んでた?」
「古事記。再読。……家賃?」
「うん。今月と、来月の分も一緒に」
「確認しましょう。上がってください。――もう年末か」
 最後はひとりごちて、男はくるりと背を向けた。もう十二月、けれど薄いシャツ一枚の後ろ姿に肩甲骨の線が透ける。寒そうだが本人は寒くないらしい。後に続く。
 通された部屋はこの家の居間だったが、火の気はなくうすら寒かった。男は灯油の芯出しストーブをつけ、そのまま台所へ向かい「コーヒー? 緑茶?」と訊いた。
「ぬる燗」
「……四季になにか言われた?」
「八束さんと飲みに行くといいよ、と。今日大家さんは忘年会で、四季ちゃんは友達と約束があるとかだから」
「ぬる燗がいいなら外に出ないといけないけど、今日の僕はもう外に出る気がない」
「古事記が面白い?」
「うん。出雲の風土記を入手したので比べて読んでるんだけど、表記の相違がね」
「八束さんさえ良ければ買い出しに行って来るよ。ひとりだとあなたどうせ一飯ぐらい平気ですっ飛ばすだろ。四季ちゃんもそれが心配なんだよ」
「……とりあえずお茶を先に。まずは本題から」
 湯を沸かし、すぐに緑茶が出て来た。座卓に向かいあい、封筒を差し出す。男はそれを手に取り、中身を改めた。
 この痩型で目の細い男を、南波八束(なんばやつか)という。白髪が目立って一見老けて見えるが若白髪で、私と同学年の三十五歳だ。彼の父親は私が借りている「ミナミ倉庫」の大家である。家業は時折手伝う程度で、本業は市立の郷土資料館勤務の研究員だ。先ほどの少女とは叔父と姪の間柄で、父親というわけではない。
 家賃の支払いは毎月一日と決まっているが、年始となる一月の支払い分だけは十二月中の納めとなる。「ミナミ倉庫」はここからは少々離れた川沿いに建つ中型の倉庫で、元々は精密機器の部品を作る小さな工場だったと聞く。そこを私は住居兼作業場兼資材置き場として使用させてもらっている。広さの割に安いのは事故物件だからだが、気にしない性格なので問題なく、むしろ安く借りられて助かっている。
 金を数え終え領収のハンコを押した八束は、「契約更新のこと考えてる?」と帳簿から目を離さずに言った。
「あの倉庫は倉庫だからね。住むのにやっぱり不便なんじゃないかと親父も言ってる。給湯スペースで寝起きしてるけど、風呂はないし」
「んー、でもあの倉庫がないならないで困るんだよなあ」
「作業場として確保して、居住は別に移したら、という意味。うちの物件で空きが出るんだ。この二月で」
「ミナミ荘のこと? 学生向けの?」
「いや、ハイツ・ミナミの方。ファミリー向けの方だ。部屋数あるし、リフォームしたから広くて綺麗」
「でも倉庫プラスで家賃が乗るわけだ」
「多少は落とせると思う。セノさん、綺麗に使ってくれてるし、滞納したことないから」
 私は軽く笑い、「いまのままの契約更新で」と答えた。
「近くに銭湯があるから風呂は困らない。どこでも眠れる。お湯も沸かせるしトイレもある。充分だ」
「もう……あの倉庫に何年になるんだっけ」
「離婚した翌年だった……三十歳で借りたんだよ。五年?」
「……今後再婚のご予定は?」
「ない。誰かを連れ込む予定すらない」
「ないの?」
「ないよ」
「元奥さんに未練……だとしてもまだ若いんだから」
「そっくりお返しする。……いや、違うな。……そうじゃないといけないんだよ、おれは」
「ひとりでいる主義?」
「かもしれない」
 そう言うと八束はふっと息を吐き、帳簿を閉じた。そのままファイルと家賃を持って家のどこかへ消え、戻って来たときには分厚いカウチンニットを手にしていた。
「飲みに行こうか。ぬる燗」
 ニットを羽織り、かけていた眼鏡を外した。外すと案外童顔だと分かる。大人っぽい顔立ちの姪とはあまり似ない。
「古事記、いいの?」
「ひとりでいる主義でも、知人と酒を飲みに行くぐらいはいいだろ」
「やさしいね」
「人ってあんまりひとりにならない方がいいんだ」
「それは誰かの言葉?」
「僕がそう思うだけ」
 私も立ちあがり、古ぼけたワークコートに袖を通す。火の元と電気と戸締りを確認して八束とともに家を後にする。
「日本酒の他にメニューのあてはあるの?」と八束に訊かれた。
「ない。テキトーに言っただけ。立ち飲みバルでワインだっていいよ。っても、おれたちの格好だとイタリアンやフレンチや懐石は追い出されそう」
「そんなところで飲む気なんかないだろう」
 学生時代の安い海外旅行の際に奮発して買ったニットをいまだに大事に着ている八束と、父親のお下がりを繕いながら着ている私のみてくれは、同じ年頃のサラリーマンからすれば考えられないほどみすぼらしく映るだろう。
「ものを大事にしているだけ。体型も変わらないし」
「体型の変化ってやっぱり生活の変化なんだろうなって思う。変化しない生活をお互いに選んだってことかなって」
「でもセノさんは結婚」と八束は言いかけ、「いや、くだらないな」と言い直した。別にいいんだけどな、と私は思う。結婚離婚の話題を根掘り葉掘り訊いてくれてもいい。くだらない話題になるだけだ。
 ――なるほど、「くだらない」からやめてくれたのか。
 ひとりで笑っていたら八束は面倒臭そうに耳の後ろを掻いた。そのまま腕を前方に伸ばす。そのモーションが綺麗だな、と思った。八束は動作のひとつひとつが綺麗だ。けだるげでやる気もないのにどこか惹かれる。
「大橋のたもとのおでん屋って今日やってるかな?」と橋の方向を指して八束は言った。
「ああ、いいね。おれ今年はまだおでん食ってないな」
「じゃあ今夜はそこで。十一月のはじめに寒い日あったよな。あの日、四季が煮てくれてうちはおでん食べたよ」
「四季ちゃんおでん煮るの? あの子ってどこで料理を覚えてくるんだろうっていつも不思議。南波家って男所帯だろうに」
「友達のお母さんに教わってくるんだって」
「ああ、『えっちゃん』」
 ぽつぽつ話しているうちに市街地へ出た。街路樹にはLEDで輝かしい明かりが灯る。クリスマスの月か、と思いながら隣を見る。
 なにも巻かれていない八束の首元に、不意に指を当てたい衝動に駆られる。人淋しい。人肌恋しい。こんなうちは全然だめなんだ、と思う。


→ 





ここからは長編を。2ヶ月ぐらいの更新になると思います。



拍手[7回]

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 大先生が町内会の旅行で留守をするという。その隙を狙って日野辺の家、日野辺の自室でセックスをした。昼間の、なにも隠せない交合。日野辺のごく平均的な身体が硬く張り詰め、声をうわずらせ、頂点を迎える、その先端からの体液の放出も、余すことなく全部見た。
 日野辺の中は、狭くて、蠢いて、温かかった。熱い、ではなくて、温かい。包まれる性器は自分のものなのに、羨ましいと感じた。こうして日野辺の中に全身で潜り込んで、日野辺の身体の中に取り込まれたい。それはさぞかし温かくて優しいのだろうかと思ったら、知らずで目元が濡れていた。
 下になった日野辺は「汗?」と額を撫でた。
「それとも泣いてるのか、現」
「わかんない」
「ばかだなあ」
 そのまま目蓋に唇を押し付け、体液を吸われ、唇に行きついてままならない息継ぎを夢中で貪った。
 対位を変え、日野辺を上に乗せた。この方が奥まで入り込める。日野辺が辛いのもわかる。けれど求めても求めきれない焦燥感でどうにかなりそうだった。
 がたがた、と窓が鳴る。薄い生成りのカーテンの向こうはしんしんと冷え込む冬がある。身体の熱さに隙間風が心地いい。日野辺を揺すり、腰を抱え、突き上げながら、あちこちに唇を落とした。
「――あっ、現、……またいく、」
「おれもいくよ」
 がつがつと突きあげ、日野辺はその喉仏を晒す。そこに噛み付いて最後の坂を駆けあがり、先にいったのは日野辺だった。間髪入れずに日野辺を倒し、心地よかった狭間から性器を引き抜いて、思いきり日野辺の腹にかけた。
 荒い呼吸の中で、日野辺は自身の腹に散ったどっちつかずの精液を、すくって舐めた。不味そうな顔をして、「あんまりいいもんじゃないな」とコメントする。
「身体拭いてやるよ。ちょっと待ってろ」
「このまんまがいい」
「あちこち汚れたろ」
「現に離れてほしくない」
 日野辺はそっとカーテンをあけた。真冬の青空が広がっていた。なにか種類は分からぬが、ちいさな鳥が散らばるように渡っていく。カーテンをあけても室内が見られるような高所に建物があるわけではないから(以前住んでいた街ならあった)、日野辺の手をそのままにしておいた。
 窓辺に伸びていた手は、探るように目元に当てられた。
「涙、乾いたな」
「……泣いてねえし」
「ちょっと寝ろ。うちの親父の戻りは明日だから。泊まっていけるんだろ、現」
「ん、」
「まだするか?」
 絡んでいる身体の健全を安直にからかわれた。
「するなら僕はいったんインターバルを置きたいんだけど。連続は無理」
「さほど若いわけじゃないんだよな、あんたも、おれも」
「そう、昔みたいに爆発する感じでセックスってできなくなったなあ」
 しみじみと言った男は、もっと若い身体があったころ、どんな爆発力でセックスに及んでいたのか気になった。でもそれを訊くのも野暮なのかもしれない。少なくとも自分はもう、義兄とのセックスのことは過去の話にとどめておいて、そこに付随する感傷には浸りたくないし。
 過去は過去。いまはいま。日野辺と裸体をベッドに沈ませている、いまがあったらそれでいい。
「悪いことじゃないよな」
「そうだな。じっくりやれるっていうか。相手の身体の声が聞こえるようになった気がする。抽象的な表現かな?」
「いや、分かるよ。自分勝手じゃなくなったってことだろ」
 ふあ、とあくびをした。
「――寝る。起きたら飯食って、する」
「いいよ。三大欲求を素直に備えてるな」
「ばかにしてるか?」
「そんなわけないよ。健康な証拠じゃん」
 医者の台詞には説得力がありすぎた。そうだな、とみじろぎ、日野辺の肩に頭を載せた。
 そのままとろとろと、じっくりと煮込まれるような心地で布団と日野辺に親和する。

 *


 目が覚めたら、日が暮れかかっていた。傍にあったはずの日野辺の身体がない。あれ、と思って半身を起こすと、日野辺は箪笥から衣類を漁っている最中だった。下は下着を身につけただけで、でも上半身にはたっぷりとした起毛のセーターをかぶる。
 それからベッドに戻ってきて、現の隣に「さむさむ」と潜り込んだ。
「汗かいたまま寝たら寒くなった」
「そのセーター、よれよれだな。毛玉だらけだし」
「昔買った安いのだからなあ。もう首元が伸びちゃったんだよね。ぶかぶか」
 ハイネックのセーターだったが、喉仏がしっかり見えるほど緩んでいた。
「でも肌触りが馴染んでてつい着ちゃう」
「風呂沸かすか?」
「んー、もうちょっとこのままごろごろしてたい」
 セーターの裾から手を入れて日野辺の肌にじかに手のひらを滑らせる。熱く湿っていた肌は乾いて、鳥肌がぷつぷつと立つ。
「寒い?」
「寒い。鼻水出てきた」
「せめてストーブ入れろよ。この部屋隙間風ありすぎ」
「このあたりってさ、この時期は風が強くて」
 その台詞を裏付けるかのように、カタカタと窓はまだ鳴っていた。
「寒冷蕁麻疹出てうちに駆け込んでくる患者もいるよ。うちは内科だから、皮膚科行けよってなるんだけど」
「あんた、まだ鳥肌立ってる」
「寒いんだよ」
 日野辺からすれば、おそらく自分の方が体温は高いのだと思う。日野辺の腹にひたひたと当てていた手をそのまま滑らせ、ニットを引っ張って裾から頭を潜り込ませた。
「おい、現、」
 衣服の中で出口を探す。冷えた日野辺の身体に密着しながら、ぷは、と顔を出せたのは緩んだセーターの襟口だった。
 至近距離で日野辺と目を合わせる。「このセーター伸びすぎ」と言ってやると、日野辺は「でも役に立つな」と笑った。
 同じセーターに潜り、顔だけ同じところから出して、身体をすり合わせて抱きあう。
「寒いけど、冬って悪くない」
「送、もっと体重のせろよ。収まりが悪い」
「いやあ、この体勢だと無理でしょ」
 笑って、近い場所にある顔に頬を擦り寄せた。
「飯、なに食う?」
「なにがあんの? この家に」
「あー、いただきものの白菜がある。あとそこの牛飼ってるところが肉牛つぶしたとかで牛肉もあるな。すき焼きもどきでどうだ。ねぎと焼き豆腐もあったはず」
「田舎の贅沢きわまれり、だな」
「どうせならちょっといい酒も入れよう。地酒がある」
「いいな」
 それでもこの、せまっ苦しい状況から脱する気になれない。セーターの下で身体が確実に温まっていく。それが分かる。
 もうしばらく、もうすこしだけ。身体が完全に温まるまで、互いの体温で高めあう。
 ひとつのセーター、ふたつの身体。分かちあっていくうちに境界が曖昧になる。ひとつになれると錯覚する、その勘違いこそいまは幸福でいとおしい。


end.


関連:冬の日、林檎真っ赤に熟れて



拍手[6回]

 日野辺医院の裏口にカブを停め、かごを下げて玄関をくぐる。ちょうど大先生が出かけるところで、「おお、ぼうず」と笑った。
「送のやつ、寝てるから起こして相手してやれ」
「なんかあったんすか?」
「今日はちょっと急患が多かったもんでな。さっきまでばたばたしてただけだ。連休前の駆け込み需要ってやつだよ。それにあいつはさ、冬のはじめになると毎年こうなんだ。秋までの疲れが出んのかね。気温が下がると、眠くなるらしくてよく寝てらあ」
「冬眠しそうすね」
「実際、冬のあいつと夏のあいつじゃ体重も二、三キロぐらいは差があるんじゃねえのか? 実に生物的なやつだろ。動物的っていうのかね」
 くくく、と可笑しそうに笑って大先生は出かけて行った。家にあがると確かに居間で日野辺がすうすうと寝息を立てて眠っていた。
 眼鏡をかけっぱなしで、白衣も着たままだ。よれよれでくたくたでぼろんちょ。なんでこんなのに惹かれるんだろうなあと、ちょっと笑って、ちょっと呆れた。材料の入ったかごを台所に置き、「おい」と肩のあたりを軽く蹴とばす。「送、起きろよ」
「……んん、……現か、」
「さっき大先生が出かけてった。あんた起こして相手してやれって」
 日野辺をまたいでシンクに向かうと、寝ぼけたまんまで「なに作ってくれんの」と日野辺は訊いた。
「りんごのお菓子。美味いぜ。ちゃんと常盤果樹園のお墨付きだ」
「現はお菓子なんか焼くのか?」
「おれ、甘いもんめちゃくちゃ好きだもん。好きすぎて調理の専門で勉強したぐらい。ここはさ、すげー田舎の町だけど、果樹園が多いじゃん。材料は贅沢でいいよな。安いし」
「秋はりんごで、」
 まだ眠いのか、日野辺は寝ころんだまま腕を上に突き出してくるくると絵でも描くように空をなぞった。
「いちじく、栗、柿、ぶどうに梨、キウイ。冬はハウスで柑橘。春になればいちご、ブルーベリー、さくらんぼ、そのうちにプラム、桃、メロン、すいか、とうもろこし、……ってこれは野菜か」
「この辺はそうらしいな。あんた、甘いもんは?」
「好きだよ。フツーに好き」
「そっか」
 フツーに好きか。くつくつと笑っていると「げんー」と寝っぱなしの日野辺に呼ばれた。
「げんー、げんー、げんー」
「なぁんだよ」
 何度も呼ばれて呆れながら傍にいくと、伸びた腕に頭を絡めとられた。
「いいよ、りんご後で。後で作って、ちゃんと食べる……眠いんだ」
「今日は大変だったらしいな」
「風邪流行りだしたからな。……葬儀屋じゃないからさ、うちは。みんな生きてるってことでしょう」
「……」
「こういうとき、医者でよかったと思う。なんかさ、思うんだ」
「……そうだな、」
 そのまま日野辺の上に体重を預けて重なると、日野辺は重さで「うっ」と唸ったが、目はあけなかった。眼鏡をはずしてテーブルの上に置いてやる。
 毛布をずりずりとかぶせて、横になる。日野辺はあやふやな口調のまま、「春になるとさ」と言った。
「この辺はすごいよ。常盤さんとこもそうだけど、あちこち果樹の花ざかりで」
「へえ」
「りんごの花、見たことあるか?」
「いや、ない」
「春になったらたくさん見られる。……花見、しようなあ。現はお菓子の担当で」
「いいよ」
「じゃあおれは、酒と肴の担当で……」
 日野辺の手足は熱かった。眠りの隣にいるのが分かる。そっと日野辺の胸に頭を載せる。
 心臓が、心拍が、ゆっくりと、打っている。冬の熊みたいな遅さと力強さで。
 この辺は冬が深いと聞いている。そういう気候はいままで経験したことがない。農家によっては農閑期に入り、常盤果樹園では収穫したりんごを貯蔵して、注文に応じて出荷したり、加工品に仕立てたりと、内職が主になる。
 その間、自分はよそでバイトでもしてみようかと思っている。除雪のバイトとか、スケートリンクの管理のバイトとか。いままで体験したことのないような仕事が、なんのかんのであるようなので。
 そうやってこの町で暮らしていく。この男の傍で暮らしていく。
 霜の当たったりんごは、蜜が入ってとても甘いらしい。先日、そのりんごを収穫した。冬が間近に迫っている。
 日野辺は眠る。静かに眠る。現はその心臓の音を聴く。黙って胸に耳を重ねて、しんしんと深い呼吸を聴いている。


end.


← 


関連:いきどまり
   この先



「いきどまり」「この先」を書いたときから、あのふたりが先をどう辿るのかを考えていました。
ようやく書くことが出来ました。7年経ちましたが、彼らの幸福を願います。


拍手[8回]

 短い夢を見た。姉と義兄が赤子をあやしているあのマンションの一室に、立っていた。いや、自分だけ浮かんでいるみたいだった。地縛霊みたいに、未練がましくぷかぷかと漂っている。
 自分に気づいた義兄が、こちらを見た。その手には赤子ではなく、青りんごが載っていた。そちらへ泳いでいくと、義兄はあのずるくてものがなしい目をしているのが分かった。
 口をぱくぱくしている。なにかを喋っているが、うまく聞き取れない。空を掻いて掻いて、ようやく傍へ寄った。
「Don’t forget me and all the things we did.」
 ――僕と、僕らがしたことのすべてを、忘れるな。
 そう言って、青りんごを寄越す。罪は消えない。姉を裏切ってこそこそと身体を合わせた事実は、いつまでも消えない。
 忘れるもんかね。あんたのことなんか。絶対に。そう思いながら青りんごを齧る。とてもすっぱかった。
 最悪で、最低で、人災みたいだったあの恋を、真剣に愛しあったことを、忘れたりするもんかね。
 すっぱい、と思いながらマンションの扉を泳いでくぐり抜ける。騒がしくて懐かしいあの街の上を泳いでいく。


 りんご、ブラウンシュガーが手に入らなかったのできび砂糖、薄力粉に、バター。それからシナモン。これはスーパーで買えた。
 薄力粉にきび砂糖を加えたものに、室温に戻したバターを落とし、手で練る。ぽろぽろとだまになればそれで完成。りんごを適当な大きさにスライスして砂糖とシナモンをまぶす。耐熱容器にりんごを入れ、その上にだまにした薄力粉を覆うようにしてかぶせ、オーブンでしばらく焼く。
 それとは別にカスタードを作る。これは牛乳に卵と砂糖と薄力粉を混ぜて小鍋で焦げつかないように火にかければ案外簡単にできる。オーブンで焼きあがったりんごに、カスタードを添える。
 あたたかいうちにそれを十時のおやつに提供すると、口にした常盤果樹園のみなが「あら」「へえ」「ほお」と息をついた。
「カスタードは別にあってもなくてもいいんですけど、ある方がおれの好みなんで」
「美味しいわねえ、これ。イズミくんにこんな特技があるなんて知らなかった」
「おれ、これでも一応調理の専門学校出てるんですよ」
「あ、そうなの? じゃあこんなところで働いてる場合じゃないんじゃない?」
「いえ、ここ気に入ってますから」
 そう言うと奥さんは笑って、「これなんていうお菓子なの?」と訊いた。
「アップルクランブル。イギリスの家庭的なお菓子です。材料もりんごとバターと砂糖と薄力粉あればできるし、混ぜて焼くだけだし。すぐできて美味しいですよ」
「これいいわねえ」
「ほんと。傷もののりんごでもこれなら全然いいわよね。ちょっとすっぱくても、古くなっても、どんなりんごでも」
「今日はおれの好みでカスタードにしちゃったけど、クリームチーズでも美味いですよ」
「やだ、それも食べたい」
 それまで黙って食べていた社長が、ひと息ついて、「ああ、美味い」と言った。
「このレシピ、起こせるか? イズミ」
「おれ、字には自信がないんで、清書は奥さんとか字や絵の上手い人あたりにやってもらう方がいいと思いますけど」
「じゃあうちの嫁にやらせよう。あいつはちょっと絵も描けるしな。このレシピつけてこないだの台風で落ちたりんご、売ろう。直売所に持ってけば、他とちょっと差がついて、まあ、売れるだろう」
「このぽろぽろしたのが美味しいわよね。他の果物でも応用がききそう」
「それをクランブルって言うんです。ブルーベリーに変えても、洋なしに変えても、美味い」
「やだわー、食べてみたいものばっかりで」
 女性陣は嬉しそうにはしゃいで食べていた。甘いものを久々に作ったし、久々に食べた。
 ふ、と息をついて空を見あげる。秋の澄み切った空にうろこ雲が伸びている。
「さて、休憩したら作業すっぞ」
「はぁい。イズミくんごちそうさま」
「また作って」
 ぽん、ぽん、と背を叩かれる。


→ 

← 



拍手[7回]

 用意されていた食事は、簡単なものだったが、なんだか腹に染みた。とても美味しいと感じた。白米とみそ汁と缶詰と漬物だけなのに。味覚をつかうってこういうことなのかな、と思った。先ほど雨に打たれながら日野辺が叫んだ言葉がよぎる。投げやりに、死んだみたいに生きるんじゃなくて。まっとうに生きてくれよ。
 食器を片付けていると、日野辺が現れた。目に疲労はにじんでいたが、眠る気はないようで日本酒の瓶を探り出した。黒い上着を脱いで椅子にかける。コップをふたつ携え、「こっち」と呼ばれるままに和室へ向かう。
 仏壇の置かれた部屋は、いまは遺体の安置室になっていた。棺と花が置かれ、黒塗りの台に線香が立てられている。
 その畳の上に座して、どん、と酒瓶を置くと、「通夜」と日野辺は言った。
「文字通りだよ。線香絶やさないようにひと晩じゅう付き添う。まあ、事情が事情だし、この雨だから、弔問客をもてなす気もないし誰も来ないと思うけどね。……台風が去ったら坊さんが来て葬式だ。いとこがね、通夜ぐらい仕事だからいてくれるって言ったんだけど、断った。今夜は付きあえよ、現」
 そう言われ、ひとまず日野辺いずみに線香だけあげて、日野辺の前に座った。日野辺はコップにとぷとぷと日本酒を注ぐ。
「……お姉さん、どんな最後だったの、」と訊く。日野辺はビールのときと同じく、ちびちびと舐めるように酒を飲んだ。
「まあ、穏やかだったよ。バイタルがゆっくり下がって、ゆっくり死んだ。いままで散々苦しかっただろうから、最後ぐらいこういう穏やかさでよかったよな、って思った」
「こんな日に、……本当にごめん。探しに来てもらうようなことさせて」
「いや、かえって頭が冴えた。悲しみに暮れてる場合じゃなくなって。まあ、常盤さんから連絡もらったときはものすごく心配で走り回ったけどね。嵐のときは危険だから、むやみに出かけるなよ」
「……どうしてもあんたに会いたかった」
 その言葉で、日野辺は飲みかけたコップを下におろした。
「現、」
 日野辺の目の、眼鏡の奥の瞳の、瞳孔が、しんしんと透きとおって深い。
「おまえになにがあったんだ?」
 いままで訊かなかったことを、日野辺は訊きだそうとしていた。真剣に、流さず、受け止めようとしている。
「……姉夫婦に子どもが出来た。無事に生まれたって、今日、連絡があって」
「おめでたいことだ」
「めでたくなんかねえよ。すくなくとも、おれは」
「……なぜ?」
「子どもができたって聞いたときから、嘘つき、このやろうって、裏切られた気分でいた。そもそも間違ってたのはおれなんだけどな。でもあの人は、姉とはセックスレスの夫婦だからって言ってた。ずるい人だったよ。すごく、ずるかった」
「あの人」
「義兄さん。義理の兄。姉の夫。……おれ、義兄さんとは身体の関係にあった」
「……」
「きったなくて醜い話だろ。……姉貴にさ、この人と婚約したのって紹介されてはじめて会ったときに、あっ、て感じで。転げ落ちるみたいに、これが恋なんだって分かった。向こうもおんなじで、姉貴に隠れて何度も会ったし、会えばセックスした。おれもあの人も本当にろくでもない人間で、会えば全部のことがどうでもよくなって、お互いしか見えなくなるんだ。何度もバイトくびになったし、アパートの家賃すら払えなくなるような事態にもなった。それでも会うことをやめられなくて、……結局、向こうが辛かったんだろうな。おれと恋をし通し続ける覚悟はなかったんだ。姉貴が妊娠したって聞いて、そっからおれ、もう、どうしていいのか分かんなくなっちゃって。なにやってもしんどかった。毎日視界が灰色みたいな。……耐えられなくなって、逃げるみたいに電車乗って、乗って、乗り換えて、……この町であんたに拾ってもらって、なんか、ここにいる」
 日野辺はまた、ちびりと酒を飲んだ。
「姉貴は知らないまんまだと思う。知らないから『生まれたよ』なんて、あんなLINE寄越したんだろうし。そのことも罪悪感だ。おれもね、姉貴のこと好きなんだよ。あんたみたいに。だからいっそ、あんたひどい、あたしの旦那だよとかって、姉貴に罵られたらすっきりした。恋を終わりにできた」
「すっきりなんかしないさ」
「……」
「しないし、終わりにする気もなかっただろう」
「……」
 自分もまたコップに手が伸びて、酒をくっと煽る。そのあいだに日野辺は立ちあがり、新しい線香をつけた。
 ふう、と息を吐く。これから語るのは、認めたくない感情だ。
「そうだよ。……結局おれは、義兄さんに、裏切られたと思ったことが、いちばん、堪えてる……」
 絞り出した答えは、自分を痛めつける刃だった。だから向きあいたくなかった。日野辺が訊くから。受け止めようとしてくれるから。
「痛い、……痛くてたまんないんだ。どっかへ行きたくて電車に乗ったけど、帰れないだけなんだ。忘れたい。なかったことにしたい。もうこの先、……間違いたくない。誰かを想って想い返されて、他の人を傷つけて、自分も傷ついて、……そういうのは、嫌なんだ。おれは、どうしたらいいんだ? どうやったら痛くなくなるのか、……」
 わからない、と言おうとしたが、声が詰まって言えない。姉に隠れて義兄と恋をしたこと。義兄に裏切られたこと。すべてが痛くてつらい。こんなところに来てまで、まだ自分は苦しい。それはこの先いつまでも続きそうで、嫌だった。
 その言葉を包むかのように、日野辺は「ここにいろ」とはっきり言った。
 コップを畳にじかに置いて、日野辺の腕が肩に力強く添えられた。
「現は、きみは、ここにいろ。帰らなくていい。帰るな。ここで、おれたちの傍にいろ」
 その台詞も迷うようで、「んー、ちがうな」と日野辺はうなだれてがりがりと髪を掻きながら言葉を探る。それを必死で聞く。聞き逃すまいと耳をすませる。
「きみが、……駅で途方に暮れていて、家に呼んで名前を聞いて、『和泉現(いずみげん)』だと名乗ったときに、……おれがどれだけ救われたような気持ちになったか、分かるか? 姉貴はこれから死んでいこうっていう人なのに、この人は生きていこうとしている人だって思った。死にたくて乗った電車じゃないよ。生き延びたくて乗った電車だったろう。現が、自分を殺さない選択をしてくれて、どれだけ嬉しいか、分かるか? 疲れ切ってたおれの傍にいてくれて、ひとりにならないように一緒に酒を飲んでくれた。くだらないしょっぱい話を、くだんねえな、って顔で聞いてくれた。現の顔を見るとおれは、ああそうか、これはくだらないことなんだと軽くなれるし、現が傍にいると、どうしようもない現実をどうしようもなくない、と思えた。それがどんだけおれにとって楽になることだったか、想像しろ。理解しろ。現、おまえはここにいる必要があるんだ。ここで、おれの傍にいろ。おれは医者のくせにちっとも度胸がなくて、……でも現にはそれを、ぼっこぼこに殴って正される。しっかりしろよてめえ、って」
 肩を掴む手は、力をこめすぎてふるえていた。コップを置いて、腕を伸ばす。日野辺の脇の下をくぐってぐるりと背中に手を回すと、日野辺もまた、頭を掻き抱くように縋ってきた。
 こうやってお互いがお互いに縋って、支えて、支え返して、生きている。
「現は、現実の現。現在の現。いやでもいまを見ろと突き付けられる。すごく、いい名前だ」
「おれ、ここにいていいの、……」
「いろよ」
「……」
「ずっといろ、ここに」
 横に倒れると、巻き付いたままの日野辺もまた、重なって崩れた。
「日野辺送」
「……ああ」
「ひのべ、わたる」
「そうだよ」
「わたる」
「なんだよ」
「送……」
 日野辺の肩越しに天井を見あげる。煌々と眩しい電灯の下に、線香の煙が細くのぼっていく。
「送、」
「なに、」
「いや、」
 目元から滲むものがあった。多分この町へ来てはじめて泣いている。
「呼びたいだけだ」
「そうか」
 日野辺はやっぱりあやして、髪を梳いてくれた。
 


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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