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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 上倉(かみくら)が前の恋人に振られたのは去年の秋だった。よりにもよってこれから寒くなる時期に、よりにもよって別れの原因は相手の浮気だった。酷く傷ついて淋しくて、でもさすがに男も三十歳に突入していればそれなりに淋しさの逃し方は知っていて、それでもやっぱりつらくなった。
 あんまりにも寒かったので、髭を伸ばしてみた。
 失恋をすると髪を切る心理、と同じなのかはよく分からないが、これが案外あたたかで楽しかった。平均よりも身体が重い上倉に、髭は似合った。手入れをしてやるとさらに見栄えが良く、密に編んだ重たいニットや飴色の革靴といった冬のアイテムにもぴったりだった。
 上倉は、三十歳に突入した記念(?)に会社を辞め、現在は学生だ。このまま一生を会社勤めで終わるのがちょっと惜しい気がして、前々から興味のあった文化財修復保存コースのある大学に入り直したのだ。よって髭も服装も、会社勤めの頃よりははるかに自由だ。
 髭の評判は上々で、周囲からの呼び名は「クラさん」から「クマさん」か「ヒゲクマさん」に変わった。教授など本気で「ヒゲクラ」などと呼ぶのだから可笑しかった。失恋の痛手は薄れ、ああ髭いいかもと思った矢先に新しい恋人が出来た。
 新恋人の仁保(にほ)は上倉よりも二つ上で、大学付属の美術館で学芸員をしている。講義だワークショップだと言ってなにかと美術館に訪れる上倉たちの世話をしてくれる。知識は豊富で文化財を見る目も確か、言葉の選び方が丁寧で深い。何事にもスマートな仁保には、前から仲良くなってみたい(けれど高嶺の花すぎて話しかけられない)想いがあった。
 付き合いのきっかけは研究室の仲間たちとひらいた忘年会だった。誰が呼んだのか、研究室のOBであるという仁保も来てくれた。酔った仁保は力の抜けた身体を上倉に預け(寄っかかっていいですよ、と上倉が言ったのだが)、普段はきつめの口調を和らげて、「上倉くんはあったけえよなあ」と呟いた。
「髭ですから、超あったかです」茶化してみたが、内心はドキドキした。肩に頭を乗せている仁保には心臓の高ぶりが伝わってしまっているんじゃないかと、また脈を速くしてしまった。
「見た目もそうだし、中身もさ。おおきくてあったかいのって、いいよなあ」
 それはもう、その場で抱きしめて頬ずりしたいぐらいの衝撃だった。酔ってふわふわした仁保をアパートまで送り、後日お詫びになにか奢ろうかとまんまと申し出てきた仁保をしめたと思い、初詣に誘って付き合いを申し込んで、現在に至る。仁保は案の定というかなんというか、髭が好みらしい。二人っきりだと顔に触れて感触を楽しんでいるし、時間がある時はグルーミングまでしてくれる。


 そうは言っても髭はヒゲで、夏は暑いのである。
 ちょうどいいと思ったのはゴールデンウイーク過ぎまでだった。梅雨入りすると一気にべたついて、海の日目前の頃には剃りたくてたまらなくなった。さぞやさっぱりするのだろう、と。切れ味爽快、と流行りの俳優がいい顔で笑うシェーバーのCMを見るたびに頬を掻いた。
 そもそも髭をたっぷり生やせる上倉は、体毛が濃い。高校の体育や学生時代(いまも学生時代なのだが)に行った海水浴で、特に女子のみなさんにはきゃあきゃあ言われまくった。思春期はこれを気にしたこともあり、現在はそれほど気にしていないとはいえ、夏場はいつも、真剣にメンズエステの広告なんかを眺めてしまう。(見てくれを綺麗にしたいのではなく、さっぱりしたいという意味で。)
 仁保は髭をうざがったり暑がったりはしないが、むしろ楽しんでいる風だが、上倉はそろそろ限界だ。顎鬚だけにスタイルチェンジしてみるとか。色々考えて仁保に「剃ってもいい?」と訊くと、少し間をあけてから仁保が頷いたので、そうした。散髪ついでに理容師に頼んでやってもらった。すっきりでさっぱりでつるっつるで満足だ。
 剃ったら剃ったでまた評判が良かった。なんだ今年の俺はモテが来ているのか、と思ったほど。
 元の上倉を知っている同期生にさえ「そっちの方が絶対にいいよ」と好感触だった。女子のみなさんには、振り返られることが多くなった。今までは好奇心でしか向かなかった目が、あからさまに色味を持って向けられている状況。自意識過剰になるなと言い聞かせても、どう考えても、どうやらもてている。
 痩せたせいもあるだろう。髭が思わぬダイエットになったのか、今年の気候が安定しないせいか、今までのベスト体重よりも三㎏減っている。髭を剃ったら、思わぬシェイプの輪郭が現れて自分でもびっくりしたぐらいだ。ちょっとだけストイックに見える。憧れの仁保に近付けたみたいで、なかなか嬉しい。
 その仁保には、会えない日が続いた。夏の美術館というのは忙しいようで、九月いっぱいまでのんきに夏休みである上倉とは時間が合わなかった。会えない時間はバイトをしたり、一人旅をしたりと、会社勤めでは出来ないことも楽しんでみた。自由気ままでそれも良かったが、やっぱり淋しい。
 淋しさが募り、仁保の住むマンションに突入を試みた。なんだ、はじめからこうすりゃ良かったじゃん、と合鍵をつかって入った仁保の部屋で、そう思った。仁保にはあらかじめ了解を得ている。すうっと息を吸うと仁保から漂うあの香り(コーヒーとか、つかう洗濯用洗剤とか、仁保の汗とか、そういう色々混ざった生活のにおい)がして、上倉の胸がきゅ、と痛んだ。
 シンクに残っていた食器を片づけ、衣類かごに放り込まれた洗濯物を洗濯して干してやった。今日はよい天気だからよく乾くだろう。それから、仁保のベッドで昼寝をした。このベッドで過去に仁保としてきた、いやらしいことを思い返して、早く仁保が帰ってこないかなと思ったり。
 それで目をあけたら仁保が上倉を覗き込んでいたりするので、びっくりした。
「――あれっ、おかえり?」
「ただいま。人のベッドでよく寝てたなあ」仁保は息を大きく吐きながらネクタイを首から抜く。
「もう夜? いま何時?」
「夜、夜。十時だよ、もう」
 ベランダの外を見れば確かに真っ暗だった。急いで洗濯物を取り込む。仁保が帰宅したら上倉ご自慢のチキンライスを食べさせるつもりでいて、まだなんにも用意できていない。うわあ、うわあと慌てる上倉に、仁保は「ガクセーは暇でいいよな」と呆れ顔だ。
「ていうか、」
 シャワーを浴びるのだろう、タオルや部屋着を持って部屋を出て行こうとする仁保は、ふと振り返った。
「髭じゃん。剃ったんじゃなかったっけ?」
「あー」
 いま上倉の顔は、髭で元通りだ。仁保にはなかなか会えなかったから仁保は「イイ男」の上倉を知らなかった。上倉は頬を掻く。
「ニュージーランド行ってきた」
「あ?」
「夏休みの一人旅。あっちは南半球だから、冬なのな。南に行けばいくほど寒いってわけで、冬を堪能しに南島っていうところへ行ってきた。氷河見てきたよ。でもねえ、寒くて」
「それで元通り、ってわけか」
「帰国してまだ暑いけど、なんとなくそのまま。ああ、そうだ」
 お土産、と言って仁保に重たい包みを渡した。中身はダークグレイのセーターだ。メリノウール100%で、ちょっといいお値段だった。
「まだ暑いっての」仁保は文句を言う。ようやく九月、当然だ。
「いいじゃん、冬が楽しみになるでしょう」
「サイズもでかい。おまえサイズじゃん」
「一緒に着ようよ。ぼくが着ない日は仁保さんが着て、仁保さんが着ない日はぼくが着る」
 上倉の提案に仁保は「うーん」と唸ったが、最終的には「まあ、いいか」となった。
「おまえさ、髭、どうすんの」と仁保が訊く。
「え?」
「剃る? このまま秋に突入?」
「仁保さんどっちがいい? って、聞くまでも」
「ないな。俺、おまえの髭が好き」
「じゃあ、剃らない」
 そう言うと、仁保は嬉しそうな顔をした。
「シャワー浴びてくるから、ちょっと待ってろよ。浴び終わったらその髭整えてやるからな」
「一緒に浴びようよ」
「やだよおまえ、でかいから」
「どういう意味?」
「狭い、っていう意味」
 仁保はにやりと笑って浴室へ消えていった。ちょっと悔しい気もするが、仁保が楽しそうだから、上倉は嬉しい。いま最高にハッピー、と上倉は思う。


End.





工事がなかなか進んで行かなくてすみません。こういうのを書いているから進まないんですよね……
大きな天災の夏でしたが、皆さんがハッピーな日々を過ごされていますよう。

タイトルは「HAPPY」(Pharrell Williams/Walk off the Earthのカバーもお勧めです)から頂きました。





拍手[48回]

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 梅雨の終わりは、ドラマチックな空模様だった。厚い雲が湧き、大気を暗くしたかと思えば、不意に差し込む光で虹が出たりする。理科の実験で見た、プリズムから発生させた七色よりもずっと大気に現れるそれは薄くて、しかしダイナミックだ。この時期がいちばん好きだ、と七嶋は思う。嵐の時期、雨期、爽やかな晴天よりも少し薄暗い方へ、心惹かれてしまう。
 第一校舎と第二校舎とは別棟の三階に、美術室がある。窓からは田舎町ののんびりとした空がよく見えた。情熱的な大気の流れを、七嶋は眺めていた。今日は雲の流れが早く、切れ切れに光が差し、また雨が降る、の繰り返し。
 七嶋の後方で鉛筆を握って石膏デッサンをしている清己に、声をかけた。
「――晴れているのに、雨が降っている」
「あ?」
 清己が気だるく振り向く。真っ黒な髪、真っ黒なフレームの眼鏡の奥の、真っ暗な瞳。それに胸が高鳴る。清己は七嶋の目線を見て、窓の外を見て、「ああ、変な天気だよな、今日は」と頷いた。
「いい加減、そっちのカーテン閉めていいか? 西日で影が狂って仕方ねえや」
「いや、もうちょっと。……どっちだと思う?」
「なにが」
「晴れているのに、雨が降っている。雨が降っているのに、晴れている」
「どっちも同じだろ」
「そうかな」
「地面に雨が届くころには空にある雨雲が消滅している、って話だろ」
「あれ、雨粒が風に舞って出来る現象だと思っていたよ、ぼくは」
「どっちも結局、天気雨、なんだろ」
 だから一緒、と雑に結んで清己は立ちあがる。すたすたと歩いて窓際までゆき、カーテンを閉めるかと思いきや、そこで立ち止まった。
 空を眺めている、後ろ姿。ぴくりと七嶋の人差し指がかすかに反応した。雨も、太陽も、風も、贅沢にこの世の最上をすべて詰め込んだ空を眺めている清己は、まるで世界の創造主かのように、七嶋の心を占める。崇拝、そんな言葉がしっくりくるような。
「どっちだと思う?」とその後ろ姿に繰り返し問いかけると、清己は腕組みをして首を傾げた。
 そして振り向いたときには、七嶋を虜にする笑みを、顔に浮かべているのだ。
「雨が降っているのに、晴れている」
「意外だな、清己は逆だと思った」
「おまえはどっちだ、七嶋」
「ぼくは――」
 清己と過ごすいまが永遠に続くなら、雨が降っていても晴れている。一年後のぼくらはまた同じ雨期をこの美術室で迎えているだろうか? 三年後は、十年後は、その先は。
「晴れているのに、雨が降っている」
「そっちこそ意外だけどな」
「低気圧の方が好きだ、」
「ああ、言われれば確かにおまえらしい」
 たとえば、誰にとっても美しい存在であるはずの清己の、他人に対して残酷で、だからこそ黒縁の眼鏡をかけて世界を誤魔化しているその立ち向かい方に惹かれていることも。
 太陽よりは雨、白よりはグレイ、春秋ののどかさよりもよりけわしい夏冬、そういう、一歩下がった闇に、心が動く。


 ◇


 清己にばかり気を取られていた時には、自分自身のことなど考えもしなかった。最近になってどうやら自分は引き寄せてしまうのだろう、ということに気付いた。よいかわるいかは、分からない。少なくとも七嶋にとって利益がない。
 愉しい、とは思うけれど。
 生徒の目。同僚の目。保護者の目。不思議なほど、自分に向けられた目がどのような意図を持っているのかが分かる。そしてそれらは、嫌悪や侮蔑ではなく、好奇で向けられていることが、多い。分かってしまえば糸にかかった蝶のように、捉えるのはたやすかった。
 今日だって、男を抱いた。いま隣で、無防備に裸を晒して眠っている。抱いてほしそうな目をしたから、そうしてやった。男とはじめて会ったのは一週間前の、文化祭の場だった。七嶋が面倒を見る生物部の、他校との交流が目的の合同発表会で、男はもう一方の生物部の顧問だった。それまでは電話でやり取りをしていたが、文化祭の発表の場ではじめて顔を合わせた。初対面で男が見せた目の色を七嶋はくまなく正確に読み取り、いまこうなっている。
 起きあがり、台所へ向かう。コップに水を汲んで一杯飲んだ。水切りかごに伏せたままの茶碗や皿、ナイフなどの食器や調理器具を見て、ふと思う。たとえばこの刃物をつかって男を切りつけてみたら、男は七嶋と寝たことを後悔するだろうか、と。
 別に殺したいと思っているわけではない。生徒にあらぬ噂を立てられたこともあるが、実際は、そんな猟奇的な趣味などない。こうやってすぐ人を(男を)寄せてしまう自分が変わるだろうか? と思っただけだ。いつだって七嶋の心を占めているのは、高校生時代の清己、ただひとりしかいないと言うのに、こんな無駄な時間を費やして。
 もう清己には、会えないのだろうか。そう思うと、心臓が冷えて、頭の中に乳白色の靄がかかるようだ。すべて無駄な時間、無駄な労力。生きている価値さえ危ぶむほどに。
 す、と息を吐いて、男が目を覚ます気配があった。
「――佐藤先生、」
 呼ぶと、男は「ああ」と低く唸った。
「すいません七嶋先生、寝てしまって」
「今夜は泊まって行ってください。雨が、ひどいですから」
「いえ……このぐらいの雨なら、大丈夫です。というかこのぐらいの雨のうちに帰らないと、嫁も息子も待っていますし」
「仲良くなった他校の先生と飲んでくる、って言って出てきたんじゃないんですか」
 意地悪をするつもりではないのだが、口では帰りたがる男を、本当はまだ抱かれ足りないと惜しんでいる男を分かっていて、七嶋はそう言った。
 男は苦笑してみせる。
「……七嶋先生は、おいくつだと言いましたっけ」
「今年で三十歳になりますね」
「いつまで続けますか、こういうこと」
 唐突に、真面目な顔で男が言った。七嶋は苦笑しつつ、男の急激な親密さに寒気を覚えていた。たかだか一度寝たぐらいで、相手の将来まで心配出来るのか。家庭を持ちながら道を外している男に、言われたくはなかった。
「さあ、分かりません」
「じゃあ、これきりにしてください」
「どうしてですか」なぜおまえが決める、という意味は表へ出さずに訊ねた。
「別に僕を最後の男にしてくださいとか、そういう意味じゃありません。ただ興味があったから、だけですから、僕は。その……」
 男はなにか言いためらったが、息を吐きだした。
「あなたの中がからっぽすぎて、少しこわいと思いました」
「……からっぽ?」
「人は、影のあるものに惹かれる性質なのかもしれません。あなたにもそう感じた。でも、あまりに光がなさすぎて、怖い。このままゆけば、犯罪者と変わりなくなる。少し、ご自分を大切になさった方がいい」
「……」
「妻子裏切ってこんなことをしている僕が言うのも、間違っていますけれどもね」
 水をください、と言われて、七嶋はいまつかっていたコップをゆすいであたらしい水を汲んだ。それを男に渡してやると、ごくごくと飲んだ。気持ち良い飲みっぷりだった。
 外は雨がうるさい。梅雨で、台風も北上していると聞いた。男は簡単にシャワーを浴び終えて、瞬く間に出て行った。過去にくらべる誰よりもさっぱりと清々しく、いなくなった。
 それを見て、男の言うとおりに最後にするつもりになった。もういい。やめよう。人を引き寄せておいて、それをいたずらに引っかきまわすことは、終わりにしよう。
「――だってずっと雨だ」
 窓の外を見つめて、七嶋は呟く。雨の日のひとり言は、雨音に消されるからなんでも喋れる気がした。
「晴れ間さえない」
 清己が恋しい。会わないでもう十三年も経つのに、未だに。ずっと、おそらく一生。


 ◇


「七嶋」と呼ばれて、起きた。
 目をあけると、清己が微笑んでいた。光って見える、と呆けていたが、実際には弱くも黄色い陽の光が窓の外に満ちていたからだと、清己の背の向こうに見える景色でぼんやりと理解した。
 ざあっと風が唸り、きらきらと輝くものが窓ガラスに叩きつけられる。そういえば七嶋が眠りに落ちる前の空は灰色で、しとしとと雨が降っていた。強い風にあおられ雲が動き、残った雨粒が陽に光っているのだ。
 晴れているのに、雨が降っている。雨が降っているのに、晴れている。
「どっち?」と訊くと、清己は七嶋を覗き込みながら首を傾げた。
「外。雨? 晴れ?」
「ああ。これで晴れるんじゃないか?」
「晴れるのか」
「どうしたんだよ」
 清己は笑った。七嶋は胸が痞えて苦しくなる。腕を伸ばし清己を引き倒すと、清己は「おお」と驚きながらもされるままになった。
 ふたりしてもつれ寝転んだままで、窓の外に時折叩きつけられる雨粒の音を聞く。床に落ちているのは、金色の光。
 清己にくちづけようとすると、少々抵抗された。
「――俺、そういうつもりで起こしたんじゃ、ないけど」
「どういうつもりだった?」
「外、陽が射してきたから、めし食いに行こうぜっていうつもり」
「まだ雨が降っているよ」
「あ、なんかこういう会話、前にもしたか?」
 清己が高校のころの思い出を、断片を手繰る。そうして、「思い出した」と言った。「晴れているか雨かどっちか、って話だ」
「少しちがうと思うよ」
「ちがわないさ。おまえ、いまどっちだと思う?」
「晴れているのに雨が降っているか、雨が降っているのに晴れているか?」
「そう」
 答えは、考えずとも決まっていた。それでも悩むふりをする。
「俺は、どっちでもいい」と清己が言う。
「高校の頃は雨なのに晴れている、って言ったよ」
「あの時もいまも変わらない。どっちでもいい。だってさ、大気がこういう色をしている時は、大概、虹が出るだろう」
「虹……」
「雨なのに晴れていても、晴れなのに雨でも、虹が出る、――ほら」
 それは予言だったかのように、窓の外にくっきりと虹が現れていた。七嶋は目を細める。この、七嶋にとって神がって美しい男に、またあえて本当に良かった。
 出かけたくない、と七嶋は言った。
「セックスがしたい」
「唐突だな」
「欲望なんてそんなもんだろう」
 体勢を入れ替え、改めて清己を組み敷くと、清己はとろりと融けるように笑った。
「いいよ。――すきにしろ」
 虹の下でするセックスはどんな気分だろうか。そう思いながら、雨期の終わりを味わうように、清己に深くくちづけた。


End.




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 いとしい人はずっと、両腕で顔を覆って、かくしてしまっていた。表情が見たいのに、腕を外しても、「見たい」と懇願しても、かくしてしまう。その、恥ずかしがっている姿もまたいいのだけれど。隆央のことならなんでも見ていたいからあれもこれも、と欲求が次から次へとあふれる自分はもう、隆央の虜でしかなかった。
 首筋をべろりと舐めると、隆央はふるえた。沸騰まで煮詰めた蜜のようにとろけた内部が収縮し、深谷を締めあげる。
「――痛い?」
 と訊くが、痛いわけがないのは、分かっている。思考まで性行の熱に侵されていて、言葉のコントロールができない。
 隆央は両腕でかくしたまま、顔を横に振る。
「苦しい?」
 それも、ないことだと分かる。隆央の中心はかたく張り詰めていて、先ほどからずっと、濡れた先端の裏側を深谷の腹に押し付けっぱなしだからだ。感情面での苦しさがあるとすれば、それはちょっと分からないけれど。
「顔が見たいな……」
 今度はあやすようにやさしく、舐めた場所にキスをする。深谷の求めに、最終的には応じてくれる隆央を知っている。根負けするのか、本人にも悦びがあるのか、深谷を信じてくれるのか、隆央なりの理由があり、それを訊ねたことはないけれど、知っている。
 手を掴んでそろそろと両腕をひらかせると、快感に真っ赤に潤んでどうしようもなくなっている隆央の顔が現れた。
 喜びが身体中を駆けめぐる。深谷は満足の吐息をこぼしながら笑う。
「――深谷さん、」
「ん?」隆央の髪を掻き上げながら首を傾げる。
「……なんで動かないの……」
 隆央の声は情事に掠れていて、熱をはらみ、耳に絡む。
 答える代わりに額にキスをした。じれったくなった隆央は、自分から腰を揺すり出す。そういう、みだらな隆央も良かったが、深谷は両側から腰骨を強く掴んで、それをやめさせた。上体を起こし、上からじっと隆央を眺める。
 隆央はまた顔の前に腕を持ってこようとする。その手を払いのける。さっきからこの繰り返し。
 時間を気にしないで好きなだけ隆央を眺めていられるセックスが、深谷はいちばん好きだ。こういう時、本能と、深谷自身が持つ欲が混ざって、恍惚となる。対象とされている隆央はいい迷惑だろうか。深谷の気まぐれで、性器を何時間でも漲らせたまま、放っておかれる。かと思えば、いきなりの愛撫で何度もいけと促される、深谷との長い夜。
 それでも隆央は嫌と言わない。怒ったりすねたりすることはあるけれども、深谷の好きにされてくれる。こういう仲になって一年が経ったというのに、未だに深谷を飽きさせない。魅力的な人だと思う。誰にとってじゃなくて、深谷にとって、深谷だけにとって。
 隆央は限界が近いようで、もう、目が沸点を見ている。そういう蕩けたまなざしをしている。たまらないな、と思った。それだけで迎えそうになるが、深谷にはもうちょっと別の望みがあった。
 動きを止めて眺められていることに対して不満げな隆央に、そっと耳打ちする。
「あなたが上になって自分で動くところ、見たいな」
「……」
「――見たいよ」
 そう言いながらずるりと内部に収めていたものを引きだす、と出てゆく気配に隆央は「ああっ」とせつない声をあげた。
「やっ、やだっ」
 否定はもちろん、予想済み、それでも懇願せずにいられない。もっとみだらな隆央を見たいから。
「見たい」
「深谷さん、」
「たとえば、ここの線とか、」
 そう言いながら隆央の腹部を人差し指で描くように触れる。白い隆央の身体、筋肉が収まっている場所。
「こことか」
 わき腹、撫で上げて、胸。ボリュームのある太腿をもう片方の手で触る。
「どんなふうに動くのかな。どんな線が見えるのかな。隆央くんは――」
 上に届いた手で頬をひたりと撫でると、隆央はまたびくんと肩をふるわせた。
「どんな表情になっちゃうのかな……見たいよ」
 とどめ、とばかりにぎりぎりでとどまらせていた興奮を奥までひといきに押し込むと、隆央は顎をのけぞらせてびくびくとふるえた。内部が収縮し、深谷も呻いたが、予想していた動きに、かろうじて出さなかった。
「隆央くん」
 腰を掴んで起き上がるように促すと、隆央は呼吸を喘がせながらも「もう、」となんとか身体を動かす。深谷にしがみつき、懸命に身体を捩る。
 要望に応じてくれるのが、嬉しかった。隆央を無駄に刺激しないようにそっと自身を引き抜いて、深谷は寝そべる。
「――今日だけだから」とのろのろと上になった隆央は言った。行き過ぎる快感に、泣いてしまうんじゃないかと思えるほど瞳に涙の膜が出来、きらめいて見える。
「恥ずかしいから、あんまり、……見ないで」
「それは無理な注文……そう、そのまま」
「――あっ……ああっ、あっ――っ」
 深谷に跨り、再挿入を果たした隆央の悲鳴は尾を引いた。深谷の腹にしっかりと手を突きつつ、上下に腰を揺らす。深谷の視線から逃れるかのようにうつむく顔に、顎に、手をやった。上体を軽く起こし、隆央の顔を上向かせる。
 半開きのくちびるからは、深谷への恨み言も心地よさも全部いっしょくたになった嬌声しか出てこなかった。
「――うん、とてもいいよ」
 揺さぶられて、深谷ももう限界だった。下から突き上げると、隆央は首をがくがくと振って身悶えた。
「本当に、あなたは最高だ――」
 聞こえていたかどうか、隆央は触られもしないで射精した。深谷もいく。終わると、隆央は気絶するように寝入り、夜半になっても意識を戻さなかった。


 腕を伸ばし、腰を伸ばし、身体の動作確認をした隆央は、「これで今日これから出勤なんて信じられないよ」と言った。
 朝、早く目を覚ましたのは隆央の方だった。深谷の家に置きっぱなしのスエットを身に着け、庭に出て行く。音で目をさまし、深谷も縁側へ出ると、すでにまぶしい朝日の中に隆央が佇んでいた。庭のあじさいが隆央を彩っている。絵画のようで、その背中に見惚れた。
 振り向いた隆央が笑う。自身の魅力を知り尽くしているかのような、鮮やかな笑みだった。出会った頃よりずっと、隆央は魅力的になった。うぬぼれかもしれないけれど、もし自分が隆央をそうつくったのだとしたら、これ以上の喜びはない。
 深谷はそのまま縁側に腰掛ける。
「どうも家にいると、あなたに無茶なことばかりさせてしまうけど、大丈夫?」
「そんなやわなつくりしてないから。――まあ、昨日はさすがに、」
 と、微笑まじりのため息をつく。深谷もゆっくりと微笑む。
「次はどこか出かけようか」
「次、って、いつ?」
「隆央くんが来てくれる日」
「じゃあ、再来週の末かな……でもまだ梅雨の真っ最中だろ、」
「雨が降ったら、家にいよう」
 そう言うと隆央は声をたてて笑った。そのまま見つめあう。
 梅雨の中晴れ、朝日を浴びてきらきらと輝く隆央は、最高によかった。この人とこういう仲になれて、深谷はいま、満ち足りている。散々な人生を送ってきたとは言わないが、離婚や、母の介護や、深谷なりの苦労がこれまでにあった。人に言えない性癖を、分かち合える日が来るとは思わなかった。
 深谷の視線がまた、陶然に満ちる。隆央はすぐそれに気づきながらも、見つめる深谷の前で、じっと佇んでくれている。


End.



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虜になればいい
こわれそうだよ
トップシークレット



拍手[51回]

 離婚し、祖母とも死に別れ、一人暮らしとなった叔父の元へ月に二度か三度足を運ぶのは、庭の花の手入れを優志(ゆうし)が行っているからだ。マンション住まいの優志にとって花は買わねば手に入らぬものだが、郊外の一軒家を継いだ叔父は違う。庭には、生前の祖母が喜んだという理由で残された花々が一通りは揃っている。花の手入れを叔父はしないので、優志が出かけてゆく。
 父は、歳の離れた叔父のことをいたく可愛がっている。両親に替わって学費の面倒までみた大事な弟で、叔父が離婚した時は叔父の元妻のことを「ひどい女だ」とののしり、祖母が死んだときは「あいつがかわいそうだ」と悲しんだ。早くあたらしい妻をめとってしあわせになってほしい、としょっちゅう話している。だから優志が「今日叔父さんちに寄ってくる」と言うと、安心するのか、喜ぶ。
 せっかくの花だから会社へ持ってゆく。社内の環境美化にいいと、評判でもあり、噂でもある。男で、花の世話が趣味で、その花を持ってくるのだから、優志は目立つ。それ以上に人見知りしない屈託ない性格のおかげで、からかわれることはあっても花を持参する優志を蔑む人間はいない。ありがたい環境だ。
 優志の世話する花なのだから、好きに取って行っていいと叔父は言うが、そういうわけにもゆかない気がして、一応顔を見せる。行く日はまえもって決め、連絡を取っておく。花をもらうだけが目的なら、朝に寄ることが多い。叔父に挨拶をして世間話をしながら花を摘み取り、そのまま会社へ持ってゆく。
 余裕がある時は母が前の晩に二人分の弁当をつくってくれる。明日の朝食に、という意味だ。そういう日は叔父の家に上がって二人で弁当を食べる。叔父は物腰がやわらかで話題も豊富、少々幼いような言動は、人に好かれるいい性質だと思っている。一緒にいて、苦痛がない。心許せる、ほっとくつろぐ朝のひと時だ。
 その週も、行く約束をした。あじさいが見ごろだから持って行くといいよ、というメールを叔父から受け取っていた。日にちは前もって指定していたのだからいいかと思い、前日に確認のメールなどしなかった。月曜日、叔父の元へ顔を見せると、知らない顔がいた。
 庭に出て、縁側に座る叔父となにか親しげな目線をくばせあっていた。会話をしていなかったから、存在に気付かなかったのだ。いつものように庭の裏口から入った優志は、そこに人がいるなど思いもしなくて、驚いた。
 若い男だ。優志と同い年ぐらいだろうか。大人しそうな顔立ちで、色白。Tシャツにスエットパンツといういでたちで、まだ眠りから覚めないような格好をしていたが、男にしてはややくびれたその腰つきに、つい、と目がいった。
 似たような格好をしていた叔父が、目を丸くして「優志」と名を呼んだ。
「――忘れてた。今日取りに来る、って言ってたんだっけ」
「そう。……俺、邪魔? ならまた日を改めるよ」
「いや、全然いい。構わない……よね、隆央くん、」
 と、叔父が優志の隣の男を見遣る。隆央くん、と呼ばれた男は優志を見て、「おはようございます」とぎこちなく挨拶をした。
「甥の、優志だよ。兄貴の息子。この庭の花の世話をしてくれててさ、会社に持ってくって言って花をもらいにたまに朝寄るんだ」
「はじめまして、おはようございます。……っと、」
「隆央くん。ええと――友達だ」
 初対面同士を引き合わせて、叔父が喋る。友達とは、ざっくりとした説明だ。「昨夜泊まっていったから」と朝ここにいる理由を叔父は述べた。
 友達にしては歳が離れているだろう。会社の後輩と言われた方がまだ分かる気がしたが、そういうことでもないようだ。年齢を超えた友人というものをあまり持たぬ優志にとっては、なおさら謎の人物だった。
「泊まるほど、仲いいんだね」
「まあちょっと、昨夜は色々と長引いて――」
「深谷さん、」
 隆央が叔父を呼んだ。会話を制するタイミングだった。
「時間あんまりないから。――シャワー借りるよ」
「ああ、うん、……」
 知っている風に庭を進んで、隆央は家の中へ入ってゆく。敬語をつかわなかったから、会社関係の人じゃないか、と納得する。叔父はしばらく頭の後ろを掻きながら隆央を見送っていたが、やがて振り返って「あじさい、綺麗に咲いたね」と指差す。
 庭の隅に、青色のあじさいがひっそりとある。
「今朝も弁当あるけど……俺、帰った方がいい?」
 あじさいだけもらって早々と出社する、段取りも頭の中で考える。
「いや、いいさ。一緒に食べよう。――あ、そうか、」
 ふ、と叔父は頬をゆるませた。
「隆央くんの分はつくらなきゃなんだな」
 そう言って、叔父は家の中へ進んでゆく。なんとなく楽しそうだった。今朝はとりわけ機嫌がいいなと思いながら、優志は花を刈るべく、鋏を取り出す。


 叔父と、隆央と、優志とで座卓を囲んで朝食となった。隆央はあまり喋らず、緊張しているようにも見えた。シャワーからあがった後はスーツ姿で、ああ会社員なんだな、と分かる。叔父もまた出勤すべくスーツに着替えていた。
 母親の用意した朝食は昨夜余分に炊いておいた炊き込みおこわの握り飯で、ひとり三つずつという母のもくろみのおかげで、ちょうどよく三人で配分出来た。それから叔父が用意したみそ汁に、白米を炊き足して、サンマの缶詰、デザートに枇杷。これは隆央が持参した手土産だという。
 どんな友達? と訊くと、叔父は曖昧に笑った。
「歳が離れてそうだからさ、」
「うーん、優志は、花が好きだよな」
「そうだね」
「うん……。花って、好きなものって、眺めていたいだろ? そういう仲。ぼくと隆央くんは趣味が合うんだ。同好の士、ってやつ」
「花好きな仲間ってこと?」
 ははは、と叔父はまた曖昧に笑う。日頃、素直に言葉を発する叔父を思えば、なんだか歯切れがわるかった。「花好きなんですか」とこちらには敬語をつかって隆央に聞いてみれば、隆央は咀嚼していたものを飲みこんでから、うん、とひとつ頷いた。
「もう散っちゃったけど、ハナミズキとか好きですよ」
「ああ、駅前の通りに毎年見事に咲きますよね」
「そう……――」
 なにか喋るかと思って間を待ったが、沈黙だった。隆央はみそ汁をすする。
 叔父も、あまり喋らなかった。窺うと、どうやら隆央を見ている。隆央の一句一動に耳をすませ観察し、わずかに微笑む。隆央はあからさまな叔父の視線に気付いているのかいないのか、それを涼しい顔でやり過ごしている。
 曖昧なまま分からぬ二人だ、と思う。だが叔父の熱っぽい視線に、違和を感じた。なんだろう、心が軋むような。それは普段、優志と会話を交わす時には生まれない毒、だと感じる。
 そしてその視線の熱源を、自分も知っているような?
 食事のあいだは、うまく思考がまとまらなかった。ただ叔父は隆央を見、隆央は静かに座っている。


 あじさいは水揚げがわるいので、出社後すぐに給湯室へ行ってミョウバンを切り口につけた。こうすると花持ちがする、と他界した祖母が生前のまだぼけていない頃に教えてくれた。青色のあじさいは、どう飾ろうか、考えるのが楽しかった。家から持参した平たい花器に、枝を短めに活ける。
 早朝の社内、誰もいないかと思えば、同期の水上(みなかみ)がいた。
 机に突っ伏して、寝ている。ブラインド越しの朝の光に、地黒のはずの髪はやや茶色く見えた。さらりと乾いたストレートな髪だ。綺麗だな、と思ったから、部屋には入らず入口で眺めていた。こうやって思う存分眺められるのは、周囲の目と、本人の目が、優志にない時だけだ。
 突っ伏して眠っていたはずの水上は、片手をぴょいとあげて、ひらひらと振った。
「――あれ、起きてたのか?」
 と訊くと、「やっぱり深谷か」と水上は顔をあげた。
「誰かの視線を感じた」
「……」
「おはよう」
「おはよう」
 ひとまず花を窓際の棚の上に置いた。水上の席は窓際なので、自然と距離が近付く。水上はがりがりと頭を掻く、その気だるい仕草も見入ってしまう。見つめていたいが、そういうわけにもゆかない。
 水上とは仲も良いが、友情だけではない感覚も、最近は覚えつつあった。うまく言葉にならなくて、息苦しい、と感じる。水上を綺麗だと思うのだ。男に綺麗もへったくれもなさそうなものだが、なにか、特別なものに思える。べつに、水上が目立って美しい造形をしている、というわけではない。社内一のイケメンと言えば別の人間の顔が思い浮かぶ。水上は、いたって普通の、そこらにありふれて存在するごく一般的な人間だ。だというのに、優志には水上の、一挙手一投足が気になる。ことあるごとに、眺めていたいと思う。
 見つめすぎて、変な噂が立ちそうだと自分でも自覚していた。だから最近は、水上を出来るだけ直視しないようにしている。ふたりの間はいま、若干のぎこちなさを抱えていた。
 棚に腰を預けて、休めのポーズで言葉を探る。なにか言うべきか、なんにも出てこない。水上は再び机に突っ伏した。
「――眠いのか?」
「……昨夜、あんまり寝付けなくて、朝まで起きてちゃってたから、仕方なく会社来た、って感じ」
「はは。なんか悩み事でも、あんの」
 ごく軽く、言ったつもりだった。すると水上は「なんかなあ」とため息をついて言う。逸らしていた目線をようやく水上に向かわせた。水上は顔をあげない。
「……昨日、総務の飯山さんとめし食いに行って、……」
「ああ、うん、」飯山と言えば、優志や水上よりもひとつ上の、男性社員だ。
「飯山さん、男とつきあってんだって」
「……――えっ?」
「言うなよ、口止めされてるからな」
「言わないけど、……」
 優志は、驚いた。水上と違って特別に仲が良いわけではないから、生々しい想像はできない。それでも「男同士」という事柄にぎくりとした。
 水上はまだ顔を上げない。今日は全然顔を見せてもらえない。
「男同士でキスって、――おまえはできる?」と優志は言った。今回水上が知った件に、興味があった。
 朝の、叔父と隆央の姿が思い浮かぶ。なぜなのかは分からなかった。ただ、近頃もやもやと言葉にならない自分の感情の行き先がどこなのか、はっきりさせたい。そういう意味で、いま優志が放った発言は、自分の意思を確かめるものでもあった。
 水上が顔を上げた。窓を振り返り、ようやく目が合う。
「……」
「……」
 しばらく無言で見つめ合う。頭の片側がじんと痺れ、ちりちり焦げつく感覚がする。水上を、やはり見ていたいと思った。水上をつくっている血肉を、造形を。花のいろかたちに惹かれるように、水上の姿かたちを、本当はずっと眺めていたい。
 水上は恥ずかしそうに身を捩り、顔をそむけて言った。「――できるよ」
「え?」
「おれ、深谷となら、キス、できる」
 がん、と脳天を棍棒で殴られたような衝撃を受ける。と、水上は席を立ち、一歩、優志へ寄る。その顔が優志に吸い寄せられるように、ぴたりと重なる。
 水上は目を閉じている。優志は目をあけている。
 鼻から息が触れ、その下で実にやわらかいもの同士が触れ合っている。
 くちびる同士をくっつけただけの幼いキスだったが、時間は長かった。水上が離れるまで、優志はじっと水上を見つめていた。間近に迫る目蓋の、わずかな動きを。触れそうな睫毛の先を。額にかかった髪と眉毛の生え根を。
 やって来た速度と反して、水上はゆっくりと離れていった。優志はまだ水上を見ている。気まずそうに目を逸らした水上を、やがて本来の気の強さを発揮して、きっと優志を睨みつける、まなざしを。
「――その目、すんな」
 水上にそう言われて、優志は思わず「あ」と掠れた声を出した。
 すべて分かった。叔父が隆央を見ていた理由が。叔父にとって隆央は特別で、眺めていたい存在なのだ。きっと、触れたいと思いながら、それを愉しんでいる。隆央は隆央で、その視線を、喜んでいる。恋愛感情と、本能がほの暗く結びついた、淫靡な二人。
 水上の言う「その目」が叔父と同じものであるならば、優志は気付いてしまった。自分の本来の望みに。
 気付いてしまったから、もう視線を隠せない。もっと見たい、ずっと見ていたい、水上を。
 触れてみたい。
「――水上、」
 照れも戸惑いもためらいもなかった。
「今夜、つきあってくれないか」
「……」
「水上、」
 二度目の呼びかけで、水上はそっと頷いた。観念したように、恥ずかしげに、それでも、喜びをたたえた笑みで。


End.


関連:
虜になればいい 
こわれそうだよ



拍手[52回]

 夏が終わり涼しい風が吹くようになり、秋物の衣類を買った。綿にウール混のセーターで、濃紺と臙脂のボーダーだ。普段は流行りものに疎いのに、色合いに惹かれてつい手に取ってしまった。
 Tシャツにそれを合わせ、深谷の家を訪ねた。無地の服ばかりを好む隆央(たかひさ)のちょっとした心境の変化を見抜いたか第一印象がそれほど違ったか、とにかく深谷はやって来た隆央を見て「お」と声を発した。
「長袖だ」
 そっちかい、と隆央は苦笑する。
「深谷さんだってそうじゃんか」
「秋だね」しげしげと隆央をあの目で見る。「とても似合うよ」
 深谷のその台詞を聞いてから、猛然と恥ずかしくなった。やっぱりこんなの着てこなければよかったという後悔と、もっと褒めてほしいという気持ちと。そしてなぜだか深谷も照れて頭を掻いている。以前だったら、こんな台詞もあんな台詞も平気で口にしていた。
 しばらく沈黙していた。なんだか気まずい、というか、お互いに面はゆい。こんなんで今日の鑑賞が耐えられるのだろうかと危ぶんでいると、深谷は「よし今日は出かけよう」と言った。
「ぼくもちゃんと身支度してくる。ま、あがって。で、ちょっと待ってて」
「え、なんで」意図が汲めなかった。家にすっかり引きこもり、好きなことをして過ごす隆央を眺めている、のがこれまでの深谷だった。「用事あった?」
 廊下を進みながら深谷はひらひらと手を振った。「今日は天気がいいし」
「K市とかどうかな」超有名観光地の名が挙がった。
「Kって、結構遠くない?」ここからだと直通の電車もバスもあるが、移動には一時間半ほどかかる。そんなにがつっと出かけたいのだろうか。至ってインドアな、深谷が。
「この間書店で特集雑誌が並んでてさ、行ってみるのもいいかなって、思っていたところだった」
「行ったことある?」
「昔母親連れて一度だけ。隆央くんは?」
「高校があっちだったから、まあ、」
「ああ、そうか」
 だったらなおさら頼もしいな、と深谷は笑った。
「なんかいいとこ連れてって」
 着替えてくるから。そう言って、深谷は寝室として使っている部屋へさっさと行ってしまった。




 K駅に着くとどこを向いても人、そして鳩しかおらず、思わず「うわ」と声をあげてしまった。深谷は本当にここへ来たかったのだろうか。隣を見ると深谷もまた苦笑いしており、それから「ここへ来たらお宮へお参りするのが一般的なルートなのかなあ」と観光案内所でもらったパンフレットを眺めて呟いた。
「隆央くんのオススメは?」
「ええー、訊かれても……」ばっちりと視線が合いそちらに心臓が高鳴った。一瞬逸れた気を必死で引き戻す。「お宮からここの歩行者天国は人が多いから、この道を横手に入って、とか」
「高校はどこだったの、」
 一緒に地図を覗き込む格好になり、家にいるよりも外にいる方が近い、と意識してまたひやりとした。

「ここ、この端っこのとこ」
「けっこう遠いな」
「高台にあるから見晴らしは良かったけどな、海が見えて」
「じゃあそこ行こうか」
 あっさりと決めて、バスはどの路線を使えばいいのかなどとバス乗り場の方へ向かってしまう。後ろ姿を急いで追いかけ、正解のバス乗り場へ引っ張る。
 こんなかたちで母校に向かおうとは想像しなかった。「歩きたい」と言った深谷は高校の最寄りのバス停よりもひとつ手前で降り、二人でうらうらと歩いた。ここまで来れば観光客はさすがにいないが、住宅街のど真ん中、生活道路として一般市民の出入りはある。隆央の後輩だと思われるジャージを着た高校生も、休日であるのに見る。
 交差点の角にぽつんと建った商店を覗き、「ここでなにか買ったりした?」と楽しげに訊ねられた。隆央がうんとも言わないうちに深谷は梨をひとつ買い求め、商店の主人に頼んでそれを半分に割ってもらった。片方を寄越す。
「さすがにこんな買い食いはしたことないよ」深谷にそう言うと、「じゃあなにを買った?」と訊き返された。
「チョコレートバーとか、アイスとか肉まんとか、ジュースとかパン、カップめん」
「かなり利用していたんだ」
「この辺ってここぐらいしかなくて……あとは学校の購買と、さっきのお宮付近まで下るとか」
「なるほど」
 梨は瑞々しく硬くすっぱく、あまかった。果汁で手をべたつかせたまま、高校までの急な坂をのぼる。のぼりきってすぐにあるグラウンドの水道を拝借した。またどこからか深谷がペットボトルのお茶を調達してきて、隆央に渡してくれる。
 グラウンドから見える坂下の町並みを、深谷と共に眺める。微妙に色の違う屋根がなんとか重ならないように寄り集まって広がっている。その向こうにはなだらかな山があり、さらに向こうは海だ。この眺めを教室の窓から見ているのが常だった三年間に思いを馳せたが、深谷の視線に気付いてすぐに振り返った。ぼんやりと景色を眺めている隆央を、熱に浮かされたように見ている。
 目が合うと、それでも初心に顔を逸らした。決まり悪そうに耳の後ろを掻き、また隆央を向いて、「どんな高校生活だった?」と優しく訊ねられた。
「どんな、って」
「部活やってた?」
「やってた。…笑うなよ、放送部」
「へえ」
 意外、という顔をした。隆央も意外なのだ。
「機械もの扱うのが好きだったから、友達に入れられて裏方やってたんだよ」
「アナウンスをしたりは?」
「それは、朗読の上手い奴がいてさ。声にもセンスってあるんだな、ちょっと掠れるのに、響いて」
「それが、もしかして放送部に入れてくれた友達?」
「そう、仲良くて、……」
 隆央に喋らせたいのか隆央のことを聞きたいのか、はたまたいつものように眺めていたいのか。深谷の要求がさっぱり分からない。問いに問いが重ねられ、隆央ばかり喋っている。そのたびに嬉しそうに頬を緩め、目が合うと逸らされ、また質問が降る。
 高校から下って再びバスに乗り、今度は駅より手前のバス停で降りた。人でごった返す歩行者天国を歩く。ここでも深谷の疑問は繰り返され、おまけにべたべたに甘やかされた。「アイス食べる?」「なにか飲む?」「あれ美味しそうだよ」等々。日頃がつめたい人だとは決して言わないが、静かな時間を好む深谷と別人格なんじゃないかと疑えたほどだ。
 もう今日は一体なんなんだ、と駅前の喫茶店に入ってから深谷に訊ねた。深谷はきょとんとしてから、ばつが悪そうに顔を逸らし「やっぱ変だったよね」と言った。
「……いや、夏休みにさ……隆央くんに、脱いでもらったでしょう」
 夏休み、一度だけ深谷の前で裸になった。家はクーラーが効いていて涼しかったのだが、周囲の暑さにかこつけて申し出た。躊躇しながらも「いいの」と訊いた深谷の目は確かに光っていたのに、それだけで、それきりだった。大胆な行動に出てなにもなかったのだから、あの時の自分を呪いたい。
 いきなりその話題を振られて、周囲に聞かれちゃいないかとうろたえた。そういえば深谷はいつもこうだ。自分よりもはるかに大人のくせに、場をわきまえて視線や発言に気を付ける、ということをしない。
 幸い店はごった返しており、各々の事情で忙しい。睨みつけるように深谷に「それがなに」と言うと、深谷は困り顔で「あれ以降、あなたと二人だとだめで」と答えた。
「部屋の中であなたと二人っきりだと考えたら、どうにも耐えられないような気がした。でも今日、隆央くんは長袖になっていて、あああれはもう見れないのかとがっかりする自分もいて」
「……なに言って……」
「そう思うくせに、今日の格好はとてもすてきで、連れ出したいと思った。こんな子と歩いているんです、って周囲に見せたかった。歩きながら色んなこと聞いて、甘やかしたかった。でも見せたくない気もしてくる。家に閉じ込めておけばよかったって行きの電車で後悔していたから、もう、なんていうかな」
 色々とぐるぐるしててまとまっていない、申し訳ない、と深谷は言った。本当に参っているようで、子どものようにテーブルに頭を伏せた。
 こんなことを聞かされて、平気な顔じゃいられない。いられる訳がない。
 倒れそうだった。足からふるえが来る。深谷に引っかきまわされているように思っていて、自分はちゃんと深谷を虜に出来ていた。猛烈な喜びと羞恥が一緒に押し寄せ、たまらない。頭から突っ伏したいのは隆央の方だ。そっちばっかり上手でずるい、とさえ思う。
「深谷さん、帰ろうよ」吐息をこぼしながら、ようやく言えた。
「おれだってもうだめ。だからそういうこと、外じゃ言うなって言うんだ……」
「すみません」
「おればっかり喋らされて子どもみたいだって、思ってたんだよ」
「それもすみません。でも舞い上がって浮かれて、変にそわそわして、子どもみたいはぼくの方。中身子どもでも外側はおじさんだからさ、こわれそうだよ」
 ようやく顔を上げた深谷に、再び「帰ろうよ」と言った。笑ってやろうと思ったのに上手く笑えず、声は上ずって子どもじみた。
 それを目の当たりにした深谷がまたそっぽを向く。
「そうだね、帰ろう」
「うん」
「でも一時間半もかかるんだよねえ」
 ここへ来ようと言ったのは深谷だ。そんなこと知るか、と突っぱねようにも、隆央も同じことを憂いていたので「うん」としか頷けない。
 一時間半もこんなあまく急いた気持ちで電車に乗っていたら深谷の言う通り壊れる。心臓割れてはじけて、死ぬ。
 帰り道に思いを馳せながらしばらく喫茶店で二人、向かい合ってコーヒーを啜っていた。


End.


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