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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「寝ちゃった?」と訊くと、駒川は「寝ちゃいました」と答えた。
「――なんだ、プリン買って来たのにな」
「明日みんなで食べましょう。――野山さん、こっち、こっち」
 と、リビングに晴を手招く。足音をたてぬようそっと床板を踏み、廊下を進む。リビングの手前にある子ども部屋を覗くと確かに、奏と颯介は布団を跳ね飛ばしてすうすうと眠りについていた。
 リビングのテーブルの上には、駒川がつくった簡単なつまみと酒類が並んでいた。
「おいしそう」
「野山さん、なにか食べました?」
「いや、全然。だから腹減っちゃって」
「すぐ酒でいいですか?」
「あとでごはんも食べたいです」
「はい」
 グラスは、冷えていた。蒸したおしぼりも出てくる。駒川のこういうところのまめさが家庭科教師でマイホームパパたる所以だろうかと思う。晴にはまねできない芸当だ。
 冷えたグラスに、冷えたビールを注いでもらった。晴も注ぎかえして、静かに杯を合わせる。
「――今週もお疲れ様でした」
「――はい、お疲れ様でした」
 内臓へと落ちていくビールは、ひどく沁みた。


 *


 対話の結果、駒川と晴は付きあうことになった。駒川は晴のことを「気になる人だと思っていた」と言い、晴は失恋したばかりで淋しくて、人恋しかった。ひとりで頑張ると決めた一方で本当は誰かにめちゃくちゃ愛されてみたいと思っていた。気持ちの向きが一致したので、付きあいましょうか、と駒川に言われた。もちろん、まるごと鵜呑みには出来なかった。駒川は女性の方が好きだろうし、子どもまでいる。無理をしてまで男と付きあう必要は、どこにもなんにもない。
 晴からすれば、女性に走れる男などもうごめんだ、というのも正直なところだ。ライバルがこの世のすべてのものになる。誰に嫉妬を抱いていいのかもう分からない。だったら同じ性癖の男を探してくる方がまだ、心が穏やかな気がする。
 駒川はそんな晴に「じゃあ僕のことはどうでもいい?」と訊き返した。
「……」
「違いますよね。野山さんって、かなり? 結構? 僕のことを好いてくれている、と僕は思う」
 駒川の言葉に、晴は不承不承頷いた。耳まで熱い。駒川は「僕もですよ」と朗らかに言う。
「慎重に、ゆっくり、焦らず、のんびり。そういう恋をしませんか。僕と、あなたで」
 それはもう最高の口説き文句で、酸欠になるぐらいくらくらした。


 *


 以来、土曜日の夜に駒川宅を訪れて泊まって行く、という日が続いている。付きあいはじめて三週間、「同僚」から「恋人」への道のりを、二十分の一ほど歩んだ、という感じだ。
 つまりほとんど進展していない。
 駒川宅で駒川のつくった美味しいごはんを食べ、酒を飲み、夜は健全に眠る。朝は駒川の子どもらに起こされた。昼ごはんまで目一杯遊び、昼食を共にしたら、そこで帰る。駒川も晴も翌日からの仕事に向けた準備があるのだ。駒川宅を去る時は、駒川親子三人で見送ってくれるが、この時がいちばん淋しいし、残念に思うし、少しだけほっとする。
 きっとまだ駒川自身も晴にどういう接し方をしていいのか分からないのだ、と考える。晴だって分からない。晴は、あまりにも初恋が長すぎた。たった一度の恋を十年引きずったのだ。恋愛経験が貧しく、おそらく疎い。
 リビングで飲んでいると、駒川が「あ、そうそう」と言って席を立ちあがった。そのまま部屋を出て行ってしまう。晴は駒川まで消えたリビングを、ぐるっと見渡す。隅にまとめられたおもちゃ、シールの貼られた本に、壁にかけられた子ども用の上着や帽子。ごちゃごちゃと生活のにおいがただよって、それは晴の家には決してない温みで、晴は不思議に思う。本当に駒川と付きあっているのかな? 実感がないのは、付きあいはじめて数週間、という時間のせいだけではないように思う。
 ふ、とため息をつく。この先を進んでいいのかこのままがいいのか、よく分からない。分からないことだらけだ――と思いながらビールを飲んでいると、駒川が戻ってきた。
「――これ、これ」
「え?」
「野山さん、はい、どうぞ」
 そう言って駒川は、手にしていた若葉色の帽子を、晴にかぶせた。きゅ、きゅ、とつばを引っ張って位置を調節する。「あ、似合いますね」と晴をまじまじと見て言うので、とても、とても照れた。
「サイズいかがですか?」
「ちょうどいい、と思います。……なんで、帽子?」
 晴はかぶせられた帽子を脱いで、手に取って眺めた。裏地もきちんとついているが、タグがない。まさかと思い「作ったんですか?」と訊くと、駒川は素直に「はい」と頷いた。
「いやあね、ずっと気になっていたんですよ」
「え?」
「うちへ来るのに、バスと徒歩でいらっしゃるでしょう。もう日差しも強いってのに、なんにもかぶらないで来るのはきつくないかな、って。これから夏で、熱中症にでもなったら困りますからね。特に野山さんがお帰りになる時間は、昼日中ですから」
「……それで縫ったんですか?」
「息子の手提げ袋を直さなきゃならなかったので、ついでです、ついで」
「そんなに簡単にできるものですか」
「あなたがバイエルを弾けるのと、きっと同じですよ」
 駒川はにこりと笑った。「ぼくはピアノを習っていたけど、結局三か月も続かなかったな」と言う。
「結構苦労したんですよ。特に、頭囲を測るにあたって」
「あ、そういえばよくサイズをご存知だな、って……測ったんですか?」
「測りました。野山さんが寝ているあいだに、こう、そっと枕を外してね」
 こうやって、と駒川はジェスチャーで示す。眠っているあいだ。無防備なところを駒川に触れられていたと分かって、急に頬が火照り出した。
「お、起きてるときにしてください」
「内緒にしておきたかったんです。それで、びっくりさせようと思って」
 いたずらっこの笑みを浮かべて、さも満足げに駒川は息を吐いた。
「……びっくり、しました」
「良かった。大成功ですね」
「嬉しいです。ありがとうございます。……でもあの、今度から眠っているところは勘弁してください」
「嫌でしたか?」
「せっかく、……触れてもらったのにぼくは寝ていた、だなんて、」
 そこまで言いかけて、あ、気持ち悪く思われないかな、と思った。口をつぐんだ晴に、駒川はふ、と吹き出した。
「じゃあ触りなおしましょう」
「……」
「まず、手から」
 そう言って駒川は、晴の手を取る。遠慮するでもなく大胆に、しかし丁寧に、手を握ってくる。晴は手のひらに一瞬で汗をかき、それが駒川に伝わってしまったことが、恥ずかしかった。
「気持ちいいですか?」と駒川が訊いた。
「は、……恥ずかしい、です」
「ん……いいですよね、こういう、心許ない感じ」
 晴は座りが悪くなり、身じろぐ。触れているうちに、汗ばんでいるのは晴の手だけではないことも分かってきた。駒川の指は、晴の知らない感触がした。骨ばっていて、ざらついていて、湿っていて、熱い。
 晴は目を閉じて、うつむく。そうでないととても人の体温に耐え切れないように思えたのだ。頬や、耳が赤くなっているのが、きっと駒川にはばれている。ふ、と駒川の吐息が、晴の前髪に触れた。額にキスが落ちたのだ。
 晴はびっくりして、慌てて顔をあげた。キスをした張本人は、「はは」と照れ笑いしている。駒川の頬もまた赤くなっていて。晴はこの恋が、自分のものだけではないことを知る。
「――驚きすぎ、野山さん」
 と駒川は言った。晴はなんだか鼻の奥がつうんとして、泣きそうになった。駒川の照れ笑いを見たから。なんて幸福なんだろうかと思ったから。
 まばたきをして、涙を誤魔化す。晴はそのまま、駒川の唇に自分の唇を押し付けた。
 至近距離で駒川は目を大きく見開いたが、「ふふ」と吐息を漏らすと、自ら唇を押し付け返す。
「どうしましょうね、今夜は」
 しばらく唇を押し付けあい、離れて、駒川は楽しそうに呟いた。唇同士は離れても、まだ手は繋いだままだ。
 晴は答える代わりに、ぎゅっと手に力を込めた。



End.



晴の失恋:晴れて幕引きの青
晴と駒川:まばゆく光る



拍手[56回]

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 日曜日に部活動はなかったので、開店直後の洋菓子屋に突入して、ケーキを購入した。晴の感覚では祝いごとならホールケーキだろうと思うが、それぞれにリクエストがあるので、ピースケーキを選ぶ。駒川の好きなムースの類は、りんごのムースとキウイフルーツのムースの二種類があり、迷ったので、公平に皆二個ずつ買った。好きなものを分けあえばいいと思う。
 ここのところ良い天気が続いている。駅前の繁華街から駒川の自宅まではバスで四十分ほどかかる。バス停からも十分ほど歩いたはずだ。駒川の家には何度か行ったことがあり、子どもたちも、晴の顔をもう覚えている。
 家に着いたのがちょうど開始時間の十分前だった。駒川の娘――今日の主役である奏(かな)が出迎えた。彼女は九歳、この春小学校四年生に進級したばかりだ。弟の颯介(そうすけ)はまだ幼稚園生だ。でもかなり喋る。
「ハレちゃん!」と奏が叫ぶ。頭には、駒川が編んだカンカン帽をかぶっている。上手いものだと思う。大きなケーキの箱を渡してやると、彼女は「ありがとうございます」と覚えたての敬語で答えた。
「お父さんは?」
「あっちで料理つくってます」
 確かに家じゅうに、こうばしい香りがただよっていた。奏に案内されるままに、晴は進む。キッチンまでやって来ると、駒川は紺色のエプロンを身に着けて息子と共にちらしずしの最後の飾りつけをしているところだった。
 晴の顔を見て、ふっと笑う。つきりと心臓が鳴り、違和感を、晴は一瞬考える。
「――ようこそいらっしゃいませ」
「どうもお邪魔します」
「おとーさん、ケーキもらった。ケーキだよ、ケーキ」
「待て待て、食後の楽しみに取っておけなあ」
 テーブルの上にはご馳走の数々が運ばれる。から揚げやエビフライなど子どもが喜ぶ品がメインで、でも晴の好みに合わせてアボカドのサラダが用意されていて、嬉しかった。ちらしずしに、ちいさなココット容器にはグラタンもあった。
 子どもたちにはジュースをあけ、大人用にはビールやチューハイを出して、駒川はそれをグラスに注いでくれた。
「誕生日おめでとう、奏」
「奏ちゃんおめでとう」
「おめでと!」
 乾杯をして、宴は始まった。駒川の料理は申し分なく、子ども向けなら多少くどいかと思っていたが、するりと入った。途中、食べることに飽きてしまった子どもらはアニメーションのDVDを見始めた。それを遠目に眺めながら、駒川と酒を酌み交わし、料理をつつく。
「――このアニメDVDは今朝、元嫁から届いたんです」と駒川は子どもたちから目を離さないまま言った。
「……誕生日プレゼント?」
「そういうことですねえ」
「……会いに来たりは、しないんですか?」
「月一で会ってますよ。でも今日はお祝いできないって。明日から遠方で会議があって、今日の内に前乗りするそうです。それに子どもたち、とくに奏は、微妙な年齢になってきましてね。元嫁と会うと決まって不機嫌になるんです。甘えたいのに甘えられないからなのか、自立したいのに自立できないからなのか、きっと彼女の中で色んな要因と、葛藤があるんでしょう」
「……」ぐびり、とチューハイを煽る。
「ズィス・ファイト・オブ・マイ・ライフ・イズ・ソウ・ハード。――ってご存知です?」
「なんですか?」
「最近聞いた歌がそう言ってました。本当にね、so hard」
「……」
「でも楽しいですよ」
 とビールを飲んで、駒川は微笑んだ。しばらくの沈黙の後に、晴は決心して口をひらく。
「――振られたんです」
 駒川がこちらを向いた。
「例のあの子に、この春。振られたというよりは、失恋が決定しました。……子どもを連れて歩いているところを、見て、」
「……」
「ああぼくは、こんなに彼と添いたかったのに、もう、そんな人生は用意されていないんだと分かって――」
 本音を漏らすと、声がふるえた。そう、それがなによりも痛かった。望んでいたことは、叶わないこと。ほぼ諦めていたことだったけれど、奥底の一点ではずっと期待していた。晴はうつむく。駒川は一言、「かわいそうに」と言った。
「This fight of my life is so…hard」
「……はい」
「そう、……難しいものですね」
 駒川はとん、とん、とテーブルの上で指先を叩いて戸惑っていたが、その腕を晴の背にまわして、手のひらをあてた。晴は驚いて、顔をあげた。久々に感じる人の体温だと思った。
「――さすってもらうと楽でしょう。痛いの飛んで行け、というやつです」
「……あまり優しくしないでください。ぼくは男が好きな男なので、……優しくされると期待します」
「こんなときまで自分にブレーキかける必要はないと思いますよ。どうぞ、感情に素直に」
 そんなことを言うから、泣くつもりなんかなかったのに、泣けた。情けなくなる。目元を手で覆い隠し、「すみません」と謝るも、駒川はやさしく背を叩き続ける。
 ひとしきり泣いたら、感情の昂ぶりが徐々に治まってきた。駒川がお湯で絞ったタオルを渡してくれたので、ありがたくそれを顔にあてる。
「――なにがしたいですか?」
 と駒川が訊いた。
「失恋記念。いままで我慢していて、出来なかったこともおありでしょう。なにがしたいですか?」
「……携帯電話を替えるとか、髪を切るとか、ひととおりやってしまいました」
「おお、そうでしたね」
「でも、落ち着かなくて」
「ぼくはもう一度ぐらい恋がしたいな、と思いましたよ。元嫁と別れたとき」
 駒川はそう微笑んだ。その顔を見て、元嫁、という単語を聞いて、心臓がつき、と痛んだ。
「もう苦いところもしんどいところもとことん味わい尽くしてますからね。今度恋愛したら楽しく、穏やかに恋愛できると思いました」
「……そういうのは、ぼくはもう、いいです」
「まさか。まだまだ、これから」
「……ごめんです。あの、気持ち悪い話かもしれませんが、たとえばぼくがこれから駒川先生を好きになったとして」
「――はい」
「駒川先生は女性が好きな方だし、お子さんもいらっしゃって大切にしてらっしゃるし。――ぼくに利がない。そういう思いを、もうしたくない」
 喋っているうちに、本当に苦い思いがした。駒川に失恋したような気分。
「……ぼくは、」
「たとえば、僕が野山さんを好きになったら」
 晴の言葉を制して駒川は朗らかに言う。仮定の話でも充分びっくりした。
「楽しいと思うけどな。毎日笑わせてやります。悲しい思いしている間なんかないぐらいね。確かに子どもはいますけど、ひっくるめて四人で楽しめる、と信じます」
「……ふたりがいい、と駄々をこねたら?」
「ふたりの時間もつくりますよ、もちろん」
 アニメーションがエンディングを告げる。奏がこちらを振り向いて、「ケーキ!」と叫んだ。駒川は「はいはい」と立ちあがる、その腕をそっと掴んだ。駒川は腰を宙に浮かせかけて晴を見遣る。
「――あの、……どこまで本気に、していいですか……?」
「野山さんが楽しいと思えば、どこまでも本気にしてくださって構いませんよ。――という言い方は、ずるいか」
「ずるいです」
「大人になるとずるい言い方をたくさん覚えますね。――この続きはまた、ふたりのときに」
「ふたり、……」
「大事なことなので、ゆっくり丁寧に話しあいましょう」
 にっこりと笑って、駒川は席を離れた。キッチンに向かい、冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。「重いと思ったらケーキがたくさんだよ、奏」「すごーい!」「見せてー!」口々に叫ぶ声が聞こえる。
「わたしショートケーキと、プリン!」
「あ、だめだよ奏、プリンはきっとハレちゃんが食べるよ」
「ぼくもプリンがいい」
「野山さあん、プリンが人気なんですけどー」
 駒川が困り笑いをしながら晴を呼ぶ。まるでそこいらじゅうが眩く光っているようだった。
 好きになってもいいかもしれない、と思った。


End.


← 前編



作中出てきた歌詞はOWL CITY/Beautiful Timesより。歌詞が美しいです。




拍手[58回]

 家庭科準備室の駒川羊介(こまがわようすけ)を訪ねると、準備室内にいた駒川含む四人の教諭すべてがそれぞれの机で黙々と編み物をしていた。
「――あ、あのー、駒川先生……」非常に声をかけにくい。
「はい、はい。ここの段のこま編みだけ終わらさせてくださいそしたら話を聞きます」
 と駒川は編地から目を離さずに答えた。駒川の向かいにいた中年の女性教諭が「駒川先生のこま編み」と呟き、それを合図に他の三人が吹き出した。晴(はれる)にはその意味がちっとも分からない。なんだ、コマアミ。フェルマータやスタッカートと言ってくれた方がまだ分かるのに。
 駒川の隣の席の若い女性教諭が気を利かせて「お入りください」と、扉をあけたまま突っ立っている晴に入室を促した。
「先日から我が家庭科準備室メンバーは編み物部を結成したんです」
「編み物、ですか。なにを編んでいるんですか?」
「立川先生はサマーベスト、鈴木先生はドイリー、私がショールで駒川先生はカンカン帽です」
「――はあ」
 なんのことやら、である。すると間もなく駒川が「編めた!」と叫ぶので、駒川の机の元に寄った。机の上には糸(だと思う。なにかの繊維のかたまりにも見える)と鋏、金色の編み棒に、編みかけの編地と本が広がっていた。本に記されている記号はまったく読み取れなかったが(楽譜の方がずっとたやすく読める)、写真の女性がかぶっているのは、麦わら帽子だった。
「え、これを編んでいるんですか?」
「そうですよ」
「麦わら帽子って編めるんですか?」
「麦わらじゃないですけど、編めますよ。こういうね、ちょっと特殊な糸つかって、ぐるぐるっと編んでいけば」
「……駒川先生がかぶるんですか?」
「それもいいですけど、これは子ども用です」
 と駒川が言うと、駒川の斜め向かいに座っていた、この部屋のメンバーでは二番目に若い女性教諭が、「お子さんの誕生日プレゼントにするって約束しちゃったんですよねー」と口を挟んだ。
「あ、お子さん。……女の子と男の子、どちらの誕生日ですか?」
「女の子の方です」
「誕生日はいつ」
「四月二十五日。さてすみませんね、野山先生の用事をお聞きしましょうね」
 駒川はにこっと笑い、「島根ユリカの件ですか?」と訊いた。
「あ、そうです。昨日ぼくのところにやって来て、やっぱり実技を見てほしい、と」
「O大の幼児教育コースね。あそこは二次試験で面接と実技やりますからね。過去の課題曲、訊きました?」
「あ、はい。島根さんは中学までピアノやってた、というので、……そんなに難しくはないと思います。幼児教育ですし」
「矢野はどうです? H音大って、正直行けるもんなんですか?」
「レベルは高いですが、ひょっとすれば指定校推薦枠で行けるかもしれません。昨年、H音大にはうちからひとり推薦で出ていますが、彼女の評価が良いみたいで。矢野くん、評価点いいですしね」
「推薦っていうと、実技と面接ですか」
「そこはぼく見ますんで」
「助かります。芸術系の進路はねえ、どうしても専門科の先生にお願いするしかないんですよねえ」
「家庭科もそうじゃないですか」
「いやー、僕は編み物出来てもピアノ弾けないからね? ありがたいねえ」
 という言い方がしみじみと年寄りくさかったので、晴は思わず吹いた。駒川は同い年だ。どうも他の科と違って家庭科は、やわらかいというか、のどかというか、ものごとの受け止め方が楽観的だ。
 家庭科唯一の男性教諭である駒川は三学年ひとクラスの担任であり、こんな物言いをするが、進路指導に熱心だ。同じ高校に勤めだして三年目、同い年というだけあって気が知れていて、何度か飲みに行ったこともある、良き同僚だ。生徒や同僚らと出来るだけかかわりを持たないで来た晴だが、駒川とはなんとなく、公私ともに付き合いがある。
「ところでイメチェンしたんですね」と駒川が話題を変えた。
「え、ぼくですか?」
「そう、あなたです。髪切って、パーマでも当てました?」
「いえ、髪を切っただけです。この長さにすると、癖毛が出てしまって」
「いい感じにスタイルチェンジしましたね。似合っていますよ。ねえ?」
 と、部屋の女性教諭に同意を求めて、彼女らも笑って頷いた。「顔のかたちが良いのが分かりますねえ」「少し色入れたらもっといいんじゃないですか?」「素敵」と口々に言われ、晴は照れた。
「野山先生ってずっと同じ髪型だったから、短くすると新鮮ですね。襟足とか」
「どこ見てんですか、もう」と女性教諭のひとりが突っ込む。
「なにか心境の変化でもありましたか?」
 駒川は晴を見あげて、またにこりと笑った。晴はごまかしきれないのを感じながら、他の教諭の手前、「春なので」と答えた。
「新学期ですから」
「そうですねえ」
「では、ぼくはこれで」
 去り際、駒川に「また飲みましょう」と誘われた。軽く頷いて、家庭科準備室を出る。
 校庭が見えた。いま桜はちょうど散り際で、ひらひらと白い花びらを風に扇がせている。


 ◇


 新入生がやって来るたびに約束を思い出してはずきりと痛んでいた胸は、今年こそ痛まないだろうと思っていたのに、まだひりひりした。三月に完璧な失恋をして、それは潔い失恋だったのに、未練というものは厄介だ。長年にわたって沁みついた癖や反射かもしれなかった。
 三月以降の晴の行動と来たら、忙しかった。住居を無理に移し、携帯電話を新規で契約し直した。髪を切り、ついでに眼鏡のフレームも変えた。外見も含めて変化があれば、胸の痛みは薄れると思ったのだ。
 髪を切ったらすっきりと涼しく、視界が明るくなった。同時に、晴はついに観念した。自分はこの先、人と添うことはないだろう。ひとりで生き、ひとりの人生を全うする。誰かを想うことで心に引っかき傷をつくるのはもう金輪際ごめんだと思ったし、それでも人の傍が良い、と思う気持ちに諦めもついた。ああ、じゃあほら、ネコでもイヌでも飼おうかな。そんな気分でいる。
 砕かれた希望、期待、あたらしい覚悟。それでやってゆけると、晴はかたくなに信じ込んでいる。


 ◇


 数日後、今度は駒川の方から音楽準備室にやって来た。ちょうど部活動の指導を終えて、生徒を帰した後だった。「うちのクラスの生徒の進路について、ちょっと」という。
「ほら、軽音部の園田。このあいだようやく進路調査票を提出しましてね。音楽系の専門学校へ行きたいと、言いだしたんです」
「専門、と言ってもピンからキリまでありますから。……どこを希望してます?」
「K音楽専門学校です」
「Kなら確か資料揃ってますよ。何年か前に、ひとり進学してますね」
「あいつは素行がまあ悪くてね。家庭環境が――」
 音楽室内にある学校案内のファイルなどをめくりながら、駒川と話した。駒川の喋り方はやわらかく、穏やかで優しいが、芯がある。頑なな意思も感じる。こういう喋り方、あの子もしたな、と過去のことを思い出す。まだ胸は痛む。まだ思い出す。
 ついぼうっとしてしまったらしい。駒川に「野山先生?」と指摘され、はっとした。
「――あ、すみません。ちょっと、」
「なにか変化がありましたよね、野山さん」
 と駒川は言った。
「いつか話した彼?」
 的確に言いあてられ、ぎくりとした。沈黙は肯定だ。
 駒川とは、かなり腹を割って話をしている。晴は駒川の離婚の詳細を知っている。ふたりの子どもの親権を駒川に預けてまで駒川の元妻がしたかったことは、女性としての自立だった。自由に働きたいから、という理由で駒川ら夫婦は別れた。「それぞれに色んな道があるんだよねえ」と自分に言い聞かすように語った駒川の、いつかの夜の酔った表情を、はっきりと覚えている。
 そして晴はゲイであることを打ち明けた。秘密には秘密で返そう、という等価交換の思いがどこかで働いたのかもしれない。過ちを犯して付きあった生徒がいたこと、彼をいまでも待っていることを、駒川には告白した。やはり自分も酔っていたのだ。駒川は驚いたふうだったが、「色んな道、色んな道」としみじみ言った。その遠い表情もまた、覚えている。
 ここまであからさまに知れてしまっては、駒川にはきちんと言うべきだろう、と思い、口をひらいた。けれどなにも言えず、晴は口をつぐむ。それを何度か繰り返していると、駒川は「ぶっ」と吹き出した。
 ぴんと張り詰めていた空気がぐっと緩む。
「すみませんね、笑っちゃって。いやでも野山さん、面白くて」
「……うまく言えなくて、……すみません」
「いやー、僕も立ち入ったこと突っ込んじゃってすみません。――野山さん、今度の日曜日あいてます?」
 唐突に訊かれ、晴は顔をあげた。
「うちの子の誕生日会をやるんです。よければうち来ません? 飲んでいいですよ。なんなら泊まって行っても」
「……あいてます。でも、」
「じゃあ、おいでください。僕、腕によりをかけて料理つくりますから、野山さんはケーキを買ってきてください」
「……」
「十二時からはじめますよ」
 ね、と駒川は念押しした。その言い方がまるで子どもに言い含めるようなあまい言い方だったので、晴はなんだか恥ずかしくなった。はい、と頷くと、駒川はにこりと笑った。
「子どもが好きなのは、駅前商店街『ジゼル』のショートケーキです。下の子は、チョコレートケーキ」
「ジゼルのショートケーキとチョコレートケーキ、ですね」
「僕とあなたの分も忘れずに」
「……駒川先生はなにがお好きなんですか」
「僕はムース系が好きだな。野山さんは?」
「プリンが」
「ああ、いいですね。プリンも好きですよ」
 じゃあ日曜日に、と言って、軽やかに駒川はいなくなった。


→ 後編



晴の失恋:晴れて幕引きの青



拍手[21回]

 訃報は、遅れて届いた。出先から帰宅すると封書が届いていた。差出人は嶋田さつき。まるっこい、でも丁寧な字で綴られた手紙は、三枚にも及ぶ大作だった。
 そこに、嶋田さつきの夫・嶋田緑朗(しまだろくろう)が亡くなった旨が書かれていた。


 歳が二十歳も離れているのに、あなたのことを「友人」だと言い張る主人を不思議に思っていました。ことあるごとに、主人はなにかとあなたのことを気にかけていました。その訳が、主人が亡くなってから分かりました。主人の日記をひらいたのです。あなたへの愛情がくまなく記されていて、わたしは驚くと同時に、納得もしたのです。
 葬儀は身内だけで済ませましたが、よければ線香をあげに来ていただけないでしょうか。主人も喜ぶと思います。なにより、わたしがあなたにお会いして、お話をお伺いしたい。


 手紙にはこう書かれていた。これは嶋田さつきからの呼び出した、と理解したとき、時生(ときお)は大きくため息をついた。死んだ嶋田緑朗に、未練はこれっぽっちもなかった。死んでなお修羅場を用意してくれたことに、苛立ちすら感じる。
 そうか死んだのか、と時生は思う。ようやく死んだと思うのか、まだ生きていてほしかったと思うのか、よく分からない。ただ、それはもう少し先の話である気がしていた。時生と二十歳年の違う緑朗は六十歳で、まだ充分若いと言えた。
 手紙の最後には、嶋田さつきへの連絡先が記されていた。やむなし、覚悟を決めて時生は受話器を取った。


 ◇


 出会ったときすでに緑朗は結婚していたが、ひと目見てお互いに恋に落ちてしまった。時生は二十歳で、緑朗は四十歳、大学の助教授と学生、という間柄だった。当時、緑朗は故郷に妻子を残して単身赴任中だった。自炊するよりは学生食堂で食事を取る方が栄養があって美味しい、と言う理由で、閉店間際の学食でひとり食事を取っていた。閉店間際の学食は、その日の残り物を叩き売るので、より安価で食事が取れた。貧乏学生だった時生にそれはありがたく、やはり食堂に通っているうちに、緑朗と仲良くなった。
 お互いに熱のある目で見ていたので、性癖をカムアウトするまでもなく、ふたりは自然に恋愛関係に陥ってしまった。故郷に妻子がいることを緑朗がどう思っているのかは分からなかったが、時生にとっては、そりゃあもう面白くないことだった。顔も見たこともない妻のことを考えては嫉妬に駆られ、夜九時になると必ず緑朗が妻にかける電話を、苛ただしく思っていた。それまで散々自分を愛してくれた手や、指や、声や、身体が、九時になるともう離れ、遠い故郷の妻へ向かうのだ。時生にとってのはじめてのこの恋愛は、様々な感情をもたらして、時生を不安定にさせた。泣いてしまいそうなほどの恋の喜びから、嫉妬、鼻がつんとするほど苦い涙、付きまとう不安。緑朗は優しかったが、優しいだけ身に堪えた。恋愛して楽しいだなんて、とても言えなかった。
 時生が卒業すると同時に緑朗は故郷の大学へ赴任することになり、関係は自然解消するかと思われたが、続いた。遠いT県から緑朗は「出張」と偽ってやって来ては、我も忘れて抱きあった。時生が就職して数年経ってもまだ続いた。そのころ、時間的にも金銭的にも余裕のできつつあった時生は、夏休みを少し長めに取って、緑朗の故郷へ遊びに行った。大胆にも緑朗と妻子が暮らす緑朗宅に宿を頼み、妻が用意する食事を食べ、子らと遊び、風呂に浸かり、布団で休んだ。
 古く広い、田舎の家だった。熱帯夜で、眠りづらかった。客間に敷かれた布団に横たわっていた時生は、ふと起きあがり、縁側に出た。そこには蚊取り線香を焚きながら一杯やっている緑朗の姿があった。
「さつきさんは?」と訊くと、緑朗は「休んだよ」と言った。子どもも休んだ、と言う。そして自分が舐めていた杯を差し出して、「きみもやるかい」と時生を誘った。
「ここは蒸し暑くて、眠れないだろう」
「確かに、気候が全然ちがう」
「――しかし、きみの行動には驚いたな……」
 と、緑朗は杯に冷酒を注ぎ、それを時生に寄越す。盃を受け取って、時生はそれを舐めた。地元の酒だといい、ずいぶんと濃い芳香のする、辛い酒だった。
「おれがここへ来たこと?」
「そう、きみがここへ来たこと」
「一度見てみたかった。緑朗さんが、どんな家に住んで、どんな人と結婚して、どんな子どもがいるのか」
「悪趣味だ」
「おれに手を出してる時点でもう、悪趣味はお互い様だよ」
 喋っているうちに苛々し、疲れた、と思った。こんなところまで来て、なにをやっているんだろう。堂々とおおっぴらに恋がしたいと思った。緑朗との恋はもうどろどろに淀んで、澱が深い。
「――別れようか」
 そう言うと、緑朗は眼鏡の奥の瞳をまるくした。
「まさか、それを言いに来たの?」
「そういう訳じゃないけど、いま思いついた。もう無理、おれは疲れた。緑朗さんはそう思わない? 無理があるって分かるだろう?」
「……たとえば、ぼくが離婚したら」
「ああ、そういうのやめて。あなたは奥さんも子どもも大事なうえで、おれとこうなっているんでしょう。どっちかなんて選べっこないんだ。強欲な人だよ。……おれは、そういうところにもう、疲れた」
「……」
「別れましょう」
 そう言うと、緑朗は視線を落としたが、やがてきちんと時生に目をあわせて「はい」と言った。翌日、帰る日は緑朗の妻にたくさんの土産を持たされた。途中のPAでそれを時生はすべて捨てた。


 ◇


 あれから時生は一度も緑朗の家を訪れていないし、連絡すら取っていない。
 ずいぶんと年数が経ったので顔も思い出せやしないんじゃないかと思ったが、仏壇に置かれた遺影の緑朗を見た途端に、ちゃんと思い出した。記憶の中の緑朗よりは歳を取っていたが、緑朗だった。手を合わせ。目を閉じる。終わってから振り返ると、さつきがその様子をじっと見ていた。
 さつきもまた、変わっていなかった。それなりに緩んだししわが寄ったし膨らんだが、さつきだと分かった。「こちらへどうぞ」と言われ、仏間の隣の座敷へ移る。足の低いテーブルに冷茶とぼたもちが用意されていた。ああそうか、彼岸だっけ、とカレンダーを思い出す。
 座布団に座り、茶を煽る。春先の気温の高い日で、冷たい飲み物がありがたかった。さつきは手元に用意していた、革のカバーのかかった手帳を時生へ差し出した。同じサイズの同じく古した手帳が、何冊かある。
「これ、捨ててしまうところだったんですよ」とさつきが言う。
「え?」
「亡くなる直前に、緑朗が仲の良い友人に預けたものだったの。自分が死んだら処分してくれ、と頼んでいたそうよ。その方は、捨てようかと思ったけれど、形見になるからと言って持ってきてくださったの。ひらいて、……驚いたわ」
「拝見してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
 日記だった。五年分まとめて書けるようになっているもので、いちばん古い日付は二十年前だった。そのどの欄にも「トキオ」という文字が記されているので、心臓が痛んだ。古い日付では、恋の喜びを。時生への愛を。別れてからは未練を、それでも時生の幸せを願う旨を。日が経つにつれて、それは闘病日記に変わった。肺を悪くしていたのだ。もう長くないと悟りながらも、「トキオは元気でいるだろうか?」と記している。


 僕がいない世界の空気も君は吸うんだろうな。
 どんな味がするものか、会って聞いてみたかった。


 最後の欄には、こう書かれていた。この「君」がさつきでなく、時生を指していることは、前の文章から充分理解できた。そもそもこの手帳にはさつきや子のことなど記されていないのだ。時生を思い慕うためだけにしたためられたものだった。
 さつきの手前、ざーっと斜め読みしただけだが、涙が溢れそうになる。こんなに想われていたことに、胸が熱くなる。自分はといえば、緑朗のことは、すでに過去のことだった。会いたい気持ちよりは、会って面倒な感情を引き起こされることを厭う気持ちの方が強かった。
「これもどうぞ」そう言ってさつきは、箱を差し出した。ちいさく細長い紙製の箱で、なにか菓子でも入っていたのだろう。開けると、綿が敷いてあった。その綿を取り除くと、枯れた小枝が出てきた。先端にまるい実がふたつばかりくっついている。
 触れるとちくりと、棘が刺さった。瞬間的に思い出した。いつか、緑朗と川っぺりを散歩したときに、ノイバラの枝を見つけた。あれは冬で、枯れ色の木々の中で赤い実をつけるノイバラを見て、なんだか無性に愛おしくなり、無理に摘んだものだった。鋏もなにもつかわなかったのでちいさな棘が時生の指に刺さり、帰宅してから、緑朗がルーペをつかいながら棘を抜いてくれた。
 その枝を大事に取っていたのだ。贈り物をしあわなかったふたりの、唯一残った「もの」だったのかもしれない。うつむいたまま、顔を上げられなかった。それでもなんとかこらえ、正面のさつきを向く。
「すみません、私は、」と口をひらきかけると、さつきが「いいえ」と制した。
「謝って欲しくてわざわざ来て頂いたのではありません」
「……」
「わたしね、緑朗には感謝しているんです。わたしや子どもに後ろめたいことがあっても、最後まで隠してくれた。一緒にいた時間はしあわせでしたし、不満はなかったわ。ただ、……あなたはそうではなかったかしら、と」
「……」
「同じ人を愛していて、こんなに差が出てしまった。わたしが女であなたが男だったからかしらね。緑朗が男の人を愛せるなんて、わたしちっとも知らなかった。……だからこれからも、知りません」
「え?」
「なんにも知らないのよ。その手帳の中身も、小枝の意味も。そういうことにしておきましょう」
 そう言ってさつきは自分の分の冷茶を飲み、「お代わりはいかが?」と訊いてきた。余裕から来るのかと思ったが、さつきの笑みは無理があるようで、この件で彼女も充分傷ついていることが窺えた。緑朗は「結構です」と固辞し、立ち上がる。暇を告げると、さつきは「そうね」と遠い瞳で微笑んだ。
 小枝と手帳は引き取った。その方がさつきにとっていい気がしたからだ。これは己が責任を持って処分しよう、と決める。帰り道、休憩のために立ち寄った高速道路のPAで、小枝を取り出して眺めた。
 まるで骨をもらったようだと思った。緑朗の骨。かつて愛していた人が残した欠片。

(僕がいない世界の空気も君は吸うんだろうな。)

 清しいよ、と時生は呟いた。緑朗のいない世界の空気は清浄で、肺を潤す。手の中の小枝を思わず握りしめる。やはり棘が刺さり、時生は痛みに呻いた。


End.



拍手[42回]

 駅前の交差点、ちょうど向こう側に、きみを見つけた。あれから十年も経って、きみは変わらず「きみ」だった。ひと目見て分かった。
 きみは幼子を抱いていた。強い春の日差しの下でもつやつやと黒い髪は風にそよいで、きみはその髪を愛おしそうに撫でた。瞬間、鋭い痛みが心臓を直撃したが、ぼくの表面は、そのままでいられた。ようやく解き放たれたと思った。深く悲しむと同時に、安堵した。これでぼくはやっときみのことを諦められるのだ。
 歩行者用信号機が青に変わる。ぼくは歩き出す。きみも歩き出す。


 ◇


 「晴」と書いて「はれる」と読む。ぼくの名前だ。難読といえば難読、明快といえば明快すぎて、ぼくは自分の名前のことが好きじゃなかった。
 生徒らからは「ハレちゃん」と呼ばれた。「野山先生」と呼ばれることは、最初のオリエンテーションぐらいのものだ。そもそも、苗字と合わせるとことさらひどい。出来るだけフルネームを名乗らないで生きてゆきたいものだと、小学校三年生のころにもうすでに決意していた。
 それをきみがひっくり返す。「いいなあ、先生の名前」と言うから、ぼくは思わず「どこが!」と生徒相手にむきになってしまった。
「え、良くない?」
「良くない。ぼくは嫌い」
「素敵だよ、晴天の晴の字。名前の中におひさまもおつきさんも詰め込んでる。この星、って感じしない?」
 そう言ってのけたきみは、当時天文部だったのだ。地学が得意で興味も持っていた。きみ自身が副教科に音楽を選択してくれたから接点がかろうじてあったけれど、そうでなければ音楽科教師、普通科理系クラスのきみとは縁遠かった。
 期末に行った実技テストをきみは風邪で受けられなかったので、後日再テストになった。放課後、音楽室へ呼び出した。そのとききみはいきなりこう言ったのだ。きみみたいに考えたことはなかったので、意見を意外に思った。
「おれは先生の名前、好きだな」そんなことまで屈託なく言う。
「そりゃ、どうもありがとう」
「気に入ってないんだ? どうして?」
「どうもしっくりこない。同じ字をつかうなら、『ハル』とか『セイ』と読ませてくれればいいのに」
「はれる」
 ときみはいきなりぼくの名を発音した。きみは決して歌の上手い生徒じゃなかったが、声はとてもきれいに響いた。
「いい名前だよ。呼んでると、気持ちまで晴ればれしてくる」
「ひばりでも鳴きそうで、悩んでいるのがあほらしくなる名前だと、我ながら思うよ」
「なに、先生ってネガティブなの?」
「こんな名前ならね」
「そんなに卑屈にならなくてもさあ」
 きみは笑う。喋っていないで実技テストをすべきだったのに、こんなになれなれしく喋ってしまったのは、きみは魅力的で、ぼくはきみのことをほのかに「いいな」と思っていたからだった。
 やせっぽちで、眼鏡がださいのは分かっているけれどコンタクトに替える勇気もなくて、ピアノが弾けるだけで音大に入って、けれど音楽家として成功するはずもなく、非常勤の音楽教師として高校に勤めているぼくに、きみは素敵だった。のびのびと生きている、と思った。他の生徒に、あるいはその年ごろの少年に見られるような鬱屈とした不満がないのは、きみが純粋に天文学が好きで、すべての情熱をそこへ注いでいるからだった。夢中になれるものがあるからこそ輝く若者を、ぼくだってその当時はまだ充分に「若者」と呼べる年齢だったにもかかわらず、眩しく思い、羨ましいと思っていた。
「上川くん」ときみのことをぼくは呼ぶ。きみはぴんと顔をあげて、ぼくを正面からとらえた。
「実技テスト、やってしまうよ。きみも早く部活に行きたいだろう」
「いやまあ、部活も好きだけど……。先生、ピアノ弾いて」
「弾かないよ。独唱の実技テストだよ」
「おれ先生のピアノ好きだから」
 かりかりと耳の後ろをきみは掻く。それから「いや、そういうことだけど、そうじゃなくて」と言い直した。
「先生の名前も、先生のピアノもおれは好き。先生自身のことも、好き」
「え?」
「多分、先生もおれのことが好き。授業中、よく目が合うよね。……違う?」
 違わなかったし、そんなに堂々ときみに思いが伝わってしまっていることに、驚いて恥ずかしくなった。ぼくは絶句し、顔を赤くしてうつむく。それをきみは笑って「ほらね」と言った。
「おれの名前、呼んで」ときみが優しく懇願する。
「……上川くん」
「下の名前」
「……青児(せいじ)くん」
「ね。知ってるでしょ、青だよ、青。おれの名前に陽が昇ったら、先生の名前になるんだよ」
 青色も好き、ときみは言った。きみには好きなものが溢れていて、そのまばゆい素直さに、ぼくは耐え切れない思いで目を閉じた。


 ぼくらの恋は、ぼくが思っている以上に急速に進んでしまった。学校ではなにごともないふうに、特に接点を持たずに過ごす。だがそれも放課後が過ぎるまでだった。夜になれば、きみはぼくのアパートへやって来た。パーカーのフードをかぶり、人目を忍んで。そしてぼくが出迎えればぼくを情熱的に抱きしめ、「一日って長いね」と、耳元で熱っぽく囁いた。
 部屋でぼくらは、手をつなぎ、ぼくの好む音楽(あのころはとある映画音楽が好きで、そのサウンドトラックばかりかけていた)を流しては、お互いのすべてを語りあった。ぼくが生きてきた二十五年間の話、きみが生きてきた十七年間の話。将来の夢、希望、目標。好きな食べものと嫌いな食べもの。血液型、誕生日、いちばん幼い記憶と、最近の感動。夜は短く、いくら時間があっても足りなかった。
 きみがぼくを抱いた日、ぼくは感動で泣いてしまったのだけれど、「大げさだよ」と言いながらきみの目にも涙が浮かんでいたのを、ぼくは覚えている。涙の膜が綺麗だと思った。奥手な性格のおかげでぼくは誰かと体温を共有するのがはじめてで、それはきみも同じで、覚束ないキスをしながら、手探りで、快楽を求めあった。摩擦する肌が熱を持つことを、当たり前でも、知らなかった。ぬめる体液も、はやる心臓も、汗を浮かせて恥ずかしいと思う気持ちもいっしょくたに、きみと経験した。きみは何度もぼくの名前を呼び、歓喜に、ぼくはふるえた。こんなに自分の名が心地よいものだとは思わなかった。ぼくもきみの名を懸命に呼んだ。ぼくの声はきちんときみの鼓膜をふるわせて、身体が喜ぶのが分かった。喜びが深まればふかまるほど、ぼくらの境界があいまいになるのが嬉しかった。
 交際は、半年続いた。惜しむらくは、きみとの季節を一年過ごせなかったことだ。夜になれば必ず不在になる息子を怪しんだ母親が、きみをきつく追及して、ぼくらの関係が表へ出た。きみは母子家庭で、お母さんのことをとても大切にしていたから、母には嘘をつけなかった気持ちも充分理解できた。
 それでもやはり、終わる気持ちにはなれなかった。
 きみの母親は、理解ある人だった。きみの気持ちを汲んで、そして世間体も気にして、このことは学校には黙っているといった。しかし別れを要求した。当然のことだと思う。学校にばらされるのが怖くなって、ぼくは学校を辞めた。きみはひどく落ち込んで、取り乱して、それでも母親に「あなたのためよ!」と強く言われるとなにも返せなくて、泣いた。かわいそうなくらいだった。
 ぼくは田舎に帰ることにした。引越しの日、きみはこっそりとぼくに会いに来た。「一年経って高校を卒業したら」ときみはひどい顔で言った。
「学校出たら、晴に会いに行く。それまで待ってて」
「だめだ」
「どうして」
「お母さんが悲しむよ。なんのためにぼくらは、別れるんだ」
「高校卒業したら、おれは家を出るつもり。構いやしないよ、じきに大人になるんだ」
 そう言ってきみはぼくを抱きしめてきた。荒っぽい抱擁は感情の表れで、ぼくは泣いた。きみを信じようと思った。「待ってる」とちいさく言うと、きみも頷きかえした。
 一年経った春、きみからはなんの連絡もなかった。姿さえ見せなかった。こちらから連絡する用意もあったが、ぼくは「待ってる」と言ったのだからと、きみを待った。
 二年経っても三年経っても、音沙汰はない。五年経ったころから、ようやくあきらめがついた。若者のいうことを真に受ける方が間違いなのだ。変化のめまぐるしい年代、なにがきみの身に起こるかは分からない。突然の恋、心変わり、寝て起きたらどうでもよくなっている事柄だってある。
 それでもぼくは待ち続けた。きみからなんの連絡はなくても、明日は来る、明日こそ、と信じた。


 ◇


 気付いたら十年経ってしまっていた。ぼくは相変わらずひとりでいる。
 きみも変わっていないようだった。状況は変わったかもしれないが、幼子を見る目が、優しい目つきがあのころを思い出させる。手をつないで話すとき、きみはあんな目をした。星や石の話はぼくには分からなかったけれど、くつろいだ表情で、きみは隣にいた。
 ぼくはたまに思う。本心できみのことを信じていたのかな、と。信じ切っていたら、別の道もあったかもしれない。ぼくから連絡を取るとか、会いに行くとか、別れない選択肢も、きっとあった。「きみ」を「待ち続ける」ことを理由にして、盾にして、ぼくはきっと自分を偽ったり、守ったり、していた。きみのせいに出来たから。ぼくは悪くない、と言えるから。
 幼子を抱いたきみの姿が、徐々に近付く。ぼくはあえて前を向き、前だけを向き、隣を通り過ぎる。と、瞬間的にきみが振り向いた。横目にしか確認しなかった。ぼくは前を向いて歩いていた。
 はれる、と聞こえた。
 ぼくは歩く。真っ直ぐ歩き、信号はぼくが渡り切った後に赤に変わった。やがて後ろを車が通り過ぎる。歩道を、ぼくは進む。
 涙が溢れそうになったから、上を向いた。ビルとビルのあいだに春の晴れ空が広がっている。青いな、と思い、きみの名前を呟き、また唇をひと結びにする。そうでないと、嗚咽が漏れそうだった。
 きみは行く、きみの道を。ぼくも進む、ぼくの道を。
 いま長い恋があける。浅く遠い青が、頭上に横たわっている。


End.
 



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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