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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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7. 青に金銀

 明るい場所から暗い場所へいきなり飛び込んでも、一分も数えればちゃんと目は暗闇に馴れる。目を開けてじっとしていると、瞳孔がひらく瞬間が分かる。急に視界が動き、闇だと思っていたものに、わずかな光や影を見出せる。世界の正体が少しずつ明かされて、安心と失望を一度に思う。
 夜は走ることにしている。トレーニングコースと称して行き先は学校だ。朝になればまたここへ来るというのに、夜中の学校をただ眺めて帰ってくる。そういうのを気まぐれに繰り返していたらいつの間にか高校二年も終わる。
 学校の表門も裏門も閉まっているが、門扉を超えるのは簡単だ。学校で折り返すのがいつもだが、たまに侵入する。外灯の下を素早く抜け、中庭へ向かう。第一校舎と第二校舎の間にある中庭は外灯が届かず、本当の夜(に近いもの)を感じられるのが好きだ。しばらく目を開けてぼうっとしている。やがて瞳孔が開いて闇の中に微かな光や影が見え出す。
 世界が急に煌き出す瞬間に、毎度ため息が出る。
 暗く重く空へ突き抜けるような校舎の天に、星がある。町中じゃ屑としか思えない光もここまで来れば星座になる。足元の芝生が凍っている。誰かが投げ捨てたごみも分かる。暗い教室のカーテンや、壁に描かれた落書きまで見える。バカ、とか、スキ、とか、死ね、の文字。
 みんな好き勝手で、鬱屈していて、力があって、そのくせ自分だけじゃどうにもならない物事だらけの、ばかになって騒ぐしか出来ない時代をまとまって過ごす場所。
 お喋りで人に干渉しすぎる町も、学校も嫌いだ。だから夜、わざわざこうして大人しい時間を見計らってやって来る。



 小さい頃のおれは、家の明かりがついていれば消してまわるような奴だったそうだ。
 普通、子どもなら逆だ。明かりがついている方が安心する。一人で留守番させていると真っ暗闇でごはん食べているんだからびっくりしたわよ、と母親はよく語る。暗いところにじっと目を開けて過ごしているので、この子は霊感が強いんじゃないか、云々と。
 おれにそんなものはない。死んだ人の魂どころか生きている人間の思うことだって分からないし、未確認飛行物体を発見するには、昼間の飛行機にも興味が薄い。現代人の範囲内で生きている。
 暗がりの、瞳孔がひらく瞬間とひらいてから見える部屋の様子が好きで、家の明かりを消していたのだ。
 それに気付いたのはいつだったんだろう。わりと早くから、暗い場所では黒目の大きさが変わることは知っていた。闇で目を開けていることは、おれにとってとても楽しい一人遊びだった。
 ぼんやりと浮かんでくる、物々の輪郭。外で誰かがやっている花火の閃光と閃光で出来る影。夜も深くなれば今日も誰かが寝て、電気を消す。消した分の明かりは空に灯るんだと、本気で信じていた頃もあった。
 窓を開け放してみること。大気は深々と響き身体と同じ音を出すこと。車が通って遠ざかること。空気が冷え込んできて、肺が痛くて咳が出ること。指先に血が逆流して、寒いのに急に火照りだす限界があること。
 小さな事実が感動として迫ってくる。だがこれは夜に限る。昼日中、日常生活でこんなことに心を奪われていては到底暮らしてゆけない。



 三月の屋外は、特に夜間は、まだ冷える。足元から冷気が浸み込んできて身震いし、後ろを振り返った。背後には黒々と巨大な校舎がそびえ立っている。
 暗闇の学校を抜け、また走り出す。途中、町の中心部を流れる川を渡る橋の袂で七嶋と出くわした。画塾を遅くまで使わせてもらったのだろう。厚手のウールジャケットを着て、画材を入れる帆布材の鞄を下げていた。
 白い外灯の下に黒い上着だと、七嶋にはまったく色味が見えなかった。時代の分からない白黒写真のようだ。身体の輪郭に光が追いついていない。半分ぐらいはたっぷりと闇に溶け込んでいるその姿に、背筋がぞくぞくして鳥肌が立つ。
「――キヨ、お帰り」ほとんど表情を変えずに七嶋は言った。「今夜はちょうどいいものがあるよ」
 明日学校で渡すつもりだったという紙袋を受け取る。中には手のひらに乗るようなサイズのりんごがみっつ入っていた。「デッサンの課題だったやつ」と七嶋は教えてくれた。「ちょっと古くなってるかも。輸入ものだから、すっぱいかな」
「ほんとだ、少しやわらかい」受け取って、意外と重みがないことに気付く。「また果物か、おまえは」
「明日、部活へ来るだろ、清己」
「――ああ、行く」
「先生から包丁とまな板借りて、みんなで食べよう」
 七嶋に合わせて歩きながら、ぽつぽつとりんごや画塾や部活動の話をした。不意に七嶋は立ち止まり、空を見上げてからこちらを見て、「引越しの準備は進んでいるのか」と訊いた。
 現在は三学期の終わりかけで、三学年の生徒はすでに卒業している。テストも終了し、ろくな授業らしい授業はない。二日後の終業式後すぐ、おれは東京へ引っ越す。父親に転勤について行く。編入先の試験も受け終え、通う学校もすでに決まっている。
 町を去ることに未練はまったくなかった。きっと東京という場所は、ここよりもはるかに水が合うだろうと思っている。この土地のことが本当に嫌いだ。遅かれ早かれ、大学進学でここを出ることは決めていた。
 唯一七嶋のことだけが辛いと思える。目が。瞳孔がひらいた後で分かる星空みたいな光の目が、おれをずっと見ていると知っている。しつこく追いかけられて、背中の後ろの毛が逆立つ感覚をいつも味わっている。この目にもう見られないかと思うと、身体が急に頼りなくなる。
 つむじの周辺ばっかり癖毛で巻く後ろ頭や、絵具が付きやすい左腕の内側の肉。名前を呼んで振り向かせたときの無防備にあく唇や、インクを飛ばして染みをつけてしまった背中の骨筋や。
 そういうものがもう一切触れない場所へ行ってしまうことがどれだけ日々のダメージになるだろう。まるで半身が欠け落ちたような涼しさを、引越しを決めてからずっと感じている。
「明日、部室の片付け手伝えよ」七嶋にそう告げた。「ロッカーや倉庫や、全部片付けて引き上げるからさ」
 七嶋がきつい目でこちらを見たが、気付いていない振りをした。
 七嶋がりんごをくれるなら、おれにだってあげたいものがある。
 ロッカーには、絵具がある。いつか使おうとして結局使わないでいた油絵具だ。好きな画家を真似てイエロー系とブルー系の絵具をいくつか揃えたのに、絵は描かなかった。使う予定もないのに惹かれて買ってしまったシルバーの絵具も混ざっている。これらを、七嶋にやろう、と。七嶋が絵を描けばそれだけで良かった。
「明日から暖かくなるらしいよ」七嶋が言った。「空、そろそろ霞んじゃうかな」
「七嶋さ、星座って分かる? おれあんまり知らないんだよね」
「そんなわけないだろ。キヨの方が詳しいよ。いつも見てんだろ」
 夜の学校へ忍び込んで空を見上げていることさえ、七嶋は知っているんだろうか。こいつと離れるなんて、おれは本当にどうかしている。
 離れたくない、でも行くんだ。
 星座はオリオンと北極星しか分からない、と七嶋が空を指す。その白い指先を、三秒見つめて目を閉じた。そして息を吸い込みながら目蓋をひらき、紺地に微かな金や銀の星々を数えはじめた。


End.


← 10(平林)





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 数日後の夕方、レジを打っていて店の窓の外がオレンジ色をしているのに気が付いた。少しだけ手を止めて空を見る。一瞬飛んで客に向かい直し、こなし、また次の客を迎える。客は「ラッピングをお願いします」と本を寄越しながら言った。
 声に驚いて顔を上げる。七嶋だった。
「――閉じ込められていたのに黙ってなかったことにしては、いけませんよ」
「――……あ、なんで、……」
「鍵を閉め忘れたことに気が付いて引き返したら、平林さんが階段を下りてくるところを見ました」
 屋上での一件は、誰にも気付かれずに終息した。あの後七嶋は電話を終え、屋上を出て行った。鍵を閉めて行かなかったので再び閉め出されることもなく平林は屋上を出ることが出来た。七嶋に気付かれてしまったのは、そういうことだ。ということは電話を聞かれていたかどうか気にしているだろうかと、「盗み聞きしてすみませんでした」と謝る。
 悪いのはこちらです、と七嶋は穏やかに言った。
「平林さんが黙っていらっしゃるのでまだ報告はしていませんが、閉じ込められてしまった、でいいんですよね。きちんと確認もせず、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、いえ。私もすぐ誰かに連絡をすれば良かったのに、つい、というか、なんというか、」
「すごい空でしたよね」
「――はい、すごい空でしたね」
 七嶋の言葉をおうむ返しにするしか答えられない。それでも七嶋は責めず、穏やかな顔でいる。
 ラッピングのリボンの色を訊くと、少し迷った後に七嶋は金色を選んだ。白地に星がプリントされた包装紙に金のリボンでは安っぽくて申し訳ない。七嶋が買う本は印刷の鮮やかなポストカード集だ。星や旅先の風景ばかり撮っている写真家が最近出したもので、コントラストの出し方が上手く、ぱっと見て人目を惹く。シリーズとしては古い。この写真家を選ぶ辺りが、七嶋だと思わせた。
 電話で喧嘩をしてあれきりなので貢いでやるんです、と七嶋が言った。誰と喧嘩をしたのかは当然、分かる話だった。
「――あの、本当に電話、聞いてしまってすみませんでした」
「いえ、あまりお気になさらず。――ぼくも、鍵がかけてあった屋上だからと油断してつい電話に夢中になりましたが、職場からする電話ではないですね」
「電話のお相手は、恋人ですか? 贈るには子どもっぽい包装で……」
「いえ、それは大丈夫です。こういうきらきらしたのは好きなんです。きっと喜ぶ」
 発言に驚いて顔をあげる。緩みきって惚気るならともかく、七嶋はあくまでも静かに語る。その淡々とした口調が発言の中身とまるで合わない。つい「恋や恋人は、いいものですかね」と聞いてしまった。
「――や、皮肉や妬みではなく。その、私はあまり、そういうことに関心がないので、」
「平林さんはちょっと遠慮しすぎなんじゃないですか」
 屋上での一件を言っているのか。代金を渡しながら七嶋は笑ったが、ふと真面目な顔をしてものを考え始めた。
「――恋や恋人では、ないかもしれませんね」
「え?」
「そういえば、好きだと言われたことはないし、愛してるとも言ったことがないです。付き合おうと決め合ったわけでもない。恋というと、少し違うような」
 釣銭を財布に収め、受け取った本をじっと眺めてから、答えた。「ぼくの場合は、情熱、と思います」
「執着、夢中、信望、そんなのです。向こうに言わせればまた違うんでしょう。ぼくは、どんな手を使ってでも気を引いておきたい。だからなんでもします、ぼくにとって彼は絶対的なものなんです」
 本、ありがとうございました、と結んで七嶋は去って行った。「彼」と言ったがそこはどうでもよかった。「情熱」の言葉にずしりと痺れていた。
 それは恋じゃないのかと思ったが、言わなかった。七嶋のことよりも、自分自身のことを考える。誰かが絶対だなんて、宗教さえ持たない平林に想像は難しかった。だと言うのに、羨ましいと思う。夢みたいな現実が、いまさっきまで目の前にいた男に起こっている。
 今夜はもう閉店時間で、いつも通り閉店作業をこなしメールをチェックして、母親の作った食事を食べ風呂に浸かって、読みたい本は眠気に負けて読めないまま、眠ってしまうのだろう。眠ったまま明日目覚めなければどれだけいいかと思いながら、朝になったら起きてしまう。慌ただしくも静かでなんの事件もない今日と同じような明日を送ってしまう。
 そんな毎日で、大丈夫なんだろうか。
 大丈夫ですか、と後ろから声をかけられた。あたたかい手が背中に触れている。従業員の時田が不思議そうな顔で平林を見ていた。「表、もう閉めましたよ」
 背中に添えられている手に、ふるえが来るほど安堵した。
「具合悪いですか」
「――いや、ちょっと考え事してた」
「しっかりしてくださいよ。店長このあいだから上の空ですよ」
 明るく笑う時田に救われた気分だった。いてくれて良かったと心の底から思った。そういえば時田とは一緒に仕事をしているくせに、通りいっぺんの情報しか知らない。ほっとしたまま、「今度飲もうか」と誘っていた。時田が勤務し始めてすでに五年近く、平日に誘うのはじめてのことだった。
 驚いた顔をして時田が振り向く。誘った平林本人も驚いている。
「今日飲もう、とは言わないんですか」少しして時田は表情を崩した。「部下に遠慮しすぎ」
「……いや、今日はもう、おふくろが夕飯をつくっちまってるからなぁ、と考えて」
「おれはいつでもいいですよ。暇で楽しい独身生活を満喫中ですから」時田も平林と同じく三十代を過ぎてまだ、独り身だ。
「満喫、してんのか」
「楽しいですよ。メシに凝ってみたりいきなり遠出してみたり怒られないで延々と本が読めたり。一人の楽しみを覚えた、っていう言い方をしちゃうと淋しいですが」
「……そうか」
 ここにも羨ましいと思える奴がいて、平林はついに笑ってしまった。
「うちで良ければ、メシ食ってかないか。少し窮屈だけど、ビールもあるよ」
「はは、喜んで」
「でさ、この間、おれが高校の屋上に締めだされた話を聞いてよ」
「ええ!?」と時田は声をあげた。「だから遅かったんですか? 言ってくださいよ、もう!」
 真剣に叱られた。それがなんだか、嬉しかった。


End.


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6.平林

 暮れてゆく空がとても綺麗で、ああこんなの忘れていたなあと思った。こんな風に、空を見上げたのは学生ぶりかもしれない。
 普段、この時間は建物の中にいるから空の色など気付かないで過ごす。商店街の書店経営は、夕方の客が重要だ。従業員だけでは対応しきれないのを手伝い、諸々の業務をこなす。空なんか見上げる暇がない。
 それにしても見事だった。青からオレンジ、オレンジから黄色。青の隅には紫も混ざる。何色と言えない色が頭上いっぱいに広がっていると、確かにドキドキする。いつか従業員の時田が「夕方の空見ると怖くて好きです」と言っていたことを思い出す。
 ――いや、思考を止めている場合ではないのだ。頭をぶるぶると振る。この状況からどうやって脱出するか、いい加減に肚を決めなくては。
 高校の屋上に閉め出されてから、一時間が過ぎた。



 県立F高校は、平林の経営する書店のある商店街のすぐ裏手にある。駅の東口を出て北へ進み、十五分ほど歩いた先の比較的大規模な商店街だ。高校に近いため、教科書も扱っている。春には大量の在庫をバンに積んで高校を訪ね教科書販売を行うし、その他参考書や辞書、学校図書館の注文も電話を寄越されればハイと対応する。高校があるから潰れずに成り立っている。
 今日は電子辞書の販売に来ていた。あらかじめ受けていた注文数を持参して、生徒昇降口前の指定された場所で販売した。午後三時からの販売に生徒は列を作り、連れてきた時田と二人では手が足りず、学校職員にまで手伝ってもらった。
 母親ひとりでやっている店のことが心配で、忙しさの波が引いた後は時田を一足先に店へ帰した。後片付けをし、煙草を吸いたくて屋上へ上がった。ぼんやりと壁に寄りかかって考え事に暮れていると、左後方で鉄の扉が突然締まった。警備員か巡回の職員が屋上の扉を閉め、鍵をかけてしまった。
 とっさに大声をだし、扉を叩いて自分を知らせることも考えたが、しなかった。なんだかとても面倒なことに思えた。このまま閉め出されても、死ぬようなことはない。どんなに閉じ込められていたくても、明日になればまた職員や生徒が登校して扉は開く。そこまで辛抱しなくても、携帯電話でいつでも助けが呼べる。
 そう考えたら、あと一時間ぐらいはここでぼんやりしていてもいい気がしたのだ。
 フェンスの方へ歩いて行って、校庭を覗き込んでみた。高いフェンスは先が内側に折れている造りで、越えられないようになっている。フェンスの向こうにもまだ1mほど屋根が続いている。ここは四階だ。地上15mほどの高さから見る校庭には、野球やサッカー、陸上に打ち込む生徒が小さく這いずっていた。声も届いている。
 どこかで吹奏楽部がぴろぴろと音を鳴らしている。歌も聞こえるか。下校する生徒の笑い声も響き、典型的な学校の放課後を、もう何十年も昔に学校を卒業したただの中年親父が、多少の危機的状況の中で眺めている。
 一時間ぐらいは、と高をくくっていたが、実際は三十分で限界だった。店はどうなっている。時田と母親だけで大丈夫か。トイレに行きたくなったらどうする。本気でここで夜を明かすつもりか。雨が降ったら、気温が急に下がったら。どうするつもりだと焦りが募る。
 さっさと携帯電話で職員を呼び出せばよかったのに、逡巡があって、それでもボタンを押せなかった。その矢先に暮れる空を見た。怯えるほど美しい空だ。現実から逃げ出したい気持ちがもくもくと湧き、脱出し損ねていることを可とも不可とも思う。
厄介事からは、死んでしまえば解放されるだろうか。屋上でこのままくたばれないか、だって明日も明後日も今日と同じ退屈な一日だと考えていると、鍵のまわる音がして扉が開いた。屋上へ教師が一人やって来た。
 眼鏡のかかった几帳面な横顔を見て、誰だっけ、と記憶を呼び起こす。よく世話になっている教師だ。確か、理科か数学の。いや、生物だ。生物科の七嶋――思い出した。
 声をかけるより先に、七嶋は電話を始めた。一直線に向かい側のフェンスへ歩きながら、耳元に当てた携帯電話でなにか喋っている。少しだけ笑っていた。「まだ学校、」と言ってフェンスにもたれた。「準備室は生徒がいるから、屋上」
 誰と喋っているのか、ずいぶんと親しげだった。七嶋は平林よりも五つか六つ若かったが、結婚しているかどうかは知らない。話相手が家族か恋人か友人かは判別がつかなかった。
 いつの間にか生徒は帰宅し、声が途絶えている。夕暮れの涼しい風が吹き、思わず身震いした。屋外で一時間以上も身体を動かしていないと、緊張しっぱなしで肩が痛い。
「――うん、きみは?」優しい声が響く。
「――良かった。なら、週末はそっちに行くよ」
「うん、――うん、」
「――そう、この間引率に行ったときに、」
 普段よりはるかに穏やかな語り口に、恋人ではないかと思った。だったら聞いていてはいけない。人のロマンスを盗み聞きしたい下世話な根性はあるが、自分に返って来るかと思うと冗談ではない。(もっとも語って聞かせられるような経験はないのだが。)
 七嶋の目を盗んでとっとと屋上を出てしまおうと考えたのに、七嶋はずっと入口の方を向いているから、出来なかった。のこのこと出て行ったのでは「何をしていたんだ」と思われかねない。だが、それも出来ないと帰るタイミングを逃し続ける。七嶋がこちらへ気付かないせいで七嶋の電話の内容を聞く羽目にもなっており、それがまた落ち着かなかった。
 それにしても、その歳でまだ恋に現を抜かせるだろうか、と考える。
 いま平林が誰かと恋が出来たとして、あんな風に電話は出来ない。きっともっと時間と周囲を気にして、つまらない返事しか出来ないのだろう。セックスは、心底どうでもいい。平林の乏しい経験では、自分でするのと恋人とするのと金でどうにかしてもらうのとはそう大差ない。
 七嶋をこっそりと眺めた。電話は続いているが、七嶋の表情が険しくなってきているのに気付いた。
ふう、と分かるように大きく息をつく。そして目を閉じる。顔をきつく歪め、「そんなわけないだろ清己」と呻いた。
「――生徒なんて、興味ない。きみが、――きみがいるのに、きみ以外に興味なんかない。なんでそんなこと、言うんだ、―――……ただでさえきみは遠いのに」
 逼迫した声に、身体の芯が緊張した。
 遠距離恋愛だろうか。そんな恋なんか、したことがない。電話口に愛を囁いたことだってない。ああいう顔をするのは恥だとさえ思った。そしてこの先もすることはないと思うし、なくても構わない人生だ。
 疲れるだけではないだろうか。面倒で、いつかきっと重たくなる。いまだけだ。心の中で反論する。誰に責められたわけでもない自分の恋愛観を、七嶋の声が真っ向から否定している気がして、言い返す。
 電話はまだ続いている。七嶋は「ああ」とか「うん」ばかりでほとんど喋らない。沈黙で、一体なにが分かり合えると言うのか。
 早く喋って欲しかった。喋って、電話を終えて、平林の存在に気付く前に去って欲しい。


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 さっぱりした気持ちで「おまえが言う通りだった」と鞠子に告げた。十月初旬、今度は放課後に鞠子の家に行ってアイスクリームを食べていた。鞠子は家業の青果店の、店番中だ。
 鞠子は意味分からないという風に首を傾げて、「おれ、なにか言いましたっけ」と訊ね返した。
「ずっと前に言っただろ、東京のおじさんは忙しかっただけなんだ、って」
「――はあ、その話ですか」顔がうんざりしている。
「あれ、そういうことにした。そうなんだよ、忙しかっただけなんだ」
「はあ?」
「しょうがないよな、かっこいい大人はそうじゃないとな」
 鞠子は心底分からない、と首を横に振る。
 結局、メモ書きの住所は訪ねなかった。悩んだ末あのメモは燃やしてしまった。友隆小父につながる人物が住んでいるかどうか、色々と確証のない物事であるし、友隆小父を暴くような行為に後ろめたさを感じた。というか、自分が心底嫌になった。だから、やめた。
 火を直接扱うのは理科の実験以来だった。父親のつかう灰皿の上で、紙切れはぽっと炎をあげて焦げて消えてしまった。燃やして、清々した。そうしてから、鞠子を労わってやる気持ちになった。
 ぼくにしたら珍しく、鞠子にアイスクリームを買って行った。ぼくらがいつも買うメーカーのものより百五十円も高い新商品だ。なにか裏があるんじゃないかとびくびくしながらアイスを受け取る鞠子が、可笑しかった。鞠子といると楽しいのは、中学からずっと変わらない。
 東京へ行くのやめたんだ、と告げると、鞠子はしばらくの沈黙の後に「えっ」と簡潔に叫んだ。
「大学、志望校変更。地元にする」
「地元って、これから変更? あんた東京がいいってあれほど言ってたのに」
「んー、でもなんかいい。東京はさ、就職のタイミングで行ったっていいじゃん。親も喜んだし」
「そういうこと言ってると一生出損ねますよ」
 呆れた、と言わんばかりの顔で言う。その顔に「だからこれからも頼むよ」と言うと、鞠子は口を中途半端に開けたまままた黙った。
「いいじゃん。こっちって、おまえいるし」
「いますけど、そりゃ、」
「そりゃ、なに。おまえも『大学は東京に』って考えてた口?」
「……考えてましたよ、東京。先輩行くって言うし」
 お、と思わず声が出た。鞠子を見ると、怒っているのか迷っているのか照れているのかよく分からない顔で、そっぽを向いていた。
 その顔を振って、こちらを向いた。「でも地元にするって言うなら、おれもこっちにします」と鞠子は言う。
「言っておきますけども、おれは先輩よりも真面目で勉強ができますから。地元だったらSランク狙いです。K学院大」
「え、ちょっともっと落とせよ、ランク。一緒のところ行こうぜ」
「あんたが勉強頑張ってください」
「無理だよ。これから志願変更すんだぜ」
 鞠子が大学受験をするまで、あと二年ある。鞠子が考えなおして志望校を変える方がいい。あ、違うか。思いつきに、ぼくは頷く。
「二年かけてベンキョしたら、さすがにK学院大もおれを入れてくれないかな。そしたら一緒に入学出来るな」
「……ばっかじゃないですか」
 呆れきって鞠子は、笑い出した。


End.



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→ 9(平林-1)






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5.慧介


 祖父の葬式の時、東京から来た友隆小父はなんだか落ち着かなかった。法要の途中にどこかへ電話をかけ、終了後の会食は最初の三十分を付き合っただけですぐに出て行った。その日のうちに帰る予定だと聞いていたが、帰らなかったのだと思う。どこに泊まったのか翌日になってひょこっと顔を出し、借りた傘を失くしてしまったことを詫び、新品の傘を置いて帰って行った。
 見目の良い人だけに、気にしている人間は多い。おまけに独身であるので、周囲が放っておかない。友隆小父の行動は、一部でちょっとだけ噂になった。ぼくの妹や従姉妹のアリサは友隆小父が姿をくらませたことを心底残念がったし、祖母や友隆小父の母親の千賀子おばちゃんなんかは「こっちにも愛人がおるだわね」「だといいんだけど」と喋っていた。
 友隆小父の帰り際にちょうど会えたので、受験で上京する際の宿を頼んだ。話のついでのように「なんで昨夜帰らなんだ?」と訊いた。友隆小父は、こちらがうっかり見惚れる笑みで「ちょっと用事が出来たから」と言った。
「会食の時も、最初しかいなかった」
「みんな集まるところってのが苦手なんだよ。どうして結婚しないのかしか、言われないしな」
「どうして結婚しないの?」
「好きな奴がいるから」
 それが、衝撃だった。そういう言葉は友隆小父ぐらいの年齢の人は言わないものだと思っていたからだ。そんなに当然のように口にできる言葉だったろうか。かえって照れてしまったぼくの頭を軽く突いて、友隆小父は「またな」と言って帰って行った。
 この時の友隆小父が忘れて行った白い無地のハンカチに、友隆小父が書いたメモ書きが紛れ込んでいた。それを丁寧に広げて、大事に取ってある。このメモは葬儀の途中、抜け出した電話の際に書いたものだ、というのが妹の情報だ。走り書きでどこかのアパート名と部屋の号数が記されている。いちばん最後に漢数字で「七」と書かれてあり、これだけ漢数字で離れているのが、よく分からない。
 ともあれ、この住所地に出かけたのだろうと、見当はつく。住所のM町はここからそう遠くなかったが、訪ねるには至っていない。訪問の理由がないし、あったとすれば完全に興味本位だ。友隆小父に知られたらあの涼やかな目で鋭く蔑まされるだろうと想像できる。―想像で身震いした。
 これが友隆小父の、祖父の葬儀での謎だ。



 やっぱ恋人とか、言うんだろうか。夏休み明けの九月初旬、二つ目の謎を後輩の鞠子に語って聞かせている。鞠子というがこれは苗字で本名は「鞠子裕貴」という。ぼくの「清己」という姓といい、「鞠子」といい、苗字だけだと女に間違われる。間違われて困るという悩みを共有できる後輩が鞠子だ。
 鞠子の通う県立F高校に放課後の時間をつかってやって来ている。鞠子の所属する写真部の活動が行われている、生徒会室横の空き教室だ。ジュースを飲みながら「新盆の法要に友隆小父が来なかった話」をした。
「忙しかったんでしょ」あっさりと鞠子はそう言った。「夏休みも休めないぐらい忙しい人だって前に言ってたじゃないですか」
 ぼくがあんまりにも友隆小父のことを話すので、鞠子は「東京にいるかっこいいおじさん」として友隆小父のことをすっかり把握してしまっている。
 鞠子の意見に、ぼくは「どうかなあ」と唸った。
「夏休み前に電話した時は、顔出すって言っとったし」
「予定が変わったんでしょ」
「なあんか最近、よそよそしいんだよな」
「元々そういう人なんでしょ。他人に興味ないって」
 面倒臭そうに鞠子は答えた。中学で同じクラブ活動に所属していただけの鞠子とぼくは、何故か馬が合って、それ以外でも仲がいい。進学先は別なのにこうして押しかけてしまうぐらいだ。
 七ってなんなんだろ。そう呟いたぼくに、「清己先輩は東京のおじさんのことが好きですよね」、と鞠子が言った。
「おう、お気に入り。かっこいいもんな。おれも絶対に東京行ってああいう風に暮らす」
「そういう意味で言ったんじゃないですけど……。そんなに気になるなら電話でもなんでも聞けばいいなじゃないですか。どこ行ってたの、とか、好きな人って誰、とか」
「ばっか聞けるかよ。かっこいいってことはつまり、怖ぇんだ、友おじさんは」
「はあ」
「凄みって言うの? すげえ目で見っからな。まあ、そういうとこがもう憧れなんだけど」
「はあ」
 気のない返事をして、鞠子は読んでいた写真雑誌を放り投げた。椅子に深く沈み込み、すっかり天井を仰ぐ体勢で「課題やんなきゃ」と呟いた。
 鞠子は、真面目だ。受験生のくせに鞠子のところへ来て勉強を怠るぼくと違って、毎日の予習復習は欠かさない。その上部活動は写真部と生物部と、掛け持ちしている。週末は塾にだって行っている。家業の手伝いだってする。だらだらと無駄に時間を過ごすことは、鞠子にはないらしい。
 そんなに勉強が好きなら替わって欲しい。替え玉受験って、ちょっと前にどっかでニュースになったよなあなと呟くと、真面目な鞠子は面倒臭そうでも相槌を打ってくれる。そのまま喋っていると、教室の扉が開いた。一人の教師が顔を覗かせ、「まだ残っていたのか」と険しい声で言った。
「もうこの教室は閉めるよ」
「――あ、すみません帰ります」
 教師の方を向くと、目が合った。黒縁眼鏡の真面目で硬そうな教師だ。年齢は友隆小父と同じぐらいに見えた。ぼくを見ると一瞬だけ目を大きくして、わずかに身を引いた。「その制服はT学園か」と上から下までぼくを眺める。
「来校者のスリッパを穿いていないな。学年と名前は」間髪入れず鋭く問われ、全身に緊張が走った。
「――あっ、T学園三年の、清己です」
「――三年、清己、」
「はい、あの」
「部外者は許可なしに校内へ入ってはいけない。次からはきちんと事務室を通って来るように」
「すみません、おれが入れました」
「鞠子、よそでやりなさい」
「すみません」
 ずいぶんと厳しい教師だ。鞠子に教室の戸締りを念押しし、隣の教室へ行ってしまった。「ああー、七嶋きびし、」と鞠子は唸りながら窓を閉めた。しちしま。七? ぎくりとした。
「――いまの、シチシマ先生、っていうのか?」
「そう。生物の先生すよ。もう一個の部活の方で世話になっています。厳しいけど、悪い先生じゃないです――けど、厳しい」
「シチシマってどう書くん」
「七つの、嶋はやまへんに鳥、だったかな。変な噂の多い人でさ。右目、見えてないとか」
「――え」ぞわりと冷感がこみあげた。「なにその、サスペンスホラーみたいな」
「だから噂です。試しにこないだ本人に訊いてみたら、見えてるよ、と笑われました」
 行きましょうか、と鞠子はぼくの分のかばんも自然に取って、寄越す。揃って学校を出てからも、考えていた。あの漢数字が苗字や名前の一部ということは、ありそうだ。
 数日間考えて、埒があかなくなり友隆小父に電話を入れた。
 そのことを直接聞くつもりではなく、名目は「東京でひらかれる講習会に参加するかもしれないから」にした。友隆小父は人に興味を持たないが、その代わり怒りもしない。うるさがったりもしない。大人でも子どもでも平等に接してくれる。
「――母さんがいいって言えば、だけど」
『それは自分で説得しろよ』
 友隆小父はそう言って笑った。明るい笑い声はあまり聞きなれない分、胸にじわっと来る。
 友隆小父が田舎を嫌がっていることは知っている。都会的でスマートな友隆小父に憧れて、ぼくが一方的に懐いているだけだ。田舎の高校生のぼくに親しくしてくれたり、怖い顔で葬式を抜け出したりと、色んな面を持っている。
 知らないことは――友隆小父のことならば、知りたかった。欲が口をついた。「なあ、好きな人って、どんな人」
『――いきなりなんだ』電話の向こうで息を吐く音が聞こえた。
「――いや、なんか、今後の参考に」
『参考になんかなるか』低い声で笑っている。
「いいじゃん、興味あるんだよ」
『――興味、ね。――んん、真面目で神経質で、許せないものには徹底的に厳しい』
 とっさに思い浮かんだのが、鞠子の高校で見た七嶋という教師だった。続けて小父は『でもおれは嫌じゃない』と答えた。
 心臓がどくんと大きく唸った。
『美意識が高すぎてだいぶおかしい』
「眼鏡かけてる?」
『さあ』
「片目の人とか」
『変な本でも読んだか、慧介』
「その人と付き合ってるんでしょ?」
『これ以上は言わない。もう、寝ろよ』
 早々に電話を切られた。電話機を片手に持ったまま考え事にふけった。似ている、気がする。偶然だろうに、少しずつ符合してゆく。
 机の引き出しに手を伸ばし、小父のメモを再び眺めた。鉛筆で書かれているから、日が経つにつれ炭素が削れて文字が薄くなってしまった。
 この住所にもしあの教師がいたら。そう考えると、鳥肌が立った。
 小父の秘密が知れるだろうか。


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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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