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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 雨の日の朗読会の話をすると、暁登はますます興味深そうに頷く。どんな本を読み合ったんですか、と訊ねられたので、台所を出て、夫の部屋にふたりで向かった。
 部屋は未だに雑然としている。けれど夫が生きていた頃にはなかった空白があり、もしくは山があり、暁登が作業を進めていてくれていることに時間の流れを感じた。もう夫はいないのだ。
 まだ地下の書庫に暁登は手をつけていないと聞いていた。というよりは、地下の書庫は本しかないので、後回しで良いと判断したのだ。そこに暁登を伴って進む。明かりを灯し、壁一面に据えられた本の列をぐるりと見渡す。一角に、早と夫が読み合った本を並べる書棚があった。読み聞かせよりは本の紹介に近かったかもしれない。後でお互いが読み返せるようにと、朗読した本は場所を決めて並べておいたのだ。
 早が読んだ本は、国語の教科書から知ったものがほとんどだった。教材として取り上げられているものの他に、便覧を眺めるのも好きだったので、そこで紹介されていた作家の本を借りたり取り寄せたりもした。
 対して夫は、海外で書かれた本の紹介が多かった。早は英語が苦手で、興味はあれど本当に分からないのだが、その点夫は違った。文化人類学の研究をしていた夫にとっては、その民族の風習を知るのにルポルタージュやドキュメンタリーよりも生活や思想が書かれた小説の方が良い、といつかどこかの新聞記者だか雑誌記者に説明していたのを聞いたことがある。各国様々な民族について研究していた夫は、その民族を他の民族と比較することで違いや、もしくは同一性を探っていた。よってここに収められている本も洋書に留まらない。興味が向けばどの言語のどの民族にも挑んだので、高じて夫は非常に高い語学力を持っていた。
 そんな説明をしながら早は本を一冊手に取ってめくる。ふ、とつい笑ってしまったのは、それが早が大学生だった頃に自分で描いて製本した、絵本であったからだ。
「早先生は絵本を描いたんですか?」と暁登が意外そうに訊ねた。
「もうずーっと昔の、大学の頃ですよ。卒業論文で絵本と教育についてまとめたんです。その時の教授に、あなたも絵本を描いてみたらと勧められて。いまで言う同人誌? の感覚でしょうか。物語を作ってそこに絵を当てはめて。とても楽しかったです」
 手製の絵本は周囲にも高評価だった。夫も気に入ってくれて、大事にこんなところに収めてくれていた。
 暁登は早の手から絵本をそっと受け取り、しばらく眺めていた。色鉛筆と水彩絵の具を使って描いた、ワニが街を闊歩する本だ。早は色なら緑色が好きで、その色をたくさん描ける本がいいと思った。微妙に色の違う緑色を重ねて描き、さらに深い緑色を生み出す。その作業にうっとりしながら描いた。
「いい本ですね」と暁登は眼鏡の奥の目を細める。
「感想を上手に言葉に出来なくて申し訳ないんですが、……なんか、楽しそう」
「楽しかったですよ、実際。いま冷静に眺めたら、文章も絵もめちゃくちゃですけど……プロではありませんので、生みの苦しみとか、締切とか、ましてや構図とかなんとか、なんにも考えずに楽しいことだけやって出来た本です」
「もう描かないんですか、絵本」
「描かないでしょうね。創作意欲よりは、毎日の生活を丁寧にしたい気持ちの方が強いんです」
 そう言うと、暁登は黙り込んでしまった。しばらくじっとしていたが、やがて本棚に目線を戻した。
「ここの本、しばらく眺めていてもいいですか?」と聞く。
「もちろんどうぞ。読みたいものは読んでいいですし、持って行かれても構いません」
 そう告げると、暁登はこくんと頷いた。本は読まれるためにあるのだ。それをこの若い人に継いでもらえた気がして、早は嬉しい。


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三.恋をしている


 その日は朝から雨が降っていた。冷たい雨は秋の終わりを予感させる。先日、ようやく畑に耕運機をかけ終わり、畑を休ませる支度が出来たところへ降った雨だった。夫は畑仕事を休める雨の日には夫婦でゆっくりしようと言って、短い小説や詩を朗読して聞かせてくれた。声のよい人だったので、この時間が早には幸福だった。
 早もまた、気に入りの本の一篇を読み返して聞かせたりした。彼女が読むのは児童書が多かった。早は小学校の教員免許も取得していたので、勤務先は中学校だけではく、小学校にも赴任した時期があった。その為か、日ごろ触れる本は低年齢層向けのものが多かったのだ。
 初めて夫と出会った時も、声の印象が強い。教え子の披露宴で出されたフランス料理に、食べ慣れぬものが出たなとナイフとフォークで応戦していたら、「箸をもらいましょうか」と隣から低音が割り込んできた。思わず顔を上げたら強面のひげ面がこちらを見ていたので少し怯んだ。田舎から出て来た冴えないおばさんが、慣れない食器に苦戦している様をばかにされたのだと一瞬思った。しかし声の主は「せっかくの食事ですから、それぞれが気持ちよく食べられる方がいいです」と早の目をまっすぐ捉えて、真面目に言った。目の奥にこの人の生来の人の良さみたいなものが見えた気がして、その瞬間にほろっと、心のどこかがほどけた気がした。
 その会話が糸口となり、夫と添い遂げるに至った。聡明で明晰で、でもどこかとぼけた所があって、顔に反して実は臆病で、朴訥。夫を回想すると秋の終わりの、葉を落とし終えた木立のイメージがつきまとう。そういう季節に出会ったからかもしれない。
 そんなことを思い起こしながら芋を洗っていると、呼び鈴が鳴った。どこかの運送会社が荷でも持ってきたかと思って玄関へ向かうと、そこに立っていたのは暁登だった。
 まだ九時を過ぎた頃で、暁登が来る時間には早かった。それに暁登は雨の日が苦手だ。眠いとかだるいとかで、自然と雨天は約束をしていても暁登は来ないという暗黙の了解が出来ていた程だ。
「おはようございます」と暁登はパーカーのフードを濡らした姿で言った。
「すみません、早くて。あと、いきなりで。電話をしたんですけど、出なくて」
「あ……ごめんなさい、洗い物をしていたせいかもしれません」
「あの、……今日は約束してなかったんですけど、上がっても?」
「もちろんいいですよ。どうぞ」
 お邪魔します、と言って暁登は軽く滴を払い、中に入る。早は先に進んで、リネン類をまとめてある籠からタオルを掴み、廊下をやって来た暁登に渡した。
「キッチンしか火を入れていないんです。だからそちらへ」
 と、暁登を居間ではなく台所へ促す。灯油の芯出しストーブが赤く燃えていた。厳冬期にこれだけでは寒さをしのげないが、いまの時期はこれで充分暖かい。
 朝沸かした湯が薬缶に残っていた。それを沸かし直しながら「珍しいですね」と暁登に声をかけた。
「雨の日に、こんな朝早く」
「雨の日は完全に活動を停止している訳じゃないんですよ」
 と暁登は少し笑った。彼なりのジョークだったのかもしれない。
「いや、あの、病院の待ち時間に抜け出して来たんです」と説明し直された。
「どこか悪いんですか?」
「おれじゃなくて、……岩永さんが」
「あら」
 暁登の説明によれば、数日前から嫌な咳をしていた樹生が、いよいよ熱を出したのが昨夜の深夜だったという。本人は「風邪だろ」と言うが、朝起きて体温を測れば四十度に届いていたので、さすがに医者に連れて行った。市街地の大きな総合病院で、おまけに月曜日である。院内はとても混んでいた。樹生は「付き添いはいいよ。むしろこの中にいたら余計な病気までもらっちまう」と暁登に言い、診察が終わったら迎えの連絡を入れるから、と言うことで暁登は朝早い時間にぽーんと放り出されてしまったという。
「先生に駄目だと言われたら図書館にでも行こうかな、と思ってました。でも考えてみれば、図書館もまだ開いていませんね」
「ああ、そうですね。市立図書館は十時からでしたね」
「おまけに月曜日だから。博物館も休館日で」
「まあ」
 早は笑った。喋っている間にお茶が入った。熱いほうじ茶の入ったカップを暁登に差し出す。
「今日はお芋の味をみようと準備していたところだったんです」
 早がそう言うと、暁登は「芋?」と疑問符をつけて繰り返した。
「ええ。秋に収穫したさつまいも。ストーブを焚くようになったので、その上に置いておけば勝手に焼けてくれますから」
 早は洗ったさつまいもを濡らした新聞紙で包み、さらにアルミホイルで包む。「樹生さんを待っている間に焼けたら、召し上がっていきません?」とストーブの上に芋を置きながら言うと、暁登は微笑んで「いただきます」と答えた。
「岩永さん待たせても、食べて行きます」
「お芋、好きですか?」
「好きです。男なのにね、って母には言われましたが」
「よかった」
 それから早と暁登は、台所でお喋りを楽しんだ。今日の暁登は調子が良いようで、いつもあまり表情を変えない人が、よく笑った。特におかしな話をした訳ではなかった。ただ、早の教員時代の話や夫とのささやかな話題を熱心に聞き、頷いては「いいですね」と言った。



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 早の家を辞して、ふたりは家路につく。途中、寄り道をして深夜営業している大型スーパーマーケットに寄り、生活に必要なものを買い込んだ。これは分担制で、樹生はトイレットペーパーやらシャンプーやら洗剤やらの生活雑貨を、暁登は食材を購入する役目だ。時間を決めて出口で待ち合わせている。樹生が戻ると暁登はすでに買い物を終えていて、寒そうにしながら樹生を待っていた。
「悪い、冷えるよな」
 暁登を伴って駐車場に停めた車へと戻る。後部座席に荷物を押し込んでいる間に、暁登はカートを返しに行った。再び車に乗り込み、発車させる。樹生は暁登に断り、ウインドウを少し下げて煙草を吸った。
「今日、早先生のとこで何したの?」
 と樹生が訊ねると、暁登は「いつも通り」と答えた。
「ご主人の部屋片付けてた。処分していい本とそうでない本の分別とか、資料まとめるとか」
「そういうの、どういう基準で決めるんだ?」
「まだ呼ばないけど、大方整理がついたら古書店を呼んで本は引き取ってもらうんだって早先生が言ってた。だから本の状態で仕分けしてる。あと、おれが読みたい本があったらそれは持ってっていい、って言われてるから、そういう本は別の場所にまとめたり」
「そんな本、ある?」
「結構あるよ。あるから困ってる。いろんな国の本がある。英語で書かれた小説とか図鑑とかは当たり前、哲学や思想書も揃ってる」
 そんな本あったかな、と樹生はいつかの記憶を辿る。もっとも、あったとして、それを樹生が思い出せるはずもなかった。樹生はあの部屋にほとんど近寄らなかった。興味が持てなかったし、近寄るとすれば早に頼まれて夕飯の支度が出来ただの、風呂に入れるだのを呼びに行っただけで、思い出す記憶そのものがないのだ。
 ただ、「惣(そう)先生」の記憶はある。ひげ面の強面で、叱られたことはなくむしろユーモラスで穏やかな人物であったのに、見た目の迫力でなんとなく苦手に思っていた、そういう記憶だ。
「もらうの、本」と訊ねる。暁登はしばらく考えて、「スペースとあの部屋の耐重量が許すなら」と答えた。
「引っ越さないと無理かも、てぐらいあるから」
「そりゃすごいな」
「どんな人だったんだろうな、早先生のご主人」
 その呟きに、樹生は我ながらずるいと思いながら黙ることで応じた。車内に不自然な沈黙が出来るが仕方がない。
 そんなに考え込まなくてもすんなりアパートには着いた。駐車場に車を停め、荷物を抱えて階段を上がる。広いが古い建物で、三階にある部屋までは階段しかない。冬場、雪が降ると踊り場に吹き込んで凍り、歩くのが怖い時もある。暁登が言ったように、引っ越しを考えてもいいのかもしれない。
 部屋まで辿り着くと、早の家で多少は回復したと思っていた疲労がどっと押し寄せた。
 生活雑貨や生鮮食品をしかるべき場所に押し込む元気さえない。ただただ体が淋しがっている。どさっと荷物を床に置くと、樹生のために真っ先に風呂を沸かしに行った暁登の後を追いかけて樹生もバスルームに向かう。
 暁登は風呂に注ぐ湯の温度を確かめて調整していた。建物も古ければ水回りも古く、自動で湯を沸かしてくれるなんて便利な機能はないのだ。熱湯と水をうまく混ぜて適温にする。この部屋で暮らすと決めてから、暁登が最初に上手くなったことだった。
 樹生の気配に気付いた暁登が振り向き、なにかを言いかける、そのタイミングで思い切り抱きしめた。暁登はバランスを崩し、細い体が崩れかかる。その重心の移動さえも樹生は予測していた。攫うように暁登の体を抱え上げ、そのまま居間を抜け自室に連れ去る。
「おい、風呂」
 暁登は抵抗しながらなにかあれこれと口にしたが、ベッドに押し倒し肌を押しつけると、抵抗らしい抵抗もしなくなった。別に性衝動でこんなことをしているわけではない。その証拠に、樹生の手はただ暁登に触れて体温や感触を確かめているだけだ。
 それは触れられている暁登も分かっているのだろう。彼は樹生の背に手をまわすと、ポンポンと、優しいリズムで樹生の背を叩く。
「なんか、あったんだろ」と暁登は訊ねたが、樹生は「んー」とはぐらかしただけだった。
「あんたのお姉さんって、どんな人?」
 背を叩く手を止めず、暁登が訊ねる。暁登に触れて、樹生は本当に気持ちが良かった。目を閉じ、暁登の首筋にすり寄る。ここの体温が高いことを知っている。
 眠くなりながら「魔女」とだけ答えた。
「え?」
「――みたいな人。怖えよ。おれ、あの人には頭上がんないし、反抗すら無理」
「……だからそんなに消耗して帰ってくるのか、毎回」
「んー……」
 暁登の声は次第に遠くなり、近くなり、ぐらぐらと回る感覚がある。力が抜けてきた。とても眠い。
「なあ、聞いてんのか?」
 その声ももはや遠い。やがてすとんと暗転した、その時に樹生は暁登の「ばか」を聞いた、気がした。


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「夕飯にしましょう。暁登さんを呼んで来て下さい」
「はい」
 ふたり揃って家に入る。早が台所で支度をする間に樹生が暁登を呼び、呼ばれた暁登が支度を手伝ってくれた。おこわといなり寿司、加えて樹生の買った中華と豪勢な食事だが、栄養バランスと自身の胃袋の調子を考慮して、早は蒸し野菜と簡単なスープも用意した。せいろで蒸した野菜は少しの塩で充分美味しいのが嬉しい。亡くなった夫は生野菜をあまり好まない人だったが、火を入れるとよく食べた。
 三人揃って食事をする機会はもう幾度となくあったが、その度に早は不思議な気持ちになる。七十代のしなびた独居老人に、なんの縁なのか二十代・三十代の若い男が付き合ってくれているということ。ふたりとも嫌な顔などせず、むしろ早の手料理を旺盛に食べてくれることがたまにふっと、妙な心地になる。
 今夜もふたりはよく食べた。とりわけ痩せ型の、というよりは痩せすぎの暁登の食が進むとなんだか安心した。用意したおこわやらいなりやら惣菜やらは食べ尽くされてしまった。
 腹いっぱい、と言って、樹生は居間にあるカウチにごろりと横になった。しばらくして聞こえて来たのは寝息だ。早は微笑ましい気持ちになり、その大きな体によく使い込んで古くなったウールの毛布をかけてやる。幼い頃から変わらず、寝付きがいい。
「疲れたんですねえ」と早がこぼすと、食器を下げていた暁登が振り向いた。
「暁登さんも休んでいていいですよ。片付けは私がしますから」
「いえ、これぐらいは」
 と言って、暁登は下げた食器を洗い始める。
 早は暁登の隣に立ち、食器を拭いた。暁登はしばらく黙ったままだったが、やがて「岩永さんのお姉さんがどんな人なのかご存知なんですか」と質問を投げて来た。
「暁登さんはお会いしたことがないんですか?」
「ないです。岩永さんが『明日は姉貴に会ってくる』って言うのを毎月聞くだけで」
「そうですねえ。でも、わたしもあまり会ったことはないですし、ましてや直接話をしたことなんて、もしかするとないかもしれませんね」
「……そうですか」
「樹生さん自身にお聞きになるのがいいと思いますよ」
 と言ったが、暁登は「あの人は、黙ります」と答えた。
「いつもはぐらかされる。なんていうのか、……多分おれは、大事なことをなにひとつ聞かされてはいないんです」
「まあ、確かに言葉の少ない人ですね、樹生さんは」
「少ないっていうか……言わない。『まあまあ、またな』とか、『いいじゃん』とか言って、……まるで、おれには聞かせる必要がない、って言われているみたいに感じます」
 それだけ言って、暁登は蛇口をひねって水を止めた。タオルで手を拭い、早の拭いた食器を棚に戻す。それから寝ている樹生の元へ向かい、しばらくその寝顔を立って眺めていた。
「眠っている岩永さんが一番好きです」と暁登は言った。
「疲れていても、いなくても、すぐ眠りに落ちる。なんの夢見るんだか、安らかな顔してさ」
 すう、すう、と規則的な寝息は確かに心地の良い音でもある。早はどう返事をしたものか、暁登の次の言葉を待つ。
「おれにないものばっかり持ってる。羨ましいし、憧れるし、自分のことがむなしくなります」
 と宣言するかのようにきっぱりと言い放ち、次の瞬間に暁登は、樹生の顔を両手で勢いよく挟み込み、「起きろ!」と叫んだ。
「起きろ樹生! 帰るぞ!! この後買い物して帰るんだろ、店閉まっちまうぞ!!」
 樹生の頬をばちばちと叩く。早も驚いたが、樹生もさすがに寝ていられなくなったのだろう。起きた。
「……ん、あー」
 呆然としながら体を起こす樹生と、拗ねたような、怒ったような表情を見せる暁登。この二人の関係はよく分からない。友人なのか、元・上司と部下のままなのか、もっと違う何かなのか。分からないが、いまこの表情を私には決して見せないな、と早は思う。樹生も暁登も。
 そのことがなんだか優しいと思い、可笑しくて、小さく笑ってしまった。


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 樹生が再び顔を見せたとき、早は庭に出て家庭菜園の手入れをしていた。本格的な冬が来る前に畑を片付けて、出来れば耕運機をかけてしまいたかった。今日は萁(まめがら)の片付けで終えてしまった。今年の菜園は天候の良さと適切な気温のおかげで、植物の育ちが良かった。
 夫が結婚前から住んでいた家で、どれくらい広いかと言えば周囲の雑木林まで含めた面積が敷地であるぐらいだ。この家にやって来たとき、畑はなかった。夫に畑を耕す趣味はなかったのだが、早が望むと、木を根から抜き花壇を移して、土地を空けてくれた。申し訳ない気でいたのだが、夫は「こういうのでいいんだよ、家は住む人で変わるのだから」と優しい笑みを浮かべて言ってくれた。
 早の家庭菜園には夫も興味を持ち出し、亡くなる前の何年かはふたりで畑を耕すことに精を出した。育てたものは色々あるが、夫は「宝物を掘り当てる楽しみがある」と、根菜類を好んで収穫していた。早はベリー類が好きだったので、イチゴやアカスグリが採れると嬉しかった。
 いま、この菜園はひとりでは広すぎると感じるが、それでも早は体力が続く限り手を入れて作物を育てている。暁登が定期的にやって来るようになってからは、彼に家事や雑務を任せて畑に出ることも出来るようになった。なんとなくこの畑を暁登には関わらせてはいない。畑はひとりで黙々と手入れをしたい、という思いがあった。
 樹生がこの畑に顔を見せるのは本当に久しぶりだと思った。樹生の出現に、早は「おかえりなさい」と声をかける。作業用の手袋を外し土埃をエプロンの裾で拭いながら樹生に近寄った。
「早かったですね。お墓参りは無事に?」
 といつものように訊ねたが、なかなか返答が得られないので早は顔を上げた。そこでようやく、この背の高い青年がとても疲れていることに気付いた。気付くと同時に、なぜ配慮を怠ったのだと早は後悔した。あの姉に会ったのだ。
 樹生の姉のことはあまりたくさんのことを知らないが、印象は「疲れてしまう」だった。対峙すると、あまりにもマイナスのエネルギーを受け取ってしまい、早の場合はその後頭がぼんやりして、言葉を上手に発せなくなる。弟でもそれは同じなのだろう。もしくは弟ゆえに、もっとなのか。
 樹生は暗い顔を見せながらも、手にしていたビニール袋を軽く持ち上げた。
「惣菜、買ってきました。夕飯には早い時間ですが食べませんか?」
「ありがとうございます。そうですね、わたしもお腹が空きました。きっと、暁登さんも」
 語りかけながら早は惣菜の袋を受け取る。樹生はぼんやりとしていたので、樹生の頬に軽く手を当てた。
「大丈夫ですか」
「……」樹生は答えない。
「あまりにも疲れているなら、料理は持って帰って、家で食べてもいいんですよ。それともここで少し休んで行きますか?」
 早の提案に、だが樹生は首を横に振った。「大丈夫です」と言う。「ただ、だいぶ、疲れました」
「樹生さん、あなたは疲労がたまると熱を出しやすいですから、やっぱり今夜はなしにして、帰りましょうか」
「いえ、……大丈夫です。ちょっと、……色々考えてしまって、まとまらなくて」
「なにを考えましたか?」
「……復讐に生きることについて」
「樹生さんが?」
 と訊いてから、それはない、と早は瞬時に思い至った。樹生は「まさか」とそこでようやく表情を変えた。皮肉るような笑みで「姉です、姉。茉莉」と答えた。
「おれは、多分幸せなんです。母親が死んだとき、そんなに大きな感情の揺れはなかったし、具体的な困惑もなかった。それぐらい母親と過ごした記憶ってのがないんです」
「……でも、そのせいであなたもその後、何年も経ってから、辛い思いをしたでしょう」
 と言うと、樹生は苦い笑みに変えた。「それはでも、過ぎたことですから」と言う。
「もうなんともない。過去のことをおれはあまり気にしないので、大丈夫なんです」
「……」
「今日、茉莉がね、あの男の居場所を突き止められそう、って言ってたんです」
 それは早にとっても驚くべきことであった。思わず樹生の顔を正面から捉えると、樹生は「おれはどっちだっていいんですけどね」と言う。
「あの人が生きてようが死んでようがどこにいようが。おれにあの人の思い出はほとんどないし。でも茉莉は違う。あの人に対して恐ろしい感情が波立っていて、家族がいる身でありながら、それを一番の優先事項にしてしまうぐらい」
 そこで樹生は目線を家の方に向けた。だいぶ暗くなってきていたところに、屋内にポッと明かりが灯った。暁登が点けたのだ。
「やめろと言っても聞くような姉ではないですからね。でもおれは、茉莉の意志に同調出来ない。茉莉の方は、おれを唯一の同志みたいに思ってるみたいだけど」
「……樹生さんはそれでいいと思いますよ」
 早はそう言った。この青年に復讐の気持ちがないことを改めて知れて、よかったと思う。
「あなたはそれでいいんです。恨みや怒りなんてものは、持たない方が絶対にいい。……持ってしまったら、手放すのは難しいものです。それに手にそんなもの持っていたら、色んなものを取りこぼしてしまう」
 早は慎重に言葉を選びながら語る。
「樹生さんの手は、誰かを励ましたり、いたわったり、抱きしめることに使ってください」
 早の言葉に樹生はわずかに目を開いた。それから目を細め、「抱きしめ損なってばっかりですよ」と言った。その台詞の真意は分からなかったが、早はそれ以上を訊かないことにした。樹生も語る気はないようで、「腹減った」と大きくあくびをしながら言った。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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