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畑の隅には納屋もあるが、温室もある。
ごく小さなものだ。人が二人入ればいっぱいになってしまう。温室と呼べるほどの設備はないから、ビニールハウス、ぐらいの言い方で良さそうだ。とにかく小さなビニール張りの建物がひとつある。日光を良く通して暖かく、この時期ではもう暑い。
苗をおこす為に夫が作ってくれた。野菜の苗は農産物の直売所や農協、農具を売る店などにあるが、早は種を蒔いて育てるのも好きだった。発芽が嬉しい。それで小さなポットをいくつも揃えて種を蒔き、温度と湿度の管理をして発芽を待つ。発芽したら何度か植え替えて株を大きくさせる。ある程度の所まで育ててから露地植えにするのだ。
四月ではあるが、春の遅い地域だ。まだ霜の心配はするし、ある日の春雷からいきなり雹をもたらす、なんてこともあるので油断ならない。雹が降ると、それ一つで身を立てている農家の労を重く感じる。早みたいに道楽で畑仕事に精を出すのとは全く違う。自然を相手に商売をしようというのは誠に困難が多い。
朝早くに温室へ向かって蒔いた種の様子を見た。今日のところは大きな異変もない。温室の扉を閉め、畑を見渡す。小さいながらも早の畑は、今年も春の作付けが始まっている。
畑を見回りながら、つい先日のことを思い出していた。暁登が来たのだ。最後に暁登の姿を見たのは怪我をした時だったから、健康な立ち姿に安堵した。
暁登が来たとき、早はちょうど庭に出て畑仕事にいそしんでいた。温室と畑とを行ったり来たりで、温室の苗には水を撒いていた。ホースの水を止めようとして水道に向かい、暁登に気付いた。白いワイシャツの上にいつか早がプレゼントした亡き夫のセーター――ネイビーブルーの、を着ていて、下はデニムではなくチノを穿いており、靴もスニーカーではなく革靴だった。
髪もさっぱりと短く切られていた。あらわになった首筋に春の陽射しが当てられて、淡く発光しているようにも見えた。何か純かで清かなものを前にしている、そんな風に見えた。
暁登は丁寧に頭を下げ、「ご無沙汰してしまいました」と言った。
「一応、アポは必要だって思って電話をかけたんですが、出なくて」
「……あ、畑に出てしまってましたから、そのせいかもしれません」
「いえ、いいんです。そうかな、と思っておれも思い切って来てしまったし、」
バイクをようやく回収に来ました、と暁登はポケットから鍵を取り出して言った。
「長いこと預からせてすみませんでした」
「うちは全く構わなかったので謝る必要はありませんよ。……その後、怪我は?」
と聞くと、暁登は目を細めて軽く首を振った。
「いまは全く。足は単なる捻挫で済んで、一週間くらいの固定で治りました。掌の方はちょっと傷が残りましたが」
と、暁登は早に掌を向けた。ぷくりとケロイドになった傷痕は、白かった。
「……ごめんなさい」
「おれの不注意でした。早先生は冷静に対処してくださいましたし、傷も早く治りました。平気です」
そのままわずかな沈黙が出来る。早が口を開くより先に、暁登が答えた。「全然連絡もせずに、すみませんでした」
「……本当ですよ、もう」
「すみません。バタバタしていて……。岩永さんから聞きましたか?」
「なにを、」
「もう岩永さんとは一緒に暮らしてないんです」
それは知らなかったので、早は驚いて顔を上げた。
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九.春雷
気が付いたら年度が終わり、また新しくなっていた。
異動の時期だ。樹生自身に転勤はなかったのだが、職場の同僚が一人、他局へ異動になった。それに替わって新しい人員が補充され、樹生はその新しい同僚に仕事を教える事になった。
樹生のバイクの後ろに新しい同僚のバイクがついて、一軒一軒、家を回る順番を覚えさせる。それを三日ほど通しでやった。最終日は同僚を先に行かせて樹生は後を付いていただけだ。同僚は樹生より十五歳ほど年上だったが要領がよく、覚えることのコツを持っている人だと分かった。悪くないなと思った。話し方も気さくでなにより人柄が良い。
休憩の際に聞いた話では、バイクが好きで整備士としても働いていた事があったという。
「機械をいじるのが好きでさ。走るのも好きなんだよね。嫁さんともそういう縁で知り合って、今でもたまに二人でツーリングに行くよ」
窓の向こうに照射する春の陽射しを眺めて、おっとりと同僚は言った。
「いい季節になったよなあ」
「そうですね」
「早く桜が咲いて花見が出来るといいよな」
と同僚は水筒のお茶を飲む。今年は冬の寒波が平年以上だったせいか、桜がほころぶのが遅く、この辺りではまだ咲かない。
新年度ということもあって最近は少し忙しい。その日、残業を終えて樹生が帰宅したのは夜七時を過ぎていた。くわえ煙草のまま部屋をうろつき、うろつきながら風呂の支度をしていると、電話が鳴った。
着信は早からだった。
早からの連絡は久しぶりで、樹生の心臓は鋭く痛む。早には触りの部分で、晩に接触したことと父について聞いたこと、茉莉の復讐を自分が遂げて幕引きをしたことを話していた。それでもその時の早は「そうですか」と言っただけで、それ以上も何もなかった。
暁登は早の元へ全く訪れなくなった、とは、聞いた。だがそれ以上のことは聞かなかったし早も言わなかった。怪我の後、暁登がどう日々を過ごしているのかを、樹生は全く知らない。知ろうという努力を怠っている。
電話の向こうで早はいつも通りのさっぱりとした口調で『お花見しませんか?』と言った。
「お花見、ですか」
『ええ。花の頃合いだと思ったので。もっとも樹生さんは花に興味はありませんね。私が花見をしたいんです。連れて行って頂けませんか?』
早の、こういうやや強引とも取れる申し出は珍しかった。
「花見と言えば、桜ですか」
『そうですね。桜がいいと思います』
「桜かあ。桜ならどこがいいんですかね。川沿いの緑地公園とか?」
『いえ、S温泉郷へ、と』
というので、花見というよりはS温泉郷に行きたいのだと察しが付いた。それを言うと、早は電話の向こうで特に恥ずかしがる訳でも、恐縮する風でもなく、『そうなんです』と肯定した。
『意図を隠していても仕方がないのではっきり申し上げますが、S温泉郷の夏居旅館、そこへ花見に行きませんかとお誘いしています』
「……」
夏居、という言葉がざりっと心に引っかかった。正月に会った髭面の小さな老人を思い出す。あまりいい感情は抱いていなかった。
樹生が答えを渋っているとその妙な間は早にもきちんと伝わったようで、早はすぐに『嫌なら嫌、と断っていいんですよ』と言った。
「嫌……なんですけど、駄目、ではないんです」
そう答えると早はしばらく黙り、『駄目ではない、とは?』と訊いた。
「日程的には空くので」
『なら、行きましょう』
有無を言わせない口調だった。
『S温泉郷はちょうど今週末ぐらいが花の盛りのようですが樹生さんのご予定は?』
「週末、土曜日は仕事ですが日曜日は休みです」
『それはよかったです』
日曜日の朝早くに早を家まで迎えに行き、樹生の運転でS温泉郷の夏居旅館まで行くことになった。
早との電話を済ませ、樹生は息を吐く。風呂に入ろうとしていた事を思い出して風呂場に向かいかけたが、なんとなくそのままスマートフォンを操作して検索をかけた。S温泉郷、春、と入れてみる。出て来た画像は川辺に桜の枝垂れるものばかりで、その中のいくつかには夏居旅館の情報もあった。
立派な構えの、昔ながらの温泉宿、という建物だった。再び息をついて樹生はスマートフォンの操作を終了する。
思い切りよく服を脱ぎ捨て、風呂場に向かった。
→ 62
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異動の時期だ。樹生自身に転勤はなかったのだが、職場の同僚が一人、他局へ異動になった。それに替わって新しい人員が補充され、樹生はその新しい同僚に仕事を教える事になった。
樹生のバイクの後ろに新しい同僚のバイクがついて、一軒一軒、家を回る順番を覚えさせる。それを三日ほど通しでやった。最終日は同僚を先に行かせて樹生は後を付いていただけだ。同僚は樹生より十五歳ほど年上だったが要領がよく、覚えることのコツを持っている人だと分かった。悪くないなと思った。話し方も気さくでなにより人柄が良い。
休憩の際に聞いた話では、バイクが好きで整備士としても働いていた事があったという。
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窓の向こうに照射する春の陽射しを眺めて、おっとりと同僚は言った。
「いい季節になったよなあ」
「そうですね」
「早く桜が咲いて花見が出来るといいよな」
と同僚は水筒のお茶を飲む。今年は冬の寒波が平年以上だったせいか、桜がほころぶのが遅く、この辺りではまだ咲かない。
新年度ということもあって最近は少し忙しい。その日、残業を終えて樹生が帰宅したのは夜七時を過ぎていた。くわえ煙草のまま部屋をうろつき、うろつきながら風呂の支度をしていると、電話が鳴った。
着信は早からだった。
早からの連絡は久しぶりで、樹生の心臓は鋭く痛む。早には触りの部分で、晩に接触したことと父について聞いたこと、茉莉の復讐を自分が遂げて幕引きをしたことを話していた。それでもその時の早は「そうですか」と言っただけで、それ以上も何もなかった。
暁登は早の元へ全く訪れなくなった、とは、聞いた。だがそれ以上のことは聞かなかったし早も言わなかった。怪我の後、暁登がどう日々を過ごしているのかを、樹生は全く知らない。知ろうという努力を怠っている。
電話の向こうで早はいつも通りのさっぱりとした口調で『お花見しませんか?』と言った。
「お花見、ですか」
『ええ。花の頃合いだと思ったので。もっとも樹生さんは花に興味はありませんね。私が花見をしたいんです。連れて行って頂けませんか?』
早の、こういうやや強引とも取れる申し出は珍しかった。
「花見と言えば、桜ですか」
『そうですね。桜がいいと思います』
「桜かあ。桜ならどこがいいんですかね。川沿いの緑地公園とか?」
『いえ、S温泉郷へ、と』
というので、花見というよりはS温泉郷に行きたいのだと察しが付いた。それを言うと、早は電話の向こうで特に恥ずかしがる訳でも、恐縮する風でもなく、『そうなんです』と肯定した。
『意図を隠していても仕方がないのではっきり申し上げますが、S温泉郷の夏居旅館、そこへ花見に行きませんかとお誘いしています』
「……」
夏居、という言葉がざりっと心に引っかかった。正月に会った髭面の小さな老人を思い出す。あまりいい感情は抱いていなかった。
樹生が答えを渋っているとその妙な間は早にもきちんと伝わったようで、早はすぐに『嫌なら嫌、と断っていいんですよ』と言った。
「嫌……なんですけど、駄目、ではないんです」
そう答えると早はしばらく黙り、『駄目ではない、とは?』と訊いた。
「日程的には空くので」
『なら、行きましょう』
有無を言わせない口調だった。
『S温泉郷はちょうど今週末ぐらいが花の盛りのようですが樹生さんのご予定は?』
「週末、土曜日は仕事ですが日曜日は休みです」
『それはよかったです』
日曜日の朝早くに早を家まで迎えに行き、樹生の運転でS温泉郷の夏居旅館まで行くことになった。
早との電話を済ませ、樹生は息を吐く。風呂に入ろうとしていた事を思い出して風呂場に向かいかけたが、なんとなくそのままスマートフォンを操作して検索をかけた。S温泉郷、春、と入れてみる。出て来た画像は川辺に桜の枝垂れるものばかりで、その中のいくつかには夏居旅館の情報もあった。
立派な構えの、昔ながらの温泉宿、という建物だった。再び息をついて樹生はスマートフォンの操作を終了する。
思い切りよく服を脱ぎ捨て、風呂場に向かった。
→ 62
← 60
茉莉の気持ちが分からない訳ではなかったが、樹生にとってのこの不幸はさしたるものではなかったし、とうに割り切れているものでもあった。
母がいない淋しさは確かに感じていた。
父がいない事は不思議でもあった。
けれど樹生は幼かった。茉莉のように怨を募らせ呪に身を焼かれる、そんな感情は知らない。そういう感情を持たずに済んだのは間違いなく育ての親――早と惣、二人の愛情が真摯に樹生に傾けられていたからだ。樹生はあの家が好きで、あの家で暮らすふたりが好きだった。学校に行かない選択をしたときも、中卒で働くと決めたときも、いまの会社で働き始めてあの家を出ると決めたときも、彼らはずっと樹生の味方だった。樹生の事を第一に考え、道を示してくれた。
だから樹生は幸福だったのだ。境遇こそ憐れかもしれないが、それはさしたる事ではない。むしろ、気まぐれにしか愛情を向けられなかった姉にこそ、樹生は同情する。
しゃがみ込んだ姉はひとしきり泣いた。その間、樹生はずっと背を叩いていた。やがて姉の涙が治まり始めた頃、樹生は姉の背を少し強めに叩き、手を離した。湖面を撫でる風が当たるようになってきて、芯から冷え始めていた。
「……茉莉、戻ろう」
姉は肩を震わせるだけで答えない。樹生は姉の腕を掴み、強く引っ張り上げた。「なにするの、」と茉莉は酷い顔で抗議したが、涙は止まっていた。
「戻ろうよ。立てる?」
茉莉は樹生の腕に縋るように体を寄越す。立って歩く気はさらさらないらしいと判断した。樹生は背を向け、膝を曲げて茉莉に「ほら」と背を差し出した。姉はしかめっ面を見せたが、大人しく樹生の背に体を重ねる。その軽い体を背負い、樹生は歩き出す。
恋人が出て行った晩もこんな風に背負って歩いたな、と思い出しながら姉を背負う。
転ばぬよう慎重に、ゆっくりと歩いた。茉莉は樹生の首筋に顔を埋め、時折しゃくり上げる。
「茉莉は、帰りな」
しばらく歩いて、樹生は口を開く。
「復讐はもう済んだ。あの男絡みのことは今日のあいつに全部丸投げで、おれたちは、終わりだ。茉莉は曜一郎さんに連絡取って、ちゃんと話し合って、……男遊びもやめな。きちんと家族ってのをさ、再構築した方がいい」
「……」
「茉莉はそれが、出来るだろ」
背負って触れているから、徐々に背中が温くなる。誰かと体温を分け合っていると安心する。だから一人ではいられないと強く思う。
否、一人ではいたくない。
茉莉はしばらく黙っていたが、ず、と洟を啜ると、口を開いた。
「あんたはどうするの、」
何を言われているのかは分かる。分かるがあえて答えない。
だが姉は容赦ない。
「……かわいい子とまだ決着がついてないんでしょ? どうするの。このまま沈黙したままでいる? 全部話してよりを戻す?」
「……」
暁登を迎えに行くことは何度も考えたが答えが出ない。根本的な問題の解決――樹生が暁登に黙している事柄を全て明らかにすること、をしようとは思っていない。
だがそれでは暁登は帰ってこない。二度と。
どうするんだろうなと、樹生は湖面の向こうを遠く眺めて思った。
→ 61
← 59
茉莉と樹生は無言のままいったんは車に乗り込む。とにかく一刻も早くこの場を立ち去りたかった。茉莉に「シートベルト締めて」とだけ言い、樹生はあてもなく車を発進させる。
「――びっくりした」
しばらくして茉莉が口を開く。
「あんたが暴力ふるってるところなんか、見たことなかったから」
「おれだって驚いてるよ。……よく知らないけど、あの男も茉莉や母さんにはそうだったんだろ。親子ってことなんじゃない」
そう言って自嘲すると、茉莉はそう、とも、違う、とも取れるように曖昧に頷いた。
「あんたが横っ面叩いてくれたから、びっくりしちゃって、私が怒り損ねた」
「それでいいんだよ」
「大切な人には絶対にしないでね」
「うん、……しない」
自分の中の激しい暴力に身を委ねてみたものの、それはとても気分の悪いものだった。もしかしたら岩永直生もそうだったんじゃないかと想像する。そしてそれを先ほどの樹生と同じようにうまく制御できず、それの繰り返しで自分を責めたのではないかと。
「おれは岩永直生じゃない。だから、しない」
「――そうね」
闇雲に走らせていた車も、次第に落ち着きを取り戻す。ふと、茉莉が「湖がある」と言った。
「え?」
「ほら、これ湖じゃない?」
そう言って茉莉はカーナビの地図を指す。ここからそう遠くないところに、確かに水場があるようだった。
「行く?」と訊くと、「うん」と答える。
「湖岸を歩けるのかな。だったら少し歩きたい」
「じゃあ、そっち行こうか」
ナビゲーションをチラリと確認し、樹生はウインカーを出して真っすぐ行くはずの道を外れた。
湖には割とすぐに着いた。周回しながら適当な駐車スペースを探す。陽光がそろそろ頼りなくなる時間だった。「あの辺り停められそう」と茉莉がカーナビと道の先を照らし合わせて言う。その通りに湖の傍にあった広場に車を停めて降りた。風は冷たく、染みた。
小さな湖だった。所々に氷が残るが、鴨は湖面をすいすいと泳いでいく。湖の周りをゆっくり歩くことにした。樹生は何度か口元に手を当ててはジャケットのポケットに手を戻す動作を繰り返したが、茉莉は淡々と歩く。
ふと、茉莉が「あんたが羨ましいと思ってる」と言った。
「――え?」
「母親が死んで、父親は行方知れず。残された姉弟二人、私の唯一の理解者。そういう思いでいたけど、実はそうじゃないってこと」
と言われるのでますます分からない。ただ、茉莉の言い口にむなしさが滲んでいたので、慎重に聞き直した。「そうじゃない、ってのは?」
「さっきのあいつに言ってたじゃない。両親がいないことで不利益がなかったって。――あんたは良くも悪くも、親のことをほとんど覚えてないからね、ってこと」
「……」
「十年の差って大きいね。私は、母さんとあの男との記憶がある。家族が三人だった頃よね。初めはね、母さん笑ってて、あの男も笑ってて、私も笑ってたわ。小学校の入学式に二人とも来てくれたことを、覚えている。……そのうちあの男が安定しなくなって、母さんに当たったりしているのも、覚えている。あんたはそういう記憶が全くない。仕方がないよね。生まれる前の話だから」
茉莉は下を向き、ブーツの先で小石を蹴った。コンコンコン、と何度か跳ねて小石は湖に落ちる。
「どっちにも転べない。母さんやあの男と一緒にいて幸せだったんだ、とか、人生は最低で不幸だとか、……今日の話を聞いて、思えなくなっちゃった。あの男以上のエゴイストがいたんだ、ってこともよく分かったし」
「……今日のあいつは、最低だったよな」
「ホントよね」
「最低」
「うん、最低……」
言葉の最後はか細く、そのままその場で茉莉はしゃがみ込んでしまった。樹生はそっと手を伸ばし、背に触れる。
「――茉莉、」
「どうすればいいの、」
声は湿気をはらんでいる。やがて姉は肩をふるわせて泣き始めた。
「これから、どうしたらいいの……――」
樹生には答えられない。
→ 60
← 58
「――離して! 樹生!」
「茉莉、やめな」
「うるっさい!」
「それで僕を殺すかい?」
微動だにせず、晩は茉莉を見上げた。
「きみたちには残念だけど僕は簡単には殺されない。直生の遺体を探すために生きているからね。でも、最近は見つからなくてもいいかなって思うんだ。見つからなかったら、直生は一生、僕のものだから。直生への想いはそう、なんていうのかな。あの滑落事故で直生が死んでから、永久に凍結してしまったんだ。ずっと、もうずっと、融解を知らない」
あまりに歪な台詞に、ぐっと茉莉の体に力が入るのが分かる。彼女は歯を食いしばって樹生の腕から逃れようとする。それを渾身で押さえながら、樹生は「違う」と言った。
「あなたの、おれたち姉弟の父親に対する好意は分かりました。酷いエゴイズムだってことも」
「そうだ。間違ってるなんて百も承知さ。でも僕ぐらい自分の愚かさを正当化しておかないと、僕が可哀想じゃないか。僕は僕の人生しか生きられないからね。直生は直生の人生を生きた。僕も僕の好きに生きている。きみたち姉弟のことは哀れに思うよ。いろんなことに囚われて好きに生きられない……こんなところまで僕を追っかけてきて、復讐も成しえない、かわいそうな子たち」
瞬間、樹生は確かな意思を持って、茉莉の体を抱えたまま右腕を振り上げて晩の横っ面を思い切り叩いた。衝撃に晩はバランスを崩し、椅子ごと床に倒れる。一瞬の出来事に驚いたのは姉で、小さな悲鳴のような吐息の漏れが伝わった。
「いまのは、茉莉の分」
晩が崩れた先から埃が上がった。晩は体を丸めて小さく呻く。だがその呻きには、微かな笑いも含まれていた。
「おれの分はないです、残念ながら。おれには両親がいなかったことによる不利益がなんにもないから」
「樹生、」腕の中で茉莉が名を呼んだが、樹生はそちらを見なかった。
「これでおしまいです。もう一切あなたには関わらないし、会いもしません。姉が張った罠に引っかからせて申し訳ないと初めは思っていましたが、いまはそれも思わない」
行こう、と茉莉の肩を抱いて立ち去ろうとすると、晩はかろうじて起き上がり、「ジャンダルムだね」と言った。
「――え?」
「樹生くん、きみが生まれて少ししたころに直生が言ってたんだよ。『この子はジャンダルムみたいに強く立派で、守る人になってほしい』って」
晩は壁に貼られた写真を指で示した。早からもらった年賀状と似たような構図に収まった山の写真が貼ってある。
「直生が、直生自身から、あるいはありとあらゆる災厄から、美藤さんや、茉莉さんや、これからきみが愛する人を守る人になってほしいと、ジャンダルムの写真と子どもらの写真を見比べながら、そう言っていた。……まさにそうだな。きみはそういう人だ」
晩はもう立ちあがる気すらないようだった。床に手をついて、樹生を見上げる。
「きみたちをここに招いて全部を話す気になったのは、樹生くんがあまりにも直生にそっくりだったからだ」
「……」
「僕もあさましいな。きみがここへ来てくれたことを喜びだと思っているんだから。……ようやく会えたな、ってさ」
その台詞になにも返答せず、ただ姉の腕を引いて樹生は事務所を出た。
→ 59
← 57
「茉莉、やめな」
「うるっさい!」
「それで僕を殺すかい?」
微動だにせず、晩は茉莉を見上げた。
「きみたちには残念だけど僕は簡単には殺されない。直生の遺体を探すために生きているからね。でも、最近は見つからなくてもいいかなって思うんだ。見つからなかったら、直生は一生、僕のものだから。直生への想いはそう、なんていうのかな。あの滑落事故で直生が死んでから、永久に凍結してしまったんだ。ずっと、もうずっと、融解を知らない」
あまりに歪な台詞に、ぐっと茉莉の体に力が入るのが分かる。彼女は歯を食いしばって樹生の腕から逃れようとする。それを渾身で押さえながら、樹生は「違う」と言った。
「あなたの、おれたち姉弟の父親に対する好意は分かりました。酷いエゴイズムだってことも」
「そうだ。間違ってるなんて百も承知さ。でも僕ぐらい自分の愚かさを正当化しておかないと、僕が可哀想じゃないか。僕は僕の人生しか生きられないからね。直生は直生の人生を生きた。僕も僕の好きに生きている。きみたち姉弟のことは哀れに思うよ。いろんなことに囚われて好きに生きられない……こんなところまで僕を追っかけてきて、復讐も成しえない、かわいそうな子たち」
瞬間、樹生は確かな意思を持って、茉莉の体を抱えたまま右腕を振り上げて晩の横っ面を思い切り叩いた。衝撃に晩はバランスを崩し、椅子ごと床に倒れる。一瞬の出来事に驚いたのは姉で、小さな悲鳴のような吐息の漏れが伝わった。
「いまのは、茉莉の分」
晩が崩れた先から埃が上がった。晩は体を丸めて小さく呻く。だがその呻きには、微かな笑いも含まれていた。
「おれの分はないです、残念ながら。おれには両親がいなかったことによる不利益がなんにもないから」
「樹生、」腕の中で茉莉が名を呼んだが、樹生はそちらを見なかった。
「これでおしまいです。もう一切あなたには関わらないし、会いもしません。姉が張った罠に引っかからせて申し訳ないと初めは思っていましたが、いまはそれも思わない」
行こう、と茉莉の肩を抱いて立ち去ろうとすると、晩はかろうじて起き上がり、「ジャンダルムだね」と言った。
「――え?」
「樹生くん、きみが生まれて少ししたころに直生が言ってたんだよ。『この子はジャンダルムみたいに強く立派で、守る人になってほしい』って」
晩は壁に貼られた写真を指で示した。早からもらった年賀状と似たような構図に収まった山の写真が貼ってある。
「直生が、直生自身から、あるいはありとあらゆる災厄から、美藤さんや、茉莉さんや、これからきみが愛する人を守る人になってほしいと、ジャンダルムの写真と子どもらの写真を見比べながら、そう言っていた。……まさにそうだな。きみはそういう人だ」
晩はもう立ちあがる気すらないようだった。床に手をついて、樹生を見上げる。
「きみたちをここに招いて全部を話す気になったのは、樹生くんがあまりにも直生にそっくりだったからだ」
「……」
「僕もあさましいな。きみがここへ来てくれたことを喜びだと思っているんだから。……ようやく会えたな、ってさ」
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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