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車内で早はもう少し喋った。どうでもいいことも大事なことも、あれこれ混ぜた。早のおしゃべりに頷く樹生の仕草が、夫のそれとどことなく似ていたので、途中で少しだけ動揺した。泣きたいような気持ちになる。
所詮、樹生は他人の子だ。それを借りて育てていた、という感覚が、早にはあった。子どもを産まず育てない選択をしたのに、思いがけず子を育てることになって、当然ながら戸惑いもあった。この子はいつか返さねばならない子なのだと思っていた。
なのにその子は、亡き夫と同じ仕草で早の話に相槌を打つ。血の繋がりはどこにもないのに、夫と似たようなリアクションとものの言い方をする。
私たちは確かにこの子を育てたのだと思い、夫に無性に会いたくなる。
そう、惣先生がいなくて私はとても淋しいです。
この子のことであなたと話したいことがたくさんあります。
淋しいです。――とても。
「――夏居さんとお話してください」
早が言うと、樹生は嫌そうに「ええ?」と言い返した。
「おれあんまりあのじいさんをよく思ってないんです」
「では一緒に花を見にその辺をまわるだけでもいいと思います。……夏居さんは、それを喜ぶと思います」
樹生は黙っていたが、観念して「分かりましたよ」と言う。
「あなたの人生は傍から見れば散々なものかもしれません。けれど、前にもお話しましたが、あなたはジャンダルムの使命を果たしました」
「ジャンダルム、」途端、樹生は顔を曇らせる。晩に会った話は一通り聞いていたし、早自身も、樹生の父親から「ジャンダルム」のくだりは聞いていた。
「茉莉さんの攻撃を止められる、もしくは攻撃から守れるのはあなただけだと思って、あなたのお父さんの願い通りに育ちますようにと、惣先生と懸命に育てた子が、あなたです。あなたは立派に育った、とても魅力的な、ひとりの大人です」
早はひとつ息を吐いて、また吸った。
「だからなにも僻んだり、憎らしく感じたり、そんないらぬ感情を持つ必要はありません。自信を持って、生きてください」
泣きそうになりながらも、涙を堪える。惣先生に会いたい。心から会いたい。
「自信がないわけじゃないんです」と樹生は言った。
「おれは立派な両親のおかげで、マイナスの感情を持たずに育ちました。本当に――感謝しているんです。この人たちに引き取られてよかったな、って」
あ、あれが旅館ですか、と樹生が前方を顎で示す。
春のうららかな日差しの下に、重厚な建物が現れた。
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早がそれを告げてまず樹生が取った行動は、近くにあったコンビニエンスストアの駐車場に入ることだった。駐車場の隅に車を停め、エンジンはアイドリングのままでふーっと息を吐くと、改めて早の顔の方を向いた。
「ちょっとあの、話を整理したいです」
と樹生は言った。無理もないと思う。早は頷き、「どうせなら休憩にしましょうか」と申し出た。樹生を車に残し、コンビニでトイレを済ませると緑茶のペットボトルとシトラス系の甘い紅茶のペットボトルを選び、車に戻った。紅茶の方は樹生に渡す。
受け取った紅茶を、樹生は喉を鳴らして飲んだ。ひと息に半分ぐらいは飲んでしまったので驚く。そうして喉の渇きを潤して、樹生は「ええと」と早に改まった。
「あのじいさん」
「はい、夏居さん」
「……が、おれのじいさん、ですか?」
「そうです。いつか話した方がいいのではと思っていましたが、夏居さんに固く口留めされていたので黙っていました。ですが年始に思いがけずあなたの姿を見て、気が変わったようです。死ぬ前にちゃんと会っておかないとと言って、よかったら旅館に来てくれと誘ってくださったのは夏居さんです」
早もペットボトルのキャップを開けようとしたが、手にうまく力が入らなかった。それを見た樹生がごく自然な動作でキャップを外してくれた。
「母は、……両親がいない人だった、と茉莉が言ってました。父には父親がいないと聞いています。身寄りのないもの同士の結婚だったんだ、って」
「直生さんの担任をしていたころ、直生さんはすでにお母さまだけの家庭でした。直生さんのお母さまを私が最後に見たのは直生さんと美藤さんの結婚披露宴の時です。茉莉さんが幼いころに亡くなりましたから、樹生さんに父方のおばあさまの記憶はないでしょう。
同じように美藤さんも母子家庭でしたが、直生さんのお母さまよりもっと早くに亡くなっています。頼る親類縁者もなくて、だから美藤さんは十代の大半を児童養護施設で過ごしました」
「……知らなかった、」
「茉莉さんがあなたに話していなかったら、それは仕方がないことだと思います。……その、美藤さんのお父さまが、夏居さんです」
「なんだっけ、あの、……嘉彦さん、でしたっけ。あの人と母さんはきょうだいとか、そういうことですか?」
「そうです、半分だけ。美藤さんのお母さんは、いわゆるお妾さんでした」
「夏居さんの?」
「ええ。夏居さんがよそで産ませた子どもが、美藤さんです。その経緯はよく知らないのですが、夏居さんは旅館経営者という立場で、それなりにお金も地位もあったんでしょう」
樹生は黙り込む。この青年には酷なことをしていて、無理もないと思いながら、早は続ける。
「本当は美藤さんのお母さんが亡くなった時、美藤さんを家に引き取りたかったそうです。ですがまあ、体裁の悪い娘さんですし、美藤さん自身も窮屈な思いをすると分かっていたので、施設に預けました。それでその後、美藤さんと直生さんが出会って、結婚に至り、子どもが生まれて、夏居さんには外にも孫が出来ました。茉莉さんにはお子さんがいますから、ひ孫もいますね。それは本筋から外れるのでちょっと置きますが、……その美藤さんが事故で亡くなり、孫ふたりが路頭に迷っていると知った時も、夏居さんは相当悩んでおられました。私の主人があなたを引き取ると決めた時に、夏居さんはすぐに挨拶に来ましたよ。孫をどうかよろしく頼みます、と」
「……母さんはそのことを知ってたんですか、」
「美藤さんはご存知なかったと思います。知らないまま、あっという間に逝ってしまいましたね」
車内に沈黙が下りた。樹生は大きく伸びをして肩を上下に動かすと、「なんだ」と言った。
「なんだよ」
「……」
「これからおれは、じいさんに会いに行く、ってことなんですね」
その口調には皮肉が混ざっていた。早は言葉を誤らぬよう、丁寧に選んで発する。
「まだ引き返せます。行くの、やめますか? それはそれで樹生さんの選択です。夏居さんはきちんと受け入れてくださると思います」
「行きますよ」
樹生は即答した。
「行って、……どうすんのかわかんないですけど、まあそうだな、うまいもんでも食わしてもらお」
じゃあ行きます、と言い、樹生は再び車を走らせた。
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S温泉郷へ行くには、ここより南下するルートを取る。三十分も走らせればもうそこは気候が異なり、早や樹生の暮らす街よりずっと春の進んだ花や緑が増える。気の早い家の庭にこいのぼりが泳いでいた。途中の川の水面はきらめき、道行く人の服装も軽く、色合いも華やいでいる。
二時間半ほどの道のりの中のほとんどはラジオを聞いていたが、ラジオニュースに切り替わった時に樹生はボリュームを下げた。下げて、「知っていましたか」と早に聞いた。
「何を?」
「親が、……岩永直生が、死んでいたこと」
「いいえ」
早は即答した。
「知りませんでした。私はずっと、……直生さんは病院に隔離されて、療養しているのだと思っていたので」
樹生は黙る。黙って早の言葉を待つ。
「だからそもそも、病院へ入院していなかったことに驚きました。直生さんはね、入院する前に私と夫の元へ来たんです。これから家族の元を離れるので、妻と子どもをよろしくお願いしますと、そういう内容でした。直生さんには頼れる親類縁者がいませんでしたから、私も夫もそういう意味で、その役を引き受けました」
「……晩、という男のことは?」
「知っていますよ。私は彼らを担任として指導したわけですから」
「あ、そっか」
「彼らの仲がよかったことは、知っていました。けれど晩さんの山荘へ直生さんが匿われていたことは、思いもよらないことでした」
また間が出来る。車は信号の切り替え待ちで止まった。
「でも、」と樹生は前方の青信号と同時に口を開いた。
「岩永直生が病院に入院する、ってことは知ってたんですね」
「そうですね。どこか遠いところだということだけ聞いていましたが、本人が言おうとしなかったこともあって、どこの病院にいるのかまでは知りませんでした。……精神病棟への入院というのは、やはり言いたくなかったと思いますよ」
「……茉莉が、」
車は再び停止した。信号機のない横断歩道で、道を渡りたそうにしている子どもに道を譲ったのだ。
「茉莉が父親を殺したいほど憎んでいて、その所在を知りたがっていることを、先生は知っていたはずです。どっかの病院にいるっていうヒントを、……まあ結局岩永直生は病院にはいなかったわけですけど、でも、どうして、……教えてくれなかったんですか、」
「……」
「おれたちはただ家族を捨てて家を出て行った父、だと思ってたんです。それが精神を壊して入院となれば事情は違う。もっと早く教えてくれていたら、違ったかもしれない、……特に茉莉の復讐の芽は、育たなかったかもしれない。そう、思って、」
「……」
「先生は、ずるいです」
それは早がはじめて樹生の口から聞く、「非難」の言葉だった。早を責めるような台詞を、この青年ははじめて口にした――甘える音の響きに、早の心が熱くなる。
親しい間柄でないと、こんな口はきいてくれない。そう思ったのだ。
だが喜んでいる場合ではない。早は息をしっかりと吸った。
「あなたがた姉弟のやることに何も口出しはしない、と決めたからです」
答えると、樹生は前を向いたままだったが、口を僅かに引き結んだ。
「この件に関しては、徹底的に傍観者を貫こう、と惣先生と決めたからです」
「おれを引き取ったのに?」
「あなたを引き取ることとは別の問題と捉えました。私と夫は、あなたのお父さんには残念ながら親の務めを果たせない、という結論を出していました。お母さんや茉莉さんに暴力をふるっていたような人ですからね。……そこを繋げてしまうと、私たちはあなたをどっちつかずで育ててしまうことになった。それは、避けたかったんです」
「……」
今度こそ樹生は黙った。感情の整理がつかないのに、運転はぶれない。樹生のよいところだと思う。
早はようやく、今日の目的を語ることにした。実はこれを話すのにタイミングを計っていたし、緊張もしていたのだ。心臓がばかみたいに痛い。思春期の胸の高鳴りみたいに、痛い。
「直生さんのことではなくて、あなたのお母さんのことを、話します」
樹生は「え?」と助手席の早を見遣り、慌てて視線を前に戻した。
「早先生は、母を知ってるんですか?」
「小さい頃のことは知りませんよ。私があなたのお母さん――美藤さん、を知ったのは、あなたのお父さんの披露宴の式のことでしたし、その後惣先生と結婚に至ったころぐらいでしょうかね、まともに話すようになったのは。惣先生と結婚する時にね、美藤さんからsomething fourになぞらえて白いレースのハンカチを借りて、それをポケットに忍ばせて写真を撮ったんですよ。幸せな人から借りたものを身に着けると幸せになれる、という習慣を真似たんです。言い出したのは、美藤さん」
そのハンカチはきちんと洗ってアイロンをかけ、返した。事故当時、美藤の鞄の中からそれが出て来たことも思い出す。美藤の遺体を焼くとき、棺に一緒に入れた。
「縁、というのは、奇妙なものだと思います」
早は少しだけ窓を開けた。穏やかに温んだ風が車内に滑り込んでくる。
「私が惣先生と知り合って結婚したのは偶然です。惣先生の教え子にあなたのお父さんがいたことも偶然です。お父さんが夏居さんの息子さん――嘉彦さん、と同級生だったことも偶然です。いろんなことが重なった縁だと思ってください」
窓の外からふわっと春が香った。南風の匂いだ。
「夏居嘉彦さんのお父さん――巌さんは、あなたの母方のおじいさんです」
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あの時、暁登は何を言いかけたのか。
樹生とのシェア生活を解消したのは何が理由だったのか、聞いていない。尋ねれば答えてくれたかどうかは分からない。それでも聞いてみてもよかったかもしれない。暁登の最後の行動には迷いがあるように見えた。迷いながらも、歯を食い縛って前進したのだ。
畑の雑草が気になり、背を丸めてそれを抜いているうちに、樹生がやって来た。「先生」と呼びかけられ、早は振り向く。樹生に会うのは久しぶりで、だが変わらずにいるのだと思い込んでいて、違った。ひとつ試練を乗り越えたからだろうか、岩永樹生という男は、なんだかしぼんで一回り小さくなったように見えた。
実際にはそんなことはない。高い上背も確かな骨肉の量も変わらない。表情のせいなのだと察する。樹生の表情はあまり冴えたものではなく、なんとなく疲労と痛みを滲ませていた。
この表情は、昔の記憶を呼び起こす。あの秋雨の日、病院から姉弟を連れて夫が帰って来た時、少年はこれと同じ顔をしていた。何かを失った顔。安堵しながらも絶望している顔だ。
背の高い男は「先生」と再び早を呼んだ。早は立ち上がろうとしてよろけ、咄嗟に男の腕が伸び、抱えられた。
「――っと、」
「すみません、大丈夫ですよ」
言いながら体勢を立て直す。早の手は土で汚れていたので、樹生の衣服を掴んで汚すのは申し訳ないと思った。だが樹生は構わず、むしろ自分から手を伸ばして早の手を取ると、その皺だらけの手をしげしげと眺めた。
「……どうしました?」
「先生っていくつになったんでしたっけ」
唐突な質問に面食らう。女性の、皺の刻み具合を見てそれを尋ねたのならば失礼な話だとも思ったが、元より年齢を気にする性分でもない。「七十八歳ですよ」と答えた。「去年が喜寿で、あと二年で傘寿が来ます」
「もうそんな年でしたっけ?」
「そうですよ。樹生さんは今年三十一歳でしょう? あなたを引き取ったのが二十四年前ですから、そんなになりますよ」
「すごいな」
「なにが?」
「おれは四半世紀も先生の傍にいますね」
その言い方があまりにしみじみとしたものだったので、早は目を瞬かせる。
「親の記憶なんてないわけですよね」
「……私はあなたが生まれるよりずっと前から、あなたのお父さんを知っています」
言い方を誤らぬよう、声音に心がこもらぬよう、早は丁寧に気を付けて発言する。
「あなたのお父さんの背が伸びる速度を見てきました。――一指導者として、ですけれども。そして樹生さんの背が伸びる速度も、見ました。ですから、誰もあなたを見ていない、ということではないんですよ」
そう言うと、樹生は顔を背けて手を離した。庭の隅の水道で手を洗い、ハンカチで拭う。「行きましょうか」と声をかけた時、樹生は雑木林を見上げていた。
樹生の車に乗り込む。S温泉郷へ行くのは初めてだとカーナビを操作しながら樹生は言ったが、早はそれを訂正した。
「――え?」
「一度、惣先生とあなたは夏居旅館に湯治に行っています」
「え、いつ?」
「アトピーが気になりだしたころ、でしたね。S温泉郷の泉質は皮膚症状に効く、と有名でしたから、夫があなたを連れて行ったんです」
「……全然覚えてないです」
「気にすることはありませんよ。親の記憶がないことと同じです。忘れてしまっているだけで、実際には起こっている事実です」
カーナビを設定し終えて樹生はしばらく黙ったが、やがて「じゃあ、行きます」と静かに言い、車を発進させた。
→ 65
← 63
2018.6.18追記
先日より忍者ブログに障害が起こっていたらしく、ブログの管理画面に入れず、
よって更新が遅くなってしまいました。
現在は復旧したようです。ご迷惑をおかけしました。
「――え?」
「ちょっと行き違ってしまって、実家に戻ってるんです、いま。でももう少し色々がきちんと落ち着いて来たら、また家を出ます」
「……今度は、」
「ひとりで暮らしてみようと思っています」
暁登は目を細めて頭の後ろを掻いた。
「就職っていうか、……アルバイトみたいなもんなんですが、決まって」
「まあ。おめでとうございます」
それでこんなにさっぱりとした格好なのかと合点がいった。
「どこへ決まったんですか?」
「市内からちょっと外れたところにある、小さな出版社です。絵本とか図鑑とか、地域に根差した郷土の本とか、そういうの、出してて」
「ああ、もしかして詩烏出版?」
暁登は「お、」と嬉しそうな顔をした。
「当たりです、その、シガラスさん」
「主人がよく本を取り寄せていましたし、そこから本も出していたかと思います。小さいながら素敵な本を出版する会社だなと思っていました」
「そう、おれも早先生のご主人の本を整理してて初めて知った会社だったんですけど。……求人が出ていたので、思い切って、」
ということは早の夫が繋げた縁だったのだろうか。早は微笑む。
「よかったですね」
「まだ始めたばかりなんで、おれのしていることって本当に雑用ばっかりなんですが、……小さい分、職場の雰囲気がいいんです。忙しいですが、気持ちがゆったりしてるというか。
そこは洋書の輸入販売もしていて、翻訳家の方にお願いして日本語版を出す時もあって。その担当をしている先輩に、色々と教わって仕事をしています」
そう言った暁登の表情は、今までに見ない自信や期待が垣間見えた。不安がないわけではない。けれどこの進路に本人は意志を持って向かっている。そういう、あたらしい表情だ。
春にふさわしいのだと思えた。
早は暁登の自立を素直に喜ぶ。前向きな人を見るのは心が豊かになるようだといつも思う。暁登の苦しんでいる姿を長いこと見ていたので、それは蕾のふくらみだとか、日照りの後の慈雨、冬眠からの目覚め、そんな風に感じた。
季節は巡る。四季のあるこの地域に暮らせて嬉しいと思う。青年にようやく春が来た。
「本当に、本当によかったですね」
と言うと、青年は照れを隠してうつむき、また顔を上げて真正面から早の顔を捉えた。ありがとうございます、と穏やかに礼を述べる。
「それでも、今までこの家でやっていたことは途中で辞めたくはないんです」と暁登は言った。
「書斎の整理とか、」
「ああ……そうですね。急ぐものではないので焦りはしないのですが」
「今までよりペースは落ちてしまうと思いますが、休みの日はここへ来てもいいでしょうか」
そう訊ねた暁登の瞳は不安げに曇る。もちろん拒否する理由はなかった。
「助かります。それに、嬉しいです」
「よかった」
「来たいと思う時にいらして下さい」
暁登は分かりやすく安堵の息を吐くと、「これで行きます」と背後のバイクにちらりと目をやった。これから仕事なのだと言う。
去り際、暁登は「岩永さん、」と呟いて、早を振り返った。
「……いや、」
「え?」
「なんでもないです。じゃあ、また」
暁登は今度こそ迷いない足取りで早の畑を後にした。
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「ちょっと行き違ってしまって、実家に戻ってるんです、いま。でももう少し色々がきちんと落ち着いて来たら、また家を出ます」
「……今度は、」
「ひとりで暮らしてみようと思っています」
暁登は目を細めて頭の後ろを掻いた。
「就職っていうか、……アルバイトみたいなもんなんですが、決まって」
「まあ。おめでとうございます」
それでこんなにさっぱりとした格好なのかと合点がいった。
「どこへ決まったんですか?」
「市内からちょっと外れたところにある、小さな出版社です。絵本とか図鑑とか、地域に根差した郷土の本とか、そういうの、出してて」
「ああ、もしかして詩烏出版?」
暁登は「お、」と嬉しそうな顔をした。
「当たりです、その、シガラスさん」
「主人がよく本を取り寄せていましたし、そこから本も出していたかと思います。小さいながら素敵な本を出版する会社だなと思っていました」
「そう、おれも早先生のご主人の本を整理してて初めて知った会社だったんですけど。……求人が出ていたので、思い切って、」
ということは早の夫が繋げた縁だったのだろうか。早は微笑む。
「よかったですね」
「まだ始めたばかりなんで、おれのしていることって本当に雑用ばっかりなんですが、……小さい分、職場の雰囲気がいいんです。忙しいですが、気持ちがゆったりしてるというか。
そこは洋書の輸入販売もしていて、翻訳家の方にお願いして日本語版を出す時もあって。その担当をしている先輩に、色々と教わって仕事をしています」
そう言った暁登の表情は、今までに見ない自信や期待が垣間見えた。不安がないわけではない。けれどこの進路に本人は意志を持って向かっている。そういう、あたらしい表情だ。
春にふさわしいのだと思えた。
早は暁登の自立を素直に喜ぶ。前向きな人を見るのは心が豊かになるようだといつも思う。暁登の苦しんでいる姿を長いこと見ていたので、それは蕾のふくらみだとか、日照りの後の慈雨、冬眠からの目覚め、そんな風に感じた。
季節は巡る。四季のあるこの地域に暮らせて嬉しいと思う。青年にようやく春が来た。
「本当に、本当によかったですね」
と言うと、青年は照れを隠してうつむき、また顔を上げて真正面から早の顔を捉えた。ありがとうございます、と穏やかに礼を述べる。
「それでも、今までこの家でやっていたことは途中で辞めたくはないんです」と暁登は言った。
「書斎の整理とか、」
「ああ……そうですね。急ぐものではないので焦りはしないのですが」
「今までよりペースは落ちてしまうと思いますが、休みの日はここへ来てもいいでしょうか」
そう訊ねた暁登の瞳は不安げに曇る。もちろん拒否する理由はなかった。
「助かります。それに、嬉しいです」
「よかった」
「来たいと思う時にいらして下さい」
暁登は分かりやすく安堵の息を吐くと、「これで行きます」と背後のバイクにちらりと目をやった。これから仕事なのだと言う。
去り際、暁登は「岩永さん、」と呟いて、早を振り返った。
「……いや、」
「え?」
「なんでもないです。じゃあ、また」
暁登は今度こそ迷いない足取りで早の畑を後にした。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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