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九.春雷
気が付いたら年度が終わり、また新しくなっていた。
異動の時期だ。樹生自身に転勤はなかったのだが、職場の同僚が一人、他局へ異動になった。それに替わって新しい人員が補充され、樹生はその新しい同僚に仕事を教える事になった。
樹生のバイクの後ろに新しい同僚のバイクがついて、一軒一軒、家を回る順番を覚えさせる。それを三日ほど通しでやった。最終日は同僚を先に行かせて樹生は後を付いていただけだ。同僚は樹生より十五歳ほど年上だったが要領がよく、覚えることのコツを持っている人だと分かった。悪くないなと思った。話し方も気さくでなにより人柄が良い。
休憩の際に聞いた話では、バイクが好きで整備士としても働いていた事があったという。
「機械をいじるのが好きでさ。走るのも好きなんだよね。嫁さんともそういう縁で知り合って、今でもたまに二人でツーリングに行くよ」
窓の向こうに照射する春の陽射しを眺めて、おっとりと同僚は言った。
「いい季節になったよなあ」
「そうですね」
「早く桜が咲いて花見が出来るといいよな」
と同僚は水筒のお茶を飲む。今年は冬の寒波が平年以上だったせいか、桜がほころぶのが遅く、この辺りではまだ咲かない。
新年度ということもあって最近は少し忙しい。その日、残業を終えて樹生が帰宅したのは夜七時を過ぎていた。くわえ煙草のまま部屋をうろつき、うろつきながら風呂の支度をしていると、電話が鳴った。
着信は早からだった。
早からの連絡は久しぶりで、樹生の心臓は鋭く痛む。早には触りの部分で、晩に接触したことと父について聞いたこと、茉莉の復讐を自分が遂げて幕引きをしたことを話していた。それでもその時の早は「そうですか」と言っただけで、それ以上も何もなかった。
暁登は早の元へ全く訪れなくなった、とは、聞いた。だがそれ以上のことは聞かなかったし早も言わなかった。怪我の後、暁登がどう日々を過ごしているのかを、樹生は全く知らない。知ろうという努力を怠っている。
電話の向こうで早はいつも通りのさっぱりとした口調で『お花見しませんか?』と言った。
「お花見、ですか」
『ええ。花の頃合いだと思ったので。もっとも樹生さんは花に興味はありませんね。私が花見をしたいんです。連れて行って頂けませんか?』
早の、こういうやや強引とも取れる申し出は珍しかった。
「花見と言えば、桜ですか」
『そうですね。桜がいいと思います』
「桜かあ。桜ならどこがいいんですかね。川沿いの緑地公園とか?」
『いえ、S温泉郷へ、と』
というので、花見というよりはS温泉郷に行きたいのだと察しが付いた。それを言うと、早は電話の向こうで特に恥ずかしがる訳でも、恐縮する風でもなく、『そうなんです』と肯定した。
『意図を隠していても仕方がないのではっきり申し上げますが、S温泉郷の夏居旅館、そこへ花見に行きませんかとお誘いしています』
「……」
夏居、という言葉がざりっと心に引っかかった。正月に会った髭面の小さな老人を思い出す。あまりいい感情は抱いていなかった。
樹生が答えを渋っているとその妙な間は早にもきちんと伝わったようで、早はすぐに『嫌なら嫌、と断っていいんですよ』と言った。
「嫌……なんですけど、駄目、ではないんです」
そう答えると早はしばらく黙り、『駄目ではない、とは?』と訊いた。
「日程的には空くので」
『なら、行きましょう』
有無を言わせない口調だった。
『S温泉郷はちょうど今週末ぐらいが花の盛りのようですが樹生さんのご予定は?』
「週末、土曜日は仕事ですが日曜日は休みです」
『それはよかったです』
日曜日の朝早くに早を家まで迎えに行き、樹生の運転でS温泉郷の夏居旅館まで行くことになった。
早との電話を済ませ、樹生は息を吐く。風呂に入ろうとしていた事を思い出して風呂場に向かいかけたが、なんとなくそのままスマートフォンを操作して検索をかけた。S温泉郷、春、と入れてみる。出て来た画像は川辺に桜の枝垂れるものばかりで、その中のいくつかには夏居旅館の情報もあった。
立派な構えの、昔ながらの温泉宿、という建物だった。再び息をついて樹生はスマートフォンの操作を終了する。
思い切りよく服を脱ぎ捨て、風呂場に向かった。
→ 62
← 60
異動の時期だ。樹生自身に転勤はなかったのだが、職場の同僚が一人、他局へ異動になった。それに替わって新しい人員が補充され、樹生はその新しい同僚に仕事を教える事になった。
樹生のバイクの後ろに新しい同僚のバイクがついて、一軒一軒、家を回る順番を覚えさせる。それを三日ほど通しでやった。最終日は同僚を先に行かせて樹生は後を付いていただけだ。同僚は樹生より十五歳ほど年上だったが要領がよく、覚えることのコツを持っている人だと分かった。悪くないなと思った。話し方も気さくでなにより人柄が良い。
休憩の際に聞いた話では、バイクが好きで整備士としても働いていた事があったという。
「機械をいじるのが好きでさ。走るのも好きなんだよね。嫁さんともそういう縁で知り合って、今でもたまに二人でツーリングに行くよ」
窓の向こうに照射する春の陽射しを眺めて、おっとりと同僚は言った。
「いい季節になったよなあ」
「そうですね」
「早く桜が咲いて花見が出来るといいよな」
と同僚は水筒のお茶を飲む。今年は冬の寒波が平年以上だったせいか、桜がほころぶのが遅く、この辺りではまだ咲かない。
新年度ということもあって最近は少し忙しい。その日、残業を終えて樹生が帰宅したのは夜七時を過ぎていた。くわえ煙草のまま部屋をうろつき、うろつきながら風呂の支度をしていると、電話が鳴った。
着信は早からだった。
早からの連絡は久しぶりで、樹生の心臓は鋭く痛む。早には触りの部分で、晩に接触したことと父について聞いたこと、茉莉の復讐を自分が遂げて幕引きをしたことを話していた。それでもその時の早は「そうですか」と言っただけで、それ以上も何もなかった。
暁登は早の元へ全く訪れなくなった、とは、聞いた。だがそれ以上のことは聞かなかったし早も言わなかった。怪我の後、暁登がどう日々を過ごしているのかを、樹生は全く知らない。知ろうという努力を怠っている。
電話の向こうで早はいつも通りのさっぱりとした口調で『お花見しませんか?』と言った。
「お花見、ですか」
『ええ。花の頃合いだと思ったので。もっとも樹生さんは花に興味はありませんね。私が花見をしたいんです。連れて行って頂けませんか?』
早の、こういうやや強引とも取れる申し出は珍しかった。
「花見と言えば、桜ですか」
『そうですね。桜がいいと思います』
「桜かあ。桜ならどこがいいんですかね。川沿いの緑地公園とか?」
『いえ、S温泉郷へ、と』
というので、花見というよりはS温泉郷に行きたいのだと察しが付いた。それを言うと、早は電話の向こうで特に恥ずかしがる訳でも、恐縮する風でもなく、『そうなんです』と肯定した。
『意図を隠していても仕方がないのではっきり申し上げますが、S温泉郷の夏居旅館、そこへ花見に行きませんかとお誘いしています』
「……」
夏居、という言葉がざりっと心に引っかかった。正月に会った髭面の小さな老人を思い出す。あまりいい感情は抱いていなかった。
樹生が答えを渋っているとその妙な間は早にもきちんと伝わったようで、早はすぐに『嫌なら嫌、と断っていいんですよ』と言った。
「嫌……なんですけど、駄目、ではないんです」
そう答えると早はしばらく黙り、『駄目ではない、とは?』と訊いた。
「日程的には空くので」
『なら、行きましょう』
有無を言わせない口調だった。
『S温泉郷はちょうど今週末ぐらいが花の盛りのようですが樹生さんのご予定は?』
「週末、土曜日は仕事ですが日曜日は休みです」
『それはよかったです』
日曜日の朝早くに早を家まで迎えに行き、樹生の運転でS温泉郷の夏居旅館まで行くことになった。
早との電話を済ませ、樹生は息を吐く。風呂に入ろうとしていた事を思い出して風呂場に向かいかけたが、なんとなくそのままスマートフォンを操作して検索をかけた。S温泉郷、春、と入れてみる。出て来た画像は川辺に桜の枝垂れるものばかりで、その中のいくつかには夏居旅館の情報もあった。
立派な構えの、昔ながらの温泉宿、という建物だった。再び息をついて樹生はスマートフォンの操作を終了する。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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