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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 抜け出すのは簡単だった。僕に話しかける人はほとんどいなかったからだ。それに僕自身もかつてのクラスメイトの顔や名前をほとんど思い出せていなかった。十五年は、それぐらいに長い。ホテルを出て駅前へ向かう途中、まだ繁華の情を残している町のショーウインドウで自分の姿を見た。元が痩せ型だが、ここへ来てますます痩せたな、と思った。秋風を寒く感じたので、カーディガンを羽織って駅の南口へと向かうも、足は重い。
 綜真が僕に気づき、あろうことか特別扱いかのように耳打ちしてきたことは、信じがたい幸運、と思う自分。けれどもうひとりの僕が、うぬぼれるんじゃねえよと僕を蹴りとばす。こんなに冴えない一般人の僕が、人気のスポーツ選手とこれからどうこうなれるわけがない。あれ、そもそもどうこうなることが僕の最善手なのか? 綜真にだっていい人のひとりやふたりは当たり前にいるだろう。あれだけ魅力を備えた人なのだから、周囲が放っておくはずもない。だったら僕が駅に向かう目的ってなんなんだろう。また嫌な気分になるだけなんじゃないのか? 自問自答でぐるぐるしているうちに、大通りに構えた僕の勤め先の明るい暖色の光の前へ来ていた。この店は夜間遅くまで営業していることもまた、売りのひとつなのだ。今日いちにちで疲れた身体へのご褒美に、どうぞ甘いものを。店内はカフェも併設されていて、イートインも出来るようになっている。繁盛するわけだ、とぼんやりする。
 僕に気づいたスタッフはいない。ずっと事務室で電卓をたたく僕のことを、ちゃんと店のスタッフだと認識できる人間が果たしているのかどうか。あの地味な経理の人、ぐらいだろう。こうやって店を正面から眺めていても誰も気づかないもんな、と自嘲気味になってクラシカルにまとめた店内を外から眺めていると、二の腕を後ろからぐっと掴まれてびっくりした。
「南口にいないから逃げられたかと思って探した。……めっちゃくちゃ探した。卒業式の日を思い出したな」
「……綜真、」
「ここが緑哉の勤め先?」
 上田先生から聞いた、と綜真はひっそりと笑った。
「こんな時間までやってるんだ? 遅くまで大変じゃない?」
「僕は経理だから、六時には上がるし、……似合わないだろ、こんな店」
「あのチョコすげー美味かったよ。おれ、チョコレート好きだし。寄ってっていい?」
「あ」
 腕を掴まれたまま綜真に引きずられて店内を正面から堂々とくぐる。僕に気づくスタッフもおらず、だが綜真に気づいたスタッフはいたのか、ほんのりと色を含んだ目配せをしながらショーケースの内側で笑みを浮かべていた。「いらっしゃいませ」
「ここってイートイン出来るんですか?」
「はい、そちらがカフェスペースになっておりますので。オーダーはお席でいただいております」
「こんな時間でも?」
「当店は十時閉店となっております。カフェのラストオーダーは九時半です」
「じゃあ大丈夫か。ふたりね」
「かしこまりました。あいたお席へどうぞ。ただいまメニューお持ちします」
 綜真は席に着くまで僕の二の腕を離してくれなかった。というか、痩せ型とはいえ成人男性の腕をぐるっと掴めてしまう大きなてのひらと長い手指。指や腕にはテーピングテープが巻き、よく使い込んでいることが分かる。さすがワールドクラス、と感心すると同時に、ものすごくドキドキしている僕がいた。心臓が痛くてたまらない。
 綜真は窓際の席を選んだ。道ゆく人が見えるし、道ゆく人も僕らが見えるだろう。そういう、逃げも隠れもできない席を選んだ。世界王者ってのはそういう自信でできているのかもしれない。
「あ」メニューを見ながら綜真は僕を見た。「でもいま思い出した。緑哉ってチョコ食えなかったよね」
「……コーヒー頼むから大丈夫。好きなの頼んで。僕なら社割がきく」
「まじ? じゃあこのショコラ三点盛りってやつと、せっかくだからホットチョコレートにしようかな。すいませーん」
 と声をかけたが、カウンターの辺りでテイクアウトの客相手にソフトクリームを販売しているところに目を留めた。
「あれなに?」と訊く。
「ああ、チョコレートのソフトクリームだよ。夏にチョコレートが売れるように販売してるやつ。素材もリッチに作ってて、ナッツをまぶして、ああやって目の前でチョコレートソースをかけて見せるパフォーマンスもする。人気だよ」
「へえ、美味そうだな」
 やって来たスタッフに「あれもイートインできるんですか?」と訊ね、できますよ、と答えをもらうと「じゃあそれにします」とオーダーした。
「寒くない?」
「寒くないよ、全然。緑哉は寒そうだな」
 笑って綜真は僕のカーディガンをそっと引っ張った。僕はうつむく。
「……日本代表、残念だったな」
 そう言うと、綜真は「知ってんの?」と問いを返した。
「……綜真の情報は、簡単に拾えるだろ」
「あー、うちのチームSNSとかやってるしな。まあ、そうなんだよ。代表入り確実って言われてたけど、故障でだめになった。でもその代わりにうちのチームの若いやつが代表入っていい成績残したし。おれ、あんまり気にしてない」
 さっぱりとした言い口だった。
「年齢的に、最初で最後のオリンピックだろうって騒がれてただろ? これで現役引退か、とかさ」
「そのニュース、僕も読んだ。ネット記事だったけど、……引退、するのか?」
「うん、する」
 あんまりにもすらりと答えるので、こっちが面食らった。その合間を縫うようにオーダーが運ばれてきた。カフェでソフトクリームを頼むと、ソフトクリームは陶製の器に盛られて出てくる。ウエハースとナッツが添えられていて、チョコレートソースは自分でたっぷりとかけられるようになっている。
「おおー、すげ。うまそ」
「美味しいよ」
「え?」
「……と、思うよ」
「先食っていい?」
 どうぞ、と目だけで合図する。綜真はチョコレートソースを上からかける。冷気でたちまちチョコレートは固まる。それが面白さで、売りのひとつなのだ。
 パリパリとチョコレートを口にして、「ん、すごい濃厚」と言った。
 ぱくぱくとあっという間にたいらげて、口の周りを拭う。それから綜真はさきほど頼まなかったショコラ三点盛りとホットチョコレートを追加オーダーした。
 コーヒーをずるずるとすする僕に、綜真は「引退ってか、趣向替え」と答えた。

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 真夏みたいに暑い日で、着て行こうと考えていた秋物のニットは取りやめにして、夏のあいだじゅう着た長そでの薄手のシャツを着た。一応、カーディガンも鞄に突っ込む。年齢を経るにしたがって、昔みたいにアレルギーがひどくなった。主には紫外線で、肌がかゆくなる。女子みたいに日光の対策をしなければならなくなったのは非常に煩わしい。男性用の日傘というものを早々と導入している。
 ホテルの宴会場は、旧友やその家族(女子連中にこぞってくっついているのはおそらく彼女らの子どもなんだろう)の姿で賑わっていた。極力気配を消し、奥の席でちんまりと座っている老年の男性に近づいた。
「上田先生、」
 声をかけると、小柄な先生は「誰や?」と懐かしい方言で訊ねた。大学で関西からこちらへ進学して、そのままこの町で教職を取った先生は、土地の女性と結婚して所帯を持っても一貫して関西弁だった。
「荻原です。あまり覚えてもいらっしゃらないかとは思いますが」
「嘘や嘘、よぉ覚えとるで。忘れるはずないやないか。元気しとるか?」
 先生はからからと笑った。
「なんとか。ご退職おめでとうございます。これ、お祝いになるかどうか」
「おお、くれるんか? 嬉しいなあ。荻原はそやって気遣いの細い子やったな。ほら、黒川のこともな。おおきに」
 職場で贈答用にチョコレートが欲しいんだけど、と言うと、従業員から「荻原さんが?」「なんで?」「彼女か?」「詫びでも入れるの?」と総突っ込みを食らった。
「洒落とるなあ。なんやこれ。チョコ?」
「うわーっ! フラウのショコラじゃん!」
 そう叫んだのは学級長を務めていた石丸、今回の幹事だった。彼は声がでかい。一斉に視線がこちらへ向くのが分かり、嫌になった。
「え、フラウ?」
「あの高級チョコレート店の?」
「まじ? 嘘、あれ持って来たの誰?」
 場がざわつく。だからこそこそしていたのに、と後悔する。先生は「なんや人気なん?」とほがらかに石丸に訊ねる。
「人気ですよー。地元じゃ知らんやついないですよ。値段もいいけど味も超一流。なんだっけ、パティシエがフランスのどっかっていう有名な店で修行してたって言っててー」
「先生! あたし食べたいです!」
「私も!」
「分かった分かった、ほならみんなで分けよか」
 包装を解き、自分の分をひと粒取って先生は箱を石丸に渡す。皆があっという間にそこへ群がった。こういうところの団結力はやたらいいクラスだったことを思い出す。大箱で購入したがすぐになくなってしまいそうだった。
 先生は、「はは、よっぽど人気や」と笑う。
「先生のご家族で、と思って大きな箱で買って来たんですけど、もうひと箱別に買ってくればよかったですね」
「ええのや。みんなが明るい顔して食べとったら菓子も嬉しいやろ。ほんまに美味いチョコやな。フラウいうのは有名なん分かるな」
「僕のいまの勤務先なんです」
「ほお?」
 先生は、のんびりと僕を見た。
「あれだけ教職取りたいって言って入った大学を、僕は卒業できなくて。いまはその、経理をやってます」
「そうかぁ」
「僕が、……病気して一年留年してこのクラスに入ったときも、先生は本当に進路に心を砕いてくださったのに、なんていうか、情けないですね」
「荻原はいまの生活に不満なん?」
「……理想と現実がどんどん乖離していくのに、諦めがつくのが、嫌ですね」
「若い証拠や。これからなんやで」
「……」
「まだ指しとるか?」
 先生の問いをかき消すように、「あーっ、綜真(そうま)―っ!」という声で、心臓がばくっと唸った。血が身体中を駆け巡って痛い。
「遅いっ」
「ニッポン代表を逃した男!」
「ワールドレコード!」
「うるっさいなぁ」
 ちょうど僕と先生のいる場所から対角に、群れが出来た。中心にはひと際背の高い男がいて、皆に囲まれている。ああ、本当に遠くなった。すごく遠い。僕は帰りたい気分になり、その考えを真剣に検討しはじめる。そっと抜ければ誰にも気づかれない。そっと。
 先生に挨拶だけして。ここをそっと。段取りを組みながらも輪の中心から目を離せなかった。昔よりはるかに逞しくなった筋骨を備え、すっきりとした短髪は相変わらずのまま、勧められてチョコレートを口にしている。うまいな、誰が持って来たの? え、誰だっけ。石丸じゃないの? 違うよ、上田先生のとこにいるさあ。上田先生、どこ? あっち。
 顔がこちらを向いて、目が合った。――逃げたい。
 きみの目にいまの僕を写してほしくない。
「――上田先生」
 輪の中心を外れて男は軽い身体でやって来た。先生と挨拶をかわし、こっそり下がろうとする僕を「緑哉も」と逃さなかった。
「久しぶり。元気だった?」
「……なんとか、」
「そっか。今日はさ、おれ」
「綜真―っ! 話を聞かせろよーっ!」
「遠征だったんでしょー?」
「ああもう、うっせぇ!」
 綜真は群れの中心に進む間際、「八時半に駅南口」とそっと僕に耳打ちした。

 高校二年に進学して、幼少期にしか現れていなかったアトピーが酷くなった。とにかくいろんなものを刺激と受け取り、全身が真っ赤に腫れ、それは呼吸器へも及んだ。入院治療を余儀なくされ、ようやく学校へ戻れたころ、級友たちは卒業していき、僕は留年が決定した。
 ひとつ上の学年だったことは、クラスメイトたちにとっては戸惑う存在であったらしい。僕自身も戸惑った。どう接していいのかお互いにつかめず、たまの会話は敬語で「荻原さん」と呼ばれた。教室にいるのが苦痛で、僕はよく図書館で過ごした。図書館の司書教諭を上田先生が務めてらしたので、先生が誘ってくれたのだ。
 僕と先生は、よく将棋を指した。司書室に将棋盤を持ち込んだのは前任者だと聞いたが、先生と盤に向かいながらぽつぽつと話すことは、居心地の悪い場所から僕を解き放った。そして上田先生が司書室にいるからと、級友たちは先生に用があるときだけ図書館へやって来た。将棋を指していく生徒はいなかったが、その中に綜真はもちろんいた。
 黒川綜真。いまのように「スポーツクライミング」とか「オリンピック競技」とされる前からずっと、彼はその世界にいた。小学生でボルダリングをはじめ、中学生のころにはジュニアの世界大会で優勝し、シニアの大会にも出場するようになったほどだ。好成績は国内ではとどまらず、遠征だ、世界大会だと言ってよく授業を休んでいた。出席が危うい彼を上田先生は当然ながら面倒を見ていたので、図書館へ来る回数は時間が許せば他の生徒よりも多かった。
 レポートを手伝ってやってくれ、と言われたのがはじまりだった。綜真は五教科全般に苦労していたので(出席が足りていなければ無理もない話だった)、学年上位にいた僕は彼に与えられた特別課題を彼と一緒にこなすようになった。綜真はひとつ年上の僕にも敬語をつかわなかった。世界大会だのなんだのでクラスの状況を構っていられる場合じゃなかったのだろうとは思う。でも僕を当たり前に「緑哉」と名前で呼んで慕ってくれることが、僕には本当に嬉しかったし、救われたようにも思っていた。
 上田先生がいなくても、僕がいれば、綜真は図書館で長居するようになった。将棋もたまに指した。綜真も僕も初心者は同じで、でもこんなにお互いの立場や状況も異なるのに、盤の前では平等に立てるんだと思えることは、僕に安心感をもたらした。
 最善の一手を尽くしたい、と僕は思っていたし、よく言っていた。留年したからこそここから先はなにひとつ取りこぼすことなくやりたいと思っていたのだ。そうでないと道を踏み誤る。これから先、僕は大学進学を果たし、教職を取って、この町で教員になる。もしくは公務員でやっていく。そう決めきっていたし、だから綜真に惹かれていく自分自身のことを見ないふりをしていたし、とてもじゃないけど直視できなかった。
 綜真は、僕といるときはあんまり言葉を発しない人で、雰囲気としては時代劇に出てくるような、物静かで腕の立つ侍、という印象を与えた。僕はおしゃべりが得意ではなかったから、綜真と言葉を交わさずとも将棋を指せることや、レポートに向かえることは、心地よかった。そしてその若い侍は、僕にとって非常に魅力的だった。否、学校じゅうの誰にとっても魅力的だっただろう。大きくて長い手足が。必要な筋肉だけを備えた身体が。精悍に引き締まり、日に焼けた顔が。それでも話しかけると、ほろっと表情を崩して十八歳の少年に戻る、それへの愛着が。
 どんどん惹かれていった。綜真目当てでクラスメイトどころか他のクラスの女子まで図書館へやって来ると、すごく嫌な気持ちになった。自分の性別を呪い、性癖を呪った。こんなはずじゃない、と心を否定した。思春期特有の。ちょっとぶれているだけで。綜真はただのクラスメイト。僕は女性を愛せるはずだ。
 最善の一手を尽くすためには、この感情を認めてはいけない。
 卒業が迫るころ、僕は大学の前期選抜に落ちて、後期選抜でなんとしても受からねば、というプレッシャーで必死に勉強していた。綜真は体育系の大学にスポーツ推薦で受かっていて、海外遠征などに出掛けていた。帰国して会ったのは、卒業式の日だった。
 ――今日、一緒に帰ろうよ。
 あの日の綜真に、僕はやっぱり応えることは出来ない、と思う。綜真、僕はさ、大学すら卒業できなかったんだよ、と。
 世界大会でワールドレコードを記録して日本中を沸かせた綜真に、合わせる顔なんてとてもじゃないけど持たない。

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 最善の人生を、と思って生きているのに、僕は間違ってばっかりだ。性別も、嗜好も、生活も。少年のころに夢見ていたなにごとも果たせず、後悔の連続で生きている。
 僕ほど僕のことを嫌いな人間はいない。
 ――緑哉(ろくや)、いまの、嫌じゃなかっただろ。
 ある日突然思いだす記憶、というものはある。フラッシュバック、というものだろうか。そのふたつ折りのはがきの往信部を見たとき、あの日あのままのあの声が、僕の耳元を掠めた。ひと際長い手足、確かな筋力を備えた身体と、ちょっと掠れた低い声で、僕にそう言ったあの少年。
 高校三年生の最後の春だった。あのとき、そっと頷いた僕に、彼は笑って「そうだろ」と言ってみせた。
 ――今日、一緒に帰ろうよ。
 そう言われたのに、怖くて、むずがゆくて、恥ずかしくて、やっぱり怖くて、僕はひっそりとひとりで帰った。あのとき一緒に帰っていれば最善手は手に出来たのかと、いまでも不意に考えてしまう。
 本来ならばこんなのは丸をしない。でも思い出してしまった。これは最善の一手になるのだろうか。そう疑問に思いながら、返信部分を切り取り、出席に丸をして近所のポストに投函した。


『青葉西高等学校四十期生A組 同窓会のお知らせ
 暑さ厳しい折、皆さまにおかれましてはさぞやご健康にお過ごしのことと存じます。
 さてこのたび我々青葉西高等学校四十期生A組の卒業十五年を記念しまして、同窓会を開催いたします。改めて交流を深め、友好を築きましょう。なお、この同窓会は我々の担任だった上田先生のご退職記念も兼ねております。皆さまの参加をお待ちしております。
 参加・不参加のご意向を、八月十五日までにご返信くださいますようお願いいたします。
 期日 九月十五日 十七時~
 場所 ブルーリーフホテル 小宴会場「梅の間」(ご宿泊も可能です。幹事までお問い合わせを!)
 
お問い合わせ
幹事:A組元学級長・石丸/副学級長・戸田(旧姓・野口)
Mail:×××-ishimaru@×××.co.jp
Phone:080-××××-××××』


「荻原さーん、この領収書もお願いしまーす」
 そう言って顔を出したのは、この春出来た二号店のフロア勤務になった後輩だった。
 僕が勤めているのは、菓子店だ。元は裏通りの一角のビルに入るちいさな菓子店だったのが、フランス帰りの息子の手腕でチョコレートが美味しいと評判になり、そちらへ主軸を移したのが十年前。規模が大きくなり、店舗を大通りの大きなフロアに移してチョコレート専門店として再オープンし、とどまることを知らない勢いで、二号店が国道沿いにもオープンした。
 チョコレート専門店、とは言っても、僕はチョコレートのことをほとんどなにも知らない。僕は一号店の移転の際に、経理スタッフとして雇われた。店の事務所で毎日電卓とエクセルを叩いている。二号店には経理スタッフを置いていない。だからこうして、二号店の従業員が日に一度、領収書と売り上げ伝票の束を持ってやって来る。
 オーナーには二号店にも経理を置くように頼んでいるが、「オギハラの処理能力がいいもんで」となかなか取り合ってもらえない。
 大学を卒業する予定だった。本当は。けれど実家の商売が立ちゆかなくなり、一家は離散、大学に通っていられなくなった。教員になりたかった僕の夢はついえ、大学を辞めてアルバイトに次ぐアルバイトの日々を送った。その中で職業訓練校に通い、経理関連の資格をいくつか取った。その訓練校の斡旋でいまの職に就いている。はじめは菓子店の経理なんて大したもんじゃないと思っていたが、正社員で雇ってもらえて、社会保障もきちんとしていた。ボーナスも出る。だからチョコレートに詳しくなくても、これはこれで一手だったのだと思っている。思い描いていた最善ではなかったけれど、ひとまず、いまは、これで。
 真夏はチョコレートの販売業績が落ちる。それを補うためにチョコレートのソフトクリーム販売を去年からはじめた。ちょっと高級感を出して、いいお値段で。リッチな見た目と味で、これがけっこう売れる。ソフトクリーム目当ての客がつまむようにチョコレートも買っていくので、店はますます繁盛している。
 領収書を持って来た後輩はそのまま戻る気はないようで、調理場へ行ったかと思うと手にチョコレートをいくつか乗った皿を持って戻って来た。
「秋に向けての新作の試作、だそうですよ。マロンとくるみ」
「……僕は結構ですので」
「え、美味しいのに」
「田仲ぁ」
 事務室へやって来たのはオーナーだった。
「オギハラはチョコレート食わねんだよ」
「嘘でしょ? こんなとこ勤めてて?」
「経理には関係ないからいいんだと。カカオアレルギーだって」
「ええー、よくこんなとこ就職先に選びましたね」
 後輩はへらりと笑った。
「おれチョコレート超好きでこの店のバイト募集の貼り紙で大興奮したのにさあ」
「しょうがねえだろ、体質なんだから。それにこの店にオギハラの能力はなくてはならない存在なんですー。オギハラ、早いとこ次のシフトの希望休出せよ。って店長からことづて」
 後輩とオーナーは新作をつまみながら事務室を去った。僕はふう、と息をつく。希望休なんていつも取らない。別にいままで通り勝手気ままにシフトを組んでもらえば問題ない。調理スタッフでもなければ、フロアスタッフでもないし。
 ――緑哉。
「――あ、」
 そういえば同窓会っていつだっけ。なんかもう面倒くさくなってきている。あのときどうして僕ははがきに丸をしたんだっけ。会えると期待でもしたのだろうか。あの子、あの人に、会えるなんて限らないし、会えたとして、本当に遠くへ行ってしまった存在なのだし。
 鞄を探って同窓会のお知らせはがきを取り出す。日付を確認した。最善の一手を。でも僕は間違えてばかりいる。

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 所用で少し遠くの、ここ近辺ではいちばんの繁華街のある駅前に出ると、日曜日だったせいか、派手な格好をしたキャンペーンガールたちがそこここにいた。一堂に白いかつらをかぶり、白いシャイニーなミニワンピースを穿いて、やはり白のブーツ姿で、キャンディを配っていた。春先、花粉症の季節だ。花粉症に効くというキャンディの試供品を配布しているようだった。彼女らを見て、キャンペーンのテレビコマーシャルを思いだした。アイドルがイメージカラーの白いかつらをかぶって、シャイニーな白いワンピース姿で、「これで花粉症とはおさらば!」などと言っていた。
 風船を持っているキャンペーンガールもいて、彼女は子どもに社名ロゴの入った手持ち風船を渡していた。カラフルな色合いが、春の日差しの目に留まる。春先のぽかぽか陽気の日でよかったな、と思う。冬場のキャンペーンガールなどやったら大変だ。ユニフォームに防寒もへったくれもないだろう。ぺらっぺらの衣装で、真冬に試供品を配る彼女らを想像すると、気分だけで風邪をひきそうに思えた。
 さしずめ、キャンペーンガールというよりはキャンディガールと言ったところか。宇宙人みたいな格好のひとりから、飴をもらった。友山一路(ともやまいちろ)は、早速それを口に放り込む。花粉症ではなかったが、もらった手前、すぐに処理しないとぐずぐずに溶けるまで放置し結局は捨ててしまうと分かっていた。
 駅前から延びる商店街へと進む。ここの一角で一路の友人が衣料品店を営んでおり、そこに用事があるのだ。久しぶりに来た街だったので道をひとつ間違え、さらに修正を誤り、商店街を右往左往した。商店街の外れにもキャンディガールはいた。白く瞬いているからよく目立つ。駅前で見かけた子らより背が高いように思えた。彼女はにこにこ笑いながら、というよりも笑顔だけで、キャンディをぽんぽん配っていた。
 一路が通り過ぎようとすると、キャンディを持った手がさっと伸びる。一路はとっさに頬を指さし、「もらったよ」の合図をしようとした。普段ならこんな人懐こいことをしないのに、ついジェスチャーしてしまったのは、彼女の笑顔につられたからだ。キャンディガールはにこっと笑って、一路と目線を合わせた。途端、その瞳がひらかれる。一路はとっさに、脳の奥に衝撃のようなものを感じた。記憶がスパークしている。どこかで会ったことのある子。そんな気がした。
 キャンディガールはすぐ笑顔を取り繕い、もう動作を次の客へと向けていた。週末の晴れた昼下がりだったので、客はいくらでも通った。一路は茫然としながら、来た道を戻り、商店街へと引き返す。ここまで完ぺきに迷子になってしまったら、友人に電話するしか仕方がなかった。
 コールが鳴っているあいだ、彼女の見開いた目や、表情なんかを反芻していた。やはりどこかで会っているが、この違和感はなんだろうか。しばらくして友人が応答したので、それきり考えるのをやめた。帰りの電車で再び思いだしたとき、一路はその衝撃に、混雑する車内で思わず「あ!」と声をあげてしまった。
 ――穂積伯幸(ほづみたかゆき)。
 あの商店街外れのキャンディガールの正体は、女装した男だ。

 *

 一路が社会人という身分でありながら大学で教鞭をとるようになったのは、去年の四月からだった。それまでは繊維を研究・開発する会社の研究員として勤めていた。その会社は大学と連携して研究を行っており、研究所の所長から、社会人講師の枠に欠員が出てしまったから大学に出向いて講義をしてくれないか、と直々に辞令がくだった。一路は大学生、院生、大学教授助手、と進んでいまの会社に来ていたので、学生への講義は慣れており、ゆえの辞令だった。
 穂積伯幸は、一路の講義を受ける側のひとりだった。学生ではなく、社会人聴講生というかたちで講義を聞きに来ていた。穂積は熱心な聴講生で、最前列に必ず席を取ったからよく覚えている。一路の話に頷いたり、ジョークを面白がってくれたりした。聴講生だからレポート提出は必要なかったのに、毎回真面目にノートを取り、それ以外のときは、一路を見つめていた。
 一方で物静かで、おとなしい性格をしていた。手を挙げて発言することは絶対になかったし、講義後に質問に来ることもなかった。出欠席は手を挙げるだけで済ませていたから、そういえば一路は彼の顔と名前をよく知っていても、声は知らない。
 いくつだろう。どういう身分で聴講生などやっていたんだろう。キャンディガールが穂積だと分かった途端、興味がもくもくと湧いてきた。見た目だけで言えば、女性に劣らない肌白さだったし、いつもシャツをだぼつかせているので、体格は華奢で小柄な方だろう。髪は真っ黒く長めで、眼鏡をかけていた。もしかするとカモフラージュだろうか。女装と、穂積とがばれないための。
 残念だったなあ、とも思う。大学から遠いところをわざわざ選んでの彼の地のキャンディガールだったに違いないのに、一路がのこのこと出かけてしまったおかげで、正体が知れてしまった。まさか女装していることを周知しているわけではあるまい。あったとして、親しい人に限るだろう。あの表情は、予想外の人に出会ってしまった、それそのものだった。
 しかし、と一路は思いなおす。穂積が聴講生として参加していた講座は、一月末をもってすでに今年度の講義を終えている。単純に考えれば、今後は会わないだろう。今回の件は、これで終わりそうだと思った。さよならキャンディガール。ちょっとだけ未練がましく思ったのは、笑顔が素敵だったからだ。

 *

 四月に入り、桜もあらかた咲き終わり、一路も再び社会人講師として忙しくなってきた。一路の受け持つ講座のいくつかに新顔が見受けられるようになり、そのなかのひとつに、ぽん、と穂積伯幸の姿があったので一路は驚いた。手元の名簿には穂積の名はない。穂積はいちばん奥の席に、静かな表情で、学生たちに紛れ込んでいた。奥の席だったが、一路の目には真っ先に映った。髪を多少切ったようで、いままでは髪で隠れていた目元や、耳が、はっきり露出していた。肌の白さが際立つ。少し暖かすぎる日だったけれど、シャツは襟元も袖口もかっちりとボタンを留めていた。
 あの目で一路を一心に見ている。
 一路の一挙手一投足を記録でもするかのように見つめている。
 こんな講義、集中できるはずもなかった。長すぎるほど長い九十分だった。「本日はこれまでとします」と、一路は五分早く講義を切り上げた。眠たいような雰囲気だった教室が一気にざわめく。穂積は立ちあがり、一路に目くばせをして、そっと部屋を出て行った。一路は慌てて追いかける。
 廊下を出ると、前進する穂積の後ろ姿があった。学生らに紛れて小さくなっていくのを、操られでもしたかのように、一路は追いかけずにはいられなかった。穂積は階段をずんずんのぼっていく。やがて屋上へ出た。途端に風に吹きあげられ、一路は一瞬目を細める。
 屋上まで来ると、穂積は一路を振り返った。まじまじと正面から一路を見つめた後、「ごめんなさい」と深く頭を下げた。はじめて聞いた穂積の声は、やわらかくか細く、ハスキーだった。
「なんで謝るの、」
「気分の悪いものを見せたかと。……気づいていらっしゃいますよね。三月の、S商店街にいたキャンペーンガール」
「謝るためだけにあの講義に紛れ込んでいたのか?」
「……いえ、先生には、ちゃんと知ってほしくて。……おれ、普段からああなんです」
「ん?」
「女装するのが、趣味。あのキャンペーンガールは正式に雇われているものじゃなくて、嘘っぱち、偽物なんです。ネットだったらなんでも手に入りますから、好みの衣装買って、女装して、化粧して、ああやって便乗して、っていうのが、好きなんです。キャンペーンガールって、注目されるでしょう。それが、……普段のおれは地味だから、そういうの、たまらなくて」
 一路は言葉が出なかった。穂積はさらに続ける。
「正直、先生には憧れていました。偶然取ってみた講義だったけど、先生の声聴けるの、毎回嬉しかったです。……気持ち悪いですよね、こんな話されても。もう大学には来ませんから――本当にすみませんでした」
「待った、待った。だからどうして謝るんだ」
 一路は慌てる。気分の悪いものを見せられたとか、気持ち悪い思いをさせられたとか、そんなのはちっとも思っていなかった。好意のようなものを寄せられているという部分においても、同じだった。
「確かに僕はきみの女装姿を目撃してしまったわけだけれど、それでなにか被害を被ったわけでもないだろう? 謝るのは、変だ」
「でも、気分の悪い思いをさせたのは」
「そりゃきみの思い込みだ。僕は別に、気分なんか悪くしていない。むしろあのキャンディガールは、とても素敵だったよ。こっちまで春の気分で、つられて笑顔になったぐらいだ」
「……」
 穂積は恥ずかしそうにうつむき、身じろいだ。伏せがちの睫毛が長い。頬がぱあっとばら色に染まったのを見て、一路にまた衝撃が走った。今度は脳ではなく、心臓の方が、ずきっと痛む。
 ちゃんと言わねばならないと思った。言わなければあのキャンディガールはもう、二度と一路の前には現れまい。
「あのさ、あのキャンディガール。あの子に伝えてよ。笑顔がとてもよかったから、また会えないかな、って」
「……それは、」
「どんな格好で現れても、多分素敵だと思うから、ぜひ一緒にお茶でもして、きみの話を聞いてみたいって、伝えてくれないか。いくつなのか、とか、普段はどうしているんだ、とか、色々」
「現れたのが、ださいシャツとズボンの、そこらへんにいるような野暮ったい男でも、ですか」
「うん、それはそれで、いいんじゃないかな。なんでも、どっちでも」
「……」
「僕はね、穂積くん。もう一度あの子の春みたいな笑顔を見てみたいんだ」
 そう言ったら、穂積は笑い出した。腹に軽く手を当て、くつくつと可笑しそうに。顔をあげると、そこにはとびきりの笑顔があった。目尻にはうっすらと涙が滲んでいたが、それがかえって、瞳を怪しい煌めきにしていた。
「伝えておきます、その、『キャンディガール』に」
「ああ、ありがとう」
「きっとその子、嬉しくなっちゃって。とびきりの服装で来るから、覚悟しておいた方がいいですよ」
 穂積は「ふふ」と意地悪く笑った。その笑顔もやはり素敵だと思った。いまきっと穂積は、肯定されて、その喜びが溢れている。だから彼をそんな魅力的な顔にする。
 コーン、とチャイムが鳴って、しまった、と一路は慌てた。次の時間も講義があるのだ。それを穂積に告げると、「あ、すみません」と言って彼はまた深く頭を下げた。「おれ、これでもう行きます」
「じゃあ、また」
「うん」
 さよならキャンディガール、と心の中で一路は呟く。また会おう。またがあるのだから、さよならじゃない。でも去っていく穂積には、そう挨拶して、それから大きく伸びをした。次の講義は始まるが、心地よい春の屋上から、なかなか去れなかった。


End.





拍手[49回]

 間が悪いというのか、良いというのか、志摩の作戦的なものだったのか、その日はその年最後の講習日だった。仕事納めの日、というわけだ。忘年会は新年会と合わせて年明けに行う。新年の講習は四日からで、それまでの約一週間、志摩と会わない日が続くことになる。
 そういえば志摩の携帯アドレスを知らないままだった、ということに気付いた。いままで志摩個人に用事が発生したことはないし、あったとして、画塾の事務室のナンバーをコールすればよいだけだ。飲み会や、それこそ「あまいお菓子を」食べあうお茶会など、個人に踏み込める機会はいくらでもあったのだから、聞いておけばよかった、と友臣は後悔した。志摩に会えないことで焦れている。会ったら、聞きたいことがある。
 年末年始、友臣に帰省の予定はなかった。帰ればどうせ、母や親戚などから小言を言われるに違いなかった。無理を言ってまで美大に入ったが結果はアルバイト生活を続けていること。とりわけ、上の兄や姉が結婚して子どもが出来てから、両親の気がかりは友臣だけになった。それならほっといてくれよ、とも思うが、末っ子だけに心配が多いのか、しょっちゅう電話を寄越すし、友臣の暮らす町へも遊びに来る。ならば帰省してもしなくても一緒かな、と思った。だから帰らない。
 仲間から忘年会の誘いや、スノーシューをやりにNまで行かないか、という誘いもあったが、なんとなく受ける気になれず、断った。頭の中を占めているのは志摩で、会いたいな、と思う。部屋の掃除も終えてあとは年を越すだけ、という段になった大晦日、唐突にお参りに行こうと思いつき、しっかりと防寒をして外に出た。そういえばデパートの前の広場で、カウントダウンイベントをやると、新聞広告にあった。顔を出したことはなかったが、出せば面白いかもしれない。広場の位置は、ちょうどお社と方角を同じにする。年末の特別営業をする店でもあったらそこに入って、一杯やるのもいい、と思った。
 町は思いのほか静かで、しかし広場まで来れば、さすがに賑やかだった。そこに紛れるか、通り沿いで営業しているレストラン・バーに入るか、二年参りに出かけるかで迷っていると、本当に偶然、通りがかりの志摩とばたりと出くわした。志摩は暗い色のステンカラーコートにマフラーを折り目正しく巻いていて、きっちりとした身なりに、どきりと胸が高鳴った。会いたい、と思っていた人に突然会えたせいかもしれない。
 志摩も目をまるくして、唐突な出会いに驚いている風だった。
「――志摩さん、」
「友臣くんもこの店に入るの?」
 と、志摩は友臣が入店を迷っていたバーを指して、言った。友臣は素直に「どうしようか迷っていて」と答える。
「広場のカウントダウン行くか、お参りに行くか、」
「ああ。ひとりなの?」
「そう、ひとりです。志摩さんは?」
「俺もひとり。この店のスイーツを食べおさめてやろうと思って」
 ライトに照らされた黒板を見る。デザートが幾種類か出せるようだと確認できた。
「ここのチーズケーキがたまらなく好きなんだ、俺」
「ほかにもありますか?」
「あとはブラウニーも美味しかったよ。お酒もいいしね、俺はよく来る」
 黒板には「夜明けまで営業」と書かれている。「いいですね」と頷くと、志摩はふっと笑った。
「友臣くん。良ければ俺と、あまいお菓子はいかが?」
「いいですよ。喜んで」
 ふたり揃ってちいさく笑いながら店に入る。程よく混んでいて、蒸していて、心地よかった。
 テーブル席があいていたので、カウンターではなく、そちらへ座った。志摩はマフラーを取りコートを脱いだが、その下は、ブラックのシャツにジャケット、という「正装」だった。ノータイで、一番上のボタンは外されている。冠婚葬祭に出かけた感じではない。意外に思って目をひらく友臣に、志摩は苦笑してみせた。
「さっきまで仲間と別の店で、ライブをして来たんだ。カウントダウン前の余興」
「ああ、ゴスペル、でしたっけ」
「そうそう。五曲ぐらい歌ってきたよ。こーんなのなんかつけてね」
 そう言って志摩はポケットからえんじ色の蝶ネクタイを取り出した。それを襟もとでかざしてみせてくれる。愉快そうに「似合うだろ?」と言うので、友臣はおかしくて笑った。「口髭なんかあったらもっと似合ったかも」と冗談を口にする。
「その、お仲間さんは?」
「同じ店で飲んでいると思うよ。そのままカウントダウンするんじゃないかな、」
「抜けてきて良かったんですか?」
「大丈夫。ここのケーキをどうしても、と思っていたし、」
 そこでメニューに落としていた目を友臣に向けた。
「――なんだか、ひょっこり偶然、こうして会えてしまったし」
 志摩は笑ったが、明らかに照れ笑いだった。友臣は腰の据わらない感覚を味わう。
 志摩はチーズケーキとスパークリングワインを頼み、友臣はブラウニーと、ウイスキーを炭酸でごくごく薄く割ってもらった。注文が届くと同時に日付が変わったらしく、店員に「ハッピーニューイヤー」と声をかけられ、ふたりで同じ文句を返す。志摩の言う通り、ブラウニーはしっとりと濃く、ほろ苦く、甘かった。志摩の頼んだチーズケーキも、土台のビスケット地がしっかりとしていて、見た目からも濃厚さが伝わって来た。
 志摩がふと、「良かったよ」と笑った。
「新年早々、よいことがあった。まさかこんな風にあまいものを友臣くんと楽しめるとは思わなかったな」
「……それなんですけど、志摩さん、」
「うん」
「志摩さんはおれのこと、好きなんですか……?」
 そう言うと志摩は、しばらく黙った後に「好きだよ」と答えた。こちらが面食らうほど、ストレートにぶつけてくる。心臓が高鳴ったが、怖気ている場合じゃないぞ、と友臣は口元を引き結ぶ。
「いつから、」
「いつ、からかなあ。気が付けばって感じだな」
「おれが聞きたいと思ったのは、そこらへん、志摩さんの気持ちなんです」
 そう言うと、志摩は首をわずかに傾げた。
「志摩さん、おれにとって都合いいよ、みたいな言い方をしたでしょう。それってつまり、おれが淋しいって言ったらほいほい呼び出されて、きっとこうやって茶でもして、おれがすっきりしたら用済みで、さようならって言っても文句は言わない、ってこと?」
「そうだね」
「おれ、そこまでしてもらう理由がないです。志摩さんに見あわない」
「理由ならあるさ、俺がきみを好きだということ。こればっかりはね、仕方がない。俺はきみに惚れているから。惚れた弱みっていうやつだ」
「……」
「俺がこうやって相手になることできみが淋しくないんだったら、それは俺の喜びになるんだよ」
「……たとえばおれが、これっぽっちも志摩さんのこと、好きじゃなくても……?」
「感情はいつだって、同量にはならない。仮に両想いの恋人同士でも、片想いなんだ。っていうのが俺の経験則。そうやってあまいところを吸ったり利害を一致させたりして、みな一緒にいる。大方のカップルがそうさ」
「……」
「俺は本当にきみが好きで、大事で、参ってるんだ。きみはそれを逆手に取ればいいんだと思うよ。なんだこの変態野郎、男に勃起なんかしやがって、って罵ったっていいし、かこつけられるようならかこつけて、あまいものでも奢ってもらえばいい」
 なんだか志摩らしかぬ露骨な表現を聞いた気がして、友臣は顔を赤くして「志摩さん!」と志摩に抗議する。志摩も笑い、「だって本当にそうなんだよ」と困った顔をした。
「俺だって、きみを好きでいることの利益をちゃんと受け取ってる。わるくない話だと思うよ。さあ、どうかな、」
「……」
「ちなみに余裕ぶっているように見えるかもしれないけど、いま俺の心臓は、ステージに立つ時よりもずっと緊張している。音、すごいよ。聞く?」
「人がいます。どうやって、」
「手でも当ててみたら伝わるんじゃないかな、」
 そう言って志摩は、友臣に手を差し出した。催眠術でもかけられたかのように、抗えない、と感じながら、友臣は志摩の手のひらの上に手を重ねた。その手はテーブルの向かいの、志摩の胸の上に乗せられる。志摩の指はつめたかったがそれは表面だけのようで、シャツ越しに志摩の熱い体温が伝わって来た。
 遠くでとくとくと、志摩の心臓が唸っている、ということを意識した。友臣の体温は人肌に触れて、一気に上昇した。いつまでも触れていたいような気持ちになったが、いつまでもこうしているわけにはゆかなかったので、友臣の方から手を引っ込めた。志摩もそれを咎めはせず、離れた手はワイングラスのステアに着地して、志摩は一口、ワインを口にする。
 友臣は口元を押さえた。気持ちが悪いのではなく、むしろ逆、にやけてしまいそうだったから、押さえた。こんな風にして人から想われるのはいいものだな、と感じた。いまの心臓の感覚で確信する。志摩は本当に友臣の望むとおりに行動するのだろう。友臣を裏切らないのだろう。
 憐れにも思ったし、嬉しくもあったし、なによりも喜びに深々と打ち抜かれた。ひとりではない、という、絶対的な味方の存在。友臣は手を口元から自身の心臓の上に移動させて、息を長く吐いた。席の向かいから志摩が「大丈夫?」と心配そうに声を寄越した。
「酔った? 気持ちわるい? それともやっぱり、俺がだめ?」
「そうじゃ、ないです」
「でも、具合が悪そうだよ」
「いや、……具合は、いいです」
 なんだかおかしくなってきて、友臣はふふふ、と笑った。志摩がびっくりした顔をしている。
「酔いました。酔っぱらうとおれ、笑い上戸なんです」
「そうか」
「ふふ」
「なんだか、いいことを聞いたな。きみは笑うとかわいいから、笑わせたいな、と、いつも思っていた。それであまいお菓子はいかが? なんて言ってた」
 なんだ、そうだったのか。友臣はまた笑う。幸福な気持ちでいっぱいだ。新年になんてふさわしいのだろう、と思う。


 夜明けより少し前に店を出て、志摩と一緒に近所の神社を参拝した。いちばん冷え込む時間帯だからか人影はまばらで、せっかく設営された露店のほとんどは、ビニールシートを下げて営業を停止していた。
 志摩と並んで賽銭を投げ、礼をして、目を閉じる。再び頭を下げ終わっても、志摩はまだ手を合わせたままだった。しばらくの後に、志摩が一礼して顔を上げる。熱心にお参りしていた内容はなんだと訊くと、志摩は「そりゃ決まっているだろう」と白い息を吐きながら答えた。
「俺の賭けに、きみが乗ってくれますように、だ。真剣だよ、もう。今年で四十になるっていうのに、こんなにばかみたいに神頼みする日が来るなんて思わなかった」
「叶うといいですね」
「他人事だな」
「いや、もう答えは決まってるんです」
 そう答えると、志摩は急に顔つきをこわばらせた。
「……きみは、おじさんの心臓をコントロールするのが上手い。心筋梗塞でも起こしそうだ」
「あー、緊張してます?」
「そりゃあ」
 ちか、と視界の端になにか輝くものがあって、それは、太陽だった。初日の出だ。赤い光線は徐々に上昇し、志摩も友臣も、同じ色に染められてゆく。
 志摩が、「友臣くん、」と答えを催促した。友臣は微笑む。まだ酔いが残っているような、足元から浮く感覚がある。
「とりあえず今日これからあいているようなら、おれんちに来ません?」
 志摩は瞬時に目をまるくしたが、そのままの表情で「行く」と即答した。


End.


前編



年が明けました。昨年は色々と変化の年でありましたが、いままで通りおつきあいいただいた方々も、あたらしくおつきあいいただいた方々も、本当にありがとうございました。
また今年一年、どうかよろしくお願いいたします。みなさまの一年が、実りあるものでありますよう。



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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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