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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 一泊二日の登山は本当に分岐点だった。残りの夏休み期間を夜鷹は進学準備と進学費用捻出のためのアルバイトにだけ費やし、青は全く家に寄り付かなくなった。いつの間にか夏休みも終わり、後期の授業がはじまる。学校生活も終盤に差し掛かっていた。お互いに卒業論文と進路で忙しくなり、構内で出くわしても目配せ程度で済まして声はかけない。
 大学四年間が終わろうとしていた。夜鷹は無事に進学が決まり、アメリカにある大学の院生として迎えられることになった。とはいえ新年度からの入学で手続きを取ってしまったので、九月はじまりの留学先と三月終わりの在学で、時間のずれが生じた。夜鷹は先に出国し、留学生向けの語学プログラムを受講するつもりで荷造りをしていた。出来ればアルバイトを探して金も貯めたい。もしくは生活を早く移したかった。
 春の日差しが部屋に差し込む。もう青とまともに話さないまま、ずいぶんと時間が過ぎた。これからも過ぎる。
「夜鷹、昼食にしないか」
 在宅で仕事をしていた父親が、わざわざ呼びにきた。夜鷹は荷造りの手を止めて、ダイニングへと下りる。夜鷹と同じく海外へしょっちゅう出かける父親の作る料理は、いきなりこてこての和食尽くしだったり、多国籍が無計画に並べられていたりとでたらめばかりだ。今日の昼食はイタリア式で、魚介のパスタとパンとチーズが並んだ。けれど汁物は醤油ベースのかき玉汁だったりして、こういう節操のなさはかえって父親らしいと思う。
「荷造りは進んでいるか?」と父親は訊ねた。
「ぼちぼち。本に困ってる。あらかたまとめるけど、全部は持って行けないから、しばらく置かせて」
「それは構わない。いつでも帰ってくればいい」
 その父親の台詞にしばらく黙っていたが、やがて夜鷹は「あんまり戻らないつもりだ」と答えた。
「できれば拠点をあっちで考えてる」
「そうか」
「あと言っとくけど、おれは結婚はしねえから」
 そう言うと、父親はフォークを置いて夜鷹を見た。
「孫の顔が見たいなら姉貴夫婦で充分だろ。そっち可愛がっておいて。おれはガキも嫁も持つ気はない」
「うん。……なんとなくおまえはそうだろうな、とは思っていた」
 父親は水を飲み、夜鷹を正面からしっかりと見据えた。髭面の、穏やかないつもの顔だった。もっと驚かれるようなら後悔したはずだから、それなりに自分の父親のことを信頼していたのだと悟った。
「……気づいてた?」
「なんとなくね。日本じゃまだ難しいことが多すぎるけど、国を越えれば珍しい関係性じゃない。僕の友人にもいる。みなクレバーでいいやつだ」
「……おれは恵まれてるんだと思う。好きなことをやっていい環境だから。親に理解があるって言うのか? そういう理解を得られずに、困って苦しみながらこれは自分の間違いだと思ってるふしのやつがいて、……そいつは親には自分しかいない、と言った。もしそいつの親に理解があったら、あいつの淋しさは、もしかしたら」
「珍しくナーバスじゃないか」
「失恋したんだ」
「そうか。夜鷹自身を受け入れられないと言うことかな?」
「いや、環境の違いだろうな」
「なら、なおさら悔しいね」
 父親は布巾で口元を拭い、「夜鷹はもっと怒っていいんだ」と続けた。
「おまえの言うとおり、これの環境が影響するところは大きい。育ちの環境だな。文化の違い、もしくは宗教の違いとも言える。信心の差だ。だめだと思っているものはどうしたってだめで、克服は精神的なコントロールを必要とする。苦しいし、容易いことではないだろう。だからって、諦めることはない。苦しいと足掻くことや、痛いと痛がることも、無駄なことではない。泣き明かす夜なんて経験したくもないかもしれないが、心の成長には必要だ。学習であり、経験となって蓄積する。それらはこの先、おまえにとってプラスに作用する。だからもっと怒っていい。相手に対して、あるいは社会に対して。我々先を生きる大人に対して。いつもの口調で罵っていいんだよ」
「……なんかな。そんな気分になんねえんだ。落ち込むってこういうことなんだな。……あいつにとってプラスに働かないと意味がないから、怒りさえ無駄に思える」
「無駄ではない。声はあげるべきだ。その人をまだ好いているなら、なによりもおまえ自身が諦めずに根気強く自分と向き合うことだな。それはいつか、その人を変えるだろう」
「……」
「そして大前提に、僕ら年長者が理解を怠らず、おまえたちにとって暮らしやすい社会にしていくことがあるんだ。先を生きる大人の役割だから、貴重な意見を聞いて善処しよう」
「おれとっくに成人してるけど」
「だがおまえは僕の息子だ。それは生涯変わらない。若い人はね、前も後ろも考えなくていいからとにかく進まなくては」
 夜鷹はパスタをつつき、「あいつの親がうちの親みたいだったらよかったのかな」とこぼした。普段ならこんなこと決して漏らしたりはしない。出国前で、気が滅入っているのかもしれなかった。
「もし親を選べるなら、……親父みたいなところに生まれて、育って、自分のコンプレックスももっと楽に受け入れられたかもしれない」
「もし、だったら、なんて話は、考えるだけ無駄な時間だとおまえは言っていたじゃないか」
「まあな」
「子が親を選べないように、親も子を選べないんだ、夜鷹」
 夜鷹はフォークの先から目線を移し、顔をあげた。
「けれど子は巣立つ。環境を自分で選択していくんだ。これからおまえがこの家を出ていくように」
「逃げるだけだと言われた」
「逃げも戦略だ。恥じることはない。それに僕はおまえの選択を、逃げだとは思わない。勇んで踏み出す一歩だ。なかなか出来ることではない。繰り返すが、若いうちにしか経験できない一歩だ」
「どうだかね」
「おまえは昔から興味のあることに真っ直ぐで、努力を惜しまない子どもだった。教えたわけではないのにね。口の悪さと小賢しさには参ったけど、僕は努力を怠らない人が好きだ。諦めはやはり失望と同義だからね。だからおまえのことをとても信頼している。そのまま進みなさい。おまえのいまの姿勢を保つことが出来れば、人生は豊かで有意義に流れるはずだ」
「そういうこという教授って信頼できないよな」
「ここは大学じゃあない」
「ごちそうさん。食器はおれが片付けるよ」
「ああ、任せる」
 夜鷹は皿を下げ、席を立った。キッチンへ向かおうとして、父親に「そういえば」と呼び止められた。
「玄関におまえ宛ての荷物がある」
「荷物?」
「青くんから。彼、さっき来たんだ。夜鷹を呼ぼうかと言ったのに、渡してくれれば分かると言って行ってしまった。彼は就職と、ああ婚約も決まったんだってね」
 それを聞いて、夜鷹は喉の奥がずきんと痛んだ。身体の血流が一斉に止まったかのような冷感でだるくなる。
「足に鎖がついたわけだ。もう飛べねえな」
「飛ぶ必要はないさ。僕らに翼はないからね」
「……そうだな」
 食器を下げ直し、片付けを済ませて玄関へ向かった。黒い細長いケースが置かれている。それがなんなのか分かった途端、夜鷹はやるせなくなった。咄嗟にケースを掴み、振り上げて、床に叩きつける自分を想像した。重いケースを抱え上げ、夜鷹は自室への階段を上る。
 ベッドの上にそれを置き、ロックを外してケースを開けた。収められていたのは天体望遠鏡だった。ずいぶんと古いそれを、いつまでも大事にして、これで夜鷹の部屋から星を見ていた青。この家に来ることがなくなって持ち帰ったと思ったのに、こうしてまた夜鷹の手元へやって来る。
 ケースの内側に葉書が挟まっていた。大学三年の夏、青と行った山荘で青に買ってやった絵葉書だった。裏をめくると十一桁の数字が記されていた。夜鷹はそれを手に、一階の居間に置いてあった電話の子機を取りに行って、自室の窓際に座ってナンバーを押した。
 数回のコールで、電話の相手は『夜鷹』と名を呼んだ。



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「登頂記念に」
「じゃあおまえもなにか買って寄越せよ」
「さっき石をあげた」
「あれで誤魔化すな」
 売店で言いあいながら土産物を選ぶ。ろくなものはなく、お互いに選び出したのは絵葉書だった。青が選んだのは木版画のレプリカで、夜鷹が選んだのは山頂の写真だった。
「これでまたおれに手紙を書いて」と青は言った。
「おれも書く」
「分かった」
 山荘内の雑魚寝の一室で、日干し程度でごまかされている布団に横になって昼寝をした。目が覚めると陽は落ちていた。食堂で夕飯を食べる。大した料理でもないのに、豚肉の入ったカレーは美味しかった。
 防寒と防風対策をして、山荘の外へ出る。ヘッドライトを頼りに歩き、尾根からわずかに下った草地に寝転んだ。ここなら風を防げる。ヘッドライトを消すと、頭上を覆う星々がにわかに騒ぎ出した。お祭り騒ぎのやかましい夜空を見上げ、青は「すごい」とため息をついた。
「こんなに――すごいのか。天の川がくっきりだ」
「今日は月の影響がないせいだな」
「あったとしても下よりずっとすごいよ。天体望遠鏡持ってこなくても充分だな、これだと」
「あんな重たいもの持って登山するばかがいるかよ」
「星座盤は一応持って来てるんだけどな。すごい。下じゃ見えない星が肉眼で見える」
 青は隣で興奮し、息を飲んでいる。そのうち頼みもしないのに星空の解説をはじめた。夜鷹の視力でもちゃんと分かる星を、ひとつひとつ丁寧に説明する。
「――おまえはいつもこんなものを見てたのか」と青は言った。
「いつもじゃねえよ。日帰りで帰る山もある。天気の悪い夜だってな。今日のおまえはラッキーだ」
「よだかの星」
「あ?」
「ってどれだろうって思って星を見はじめたのが天体に興味を持ったきっかけ。小三でサマースクールにはじめて参加したときだった」
「……宮沢賢治の?」
「うん。鳥が星になるあの話」
 青は起き上がった。夜空を見上げながら「『よだか』って名前の友達が出来た夏だった」と言った。
「……でもあの童話の鳥は、醜いんだよ」
「そう、醜い。でもめちゃくちゃ飛んで星になった」
「おれ、あの話嫌い」
「夜鷹は嫌いだろうな。宮沢賢治自体に同感しなさそうだよな」
「おまえは好きそう」
「うん。ちいさい頃からずっと好きで読んだ。まだ父さんが一緒に住んでたころに読んでもらった記憶があるよ」
「おまえらしいコンプレックスの塊の記憶だな」
 星空を見上げていた青が、夜鷹を見下ろした。星明かり以外の明かりのない場所で、青の目がやけにはっきりと光り、夜鷹を見つめているのだと分かった。
「夜鷹」
 顎を取られた。青の影で星空が隠される。夜鷹は目を閉じ、唇を開けた。餌をねだる鳥の雛のように待っていたのに、青の唇は近くにあってもなかなか触れない。ただ間近で顔を、目を覗き込まれる。たまらなくなって舌先で青の唇を舐め、自分から唇を押し付けた。
 青はそれを受け入れ、角度を変えてキスをする。何度も舐める。うるさい暴風にも紛れずなまめかしい水音がした。
 身体が震える。胸がざわめく。脳髄が煮える。指先から溶ける。なにも考えられないまま次を求めて身体を起こしかけたが、青に軽くかわされ、夜鷹はキスをし損なった顔を青の肩先に埋めた。
 青もまた草地に寝転ぶ。
「夜だったら、こういうことになる」と青は夜鷹の髪を撫でて言った。
「昼間、こんなことは出来ない」
「……おまえが気にしてんのは、世間体?」
「分からない。でも人の目は怖いと思う。真っ当じゃないって言われるよ。おかしいよって。狂ってるって」
「言われたか、誰かに」
「……」
「大方おまえの母親あたりだろうな。想像はつく。教師をやって、女手ひとつでおまえを育てた、世間体を気にするおまえの母親。息子には幸せになってほしいと思って正しい道を示す……そんなところだろ」
「……母さんには、おれだけだったから、」
「子離れできてないって言うんだよ、そういうのをな。おまえはそれに気付いているが、母親のためだと言い張って見ないふりをしている。せまっくるしいのに我慢だ。自己犠牲にすらなってない」
「言うな、」
 うるさいとばかりに口を塞がれた。そういうキスの仕方は本当に青らしくなかった。夜鷹は妙に息苦しく、楽しい気分になった。こうしてこいつの感情を覆う外殻を剥がして剥がして、最後に残る純粋な性質はなんだろうか。
 それを夜鷹は見たい。けれど青は嫌がる。だからこの恋が夜鷹の望むようになることはない。
「ずっと夜だったらいい」と青は苦しそうに呻いた。
「でも星は自転するし、太陽は昇る。朝は来る。昼間は仮面をかぶるようで、それがなんだか、まるで」
「まるで?」青の頬を撫でた。
「おれは、夜にしか飛べない鳥みたいじゃないか……」
「……よだかの星の話か?」
「そう、醜いんだ。とても、醜い。でも、昼間で生きていたい」
「甘ったれた比喩だな。……それがおまえの、淋しい、ね」
 苦しい、と同義だなと思った。こだわりを捨てればいつかは克服される苦痛かもしれない。けれど夜鷹はそれに関与しない。青のことだから。他人事だから。
 青は青でしかなく、夜鷹は夜鷹でしかない。同化はあり得ない。
 好きでも嫌いでも無関心でも、身体を分けた以上は、みな同等にそういうことだ。
「おれだって夜しか飛ぶ気はねえよ」と答えた。
「おまえは、夜にしか飛べない。おれは、夜に飛ぶ」
「……言葉遊びだ。夜鷹らしくないな」
「戻って寝るか。冷えて来たな。明日は御来光を見るから早いぞ。夜明け前には山荘を出る」
「朝なんか来て欲しくない」
「言ってろ」
 起き上がっても男は苦悶に歪んでいたので、その膝に乗り上げて頬を掴み、キスをした。青はそのときようやく、キスで目を閉じた。
「帰る気がないなら、いつまでもここにいろ」
 言い捨てて寝床へ戻るつもりだったが、強く手を引っ張られてやっぱり青の上にとどまる。
 青は夜鷹の頬を両手で包んだ。吐息が当たる。
「夜鷹が好きだ」
 青の瞳は、暗かった。
「ずっと好きだ。でも、愛せない」
「昼間飛びたいから」
「そう。昼を歩くようにと言われて、……おれは抗えない」
 夜鷹は青の手に自身の手を重ねた。
「世の中がそうだから仕方ない、とおれは思わない。思わないし、おまえに言ってやらねぇ」
「……」
「おれは夜飛ぶ。でも昼間も飛べる。そうやって暮らす。青、ここは分かれ道だ」
「分岐する道がまた交差することって、あるかな……」
「ねじれの関係なら、空間が違うから、ないな」
「球体だったらある」
「軌道がずれなければな」
「じゃあ、この先のどこかでおまえに通じているんだと、おれは信じる」
「真面目だよ、おまえはな」
 青に引っ張られて、唇ではなく、額を合わせた。目を閉じてしばらくそうする。善良な鳥は寝ているのだろう。けれどいまはまだふたりとも夜しか飛べないから、夜は眠れない。
 肩に触れ合い、夏休みのはじめに見た洋画に出てきた挨拶程度のキスをして、山荘に戻った。


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 翌朝は青より早く目覚め、庭木に水をやってシャワーを浴びた。洗い替えのシャツに着替え、朝食を作る。そのうちに青が目覚め、床で眠ったことで痛む身体を揉みながらキッチンへやって来た。
「夜鷹、」
「シャワー使えよ。上がったら飯にすっから」
「夜鷹聞いて。おれは、」
「あとで聞く。ゼミで行かなくちゃなんなくて、そのあとバイトなんだ。おまえ今日は?」
「……就職活動の下調べと、図書館」
 ふうん、とおざなりに答えて、青をシャワールームに追いやった。支度をしているうちに青が着替えて戻ってくる。今度はダイニングに向かい合って、食事を取った。
 沈黙の食卓で青が口をひらいたのは、食後の紅茶で一息ついたころだった。
「夜鷹、昨夜のこと」
「おまえすげえ酔っ払ってた。言ってることめちゃくちゃだったし」
「違う。夜鷹、おれは覚えてる。忘れていない。おれは、」
「留学しようと思うんだ」
 唐突な夜鷹の発言に、青は分かりやすくうろたえた。
「留学? 短期の?」
「違う。大学を卒業したら、向こうの大学院に進学する。今年は旅行やめて、資金を貯めるためにバイト漬けの夏休みだ。もちろん具体的な学力の準備もする」
「……それは、帰ってくるのか? 日本に」
「分からない。このまま日本で院に進もうかと思ったが、こっちじゃやれることが限られてるから。担当教官に相談したらおれは国内より国外へ出た方がいいと勧められた。あっちの大学院の教授にも相談してもらってるところだ」
「……逃げるのか?」
「やりたいことがここにないだけだよ」
「違う。夜鷹、おまえはおれから逃げるんだ。おれはどれだけ、……決して叶えてはいけないことだと思いながら、おまえを、……どれだけ、」
「おまえの苦しみはおまえのもの、おれの苦しみはおれのものだ。おれたちが同一になることはない」
「夜鷹、」
「青、愛してるよ」
 青は言葉を失い、黙った。
「ずっとそうだ。おれはずっとおまえに浸水してるんだ。これから先も変わらないだろう。だが水の中では生きられないんだよ、青」
「夜鷹、おれは、……おれ、……は、」
「離れようぜ、青」
 その言葉は、なによりも夜鷹を傷つけた。
「サマースクールの時期は終わったんだ」
 朝食を食べ残して、夜鷹は席を立つ。残飯を片付け食器を洗っていると、同じく食器を手にした青が傍へやって来た。
「夜鷹、夏休みはずっとバイトか?」
「進学資金を貯めたいからな」
「二日ぐらい空かないか」
「おれの話聞いてたか?」
「登山したいんだ。夜鷹が前に山頂で見たっていう雷雲とか、星空とか、森林限界の尾根とか、……おれも見てみたい」
「……同じもんは二度と見られねえよ」
 日程はあとで調整しようと言って、ふたりで食器を片付けた。


 盆休みを過ぎたころに日程を合わせて登山をした。Tという山で、山頂が花崗岩で白いのが特徴だった。日帰りでも行ける山だが、星を見たいという青のリクエストで山頂近くの山荘に一泊することにした。バスに乗って登山口まで、そこからの行程は歩きだ。山歩きに慣れない青を先行させた。地図読みは互いに得意なので、道に迷うことはなかった。
 よく晴れていて、森林限界を過ぎて頭上を覆うものがなくなってからは容赦なく日光に照らされた。途中で休憩を挟みつつ、ハイペースで山を進む。すれ違った登山客から「頂上のあたりで白いコマクサの終わりかけを見れますよ」と情報を得て、青は「白いと珍しい?」と訊いた。
「フツーはピンク色だ。高山植物の女王だぞ。前にサマースクールで植物学の先生に習ったと思うけど」
「そうだっけ? いつのサマースクールだろ。花の名前は覚えられないんだよな。……なんで白い?」
「そこまで知らね」
 休憩を終わらせてまた道を進む。尾根へ出て青は息をついた。「本当に白い」と言ったのが、山肌のことなのか、花のことだったのかは、分からなかった。
「その辺の岩、ガラス質だから迂闊に触ると切るぞ」
「そうなのか?」
「あと汗は体温を奪うから、上になんか羽織っとけ」
 山荘に荷物を預け、軽装で頂上へと進んだ。冷えた空気が肌の熱をたちまち奪う。「青いな」と青は漏らした。足元以外に地面はなく、木々は低いし、建物もない。スカイウォーカーにでもなったような心地をそう表現したのだろう。
 夜鷹は周囲に出る雲を見て、「天気もちそうだな」と言った。
「少し別行動するか? 三十分後にここへ集合」
「いいよ」
 不意に青は夜鷹の頬に触れた。心臓が鋭く痛む。夜鷹の帽子のひさしを深くして、「アレルギーには注意して」と言って山頂から続く尾根を確かな歩幅で歩いて行った。
 夜鷹は何度も訪れている山の、頂上付近の、突き出ている岩に登って際に立った。眼下には深く谷が切れ込んでいる。不思議と怖くはなかった。山へ来るといつも想像する。滑落する自分のことだ。あっさりと死ねる、生死の境の曖昧な土地。美しいものと恐ろしいものは裏表で実に近い。ここもそういう土地で、白い岩肌も、照りつける日光も、青空も、谷を埋め尽くす緑の木々も、鳥肌を立てるほどに美しく、夜鷹を簡単に裏切る。その潔さが夜鷹は好きだ。
 三十分後に待ち合わせ場所に向かうと、青は遅れてやって来て、夜鷹の手に白い石を載せた。
「さっきこれで指を少し切った。硬いのかと思って触ったら案外脆くて。やるよ、それ。夜鷹は手を切るなよ」
「ここ、国立公園だから採取は禁止なんだよ」
「黙ってればいい」
 白い石塊をハンカチで包み、ザックのポケットに突っ込んで山荘の方へ向かった。夕食にはまだ早く、山荘の外に出されたベンチに座ってビールを飲んだ。日暮れに向かって風が出てくる。下では感じられないような強い風だ。風に負けて山荘に戻り、ふと土産物を売っている方を向いて、青は「なにか買って」とせがんだ。



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 大学の夏休みは長期であるのがよかった。夜鷹はどこのサークルにも属さない代わりに、短期のアルバイトで稼ぎに稼ぎ、夏休みは行ける限りで旅に出た。国内外を問わず出かけたが、大学一・二年のうちは海外が多かった。貧乏旅で、路銀が底つかないように工夫しながらとにかく移動する。登山もした。旅のあいだは青に手紙を書き、実家に宛てて送った。もう青は夜鷹以上に実家に居ついていたので、寮に送るよりはその方が確実だったのだ。
 夏が終わり、大学がはじまり、構内で会えば昼食を共にして、バイトを終えて帰宅すれば青が夜鷹の部屋から星を見ていたりレポートにいそしんでいたりする。これほど近い距離にいて、だが不思議とふたりの仲は遠かった。以前よりもぴったりと、肌の内側まで密着している感覚があるのに、それに満足できない。青に自分はゲイだと告げたせいかなとはじめは思ったが、青はどこか遠くを見ていて、近くに焦点を合わせなかった。夜鷹はそれでも、この生活を歓迎した。青の一番近い場所に自分はいて、だがこれ以上はおそらく許されなくて――充分だと思った。というよりも、これでよしとしなければならない。社会人になればまた生活は変わる。青と変わらぬ友情であるために。恋心の成就は考えず、浸水したまま、三年生の夏を迎えた。
 不満があることを、青はその夏、ようやく漏らした。
「淋しくさせないとおまえは言ったはずだ」と主張する。夜鷹がバイトから帰宅すると家には青しかおらず、そういえば今日から両親は姉の元へ行っているのだと気づいた。家を買ったので、新居に呼ばれて行ったのだ。今夜は戻らない。
 父親の秘蔵の酒を持ち出して、うらうらとふたりで飲んだ。普段は口にできないような度の強い酒に青は早々に酔っ払い、だからこそ出た言い分だったのだろう。「淋しくないだろ?」と問い返すと、青は「淋しいに決まってんだろ」と答えた。
「おまえ、普段はずっとゼミかバイトだし。休みになるとどっか出ちゃうし。前は違った。サマースクールのあいだはずっと一緒にいられた」
「おまえこそ最近仲良いやついるだろ。ええと、家政科の浅野千勢(あさのちせ)」
「ああ、……去年の学祭で手作り石鹸売ってたんだ。敏感肌の方にもおすすめですよって文句で。おまえ、市販の石鹸使って肌荒れたって言ってたから、色々聞いたの。それからだよ」
「ならおれが取り持った仲だな。淋しくないだろ。やったか、浅野と」
「……そういうことを軽々しく口にできない、おれは」
「人それぞれだな。おまえらしいよ」
「……夜鷹はかなり奔放に遊んでるんだろ、どーせ」
「よく分かったな」
「別にいいけど……そういうところも、淋しいと思う」
「一緒に女でも引っ掛けに行けばいいか?」
「女いけんのかよ」
「いけるいける。とっくに証明されてるわ」
「男も?」
「雑食らしいぜ。腹壊さなければオッケー」
「……ばか…………」
 青はぼやき、濃い色をしたオークの香る液体をまた口に含む。
「星見ながらマスターベーションはできねえだろうが。それともおまえは天体に興奮して勃つのか?」
「おまえだって地層とセックスはできないだろ。……そういうことじゃねえよ。夜鷹、こんなに頻繁に会って、こんなに近いのに、」
「近いな」居間の座卓に並んで座っていた。テレビが消音で古い映画を流している。
「淋しいよ……」
「前にも言ったけど、おまえの淋しさはおまえだけのもんだ。浅野は同情して慰めてくれるが、おまえの淋しさが理解されたわけじゃねえ」
「浅野の話じゃない。おれとおまえの話だよ」
「おれだっておまえの淋しさは分かんねえ。共有もない。時間と空間の共有ってのはあるものだと思われている。でも本当はそれすらまやかしだ。おまえそのものにおれはなれないから、おまえの時間を共有したようで、おまえはおまえの時間を過ごしてるだけなんだよ」
「……」
 青はまた酒を煽り、力なく夜鷹の肩にもたれてきた。
「飲み過ぎ」
「今夜泊めて」
「このままここに転がしとく」
「いやだ、行かないで」
「ばか言ってろ」
 密着しようとする熱を振り払い、立ち上がった。「行くのか?」と背に声が縋る。「トイレだよ」と答える。とても付き合っていられない酔っ払いぶりだった。けれど触れられて甘えられ、自身は発熱の一途を辿る。
 用を済ませ、ついでに外へ出て空気を吸った。夏の気怠い夜風が肌をじっとりと追い込んでいく。汗ばんだ首筋を掻きながら居間へ戻ると、青は床に横になっていた。軽い寝息を立て、身体を縮こませて眠っている。大きな男がそうやって眠ることがせつなかった。淋しい、淋しいと口にして、自分の身体を自分で抱いて眠る。なんだ分かってんじゃねえか、と思う。そうやって自分を慰めて自分を生かすのだ。誰かに頼ってばかりいたら、自立して生きてはいけない。
 夜鷹はソファに腰掛け、青の飲み残した酒を煽りながらその肩に触れた。確かな肉質が薄いシャツ越しに伝わる。あやすようにリズムを持って何度か叩く。テレビの中の映画は終わり、エンドロールが流れていた。
 それを消し、タオルケットを引っ張って青にかけてやる。テーブルを片付けて居間を去ろうとしたら、力強く手首を取られた。
「青、」
 その勢いを殺さぬまま引っ張られ、青の上に倒れ込む。青はやすやすと夜鷹を押さえ込み、足掻く間もなく、夜鷹は床に転がされる。
 両肩を押さえられ、青が夜鷹の上に重なる。言葉を夜鷹は飲み込んだ。発声できなかった。酔った勢いで淋しさに突き動かされているのなら蹴りのひとつも入れて逃げてやろうと思ったのに、夜鷹を押さえ込む青の目はしっかりと開いていて、綺麗だった。はっきりとした意思のある、どこかやさしい風味の、夜鷹の大好きな青の双眸。
 その目はあくまでも穏やかに、夜鷹をしっかりと見ていた。淋しさではなく、愛しさで、眼は緩くカーブを描く。肩を押さえていた青の手が、夜鷹の頬を撫でた。輪郭を辿り、頬の張りを確かめ、下唇を撫でられる。指に噛り付きたくて、反射的に口をひらいていた。青の指は鼻筋を辿り、眼鏡に行きついて、それを外してテーブルに置く。
「青、見えない」
 視界がぼやけ、上に重なる男が夢みたいに霞む。夜鷹は手を伸ばして青の髪に触れた。引き寄せると青は夜鷹の胸に額を置き、伸び上がって、夜鷹を間近で覗き込む。
 青の唇がなにかを発した。吐息は当たったが、音声にはならなかったようで、聞こえなかった。いいのか、と夜鷹は問う。これも音声にはならなかったから伝わったのか分からない。ただ、自身への問いかけでもあった。
 いいのか。青の指は夜鷹を望み、夜鷹が長年焦がれていた動きで夜鷹の身体を麻痺させる。それでいいのか。青、おまえにそんな覚悟があるのか。こうすることでおまえの淋しさは埋まるのか。
 おれは共有しない。共感もしない。同情も、慰めもしない。青、それはおまえが望むおれなのか。
 青、青、青。
 おれに、……覚悟はあるのか。
 唇を合わせたとき、身体は歓喜に震えた。期待なんかしていなかったはずなのに、身体は正直だ。青の舌を積極的に引きずり出し、わざと音を立てて吸った。唾液が混ざる。アルコール臭い。
 このまま抱かれてしまいたい。もしくは友情を壊されたくない。おれはこんなにどっちつかずじゃなかったはずだ。青が欲しくてたまらなくて、手にしてはいけないもの。
「青」
 キスの合間に名前を呼んだ。青の目は開いている。シャツのボタンを外され、首筋に唇が落ちた。強く吸われたから、当分襟付きのシャツしか着られないなと妙に冴えて思った。
 そこまでだった。青は夜鷹の首筋に顔を埋めたまま、動かなくなった。やがて寝息が聞こえ、規則正しく背が上下する。夜鷹は青の後ろ髪を撫で、こめかみにくちづけた。
「ばあか」
 泣きたかった。でも涙は出ない。
「おれも淋しいよ、青」
 それは青には届かなかったと思う。ただ青の身体の重みが、熱が、発汗が、骨の当たりが、悲しくなるほど嬉しかった。


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 青にとって勉学とスポーツは両立するようで、双方がなければならないものだった。身体にとっても脳にとっても、実に効率の良いやり方だ。陸上部で中・長距離走の選手として走り続けた青は、県大会でも入賞するぐらいには有能な選手でいられた。ただし「競争心がないから」とのことで、そういう意味では素質はなかったのかもしれない。ただ、走ることと天体観測は朝晩の日課としてやめなかった。
 一方夜鷹は、次第に野山をひとりで勝手に歩くようになった。地図を広げコンパスを見て、方角と現在地を知る。地図に記された地形や高低差を自身の足で歩いて確認する作業に没頭するようになったのは、いつかのサマースクールのフィールドワーク由来だった。高校には山岳部があったので、そこに所属する部員のひとりに話しかけて紛れ込み、はじめて登山もした。植物も動物も見るのは楽しかったが、なにより夜鷹が惹かれるのは地形で、地質だった。チャートに砂岩、泥岩に花崗岩。どうしてこの地質がここに現れ、このような地形を作り、またいま踏み締めている大地を覆うのは一体なんなのだろう、という興味。視力の悪い夜鷹だったが、山歩きの才能はあったらしく、歩き方を覚えるとどんな傾斜の道でも、あるいはひどい悪路であっても、進むことが出来た。青みたいな美しい筋肉のつき方をしない貧弱な身体は、しかし実のところ体幹に優れており、アレルギーにさえ気を遣えば夜鷹はどこでも歩けた。
 春からハイキング程度ではじめて、夏場は登山をする。気分転換をしたいとか、珍しい風景の場所を歩いてみたいとか、もしくは体力の限界に挑戦したいとか、そういう人間とは目的が違ったので登山部に入部はしなかったが、山小屋で体力自慢の男たちの話を耳にしているのは、悪くなかった。中には勘違いも甚だしい人間もいたが、案外まともな見識で登山に来ているグループもいるのだと分かった。サマースクールしか知らなかったが、それはそれで狭い中にいたのだと知る。
 山小屋から雷雲を見た。雲の位置の方が低く、山の腹に雷雲が溜まり、それが発光するのだ。こんな距離で雷雲を見下ろす経験はなかった。見上げれば雲のない空に星がまぶされている。青、おまえってすごいな、と思った。いままで馬鹿にしていたが、青の興味をまともに知った気がした。
 夏休みに青とどこかの講座に参加する行事は相変わらずで、だが高三の夏に青ははっきりと「東京へ行くよ」と宣言した。母親を説得し、模試の判定も悪くなかったという。そして夜鷹が大学へ進学した春、青も上京して夜鷹と共に同じ大学へ入学した。
 夜鷹は実家から通ったが、青は実家の経済状況の都合で寮生活を選んだ。母子家庭なのに無理に私立大学への進学を決めたのだから仕方がないと、賑やかな四人部屋を諦めたような顔で笑っていた。それでも新しい生活が待ち受けている。お互いを夏でしか知らないから、一年を通して親交がもたらされる喜びは、晴れて大学生になった喜びに増して夜鷹の胸に存在した。
 大学へ進学して、青は夜鷹の家にやって来るようになった。東京にある一軒家はそれでもこの近辺に比べれば広い敷地面積を持つのだが、狭く感じるのは、家自体が本で埋め尽くされているからだった。区立図書館の司書として働く母親と、美術史の研究者として大学で教鞭を取る父親。彼らが本を読むのはもちろんで、夜鷹も片っ端から読んだから、家には本が溢れかえっていた。目を白黒させる青に、「これでも減った方なんだぜ」と言ってやる。
「減った? 処分したの?」
「いや、姉貴が結婚して家出たから」
「お姉さん、四つ上だっけ。二十二歳? 早いよな」
「向こうにしたら遅いんだ」
 階段を上がり、自室に青を招いてキッチンからさらってきたポットの紅茶をマグに注ぐ。
「向こうって?」
「旦那の方。おれの義理の兄な。姉貴がてんかん発作持ちで小児科にずっとかかってたのは話したことあったよな。そこの小児科医なんだ。姉貴とは年が二十歳離れてる。だからもう四十二歳とか。初婚らしいけど」
 マグを受け取りながら、青はさらに目を点にしていた。夜鷹は注いだ紅茶を半分ほど一気に飲むと、マグを積んだ本の上に置いてベッドに寝転んだ。
「自分が面倒見てた患者とそういう関係になるってどういう性嗜好してんのかね、って思っちまう。ロリコン趣味でもあったら知らねえけど、でもロリコンなら成長した姉貴に興味なんか持たねえよな。もう大人の女なんだし、これから歳食ってく一方なんだしさ。まあ、どうだっていいけどね。おれだって自分の嗜好を理解されるとは思わねえし」
 喋りながら枕元に置いてあった本をめくった。洋書で、鉱物の細密画の載っている古書だった。金銭的な意味で手に入れるのに苦労したが、こうやってめくって喜びを感じる。
 所在なさげに夜鷹の勉強机の椅子に腰掛けて紅茶を口にしていた青が、「夜鷹の嗜好ってなに?」と訊いてきた。
「知りてえのかよ」
「そういえば知らないなって思ったから。夜鷹って外見だけならもてそうだけど、物言いが悪いから、そういうのに耐えられる女、とか? そういえば巨乳に顔埋めたいんだっけ」
「いつの話引きずってんだよ」
「あのときのおまえの話、全部覚えてる。忘れない。……その後、おまえの『浸水』はどうなったんだ? 成就した? デートぐらいしたか?」
「どうもなってねえな」
 ため息をつき、夜鷹は天井を向いた。椅子に座った青と目が合う。「え?」という分かりやすい顔をしていた。
「夜鷹が?」
「浸水しっぱなしだよ」
「おれ、てっきりとっくにいい仲にでもなってるかも、って」
 夜鷹は起きあがり、マグを手に壁に背を預けた。本棚になっているから、地震でも来たら本の山に埋もれて死ぬだろう設計になってしまった部屋だ。
「どうにもなんねえ。男だし」
「え?」
「何度も言わせんな。おれの性嗜好知りてえんだろ。おれが好きなのは男だ。そいつに対してだけなのか、女もいけんのか、生粋のホモなのかは知んねえけど。この話、よそじゃすんなよ。あんまりいい嗜好じゃねえからな」
「……そいつのこと、まだ好き?」
「言っただろ、浸水中だって」
「ずっと?」
「多分な」
「……叶わなくても?」
「それを不幸だと思わない。苦しいし痛いに変わりないけど、それはおれだけが味わえるおれの特権だ。それに異性と恋愛したってそういうもんじゃねえの」
「……」
「おまえだから話した。親にも言ってねえし言う気はない。おまえがこれ聞いておれを気持ち悪いと思って離れるのも自由。同情は受け取らねえ」
 階下から「夕飯だよ」と父親の声がした。「食ってけよ」と青の肩を軽くはたいて部屋を出ようとする。
 だが青は「淋しくない?」と言った。
「淋しい。けど、おまえの淋しさとは違うから。ごまかし方も覚えたし。それはそれで悪くねえ」
「でも、夜鷹、」
「ひとりの覚悟なら出来てる。その方が性に合ってる」
 行こうぜ、と再度背を叩いて部屋を出る。今夜母親は職場の仲間と飲み会だとかで不在で、父親が夕食を作って食卓を整えていた。在宅で仕事をすることが多い父にとって、これは珍しいことではない。
「青くんは理工学部の専攻は? 天文?」と着席するなり父親は好奇心を発揮した。
「あ、工業技術です。物づくりの方。技術側です」
「なんだ、てっきり天文かと思ってた」
「……ものすごく遠くまで見える望遠鏡を作ってみたい、と思って」
「ああ、なるほど。元の畑は一緒か」
 作った焼うどんをすすりながら、「僕は美術史、古代ローマの彫刻が専門だ」と父親は答えた。
「海外にも行くんですか?」
「そうだね。研究で行くよ。イタリアには知人も友人もいて詳しい。いつか案内しようか」
「僕は日本を出たことがなくて、パスポートもないんです。夜鷹はもう何度か短期留学してるみたいだけど」
「おれ、イタリアの地質にはいまのところ興味ねえから。それよりエチオピアの火山が見てえ」
「火山ならイタリアのポンペイの話は有名だよ。ヴェスヴィオ火山」
「ハワイもいいよな。キラウエア」
「ハワイにビーチ目的じゃないとか、面白い息子だよね」
 父親のいない青にとって、夜鷹の父親は自身の喪失を埋めるような存在となりつつあるようだった。次第に夜鷹がいてもいなくても、勝手に家に上がり込んで本を読んだり、父親と話し込んだりする機会が増え、いつしか当たり前になった。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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