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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 会場は、大通りをいくつか入った、ちいさな路地に面した、フォトスタジオだった。
 狭く建ち並ぶ商店と商店の隙間に、細長く建てられた灰色の壁のビルで、一階がスタジオ、二階にギャラリーを持っていた。三階以上はよく分からない。ビルの前に案内の看板が立てられていなかったら、見落としていたかもしれない。おそるおそる中を覗いていると、スタジオのスタッフらしき若い男が、にこりとこちらへ笑みを向けた。彼は様子を窺っている千冬の元へ歩み寄ると、スタジオの扉を開け、「スタジオに御用ですか? ギャラリーに御用ですか?」と丁寧に訊ねた。千冬が「ギャラリーに」と短く答えると、どうぞ、と入店を促す。「ご自由にご覧ください。その、奥の階段を上って二階です」痞えのない、なめらかな口調だった。
「依田さん、さっきまでいらしていたんですけどね」
 男がそう言うので、ただでさえ早っていた心臓に、さらなる衝撃が走った。男はなにも知らない口調で、にこにこと、「お昼食べに行くって、出てしまいました。そのうち戻ると思いますよ」と喋る。
「と、……依田さんは、会期中は、毎日いらしているんですか?」
 尋ねると、男は「そうですね」と即答した。
「念願の個展だったみたいです。同じく写真を撮る仲間がいらっしゃって、彼らとグループ展示なんかは、何度もしていたんですけどね。うちのギャラリーは狭いし小さいですけど、一応、展示をしたいと仰る方にはポートフォリオの提出をお願いしています。審査、というほど厳密ではないですが、代表作などには目を通して、社長やスタッフの総意を得られなければ、お断りもします。展示は、その展示を行う一・二年前から準備を始めます。依田さんの今回の個展も、依田さん自身がきちんとコンセプトを立てられてずっと活動してきたことがポートフォリオからもよく伝わりましたし、その写真も絵も、どれも魅力的に映りました。私どもとしてもぜひお願いしたいですね、ということで、決まりました。決まったのは、一年半前ぐらいですかね。依田さんとは、お知り合いですか?」
「……その、学生時代の、旧知の仲というか、」
「ああ、そうでしたか。依田さんは、ずっと待っている方がいらっしゃると仰っていました。だからこの期間だけは会社も休んで毎日在廊しているんだとか。ひょっとして、誰なのかご存知ですか?」
「……さあ、」
 そう答えると、男はまた、ふふ、と笑みを浮かべ、「僕が喋ってばっかりいたらちっとも作品をご覧になれませんね。どうぞ」と千冬を先へ促した。
 階段をのぼった先にあった光景は、千冬にとってはなんだか現実味が遠く、なんとも言い表せない。不意にひらめいた言葉は、冬がある、だった。
 写真が展示されている。いつも千冬が見ていた常葉の写真は、定形封筒に収まるサイズのものばかりだったから、大きく引き延ばされている写真の迫力は、想定外だった。ギャラリー内がさほど広くないので、入り口で顔をひと巡りさせてしまえば、会場全体の様子が見て取れた。平日の昼間だからか、人気はなかった。千冬は入り口を抜けてすぐ左にある写真から、丁寧に見始める。それは空の写真だったが、千冬が見たことのある写真ではなかった。
 次は風景写真だった。これもまた、千冬は知らない写真だった。雪をかぶった田畑や家並みの写真だ。その次はマクロレンズで撮られたと思う、雪の結晶。次々へ順路を辿る。ここにある写真は、すべてが、冬に撮られた写真だった。
 入り口とは反対側の奥の奥に、簡易的な衝立で仕切られたスペースがあった。スペースの入り口には薄く透ける白い布がかかっていたのでスタッフルームかのようにも思えたが、順路、という単語と共に矢印がその中へ示されていたので、迷った末に、千冬はその中へ入った。そこにあったのは、壁という壁いちめんに貼られたスナップ写真の数々だった。入り口を除く壁面すべてに、これまでに常葉が撮りためた写真が、千冬の良く知っているサイズで、乱雑にぺたぺたと貼りつけられている。ここは、千冬の知っている写真ばかりだった。拙くて、感覚だけを頼りにしていたころのものから、技術が身に着いたからこそ撮れる写真まで。よくもこれだけの数を撮ったのだと思う。そのすべてを見て回るのは到底出来ないように感じたが、空間そのものが心地よく、常葉に包まれて眠った夜のような安心感を千冬にもたらした。
 ずいぶんと長いことその空間にいたと思う。やがて人のやって来る気配で、千冬はその空間から脱出した。展示自体は、もう半分あった。これもまた冬の写真だ。先ほど千冬を案内してくれた若い男の写真もあった。マフラーを首にぐるぐる巻いて、頬を赤くして、千冬に見せた笑顔とはまた違う親しい笑みでこちらを見ていた。ポートレイトにまで分野を広げていたことは、知らなかった。ほかにも親しい友人らを撮ったのだろうと思われる写真はあったが、そこに千冬と常葉、ふたりの離れていた年月の差を感じて、千冬は猛烈に後悔した。自分がそこに不在だったこと。常葉の傍にいなかったこと。とりわけこのスタジオの男の写真には、嫉妬さえした。
 展示のいちばん終わりには、常葉が描いたスケッチと共に、作家によるステイトメントと、謝辞が、寄せられていた。

『僕がこの展示をしたいと思ったのは、もう十数年も前になる。だからこうして、ようやく形に出来て嬉しい。けれど同時に、不安でもある。果たして僕の想いは届くのだろうか?
 今回の展示は、極めて個人的な私信、メッセージだ。これを受け取って欲しい人がいる。その人に届けばいいと思っているけれど、これは、難しいかもしれない。ただ、発信することは、大切なことだと思っている。心に仕舞っておくだけでは、なにも思わなかったことと変わらない。
 普段の僕は至ってごくありふれる、ただの会社員だ。何年も勤めているので、入社当時よりは少しだけ偉い肩書きがついた。よって、僕にとって写真を撮ることや、絵を描くことは、生活に直結しない。だから、本来ならばこんな展示は、必要のないものかもしれない。少なくとも、やるべきことではないし、やらなければならないことでもない。「撮ることや描くことをしないと自分が自分ではなくなってしまう」「表現活動は、生きることだ」そういう風に言う人もいる。そういう人がアーティストなんだろうな、と僕は思う。そして僕は違う。別に撮らなくても描かなくても、暮らしていけるし、生きていける。
 ただ、その人生が本望かといえば、異なる。
 この展示の企画を持ち込んだとき、とある人に、「あなたは幸せですね」と言われた。まさか、とそのときの僕は首を振った。まだなにも成せていない、と思ったからだ。なんにも成せていないのに、なにが幸せか、と思ったのだ。その人は言った。「こんなに時間をかけて、なにかに夢中になれることがあることです。大抵は諦めてしまうんですよ」。この台詞は、なかなか強烈だった。諦めるという選択肢が、僕の中にはなかった。もういいかな、そんな風に、思ったことがなかった。それはおそらく、飢えから来るのだと思う。強烈で猛烈な、ひもじさだ。(この辺は、幼いころに父という存在を失くしたことが由来しそうだけれど、いまここに明らかにすることは、控える。)
 僕は冬が好きだ。好きになりすぎて、より冬の長いこの街へ越してきてしまうぐらいに。静かだとか、寒いとか、冬が好きな理由は色々とあるけれど、なによりも、いきものがいきものと接する心地よさ、温み、募る恋しさ、それが最も露骨に現れる季節であること、これが冬を慕う僕の最大の気持ちであり、理由だ。いつからか僕はずっと冬の虜だ。だから今回の展示は、遠慮なく、冬を存分に構成し展開した。

 この展示を見てくださったすべての方々に、感謝を。展示を応援してくれたギャラリーのスタッフの皆や、日ごろ僕と一緒に写真を撮ろうと計画してくれる仲間、理解を示してくれる会社の同僚たちにも。何度もくどいけれど、発信し続けることは、とても大事なことだと僕は思う。この展示で届かなくても、いつか、人づてでも風の便りでもなんでもいいから、僕のメッセージが無事に届くことを、祈ります。』

 メッセージの下にある絵は、茶色いクラフト紙に描かれていた。緑色の上にさっと白い絵の具の載る、静かな絵だった。それを千冬はじっと眺める。動けない、動きたくない、常葉に会いたい。会いたい、会いたい。
 静かな室内に、カシャッとシャッターの降りる音が響き、千冬はとっさに音の方向へ振り向いた。ちょうど部屋の真反対に、カメラを構えた男が立っていた。男は構えた手をおろす。にこりと穏やかに笑んだ長身の男は、まるで冬の王様が寄越した使者であるかのように、すらりとそこに立っていた。
「来たな、千冬」
 その声は、最後の別れの際に聞いたものと、変わらない。千冬は、自分がいつからこの男に眺められていたのかを考え、急激に恥ずかしくなった。会いに来たくせに、会いたいからここまで来たくせに、逃げ出したい。
 それでもなんとか常葉に応じた。
「来たよ、常葉」
「届いたか、おまえのところにはさ」
「――届いた」
 言うなり、かくんと膝の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。常葉がとっさに千冬の元へ身体を滑らせる。支えの力強さは、涙が出るぐらいに嬉しかった。



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 常葉の示した貸しギャラリーは、遠かった。時間をかければ熱は冷めるだろうかと、あえて特急列車や新幹線という手段を選ばず、ひたすら鈍行列車を乗り継いだ。途中、いくらも進まないうちに終電になってしまったので、仕方なく駅近くに宿を取った。眠れるはずもなく、ただ、熱い湯を浴びられることだけがありがたかった。
 家はほぼ飛び出したも同然で、持参したのは財布とスマートフォンと、防寒具だけだった。ホテルで眠れない夜を過ごしていると、夕海からメッセージが入った。今夜を留守にする理由を夕海には伝えていないし、伝えられるわけもない。メッセージは放り、夜明けの、始発の電車を待つ。
 目的地のギャラリーに近づくにつれて、車窓から見える景色は冬に向かっていった。
 当然だ。千冬が暮らす街よりずっと北にあるのだ。おまけに日本海に接する街なので、降雪量が格段に違った。雪があるだけでもう、冬に感じられた。千冬の住んでいた街ではもう梅の花が開花したというのに、こちらはどの枝も重たく雪を載せ、沈黙を貫いている。
 始発のころ、電車はがらりと空いていた。途中で通勤ラッシュに遭い、それがまた過ぎて人影がまばらになる。車内でスマートフォンをいじり、再び貸しギャラリーのホームページを眺めた。「依田常葉」と、その名が画面に表示されているだけで、千冬は嬉しかった。嬉しさを噛みしめたくて、何度も何度もそのページにアクセスした。
 昼を過ぎて、ようやく目的地の最寄り駅に到着した。ここから先はバスで十分、とあったが、歩いた。飲食店から漂う油のにおいを嗅いで、ようやく、昨日、封書が届いて以降なにも食べていないことに気付く。けれども食欲は湧かなかった。溶けかかった雪が凍ってよく滑る歩道を、ゆっくりと確実に踏みしめて、常葉に縁のあるだろう知らない街を歩く。
 歩きながら、ふと千冬は思い立ち、実父に電話をかけた。社会科の教員として主に公立中学校に勤め、定年退職し、いま父は知人が経営する地図を作る会社でアルバイトをしている。ほぼずっと外回りの仕事だが、ゆえに学校教員だったころよりも通信環境は自由だ。千冬の読み通りに数コールで父は電話に出た。『珍しいね、どうしましたか』と、穏やかな口調で千冬に応じる。
「――ちょっと、聞きたいことがあった」
『なんでしょう?』
「おれの名前の由来、そういえば聞いたことがなかったな、と思って」
 父は面食らった様子で、『どうしていまさら、そんなことを』と尋ね返す。
「いいから、教えてくれ」
『んー、そうですね。別にそうたいした由来があるわけでもないんです。ただ、あなたの生まれた日があんまりにも冬らしかったから』
 それを聞いて、千冬は首を傾げた。確かに千冬は冬の生まれだが、千冬が生まれ育った街は太平洋側の雪など無縁な地域で、いつも乾いていて、晴れていて、例えばテレビで度々見かけるような豪雪地帯や、いま歩いているこの街みたいな、冬らしい冬とは無縁に感じたからだ。
『ああ、僕からは話したことがなかったかもしれません』父はおおらかに笑った。
『あなたが予定日よりも早く生まれてきたことは話したことがあったかな。そのとき僕とあなたのお母さんは、Nに旅行に出かけていました。豪雪や低温といった、厳しい冬で有名な温泉宿です。そこで産気づいてしまったので、まあ慌てましたねえ。旅館に地元のお産婆さん呼んでもらってみんなでばたばたしながらお産を迎えました。その宿に泊まっていた人や、女将さんや従業員さんや、お湯に浸かりに来た近所の人や、とにかくいろんな人に見守られてあなたは生まれたんですよ。外は信じられないぐらいに寒くて、でも雪があるおかげかやけに静かで、みんなあなたの産声に耳を澄ませてね』
「……」
『幸いあなたは未熟児ではなかったので、きっとおなかの中で育ちすぎてこれ以上は弾けるぞ、と思ったから早く出て来たんでしょう、と皆で笑いました。そのとき世話してくれたお産婆さんの名前から、千の字をいただきました。冬という字をどうしても入れたい、と言ったのはあなたのお母さんです。だから、千冬、と。単純で安易に感じますが、あなたの名前はこれ以外になかったと、僕は思っています。どうですか?』
「……いや、いいと思うよ」
『よかった』
 千冬は通話を終えると、しばらくその場に佇んで、空を仰ぎ見る。よく晴れた冬の青空が広がっている。目を閉じて、耳を澄ます。自分の響く産声を想像した。


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 はじめに届いたのも、封書だった。
 大学を卒業し、就職し、ひとりで暮らしはじめた街で、その手紙を受け取った。メールなどとっくに普及していた時代だったのに、常葉はいたってアナログな方法を取った。定形に収まる封筒の中に、写真とスケッチ。初期は、空の写真やスケッチが多かった。まだカメラの性能を理解していない、あるいは技術が伴わない、不慣れで不器用な図が多かった。
 そんなのも、一年も撮りためれば上達した。技術を習得した、という感覚は、受け手である千冬にもよく伝わった。空の写真、もしくは絵にこなれて来たころ、常葉はモチーフを次へと移した。次は植物になった。このころから、レンズを替えるようになった。望遠から単焦点、マクロまで。働きはじめて金も程よく貯まりはじめたのだろう。画材もあれこれ試した風だった。とにかく文字の類が一切ない封書だったので、眺め、観察し、そこから想像をして量るしかなかったのだが、一緒に暮らした仲であったので、常葉の心理は、それなりに読めた。むしろ、どんな心境で撮ったか、描いたか。それを考えることが千冬の楽しみになっていた。
 一方で千冬は、静かに、確実に事を進めていた。夕海とは三か月に一回会えれば良い方であったが、日々に起こったささやかな出来事はその都度メールで報告しあっており、その報告の積み重ねで、ふたりは互いの結びをきつく固めていった。夕海は旅行が好きで、旅先からの報告も多かった。遠距離であれどもパートナーの存在は心強かった。むしろ、離れていることでお互い変に熱くもならず、醒めもせず、不思議と落ち着いた、凪の暖かな海にいる心地だった。これが、自分が欲しかった安定なのだと感じた。
 社会人になって三年目の春に、ふたりは入籍した。単に必要な届に記入して押印し、提出しただけで、特に式などは挙げなかったし、住まいも変えなかった。それを二年続けて、五年目に、千冬は会社を辞め独立した。フリーランスになり、在宅で仕事ができる体制を整え、改めて夕海の暮らす街へ引っ越した。夕海とようやく暮らしはじめたのだ。日々は、楽しかった。夕海は頻繁に家を空けた。仕事熱心で、旅好きで、だから不在が多く、その分、ずっと友達みたいな距離でいられた。夕海と千冬、双方の両親も孫の存在をふたりには求めなかったので、気が楽だった。
 けれどもやはり千冬は、常葉を諦めきれなかった。
 ばかみたいに真面目に引っ越しの際には転居届を出し、常葉にもきちんと引っ越した旨のメールに新住所を記して送った。常葉が発信するものは、すべて受け取っておきたかった。安定したいのならばこれは知らせるべきではないと分かっていて、常葉のこころを、支配しておきたかった。夕海と暮らして得るものも、常葉と接して得るものも、みんな欲しかった。
 封書は、届き続けた。夕海と暮らしはじめてさらに五年が経つ。十代で常葉と出会い、恋をして、別れ――そういう日々は、とっくに過去になった。胸は痛まないはずだった。
 そこへ届いた、宣言通りにやって来た、常葉の覚悟。それに対峙することに、千冬は戸惑いを感じた。憤りさえした。これを無視すれば、夕海との穏やかな日々がこれからも続く。知らなかったことにしたかった。でも、知ってしまった。
 そもそも、封書を受け取り続けていたこと、これがもう、夕海への裏切りに違いなかった。「普通」を望んだから常葉と別れたのに、細い糸は、ずっと繋げていた。断ち切るはずだった糸がいま、千冬を引っ張っている。少しでも暴れたらすぐに切れてしまいそうな細いほそい糸であるのに、しっかりと、確実に、千冬を引く。欲に弱い千冬は、簡単に揺れる。そちらへ振り向きたくてたまらない。「普通」でありたいなら切るべき糸――ああ、「普通」って、一体なんだ。
 千冬は立ちあがる。いつの間にか日が暮れていて、昼間の暖かさはとうに消え、ストーブをつけ忘れた部屋はうすら寒い。肩先から冷気を感じた。
 今夜、夕海の帰宅は遅い。
 千冬はクローゼットから、コートを取り出した。



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 それでも、恋人を欺き続けても、その冬は共に越した。それを繰り返して、大学三年の冬、千冬と常葉は、お互いの進路の話をした。進路というよりは、ふたりの将来の話だ。これは、いままでに常葉がしようとして、千冬があえて避けていた話題だった。
 話が混めば、ますます言い出しづらくなるだろう。そう踏んで、千冬の方から話題を振り、そしていきなり、なんの準備もなく、「別れたい」と切り込んだ。夕飯を取り終え、皿を片付けている最中だった。驚き目を見開いた常葉に、「女が出来たから」と追い打つ。容赦はなかった。酷いことをしていると分かっていて、相手の気持ちを量る余裕などどこにもなかった。千冬の背後には崖が迫り、崖の下は、真っ黒い水がたゆたう真冬の海があった。荒く波を立てては、千冬の足元に飛沫をもたらす。
 最初に常葉が発した言葉は、「夕海(ゆうみ)さんか?」だった。意外と冷静でいてくれている、と千冬は分析した。
「そう、夕海さん」
「なぜ? いつから?」
「いつからっていうか、……最近だ」
 夕海は千冬とも常葉とも違う大学に通う女で、専攻は乳幼児教育、保育士になるべく勉強していた。ふたりよりもひとつ年上で、先輩にあたる。彼女は千冬と同じコンビニエンスストアでアルバイトをしており、シフトが重なるため、知った仲となった。進路先はすでに内定していた。彼女の故郷にある、ちいさな、けれど地域には欠かせない、保育施設だという。彼女自身がそこの卒園者であり、園長直々に保育士の欠員が出たからと就職の打診があり、決まった職であった。彼女にとってこれは、望み通りの最高の進路だった。
 夕海の話はこれまでにもちょこちょことしてあった。夕海は少し、というよりはだいぶ変わった性格をしていて、その、サバサバとした、自分を女とも思っていないような振る舞いが、千冬には心地よかった。そういう話を、ぽつぽつと、してあった。だがそれが、いきなり千冬と男女の仲に発展していた、と聞かされれば、常葉の衝撃は大きい。分かり切っている話だ。いま現在、千冬と恋人同士でいるのは常葉である。同棲までしている。それを解消してほしいと言っている。無茶は、あまりにも酷いものだった。
「――だって、千冬。おまえ、女抱けるのか?」
「……いや、抱けない。無理だ」
「だったらどうして」
「夕海さんから告白されたとき、……嫌じゃなかったからだ」
「告白が、か?」
「そう、それもあるけど、……その、少し長くなる。とりあえず食器を片してからでいいか」
 中断を申し出て、常葉はそれを了承した。無言で、千冬が洗った皿を常葉が拭き、棚に戻してゆく。そしてお互い手が空いたころに、常葉が「今夜は冷えるよな」と呟き、ホットミルクを作ってくれた。少々のブランデーが垂らされている。常葉が冬によく作るものだった。
 ブランデー入りホットミルクのカップを両手で包み、千冬は長く息を吐く。
「いわゆる、パートナー協定みたいなもの」
 千冬はそう答えた。常葉は納得しかねる、という顔を千冬に向ける。当然だろう、パートナーとして縁を結ぶなら、千冬には常葉がいるからだ。
 千冬は続ける。
「告白されたとき、おれはゲイだから、おそらくあなたのことは抱けません、って言った。お付きあい自体がもうすでにいびつに歪むでしょう、と。さらに将来、家庭を築き、子どもが欲しいというなら、まあ、いまはいろんな妊娠の方法があるようなので、セックスしなくても子どもは望めるかもしれませんが、自然なかたちでは、無理です。そう言ったんだ」
「……彼女、なんて?」
「彼女はこう言ったんだ。
『私は実は、卵巣に病気を抱えている。だから自分が赤ん坊を産み育てる、という未来のことは、あんまり想像できない。私が、千冬くんがパートナーだったらいいな、と思ったのは、お互いの利害が一致するかなと思ったからだし、純粋に、千冬くんのことが、気にいっている。ひとりでいるよりは、ふたりでいる方が絶対にいい。緩やかに穏やかに、家庭を築いていけるんじゃないか。あなたに対して、そう思った。』
――そう、言ったんだ」
「……」
「おれ、それを聞いて、……悪い、ほっとしたんだ」
 常葉がはっと息をのむ音が、聞こえた気がした。
「……どうして、」
「おれは、『普通』を望めるんだ、と思った」
 常葉は黙った。千冬からの言葉を待つ姿勢を取る。
「勉強して、大学生になって、卒業して、就職して、出会った人と婚姻を交わし、子どもをもうける。子育てをして、親としての務めを果たし、子どもを独り立ちさせて、あとはゆっくりとパートナーと老いていく。家族に看取られて、死ぬ。……この国の全員がそうだとは言わないけど、まあ、一般的なモデルだろ。そういうのは、ゲイという身だったら、望めないんだと思った。一生外れて生きて行かなきゃならないんだと、それが、……とてもつらいことだと、ずっと思っていた」
 常葉は喋らない。あの、まっすぐな目で、瞳を透明にして、千冬を見ている。
「子どもが欲しいとかそういう意味じゃない。でも、男と……このままおまえと暮らして、そこにはなんの制約もない分、不安定で。例えば、おまえが飽きたらこの関係は終わりだ。いつでも解消できる仲。そういうのが、すごく、怖い」
「結婚、したいのか」
「したい。少なくとも子どもが出来なくても、『普通』に見てもらえる気がする」
「それは――」
 勘違いだ、あるいは、決めつけだ。常葉はそう言いたかっただろうと察しがついたが、しかし彼は黙った。言葉を飲み込み、次を待つ。
「……夕海さんにこれからの提案を、されたとき」
 千冬はもう、ほとんど泣いていた。声が震える。喉の奥が痛い。うまく喋れない。
「こんなおれでも、社会の大多数になれるのか、と、……そう、思ったんだ」
「……それが千冬は、嬉しかったのか」
 もう声が絞り出せず、千冬は強く、頷いた。
「それをずっと、そういう思いをずっと、抱えていたんだな」
 それも、肯定する。
「そうか。……知らなかった」
 常葉はそう言い、大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。あのまっすぐな視線を天井に向け、腕を組み、なにかを考えるポーズを取る。しばらくの後に、常葉は「卒業するまで」と言葉を発した。
「おれとおまえが大学を卒業するまでは、この部屋で、このまま、暮らしたい。卒業するまでで、いい。ルームシェアの体裁でいるんだから、おまえに無理がなければ、そうしてほしい。……その、夕海さんとの交際や結婚だって、急ぐ話じゃないんだろう?」
 常葉は妙に冷静だった。感情を出来る限りで抑えている、とも取れた。
「……分かった。卒業までは、このままここに、おまえと、住もう」
「ありがとう」
 ふ、と常葉は息をつく。そのまましばらく沈黙が出来たが、やはり常葉の方から、また語り出した。
「千冬、おれは諦めのわるい男なんだ。よく、知っていると思うけど」
「……そうだな、」
「絶対、絶対におまえと過ごす、暮らす……生涯を共にする、そういう未来を、諦めない。昔、話したよな。最大の愛情表現をしてみせる、って」
「……展覧会の話か?」
「そうだ。ときが来たら、叶えてみせる。そうやっておまえを、おれの元に呼び戻す。絶対に、絶対にだ。何度千切っても、契りを結ぶんだ。おれはもう、永遠に、冬の虜だからな」
 常葉の瞳は、熱意に燃えて妖しく煌めいて見えた。こんなにも自身が慕う人から愛されているのに、千冬が選ぼうとしている道は、人生を、もしくは生活を安定させるための、よく踏み固められ舗装された一般的な道路だ。逃げるのは卑怯だと、自分だけ安定を望むなと、責められても全くおかしくなかった。しかし千冬は、どうしたって「普通」に憧れた。マジョリティでありたかった。皮をかぶって群衆に紛れ込み、溶け込み、――一般的でどこにでもありふれて存在する生活、それが欲しくてたまらなかった。
 その夜以降、常葉は千冬に触れることを、一切しなくなった。
 本当に、ただ利害が一致したから共同生活を営んでいる、そういう体になった。常葉は家を空けることが多くなったし、一方で千冬は、夕海との時間を作り、何度も何十回も今後について話しあった。大学四年の冬には千冬の就職も無事に内定し、夕海の実家と、自分の実家とを行き来して、お互いの両親に挨拶まで済ませた。夕海とはしばらくは遠距離恋愛(という、体だ)で、時期が来たら千冬は夕海の暮らす街へ居を移し、籍を入れる、という話に落ち着いた。大学生活はあっという間に終わりを告げ、いよいよ常葉と離れるときが来た。冬がいつまでも居残った三月だった。まるで常葉が千冬を離すまいと、必死で永遠に冬であろうとしているかのようにも、思えた。
 部屋を引き払う日に、常葉が最後に千冬に向けた言葉は、「すぐだ」だった。
「きっとすぐだ。すぐに会える」
「……おまえの腕前じゃあ、一生かかっても無理だと思うよ」
「分からないだろ、そんなこと。おれの伸びしろを舐めんなよ。それになにより、おまえのこころはまだおれにある。そうだろ?」
「……」それを言葉にしてしまったらもう、千冬は一生、常葉の虜だ。それが分かっていたから、千冬はあえて口に出さずにいた。
 常葉は微笑んでみせた。
「また会おう、千冬。次に会ったらもう、おれはおまえを離す気はない。――それまで、元気で」
 お互いにかばんを持つと、揃って部屋を後にした。千冬の心臓は、痛みと、喜びと、安堵感と、罪悪感とで暴風雨が吹き荒れている、そんな音の打ち方をしていた。それでも時間が経てば、人は変わるだろう。いつか常葉は、自分を諦める日が来る。どうでもよくなる日が来る。自分は夕海との日々を大事に営む。
 それは酷くつらい選択だった。


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 交際は順調で、初めの熱量を失わないまま、大学生になっても続いた。同じ大学ではなかったが、ふたりとも同じ都市部へ出たので、互いの大学の中間地点に部屋を決めて、共同生活を送った。その方が家賃も安いしお互いが助かるから、と周囲に言い訳をしても、それはもう同棲と言ってよかった。
 ふたりはよく、散歩をした。映画館や、ショッピングモールや、カフェ、そういうところにはほとんど足を運ばず、ただ黙々と近所、ときに電車に乗って遠方の街を、あてもなく散策した。一緒に歩いているときがいちばん、お互いを愛しく思っているようだった。歩く、常葉の歩幅は大きいので千冬はいつも遅れる、その遅れた千冬を振り返って、常葉は幸福そうに立っている。あの、構図取りのポーズをして、千冬の姿をフレームに収めてくれる。
 共に暮らしはじめてから、常葉が本当に写真を撮ることや、絵を描くことを、知った。すべて独学でやっているから人には見せられない。だからずっと隠していたんだ、と彼は照れ笑いをしながら、でも千冬には明かしてくれた。そのころの常葉は法学部に通っており、絵も、写真も、あくまでも趣味、と決めている風があった。
「――でもさ、いつかちゃんと見せられるようになったら、展覧会とかひらいてみたいな」
 と常葉は言った。
「おれの親父って人はさ、普通の会社員だったけど、本当は芸術家になりたかったらしいんだ。聞いた話だからよく分かんないけど。親父のお兄さん、だからつまり、伯父さん、て人とは、交流があるからさ。あの人が親父替わりでな。色々、親父のこともおふくろのことも、教えてもらった。親父、学生のころは美術部の所属でさ、グループで展覧会とかよくひらいていたらしい」
「親父さん、絵を描いたのか?」
「いや、色々だった、って聞いた。もう作品はいっこも残ってないんだって。親父が出て行ったときに、おふくろが全部処分したって。だからおれがこんな風に写真撮ったり絵を描いたりしてることは、おふくろには内緒。おまえまで、なんて泣かれちまう」
 それで独学か、と思い至った。
 確かに常葉の撮った写真や、素描は、拙かった。写真は平気でぶれて、ピントを外す。絵は、なにが描かれているのか分からない上に、致命的なのは、その筆圧が弱いことだった。全体的に薄いのだ。パースも取れていないし、デッサンも崩れている。それでも常葉はそれらに向きあった。続けることに意味がある、と言う。
「こんな絵や写真じゃあ、展覧会をひらいても人が来ないだろ」と、千冬は笑った。だが常葉は怒らなかった。(考えてみれば後にも先にも、常葉が怒りという感情を見せたのは、千冬の告白、そのときだけだった。)なにかを考える風に視線を宙に向けてから、千冬の表情を正面からまっすぐに捉える。そして「もっと上達するから、そのときは来てくれ」といたく真面目に、言った。
「おれのなかのイメージの話をしていいか?」
「ああ、……どうぞ」
「おまえ名前の話からする。ちふゆ、という名前。千回の冬、かもしれないし、千度の冬、かもしれない。名付けたのはおまえの親御さんたちで、おまえから名前の由来なんかを聞いたことはないから、本当の意味は、知らない。でも、とにかく春でも夏でも秋でもなく、冬だ。千回の冬だったらもう、それは永遠に冬だよな」
 常葉の喋り出した言葉がいまひとつ抽象的なように感じて、千冬は黙って頷くに留めた。
「あるいは千は、千切る、の千かもしれない。千切る、は手で切り離すことだけど、同じ音を当てれば、契る、がはまる。千回契るんだ。何度も交じって、何度も約束をする。それは人との縁とかつながりに、おれは、思う。一生切れない縁だ。千切っても千切っても契る」
 いつの間にか取り出したボールペンで、カレンダーの裏をつかって常葉は説明してくれていた。千冬はまだ言葉を発しない。黙って聞いている。
「それで、おれの名前。常葉だ。常の緑なら、常緑樹をおれは思い浮かべる。常緑樹だってツバキとかキンモクセイとか、色々あるけど、おれが想像するのは、モミや松、つまり常緑針葉樹だ。葉っぱの細い、あいつらだよ。これは冬に相性がいいと思わないか? 雪の降る、静かで閉ざした森。それがおれと、千冬だ」
「おまえとおれとは、相性がいいとか、そういうことが言いたいのか?」
「おれはね、千冬。おまえとずっと一緒がいいと思っているんだ」
 ゆっくり丁寧に発音されたそれは、とてもやさしくて、パンで温められたミルクみたいな響きをしていた。
 キシッと胸の内部が変に軋む音がした。千冬は焦る。恋人のこんなに温かい言葉に対して、千冬には後ろ暗い気持ちがあった。
 その心中は、常葉には察せられなかったらしい。常葉はやさしい笑みを浮かべたまま、「冬はいいよな」と言った。
「おれは、季節の中では冬がいちばん好きだ。温かいことが恋しくなる感じが、いい。
おれは自分の名前がわりあいに好きなんだ。そこに、おまえの名前が組み合わさると、たまらなく嬉しくなる。ふたりで一緒にいるときはさ、そういうイメージが、いつも浮かぶんだ。静かな冬の森」
「……よく、分からない」
「いまは分からなくてもいいさ。そのうち、それが分かるようなことをしてやる。そういう表現をしてやる。そういう、展覧会をひらいてやる。千冬のために」
「……わざわざ展覧会にして、他人にひけらかさないでもいいだろ、」
「いや、するよ。大事な表現だから。おれにとっての、とてつもない、最大の愛情の、表現」
 と、常葉は言い切り、立ちあがった。「風呂の支度してくる」と言う。離れてくれた恋人に、正直ほっとした。千冬の胸は軋んだまま、そこからツキツキと痛みを訴え、背には冷たい汗をかいている。


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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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