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告白されたんだ、と常葉は言った。
「……誰に?」
「一年の、大屋(おおや)」
「なにを?」
「え、いや、だから……付きあってください、って」
大屋。その名前が出ることは、予想済みだった気がした。あの男――そう呼ぶにはずいぶんと早いような、少年という名称がぴったりとくる、細くしなやかな身体つきをした男――が常葉を見る目は自分と同じだ、と常々感じていたからだ。大屋と常葉は所属する委員会が同じで、常葉の出を待ってひとり教室でいる放課後、決まって廊下から大屋のはしゃいだ声と常葉ののんびりとした穏やかな声とが、聞こえてくるのだった。大屋の声は明らかに色めきだっていた。そして、常葉が「よう、待たせたな」と教室をくぐって来るのと同時に、大屋は、拗ねたような視線を常葉に向け、千冬には、思い切り嫌なものを見る目を、なんの躊躇もなく向けた。
嫌われる理由は、分かっていた。自分がいつも常葉と一緒にいるせいだ。校内で誰を置いても他に常葉に近い人間はいない、とみなが知っている。だから大屋は千冬を嫌う。好かれたいわけでもないので千冬はその視線を無視する。
常葉は千冬を伴うと、「じゃあな」と言って大屋に手を振る。その瞬間がいつもたまらなく、愉快で仕方がなかった。
「大屋に、なんて言ったの」
そんなことを思い出しながら千冬は常葉に訊ねた。常葉の困った顔は、正面切って目をとらえずとも、知れた。よっぽど困ったのだろう、常葉は、「気持ちの整理がつかないから、って言って、返事はまたにしてもらった」と答えた。
「ただ、いたずらに大屋の気持ちを躍らせているだけじゃないのか、それ」
「……早急に返事をしよう、とは思っている」
「なんて?」
「OK、とは言えないよ。おれの中にそういう感情は、大屋に対して、なにも湧いていないし、湧いてこない」
「恋愛対象じゃない、ってこと」
「そういうこと」
「じゃあ、さっさとそう言ってやればよかったじゃないか」
「……千冬に相談してからにしようと、思ったんだ」
ばかな男だな、と惚れた相手に対しても、千冬は醒めた気持ちでいた。そんなに千冬に対して律儀でいる必要などないのだ。恋愛対象ではない、と瞬時に判断できたのなら、その場で断ってやるのがよいだろう。それとも一味ぐらいは味わっておこうとでも思っただろうか。
千冬が喋らないのを、今日ばかりは常葉は気にする風だった。「それにおれ、初めてじゃないんだ」と言うから、さすがに驚いて、千冬は常葉の顔を見た。
「こうやって、男から告白されること。中学のころに一回、高校に入ってからは、大屋でふたりめだ」
それは聞いたことのなかった話であった。千冬は、そんなにもライバルがいたことに狼狽えさえした。「まさかいま付きあっているやつでもいるのか?」と訊ねると、常葉は素直な性格を発揮して、「ない、ない」と首を横に振って否定した。
「こんなに千冬と一緒だってのに、おれに出来るかよ、そんな器用なこと」
「……ここは確かに男子校だけどさ、それはちょっと、異常な好かれようだな」
「うーん、……多分、思うに、おれは、男を寄せるんだ」
「……そうだろうな」
千冬は自分のことを顧みて、そう発言した。こころから強く常葉に惹かれている自分がいる。夜な夜なその身体の重さや熱量を想像しては、夜具の中で耽るぐらいに。ほかの男たちも、そんな気持ちを常葉に抱くのだろうか。常葉の特別になりたい気持ちはあったが、常葉に惹かれている幾多の男を想像すると、それは無理な気もした。自分は彼らで、彼らは自分だ。みな、常葉に抱いてほしくてたまらない。
それがずいぶんとあさましいことのように思えた。己の欲の深さ、業の深さ。ほとほと呆れ入る。そのときの千冬は、半ば自暴自棄になっていた。どうせこのまま常葉の傍にいても、常葉は自分に触れることはない。いつまでも期待して胸を高鳴らせているのはもう、充分だ。
そう、思った。もう、この恋を、飢えを、終わらせたい。
「四人目の男になってやろうか」
千冬は、自嘲気味にうすく笑って、常葉を見た。
「え?」常葉はきょとんととぼけた顔をする。
「おれも、おまえに、ただならない思いを持ってる。付きあってほしいだなんて甘ったるいことは思わないけど、毎日触りたいと思っているし、触れてほしいと思ってる。そういう意味じゃ、いままでの男の中でも最悪に根性が悪いかもな」
常葉ははっと目を瞠って、黙った。それからしばらくの後に常葉が浮かべた表情は、戸惑いでもなく、嫌悪でもなく、怒りだった。とても意外な感情だった。
「いつから、」と呟いた声は低く、震えていた。
「……最初から」
「だったらなんでもっと早く言わないんだ!」
その声に押され、千冬はつい肩を竦め防御の体勢を取った。頭を下げ、顔の前には腕まで組んで、徹底的に常葉を拒絶する。怒っている常葉を見るのは初めてで、怖かった。それでも自分の中にある好奇心が顔を覗かせる。常葉にこの防御を暴いてほしいと思っている。
「言えるかよ!」
「言え!」
「だから言えないって言ってんだろ、馬鹿!」
「言え! 馬鹿はそっちだ、馬鹿!」
組んでいた腕を大きな手のひらでやすやすと掴み取られたとき、千冬は、震えた。待ち望んでいたことが起こる。そういう、予感で。
「ずっと、ずっとだ。物欲しそうな目で人を見やがって」
ずきん、と心臓が大きく鳴った。隠しても隠し通せなかった千冬の欲を、常葉は知っていた。千冬はますますうなだれる。強く握られた腕が離されないのが、嬉しくてたまらない。
「言え、千冬。おれが欲しいって、言え!」
「なんでそんなに拘る、」
「決まってるだろう、おれが言われたいからだ」
それはシンプルに欲求の滲んだ響きだった。千冬が常葉に抱く欲望と、おそらくは同じ類の。
「言われたら、おれは嬉しい。喜ぶ。だから、言え。おまえはおれが、欲しいんだよな」
「……」
「付きあうだの、それは甘ったるいことだの、なんだのぐずぐず言わねえで」
「……」
「ほら、言えよ。千冬」
「……」
「千冬!」
「…………、欲しい、」
その瞬間、男の体臭が強く香った。常葉の広い腕に絡めとられたのだと認識するまでに、少々時間を要した。それも束の間、すぐに夢中でキスをした。いままで生きてきて知らなかった、でも本能で知っていた、歯をぶつけ合ってしまうような獰猛で官能的なキスを、長い時間をかけて、常葉とした。
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よく封書が届く。中に文字が記されていることは、ほとんどない。八十二円で届くぎりぎりの重さのそれの中身は、プリントされた写真だ。最近は鳥の写真がほとんどである。ちいさな野鳥を望遠で狙って撮ったもので、それからたまに、ポストカードサイズの水彩紙に描かれた風景のスケッチが入っている。鉛筆で引っ張った線に、薄く水彩絵の具で彩色が施される。
うんざりしながらも、千冬(ちふゆ)はそれを几帳面にアルバムに収める。写真のアルバムとスケッチのアルバムとは特に分けていない。日付でまとめている。一ページに四枚収まるアルバムは、その日の封書に収められた分で、とうとう十冊めを埋めた。
机にアルバムを広げ、写真を眺める。冬だから、枯草や、葉を落とした樹木や、わずかに雪の乗った赤い実などが、主役の鳥の前後に映りこんでいる。今回、スケッチは同封されていなかった。だから前回のスケッチをついでに眺めてみる。カメラの腕前も、風景描写も、初期よりもずいぶんと上達した。
封筒は必ず処分するようにしている。下手に手元に残して、封筒の裏面に記された住所地にいますぐにでも行きたくなるような衝動に駆られるのは、ごめんだからだ。焼くか、シュレッダーにかける。妻には一切触れさせない。手紙が届く時間帯はおおむね決まっていて、郵便配達員のバイクの音が聞こえれば立ちあがり、家のポストに投函されると同時に手紙を回収するのは、もはや日課になっていた。在宅で職を持っているから出来る。幸い、その時間帯に妻はいないことの方が多い。彼女は近所の保育施設で保育士をしている。朝から、ときに深夜まで働く。
その日もアルバムを眺め終わり、封筒を処分しようとしたときだった。なにかが封筒の中に残っていたことに気付く。それを指で探り、取り出す。なんの変哲もない、蛍光色の事務用の付箋だった。おそらく写真に貼られていたと思われる。弱い糊のおかげで剥がれてしまったのだろう。
そこにはホームページのURLと分かる記号や英数字が並んでいた。いままでにない変化に、心臓が一瞬、鋭く跳ねた。その後に続く酷い動悸を深呼吸でなんとかなだめて、いかにもいま自分が冷静であるかのようにふるまいながら、パソコンを立ちあげる。まさか、まさかと在りし日の記憶が、台詞が、約束が脳裏に過ぎり、とても落ち着いてはいられない。誰もいないのに周囲を気にして、千冬は焦る。
震える指で打ったアドレスに行き着いたとき、千冬は大きく息をついた。モニターに表示されたのは、とある貸しギャラリーのホームページだった。ちいさなスペースの様子だったが、展示は賑わっているように見える。一年先の展示予定まで埋まっていた。そこの「いまの展示」の欄に、釘付けになる。封筒の裏に記された名前がそこにあった。
『冬の虜』
展覧会のタイトルを見て、鳥肌が立った。とうとう約束の日が来てしまった。それはもう訪れないと思っていたし、訪れるべきではない、とも思っていた。
*
依田常葉(よだときわ)と千冬が付きあい始めたのは、高校二年生の冬だった。いちばん体力があり、いちばん食欲も、性欲も、睡眠欲もある年齢。ちょっとしたことで苛ついては、すぐにはしゃいだ。身体は露骨に大人への階段を踏んでいて、千冬の場合は、それに抵抗したがるこころがあった。それを常葉は「繊細だ」と笑ったが、千冬から見れば、常葉の方がよっぽど繊細でなにより、芸術肌に見えた。
隣のクラスだったのが存在を知ったのは、体育で合同授業になったからだ。常葉は、大きかった。クラスメイトからは「のっぽ」と呼ばれていたが、その通りの身体をしていた。更衣室での着替えの際に千冬は常葉の素肌を見た。地黒で、なめらかで、ぴったりと肌に張り付いたランニングのトップスが厚い胸板から腰へと細く切れているのを見て、正直、喉が鳴った。性的に魅力的な身体をしている、と瞬時に感じてしまったとき、千冬は同時に、愕然としたものだ。やはり自分は男に欲望を覚えるタイプの人間なのだと。
千冬にとって最初から常葉はそういう対象だった。だから千冬から近づいた。触りたい、という欲求から来るものだと分かっていた。それが凄まじい飢えを伴う危険な感情であることが、つらかった。
一方で常葉はそうではなかったという。これは後になって聞いた。ただ、千冬の目つきが怖かったから、と言った。なにか尋常ではない、切羽詰まったものを感じたんだ、とのんびりした口調で答えた。触れたい、と焦る千冬とは真反対に、常葉の興味の対象は風景や建築や走る車や、或いは鳥や海や大地で、雑にひっくるめて言ってしまえば、この星だった。高校生のころから、当時はいまよりももっととんでもない値段をしていたカメラを所有していた。当時から旧式だった。父の形見だと言っていた。常葉の父は常葉が幼いころに好いた女と家を出て、そのまま戻らない。だからもう死んだことにしていて、これは形見だ、と。
正反対の性分であるということは声をかけたときから承知でいて、それでも不思議と、ふたりはつるんだ。常葉の方が妙に千冬に懐いた。辞書持ってる? と千冬を訪ねて来るのは当たり前で、昼食は一緒に取ったし、帰ろうぜ、とやはり教室にやって来る放課後も、常だった。そのころの常葉には、両手の親指と人差し指を組んで作ったフレームを方々に当ててはそこから周囲を覗き、構図を確かめながら歩く癖があった。もっと画才があったらこれを描いた、とか、カメラの腕が良ければこれを撮った、とか、言っていた。
そのフレームは時折千冬の元へも向けられて、千冬はそれが、本当に嬉しかった。
千冬は口が上手ではなかったから、いつも常葉が一方的に喋るだけだった。常葉の自由なふるまいを千冬は一心に目で追っているだけだった。それでもふたりは一緒に時間を過ごした。なぜ自分のような人間の傍に常葉がいてくれるのかは、考えてもよく分からなかった。ただ、一緒にいればいるほど、触れたい気持ちが身体の内側で暴れまわる。頬を両手で掴み、額と額を合わせて、目を見合わせたかった。唇の割れ目から舌を差し込んでみたかった。常葉の大きな身体にのしかかられてみたかった。あるいは自分が上に乗りあげ、腰をしっかりとあの長い腕で絡み取られ、そのまま常葉の胸に耳を当ててみたかった。ぴたりと寸分の隙間もなく、身体を合わせてみたかった。
におい、体温、湿った吐息、囁きの掠れ、なめらかな肌のわずかな凹凸、肉の盛りあがり、骨の盛りあがり、継ぎ目、境目、窪み。想像できるだけの想像は、し尽くした。このままでは脳が焼き切れる、と感じた。そういうタイミングで、常葉が相談を持ち掛けてきた。ふたりでつるむようになって一年半が経過していた。高校に入って二年目の冬だった。
→ 2
うんざりしながらも、千冬(ちふゆ)はそれを几帳面にアルバムに収める。写真のアルバムとスケッチのアルバムとは特に分けていない。日付でまとめている。一ページに四枚収まるアルバムは、その日の封書に収められた分で、とうとう十冊めを埋めた。
机にアルバムを広げ、写真を眺める。冬だから、枯草や、葉を落とした樹木や、わずかに雪の乗った赤い実などが、主役の鳥の前後に映りこんでいる。今回、スケッチは同封されていなかった。だから前回のスケッチをついでに眺めてみる。カメラの腕前も、風景描写も、初期よりもずいぶんと上達した。
封筒は必ず処分するようにしている。下手に手元に残して、封筒の裏面に記された住所地にいますぐにでも行きたくなるような衝動に駆られるのは、ごめんだからだ。焼くか、シュレッダーにかける。妻には一切触れさせない。手紙が届く時間帯はおおむね決まっていて、郵便配達員のバイクの音が聞こえれば立ちあがり、家のポストに投函されると同時に手紙を回収するのは、もはや日課になっていた。在宅で職を持っているから出来る。幸い、その時間帯に妻はいないことの方が多い。彼女は近所の保育施設で保育士をしている。朝から、ときに深夜まで働く。
その日もアルバムを眺め終わり、封筒を処分しようとしたときだった。なにかが封筒の中に残っていたことに気付く。それを指で探り、取り出す。なんの変哲もない、蛍光色の事務用の付箋だった。おそらく写真に貼られていたと思われる。弱い糊のおかげで剥がれてしまったのだろう。
そこにはホームページのURLと分かる記号や英数字が並んでいた。いままでにない変化に、心臓が一瞬、鋭く跳ねた。その後に続く酷い動悸を深呼吸でなんとかなだめて、いかにもいま自分が冷静であるかのようにふるまいながら、パソコンを立ちあげる。まさか、まさかと在りし日の記憶が、台詞が、約束が脳裏に過ぎり、とても落ち着いてはいられない。誰もいないのに周囲を気にして、千冬は焦る。
震える指で打ったアドレスに行き着いたとき、千冬は大きく息をついた。モニターに表示されたのは、とある貸しギャラリーのホームページだった。ちいさなスペースの様子だったが、展示は賑わっているように見える。一年先の展示予定まで埋まっていた。そこの「いまの展示」の欄に、釘付けになる。封筒の裏に記された名前がそこにあった。
『冬の虜』
展覧会のタイトルを見て、鳥肌が立った。とうとう約束の日が来てしまった。それはもう訪れないと思っていたし、訪れるべきではない、とも思っていた。
*
依田常葉(よだときわ)と千冬が付きあい始めたのは、高校二年生の冬だった。いちばん体力があり、いちばん食欲も、性欲も、睡眠欲もある年齢。ちょっとしたことで苛ついては、すぐにはしゃいだ。身体は露骨に大人への階段を踏んでいて、千冬の場合は、それに抵抗したがるこころがあった。それを常葉は「繊細だ」と笑ったが、千冬から見れば、常葉の方がよっぽど繊細でなにより、芸術肌に見えた。
隣のクラスだったのが存在を知ったのは、体育で合同授業になったからだ。常葉は、大きかった。クラスメイトからは「のっぽ」と呼ばれていたが、その通りの身体をしていた。更衣室での着替えの際に千冬は常葉の素肌を見た。地黒で、なめらかで、ぴったりと肌に張り付いたランニングのトップスが厚い胸板から腰へと細く切れているのを見て、正直、喉が鳴った。性的に魅力的な身体をしている、と瞬時に感じてしまったとき、千冬は同時に、愕然としたものだ。やはり自分は男に欲望を覚えるタイプの人間なのだと。
千冬にとって最初から常葉はそういう対象だった。だから千冬から近づいた。触りたい、という欲求から来るものだと分かっていた。それが凄まじい飢えを伴う危険な感情であることが、つらかった。
一方で常葉はそうではなかったという。これは後になって聞いた。ただ、千冬の目つきが怖かったから、と言った。なにか尋常ではない、切羽詰まったものを感じたんだ、とのんびりした口調で答えた。触れたい、と焦る千冬とは真反対に、常葉の興味の対象は風景や建築や走る車や、或いは鳥や海や大地で、雑にひっくるめて言ってしまえば、この星だった。高校生のころから、当時はいまよりももっととんでもない値段をしていたカメラを所有していた。当時から旧式だった。父の形見だと言っていた。常葉の父は常葉が幼いころに好いた女と家を出て、そのまま戻らない。だからもう死んだことにしていて、これは形見だ、と。
正反対の性分であるということは声をかけたときから承知でいて、それでも不思議と、ふたりはつるんだ。常葉の方が妙に千冬に懐いた。辞書持ってる? と千冬を訪ねて来るのは当たり前で、昼食は一緒に取ったし、帰ろうぜ、とやはり教室にやって来る放課後も、常だった。そのころの常葉には、両手の親指と人差し指を組んで作ったフレームを方々に当ててはそこから周囲を覗き、構図を確かめながら歩く癖があった。もっと画才があったらこれを描いた、とか、カメラの腕が良ければこれを撮った、とか、言っていた。
そのフレームは時折千冬の元へも向けられて、千冬はそれが、本当に嬉しかった。
千冬は口が上手ではなかったから、いつも常葉が一方的に喋るだけだった。常葉の自由なふるまいを千冬は一心に目で追っているだけだった。それでもふたりは一緒に時間を過ごした。なぜ自分のような人間の傍に常葉がいてくれるのかは、考えてもよく分からなかった。ただ、一緒にいればいるほど、触れたい気持ちが身体の内側で暴れまわる。頬を両手で掴み、額と額を合わせて、目を見合わせたかった。唇の割れ目から舌を差し込んでみたかった。常葉の大きな身体にのしかかられてみたかった。あるいは自分が上に乗りあげ、腰をしっかりとあの長い腕で絡み取られ、そのまま常葉の胸に耳を当ててみたかった。ぴたりと寸分の隙間もなく、身体を合わせてみたかった。
におい、体温、湿った吐息、囁きの掠れ、なめらかな肌のわずかな凹凸、肉の盛りあがり、骨の盛りあがり、継ぎ目、境目、窪み。想像できるだけの想像は、し尽くした。このままでは脳が焼き切れる、と感じた。そういうタイミングで、常葉が相談を持ち掛けてきた。ふたりでつるむようになって一年半が経過していた。高校に入って二年目の冬だった。
→ 2
星見と行こうじゃないか、と充が言った。僕は残業を経ての仕事帰りで、部屋着に着替えているところだった。声をかけられて背後を振り返ると、充は右手にビール缶を、左手につまみであろうスナック菓子を掲げて、なにやら深刻な顔をして立っていた。
「ほしみ?」
「流星群が極大なんだって、今夜」
「あ、なるほどな」朝のニュースでそう言っていたのを、そういえば聞いた覚えがある。
「運よく晴れている。おまけにこの部屋は方角がいい。わざわざ場所を移さなくても、ベランダに出ればそのまま流星群が見られる――はず」
充は口角をあげて笑ってみせたが、あまり上手な笑い方ではなかった。こういう不器用な充は見たことがないので(いつもへらへら笑いながら器用にこなすやつなのだ)、僕は少し心配になる。断る理由も特に見当たらなかったので、僕は頷いた。部屋の明かりを消し、充と共にベランダへ出る。
「さみ」
空はよく晴れていた。紺碧をバックに美しく星が瞬いている。僕はあまり星座を知らない。そう充に言ったら、「おれも知らね」とそっけない返事があった。
「たまたま、今日が流星群だって聞いたから」
「……こうやって夜の空見るの、この部屋に越してきてからは、初めてだな」
「そうか」
ビール缶はひとつしかなかったので、充と交互に飲んだ。目が慣れてくれば、遠くの、微かな星の明かりもきちんと見えた。不思議なものだと思う。星は光で、星は過去だ。ずっと昔に放たれた光が届いて、いま僕らの目に映されている、ということが不思議でたまらない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、隣の充がふと、「不思議だよな」と口にした。
「なに?」
「いま見ている星は、ずーっと昔の光だってこと」
その台詞を聞いた途端に、心臓がひとつ、鼓動を大きくした。充は続ける。
「これだけの数の光があって、……なんか、うまく言えねえけど、その星が瞬きだした瞬間を目撃した人間がいるのかな、って、いま、ふと、思った」
「……光がこの星に届いた瞬間を見届けた人、ってこと?」
「うん、なんかそういう感じ。うまく、言えないけど」
「いや、……分かるよ」
充と夜空を見ながら考えていたことが、同じ方向のものであった奇跡を、僕は考えた。僕らは他人同士であるはずなのに、同じ個体ではありえないのに、思考を同じくした。添った、と反射的に思った。充の人生と、僕の人生、交わることはなくとも、いま同じ道を歩んでいる、そんな気がした。
充が再び、「不思議なもんだよな」と呟く。僕は嬉しくてならなかった。その不思議を、共有していること。時間や空間ならば毎日共有しているのだが、思考まで同じくするとは、思ってもみなかった。その思いがけないことが、嬉しい、という感情を伴うことだったとは、知らなかった。もういい歳をした大人だというのに、未だに日々発見がある。
ビール缶に手を伸ばしたら、充の手も意図せず同時に伸びたので、指先が触れ合った。その、同一の行動をとったこともまた、僕を嬉しくさせた。笑うと、充は不思議そうな顔をしたが、「同じこと考えながら同じ行動だったのが、嬉しくて、可笑しいんだ」と言うと、彼はきまり悪そうに頭の後ろを掻いた。照れ隠しに見えた。
「――好きだよ」
唐突に、充は言った。なにを、と聞かなくても分かる、真摯な告白だった。そうかそれで充の様子がどこかおかしかったのか、とも分かる。これを言うために僕を星見に誘ったのだ。
「いつから?」
「ずっと前からだ。……同居の許可もらえたときは、心臓突き破って死ぬかと、思った。言うつもりはなかったんだけど、……それも辛くなってきてな。なんか、おまえとふたりで星見てたら、すごく泣きたくなった。こういう夜が、嬉しくて」
「……ん、」
「もちろん、おまえがおれに恋愛感情を抱いていないことも、分かる。ずっと見て来たからな。同居が無理だと思うなら、明日の朝にでも出ていくから、言ってくれ。……おれは、おまえと暮らせて本当に幸せだったから、それで、いい。充分だ」
充は一向にこちらを見なかった。見られなかったのだと思う。一心に空を見あげている。僕も視線を空へと向けると、光が一筋、すうっと夜空を駆けた。
「――流れた」
「うん。流れた」
僕の心は再び喜びに貫かれる。光が落ちていくところを、ふたりで見たこと。
「次、バイトいつ休み?」
僕は充に訊ねた。
「……明後日だけど、」
「じゃあ、僕も休みを取るから、布団買いに行こうか」
「布団?」
「いつまでも寝袋じゃつらいだろ。充の分の布団だよ」
「……おれ、このままここにいてていいのか」
「悪いわけがないよ」
僕は再び笑った。充はあからさまにほっとしてみせた。それから腕で顔を覆う。涙を堪えているように見えた。
「あ、また流れたよ」
「――うん、」
「空、見なよ。見ないのは、もったいない」
それで、充は顔をあげた。そのまま僕らはくだらないことを語りながら、空を見ていた。星はいくつも落ちてゆく。届く光の、気が遠くなるほどの時間と距離のこと。この星で生きていること。充が僕を好いていてくれていること。同じタイミングで感じたこの世界の不思議。
すべてが嬉しいという感情はきっと、僕がいま幸福だからなんだろう。
そう、こうやってこの星この時代に生まれついたこと。たくさんの不思議。アイ・ワンダー。
「ほしみ?」
「流星群が極大なんだって、今夜」
「あ、なるほどな」朝のニュースでそう言っていたのを、そういえば聞いた覚えがある。
「運よく晴れている。おまけにこの部屋は方角がいい。わざわざ場所を移さなくても、ベランダに出ればそのまま流星群が見られる――はず」
充は口角をあげて笑ってみせたが、あまり上手な笑い方ではなかった。こういう不器用な充は見たことがないので(いつもへらへら笑いながら器用にこなすやつなのだ)、僕は少し心配になる。断る理由も特に見当たらなかったので、僕は頷いた。部屋の明かりを消し、充と共にベランダへ出る。
「さみ」
空はよく晴れていた。紺碧をバックに美しく星が瞬いている。僕はあまり星座を知らない。そう充に言ったら、「おれも知らね」とそっけない返事があった。
「たまたま、今日が流星群だって聞いたから」
「……こうやって夜の空見るの、この部屋に越してきてからは、初めてだな」
「そうか」
ビール缶はひとつしかなかったので、充と交互に飲んだ。目が慣れてくれば、遠くの、微かな星の明かりもきちんと見えた。不思議なものだと思う。星は光で、星は過去だ。ずっと昔に放たれた光が届いて、いま僕らの目に映されている、ということが不思議でたまらない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、隣の充がふと、「不思議だよな」と口にした。
「なに?」
「いま見ている星は、ずーっと昔の光だってこと」
その台詞を聞いた途端に、心臓がひとつ、鼓動を大きくした。充は続ける。
「これだけの数の光があって、……なんか、うまく言えねえけど、その星が瞬きだした瞬間を目撃した人間がいるのかな、って、いま、ふと、思った」
「……光がこの星に届いた瞬間を見届けた人、ってこと?」
「うん、なんかそういう感じ。うまく、言えないけど」
「いや、……分かるよ」
充と夜空を見ながら考えていたことが、同じ方向のものであった奇跡を、僕は考えた。僕らは他人同士であるはずなのに、同じ個体ではありえないのに、思考を同じくした。添った、と反射的に思った。充の人生と、僕の人生、交わることはなくとも、いま同じ道を歩んでいる、そんな気がした。
充が再び、「不思議なもんだよな」と呟く。僕は嬉しくてならなかった。その不思議を、共有していること。時間や空間ならば毎日共有しているのだが、思考まで同じくするとは、思ってもみなかった。その思いがけないことが、嬉しい、という感情を伴うことだったとは、知らなかった。もういい歳をした大人だというのに、未だに日々発見がある。
ビール缶に手を伸ばしたら、充の手も意図せず同時に伸びたので、指先が触れ合った。その、同一の行動をとったこともまた、僕を嬉しくさせた。笑うと、充は不思議そうな顔をしたが、「同じこと考えながら同じ行動だったのが、嬉しくて、可笑しいんだ」と言うと、彼はきまり悪そうに頭の後ろを掻いた。照れ隠しに見えた。
「――好きだよ」
唐突に、充は言った。なにを、と聞かなくても分かる、真摯な告白だった。そうかそれで充の様子がどこかおかしかったのか、とも分かる。これを言うために僕を星見に誘ったのだ。
「いつから?」
「ずっと前からだ。……同居の許可もらえたときは、心臓突き破って死ぬかと、思った。言うつもりはなかったんだけど、……それも辛くなってきてな。なんか、おまえとふたりで星見てたら、すごく泣きたくなった。こういう夜が、嬉しくて」
「……ん、」
「もちろん、おまえがおれに恋愛感情を抱いていないことも、分かる。ずっと見て来たからな。同居が無理だと思うなら、明日の朝にでも出ていくから、言ってくれ。……おれは、おまえと暮らせて本当に幸せだったから、それで、いい。充分だ」
充は一向にこちらを見なかった。見られなかったのだと思う。一心に空を見あげている。僕も視線を空へと向けると、光が一筋、すうっと夜空を駆けた。
「――流れた」
「うん。流れた」
僕の心は再び喜びに貫かれる。光が落ちていくところを、ふたりで見たこと。
「次、バイトいつ休み?」
僕は充に訊ねた。
「……明後日だけど、」
「じゃあ、僕も休みを取るから、布団買いに行こうか」
「布団?」
「いつまでも寝袋じゃつらいだろ。充の分の布団だよ」
「……おれ、このままここにいてていいのか」
「悪いわけがないよ」
僕は再び笑った。充はあからさまにほっとしてみせた。それから腕で顔を覆う。涙を堪えているように見えた。
「あ、また流れたよ」
「――うん、」
「空、見なよ。見ないのは、もったいない」
それで、充は顔をあげた。そのまま僕らはくだらないことを語りながら、空を見ていた。星はいくつも落ちてゆく。届く光の、気が遠くなるほどの時間と距離のこと。この星で生きていること。充が僕を好いていてくれていること。同じタイミングで感じたこの世界の不思議。
すべてが嬉しいという感情はきっと、僕がいま幸福だからなんだろう。
そう、こうやってこの星この時代に生まれついたこと。たくさんの不思議。アイ・ワンダー。
I wonder
ひとり暮らしを決めたのは、職が変わるとか学校に通い出すとか、恋人が出来たとかましてや結婚するだとか、そういう理由ではなかった。職は変わらないしこれから新たに学ぼうなんて向上心もない。恋人と呼べる存在もいない。ただ、友人はいる。その友人らに、言ってみればいいように乗せられた、というのが一番正しいかもしれない。まだ実家にいるの? 正社員で収入も安定しているんだから家ぐらい出ればいいのに。親の干渉から外れるしさ。どうせなら駅に近いところにしようよ。すぐみんなで集まれるように。
数えてみれば、大学を出て実家に戻って、八年。学生以来のひとり暮らしだった。それも、学生のころは学校が斡旋した安い下宿で暮らしていたから、まるきりひとりで全部決め切る生活は、初めてかもしれなかった。不動産会社の社員と内見をしてまわり、決断し、契約を交わし、ガス水道電気、諸々のライフラインを繋ぎ、家具や電化製品を揃える。引っ越しは近場であり単身であるからと業者には頼まず、仲間に協力を依頼した。学生のころと違って良いのは、収入がある分広くていい部屋に住めるところだった。職場が変わるわけではないので、実家からも程よい距離で、親の面倒にも手間をかけられる。友人らも方々にいて、引っ越したてのころはお祭り騒ぎみたいな日が続いた。
引っ越して半年も経つと、いつの間にか同居人が出来ていた。
父方のいとこで五歳年下の充(あたる)は、イラストレーションの専門学校を出たものの働く口がなくて、アルバイトで身を立てていた。「ゲージュツカってやつはさ、その将来性を信じてやるしかないんだよ」と父や叔母にうまくまるめ込まれ(つまり僕はとても単純な性格なんだろう。周囲に言われれば、すっかりその気になってしまう)、とても安い生活費でいとこを住まわせることになった。充は引っ越しの際に、寝袋と、少しの衣類と、机と椅子を持ち込んだ。机はばかでかかったが、画材の類はあまりなかった。例えばイーゼルとか、油絵具とか、もしくはモニターの大きなパソコンだとか、そういうものが持ち込まれることを想像していた僕は少しだけ拍子抜けした。充に聞けば「ま、そういう人もいるけど」との返事だ。「おれはアナログ派だけど、大きな絵は描かない。画材は紙とペンがあればそれでいい。目が悪いから、スタンドはいるんだけど」と彼は古い型の電気スタンドを指して言った。叔母のおさがりらしかった。
ひと昔前の漫画家みたいだな、といとこのことを思った。デジタルのこの時代に充のやり方はやや古いようで、だから仕事がないんだろうな、と僕は勝手に考える。
充は、よく陽に当てられたぬるい水みたいに、不快感なくするりと家に馴染んだ。ひとり暮らしも良かったが、充とのふたり暮らしも快適で、他人と空間を共有することを、僕はごく自然に受け入れていた。僕がひとりになりたいとき、彼は日課である絵を描くことをせずに早々に寝たし、逆に騒ぎたい夜は、酒をドンと用意しとことん付きあってくれた。部屋に好き勝手にやって来る友人らとも引っかかりなくなめらかに打ち解けた。彼らは充のことを「ちょっと変わってて面白いやつ」と認識したらしい。僕がいてもいなくても充がいれば充分、だなんて言い出すやつも現れたのには苦笑した。
引っ越し先は全く知らない土地ではなかったからその苦労はあまりよく分からないのだが、引っ越しとはすなわち、縁遠くなったり逆に近付いたりするものらしい。なにがって、人との距離が。親類や友人など頼れる人がいれば土地に馴染むことも早いが、縁故が全くない状況では、一から関係を築き上げていかねばならない。その点きみはどうなのさ、と僕は充に訊いた。充の実家はここよりはるか遠くの田舎で、専門学校進学を機に家を出たが、そこもまた僕らの住む街とは異なる。この土地へやって来ることに抵抗はなかったのか、と、僕は訊ねた。
「ないね」と彼はあっさり言う。
「だっておまえがいたからさ。おじさんやおばさんも近いわけだし」
「でもそんなに密な交流があったわけじゃないんだぜ、僕ら」盆か正月、どちらかで会えればそれで良い方だった。
「おまえがいたらそれでいいと思った」
妙な自信だな、と思った。いとこという間柄でも、僕らの親交はさほどではなかったのだ。逆のパターンを考えてみたが、僕は充をあてにするかどうか、微妙なラインだ。
ただ、充のことが嫌いである訳ではない。何度も言うが、心地よいやつだと思う。
ふあ、と充があくびをした。夜も深い時間に差し掛かっていた。
「寝よか」
「うん」
「充さあ、あの寝袋ひとつじゃ寒くないか? おまけにフローリングに直に寝ているだろ? せめてマットとか敷いてさ」僕は部屋の隅に雑にまとめられた充の寝袋を指す。
「別に。おれはどこでも寝られるのが特技なぐらいだ。気にすんな」
充は寝袋をパンとはたくと、それを広げ、さっさと横になってしまった。
真夜中、なにかの気配で僕は目が覚めた。
目を開けたら、充が暗闇で僕を見下ろしていた。なに、と僕は充に訊ねる。掠れた声に即座の返答はなかったが、しばらくして、充はひとつ、深くため息をついた。
「やっぱり、寒い」
「ああ……毛布、やるよ」
「おまえの分がなくなるだろ」確かにこの部屋に余分な毛布はない。
「……寝袋持って来いよ。ベッド詰めるから、ここで一緒に寝よう」
寝起きのまわらぬ頭で、僕はそう言った。充はしばらくそこに佇んでいたが、やがて部屋を出てゆき、またすぐに寝袋を引きずって戻ってきた。
寝袋のファスナーを全開にすると、ひとつの掛布団のようになる。それを重ねて、狭いベッドで男ふたり、並んで眠る。充がベッドに潜り込んでくる際、充の体臭が僕の所へ届いた。届いて少し意識した。僕ではない体温が近いこと。
充の身体は冷えていた。だがふたりなら、じきに温まるだろうとも思う。うとうととし出したところに、僕の頬に充の手が伸びた。なんだろう、と思うと、僕に覆いかぶさるようにして、充が僕の額と充の額とをくっつけた。
そういう挨拶であるかのような、敵意のない親密な動作だった。充は目を閉じている。僕は目を開けている。状況がよく飲み込めなかった。これは一体なんだろう、と思った。
充が目を開ける。暗がりでも瞳が分かる。真っ暗で、真っ黒で、すっと切れた、充の目。ぼんやりとそれを見ていた。綺麗なもんだな、と思った。
充はぷいっとそっぽを向いて、改めて布団に潜りこんだ。「おやすみ」。それだけ言って、やがて静かに満ちた寝息が聞こえて来た。
→ 後編
ひとり暮らしを決めたのは、職が変わるとか学校に通い出すとか、恋人が出来たとかましてや結婚するだとか、そういう理由ではなかった。職は変わらないしこれから新たに学ぼうなんて向上心もない。恋人と呼べる存在もいない。ただ、友人はいる。その友人らに、言ってみればいいように乗せられた、というのが一番正しいかもしれない。まだ実家にいるの? 正社員で収入も安定しているんだから家ぐらい出ればいいのに。親の干渉から外れるしさ。どうせなら駅に近いところにしようよ。すぐみんなで集まれるように。
数えてみれば、大学を出て実家に戻って、八年。学生以来のひとり暮らしだった。それも、学生のころは学校が斡旋した安い下宿で暮らしていたから、まるきりひとりで全部決め切る生活は、初めてかもしれなかった。不動産会社の社員と内見をしてまわり、決断し、契約を交わし、ガス水道電気、諸々のライフラインを繋ぎ、家具や電化製品を揃える。引っ越しは近場であり単身であるからと業者には頼まず、仲間に協力を依頼した。学生のころと違って良いのは、収入がある分広くていい部屋に住めるところだった。職場が変わるわけではないので、実家からも程よい距離で、親の面倒にも手間をかけられる。友人らも方々にいて、引っ越したてのころはお祭り騒ぎみたいな日が続いた。
引っ越して半年も経つと、いつの間にか同居人が出来ていた。
父方のいとこで五歳年下の充(あたる)は、イラストレーションの専門学校を出たものの働く口がなくて、アルバイトで身を立てていた。「ゲージュツカってやつはさ、その将来性を信じてやるしかないんだよ」と父や叔母にうまくまるめ込まれ(つまり僕はとても単純な性格なんだろう。周囲に言われれば、すっかりその気になってしまう)、とても安い生活費でいとこを住まわせることになった。充は引っ越しの際に、寝袋と、少しの衣類と、机と椅子を持ち込んだ。机はばかでかかったが、画材の類はあまりなかった。例えばイーゼルとか、油絵具とか、もしくはモニターの大きなパソコンだとか、そういうものが持ち込まれることを想像していた僕は少しだけ拍子抜けした。充に聞けば「ま、そういう人もいるけど」との返事だ。「おれはアナログ派だけど、大きな絵は描かない。画材は紙とペンがあればそれでいい。目が悪いから、スタンドはいるんだけど」と彼は古い型の電気スタンドを指して言った。叔母のおさがりらしかった。
ひと昔前の漫画家みたいだな、といとこのことを思った。デジタルのこの時代に充のやり方はやや古いようで、だから仕事がないんだろうな、と僕は勝手に考える。
充は、よく陽に当てられたぬるい水みたいに、不快感なくするりと家に馴染んだ。ひとり暮らしも良かったが、充とのふたり暮らしも快適で、他人と空間を共有することを、僕はごく自然に受け入れていた。僕がひとりになりたいとき、彼は日課である絵を描くことをせずに早々に寝たし、逆に騒ぎたい夜は、酒をドンと用意しとことん付きあってくれた。部屋に好き勝手にやって来る友人らとも引っかかりなくなめらかに打ち解けた。彼らは充のことを「ちょっと変わってて面白いやつ」と認識したらしい。僕がいてもいなくても充がいれば充分、だなんて言い出すやつも現れたのには苦笑した。
引っ越し先は全く知らない土地ではなかったからその苦労はあまりよく分からないのだが、引っ越しとはすなわち、縁遠くなったり逆に近付いたりするものらしい。なにがって、人との距離が。親類や友人など頼れる人がいれば土地に馴染むことも早いが、縁故が全くない状況では、一から関係を築き上げていかねばならない。その点きみはどうなのさ、と僕は充に訊いた。充の実家はここよりはるか遠くの田舎で、専門学校進学を機に家を出たが、そこもまた僕らの住む街とは異なる。この土地へやって来ることに抵抗はなかったのか、と、僕は訊ねた。
「ないね」と彼はあっさり言う。
「だっておまえがいたからさ。おじさんやおばさんも近いわけだし」
「でもそんなに密な交流があったわけじゃないんだぜ、僕ら」盆か正月、どちらかで会えればそれで良い方だった。
「おまえがいたらそれでいいと思った」
妙な自信だな、と思った。いとこという間柄でも、僕らの親交はさほどではなかったのだ。逆のパターンを考えてみたが、僕は充をあてにするかどうか、微妙なラインだ。
ただ、充のことが嫌いである訳ではない。何度も言うが、心地よいやつだと思う。
ふあ、と充があくびをした。夜も深い時間に差し掛かっていた。
「寝よか」
「うん」
「充さあ、あの寝袋ひとつじゃ寒くないか? おまけにフローリングに直に寝ているだろ? せめてマットとか敷いてさ」僕は部屋の隅に雑にまとめられた充の寝袋を指す。
「別に。おれはどこでも寝られるのが特技なぐらいだ。気にすんな」
充は寝袋をパンとはたくと、それを広げ、さっさと横になってしまった。
真夜中、なにかの気配で僕は目が覚めた。
目を開けたら、充が暗闇で僕を見下ろしていた。なに、と僕は充に訊ねる。掠れた声に即座の返答はなかったが、しばらくして、充はひとつ、深くため息をついた。
「やっぱり、寒い」
「ああ……毛布、やるよ」
「おまえの分がなくなるだろ」確かにこの部屋に余分な毛布はない。
「……寝袋持って来いよ。ベッド詰めるから、ここで一緒に寝よう」
寝起きのまわらぬ頭で、僕はそう言った。充はしばらくそこに佇んでいたが、やがて部屋を出てゆき、またすぐに寝袋を引きずって戻ってきた。
寝袋のファスナーを全開にすると、ひとつの掛布団のようになる。それを重ねて、狭いベッドで男ふたり、並んで眠る。充がベッドに潜り込んでくる際、充の体臭が僕の所へ届いた。届いて少し意識した。僕ではない体温が近いこと。
充の身体は冷えていた。だがふたりなら、じきに温まるだろうとも思う。うとうととし出したところに、僕の頬に充の手が伸びた。なんだろう、と思うと、僕に覆いかぶさるようにして、充が僕の額と充の額とをくっつけた。
そういう挨拶であるかのような、敵意のない親密な動作だった。充は目を閉じている。僕は目を開けている。状況がよく飲み込めなかった。これは一体なんだろう、と思った。
充が目を開ける。暗がりでも瞳が分かる。真っ暗で、真っ黒で、すっと切れた、充の目。ぼんやりとそれを見ていた。綺麗なもんだな、と思った。
充はぷいっとそっぽを向いて、改めて布団に潜りこんだ。「おやすみ」。それだけ言って、やがて静かに満ちた寝息が聞こえて来た。
→ 後編
ちいさくてささやかな夢があった。
それは、僕が大切に想う誰かが陽だまりにいて、その陽だまりに、彼は座っている。僕はその背にもたれかかる。大切なその人は、それに微笑む。時折、穏やかな会話を交わす。そういう、誰かが聞いたら鼻で笑われそうな夢があった。
僕は、僕を好いてくれる誰かの存在を心から欲していた。
恋に落ちることは、理屈を並べてどうこう言える話ではないらしい。そういう恋を、僕は知った。二十代の真ん中へんのころだ。心が惹かれるより先に身体が惹かれた感覚がした。言ってしまえば、欲望を感じた。その人は、僕と最も遠い人だった。高い上背、低い声、糸目であること、確かな骨肉。なによりも、自分自身に自信をみなぎらせていた。僕は自分の貧相な身体つきだとか、童顔であることや、ちいさい背などを気にしてばかりいたから、彼は僕にとって最高に魅力的に映った。ちょっと乱暴な表現で申し訳ないけれど、出会ったその日に、彼の素肌を意識した。セックスをしてみたいと思った。その服を脱いだら、どんな身体で、どんな声で、呻くのだろう、と。
ただ、彼は女性を好く人であることも、同時に知れた。「彼女欲しいな」とこぼしていたのを、たびたび耳にした。僕はそれを聞くたびに曖昧に笑った。ゲイであることは、そのころの僕にとってはさほどコンプレックスに感じないものだったが、彼の前だとどうしても罪悪に感じた。
出会った直後に(僕が一方的に)恋に落ちて、三年経った。三年も付き合いがあると、彼はよく僕に打ち解け、馴染んだ。一緒に飲みに行ったし、旅行にも出かけた。彼のアパートに集って鍋だの、すき焼きだの、いわゆる宅飲みも楽しんだ。馴染んでしまったことで、僕は勘違いをした。いまなら打ち明けてもいいんじゃないかと。触れられるんじゃないかと。両想いではないことは承知で、でも、僕は彼にどうしたって触れてみたかった。
僕の告白に、彼は硬直した。そのときその瞬間の、蔑んだ、憐みみたいな瞳が、僕の心臓を抉った。ただ、そんな目をされてもまだ、僕は期待した。僕は長きにわたる恋にいい加減に決着をつけたかったし、色物扱いでいいから、彼の身体が欲しかった。
しばらくの沈黙に耐えかねたのは、僕の方だ。「××くん」と、ふるえて掠れた声が出た。彼は手で顔を覆い隠し、待って、とでも言うようにもう片方の手をひらひらと振った。近づくな、という意味でもあったかもしれない。
「――ずっと好きだったんだ」僕はそう、語りかけた。
「きみが僕をそういう目で見ていないことは分かっている。けど、……たった一度だけでいい、せめて、手を握らせてもらっちゃ、だめかな」
彼は顔を隠したまま、静止していた。
「……××くん、」
「……近寄るな、」
彼は言った。冷静さを欠いた、聞いたことのない声音だった。
「悪い、おまえは悪くないんだと思うけど、――おれには、気持ち悪い」
「……僕が?」
「おまえが」
「……触れることすら、だめかい?」
彼は迷いなく、はっきりと分かる仕草で頷いた。
「気持ち悪い」
二度も言われると、さすがに堪えた。「そか」と僕は頷き、伸ばしかけた手を引っ込めて、早々にその場を去った。
秋の夜は足が速い。まだ夕方の六時台だというのに、陽はとっぷりと暮れていた。冷え込み始めた空気を吸い吐きする。少しだけ息が曇った。
「――気持ち悪いってさ」
駅への道を急ぎながら、僕はそっと独り言をこぼす。
「そりゃ、そうか」
男なのに男が好きで、男なのに男に触れたいと思っている。女だったらよかったのかな、と思った。触れることへの、ハードルがひとつ下がる気がした。男と女だったら、純正で当たり前だから。
肌寒くなってきたからきっと、余計に人肌恋しいのだと思った。単純で、不純で、あさましい動機だ。歩きながら僕は、足元が崩れていく感覚を味わっていた。コンクリートの地面が融解して、闇へと真っ逆さまに落ちていくような。ただ僕は愛されてみたかった。たった少し、ほんの少し触れることすら許されないなんて、生きている価値がないように思える。
しばらくは失恋の痛手で、なにをどうしても辛かった。それでも生命力は僕の精神を凌駕し、そのうち彼のことを思うこともなくなった。交流が途絶えたこともあるだろう。時間薬もよく、効いた。ただ、次の恋をする気持ちにはどうしてもなれなかった。
*
などと思っていたのに僕は単純で、再びころっと恋に落ちてしまった。またか、と僕は心の中で舌打ちしながらも、この恋を迎え入れた。あの散々だった失恋からもう何年も経ち、二十代はとうに終えた。そんなころに、相変わらず人を、男を好きになってしまったのだから、呆れる。
男は、名を「深(ふかし)」と言った。職場で知り合った人だったから苗字で呼んでいたが、歳が同じだと知れてからは、敬語も外れ、お互い下の名で呼び合うようになった。「深くん」と呼んだら、「くん、いらない。恥ずかしいわ」と笑われた。その朗らかな笑顔が素敵だと思い、思ったらもう、恋は加速して止まらなくなっていた。
一緒に飲みに行ったし、家にも遊びに行った。一度アパートに行ってしまったら、それがなんというのか、楽だったので、頻繁に出入りするようになった。深はおおらかな人で、その分雑だとも言えたが、ふたりの時間を気持ちよく過ごせた。前の恋では感じなかった、安らいだ心地。眠りに入る一歩手前みたいな、ぬるま湯の温度。
もちろん、この恋にもきちんと欲望は存在した。触れてみたいと思っていて、でも恋の底辺にはいつかの「気持ち悪い」が存在していて、僕は手を伸ばせなかった。いま心地よい時間を過ごせているのだから、これ以上を望んではいけない、と。僕が「触れたい」と言うことで関係が変わるのなら、変化しない方がいい。そう思っていた。
深は、雑な人であったが、けれど聡い人でもあった。そういう、触れたいけれど触れられない僕の気持ちが、後から聞いた話だったけれど、お見通しだったらしい。(「分かりやすかった」とも言われたが。)ある日彼のアパートで飲み明かしやって来た朝に、深は唐突に、「陽(よう)はおれが好きだろ」と言った。朝から昼へと移ろうという時間の室内、大きく据え付けられた窓ガラスから光が入り、夏よりはずいぶんとおとなしくなった陽光ではあったけれど、彼をまばゆく照射するには充分な光だった。
僕はうろたえた。深もまた女性を愛せる人であったので、僕の恋は叶わないものであり、一生口にするものか、ぐらい思っていた。それなのに、彼は壊そうとしている。慌てふためく僕を、深は明るく笑った。
僕は観念して、「ごめん」と言った。
「なんで謝るのさ」
「……気持ち悪いだろうと、思ったから」
「陽のことが気持ち悪いって、おれ、言ったか?」
「……聞いたこと、ない」
「だろ?」
自信満々の笑みを見せる。僕は無性に泣きたくなっていた。
「……いつから気付いてた?」
「うーん、結構前から、かな。なんで言わないのかなって、思ってた」
「言わないよ、そりゃ。……だってきみは、女の人が好きなわけだし、」
「まあね」
「関係が、……壊れるのは嫌だと思ったし、」
「あのさ、」
陽だまりの中で、深はこちらを向いた。黒い髪が白く光って見えた。
「恋愛に両想いなんてないんだよ。両方同じ想いの質量でいなきゃ付きあっちゃいけないとか、誰が言ったの、それ」
その台詞に、僕は思わず目を瞬かせた。
「いいじゃん、片想いでも。おまえはおれが好きなんだろ。おれはおまえのことを、おまえと全く同じ気持ちじゃないかもしれないけど、快く思っている。それで、良くないか? 誰になに吹き込まれたか知らんけど、岩みたいな意志で恋愛しなくたって、いいんだよ」
深のその台詞は、僕にとって絶望と希望を一度に与えた。同じ気持ちでいられないことの悲しさ。それでも良いと言ってくれている嬉しさ。いろんな感情がまぜこぜになって、僕は笑っていいのか、泣いていいのか、分からない。
ただ、光の中でそんなことを言ってのける深のことが、とても、とてもいとおしいと思う。
「――夢があって、」
僕は目を細めて、深に語りかける。
「好きな人の背にもたれかかって、――触れて、なんでもいい、ちいさなことをぽつぽつと喋ったりして、」
「なんだ、じゃあもう叶うな」
「そんな幸福は……僕には一生やってこないと思ってた」
「ばっかだな」
深はひどく安らいだ顔で、そう言った。
「そんな、触れることさえ許されないなんて、あるかよ。おれもおまえもいきものなんだから、触れたいのは、当然だろ」
その言葉で、僕は安堵し、決意した。この人を好いてよかったと思った。そっと体重を移動させて、深の広い背中に額をつける。
そのまま頬ずりでもするように、顔を深の背に押し付ける。
「気持ちいいだろ」
深はそう言った。
「気持ち、いい。嬉しい」
「よかった。おまえが嬉しいとな、おれも嬉しいんだよ」
と言うなり深は突然笑い出した。とても大きな声で、腹から響く声が僕の頬にも伝わる。その振動に任せて僕は目を閉じる。僕も自然に、笑っていた。
End.
それは、僕が大切に想う誰かが陽だまりにいて、その陽だまりに、彼は座っている。僕はその背にもたれかかる。大切なその人は、それに微笑む。時折、穏やかな会話を交わす。そういう、誰かが聞いたら鼻で笑われそうな夢があった。
僕は、僕を好いてくれる誰かの存在を心から欲していた。
恋に落ちることは、理屈を並べてどうこう言える話ではないらしい。そういう恋を、僕は知った。二十代の真ん中へんのころだ。心が惹かれるより先に身体が惹かれた感覚がした。言ってしまえば、欲望を感じた。その人は、僕と最も遠い人だった。高い上背、低い声、糸目であること、確かな骨肉。なによりも、自分自身に自信をみなぎらせていた。僕は自分の貧相な身体つきだとか、童顔であることや、ちいさい背などを気にしてばかりいたから、彼は僕にとって最高に魅力的に映った。ちょっと乱暴な表現で申し訳ないけれど、出会ったその日に、彼の素肌を意識した。セックスをしてみたいと思った。その服を脱いだら、どんな身体で、どんな声で、呻くのだろう、と。
ただ、彼は女性を好く人であることも、同時に知れた。「彼女欲しいな」とこぼしていたのを、たびたび耳にした。僕はそれを聞くたびに曖昧に笑った。ゲイであることは、そのころの僕にとってはさほどコンプレックスに感じないものだったが、彼の前だとどうしても罪悪に感じた。
出会った直後に(僕が一方的に)恋に落ちて、三年経った。三年も付き合いがあると、彼はよく僕に打ち解け、馴染んだ。一緒に飲みに行ったし、旅行にも出かけた。彼のアパートに集って鍋だの、すき焼きだの、いわゆる宅飲みも楽しんだ。馴染んでしまったことで、僕は勘違いをした。いまなら打ち明けてもいいんじゃないかと。触れられるんじゃないかと。両想いではないことは承知で、でも、僕は彼にどうしたって触れてみたかった。
僕の告白に、彼は硬直した。そのときその瞬間の、蔑んだ、憐みみたいな瞳が、僕の心臓を抉った。ただ、そんな目をされてもまだ、僕は期待した。僕は長きにわたる恋にいい加減に決着をつけたかったし、色物扱いでいいから、彼の身体が欲しかった。
しばらくの沈黙に耐えかねたのは、僕の方だ。「××くん」と、ふるえて掠れた声が出た。彼は手で顔を覆い隠し、待って、とでも言うようにもう片方の手をひらひらと振った。近づくな、という意味でもあったかもしれない。
「――ずっと好きだったんだ」僕はそう、語りかけた。
「きみが僕をそういう目で見ていないことは分かっている。けど、……たった一度だけでいい、せめて、手を握らせてもらっちゃ、だめかな」
彼は顔を隠したまま、静止していた。
「……××くん、」
「……近寄るな、」
彼は言った。冷静さを欠いた、聞いたことのない声音だった。
「悪い、おまえは悪くないんだと思うけど、――おれには、気持ち悪い」
「……僕が?」
「おまえが」
「……触れることすら、だめかい?」
彼は迷いなく、はっきりと分かる仕草で頷いた。
「気持ち悪い」
二度も言われると、さすがに堪えた。「そか」と僕は頷き、伸ばしかけた手を引っ込めて、早々にその場を去った。
秋の夜は足が速い。まだ夕方の六時台だというのに、陽はとっぷりと暮れていた。冷え込み始めた空気を吸い吐きする。少しだけ息が曇った。
「――気持ち悪いってさ」
駅への道を急ぎながら、僕はそっと独り言をこぼす。
「そりゃ、そうか」
男なのに男が好きで、男なのに男に触れたいと思っている。女だったらよかったのかな、と思った。触れることへの、ハードルがひとつ下がる気がした。男と女だったら、純正で当たり前だから。
肌寒くなってきたからきっと、余計に人肌恋しいのだと思った。単純で、不純で、あさましい動機だ。歩きながら僕は、足元が崩れていく感覚を味わっていた。コンクリートの地面が融解して、闇へと真っ逆さまに落ちていくような。ただ僕は愛されてみたかった。たった少し、ほんの少し触れることすら許されないなんて、生きている価値がないように思える。
しばらくは失恋の痛手で、なにをどうしても辛かった。それでも生命力は僕の精神を凌駕し、そのうち彼のことを思うこともなくなった。交流が途絶えたこともあるだろう。時間薬もよく、効いた。ただ、次の恋をする気持ちにはどうしてもなれなかった。
*
などと思っていたのに僕は単純で、再びころっと恋に落ちてしまった。またか、と僕は心の中で舌打ちしながらも、この恋を迎え入れた。あの散々だった失恋からもう何年も経ち、二十代はとうに終えた。そんなころに、相変わらず人を、男を好きになってしまったのだから、呆れる。
男は、名を「深(ふかし)」と言った。職場で知り合った人だったから苗字で呼んでいたが、歳が同じだと知れてからは、敬語も外れ、お互い下の名で呼び合うようになった。「深くん」と呼んだら、「くん、いらない。恥ずかしいわ」と笑われた。その朗らかな笑顔が素敵だと思い、思ったらもう、恋は加速して止まらなくなっていた。
一緒に飲みに行ったし、家にも遊びに行った。一度アパートに行ってしまったら、それがなんというのか、楽だったので、頻繁に出入りするようになった。深はおおらかな人で、その分雑だとも言えたが、ふたりの時間を気持ちよく過ごせた。前の恋では感じなかった、安らいだ心地。眠りに入る一歩手前みたいな、ぬるま湯の温度。
もちろん、この恋にもきちんと欲望は存在した。触れてみたいと思っていて、でも恋の底辺にはいつかの「気持ち悪い」が存在していて、僕は手を伸ばせなかった。いま心地よい時間を過ごせているのだから、これ以上を望んではいけない、と。僕が「触れたい」と言うことで関係が変わるのなら、変化しない方がいい。そう思っていた。
深は、雑な人であったが、けれど聡い人でもあった。そういう、触れたいけれど触れられない僕の気持ちが、後から聞いた話だったけれど、お見通しだったらしい。(「分かりやすかった」とも言われたが。)ある日彼のアパートで飲み明かしやって来た朝に、深は唐突に、「陽(よう)はおれが好きだろ」と言った。朝から昼へと移ろうという時間の室内、大きく据え付けられた窓ガラスから光が入り、夏よりはずいぶんとおとなしくなった陽光ではあったけれど、彼をまばゆく照射するには充分な光だった。
僕はうろたえた。深もまた女性を愛せる人であったので、僕の恋は叶わないものであり、一生口にするものか、ぐらい思っていた。それなのに、彼は壊そうとしている。慌てふためく僕を、深は明るく笑った。
僕は観念して、「ごめん」と言った。
「なんで謝るのさ」
「……気持ち悪いだろうと、思ったから」
「陽のことが気持ち悪いって、おれ、言ったか?」
「……聞いたこと、ない」
「だろ?」
自信満々の笑みを見せる。僕は無性に泣きたくなっていた。
「……いつから気付いてた?」
「うーん、結構前から、かな。なんで言わないのかなって、思ってた」
「言わないよ、そりゃ。……だってきみは、女の人が好きなわけだし、」
「まあね」
「関係が、……壊れるのは嫌だと思ったし、」
「あのさ、」
陽だまりの中で、深はこちらを向いた。黒い髪が白く光って見えた。
「恋愛に両想いなんてないんだよ。両方同じ想いの質量でいなきゃ付きあっちゃいけないとか、誰が言ったの、それ」
その台詞に、僕は思わず目を瞬かせた。
「いいじゃん、片想いでも。おまえはおれが好きなんだろ。おれはおまえのことを、おまえと全く同じ気持ちじゃないかもしれないけど、快く思っている。それで、良くないか? 誰になに吹き込まれたか知らんけど、岩みたいな意志で恋愛しなくたって、いいんだよ」
深のその台詞は、僕にとって絶望と希望を一度に与えた。同じ気持ちでいられないことの悲しさ。それでも良いと言ってくれている嬉しさ。いろんな感情がまぜこぜになって、僕は笑っていいのか、泣いていいのか、分からない。
ただ、光の中でそんなことを言ってのける深のことが、とても、とてもいとおしいと思う。
「――夢があって、」
僕は目を細めて、深に語りかける。
「好きな人の背にもたれかかって、――触れて、なんでもいい、ちいさなことをぽつぽつと喋ったりして、」
「なんだ、じゃあもう叶うな」
「そんな幸福は……僕には一生やってこないと思ってた」
「ばっかだな」
深はひどく安らいだ顔で、そう言った。
「そんな、触れることさえ許されないなんて、あるかよ。おれもおまえもいきものなんだから、触れたいのは、当然だろ」
その言葉で、僕は安堵し、決意した。この人を好いてよかったと思った。そっと体重を移動させて、深の広い背中に額をつける。
そのまま頬ずりでもするように、顔を深の背に押し付ける。
「気持ちいいだろ」
深はそう言った。
「気持ち、いい。嬉しい」
「よかった。おまえが嬉しいとな、おれも嬉しいんだよ」
と言うなり深は突然笑い出した。とても大きな声で、腹から響く声が僕の頬にも伝わる。その振動に任せて僕は目を閉じる。僕も自然に、笑っていた。
End.
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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