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冬休みが明けてテストも終わり、三年生は登校しなくなり、寒さは日々しんしんと凍みて、なんとなく学校全体が静かになった。慈朗は相変わらず写真部に出かけては写真を撮り、現像して、よいものがあれば写真誌に投稿したりして、日々を過ごしていた。青沼との関係はなにも変わらない。変化を慈朗は望まなかったし、それを知った青沼も安堵したようで、前と同じように接してくれた。ただし、あの夜のことは秘密で。
必然、青沼の口から赤城のことを聞く機会は増えた。赤城との些細なエピソードが主だった。赤城は青沼の進路を応援してくれているし、同じ美大を目指している慈朗のことも、教科は持っていないのに気にかけてくれているという。青沼が赤城に言ったからだ。赤城の元へ行こうよ、話を聞こうよ、と青沼は誘ってくれたが、慈朗はなんとなくそれを避けている。特に必要はないと感じている。充分だ、とも。
いつものように放課後、写真部の部室へ行けば、珍しく部員が揃っていた。撮影、というどうしても個人的な行動が主体になるので、部室はあれど部員が揃うことは珍しかった。引退して卒業を控える三年生がふたり、同学年が三人、後輩も三人とほぼフルメンバーだ。なにかイベントでも企むのかな、と思い、「今日ってなんかあったっけ?」と間抜けに訊いてしまった。
「いや、おまえを待ってたんだよ、雨森」と同学年で写真部の部長を務める野木(のぎ)が言う。
「おれ?」
「最近、学校中で噂になってるから、話聞いとこうと思って」とつないだのはやはり同学年の小坂(こさか)だ。
「噂? なんの?」
「知らないのか? 気づいてもない?」
「いやだから、分かんねえんだって」
部員たちはお互いの顔を見合わせ、困ったふうに言葉を紡げずにいる。それを大きなため息でまとめたのが三年の結城(ゆうき)だった。皆、結城を見る。
「なんですか、結城先輩まで」
「噂にしてるのは主に二年だからさ、おれはあくまでも聞いた話だって、だからまあ、気を悪くすんなよ?」
「なんすか」
「青沼――二年、えーと、Bクラスだっけ、の、青沼恵士。と、仲がいいんだな」
意外な方向から出て来た単語だったので驚きつつも、「進路志望が同じなんで」と頷く。
「おまえらさ、付きあってるって話だ」
「え?」心臓がひやりとした。誰が、誰と、なに?
「二年Bクラスの青沼恵士と、二年Aクラスの雨森慈朗は、付きあってる。ホモカップルだって、そういう噂だ」
驚いた。驚きすぎて言葉が出ない。目は、綺麗に丸を描いているだろうと思う。部員皆が慈朗を窺っている。
だって、と思った。だって、なんでだ? 青沼と慈朗にその事実はない。事実があるのは、青沼と、赤城だ。
「ほら、うちはさ、男子校じゃん」続けたのは野木だった。
「そういう噂ってのはさ、立ちやすいわけよ。ホモだのゲイだのなんだの、ちょっとでもスキンシップが多いふたりがいればあいつら付きあってんの? ってなる」
「なってる? おれと青沼って」
「傍から見れば。それにおまえらは目撃情報があってさ」
「……なに、」
「休日に一緒に歩いてるとか、映画行ってるとか、めし食ってるとか、」
「ばかじゃねえの?」
呆れてしまった。その事実はあるがたったそれだけで噂になるのか。呆れを通り越して笑えてきたので笑ってやろうとすると、一年の飯塚(いいづか)が「問題なのは先輩じゃないんです」と言った。
「相手が青沼先輩だってことが問題なんです」
「青沼?」
「その……」と飯塚は言いにくそうに視線を逸らす。それを引き継ぎ、「おれや野木や飯塚みたいな、東中――青沼と同中だったやつらにはな、青沼って結構厄介なんだよ」と結城がまたため息をついた。
「東中って、K市立東中学校のことですよね」
「うん。やっぱさ、おれが三年で野木が二年で飯塚が一年だったときの話なんだけど、……青沼は二年のときにやって来た教育実習の先生と問題起こしてるんだ」
「問題? なんの?」
「教育実習の先生とキスしてんのを、見られてる。あんときは写真も出回ったよな」
「そうです」野木が答える。
「誰が撮ったんだか、……まあこんなヨノナカだから写真なんておかしくないよな。それで付きあってるとか、どっちかから手を出したとかで色々、もめて、大学と学校とでかなり派手にやってるんだ。そのときの教育実習の先生はそのあと大学を辞めたらしい」
「……」
「しかも続きがあってさ。大学を辞めた教育実習生が青沼を忘れられなかっただかなんだかで、しばらく学校周辺をうろついてた。不審者情報に発展してな。しばらくして収まったけど、あのときは集団下校とか、保護者の送迎つきの登下校とかさ。先生も巡回したり」
「それで青沼の家は両親が離婚したって話とか」
「あれ? 大学生が隣の小学校にも出没したとかって言いましたよね」
噂。噂だけでいくらでも、ぼろぼろと胡散臭い話が飛び交った。耳を塞ぎ、大声で叫びたくなるような話ばかりだ。どう反応していいか分からない。誰を信じるのか。青沼か、仲間なのか。――赤城と付きあっている事実を知っているだけに、揺らぐ。
「――とにかくさ」
野木がこちらを見た。
「青沼はやめとけって話だ」
「……」
「あいつは分かんないんだ」
「……でもおれは、おれには、青沼は普通だよ。フツーに、楽しく話の出来る、……友達なんだ」
「……おまえはそうでも、周りや青沼はそうじゃないかもしれない。気をつけて行動した方がいい。おまえはいいやつなのに、巻き込まれるぞ」
最後の台詞に知らず身震いした。マキコマレルゾ。青沼が赤城を抱きしめていた夜のことを思い出す。もしかしたらすでに巻き込まれているのかもしれない。……なにに?
黙っていると、結城が「付き合ってはないんだな」と確認してきた。
「……ないです」
「うん。……ごめんな。悪かった」
じゃあこの話は終わりだ、と言って結城は立ちあがる。ストーブの周りに寄せていた椅子を元に戻し、それぞれに部室を出ていく。
野木をはじめとした同じ学年の部員だけが残った。
「なんか食って帰らん? 腹減った」
「あー、いいね。駅前まで行くか? コンビニにする?」
「駅前行こうぜ。雨森ごめんな、変な集会なんか開いちゃってさ」
「そうだよ、びっくりしたよな。行こ、行こ」
食欲はなかったが、無理やり頷いた。
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そもそもさ、おれがなんでS美にこだわってるかって話になるんだよな。
赤城先生、S美の出だって前に話したよな。柾木先生も同じなんだ。赤城先生と柾木先生は高校のころの同級生。美術部で一緒だったって聞いた。ふたりとも油絵を描いてたらしい。同じ部活で、ジャンルも同じで、そのころは仲もわりとよかったって言うから、ライバルとか好敵手とかっていうのかな。切磋琢磨し合う、お互いを認め合ってる存在だったんだって。
ふたりともS美の油彩科に進学希望してた。同じ美大予備校に通って、高校の最後の一年間は予備校と高校の中間ぐらいにあるアパートでシェア生活して、昼間は高校、夜間は予備校っていう生活をしてたらしいんだ。ただ、そこで柾木先生は行き詰まった。その春の結果は、赤城先生が現役合格で、柾木先生は浪人。
それでも柾木先生は赤城先生のこと、ねたんだりはしてなかったんだと思うよ。あいつはすごいって、むしろ尊敬してたんだ。大学生活をはじめた赤城先生の話を聞いては嬉しそうだったって、赤城先生は言うんだ。赤城先生はさ、いわゆる天才肌なんだ。なんでも器用にこなせたし、そこにはセンスも美意識もあった。先生の描く絵、一度でいいからおまえにも見せたいな。これ本当に学生が描いたの? ってくらい、色彩豊かで迫力があって、なんていうか、月並みな台詞だけど、感動するんだ。人ってこんなのが表現できるんだなって思う。
柾木先生はなかなか芽が出なくて、それでもS美にこだわって、結局五浪してS美に合格する。こうなるともう執念で、相当苦しかっただろうな。そのころには赤城先生は卒業だった。卒業展覧会でさ、赤城先生の作品は学長賞を取るぐらいだった。在学中からあちこちのコンペに出品しては賞を総なめしてたからね。いろんな画廊や美術館から声がかかったりで、新進気鋭の作家としてデビューするはずだった。そういう道が、赤城先生には可能だった。
けど、二・三年して赤城先生は絵をやめた。絵のこと好きでいたいからやめたんだって言ってたな。先生はただ描きたい絵を描いていたいだけで、画壇とか、所属とか、そういうものが性に合わなかったみたい。場所を移して海外で描くことも視野に入れたみたいだけど、結局はフツーの会社に就職して、お金貯めて、通信大学で国語科の教員免許を取った。なんで国語科なのって聞いたら、「国語便覧を眺めるのが好きだったから」って、そう言ってたな。とにかく国語科の教師として働きはじめたんだ。
柾木先生は、いちばん身近で尊敬していた人が絵をやめたって聞いて、ショックだったんだと思う。いざ学校に入っても絵の良しあしが判断できなくて、悩み惑ってるうちに赤城先生が絵を辞めたって聞いて。目標にしていたから、裏切られた気分だったのかも。柾木先生は生活のために美術科の教員免許を取得して、卒業後は美術教師として働きはじめた。そこでこの高校で赤城先生と再会した。赤城先生は国語科教師でさ、柾木先生は美術科の教師だ。なんだよって、柾木先生は納得できないよな。あんな絵を描いてたのにって。
だから柾木先生と赤城先生の仲は、いまは最悪。赤城先生は柾木先生とは相変わらず仲良しでいたい感じがするけど、柾木先生はもう、そうじゃないのかな。
でもおれは、そういうふたりが通った学校に行ってみたいと思ってる。
話が逸れたな。おれと赤城先生の話だっけ。赤城先生がこの学校に赴任してくるとき、ちょうどおれたちは入学のタイミングだったんだ。移動教室だったんだけど教室の場所が分からなくて、焦って中庭突っ切ってたら赤城先生が中庭のあんずの木を見あげてた。ここの教室行きたいんですけど分からなくてって言ったら、先生、僕も赴任したばかりで分からなくて迷子なんですよって言ったんだ。迷子にしちゃ呑気だろ? とりあえず職員室で場所聞いてみましょうかってなって、ふたりで並んで歩いた。なんか変わってて、変わってるんだけどどこか生真面目なところがあって、浮雲みたいで、ふわふわ流れるような先生だなって思った。職員室で場所聞いて、そのあと先生は「僕は国語科だけど図書委員会の顧問だから司書室に机があるんです。今度コーヒー飲みにおいで」って誘ってくれて。それでおれもまんまと、司書室に行ったんだよな。
先生、本に埋もれるような部屋で、司書の先生と楽しそうだった。いつも美術書を眺めてたから、おれも美術に興味あるんですって言ったら、色々と話してくれた。絵は楽しいよって。芸術は素晴らしいよって。やめたくせに熱心だった。そういう熱量がたまらなかった。静かなのに、燃え盛ってるみたいなさ。
美術館の無料券をもらったけど行きますかって言われて、チケットもらって市立美術館に行ったんだ。先生も時間が空いてるからって、一緒に来た。絵を、半端ない知識量と経験から説明してくれて、すごく刺激になった。なにより絵のことを語るときの、少し上擦った声にやられた。中身が好きで、身体まで意識しちゃったらもうどうしようもないよな。恋だって分かった。あとはもう、押せ押せって感じ。教師だけど、男だけど、きみのこと素敵だと思うよって、応えてくれたときは、嬉しかったな。空飛べそうだったもん。
このくらいでいいか? おれとしてはこれで治めてくれると助かるんだけど。あ、そうそう。赤城先生はいまでもずっと柾木先生のこと気にかけてるよ。柾木先生は嫌いで仕方ないって風だけど、赤城先生は、あいつは報われてほしいなって言ってる。おれもそう思う。柾木先生は絵が本当に好きなんだ。好きで、だから嫌いなんだ。
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歳暮の配送が済めばアルバイト自体は落ち着いた。多忙だったのが一気に暇になり、元々冬休みいっぱいという契約でもあって、冬休み最終日の前日にバイトは終わった。せっかく受け取る給料だから貯めておきたいのだが、それでも、と思って青沼にメッセージを送った。「映画観ねえ?」と誘うと、「なんの映画?」と即座に返事が来た。冬休みに合わせて公開されたアニメーション映画で、こういうのはお互いに興味があったのであっさり待ちあわせて映画を観た。
漫画が原作の映画で、原作の方は青沼から借りて読んでいた。原作と違いいかにも「売れる」演出が鼻についたが、それでも面白かった。映画を見終わり、どこかで茶でもするか、という話になって、映画館近くのファーストフード店に入った。
お互い腹が空いていて、バーガーだのポテトだのコーラだのを頼んだ。旺盛な食欲で平らげながらも、やはり黙っていることが気まずい。かと言って口にする勇気もない。青沼がソースで汚れた指を舐めとり、コーラを嚥下する喉元をぼんやりと眺めていた。沈黙と視線が気になるのか、青沼も「なに?」とこちらを見る。
「なんか今日は静かだな、雨森」
「あー、……うん、」
しばらく黙った。気まずく頭の後ろを掻き、それから決心して「これ」と言ってスマートフォンの画面をかざして見せた。
大晦日の晩、暗い中で撮った写真だった。外灯の明かりにかろうじて浮かび上がる男ふたりはかたく抱き合っている。顔までははっきりと見えないが、それが誰だか青沼にはすぐに分かった。分かって、即座にスマートフォンを操作した。画像の消去をあっさりとしてみせるので、慌ててスマートフォンを手からひったくった。
「人のスマホ勝手に操作すんなよ」
「じゃあそっちだって勝手に撮るなよな。盗撮だぞ、これ。それにこんな画像、バックアップは取ってあるんだろ、」
「……まあ、」
「……見てたのか、あの夜」
「偶然。……手袋返そうと思って追っかけて、……」
また沈黙が出来る。やがて、ふ、と息をつき、青沼は上体を椅子の背もたれにすっかり預けてだるそうな姿勢を取った。目を閉じる。睫毛が長いな、と思った。
「どう思った?」
と彼は聞いた。目は閉じられたままだった。
「おれと赤城先生の関係は、まあ、……これはどう見てもばればれだよな」
「……付きあってんの、」
「卒業するまではだめだって言われてる。一応、先生と生徒だから。でもそうやって言い訳してるだけだな。手は握るし、肩が触れれば抱きしめる。キスはする。……セックスは、しない。すごくしてみたいけど、しない。きっと、卒業までは」
「……」
「気持ち悪いよな」
「……衝撃は大きい」
ふう、とまた青沼は息を吐いた。まだ顔を天井の方にぼんやりと向けたまま、「どうしたい?」と言った。
「どう?」
「友達やめるとか、これをネタに強請るとか、周囲に言いふらすとかな。安易な考えしか出てこないけど、……」
それを言われて、自分はどうしたいんだろうとそこではじめて考えた。
特にこれを撮ってどうこう、という思いはなかった。事実を知ったことに対する衝撃は大きかったが、それをネタにして貶めるようなことも考えてはいない。いままでどおりの付きあいが続くならそれがよかった。だがそれをするならこんな写真はさっさと消去して知らないふりをしているべきだったといまさら気付いた。
自分の中に喜びがひとつだけある。それはこの写真を撮れたということだった。こんな光の覚束ない夜の、恋人同士の逢瀬を撮った。スマートフォンのカメラ機能でだ。撮った自分で自分を褒めるのだが、いい写真だと思う。人恋しさが切々と伝わる。
こんなに切ない気持ちになるのは、写真の力だと思っている。自分の個人的な感情を抜きにして。
「――赤城と青沼の話が聞きたいかな」
そう言うと、青沼は目を開けた。
「どんな経緯でこうなったのか、……あんたらふたりの話を聞いてみたい。大晦日の日にうち来て言ってたじゃん。恋愛のこと、距離置かないと自分を嫌いになるとか、相手を嫌いになるとか」
「……言ったな、」
そうして青沼は上体を起こし、テーブルに肘をついた。
「……仕方ないもんな。駅前のあんなところで迂闊だったおれも悪い。選択肢は、ないか」
「そこまでおれが優位なわけじゃないけど」
「話すよ。けど、聞いたらきっとおまえ、おれと友達なんかしてらんなくなるぜ」
そう言い置いて青沼は静かに語りはじめた。
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玄関を出たら寒さがつきんと沁みた。「見送りはいいから、寒いし」と言うのに甘えて、玄関先で「よいお年を」と言いあって別れた。後ろ姿を見送って室内に戻る。自室へ上がって青沼が気に入って触れていたモビールを突っついていると、机の上に手袋が載せられているのを見つけた。
グレーの地に、甲の部分に緑色の布地が縫い込まれてあった。分厚くて暖かそうだったがほつれや毛玉があったりして、つかい込まれている。これは自分のものではない、ということは、可能性はかなり限られる。念のために家族に訊くと違うという。やはり青沼が忘れて行ったものらしかった。
「どこ行くの?」と玄関先で靴を履きはじめる息子に母が問う。
「青沼の忘れ物届けてくる。自転車で行けばまだ間に合うかも」
「あ、じゃあついでにコンビニで牛乳買ってきて」
適当に返事をしつつ、青沼のスマートフォンにコールした。応答はなかったので諦めてポケットにしまい込み、きっちり防寒をして家を出た。駅までの道はひとつ角を曲がればあとは一本道なので、すぐに見つかるだろう。自転車を漕ぎながら目を凝らしていると、駅の脇にある公園に入っていく青沼らしき人物を見つけた。
声をかけようと思ったが、隣に誰かがいるのを見つけてとどまった。暗いのであまりはっきりしない。だがふたりが外灯の下をくぐったことではっきりした。青沼の隣にいるのは国語科の赤城だった。
(なんで赤城?)
戸惑いつつ、近くの車止めの脇に自転車を停めて追いかける。程よく茂みになっており、近付いてもふたりがこちらに気付くことはなかった。大晦日のカウントダウンにはまだ早いせいか、あまり人がいない。ある程度まで近づくと、声もきちんと届いた。
――先生。
と青沼が赤城を呼んだ。赤城はうつむいている。青沼は手を伸ばし、赤城の手を取った。
――手、冷たいね。
赤城が感想を述べる。振り払ったりはしなかった。
――手袋、忘れて来たみたいで。……せっかく先生からもったのにね。
――きみが勝手に、僕のお古を持ってっただけだよ。
――先生、
そしてふたりの身体の距離が近づく。音のしないよう、息を潜めながら慈朗はスマートフォンを構えていた。カメラを起動している。
男と男の身体が触れあう。青沼は力加減というものを知らないかのように、しっかりと赤城を抱きしめた。赤城はされるがままだったが、やがておずおずと、青沼の背に手をまわし、青沼の肩に顔を埋める。
カメラのシャッターを切る。こんなに静かな夜なのに、音にふたりは気づかない。
――先生。
うわごとのように青沼は繰り返す。その度にシャッターを落とす。やがて顔が離れ、青沼の手が赤城の頬にかかる。赤城も口をあけて、舌を覗かせる。
シャッターを切った。そしてこれ以上はもう充分だと判断して、即座にその場を離れた。
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帰り着くと家族は全員揃っており、連絡もせずにつれて来た来客もむしろ嬉しそうに迎えてくれた。母親に事情を話し、蕎麦を渡す。年末の大掃除を終えた家はいつもより明るく隅々まで丁寧に清潔で、とりわけ祖母が床の間に備えた鏡餅と松飾が堂々としていて立派だった。
青沼はすでに酒盛りを始めていた父と祖父と兄に引っ張られてリビングのソファに座り、酒を飲ませるわけにはいかないからと、ジュースと肴を勧められていた。兄は大学進学しておりひとり暮らしだが、正月は必ず帰省してくる。台所には母と中学生の妹が立って夕飯の支度をしていた。祖母は新聞のテレビ欄のチェックに余念がない。大晦日恒例の歌番組の、歌手の出場順を見ているのだ。
「賑やかでごめんなさいね」と言いながら母は蕎麦を茹で始めた。うちでは年越しそばは年越しに食べるものではなく、夕飯として出す。
同じ美大志望ということで、話題は学校のことが主だった。なぜ工芸科なのかとか、実技試験対策はどのように進めているのだとか。そのうち蕎麦が茹で上がった。だしをたっぷりとしみ込ませたあげと玉子の乗った、温かい蕎麦だ。
「薬味もあるから。ねぎ、おろし、七味もどうぞ」
「ありがとうございます。すごいですね」
「そうかな? 普通ですよ」
膳を出してくれた妹とそう交わして、青沼はまずつゆを口に含んだ。頬が上気する素直な反応が嬉しい。勢いよく平らげ、「うまいな」とこぼした。佐々木さんの手打ちそばは確かに店をひらけるほど美味かったし、この家の蕎麦の調理の仕方もよかったようだ。
歌番組が始まって、祖母や母親や妹らはそれに夢中になり、男連中はだらだらと酒を飲んでいる。慈朗は青沼を自室に誘った。兄が大学進学するまでは兄とふたり部屋で、いなくなったいまでもベッドは相変わらず二段のしつらえだが、物置に使っているので不便はない。
「あんまり片付いてなくて悪いけど」
「いや、面白いな、このモビール。紙?」
「うん。こういうちっちゃい工作すんの好きでさ。これは中学の美術の授業で作ったやつを気に入ったから、未だに飾ってる」
青沼が軽く触れた工作は、細い針金を軸に和紙を張りつけて作ってある。飛行機のプロペラを真似たので形は流線形だ。美術教師が「よくできてる」と褒めてくれて嬉しかった記憶と共に部屋にぶら下げている。あのときの美術教師は中年の女性で、だが凝り固まった固定観念というものを持ちあわせてはおらず、わりと親しく話せた。
固定観念の美術教師で思い出したが、そういえば進路指導の柾木は美術教師だ。一年次の選択授業で美術を取ったので、一応、授業は受けている。どんな授業だったのかたった一年前のことなのにあまりよく思い出せない。いつも眠かったような気がする。つまらなかったのだ。
けれど、手は覚えている。デッサンだったか写生だったか文化祭のポスターだったか、とにかく「ここはこうした方がいい」と指し示した手の、指の、節、爪、ちいさなささくれ。インクだろう黒い滲みと、対照的な肌の白さ。
「――柾木って美術が嫌いなのかな」
そう言うと、ちょんちょんとモビールに触れていた手を止めて、青沼が振り向いた。
「なんで?」
「柾木の授業、受けたことあるだろ。全然面白くなかったからさ」
それこそ柾木が青沼に告げた台詞がよみがえる。「一般大学で美術教育を学んで美術教師になる手もある。」柾木はその類なのではないかと思った。
青沼はしばらく黙っていたが、やがて「柾木先生は美術が大好きだと思うよ」と答えた。
「そうかな?」
「好きすぎて、嫌いになったんだ」
「え?」
「下手な恋愛映画と同じなんじゃない? ある程度距離置いとかないとさ、自分が保てなくなって自分のこと嫌いになったり相手のこと全部許せなくなる」
「そんな恋愛してるのか、おまえ」
「映画の話だよ。おれはそういうのよく分からない」
なんの映画を観てるんだか、と訊こうかと思ったがやめた。さて、と言って青沼はコートを着こみ始めた。帰る? と訊ねると、帰る、と返事がある。
「長居しちゃった。悪かったな」
「泊まってってもいいんだけど。家に帰ってもおふくろさんいないんだろ?」
「ん、でも途中でいったん帰って来るようなこと言ってたから。そのときにはさ、家にいたいじゃん」
マフラーをぐるぐるに巻いて、またモビールに触れた。「今度、おれにもこういうの作ってくれよ」と言う。
「気に入った?」
「気に入った」
「おまえの方が得意そうだけどな。こういう、手のかかること」
「手先が器用なのは認めるさ。でもこういうアイディアや感性はないってこと。そこまで備えてたら、絵画や彫刻をやりたかった」
「そういうもんか」
「欲しいもの全部持てるわけじゃないよな。でもそういうもの多分――悪くないよ」
そう言って部屋を後にした。階段を降り、居間で団らんを満喫しきっている家族に挨拶をする。母は「よかったらお母さんにもどうぞ」と言って蕎麦の残りを青沼に渡した。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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